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プティ・フレールの愛し子
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ルカーシュカから体を離すと、その場で湯に浸かるよう言われた。
彼のコーディッシュ・ルームから取り出されたのは一人用のバスタブで、なぜそんな物を持ち歩いているのか、目を白黒させている間に、大きな浴槽の中に乳白色の湯がたぷりと溜まった。
(今…どこからお湯が…?)
バスタブの中に敷き詰められていた真っ白な花が、底の方から溶けるように姿を変え、みるみる内に湯が溜まっていた。
残った花が水面でゆらゆらと揺れる様をまじまじと見つめていると、ルカーシュカに手を取られ、入るよう促された。
「体、ベタベタするだろう? 軽く流そうな」
「…うん」
既に外で裸でいることへの抵抗感は薄れており、特に気にすることもなく、ソロリと湯の中に足先を浸けると、ゆっくりと体を沈めた。
「ふわ…」
ほんのりと香るミルクのような花の甘やかな香りと温かな湯に、ゆるりと体から力が抜けていく。
風に揺れる木々の音に空を見上げれば、キラキラとした木漏れ日が降り注いでいた。
外で湯に浸かっている不思議さと、それを上回る高揚感に、ワクワクとした気持ちが浮き立つ。
湯に浮かぶ白い花を指先で突いていると、傍らに腰を下ろしたルカーシュカがバスタブの縁に肘をついた。
「気持ち良いか?」
「うん」
「…楽しい?」
「うん!」
「それは良かった」
ふっと表情を和らげたルカーシュカが湯の表面を撫でれば、揺れる水面に合わせ、花もゆらゆらと揺れた。
じんわりと温まってきた体と頭で、緩やかに湯を掻き混ぜるルカーシュカの手を取ると、その指先をにふにふにと握った。
「ルカは、お風呂いつも持ってるの…?」
「まさか。念の為、用意しておいたんだよ。外で入るお風呂も、気持ち良いだろう?」
「うん」
ちゃぷちゃぷと揺れる湯に身を委ね、バスタブの縁にコテリと凭れ掛かれば、ルカーシュカの顔がすぐ間近に見えた。
「気持ち良いな」
「うん」
「…眠っちゃう前に、上がるんだぞ?」
「…ん」
ポカポカとした陽射しの下、ほどよく温まってきた体にほぅっと息を吐けば、ルカーシュカの手が頬を撫で、その気持ち良さに瞳を細めた。
暫くして湯から上がると、ルカーシュカの手で夜着によく似た服を着させてもらい、部屋の中へと戻った。まったりと会話を楽しみつつ、少し慣れてきたところで、ルカーシュカの離宮の中をほんの少しだけ歩いた。
側仕えの天使達は全員出払っているらしく、誰もいないと聞かされ、恐る恐る部屋の外に出てみたのだが、廊下の広さと天井の高さだけで圧倒されてしまい、廊下を数歩歩いただけで満足して戻ってきてしまった。
ルカーシュカは苦笑していたが、少しずつ慣れていけばいいと言って笑ってくれた。
「俺の側仕えなら、そんなに怖くないだろう? 慣れてきたら、一度会ってみないか?」
「……ん」
「うん。ちょっとずつ、慣れていこうな」
そうして陽が沈む頃、再び外に出ると、淡く輝く樹木を眺めながら、ルカーシュカの用意してくれた果物とミルクを口にした。
自然光の下にいた時とは異なり、木そのものに照明が灯っているかのように、淡い光をふわん、ふわんと纏っている様子は見ているだけで楽しく、いつも食べているはずの果実は、不思議と特別な味がした。
陽が完全に沈み、夜の風景を楽しみつつ食事を終えると、ルカーシュカと共に彼の寝室へと向かった。
「わぁ…っ」
元いた部屋から繋がっていた寝室に入り、思わず天井を見上げる。
高く高い天井はドーム形で、自室と同じように夜空が見えていたが、それを遮るように、大きな白い布が張られていた。
部屋の中央には円形の池のようなものがあり、周りには植物や、いくつものクッションが並べられていて、部屋の中なのに外のような空間が出来上がっていた。
楽しそうな部屋の様子に、つい気持ちが浮つくものの、寝室にあるべき物が見当たらず、辺りを見回した。
(……ベッド、無い…?)
寝室に連れてこられたはずなのに、それらしき物が見当たらずキョロキョロしていると、不意にルカーシュカの手が腰に回った。
「アニー、抱っこするから、肩に手を置いてくれるか?」
「? うん」
「なぜここで抱っこ?」と思いつつ、抱き上げてもらう為にルカーシュカの肩に手を置けば、直後に足の裏が床から離れた。同時にルカーシュカの背に翼が広がり、羽ばたき一つで体がふわりと宙に浮いた。
「っ…!」
久しぶりの浮遊感に、ルカーシュカの肩に置いた手に力を込め、ギュッと目を瞑るも、一瞬の内に慣れない感覚は消え、ボフリとどこかに着地したような音が聞こえた。
「…?」
「ここが俺のベッドだよ」
「……え?」
ルカーシュカの声にそっと瞼を開ければ、目の前には真白いリネンやクッション、布団で囲われた空間が広がっていた。ふと上を見れば、先ほどまで見上げるほど高い位置にあった天井が近くにあり、そこでようやく、今いる場所が下から見上げていた白い布の上だと気づいた。
「……ここ、ベッド?」
「そうだよ。下ろすな」
「うん……わっ」
「おっと」
ゆっくりとルカーシュカの腕から離れ、布団の上に降り立つも、予想外の柔らかさにそのまま転びそうになり、慌ててルカーシュカにしがみついた。
「…ふわふわだ…」
「転ばないように、ゆっくり歩くんだぞ。まぁ、転んでも大丈夫だろうが…」
確かに、この柔らかさなら、転んだところで痛くも痒くもないだろう。ふかふかとした足元に気をつけながら慎重に歩けば、なんだかそれだけで楽しく、口元は自然と緩んだ。
真ん中辺りまで歩を進め、促されるままに座り込めば、柔らかな羽毛の中に体が沈むような錯覚を覚え、堪らず感嘆の声が零れた。
「わぁ…」
「…楽しいか?」
「うん! すごいね…雲の上にいるみたい」
座り込めば視線は低くなり、布団の海に沈んでいるような視界は、まるで雲の中にいるようだった。
(…どこまでがお布団なんだろう)
ワクワクとした好奇心を抑えられず、もこもことした羽毛の中を四つん這いで動こうとするも、ルカーシュカの手にやんわりと遮られ、動きを止めた。
「…?」
「アニー、あんまり端っこに行くと落ちるぞ」
「えっ」
その言葉にギョッとして、体を引き戻せば、クスクスと笑う声が返ってきた。
「落ちたら大変だからな。…あんまり、端っこに行かないようにしような」
「うん…」
飛べる彼らと違って、自分は落ちたら一大事なのだ。ルカーシュカの言葉にコクコクと頷きながら、彼の隣に寄り添うと、柔いマットに体を横たえた。
「わ…っ」
ふわ…と羽毛に埋もれるような感覚に、目を瞬く。自分のベッドとはまったく違う柔らかさは、ただ横になっているだけで楽しく、ふわんふわんと浮いているような感覚は、本当に雲の上で寝ている様だった。
「すごい…ふわんってしてる」
「上を見てごらん」
「あ…わぁ…っ」
隣に寝転んだルカーシュカの言葉に仰向けになれば、天井が近い分、より近くなったような夜空が視界いっぱいに広がり、これから寝ようとしているのに、気分が高揚した。
「空で寝てるみたい…」
「暗くすると、もっと綺麗だぞ」
ルカーシュカが指先を少し動かすと、部屋の明かりは消え、暗くなった視界の中、星の輝きと瞬きが一層増したように見えた。
「……綺麗…」
「よく眠れそうか?」
「うん…!」
「良かった。…俺も、よく眠れそうだ」
「…っ」
夜空を見上げていると、自身の腕にルカーシュカの腕が絡み、その鼻先が触れた肌にドキリと心臓が跳ねた。
その様子は、昼間の甘えていた時の姿を彷彿とさせ、ついソワソワとしてしまったが、ルカーシュカからそれ以上触れられることはなく、跳ねた心臓も次第に落ち着いていった。
様子を窺いつつ、もぞもぞと体の向きを変え、ルカーシュカと向き合えば、腕に絡んでいた手が離れ、代わりに腰に腕が回り、胸元に彼の頭が収まった。
抱きつくようなその仕草はやはり愛らしくて、サラサラとした髪に指を通せば、鼻先が擦り寄るように胸元に埋もれた。
「…今日はいっぱい、ありがとう、ルカーシュカ」
「楽しかったか?」
「うん」
「アニーが楽しかったなら、俺も嬉しいよ。…エッチなことも、ゆっくり覚えていこうな」
「…うん。……ねぇ、ルカ」
「うん?」
「お尻…自分で触った方がいい…?」
「……しなくていいよ。アニーの様子を見ながらしたいから、俺とイヴァニエに任せてくれるか?」
「…ん、分かった」
(…お尻は自分で触らない)
ふんふん、と小さく頷いていると、胸元でフッと笑うような吐息が漏れたのが聞こえ、視線を落とした。
「?」
「なんでもない。…さぁ、そろそろ寝よう」
「うん……おやすみ、ルカ」
「おやすみ、アニー」
返ってきた柔らかな声に、なぜかとても嬉しくなる。腰に回された腕は温かくて、彼の体温が気持ち良くて、髪の毛を撫でていた手の平でそっと頭を抱き寄せれば、安心感と愛しさが胸に満ちた。
(…これからも、遊びに来たら、一緒に寝れるのかな?)
それなら嬉しいな───そんなことを考えながら瞼を閉じれば、抱き合った体温に誘われるように、穏やかな眠りに落ちた。
「アニー、おはよう」
「……?」
翌朝、眩しさに目を細めつつ、寝ぼけ眼でぽんやりと顔を上げれば、困り顔で笑うルカーシュカと目が合った。
「よく眠ってたな」
「……ん…ふあふわ…」
「ふわふわで気持ちいいな。アニーが気に入ってくれて嬉しいよ。…起きるのが少し遅くなっちゃったからな、エルダも心配してるだろうし、そろそろ部屋に戻りたいんだが…起きれるか?」
「……ん…」
「ほら、ベッドから降りるから、抱っこしような」
「…ん…」
半分眠ったままの頭で、ルカーシュカに向けて手を伸ばせば、彼の体温が体を支え、同時に宙に浮いたのが分かった。
ストン、と軽やかな音が聞こえ、次いで歩き出した振動が体に伝わり、少しずつ意識が冴えてくる。
「…おはよう、ルカ…」
「おはよう。もうアニーの部屋に帰る時間だぞ」
「……ん」
「…今日は安息日だから、俺もこのままアニーの部屋に行くし、たぶんだが、イヴァニエも向こうで待ってると思うぞ?」
「あ…」
『帰る』という単語に、イヴァニエの時と同じような寂しさが滲み、返事をする声がつい小さくなってしまったが、返ってきたルカーシュカの声にハッとした。
(そうだ…今日はお休みだから、みんなと一緒にいられるんだ)
ようやく思い出した今日の予定にパッと顔を上げれば、ルカーシュカが柔らかに微笑んでいた。
「今日も一緒にいられるから、寂しくないな?」
「…っ、うん…!」
「ふ…、アニーは本当に可愛いな」
「う…」
力いっぱい返事をしてしまった気恥ずかしさから、口元を手で押さえれば、ルカーシュカが瞳を細めて笑った。
「また好きな時に、遊びにおいで」
「…うん」
そうして言葉を交わしている間に、転移扉の前まで辿り着き、ルカーシュカに抱き上げられたまま、ドアノブへと手を掛けた。
「…! アドニス様、ルカーシュカ様、おはようございます」
「おはよう、エルダ」
「おはよう」
「アドニス、おはようございます」
「おはよう、イヴ」
「…ついででもいいから、俺にも言え」
「あぅあ!」
「あ~ぅ!」
「おはよう、みんな」
扉を開ければ、ルカーシュカの言っていた通り、エルダと共にイヴァニエと赤ん坊達もいて、賑やかな挨拶の声が溢れ返った。
「…アドニス様、お体の具合が悪いのですか?」
「ん?」
「ああ、心配するな。まだ寝惚けてたから、抱いてきただけだ」
「左様でございましたか。…よくお休みになられたのですね」
「うん」
「だぅ」
「あ!」
「ふふ…今日は、みんなで一緒に遊ぼうね」
明るい声が溢れ、途端に華やいだ室内に、自然と笑みが零れた。
ルカーシュカの部屋も、イヴァニエの部屋も、とても居心地が良く、楽しかったが、自室に戻ってくるとホッと気が緩む。
ワヤワヤと楽しそうな声が響く中、クン、と服の裾を引かれたような気がしてそちらに視線を送れば、エルダが淡く微笑んでいた。
「…おかえりなさいませ、アドニス様」
「! …ただいま、エルダ」
たった一日離れていただけなのに、その一言はスッと体に馴染み、ずっとドキドキしていた新しい日常が、ようやく自分の中に溶け込んでいくような、そんな気がした。
それからは、風の日は半日エルダと過ごし、水の日はイヴァニエの、星の日はルカーシュカの離宮に遊びに行くというサイクルが出来上がった。
二人の部屋に遊びに行くと、決まって性的な行為をするようになったが、その手つきはとても優しく、ゆっくりゆっくりと慣らしてくれているのが分かった。
相変わらず恥ずかしくて、気持ち良いが慣れなくて…それでも、その時に何をされているのか、少しずつだが理解できるようになっていった。
勿論そればかりではなく、イヴァニエの離宮でも、ルカーシュカの離宮でも、ほんの少しだけだが内部を歩いてみたり、庭園に出てみたりと、穏やかに語らいながら寄り添う時間もたくさん過ごした。
そうして自室以外の場所で過ごす時間が増えていく内に、部屋の外の世界にも触れてみたいという気持ちが、少しずつ芽生えるようになった。
「では、参りましょう、アドニス様」
「うん…!」
エルダと手を繋ぎ、部屋の扉を開くと、ドキドキしながら静かな廊下の先を見つめた。
怖気付きそうになる自分を叱咤し、「よし!」と気合を入れ直すと、部屋と外との境界線を跨ぐ一歩をゆっくりと踏み出した。
イヴァニエやルカーシュカの部屋に遊びに行くようになってから、もう少しだけ部屋の外に出れるようになった方がいいのかもしれないと考えるようになった。
とはいえ、宮廷には他の天使や大天使達も多く行き来していて、とてもではないがそんな中を歩く勇気などなかった。
悩んだ末、エルダに相談したところ、それならば…と、夜に出歩くことを提案されたのだ。
「まずはお部屋の外に出ることから慣れましょう。夜であれば他の者もおりませんし、万が一どなたかと遭遇しても、私がアドニス様をお守りします」
エルダの睡眠時間を削ることになってしまうので、最初は遠慮したのだが、そこまで長く出歩く訳ではないと言われ、最終的にエルダを頼ることにした。
それからエルダと過ごす日を含め、週に二日ほど、夜の宮廷を散歩するようになった。
最初の内は部屋の前の廊下を歩くだけで怖くて、ドキドキして、すぐに部屋に逃げ帰ってしまったが、日を重ねるごとに恐怖心は薄れ、緊張感も和らいだ。
今では部屋からかなり離れた所まで出歩けるようになり、誰かと遭遇する恐怖で周囲を見回すのではなく、初めて見るものへの好奇心から辺りを見回すようになった。と言っても、それもエルダと手を繋いでいる安心感があってこその成果なのだが…
「一緒に、お散歩してくれて、ありがとう、エルダ」
「恐れ入ります。アドニス様に頼って頂けて、私も嬉しいです」
歩きながら繋いでいた手をギュッと握り、感謝の気持ちを伝えれば、柔らかな微笑みが返ってきた。その笑みにほわりと気を緩め、和やかな会話を続けながら仄かな光が照らす宮廷内を歩いていると、初めて踏み込んだのであろう区画に差し掛かった。
「わ…」
照明の明かりが絞られている中、一際明るい光が漏れる先に目を向ければ、そこは大きく開けた空間で、等間隔に並ぶ支柱の向こう側には外の景色が広がっていた。
高い位置から見下ろす風景の中には、いくつもの建物や庭園があり、月明かりの藍色の夜空の下、橙や黄色といった淡い光がたくさん溢れていた。
「わぁ~…」
キラキラとした光に誘われるように、そちらに足を向ける。夜空で瞬く星とは異なる灯りは眩しいほどだが、目を奪われるような輝きは美しく、ついつい見入ってしまう。
「すごい…」
「アドニス様! 危ないです!」
ふわふわとした足取りで支柱の側まで向かおうとすると、エルダにグイッと手を引かれ、足が止まった。
「…? どうしたの?」
「これ以上はいけません! 落ちたらどうされるんですか!」
「……落ちちゃわないよ?」
エルダの必死の剣幕と大きな声に少しだけ驚くも、流石に足元を見ながら歩いていて落ちたりするほど不注意ではない…はずだ。
「手、繋いでるから、大丈夫だよ?」
「ですが…危ないことはなさらないで下さいませ」
「…ちゃんと、足元見てるから…」
「…せめて、お座り下さい。立ったまま下を覗き込まれるようなことがあれば、心配でどうにかなってしまいそうです」
「…はい」
眉を下げ、胸の前でギュッと手を握り締めるエルダの様子からは、いかに不安であるかが伝わってきて、それ以上の我が儘は言えなかった。
エルダにキツく手を握られた状態で、恐る恐る外壁の縁まで辿り着くと、その場に座り、プラリと足を下ろした。
(…そうか。みんな飛べるから、柵が無いんだ)
遮る物が何も無いから、景色がよく見えるのだろう───開放感の正体に気づき、納得している横で、エルダはまだオロオロしていた。
「…エルダ、大丈夫だよ」
「私がお側にいますので、万が一にも落ちるような事態は起こしません。…ですがそれ以上、身を乗り出してはいけませんよ?」
「うん」
言い付けを守り、身を乗り出さないように階下を眺めながら、プラプラと足を揺らす。
「…綺麗だね」
「左様でございますね」
時たま点滅する光の中には、淡い桃色や水色が混じり、目にも楽しい。夜なのでその全容は分からなかったが、遠くまで見える光は宮廷の正面に広がっているようだった。
(……自分の部屋は、宮廷の裏側にあるのかな…?)
バルコニーから見える風景を思い出し、ふむふむと頷きながら遠くを見つめる。
サァッと吹く風に服の裾がハタハタと揺れ、その感覚が少しだけ擽ったくて両足を絡ませれば、エルダがサッと立ち上がった。
「アドニス様、ここはお体が冷えます。そろそろお部屋に戻りましょう」
「…うん」
どうやら寒くて足を擦り寄せてると勘違いされてしまったようだが、エルダにこれ以上の心配をさせるのは良くないだろう。
素直に従い、エルダの手を取ろうと体の向きを変えた時だった。
「……え…」
視界の端に人影が見え、硬直した。
反射的にそちらに視線を移せば、エルダと同じ背丈の少年天使が三人、驚いた表情でこちらを見つめ、固まっている姿が見えた。
(な、んで……ど、どうし……)
敵意等を感じないので、怖くはない。ただそれでも頭の中は真っ白になった。
バルドル神と対面した際に顔を合わせた時以来、久方ぶりに目にした天使の姿に、思考も肉体も完全に固まってしまった。
あちらもこちらも固まったまま、見つめ合った一瞬───絡まった視線を断ち切るように、エルダの背中が視界を奪った。
「───下がりなさい」
「…ッ」
エルダの声とは思えないほど硬質的で温度を感じない声に、ビクリと肩が跳ねた。と同時に、ハッと息を呑むような声と、パタパタと駆けていく複数の足音が聞こえ、その場から天使達が立ち去ったことが分かった。
「アドニス様! 大丈夫ですか?」
「…あ……うん…」
茫然としている間にくるりとエルダが振り返り、不安気な表情でこちらを見つめてきた。
その声も、エメラルド色の瞳も、自分に対する心配の色が浮かんでいて、とても先ほど聞こえた声がエルダの声と同一とは思えず、頭の中では疑問符がいくつも浮かんだ。
(……イヴや…ルカに、似てた…?)
言い方はイヴァニエなのだが、声の質はルカーシュカに似ていて、二人と過ごす時間が長いから似てきたのだろうかと一瞬思うも、なぜか似てる似てないとは異なる何かを感じ、首を傾げた。
もっと根本的な部分が彼らと同じような───と考えながら、差し出されたエルダの手を取り、のそのそと立ち上がる。
「アドニス様、お早くお部屋に戻りましょう。今夜は出歩いている者がいるようですし、他の者に会わないとも限りません」
「……うん」
いつもより幾分早口のエルダに言われるがまま頷けば、エルダが元来た道を引き返すように踵を返した。
少しだけ早足で進むエルダに手を引かれ、てっちてっちと後をついていきながら、その背に声を掛けた。
「…エルダ、怒ってる?」
「いいえ。ただ気が急いているだけです。…アドニス様のことはお守り致しますが、なによりご不安にならないことが第一ですので」
(あ…そうじゃなくて、さっきの子達に対して…)
なんだか怒っているような響きだったので心配になったのだが、返ってきた返事は自分を案じる言葉で、嬉しいやら戸惑うやらで、それ以上聞けなかった。
ただ守ろうとしてくれたことは純粋に嬉しく、自分を背に隠してくれたエルダを思い出し、口元が緩んだ。
「…エルダ、さっきは守ろうとしてくれて、ありがとう。かっこよかったよ」
「っ…!」
守ろうとしてくれた気持ちが嬉しくて、感謝の気持ちを告げれば、エルダの足がピタリと止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……ありがとうございます」
頬を薔薇色に染めた顔は、困ったような、嬉しそうな表情をしていて、照れてるのであろうその表情に、直前までの違和感は、愛しさであっという間に上書きされてしまった。
誰に会うこともなく、無事部屋まで戻ると、二人で安堵の息を吐き、顔を見合わせてへにゃりと笑い合った。
いつもは飲まない甘いミルクを少しだけ飲み、ホッと気持ちが落ち着いたところでベッドに横になった。
「アドニス様、お外に出るのが怖くなってはいませんか?」
「…ん、大丈夫。ビックリしたけど…あの子達は、怖くなかったから」
「…それなら良うございました。…また、お散歩に参りましょうね」
「うん」
「ゆっくりお休み下さい。おやすみなさいませ、アドニス様」
「おやすみ、エルダ」
まだ心配顔のエルダを安心させるように微笑むと、布団に潜り、そっと目を閉じた。
本当は、思い出すとまだ胸がドキドキするのだが、怖くはない。ただ少しだけ落ち着かなくて、いつもより深く布団に潜ると、身を隠すように柔らかな羽毛に包まった。
暖かな布団の中、滲むように広がる安心感にホッと息を吐けば、落ち着いてきた頭の中に、先ほどの聞き慣れないエルダの声が蘇った。
『下がりなさい』
少しの温度も感じない無機質な声音は、自分に向けられたものではないと分かっていても、少しだけ肝が冷えた。
(……お部屋の外では、ああいう感じなのかな…?)
自分の側にいる時の、優しくて暖かいエルダしか知らないので想像できないが、もしかしたら厳しい一面もあるのかも…と、自分なりの答えを出す。
(…怒ってないなら、いいんだけど…)
たまたま遭遇してしまっただけで、見知らぬ天使の子達に非がある訳でもない。
明日になったら、ちゃんと話しをしてみよう…そんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。
この時抱いた小さな違和感───その答えを知るのは、それから数日後のことだった。
彼のコーディッシュ・ルームから取り出されたのは一人用のバスタブで、なぜそんな物を持ち歩いているのか、目を白黒させている間に、大きな浴槽の中に乳白色の湯がたぷりと溜まった。
(今…どこからお湯が…?)
バスタブの中に敷き詰められていた真っ白な花が、底の方から溶けるように姿を変え、みるみる内に湯が溜まっていた。
残った花が水面でゆらゆらと揺れる様をまじまじと見つめていると、ルカーシュカに手を取られ、入るよう促された。
「体、ベタベタするだろう? 軽く流そうな」
「…うん」
既に外で裸でいることへの抵抗感は薄れており、特に気にすることもなく、ソロリと湯の中に足先を浸けると、ゆっくりと体を沈めた。
「ふわ…」
ほんのりと香るミルクのような花の甘やかな香りと温かな湯に、ゆるりと体から力が抜けていく。
風に揺れる木々の音に空を見上げれば、キラキラとした木漏れ日が降り注いでいた。
外で湯に浸かっている不思議さと、それを上回る高揚感に、ワクワクとした気持ちが浮き立つ。
湯に浮かぶ白い花を指先で突いていると、傍らに腰を下ろしたルカーシュカがバスタブの縁に肘をついた。
「気持ち良いか?」
「うん」
「…楽しい?」
「うん!」
「それは良かった」
ふっと表情を和らげたルカーシュカが湯の表面を撫でれば、揺れる水面に合わせ、花もゆらゆらと揺れた。
じんわりと温まってきた体と頭で、緩やかに湯を掻き混ぜるルカーシュカの手を取ると、その指先をにふにふにと握った。
「ルカは、お風呂いつも持ってるの…?」
「まさか。念の為、用意しておいたんだよ。外で入るお風呂も、気持ち良いだろう?」
「うん」
ちゃぷちゃぷと揺れる湯に身を委ね、バスタブの縁にコテリと凭れ掛かれば、ルカーシュカの顔がすぐ間近に見えた。
「気持ち良いな」
「うん」
「…眠っちゃう前に、上がるんだぞ?」
「…ん」
ポカポカとした陽射しの下、ほどよく温まってきた体にほぅっと息を吐けば、ルカーシュカの手が頬を撫で、その気持ち良さに瞳を細めた。
暫くして湯から上がると、ルカーシュカの手で夜着によく似た服を着させてもらい、部屋の中へと戻った。まったりと会話を楽しみつつ、少し慣れてきたところで、ルカーシュカの離宮の中をほんの少しだけ歩いた。
側仕えの天使達は全員出払っているらしく、誰もいないと聞かされ、恐る恐る部屋の外に出てみたのだが、廊下の広さと天井の高さだけで圧倒されてしまい、廊下を数歩歩いただけで満足して戻ってきてしまった。
ルカーシュカは苦笑していたが、少しずつ慣れていけばいいと言って笑ってくれた。
「俺の側仕えなら、そんなに怖くないだろう? 慣れてきたら、一度会ってみないか?」
「……ん」
「うん。ちょっとずつ、慣れていこうな」
そうして陽が沈む頃、再び外に出ると、淡く輝く樹木を眺めながら、ルカーシュカの用意してくれた果物とミルクを口にした。
自然光の下にいた時とは異なり、木そのものに照明が灯っているかのように、淡い光をふわん、ふわんと纏っている様子は見ているだけで楽しく、いつも食べているはずの果実は、不思議と特別な味がした。
陽が完全に沈み、夜の風景を楽しみつつ食事を終えると、ルカーシュカと共に彼の寝室へと向かった。
「わぁ…っ」
元いた部屋から繋がっていた寝室に入り、思わず天井を見上げる。
高く高い天井はドーム形で、自室と同じように夜空が見えていたが、それを遮るように、大きな白い布が張られていた。
部屋の中央には円形の池のようなものがあり、周りには植物や、いくつものクッションが並べられていて、部屋の中なのに外のような空間が出来上がっていた。
楽しそうな部屋の様子に、つい気持ちが浮つくものの、寝室にあるべき物が見当たらず、辺りを見回した。
(……ベッド、無い…?)
寝室に連れてこられたはずなのに、それらしき物が見当たらずキョロキョロしていると、不意にルカーシュカの手が腰に回った。
「アニー、抱っこするから、肩に手を置いてくれるか?」
「? うん」
「なぜここで抱っこ?」と思いつつ、抱き上げてもらう為にルカーシュカの肩に手を置けば、直後に足の裏が床から離れた。同時にルカーシュカの背に翼が広がり、羽ばたき一つで体がふわりと宙に浮いた。
「っ…!」
久しぶりの浮遊感に、ルカーシュカの肩に置いた手に力を込め、ギュッと目を瞑るも、一瞬の内に慣れない感覚は消え、ボフリとどこかに着地したような音が聞こえた。
「…?」
「ここが俺のベッドだよ」
「……え?」
ルカーシュカの声にそっと瞼を開ければ、目の前には真白いリネンやクッション、布団で囲われた空間が広がっていた。ふと上を見れば、先ほどまで見上げるほど高い位置にあった天井が近くにあり、そこでようやく、今いる場所が下から見上げていた白い布の上だと気づいた。
「……ここ、ベッド?」
「そうだよ。下ろすな」
「うん……わっ」
「おっと」
ゆっくりとルカーシュカの腕から離れ、布団の上に降り立つも、予想外の柔らかさにそのまま転びそうになり、慌ててルカーシュカにしがみついた。
「…ふわふわだ…」
「転ばないように、ゆっくり歩くんだぞ。まぁ、転んでも大丈夫だろうが…」
確かに、この柔らかさなら、転んだところで痛くも痒くもないだろう。ふかふかとした足元に気をつけながら慎重に歩けば、なんだかそれだけで楽しく、口元は自然と緩んだ。
真ん中辺りまで歩を進め、促されるままに座り込めば、柔らかな羽毛の中に体が沈むような錯覚を覚え、堪らず感嘆の声が零れた。
「わぁ…」
「…楽しいか?」
「うん! すごいね…雲の上にいるみたい」
座り込めば視線は低くなり、布団の海に沈んでいるような視界は、まるで雲の中にいるようだった。
(…どこまでがお布団なんだろう)
ワクワクとした好奇心を抑えられず、もこもことした羽毛の中を四つん這いで動こうとするも、ルカーシュカの手にやんわりと遮られ、動きを止めた。
「…?」
「アニー、あんまり端っこに行くと落ちるぞ」
「えっ」
その言葉にギョッとして、体を引き戻せば、クスクスと笑う声が返ってきた。
「落ちたら大変だからな。…あんまり、端っこに行かないようにしような」
「うん…」
飛べる彼らと違って、自分は落ちたら一大事なのだ。ルカーシュカの言葉にコクコクと頷きながら、彼の隣に寄り添うと、柔いマットに体を横たえた。
「わ…っ」
ふわ…と羽毛に埋もれるような感覚に、目を瞬く。自分のベッドとはまったく違う柔らかさは、ただ横になっているだけで楽しく、ふわんふわんと浮いているような感覚は、本当に雲の上で寝ている様だった。
「すごい…ふわんってしてる」
「上を見てごらん」
「あ…わぁ…っ」
隣に寝転んだルカーシュカの言葉に仰向けになれば、天井が近い分、より近くなったような夜空が視界いっぱいに広がり、これから寝ようとしているのに、気分が高揚した。
「空で寝てるみたい…」
「暗くすると、もっと綺麗だぞ」
ルカーシュカが指先を少し動かすと、部屋の明かりは消え、暗くなった視界の中、星の輝きと瞬きが一層増したように見えた。
「……綺麗…」
「よく眠れそうか?」
「うん…!」
「良かった。…俺も、よく眠れそうだ」
「…っ」
夜空を見上げていると、自身の腕にルカーシュカの腕が絡み、その鼻先が触れた肌にドキリと心臓が跳ねた。
その様子は、昼間の甘えていた時の姿を彷彿とさせ、ついソワソワとしてしまったが、ルカーシュカからそれ以上触れられることはなく、跳ねた心臓も次第に落ち着いていった。
様子を窺いつつ、もぞもぞと体の向きを変え、ルカーシュカと向き合えば、腕に絡んでいた手が離れ、代わりに腰に腕が回り、胸元に彼の頭が収まった。
抱きつくようなその仕草はやはり愛らしくて、サラサラとした髪に指を通せば、鼻先が擦り寄るように胸元に埋もれた。
「…今日はいっぱい、ありがとう、ルカーシュカ」
「楽しかったか?」
「うん」
「アニーが楽しかったなら、俺も嬉しいよ。…エッチなことも、ゆっくり覚えていこうな」
「…うん。……ねぇ、ルカ」
「うん?」
「お尻…自分で触った方がいい…?」
「……しなくていいよ。アニーの様子を見ながらしたいから、俺とイヴァニエに任せてくれるか?」
「…ん、分かった」
(…お尻は自分で触らない)
ふんふん、と小さく頷いていると、胸元でフッと笑うような吐息が漏れたのが聞こえ、視線を落とした。
「?」
「なんでもない。…さぁ、そろそろ寝よう」
「うん……おやすみ、ルカ」
「おやすみ、アニー」
返ってきた柔らかな声に、なぜかとても嬉しくなる。腰に回された腕は温かくて、彼の体温が気持ち良くて、髪の毛を撫でていた手の平でそっと頭を抱き寄せれば、安心感と愛しさが胸に満ちた。
(…これからも、遊びに来たら、一緒に寝れるのかな?)
それなら嬉しいな───そんなことを考えながら瞼を閉じれば、抱き合った体温に誘われるように、穏やかな眠りに落ちた。
「アニー、おはよう」
「……?」
翌朝、眩しさに目を細めつつ、寝ぼけ眼でぽんやりと顔を上げれば、困り顔で笑うルカーシュカと目が合った。
「よく眠ってたな」
「……ん…ふあふわ…」
「ふわふわで気持ちいいな。アニーが気に入ってくれて嬉しいよ。…起きるのが少し遅くなっちゃったからな、エルダも心配してるだろうし、そろそろ部屋に戻りたいんだが…起きれるか?」
「……ん…」
「ほら、ベッドから降りるから、抱っこしような」
「…ん…」
半分眠ったままの頭で、ルカーシュカに向けて手を伸ばせば、彼の体温が体を支え、同時に宙に浮いたのが分かった。
ストン、と軽やかな音が聞こえ、次いで歩き出した振動が体に伝わり、少しずつ意識が冴えてくる。
「…おはよう、ルカ…」
「おはよう。もうアニーの部屋に帰る時間だぞ」
「……ん」
「…今日は安息日だから、俺もこのままアニーの部屋に行くし、たぶんだが、イヴァニエも向こうで待ってると思うぞ?」
「あ…」
『帰る』という単語に、イヴァニエの時と同じような寂しさが滲み、返事をする声がつい小さくなってしまったが、返ってきたルカーシュカの声にハッとした。
(そうだ…今日はお休みだから、みんなと一緒にいられるんだ)
ようやく思い出した今日の予定にパッと顔を上げれば、ルカーシュカが柔らかに微笑んでいた。
「今日も一緒にいられるから、寂しくないな?」
「…っ、うん…!」
「ふ…、アニーは本当に可愛いな」
「う…」
力いっぱい返事をしてしまった気恥ずかしさから、口元を手で押さえれば、ルカーシュカが瞳を細めて笑った。
「また好きな時に、遊びにおいで」
「…うん」
そうして言葉を交わしている間に、転移扉の前まで辿り着き、ルカーシュカに抱き上げられたまま、ドアノブへと手を掛けた。
「…! アドニス様、ルカーシュカ様、おはようございます」
「おはよう、エルダ」
「おはよう」
「アドニス、おはようございます」
「おはよう、イヴ」
「…ついででもいいから、俺にも言え」
「あぅあ!」
「あ~ぅ!」
「おはよう、みんな」
扉を開ければ、ルカーシュカの言っていた通り、エルダと共にイヴァニエと赤ん坊達もいて、賑やかな挨拶の声が溢れ返った。
「…アドニス様、お体の具合が悪いのですか?」
「ん?」
「ああ、心配するな。まだ寝惚けてたから、抱いてきただけだ」
「左様でございましたか。…よくお休みになられたのですね」
「うん」
「だぅ」
「あ!」
「ふふ…今日は、みんなで一緒に遊ぼうね」
明るい声が溢れ、途端に華やいだ室内に、自然と笑みが零れた。
ルカーシュカの部屋も、イヴァニエの部屋も、とても居心地が良く、楽しかったが、自室に戻ってくるとホッと気が緩む。
ワヤワヤと楽しそうな声が響く中、クン、と服の裾を引かれたような気がしてそちらに視線を送れば、エルダが淡く微笑んでいた。
「…おかえりなさいませ、アドニス様」
「! …ただいま、エルダ」
たった一日離れていただけなのに、その一言はスッと体に馴染み、ずっとドキドキしていた新しい日常が、ようやく自分の中に溶け込んでいくような、そんな気がした。
それからは、風の日は半日エルダと過ごし、水の日はイヴァニエの、星の日はルカーシュカの離宮に遊びに行くというサイクルが出来上がった。
二人の部屋に遊びに行くと、決まって性的な行為をするようになったが、その手つきはとても優しく、ゆっくりゆっくりと慣らしてくれているのが分かった。
相変わらず恥ずかしくて、気持ち良いが慣れなくて…それでも、その時に何をされているのか、少しずつだが理解できるようになっていった。
勿論そればかりではなく、イヴァニエの離宮でも、ルカーシュカの離宮でも、ほんの少しだけだが内部を歩いてみたり、庭園に出てみたりと、穏やかに語らいながら寄り添う時間もたくさん過ごした。
そうして自室以外の場所で過ごす時間が増えていく内に、部屋の外の世界にも触れてみたいという気持ちが、少しずつ芽生えるようになった。
「では、参りましょう、アドニス様」
「うん…!」
エルダと手を繋ぎ、部屋の扉を開くと、ドキドキしながら静かな廊下の先を見つめた。
怖気付きそうになる自分を叱咤し、「よし!」と気合を入れ直すと、部屋と外との境界線を跨ぐ一歩をゆっくりと踏み出した。
イヴァニエやルカーシュカの部屋に遊びに行くようになってから、もう少しだけ部屋の外に出れるようになった方がいいのかもしれないと考えるようになった。
とはいえ、宮廷には他の天使や大天使達も多く行き来していて、とてもではないがそんな中を歩く勇気などなかった。
悩んだ末、エルダに相談したところ、それならば…と、夜に出歩くことを提案されたのだ。
「まずはお部屋の外に出ることから慣れましょう。夜であれば他の者もおりませんし、万が一どなたかと遭遇しても、私がアドニス様をお守りします」
エルダの睡眠時間を削ることになってしまうので、最初は遠慮したのだが、そこまで長く出歩く訳ではないと言われ、最終的にエルダを頼ることにした。
それからエルダと過ごす日を含め、週に二日ほど、夜の宮廷を散歩するようになった。
最初の内は部屋の前の廊下を歩くだけで怖くて、ドキドキして、すぐに部屋に逃げ帰ってしまったが、日を重ねるごとに恐怖心は薄れ、緊張感も和らいだ。
今では部屋からかなり離れた所まで出歩けるようになり、誰かと遭遇する恐怖で周囲を見回すのではなく、初めて見るものへの好奇心から辺りを見回すようになった。と言っても、それもエルダと手を繋いでいる安心感があってこその成果なのだが…
「一緒に、お散歩してくれて、ありがとう、エルダ」
「恐れ入ります。アドニス様に頼って頂けて、私も嬉しいです」
歩きながら繋いでいた手をギュッと握り、感謝の気持ちを伝えれば、柔らかな微笑みが返ってきた。その笑みにほわりと気を緩め、和やかな会話を続けながら仄かな光が照らす宮廷内を歩いていると、初めて踏み込んだのであろう区画に差し掛かった。
「わ…」
照明の明かりが絞られている中、一際明るい光が漏れる先に目を向ければ、そこは大きく開けた空間で、等間隔に並ぶ支柱の向こう側には外の景色が広がっていた。
高い位置から見下ろす風景の中には、いくつもの建物や庭園があり、月明かりの藍色の夜空の下、橙や黄色といった淡い光がたくさん溢れていた。
「わぁ~…」
キラキラとした光に誘われるように、そちらに足を向ける。夜空で瞬く星とは異なる灯りは眩しいほどだが、目を奪われるような輝きは美しく、ついつい見入ってしまう。
「すごい…」
「アドニス様! 危ないです!」
ふわふわとした足取りで支柱の側まで向かおうとすると、エルダにグイッと手を引かれ、足が止まった。
「…? どうしたの?」
「これ以上はいけません! 落ちたらどうされるんですか!」
「……落ちちゃわないよ?」
エルダの必死の剣幕と大きな声に少しだけ驚くも、流石に足元を見ながら歩いていて落ちたりするほど不注意ではない…はずだ。
「手、繋いでるから、大丈夫だよ?」
「ですが…危ないことはなさらないで下さいませ」
「…ちゃんと、足元見てるから…」
「…せめて、お座り下さい。立ったまま下を覗き込まれるようなことがあれば、心配でどうにかなってしまいそうです」
「…はい」
眉を下げ、胸の前でギュッと手を握り締めるエルダの様子からは、いかに不安であるかが伝わってきて、それ以上の我が儘は言えなかった。
エルダにキツく手を握られた状態で、恐る恐る外壁の縁まで辿り着くと、その場に座り、プラリと足を下ろした。
(…そうか。みんな飛べるから、柵が無いんだ)
遮る物が何も無いから、景色がよく見えるのだろう───開放感の正体に気づき、納得している横で、エルダはまだオロオロしていた。
「…エルダ、大丈夫だよ」
「私がお側にいますので、万が一にも落ちるような事態は起こしません。…ですがそれ以上、身を乗り出してはいけませんよ?」
「うん」
言い付けを守り、身を乗り出さないように階下を眺めながら、プラプラと足を揺らす。
「…綺麗だね」
「左様でございますね」
時たま点滅する光の中には、淡い桃色や水色が混じり、目にも楽しい。夜なのでその全容は分からなかったが、遠くまで見える光は宮廷の正面に広がっているようだった。
(……自分の部屋は、宮廷の裏側にあるのかな…?)
バルコニーから見える風景を思い出し、ふむふむと頷きながら遠くを見つめる。
サァッと吹く風に服の裾がハタハタと揺れ、その感覚が少しだけ擽ったくて両足を絡ませれば、エルダがサッと立ち上がった。
「アドニス様、ここはお体が冷えます。そろそろお部屋に戻りましょう」
「…うん」
どうやら寒くて足を擦り寄せてると勘違いされてしまったようだが、エルダにこれ以上の心配をさせるのは良くないだろう。
素直に従い、エルダの手を取ろうと体の向きを変えた時だった。
「……え…」
視界の端に人影が見え、硬直した。
反射的にそちらに視線を移せば、エルダと同じ背丈の少年天使が三人、驚いた表情でこちらを見つめ、固まっている姿が見えた。
(な、んで……ど、どうし……)
敵意等を感じないので、怖くはない。ただそれでも頭の中は真っ白になった。
バルドル神と対面した際に顔を合わせた時以来、久方ぶりに目にした天使の姿に、思考も肉体も完全に固まってしまった。
あちらもこちらも固まったまま、見つめ合った一瞬───絡まった視線を断ち切るように、エルダの背中が視界を奪った。
「───下がりなさい」
「…ッ」
エルダの声とは思えないほど硬質的で温度を感じない声に、ビクリと肩が跳ねた。と同時に、ハッと息を呑むような声と、パタパタと駆けていく複数の足音が聞こえ、その場から天使達が立ち去ったことが分かった。
「アドニス様! 大丈夫ですか?」
「…あ……うん…」
茫然としている間にくるりとエルダが振り返り、不安気な表情でこちらを見つめてきた。
その声も、エメラルド色の瞳も、自分に対する心配の色が浮かんでいて、とても先ほど聞こえた声がエルダの声と同一とは思えず、頭の中では疑問符がいくつも浮かんだ。
(……イヴや…ルカに、似てた…?)
言い方はイヴァニエなのだが、声の質はルカーシュカに似ていて、二人と過ごす時間が長いから似てきたのだろうかと一瞬思うも、なぜか似てる似てないとは異なる何かを感じ、首を傾げた。
もっと根本的な部分が彼らと同じような───と考えながら、差し出されたエルダの手を取り、のそのそと立ち上がる。
「アドニス様、お早くお部屋に戻りましょう。今夜は出歩いている者がいるようですし、他の者に会わないとも限りません」
「……うん」
いつもより幾分早口のエルダに言われるがまま頷けば、エルダが元来た道を引き返すように踵を返した。
少しだけ早足で進むエルダに手を引かれ、てっちてっちと後をついていきながら、その背に声を掛けた。
「…エルダ、怒ってる?」
「いいえ。ただ気が急いているだけです。…アドニス様のことはお守り致しますが、なによりご不安にならないことが第一ですので」
(あ…そうじゃなくて、さっきの子達に対して…)
なんだか怒っているような響きだったので心配になったのだが、返ってきた返事は自分を案じる言葉で、嬉しいやら戸惑うやらで、それ以上聞けなかった。
ただ守ろうとしてくれたことは純粋に嬉しく、自分を背に隠してくれたエルダを思い出し、口元が緩んだ。
「…エルダ、さっきは守ろうとしてくれて、ありがとう。かっこよかったよ」
「っ…!」
守ろうとしてくれた気持ちが嬉しくて、感謝の気持ちを告げれば、エルダの足がピタリと止まり、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……ありがとうございます」
頬を薔薇色に染めた顔は、困ったような、嬉しそうな表情をしていて、照れてるのであろうその表情に、直前までの違和感は、愛しさであっという間に上書きされてしまった。
誰に会うこともなく、無事部屋まで戻ると、二人で安堵の息を吐き、顔を見合わせてへにゃりと笑い合った。
いつもは飲まない甘いミルクを少しだけ飲み、ホッと気持ちが落ち着いたところでベッドに横になった。
「アドニス様、お外に出るのが怖くなってはいませんか?」
「…ん、大丈夫。ビックリしたけど…あの子達は、怖くなかったから」
「…それなら良うございました。…また、お散歩に参りましょうね」
「うん」
「ゆっくりお休み下さい。おやすみなさいませ、アドニス様」
「おやすみ、エルダ」
まだ心配顔のエルダを安心させるように微笑むと、布団に潜り、そっと目を閉じた。
本当は、思い出すとまだ胸がドキドキするのだが、怖くはない。ただ少しだけ落ち着かなくて、いつもより深く布団に潜ると、身を隠すように柔らかな羽毛に包まった。
暖かな布団の中、滲むように広がる安心感にホッと息を吐けば、落ち着いてきた頭の中に、先ほどの聞き慣れないエルダの声が蘇った。
『下がりなさい』
少しの温度も感じない無機質な声音は、自分に向けられたものではないと分かっていても、少しだけ肝が冷えた。
(……お部屋の外では、ああいう感じなのかな…?)
自分の側にいる時の、優しくて暖かいエルダしか知らないので想像できないが、もしかしたら厳しい一面もあるのかも…と、自分なりの答えを出す。
(…怒ってないなら、いいんだけど…)
たまたま遭遇してしまっただけで、見知らぬ天使の子達に非がある訳でもない。
明日になったら、ちゃんと話しをしてみよう…そんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。
この時抱いた小さな違和感───その答えを知るのは、それから数日後のことだった。
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