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プティ・フレールの愛し子
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ルカーシュカと過ごした後、部屋に戻ってきたエルダとイヴァニエも交え、改めて今後の関係について確認し合った。
すっかり馴染みとなったイヴァニエとルカーシュカの間に座りながら、もう一度、彼らからの告白を受け、自分もそれに応えれば、晴れて二人と恋人同士になった。
今までとは少し違う関係で、今までよりももっと深い仲になることを誓い合う瞬間は、胸がいっぱいに満たされるような喜びで、少しだけ泣いてしまいそうだった。
自分の中で芽生えた『好き』という感情が、実り結ばれた特別な関係は、知識で知っているよりもずっとずっと温かくて、嬉しくて、ふにゃふにゃと口元が緩んだ。
(ルカと、イヴと、恋人…)
恋人が二人───ふわふわとした気持ちに浮かれ、暫くぽんやりとしていたが、ある考えがふっと脳裏を過った瞬間、浮かれた気持ちは一瞬にして固まった。
(…あれ? 待って……恋人って…二人いて、いいの?)
それはあまりにも今更過ぎる気づきだった。
瞬間、ザッと血の気が引き、それまでとは違う動悸に心臓が支配され、腹の奥がぐにゃりと捩れるような気持ち悪さに襲われた。
(あ、あれ…? ダメ、なことだっけ…? あれ…でも……あれ?)
ドッドッと徐々に速くなる鼓動に合わせ、呼吸が乱れる。
当たり前のように二人を好きになり、気持ちを伝えたが、今になって「もしかしたら、良くないことをしてしまったのでは?」という考えが浮かび、冷や汗が流れた。
もしや自分は、イヴァニエとルカーシュカに対して、とても失礼なことを言ってしまったのではないだろうか?
とても不誠実なことをしているのではないだろうか?
とてつもない不安に駆られ、混乱する頭でアワアワと取り乱しながら、慌てて二人にそのことを伝えた。
二人を同時に好きになってしまった、恋人になってしまった、いけないことをしてしまったかもしれない…そのようなことを必死になって伝えたのだが、何故か二人には自分の焦りや不安が伝わらず、逆に首を傾げられてしまった。
「ああ、なるほど。アニーの不安は分かりましたが、なにも心配することはありませんよ」
懸命に話し続け、ようやく言いたいことが伝わったが、イヴァニエから返ってきた返事は実にあっけらかんとしたものだった。
曰く、天界には恋愛において『こうでなければいけない』という定義は無いのだそうだ。
一対一で付き合うのも、一対複数で付き合うのも、更にはもっと自由な形で付き合うのも、お互いが納得し合った形であればなんでもいいらしい。
「…そうなの?」
「そうですね。それに問題があることなら、私かルカーシュカが教えているはずですよ?」
「あ…」
「逆にアニーは、なんでダメだと思ったんだ?」
「なんで、て…」
そういえば、なぜ今になって疑問を抱いたのだろうか?
改めて自身の頭の中を探り、思い至ったのは、どうやら人間界の知識がごちゃ混ぜになっていることが原因の様だった。
人間界は国ごとに『恋人』や『夫婦』の在り方が異なる。一夫一妻もあれば、一夫多妻、一妻多夫、同性婚など、その形は様々だ。
それらの知識があるが故に、同時に複数の者を愛することに疑問を感じなかったが、天界においての正しい形を知らなかった為、急に不安になったのだろう、とルカーシュカに言われた。
「えっと…じゃあ、私は、二人を一緒に好きになっても…いいの?」
お互いが納得し合った形であれば問題ないと言われたが、そんな話は一度も聞いていない。
恐る恐るイヴァニエとルカーシュカに尋ねれば、互いに顔を見合わせた二人が、何かを目で語るように視線を交わした後、ふっと微笑んでくれた。
「俺はアニーが好きだし、アニーも俺を好きでいてくれるんなら、それだけで充分だ」
「独り占めしたいという気持ちが無い訳ではないですが、アニーに寂しい思いをさせるのは不本意ですからね。私も、今の関係が最善だと思っていますよ」
サラリと答えるルカーシュカと、肩を竦めるイヴァニエに、ホッと気が緩んだのも束の間、「但し」と続くイヴァニエに声にピッと背筋が伸びた。
「できれば今の関係を崩したくありません。他の者を好きになるなとは言えませんし、アニーの気持ちを縛るつもりもありません。ですが今後、他の者達にアニーを渡したくはありません」
真っ直ぐ告げられた言葉はきっとイヴァニエの本心で、それは彼にとって『納得できないこと』なのだと分かった。
イヴァニエを不安にさせたくないと思う反面、彼の独占しようとする気持ちに湧いた気恥ずかしさと嬉しさに、指先をモジモジと絡ませた。
「んと…大丈夫、だよ? 他の誰かを、好きになっても…それは二人の好きとは違うって、知ってるよ?」
「……ありがとう、アニー。どうにも心配で…ごめんなさい、おかしなことを言いましたね」
(…ルカとイヴって、似てるのかな?)
果実を分け合った件といい、今の発言といい、似ていないようで似ている二人に、思わずクスリとする。
直後、大事なことを伝え忘れていたことを思い出し、ハッとして傍らに控えていたエルダに視線を移すと、勢いのままソファーから立ち上がった。
「アニー?」
「どうしました?」
「ん、んと…えと…」
今の今で何を言い出すのかと思われそうだが、言わない訳にはいかない。
ルカーシュカも、イヴァニエも、そしてエルダも…三人から何事かという不思議そうな視線を受ける中、エルダの隣まで歩み寄ると、細い体をぎゅっと抱き締めながら、ソファーに座る二人を振り返った。
「!?」
「エルダも、好きだよ…!」
「「………」」
まだ見ぬ誰かへの恋情は無くとも、今ある『好き』を無くすことはできない。
ビクビクしながらエルダの体を一層強く抱き締めると、縋るようにイヴァニエとルカーシュカを見つめた。
「ア、アドニス様…!」
「……まぁ、うん、知ってるが」
「……そうですね。知ってますね」
「…あれ?」
勇気を出して告白したはず…なのだが、イヴァニエとルカーシュカからはどこか呆れたような、なんとも言えない笑みが返ってきた。
「…エルダも、好きでも、いい?」
「いいと言いますか、アニーは最初からずっとエルダが好きだったでしょう?」
苦笑しながらもアッサリとそう返され、拍子抜けしてしまう。
「最初」と言うのが、どこを指しているのかは分からなかったが、冷静になって考えてみれば、彼らと共にエルダのことも好きだと告げていたし、今更と思われてしまったのかもしれない。
焦って一人空回ってしまったが、エルダのことも認めてもらえ、安堵からホッと腕の力が緩んだ。
「エルダ、好きでもいいって」
「……はい。大変……その、嬉しいです」
「自分も嬉しい」
へにゃりと笑いながら、自分の胸下にあるエルダを見遣れば、こちらを見上げる朱色に染まった顔と目が合い、その顔が可愛らしくて、もう一度ぎゅうっと抱き締めた。
「……アニーはエルダに対しては随分と積極的ですね」
「というか、あれは多分よく分かっていないんじゃないか? …アニー」
「ん?」
「一応聞くが、エルダへの“好き”は、俺達に対する“好き”と同じか?」
「……同じ?」
そう問われ、知っているはずの答えが不意に宙に浮いてしまったような、不思議な感覚を味わった。
(……おんなじ好き…?)
改めて考え、咄嗟に答えが出てこないことに黙り込む。
エルダのことは大好きだ。それは自信を持って言える。大事な人だし、大切にしたいし、ずっと一緒にいたい。
だがルカーシュカとイヴァニエに抱く『好き』と同じかと聞かれると、「一緒なのだろうか?」と自分自身でもよく分からない、不思議な感覚に陥った。
『特別な好き』だとは思う。他の誰にでも抱く『好き』ではない。赤子たちに対する愛しい、可愛いと、愛でたくなるような感情に似ているようで、それとも違う。…いや、正確に言えば、エルダが赤ん坊の姿の時は、正しく幼い子達に抱く『好き』と同じ感情だと思う。だが少年の姿の時は、側にいてくれることに喜び、安心感を多分に含んだ『好き』で、二人に対するそれとはまた少し違うように思うのだ。
なにより、唇への口づけや性交をエルダ相手に望むかと問われると、それこそ答えに窮してしまう。
エルダが小柄な少年であり、普段の関わり方が二人と違うからこそ、そう思うのかもしれないが、「同じ好きか」と問われると、答えに詰まってしまう自分がいた。
なんと答えるべきなのか頭を捻るも、明確な答えも出せず、うんうんと唸るように声を振り絞った。
「ぅ~…、わかんない…けど、でも…、特別な好きだよ…!」
それ以外の答えが出せなかった。
エルダのことは好きで、それは『特別な好き』で、でも彼らと同じ恋愛感情を含んだ好きかと問われると、分からなくなってしまう。
そう口にした後で、もしかしたらエルダは違うのかもしれないと思い、慌てて下を向いた。
「エルダは、違う? 自分と、お口にちゅってしたり、したい…?」
「っ!?」
「あと、えっと、性───」
「こら、アニー。それは言わなくていいぞ」
「……うん」
ルカーシュカに叱られ、大人しく口を閉じると、ジッとエルダの様子を窺った。
「その……私も、アドニス様のことをお慕いしております。ただ…今はそういったことまでは、望んでおりません。決して嫌だということではなく…お側にいられるだけで、幸せなのです」
「…うん。私も、おんなじ」
珍しく視線を逸らし、僅かに口籠もるエルダだが、その口ぶりは自分と同じような感情を共有しているようで、じんわりとした安堵と喜びが胸に広がった。
「お口にはしないけど…ほっぺやおでこには、ちゅってしたいよ?」
「それは…、…して頂けたら、とても嬉しく思います」
「ぎゅうってするのは?」
「…とても、嬉しいです」
「ふふ、一緒だね」
耳まで真っ赤に染めたエルダにふわふわとした気持ちが蘇る。それはイヴァニエとルカーシュカと気持ちが通じ合った時に感じたものと同じで、そこに違いはないように思えた。
「おんなじ好きかは、分かんないけど…でも、エルダも、特別な好きだよ」
自身の気持ちを確かめるように、エルダにも伝わるように、もう一度そう答えれば、イヴァニエとルカーシュカがチラリと視線を交わし、困ったように笑った。
「分かった。エルダも、それでいいんだな?」
「はい。今はまだ、そこまでは…」
「いいさ。焦るものでも、急ぐものでもないからな。いつかその時が来たら、自分で言いな」
「…はい」
「…?」
ルカーシュカの言葉の意味するところはよく分からなかったが、エルダにはきちんと伝わったらしく、応えるエルダの声には今までにない力強さを感じた。
「…ありがとうございます、アドニス様。これからもずっと、お側におります」
「うん。ありがとう、エルダ。一緒にいてね」
こちらを見上げる翠色の瞳を見つめ、互いに微笑み合うと、改めて今までの関係が続くことを喜んだ。
その後、イヴァニエが「エルダばかり狡いですよ」と拗ねてしまったり、ルカーシュカに「アニーから俺達にキスはしてくれないのか?」と悲しい顔をされたり等、一悶着あったが、それでも皆が納得し、互いに望んだ『好き』の形に収まることが出来た。
そうして新たな関係を結んだ翌日、いよいよフレールの庭へと向かう日を迎えたのだが───…
「……扉?」
何故か主室の壁に、今までそこには無かったはずの大きな扉が現れていた。
朝、いつもと同じようにエルダに起こされ寝室を出ると、壁に昨日までは無かったはずの物を見つけ、思わず凝視してしまった。
白い壁に馴染むような同色の扉は飾り気も無く、存在感も非常に薄いのだが、今まで無かった物がそこにあることでとにかく目立っていた。
「エルダ、あれは…?」
「そちらの説明はまた後ほど、お二人がお見えになられたら、お話ししますね」
「まずはお食事にしましょう」と言われ、扉を気にしつつも定位置となったソファーに腰掛ける。
珍しく、イヴァニエもルカーシュカも、赤ん坊達もいない部屋の中、エルダと二人、ゆったりとした会話を楽しみながら甘いミルクを飲み干した。
それから間もなく、室内に響いた「リィン」という鈴の音に、入口の方へと目を向ければ、イヴァニエとルカーシュカが揃って入ってきた。
「イヴ、ルカ」
「おはよう、アニー」
「おはようございます、アニー」
「お、おはよう」
朝の挨拶と共に広げられた腕に応える為、自らも腕を伸ばし、二人と抱擁を交わす。触れ合うだけの抱擁を済ますと、互いの体が離れたところで、左右から両手を取られた。
「今日は初めてのお務めですね」
「…うん」
「緊張するなっていうのは難しいだろうが、大丈夫だから安心しな」
「…うん。ありがとう」
突然の抱擁には少しだけ驚いたが、両の手から伝わる温もりは心強く、無意識の内に力んでいた体からホッと力が抜けた。
そのまま彼らに手を引かれて歩けば、「あ」と思う間も無く、見知らぬ扉の前へと辿り着いていた。
「…この扉は、なぁに?」
「これはアニーにとっても、私達にとっても大切な、大事な扉ですよ」
「大事…?」
「アニー、扉に飾りがあるのは分かるか?」
「…うん」
イヴァニエの弾んだ声に首を傾げつつ、目の前の扉に視線を移せば、目線の高さに何かを象ったようなレリーフが三つ彫られていた。
三角形の点に位置する飾りは、頂点が満開の花が咲き誇るような樹木、その少し下に並んで、繊細な模様の星と、魚のような美しい生き物が描かれていた。
「花…木と、星と…魚?」
「鯨ですね」
「くじら」
(くじらは…海にいる生き物だっけ?)
自分の中にある知識を掘り起こし、これが鯨なのかとまじまじと見つめて暫く、この飾りに何か意味があるのだろうかと二人を交互に見た。
「この飾りが、どうしたの…?」
「そうですね。ではまず、鯨に触れてみましょうか」
「…触るの?」
「ええ、照明を点けるのと同じように、触れるだけで大丈夫ですよ」
そう言われ、触れる必要性も分からぬまま鯨のレリーフへと手を伸ばし、そっと触れた───瞬間、パッとそこにあった扉が姿を変え、突然のことに驚いた体は後方へと仰け反った。
「わっ!?」
「おっと」
よろけた背をイヴァニエの腕に支えられながら、瞬間的に跳ねた心臓を押さえ、何事かとイヴァニエを見つめた。
「イ、イヴ…? なに…なんで…?」
「ふふ、びっくりしてしまいましたね」
「う、うん…」
楽し気なイヴァニエの声に返事をしながら、チラリと扉へと視線を戻せば、先ほどまで壁と同色だった白い扉は、一瞬で濃いダークブラウンのそれへと変貌していた。
白や淡い色合いで纏められた室内で見るせいか、どこか近寄り難い雰囲気のある扉を前に立ち尽くしていると、イヴァニエの手にそっと背中を押された。
「アニー、開けてみて下さい」
「…いいの?」
「ええ、そのための扉ですから」
確かに扉は開けるためにある物だが…そう思いつつ、恐る恐るドアノブに手を伸ばすと、ゆっくりと扉を開いた。
「………え?」
少しずつ開いていく扉の隙間から、こそりと中を覗き込むように様子を窺った先は、壁の向こう側ではなく、見しらぬ部屋へと繋がっていた。
自室との対比のせいか、淡い橙色の照明がほんのりと灯っているだけの室内は薄暗かったが、不安を抱くような暗さではなく、むしろ興味を引かれるような、不思議な魅力に溢れていた。
置かれた家具類は多彩ながらも暗色の落ち着いた色合いで、一見すると暗く見えてしまうのに、美しく施された装飾や、鈍く光る繊細な金の縁取りのおかげか、思わず見惚れてしまうほど華やかだった。
「…綺麗…」
「アニーにそう言ってもらえると嬉しいですね」
そこに部屋がある不思議さも忘れ、ポツリと零れた言葉に返ってきた声に、「はて?」と思いながらイヴァニエを見上げた。
「嬉しいの…?」
「ええ、ここは私の私室ですから」
「……え?」
思ってもいなかった発言に目を丸くしていると、ドアノブを握った手にイヴァニエの手が重なり、大きく扉が開かれた。
「ようこそアニー、私の離宮へ」
扉一枚を隔てた境界線の上に立ち、開かれた扉の先と、にこやかに微笑むイヴァニエの顔を交互に見つめながら、ポカンとしたままその場に立ち尽くした。
「……イヴの、お部屋?」
「ええ、そうです」
「……どうして、ここに、イヴのお部屋があるの…?」
「繋げたからですね」
「繋げた…」
自分の理解の範疇を超えた内容にパチパチと目を瞬いていると、ルカーシュカが状況を教えてくれた。
「前に、俺達の離宮に遊びにおいでって言っただろう?」
「…うん」
「アニーはまだ外を歩くのも怖いだろうし、なにより俺達の離宮はここと少し離れてるからな。部屋と部屋を繋げた方が、アニーだけでも簡単に行き来ができるし、なにより俺達も安心だ」
「そのために繋げたんだよ」と言われ、ますますポカンとしてしまう。
(粛法って、こんなこともできるんだ…)
未知の世界に理解が追いつかず、なんでもないことのように語るルカーシュカに頷き返すのが精一杯だった。
「すごい…ね」
「すごいな。…イヴァニエ、一旦閉じてくれ」
「仕方ありませんね」
ゆるゆると閉じられていく扉の先、少しずつ見えなくなっていくイヴァニエの部屋を不思議に思いながら、パタリと締め切った瞬間、扉は元の色形へと変わり、ビクリと肩が跳ねた。
「戻った…」
「うん、じゃあ次は、星の飾りに触ってみようか」
ルカーシュカに促され、なんとなく予想できた先を思い浮かべながらそっと手を伸ばせば、先ほど同様、パッと扉がその姿を変えた。
今度は元の扉よりも更に白い、眩しいほどの純白に銀の装飾が施された美しい扉が現れた。
「開けてごらん」
「…うん」
ここまで来れば、この先に何があるのかはもう分かる。ワクワクとドキドキを混ぜ合わせた気持ちでゆっくりと扉を開けば、その先に見えたのは、イヴァニエの部屋とは異なる空間だった。
「わぁ…」
壁も床も、どこまでも純白な室内の光景に思わず感嘆の声が漏れた。
高い高い天井には、星座を描いたと思われる銀の装飾が浮かび、キラリ、キラリと星の瞬きのように輝いていた。奥には大きな硝子窓があり、その向こうには青々とした葉が生い茂る、大きな樹木が根を張っているのが見える。
全体的に純白に染まった部屋の中、置かれた家具やクッションなどの小物は淡い灰色や生成色で統一され、色彩を抑えながらもホッと落ち着くような雰囲気が漂っていた。
「…ルカの、お部屋?」
「そうだよ」
「…ルカのお部屋も、素敵だね」
「ふ、ありがとう」
まじまじと部屋の中を見回しながら、イヴァニエの部屋とはまるで正反対な室内の様子に、少しばかり驚いた。
部屋の好みは反対なのか…と、そんなことを考えながらぼぅっとしていると、ドアノブを握る手にルカーシュカの手が重なり、そっと扉を閉じられた。
パタリと閉じれば、やはり扉は元通りになり、不思議だけれども『こういうもの』として理解することができた。
「これからは、いつでも遊びに来ていいからな」
「え?」
「今みたいに、それぞれの飾りに触れれば私達の離宮と繋がりますから、いつでも遊びに来ていいんですよ」
扉の能力そのものにただただ感心し、用途についてまったく考えが及んでいなかったが、思い返せば「アニーだけでも簡単に行き来ができる」と言われていたことを思い出す。
「…遊びに、行っていいの?」
「勿論。アニーのために用意したのですから、いつでも遊びに来てくだい」
「……うん、ありがとう。イヴ、ルカ、すごく、嬉しい」
『アニーのため』という言葉に、キュンと鳴くような喜びが胸に広がる。
驚きと共に贈られた素敵な贈り物が嬉しくて、喜びを返すように、二人の手をぎゅうっと握り締めた。
「ありがとう。いつも、いっぱい、ありがとう…! でも、あの…こんなにすごいもの…作るの、大変じゃなかった…?」
「アニーに喜んでもらえたのなら、俺達も嬉しいよ」
「私達にとっても、なくてはならない大事なものですし、大変なことはありませんでしたよ。エルダも手伝ってくれましたしね」
「…エルダも?」
パッとエルダに視線を向ければ、はにかむように微笑む彼と目が合った。
「私は、少しだけお手伝いをさせて頂いただけですよ」
「少しでも、いっぱい嬉しいよ。ありがとう、エルダ」
「恐れ入ります」
互いに笑みを交わし、ふわふわとした空気が漂う中、改めて扉に向き直った。
扉に残された飾りはあと一つ。見事な花木が描かれたレリーフを見つめ、確認するように左右を見れば、イヴァニエもルカーシュカもコクリと頷いてくれた。
優しい表情に後押しされ、そろりと手を伸ばしてそれに触れた───次の瞬間、パッと扉が変わるのと同時に、ヒラリと落ちてきた何かが視界に入り、咄嗟に上を向いた。
「あ、わぁ…!」
目の前に現れたのは、流れるような曲線の模様と、いくつもの草花が彫られた桜色の可愛らしい扉だった。
扉の上には、まるで元からそこにあったかのように淡い桃色の花が咲き誇り、鮮やかな緑の蔦や葉が、美しく絡みついていた。
ヒラリ、ヒラリと舞い落ちる花弁は、床へと落ちてしまう前に空気に溶け、一瞬の幻のような儚さを残してふわりと消えた。
「ふゎ…」
この扉の向こう側は、特別な処へと続いている───自然とそう思えるような美しい扉に、ドキドキと胸が高鳴った。
「行きましょう、アニー」
「大丈夫。きっと楽しい一日になるはずだよ」
「うん…!」
隣に並ぶイヴァニエとルカーシュカ、背後に控えてくれているエルダに、僅かな不安や緊張も、消えて無くなっていた。
胸に満ちるのは、今からたくさん触れるであろう、いくつもの『初めて』への喜びと好奇心。そして、純粋な楽しみだった。
(…初めて窓の外に出た時も、こんな気持ちだったかな)
澄んだ青空と、どこまでも広がる外の世界に誘われ、窓の外へと踏み出た遠い日の記憶。
あの時よりもずっと弾む胸と逸る気持ちを抑え、ゆっくりとドアノブに手を掛けた。
すっかり馴染みとなったイヴァニエとルカーシュカの間に座りながら、もう一度、彼らからの告白を受け、自分もそれに応えれば、晴れて二人と恋人同士になった。
今までとは少し違う関係で、今までよりももっと深い仲になることを誓い合う瞬間は、胸がいっぱいに満たされるような喜びで、少しだけ泣いてしまいそうだった。
自分の中で芽生えた『好き』という感情が、実り結ばれた特別な関係は、知識で知っているよりもずっとずっと温かくて、嬉しくて、ふにゃふにゃと口元が緩んだ。
(ルカと、イヴと、恋人…)
恋人が二人───ふわふわとした気持ちに浮かれ、暫くぽんやりとしていたが、ある考えがふっと脳裏を過った瞬間、浮かれた気持ちは一瞬にして固まった。
(…あれ? 待って……恋人って…二人いて、いいの?)
それはあまりにも今更過ぎる気づきだった。
瞬間、ザッと血の気が引き、それまでとは違う動悸に心臓が支配され、腹の奥がぐにゃりと捩れるような気持ち悪さに襲われた。
(あ、あれ…? ダメ、なことだっけ…? あれ…でも……あれ?)
ドッドッと徐々に速くなる鼓動に合わせ、呼吸が乱れる。
当たり前のように二人を好きになり、気持ちを伝えたが、今になって「もしかしたら、良くないことをしてしまったのでは?」という考えが浮かび、冷や汗が流れた。
もしや自分は、イヴァニエとルカーシュカに対して、とても失礼なことを言ってしまったのではないだろうか?
とても不誠実なことをしているのではないだろうか?
とてつもない不安に駆られ、混乱する頭でアワアワと取り乱しながら、慌てて二人にそのことを伝えた。
二人を同時に好きになってしまった、恋人になってしまった、いけないことをしてしまったかもしれない…そのようなことを必死になって伝えたのだが、何故か二人には自分の焦りや不安が伝わらず、逆に首を傾げられてしまった。
「ああ、なるほど。アニーの不安は分かりましたが、なにも心配することはありませんよ」
懸命に話し続け、ようやく言いたいことが伝わったが、イヴァニエから返ってきた返事は実にあっけらかんとしたものだった。
曰く、天界には恋愛において『こうでなければいけない』という定義は無いのだそうだ。
一対一で付き合うのも、一対複数で付き合うのも、更にはもっと自由な形で付き合うのも、お互いが納得し合った形であればなんでもいいらしい。
「…そうなの?」
「そうですね。それに問題があることなら、私かルカーシュカが教えているはずですよ?」
「あ…」
「逆にアニーは、なんでダメだと思ったんだ?」
「なんで、て…」
そういえば、なぜ今になって疑問を抱いたのだろうか?
改めて自身の頭の中を探り、思い至ったのは、どうやら人間界の知識がごちゃ混ぜになっていることが原因の様だった。
人間界は国ごとに『恋人』や『夫婦』の在り方が異なる。一夫一妻もあれば、一夫多妻、一妻多夫、同性婚など、その形は様々だ。
それらの知識があるが故に、同時に複数の者を愛することに疑問を感じなかったが、天界においての正しい形を知らなかった為、急に不安になったのだろう、とルカーシュカに言われた。
「えっと…じゃあ、私は、二人を一緒に好きになっても…いいの?」
お互いが納得し合った形であれば問題ないと言われたが、そんな話は一度も聞いていない。
恐る恐るイヴァニエとルカーシュカに尋ねれば、互いに顔を見合わせた二人が、何かを目で語るように視線を交わした後、ふっと微笑んでくれた。
「俺はアニーが好きだし、アニーも俺を好きでいてくれるんなら、それだけで充分だ」
「独り占めしたいという気持ちが無い訳ではないですが、アニーに寂しい思いをさせるのは不本意ですからね。私も、今の関係が最善だと思っていますよ」
サラリと答えるルカーシュカと、肩を竦めるイヴァニエに、ホッと気が緩んだのも束の間、「但し」と続くイヴァニエに声にピッと背筋が伸びた。
「できれば今の関係を崩したくありません。他の者を好きになるなとは言えませんし、アニーの気持ちを縛るつもりもありません。ですが今後、他の者達にアニーを渡したくはありません」
真っ直ぐ告げられた言葉はきっとイヴァニエの本心で、それは彼にとって『納得できないこと』なのだと分かった。
イヴァニエを不安にさせたくないと思う反面、彼の独占しようとする気持ちに湧いた気恥ずかしさと嬉しさに、指先をモジモジと絡ませた。
「んと…大丈夫、だよ? 他の誰かを、好きになっても…それは二人の好きとは違うって、知ってるよ?」
「……ありがとう、アニー。どうにも心配で…ごめんなさい、おかしなことを言いましたね」
(…ルカとイヴって、似てるのかな?)
果実を分け合った件といい、今の発言といい、似ていないようで似ている二人に、思わずクスリとする。
直後、大事なことを伝え忘れていたことを思い出し、ハッとして傍らに控えていたエルダに視線を移すと、勢いのままソファーから立ち上がった。
「アニー?」
「どうしました?」
「ん、んと…えと…」
今の今で何を言い出すのかと思われそうだが、言わない訳にはいかない。
ルカーシュカも、イヴァニエも、そしてエルダも…三人から何事かという不思議そうな視線を受ける中、エルダの隣まで歩み寄ると、細い体をぎゅっと抱き締めながら、ソファーに座る二人を振り返った。
「!?」
「エルダも、好きだよ…!」
「「………」」
まだ見ぬ誰かへの恋情は無くとも、今ある『好き』を無くすことはできない。
ビクビクしながらエルダの体を一層強く抱き締めると、縋るようにイヴァニエとルカーシュカを見つめた。
「ア、アドニス様…!」
「……まぁ、うん、知ってるが」
「……そうですね。知ってますね」
「…あれ?」
勇気を出して告白したはず…なのだが、イヴァニエとルカーシュカからはどこか呆れたような、なんとも言えない笑みが返ってきた。
「…エルダも、好きでも、いい?」
「いいと言いますか、アニーは最初からずっとエルダが好きだったでしょう?」
苦笑しながらもアッサリとそう返され、拍子抜けしてしまう。
「最初」と言うのが、どこを指しているのかは分からなかったが、冷静になって考えてみれば、彼らと共にエルダのことも好きだと告げていたし、今更と思われてしまったのかもしれない。
焦って一人空回ってしまったが、エルダのことも認めてもらえ、安堵からホッと腕の力が緩んだ。
「エルダ、好きでもいいって」
「……はい。大変……その、嬉しいです」
「自分も嬉しい」
へにゃりと笑いながら、自分の胸下にあるエルダを見遣れば、こちらを見上げる朱色に染まった顔と目が合い、その顔が可愛らしくて、もう一度ぎゅうっと抱き締めた。
「……アニーはエルダに対しては随分と積極的ですね」
「というか、あれは多分よく分かっていないんじゃないか? …アニー」
「ん?」
「一応聞くが、エルダへの“好き”は、俺達に対する“好き”と同じか?」
「……同じ?」
そう問われ、知っているはずの答えが不意に宙に浮いてしまったような、不思議な感覚を味わった。
(……おんなじ好き…?)
改めて考え、咄嗟に答えが出てこないことに黙り込む。
エルダのことは大好きだ。それは自信を持って言える。大事な人だし、大切にしたいし、ずっと一緒にいたい。
だがルカーシュカとイヴァニエに抱く『好き』と同じかと聞かれると、「一緒なのだろうか?」と自分自身でもよく分からない、不思議な感覚に陥った。
『特別な好き』だとは思う。他の誰にでも抱く『好き』ではない。赤子たちに対する愛しい、可愛いと、愛でたくなるような感情に似ているようで、それとも違う。…いや、正確に言えば、エルダが赤ん坊の姿の時は、正しく幼い子達に抱く『好き』と同じ感情だと思う。だが少年の姿の時は、側にいてくれることに喜び、安心感を多分に含んだ『好き』で、二人に対するそれとはまた少し違うように思うのだ。
なにより、唇への口づけや性交をエルダ相手に望むかと問われると、それこそ答えに窮してしまう。
エルダが小柄な少年であり、普段の関わり方が二人と違うからこそ、そう思うのかもしれないが、「同じ好きか」と問われると、答えに詰まってしまう自分がいた。
なんと答えるべきなのか頭を捻るも、明確な答えも出せず、うんうんと唸るように声を振り絞った。
「ぅ~…、わかんない…けど、でも…、特別な好きだよ…!」
それ以外の答えが出せなかった。
エルダのことは好きで、それは『特別な好き』で、でも彼らと同じ恋愛感情を含んだ好きかと問われると、分からなくなってしまう。
そう口にした後で、もしかしたらエルダは違うのかもしれないと思い、慌てて下を向いた。
「エルダは、違う? 自分と、お口にちゅってしたり、したい…?」
「っ!?」
「あと、えっと、性───」
「こら、アニー。それは言わなくていいぞ」
「……うん」
ルカーシュカに叱られ、大人しく口を閉じると、ジッとエルダの様子を窺った。
「その……私も、アドニス様のことをお慕いしております。ただ…今はそういったことまでは、望んでおりません。決して嫌だということではなく…お側にいられるだけで、幸せなのです」
「…うん。私も、おんなじ」
珍しく視線を逸らし、僅かに口籠もるエルダだが、その口ぶりは自分と同じような感情を共有しているようで、じんわりとした安堵と喜びが胸に広がった。
「お口にはしないけど…ほっぺやおでこには、ちゅってしたいよ?」
「それは…、…して頂けたら、とても嬉しく思います」
「ぎゅうってするのは?」
「…とても、嬉しいです」
「ふふ、一緒だね」
耳まで真っ赤に染めたエルダにふわふわとした気持ちが蘇る。それはイヴァニエとルカーシュカと気持ちが通じ合った時に感じたものと同じで、そこに違いはないように思えた。
「おんなじ好きかは、分かんないけど…でも、エルダも、特別な好きだよ」
自身の気持ちを確かめるように、エルダにも伝わるように、もう一度そう答えれば、イヴァニエとルカーシュカがチラリと視線を交わし、困ったように笑った。
「分かった。エルダも、それでいいんだな?」
「はい。今はまだ、そこまでは…」
「いいさ。焦るものでも、急ぐものでもないからな。いつかその時が来たら、自分で言いな」
「…はい」
「…?」
ルカーシュカの言葉の意味するところはよく分からなかったが、エルダにはきちんと伝わったらしく、応えるエルダの声には今までにない力強さを感じた。
「…ありがとうございます、アドニス様。これからもずっと、お側におります」
「うん。ありがとう、エルダ。一緒にいてね」
こちらを見上げる翠色の瞳を見つめ、互いに微笑み合うと、改めて今までの関係が続くことを喜んだ。
その後、イヴァニエが「エルダばかり狡いですよ」と拗ねてしまったり、ルカーシュカに「アニーから俺達にキスはしてくれないのか?」と悲しい顔をされたり等、一悶着あったが、それでも皆が納得し、互いに望んだ『好き』の形に収まることが出来た。
そうして新たな関係を結んだ翌日、いよいよフレールの庭へと向かう日を迎えたのだが───…
「……扉?」
何故か主室の壁に、今までそこには無かったはずの大きな扉が現れていた。
朝、いつもと同じようにエルダに起こされ寝室を出ると、壁に昨日までは無かったはずの物を見つけ、思わず凝視してしまった。
白い壁に馴染むような同色の扉は飾り気も無く、存在感も非常に薄いのだが、今まで無かった物がそこにあることでとにかく目立っていた。
「エルダ、あれは…?」
「そちらの説明はまた後ほど、お二人がお見えになられたら、お話ししますね」
「まずはお食事にしましょう」と言われ、扉を気にしつつも定位置となったソファーに腰掛ける。
珍しく、イヴァニエもルカーシュカも、赤ん坊達もいない部屋の中、エルダと二人、ゆったりとした会話を楽しみながら甘いミルクを飲み干した。
それから間もなく、室内に響いた「リィン」という鈴の音に、入口の方へと目を向ければ、イヴァニエとルカーシュカが揃って入ってきた。
「イヴ、ルカ」
「おはよう、アニー」
「おはようございます、アニー」
「お、おはよう」
朝の挨拶と共に広げられた腕に応える為、自らも腕を伸ばし、二人と抱擁を交わす。触れ合うだけの抱擁を済ますと、互いの体が離れたところで、左右から両手を取られた。
「今日は初めてのお務めですね」
「…うん」
「緊張するなっていうのは難しいだろうが、大丈夫だから安心しな」
「…うん。ありがとう」
突然の抱擁には少しだけ驚いたが、両の手から伝わる温もりは心強く、無意識の内に力んでいた体からホッと力が抜けた。
そのまま彼らに手を引かれて歩けば、「あ」と思う間も無く、見知らぬ扉の前へと辿り着いていた。
「…この扉は、なぁに?」
「これはアニーにとっても、私達にとっても大切な、大事な扉ですよ」
「大事…?」
「アニー、扉に飾りがあるのは分かるか?」
「…うん」
イヴァニエの弾んだ声に首を傾げつつ、目の前の扉に視線を移せば、目線の高さに何かを象ったようなレリーフが三つ彫られていた。
三角形の点に位置する飾りは、頂点が満開の花が咲き誇るような樹木、その少し下に並んで、繊細な模様の星と、魚のような美しい生き物が描かれていた。
「花…木と、星と…魚?」
「鯨ですね」
「くじら」
(くじらは…海にいる生き物だっけ?)
自分の中にある知識を掘り起こし、これが鯨なのかとまじまじと見つめて暫く、この飾りに何か意味があるのだろうかと二人を交互に見た。
「この飾りが、どうしたの…?」
「そうですね。ではまず、鯨に触れてみましょうか」
「…触るの?」
「ええ、照明を点けるのと同じように、触れるだけで大丈夫ですよ」
そう言われ、触れる必要性も分からぬまま鯨のレリーフへと手を伸ばし、そっと触れた───瞬間、パッとそこにあった扉が姿を変え、突然のことに驚いた体は後方へと仰け反った。
「わっ!?」
「おっと」
よろけた背をイヴァニエの腕に支えられながら、瞬間的に跳ねた心臓を押さえ、何事かとイヴァニエを見つめた。
「イ、イヴ…? なに…なんで…?」
「ふふ、びっくりしてしまいましたね」
「う、うん…」
楽し気なイヴァニエの声に返事をしながら、チラリと扉へと視線を戻せば、先ほどまで壁と同色だった白い扉は、一瞬で濃いダークブラウンのそれへと変貌していた。
白や淡い色合いで纏められた室内で見るせいか、どこか近寄り難い雰囲気のある扉を前に立ち尽くしていると、イヴァニエの手にそっと背中を押された。
「アニー、開けてみて下さい」
「…いいの?」
「ええ、そのための扉ですから」
確かに扉は開けるためにある物だが…そう思いつつ、恐る恐るドアノブに手を伸ばすと、ゆっくりと扉を開いた。
「………え?」
少しずつ開いていく扉の隙間から、こそりと中を覗き込むように様子を窺った先は、壁の向こう側ではなく、見しらぬ部屋へと繋がっていた。
自室との対比のせいか、淡い橙色の照明がほんのりと灯っているだけの室内は薄暗かったが、不安を抱くような暗さではなく、むしろ興味を引かれるような、不思議な魅力に溢れていた。
置かれた家具類は多彩ながらも暗色の落ち着いた色合いで、一見すると暗く見えてしまうのに、美しく施された装飾や、鈍く光る繊細な金の縁取りのおかげか、思わず見惚れてしまうほど華やかだった。
「…綺麗…」
「アニーにそう言ってもらえると嬉しいですね」
そこに部屋がある不思議さも忘れ、ポツリと零れた言葉に返ってきた声に、「はて?」と思いながらイヴァニエを見上げた。
「嬉しいの…?」
「ええ、ここは私の私室ですから」
「……え?」
思ってもいなかった発言に目を丸くしていると、ドアノブを握った手にイヴァニエの手が重なり、大きく扉が開かれた。
「ようこそアニー、私の離宮へ」
扉一枚を隔てた境界線の上に立ち、開かれた扉の先と、にこやかに微笑むイヴァニエの顔を交互に見つめながら、ポカンとしたままその場に立ち尽くした。
「……イヴの、お部屋?」
「ええ、そうです」
「……どうして、ここに、イヴのお部屋があるの…?」
「繋げたからですね」
「繋げた…」
自分の理解の範疇を超えた内容にパチパチと目を瞬いていると、ルカーシュカが状況を教えてくれた。
「前に、俺達の離宮に遊びにおいでって言っただろう?」
「…うん」
「アニーはまだ外を歩くのも怖いだろうし、なにより俺達の離宮はここと少し離れてるからな。部屋と部屋を繋げた方が、アニーだけでも簡単に行き来ができるし、なにより俺達も安心だ」
「そのために繋げたんだよ」と言われ、ますますポカンとしてしまう。
(粛法って、こんなこともできるんだ…)
未知の世界に理解が追いつかず、なんでもないことのように語るルカーシュカに頷き返すのが精一杯だった。
「すごい…ね」
「すごいな。…イヴァニエ、一旦閉じてくれ」
「仕方ありませんね」
ゆるゆると閉じられていく扉の先、少しずつ見えなくなっていくイヴァニエの部屋を不思議に思いながら、パタリと締め切った瞬間、扉は元の色形へと変わり、ビクリと肩が跳ねた。
「戻った…」
「うん、じゃあ次は、星の飾りに触ってみようか」
ルカーシュカに促され、なんとなく予想できた先を思い浮かべながらそっと手を伸ばせば、先ほど同様、パッと扉がその姿を変えた。
今度は元の扉よりも更に白い、眩しいほどの純白に銀の装飾が施された美しい扉が現れた。
「開けてごらん」
「…うん」
ここまで来れば、この先に何があるのかはもう分かる。ワクワクとドキドキを混ぜ合わせた気持ちでゆっくりと扉を開けば、その先に見えたのは、イヴァニエの部屋とは異なる空間だった。
「わぁ…」
壁も床も、どこまでも純白な室内の光景に思わず感嘆の声が漏れた。
高い高い天井には、星座を描いたと思われる銀の装飾が浮かび、キラリ、キラリと星の瞬きのように輝いていた。奥には大きな硝子窓があり、その向こうには青々とした葉が生い茂る、大きな樹木が根を張っているのが見える。
全体的に純白に染まった部屋の中、置かれた家具やクッションなどの小物は淡い灰色や生成色で統一され、色彩を抑えながらもホッと落ち着くような雰囲気が漂っていた。
「…ルカの、お部屋?」
「そうだよ」
「…ルカのお部屋も、素敵だね」
「ふ、ありがとう」
まじまじと部屋の中を見回しながら、イヴァニエの部屋とはまるで正反対な室内の様子に、少しばかり驚いた。
部屋の好みは反対なのか…と、そんなことを考えながらぼぅっとしていると、ドアノブを握る手にルカーシュカの手が重なり、そっと扉を閉じられた。
パタリと閉じれば、やはり扉は元通りになり、不思議だけれども『こういうもの』として理解することができた。
「これからは、いつでも遊びに来ていいからな」
「え?」
「今みたいに、それぞれの飾りに触れれば私達の離宮と繋がりますから、いつでも遊びに来ていいんですよ」
扉の能力そのものにただただ感心し、用途についてまったく考えが及んでいなかったが、思い返せば「アニーだけでも簡単に行き来ができる」と言われていたことを思い出す。
「…遊びに、行っていいの?」
「勿論。アニーのために用意したのですから、いつでも遊びに来てくだい」
「……うん、ありがとう。イヴ、ルカ、すごく、嬉しい」
『アニーのため』という言葉に、キュンと鳴くような喜びが胸に広がる。
驚きと共に贈られた素敵な贈り物が嬉しくて、喜びを返すように、二人の手をぎゅうっと握り締めた。
「ありがとう。いつも、いっぱい、ありがとう…! でも、あの…こんなにすごいもの…作るの、大変じゃなかった…?」
「アニーに喜んでもらえたのなら、俺達も嬉しいよ」
「私達にとっても、なくてはならない大事なものですし、大変なことはありませんでしたよ。エルダも手伝ってくれましたしね」
「…エルダも?」
パッとエルダに視線を向ければ、はにかむように微笑む彼と目が合った。
「私は、少しだけお手伝いをさせて頂いただけですよ」
「少しでも、いっぱい嬉しいよ。ありがとう、エルダ」
「恐れ入ります」
互いに笑みを交わし、ふわふわとした空気が漂う中、改めて扉に向き直った。
扉に残された飾りはあと一つ。見事な花木が描かれたレリーフを見つめ、確認するように左右を見れば、イヴァニエもルカーシュカもコクリと頷いてくれた。
優しい表情に後押しされ、そろりと手を伸ばしてそれに触れた───次の瞬間、パッと扉が変わるのと同時に、ヒラリと落ちてきた何かが視界に入り、咄嗟に上を向いた。
「あ、わぁ…!」
目の前に現れたのは、流れるような曲線の模様と、いくつもの草花が彫られた桜色の可愛らしい扉だった。
扉の上には、まるで元からそこにあったかのように淡い桃色の花が咲き誇り、鮮やかな緑の蔦や葉が、美しく絡みついていた。
ヒラリ、ヒラリと舞い落ちる花弁は、床へと落ちてしまう前に空気に溶け、一瞬の幻のような儚さを残してふわりと消えた。
「ふゎ…」
この扉の向こう側は、特別な処へと続いている───自然とそう思えるような美しい扉に、ドキドキと胸が高鳴った。
「行きましょう、アニー」
「大丈夫。きっと楽しい一日になるはずだよ」
「うん…!」
隣に並ぶイヴァニエとルカーシュカ、背後に控えてくれているエルダに、僅かな不安や緊張も、消えて無くなっていた。
胸に満ちるのは、今からたくさん触れるであろう、いくつもの『初めて』への喜びと好奇心。そして、純粋な楽しみだった。
(…初めて窓の外に出た時も、こんな気持ちだったかな)
澄んだ青空と、どこまでも広がる外の世界に誘われ、窓の外へと踏み出た遠い日の記憶。
あの時よりもずっと弾む胸と逸る気持ちを抑え、ゆっくりとドアノブに手を掛けた。
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