天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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「では、私とアニーは中から結界を張りますね」
「…言っておくが、後で交代だからな」
「分かってますよ」
「アドニス様、私はルカーシュカ様と共にお外にいます。…頑張って下さいませ」
「う、うん」

小声でこっそりと励ましてくれるエルダに、コクリと頷く。
窓からバルコニーへと向かうルカーシュカとエルダを見送り、二人が手摺りを飛び越える姿を見届けると、隣に寄り添って立つイヴァニエにそっと腰を抱かれた。

「アニー、一緒に頑張りましょうね」
「うん」

今から離宮代わりとなった自室に結界を張る───という名目で、イヴァニエとルカーシュカと一対一で向き合う時間を作ってもらったのだ。

(…好きって、もう一度ちゃんと言う)

エルダが用意してくれた機会を無駄にしないよう、きちんと想いを伝えられるよう、気合を入れるように唇を引き結んだ。



フレールの庭に向かう前日になり、最後の準備として自室に結界を張ることになった。
これは大天使達が住まう離宮には施されている粛法らしいが、他者の侵入等を防ぐものではなく、単に誰が入ってきたのかを認識するものらしい。
ただ一言に『結界』と言っても、どのような性能を求めるかはそれぞれの自由で、織り交ぜる聖気の量や意思によって出来ることは変わるのだそうだ。
とはいえ、自分にそのような力は無く、イヴァニエとルカーシュカが自身の代わりに結界を張ってくれることになった。

「それじゃあ手を握って…少しずつでいいですから、聖気を送ってくださいね」
「はい…!」

二人きりになった部屋の中、イヴァニエと並んでソファーに座ると、彼の片手を両手で包んだ。
いくら代わりに、と言っても丸々すべてを彼らに任せるのは忍びなく、僅かばかりではあるが自分の聖気をイヴァニエとルカーシュカに譲渡することで、微弱ながらも手伝わせてもらえることになった。
結界は部屋の内側と外側から張ることでより強固なものになるらしく、二手に分かれたのだが…もしかしたら、この辺りのこともエルダが調整してくれたのかもしれない。

「…聖気、ちゃんとあげられてる?」
「ええ、きちんと流れてきてますよ」
「良かった…」
「…ありがとう、アニー。でも、無理をしてはいけませんよ?」
「うん」

自分では感覚が掴めず、恐る恐る尋ねれば、柔らかな笑みが返ってきてホッと息を吐く。
イヴァニエの片手をぎゅうっと握り締め、聖気が自分の体からイヴァニエの体に流れていくことを想像しながら、彼の粛法の一部になりますようにと強く念じる。
皆から聞いた話だが、自分の聖気は感情の揺らぎによって動くらしく、他者に譲渡すること自体は難しくないとのことだった。ただ聖気の量そのものが少ないので、簡単に外に放出しないようにと、二人から贈られた腕輪には流出を制御する力も籠められているらしい。
それ故に、聖気を譲渡するには強く念じることが必要で、今は意図的に願わない限り、体外に漏れることはないそうだ。

(イヴのお手伝いができますように…)

瞳を伏せ、両手で包み込んだイヴァニエの手に意識を集中させる。程なくして、胸元で抱き締めるように握っていた指先が、手の平の中で動いたような気がしてパッと顔を上げた。

「…?」
「いっぱい頑張ってくれて、ありがとうございました。もう充分ですよ、アニー」
「……もういいの?」
「ええ、たくさんもらいました」

直後、イヴァニエの手の平から金色の光が零れ、それが細い線となり、細かな細工となって部屋全体を包んだ。空中に絵を描くように、ふわりと広がった光に目を奪われていると、不意に腰を抱き寄せられた。

「わっ…!」

勢いのままイヴァニエに凭れ掛かってしまい、反射的に体を起こそうとしたが、腰に回された腕の力は存外強く、言葉はなくとも離れることを拒まれていることが分かった。

「…イヴ?」
「聖気を失った分、アニーはご飯を食べないといけませんからね」

そう言って、イヴァニエがテーブルの上に用意されていた果物の実を一粒手に取った。
エルダが事前に用意しておいてくれた果実は、聖気を譲渡する代わりに食べることを約束していたものだ。
聖気を譲渡すれば、当たり前だが体内に宿す聖気は減る。ただでさえ少ないらしい自分の聖気を減らすことに難色を示した三人から、譲歩案として出されたのが、即座に栄養素を補給することだった。

「はい、あーん」
「ヘ…?」

…のだが、周囲でキラキラと輝く光の粒すら霞むような美しい笑みを浮かべるイヴァニエと、口元に差し出された果実に固まった。

「あ、あの…イヴ…?」
「食事を摂ることが約束だったでしょう?」
「や、約束……だけど…でも…」
「ほら、お口を開けて下さい」
「え、ぅ…」

唇に触れるか触れないか…ギリギリの所まで寄せられたイヴァニエの指に、硬直したまま動けなくなる。
ほんの少しでも動いたら、長く整った指先に唇が触れてしまう───意識した途端に押し寄せた恥ずかしさに、無意識の内に身を引けば、美しい笑みを浮かべていたかんばせに影が落ちた。

「…アニー、嫌ですか?」
「やっ、や…じゃない…けど…」
「じゃあ、食べられますか?」
「え…と…」
「ほら、あーんですよ」
「ぅ……っ、ぁ…」
「…このままだとアニーには大きいですね」
「え?」

じわじわと熱くなる顔面に耐え、なんとか口を開けたのだが、なぜか僅かに唇に触れていた果実は口元から離れてしまった。薄く唇を開けたまま拍子抜けしていると、イヴァニエが摘んだ果実を半分齧ってしまった。

「!」
「うん…これくらいなら食べやすいでしょう」

その言葉に、半分齧られた果実の意味するところを理解してしまい、心拍数が跳ね上がった。

「さぁ、もう一度、お口を開けて下さい」
「うぅ…っ」

多少大きくても数口に分けて食べればいいのではないだろうか?
これは甘やかされているのとは違うのではないだろうか?
ぐるぐると巡る思考の中、小さくなった果実を持つイヴァニエの指先が唇に触れ、ピクリと体が跳ねた。

「アニー、あーんですよ。できますか?」
「ぅ……ぁ…、んっ」
「はい、良い子ですね」

手ずから食べさしてもらう行為も、彼が齧った食べ物を口にすることも、唇に触れた指先も、甘く囁かれる言葉も…全部が全部恥ずかしくて、なんとか口を開けることはできたが、咀嚼をするどころではない。
口の中に転がった果実は瑞々しく、きっと美味しいはずなのに、味覚を上回った羞恥に味なんて分からなかった。
「くぅ」と鳴った喉の音を誤魔化すように、ゆっくりと顎を動かせば、口の中でじゅわりと果汁が溢れ、少しだけ気持ちが落ち着いた。
だがその視界の端で、イヴァニエがまた果実を手に取っている姿が見え、思わず口元を両手で覆ってしまった。

「どうしました?」
「…っ、も、もう、食べたよ…?」
「一粒の半分だけ、ね。いけませんよ、アニー。ちゃんと食べましょうね」
「~~~っ」

にこやかな笑顔に反して抱き寄せられたままの腰はビクともせず、再び差し出された果実に、声にならない悲鳴が漏れた。



「頑張りましたね、アニー」
「……ぅん」

結局、最初から最後までイヴァニエと果実を半分に分け合い、四粒食べ終えたところで許してもらえたが、半泣きになりながら食べた果実の味はもう覚えていなかった。

「お顔が真っ赤ですね」
「ん……」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっとだけ意地悪でしたね」

そう言いながら頬を撫でる感触と声は優しくて、ホッと息を吐いて辺りを見回せば、部屋全体に広がっていた光はいつの間にか消え、いつもと変わらぬ風景に戻っていた。
少しずつ落ち着き始めた鼓動に合わせ、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、ぴたりと密着したままのイヴァニエを見上げれば、ニコニコと笑う瞳と目が合った。

(…なんだか、嬉しそう)

元々柔和な表情をしているイヴァニエだが、今日はいつにも増して笑顔な気がして、ついまじまじと見つめてしまった。

「どうしました?」
「…イヴが、嬉しそうだなって…」

思ったままに伝えれば、一呼吸置いてイヴァニエがより深く微笑んだ。

「ええ、アニーを独り占めしていますからね」

独り占め───その言葉に含まれた愛情と、どこか背徳感を含んだような響きに、ドキリと胸が鳴った。よくよく思い出せば、こうして彼と二人きりで過ごすのは今日で二回目だ。

(独り占め…)

どうしてか少しだけいけない気持ちになる響きにソワソワとしながら、それは今の自分にも当て嵌まっていることに気づき、自然と口元が緩んだ。

「じゃあ…私も、イヴを独り占めだ」

そう言葉にすれば、何故だか妙に嬉しくて思わず笑ってしまったのだが、同時にイヴァニエの表情からは微笑みが抜け落ち、固まってしまった。

「…? イヴ?」
「…あなたという子は、本当に…」
「ダメ…だった…?」
「……いいえ。とっても嬉しい言葉を聞けましたが…困りましたね」
「う……ん…?」

うっすらと眉根に皺を寄せ、泣きそうな表情のイヴァニエに、オロオロとするばかりで何もできない。
言い方を間違えてしまっただろうか? だが彼も同じことを言っていたし…と目を泳がせていると、頬を包み込むように片手が添えられた。

「…イヴ?」
「アニー、あんまり可愛いことを言ってはダメですよ」
「…イヴも、言ってたよ?」
「……そうですね。でも、私とアニーの『独り占め』は、少し違うかもしれません」

───瞬間、それまで恥ずかしさの陰に隠れ、どこかに飛んでいた本来の目的を思い出しハッとした。

(…同じじゃ、ないの?)

自分とイヴァニエの言う『独り占め』は別物なのだろうか?
『好き』だから『独り占め』が嬉しいと思うのではないのだろうか?
哀愁すら感じるイヴァニエの微笑みと、「違うかもしれない」という一言に、ザワリと胸が騒ぎ、不安が顔を覗かせた。
だが気持ちを言葉にして伝えたいという想いは変わらず胸にあり、今がその時だ…! と、意を決して口を開いた。

「あ…あの…っ」
「はい」
「お…おんなじじゃ、ないの…?」
「…同じ、ですか?」
「だ、だって……その…」

気持ちを言葉にするのは、とても勇気がいる。でもきっと、この気持ちは自分でちゃんと言わなければいけない。
知らぬ間に激しく脈打っていた心臓を抑えながら、くっと息を飲み込んだ。


「す…好き、だから…、独り占め、…嬉しいって、思った、よ…?」


ああ、言ってしまった…!
じんわりと熱を帯びた瞳と、震えてしまった語尾が情けなかったが、それでもなんとか言葉にすることが出来た。
ドクドクと鼓動する心臓が苦しくて、どんな反応されるのかが怖くて、堪らず俯きながらも、一度溢れた感情は口から零れ続けた。

「ち、違うなら…ごめんなさい…、でも…あの…自分は、イヴのこと…す、好き、だから…独り占めも、嬉しいって…思った、よ…」

そこまで言って言葉を区切るも、イヴァニエからの返事はない。なんの反応もないことが恐ろしくて、勝手に震えそうになる体を必死になって堪えた。

「ご、ごめんなさい…! あの…ま、ちがえちゃった、かも…っ!?」

このままでは泣いてしまう───反射的に立ち上がって逃げようとした衝動は、僅差のところで働いた別の動きによって阻まれた。

「ぁわっ!?」

グラリと脳が揺れるような感覚に襲われ、身を固くしたのも束の間、ほんの一瞬の間に変わった視界と、背や後頭部に当たる柔らかなクッションの感触に、パチリと目を瞬いた。

(………あれ?)

驚愕よりも、突然の出来事に脳が混乱し、逆に冷静になってしまう。
ふかふかとした感触に安心感を覚えつつ、何故いきなり後方に倒れ、寝転んでいるのか…今の状況を整理しようと脳が緩く動き始めるのと同時に、見上げた視界いっぱいにイヴァニエの姿が映り、ビクリと体が跳ねた。

「…イヴ…?」

(……もしかして…イヴに倒された…?)

ようやくその考えに思い至るも、現状が変わる訳でもない。見上げたイヴァニエの表情は少しだけ怒っているように見えて、僅かに体が竦んだ。

「イヴ…? ど、したの…?」
「……可愛いことを言ってはダメだと、言ったでしょう?」
「へ?」

やっと返ってきた声は思いのほか柔らかく、ただどこか硬質的で、戸惑いばかりが増えていく。

「本当に…これでも我慢をしているのですよ」
「ん…う…?」

独り言のように、頭上からポツリと落ちてくる声に首を傾げるのと同じく、緩くのし掛かるようにイヴァニエの体が覆い被さり、綺麗な顔がより近くなった。

「っ…」
「……怖いですか?」
「う、うぅん…っ」

突然のことに驚き、反射的に身を固くしてしまったが、怖くはない。ふるふると首を横に振れば、イヴァニエが僅かに瞳を細めた。

「…アニー、無理をしなくていいんですよ」
「こ、わくない、よ…」
「…アニーは私に押し倒されているんですよ? 分かっていますか?」
「わ、わかってる…」
「……怖くないの? このまま、私に何かされたらどうするんです?」
「…?」

(…何かって、なんだろう?)

イヴァニエの質問の意図が分からなかったが、それでも答えられることがあった。

「…イヴなら…何かされても、いいよ…?」
「く…っ」
「わっ!」

瞬間、イヴァニエが顔を伏せ、自身の胸元に顔を突っ伏した。
伽羅きゃら色のサラリとした髪が擽るように肌の上を滑り、薄い布越しにイヴァニエの熱い吐息が伝わる。
吐き出された息の熱を今まで感じたことのなかった部位で感じたことで、初めて今の距離感が抱き合う時のそれとは異なる、特別な何かを孕んでいることに気づき、ドキリと心臓が跳ねた。

(あ、あれ…? 何かって…大変なことなのかな…?)

ドキドキと激しく脈打ち始めた心臓に比例するように、イヴァニエと密着している部分から、全身に熱が広がっていく。
それでいてのし掛かる体重は不思議と心地良く、衣服越しに伝わる体温に安心する自分がいた。
素肌に触れる髪の毛一本ですら彼の熱を含んでいるようで、緊張と恥ずかしさで体は熱いほどなのに、指先は無意識の内に彼に触れようと、その服の端を掴んでいた。

「あ…ゎ…っ!?」

キュッと握った服の端、まるでそれに応えるように、苦しいと思うほど強く抱き締められ、少しだけ息が詰まった。

「…っ」

腰を抱き、背に巻き付いた両腕がぎゅうぎゅうと体を締め付け、身動きが取れないほどだった。

「イヴ…?」

恐る恐る声を掛ければ、ゆっくりとイヴァニエが顔を上げた。その顔にいつもの微笑みは無く、色気を帯びた初めての眼差しに、堪らず息を呑んだ。

「……アニー」
「…はい」
「私のことが好きですか?」
「っ…!」

あまりにも直球な質問にカァッと顔が熱くなったが、気持ちを誤魔化すつもりも、答えを濁すつもりも無く、恥ずかしさを我慢してコクリと頷いた。

「…ん、…す、好き…」
「…その好きは、私と同じだと思った?」
「う、う…ん…、でも…わ、かんない…」
「…こうして抱き締めるのは? どう思いますか?」
「…うれしい」
「それは好きだから?」
「…うん」

コクンと頷けば、そこでようやくイヴァニエが笑ってくれた。

「……私も、好きです。大好きですよ、アニー」
「…っ」

『好き』
久しぶりに耳にしたその言葉が無性に嬉しくて、胸がキュウッと切なく鳴いた。

「…でもね、アニー。それだけじゃ足りないんです」
「…?」

イヴァニエが上体を起こし、体に巻きついていた長い腕がゆるりと解けた。しなやかな腕が伸び、頬に手の平が添えられると、自然とイヴァニエと見つめ合う形になった。


「愛しています、アニー」


───ズクリと、体の真ん中を突き抜けた何かに、吸った息を吐き出すことすら忘れた。

「愛していますよ、アニー。きっとあなたが思うよりずっとずっと、私はアニーが大好きです」
「…っ」

目が眩むような美しい微笑みで、耳の奥を溶かすような甘い声で、縋りつきたくなるような優しい手付きで囁かれた熱に、はくりと息を噛んだ。

「もっとずっと、アニーと一緒にいたいです。ずっと抱き締めていたいし、もっといっぱい触れていたい。…叶うならば、もっと深く交わりたい」
「…ぁ……」
「アニーが嫌だと思うことをするかもしれません。酷いことをしてしまうかもしれません。…それでも、同じ『好き』だと言ってくれますか?」
「え…ぅ…」

イヴァニエの言葉に対して、感情も思考も追いつかない。
嫌なこととはなんだろう? 酷いこととはなんだろう?
茹った頭と、大きく揺さぶられた感情にすぐに言葉が返せなくて、じわりと視界が滲んだ。

「わ、わか…な…」
「ああ、アニー……ごめんなさい。意地悪な言い方を…」
「ち、ちが…、わ、分かんない…けど…っ、でも……す、好きだから…っ」
「…アニー」
「だ、抱き締めてもらうのも、いっぱい…一緒に、いたいのも…おんなじだよ」
「…酷いことをしても?」
「…っ、…わ、かんない…けど…でも……」
「うん」
「…イヴは、酷いこと…しないよ…」
「……ふふ。ええ、そうですね。私も、アニーに嫌われたくありませんから、酷いことはしないように気をつけますね」

くすくすと笑うイヴァニエに、いつの間にか強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
安堵すると共に、頬に添えられた手の平に顔を寄せれば、その指先が唇の端をそっと撫でた。

「…ん?」
「ねぇ、アニー…キスをしてもいいですか?」
「ッ…!」

一拍遅れて脳に届いた言葉に、ついキュッと唇を結んでしまった。

「…嫌?」
「う、うぅん…! あ…」

途端に憂い顔になったイヴァニエに、反射的に首を振ってしまったが、これでは自らキスを求めているのと同義だということに気づき、カッと耳が熱くなった。

「嫌じゃないですか?」
「ぅ…うん…」
「キスしてもいい?」
「…う、ん…」
「…本当に?」
「ん…!」
「ふ…嬉しいです」
「…っ」

羞恥心に耐えコクコクと頷けば、両手で頬を包まれ、恥ずかしさから俯いていた顔を無理やり上向きにされた。
至近距離で見つめるイヴァニエの顔は信じられないほど綺麗で、嬉しそうで、目を逸らしたいのに逸らせなくて、いよいよ耐え切れずにギュッと目を瞑った。

「うぅ…っ」
「ふふ、耳まで真っ赤にして…可愛いですね、アニー」
「やっ…、み、見ない…っ」
「顔を見ないとキスできませんよ? ……愛しています、アニー」
「んっ…」

殊更愛しげに呟かれた言葉と共に、驚くほど柔らかな唇が、ゆっくりと自身の唇に重なった。

互いの唇が触れた瞬間、バクバクと痛いほど脈打っていた心臓が、一瞬だけ止まったような気がした。
ほんの少し触れただけで唇は離れてしまったが、初めての行為に、告白でいっぱいいっぱいだった頭は許容量をとうに越え、クラクラと眩暈すらしてきた。

「ふっ…、ふぅ…っ」
「…そんなに唇を閉じていたら、苦しいでしょう?」
「う…」
「少しだけ口を開いて……そう、良い子ですね」
「ぁ……ん…、」

言われるがまま薄く開いた唇の隙間を埋めるように、二度、三度と角度を変え、何度も唇が重なる。そのたびに少しずつ触れ合う時間は長くなり、口づけは深くなった。

「ふ…、ぅ…」
「…愛しています」
「んぅ…」
「愛してる……愛しています、アニー」
「好き……、大好き、だよ…イヴ…」

唇が離れる僅かな間に紡がれる愛の言葉が、全身を満たしていく。
嬉しくて泣きたくなるような、恥ずかしくてどこかへ隠れたくなるような、幾つもの感情が混じり合った胸は限界で───溢れた気持ちはそのまま涙と声になって、体から零れ落ちた。



「アニー、大丈夫ですか?」
「うん…」

何度目かの口づけを交わした後、許容量を大幅に超えた行為と感情に根を上げ、自分が泣き出してしまったことでキスは仕舞いとなった。

「ごめんね…」
「謝ることなどないですよ。いっぱい頑張ってくれて、ありがとうございます」

ソファーに座り直し、改めて寄り添ったイヴァニエはとても嬉しそうで、その笑みに胸がポカポカしてくる。

「…結界は、もういいの?」
「ええ、後はルカーシュカに任せて大丈夫ですよ」
「…うん」
「…離れたくありませんが、彼と交代しなければいけませんね」

ぎゅっと再び強く抱き締められ、こめかみにそっと唇が落ちた。

「…ルカーシュカとも、お話しするんですね?」
「…うん」
「じゃあ、その後でまた、皆で一緒にお話ししましょう」
「うん」

言葉を交わす間も、頬や目元に何度もキスを受けた。その感触が擽ったくて、少しだけ気恥ずかしてされるがままになっていると、ふとあることを思い出し顔を上げた。

「イヴ」
「どうしました?」
「酷いことって…痛い?」
「……いいえ。痛くないですよ」
「…怖い?」
「……怖くならないように、努力したいと思います」
「…??」

気になる言い方に首を傾げれば、にっこりとした微笑みが返ってきた。

「そのお話は、ルカーシュカとしましょうか」
「…ルカと?」
「ええ。私がお話しすると、アニーに意地悪なことを言って、いじめてしまうかもしれませんからね」

サラリと言われた言葉に、パチリと目を瞬いた。

(…イヴは…ちょっとだけ、意地悪なのかな?)

共に過ごす中でうっすらと感じていたことだったが、本人の口から言われ、妙に納得してしまった。
ただそんなところも愛おしく、嬉しいと思ってしまうのは、きっと彼のことが好きだからで───ふわふわと浮き立つ気持ちのまま、へにゃりと笑い返した。

「…いじめても、いいよ?」

意地悪だなんて思ってないから、なんでも言ってほしい。
そんなつもりで言ったのだが、イヴァニエからの反応は鈍かった。

「………アニー、あんまり可愛いことを言ってはダメだと言ったでしょう」
「う…?」
「本当に…愛らしすぎて困った子ですね。…これから少しずつ、色々お勉強していきましょうね?」
「…うん」

どうやら言い方を間違えてしまったらしい。
困ったように微笑むイヴァニエを前に、好意を伝えることの難しさを痛感しながら、こっくりと頷いた。
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