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フォルセの果実
閑話 ある天使の小噺
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こちらは27話にてエルダくんが「話し方を真似をさせてもらおう」と考えていた『彼』の小噺です。
◇◇◇◇◇◇
「ひゃっ!?」
「おっと」
パァッと広がった光に驚き、目を逸らすように体を仰け反らせるアドニス様と、その体を支えるバルドル様。そのお姿を視界に捉えながら、目を見開いたまま固まった。
かくいう自分も、授花の放った光の強さに驚いたが、それはアドニス様のそれとは異なった意味合いであり、驚愕というよりも圧倒された、と言う方が正しかった。
(……なんて、美しいのでしょう)
八年に一度、その代のフォルセの果実を決める授花。その場面を、これまで何十回と目にしてきた。
フォルセの果実が選ばれる瞬間、淡い光を放つ授花はとても美しく、気持ちがとても高揚した…が、たった今見た輝きは、それらを凌駕するほどの衝撃だった。
純天使達を育む特別な果実。その実を実らせることのできる大天使様を、それが誰であっても、自分は尊敬していた。
誰にでも務まる役目ではない。母なる母提樹に選ばれ、父なるバルドル様の代わりに幼な子達の成長を手助けし、見届ける。
それはとても素晴らしいことで、フレールの庭でフォルセの果実を食べる純天使達と、その様子を愛おしげに眺めている大天使様のお姿は、なにより尊いものに見えた。
だからこそ、その役目を担う大天使様を自分は心から尊敬していたし、例え一代限りであっても、役目を次代に引き継いだ後になっても、一度抱いた念が消えることはなかった。
フォルセの果実を担う方を、皆等しく尊敬していた。そのはずだったのに…
眩いほどの美しい光を放った授花に、全身が粟立ち、ふるりと身が震えた。
同時に芽生えた、アドニス様に対するほんの少しの憧憬と、強い敬仰の念。
尊敬という言葉では足りないほどの何か…凡そ言葉にし難い感情は、“等しく尊敬している”と自負していた考えすら揺らした。
授花を通して、まるで母提樹が祝福しているかのような、思わずそんなことを考えてしまうほどの輝きは、今まで一度だって見たことがない美しさだった。
煌めく真白い光は、我が子にようやく出逢えた母なる大樹の喜びを現しているかのようで、ジンと胸が熱くなった。
困惑しながらも『自分にもできることがある』という点を純粋に喜んでおられるアドニス様は微笑ましく、バルドル様の横に控えたまま、そのお姿を見つめた。
その視界の端、ただ一点に視線を集中させる彼の姿が見え、自然と口元が緩んだ。
(…良き関係を築けた様ですね)
たどたどしいながらも、懸命にバルドル様と言葉を交わされるアドニス様を見て、随分と前に彼から話し掛けられた時のことを思い出した。
「オリヴィア」
「はい?」
宮廷の回廊を歩いていると、不意に背後から声を掛けられた。振り向き、声の主を確認すれば、そこには翠色の瞳が特徴的な、華奢な体躯の天使が立っていた。
(彼は確か……イヴァニエ様のところの子ですね)
意外な人物から声を掛けられたことに少しばかり驚きつつ、それは表には出さずに言葉を返した。
「どうしました?」
正直、彼と会話らしい会話をするのはこれが初めてだ。
片手で数える程度しか言葉を交わしたことはなく、それも全て業務連絡のようなものを自分から伝えただけの関係。彼からの返事はいつも、「分かった」という一言だけだったと記憶している。
「……少し、頼みがある」
「私にですか?」
コクリと頷く彼に、正直驚く。
親しいとはお世辞にも言い難い間柄で…というより、他者との関わりに全く興味を示さない彼がそんなことを言ってきたことに驚いた。一体何を…と若干身構えつつ、体の向きを変え、言葉の続きを促した。
「どういった頼みか、お伺いしても?」
「……少し…おかしいことかもしれないんだが…」
「はい」
「…話し方を、真似させてほしい」
「…はい?」
これっぽっちも予想してなかった頼みに、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「話し方…ですか? 私の?」
「そうだ」
「はぁ……えっと、因みに何故でしょう?」
素朴すぎる疑問に首を傾げれば、彼が僅かに眉根に皺を寄せ、そっと視線を逸らした。
「…今、お仕えしている方に対して、私の喋り方ではあまり…合っていないように思えて…」
「お仕えしている?」
それはイヴァニエ様のことでは───そこまで考え、はたとあることを思い出す。
(そういえば、アドニス様のお側に、イヴァニエ様の従者を一人付けたと仰っていましたが……もしや彼のことでしょうか)
アドニス様の様子がおかしいとご報告を受けたのは、つい最近のことだ。
アドニス様の世話を頼んでいた者達の自分勝手な言い訳と怠慢に、バルドル様は大層お怒りになり、その者達はバルドル様付きの従者から外された。
バルドル様や大天使様の従者として仕える者は次代の大天使候補であり、大天使まで成長することを望んでいる者が多い。
裏を返せば、今回のことで側仕えの役目を解かれた者達は、必然的に大天使候補からも外されたことになる。
与える罰としては、アドニス様のことを考えれば軽いが、当人達にとってはとても重いものとなったはずだ。
(しかし、そうすると彼は、アドニス様の為に、自身の口調を変えたいということですか)
話し方が合っていないとは言え、言葉遣いが崩れている訳でもないだろうに…と思ってしまうのは自然なことだった。
「一応聞きますが、お仕えしている時のあなたの言葉遣いに、問題はない様に思うのですが」
「…問題はない。でも、違うんだ」
「…こう言ってはアレですが、私も丁寧に話しているだけですよ? それほど特徴がありますか?」
「特徴というか……あの御方には、合っていると思う」
「…もう一度言いますが、丁寧に話しているだけですよ?」
なんならイヴァニエ様の言葉遣いだって、柔らかで丁寧だ。自分と大差無いだろう。にも関わらず、あえて「喋り方を真似させてほしい」と言って、その上でわざわざ許可まで求めてくることが不思議だった。
「…悪い。おかしなことを───」
「ああ、待って下さい。別に嫌だという訳ではないんですよ。どうぞ…というのもおかしな話ですが、私の喋り方が何かのお役に立つのであれば、どうぞ活用なさって下さい」
「……ありがとう」
(おや?)
ホッと息を吐く彼の表情が、どこか微笑んでいるように見えて、パチリと目を瞬く。
よくよく観察すれば、纏っている空気は柔らかく、優し気な雰囲気に変わっている気がした。
仕える主の為に、己を変えたい───それは主への敬愛の表れであり、そう思えるほどにアドニス様を想い、慕っているという証だ。
(…良いことですね)
感情というものをほとんど感じさせず、機械的だった彼に、初めて感じた温かみにフッと頬が緩んだ。
同時に彼がこれほどに傾倒するアドニス様とは、一体どのような変わり様なのだろうと、少しばかり興味が湧いた。
今までのアドニス様の振る舞いに思うところは多々あるが、それはそれ、これはこれだ。
彼が喋り方一つにも気を配るほど、繊細な精神状況なのかもしれないが、それでもきっと、アドニス様のことを想い、尽くそうとするお気持ちが伝われば、良い方向へと変わられるはずだ。
頼み事とも呼べない頼み事だけ聞き、短い会話を終えると彼とはその場で別れた。
きっとこれからアドニス様の元へと向かうのだろう。足取りすら嬉しげに踵を返す彼の姿に、自分まで心が弾んだ。
(いつか、お会いするのが楽しみですね)
胸の片隅で、ほんの少しだけアドニス様と再会できるいつかの日を願いながら、再び歩き出した。
それが約半年ほど前の話。そうして今、ようやくアドニス様との再会を果たした。
(この場合は、再会とは言えないのでしょうが…)
胸に滲んだ苦いものは飲み込み、努めて表情を作ると、浅く息を吐き出した。
穏やかに続くバルドル様とアドニス様の会話に耳を傾けながら、今はただ彼…エルダが支え続け、イヴァニエ様とルカーシュカ様が守ってきたアドニス様のこれからが、平穏に続くことを願うばかりだった。
(フレールの庭で、プティ達と共に過ごすアドニス様のお姿を見れないのが残念ですね)
己にとってなによりの癒しの光景を見れないのは寂しいが、アドニス様が新たな環境に少しずつ馴染んでいけば、いつかフレールの庭への立ち入りも許される日が来るだろう。
それまではアドニス様の守護者達とバルドル様のやりとりに目を光らせなければ…と、静かに気合を入れる。
フォルセの果実に選ばれたアドニス様への敬仰の念はあれど、それは敬慕と憧憬を混ぜ合わせたような感情だ。
間違ってもアドニス様を抱き寄せるバルドル様に、顔を顰めている御三方の熱を込めた情とは別物だ。そのような甘い感情ではない。
問題はバルドル様だ。今は、亡きアドニス様への悲しみと後悔、理不尽な苦痛を与えてしまったアドニス様への罪悪感と慈しみの情で、感情が激しく揺れ動いているのだろうが、それが落ち着いた頃に、アドニス様にどのような感情を抱くのか…少しばかり不安だ。
(御心の悲しみが、一日でも早く晴れてほしいとは思いますが…)
バルドル様は他の者達よりも少しだけ、『感情』に対して鈍感だ。
それは神故に、神だからこそ、鈍感でなければいけないからだ。
人間界では、一日に何万という命が儚く消えていく。
その中では悲惨で、凄惨で、ただただ惨たらしいだけの死も多くある。
生死だけではない。諍いや争いが絶えず、混沌とした日々が続く時だってある。
そのたびに心を痛め、嘆き、憂いていては、いつか神自身の心が壊れてしまう。
神の崩壊は世界の崩壊に繋がる───それ故に、バルドル様の感情や感覚は、他よりも僅かに鈍く、物事の捉え方もざっくりとしたものにならざるを得ないのだ。
『神』とはそういうものであり、我々とは明らかに違う生き物なのだ。
亡きアドニス様に対する裁きが最たる例だろう。
他の者達の怒りが限界に達するまで、バルドル様はその『怒り』を同じ熱量で感じ取れなかった。
与えた罰に対する重さは理解できても、それ故にアドニス様の命を奪ってしまったことに嘆き悲しんでも、取り乱すこともなく、落ち着いて見えるのは、それ以上に感情が揺れることすら困難だからだ。
本当は誰よりも酷く悲しみ、深く傷つき、己の行いに心を抉られるほど悔いているのに、涙を流すことすら許されない───それが、我らが神だ。
それに対して、自分がどうこう思えることはない。
ただ今心配なのは、アドニス様に心を砕き、可愛がるあまり、妙な方向に意識が逸れないか…という点だ。
物事の捉え方がざっくりということは、愛情の種類や表現に対しても適用される。
その上で、悲しみや憂いに関しては鈍感だが、それを補うように愛情深さは人一倍だ。…正直な話、アドニス様の頬や頭を撫でる手付きに、先ほどからずっとヒヤヒヤしている。
(嫌ですよ…バルドル様がアドニス様を可愛がるあまり、彼らの怒りを買うなんて未来)
謀反でも叛逆でもなく、一人の天使を巡って神と大天使が争うなど、冗談でも笑えない。
(…バルドル様とアドニス様を二人きりにさせない様、気をつけなくてはいけませんね)
人知れず心の中で決意しながら、バルドル様の腕の中で眠りに落ちてしまったアドニス様のお姿を見つめる。
(次にお会いできるのは、いつになるでしょう)
目の前にいるのに、既に次の再会に思いを馳せている自分に気づき、苦笑が零れた。
決して淡い感情を抱いている訳ではないのに、それでも次はもう少し会話ができたなら…と、ついそんなことを思ってしまう。
フォルセの果実としてお務めされるアドニス様を間近で見られるエルダを、ほんの少しだけ羨ましく思いながら、彼がアドニス様の為に尽くした努力が実った今を、心から嬉しく思った。
それから暫く後、久しぶりにお会いしたアドニス様に、「エルダとオリヴィアは似てるね」と言われ、エルダの『頼み事』を思い出して笑ってしまうのは、もう少し先のお話。
◇◇◇◇◇◇
「ひゃっ!?」
「おっと」
パァッと広がった光に驚き、目を逸らすように体を仰け反らせるアドニス様と、その体を支えるバルドル様。そのお姿を視界に捉えながら、目を見開いたまま固まった。
かくいう自分も、授花の放った光の強さに驚いたが、それはアドニス様のそれとは異なった意味合いであり、驚愕というよりも圧倒された、と言う方が正しかった。
(……なんて、美しいのでしょう)
八年に一度、その代のフォルセの果実を決める授花。その場面を、これまで何十回と目にしてきた。
フォルセの果実が選ばれる瞬間、淡い光を放つ授花はとても美しく、気持ちがとても高揚した…が、たった今見た輝きは、それらを凌駕するほどの衝撃だった。
純天使達を育む特別な果実。その実を実らせることのできる大天使様を、それが誰であっても、自分は尊敬していた。
誰にでも務まる役目ではない。母なる母提樹に選ばれ、父なるバルドル様の代わりに幼な子達の成長を手助けし、見届ける。
それはとても素晴らしいことで、フレールの庭でフォルセの果実を食べる純天使達と、その様子を愛おしげに眺めている大天使様のお姿は、なにより尊いものに見えた。
だからこそ、その役目を担う大天使様を自分は心から尊敬していたし、例え一代限りであっても、役目を次代に引き継いだ後になっても、一度抱いた念が消えることはなかった。
フォルセの果実を担う方を、皆等しく尊敬していた。そのはずだったのに…
眩いほどの美しい光を放った授花に、全身が粟立ち、ふるりと身が震えた。
同時に芽生えた、アドニス様に対するほんの少しの憧憬と、強い敬仰の念。
尊敬という言葉では足りないほどの何か…凡そ言葉にし難い感情は、“等しく尊敬している”と自負していた考えすら揺らした。
授花を通して、まるで母提樹が祝福しているかのような、思わずそんなことを考えてしまうほどの輝きは、今まで一度だって見たことがない美しさだった。
煌めく真白い光は、我が子にようやく出逢えた母なる大樹の喜びを現しているかのようで、ジンと胸が熱くなった。
困惑しながらも『自分にもできることがある』という点を純粋に喜んでおられるアドニス様は微笑ましく、バルドル様の横に控えたまま、そのお姿を見つめた。
その視界の端、ただ一点に視線を集中させる彼の姿が見え、自然と口元が緩んだ。
(…良き関係を築けた様ですね)
たどたどしいながらも、懸命にバルドル様と言葉を交わされるアドニス様を見て、随分と前に彼から話し掛けられた時のことを思い出した。
「オリヴィア」
「はい?」
宮廷の回廊を歩いていると、不意に背後から声を掛けられた。振り向き、声の主を確認すれば、そこには翠色の瞳が特徴的な、華奢な体躯の天使が立っていた。
(彼は確か……イヴァニエ様のところの子ですね)
意外な人物から声を掛けられたことに少しばかり驚きつつ、それは表には出さずに言葉を返した。
「どうしました?」
正直、彼と会話らしい会話をするのはこれが初めてだ。
片手で数える程度しか言葉を交わしたことはなく、それも全て業務連絡のようなものを自分から伝えただけの関係。彼からの返事はいつも、「分かった」という一言だけだったと記憶している。
「……少し、頼みがある」
「私にですか?」
コクリと頷く彼に、正直驚く。
親しいとはお世辞にも言い難い間柄で…というより、他者との関わりに全く興味を示さない彼がそんなことを言ってきたことに驚いた。一体何を…と若干身構えつつ、体の向きを変え、言葉の続きを促した。
「どういった頼みか、お伺いしても?」
「……少し…おかしいことかもしれないんだが…」
「はい」
「…話し方を、真似させてほしい」
「…はい?」
これっぽっちも予想してなかった頼みに、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「話し方…ですか? 私の?」
「そうだ」
「はぁ……えっと、因みに何故でしょう?」
素朴すぎる疑問に首を傾げれば、彼が僅かに眉根に皺を寄せ、そっと視線を逸らした。
「…今、お仕えしている方に対して、私の喋り方ではあまり…合っていないように思えて…」
「お仕えしている?」
それはイヴァニエ様のことでは───そこまで考え、はたとあることを思い出す。
(そういえば、アドニス様のお側に、イヴァニエ様の従者を一人付けたと仰っていましたが……もしや彼のことでしょうか)
アドニス様の様子がおかしいとご報告を受けたのは、つい最近のことだ。
アドニス様の世話を頼んでいた者達の自分勝手な言い訳と怠慢に、バルドル様は大層お怒りになり、その者達はバルドル様付きの従者から外された。
バルドル様や大天使様の従者として仕える者は次代の大天使候補であり、大天使まで成長することを望んでいる者が多い。
裏を返せば、今回のことで側仕えの役目を解かれた者達は、必然的に大天使候補からも外されたことになる。
与える罰としては、アドニス様のことを考えれば軽いが、当人達にとってはとても重いものとなったはずだ。
(しかし、そうすると彼は、アドニス様の為に、自身の口調を変えたいということですか)
話し方が合っていないとは言え、言葉遣いが崩れている訳でもないだろうに…と思ってしまうのは自然なことだった。
「一応聞きますが、お仕えしている時のあなたの言葉遣いに、問題はない様に思うのですが」
「…問題はない。でも、違うんだ」
「…こう言ってはアレですが、私も丁寧に話しているだけですよ? それほど特徴がありますか?」
「特徴というか……あの御方には、合っていると思う」
「…もう一度言いますが、丁寧に話しているだけですよ?」
なんならイヴァニエ様の言葉遣いだって、柔らかで丁寧だ。自分と大差無いだろう。にも関わらず、あえて「喋り方を真似させてほしい」と言って、その上でわざわざ許可まで求めてくることが不思議だった。
「…悪い。おかしなことを───」
「ああ、待って下さい。別に嫌だという訳ではないんですよ。どうぞ…というのもおかしな話ですが、私の喋り方が何かのお役に立つのであれば、どうぞ活用なさって下さい」
「……ありがとう」
(おや?)
ホッと息を吐く彼の表情が、どこか微笑んでいるように見えて、パチリと目を瞬く。
よくよく観察すれば、纏っている空気は柔らかく、優し気な雰囲気に変わっている気がした。
仕える主の為に、己を変えたい───それは主への敬愛の表れであり、そう思えるほどにアドニス様を想い、慕っているという証だ。
(…良いことですね)
感情というものをほとんど感じさせず、機械的だった彼に、初めて感じた温かみにフッと頬が緩んだ。
同時に彼がこれほどに傾倒するアドニス様とは、一体どのような変わり様なのだろうと、少しばかり興味が湧いた。
今までのアドニス様の振る舞いに思うところは多々あるが、それはそれ、これはこれだ。
彼が喋り方一つにも気を配るほど、繊細な精神状況なのかもしれないが、それでもきっと、アドニス様のことを想い、尽くそうとするお気持ちが伝われば、良い方向へと変わられるはずだ。
頼み事とも呼べない頼み事だけ聞き、短い会話を終えると彼とはその場で別れた。
きっとこれからアドニス様の元へと向かうのだろう。足取りすら嬉しげに踵を返す彼の姿に、自分まで心が弾んだ。
(いつか、お会いするのが楽しみですね)
胸の片隅で、ほんの少しだけアドニス様と再会できるいつかの日を願いながら、再び歩き出した。
それが約半年ほど前の話。そうして今、ようやくアドニス様との再会を果たした。
(この場合は、再会とは言えないのでしょうが…)
胸に滲んだ苦いものは飲み込み、努めて表情を作ると、浅く息を吐き出した。
穏やかに続くバルドル様とアドニス様の会話に耳を傾けながら、今はただ彼…エルダが支え続け、イヴァニエ様とルカーシュカ様が守ってきたアドニス様のこれからが、平穏に続くことを願うばかりだった。
(フレールの庭で、プティ達と共に過ごすアドニス様のお姿を見れないのが残念ですね)
己にとってなによりの癒しの光景を見れないのは寂しいが、アドニス様が新たな環境に少しずつ馴染んでいけば、いつかフレールの庭への立ち入りも許される日が来るだろう。
それまではアドニス様の守護者達とバルドル様のやりとりに目を光らせなければ…と、静かに気合を入れる。
フォルセの果実に選ばれたアドニス様への敬仰の念はあれど、それは敬慕と憧憬を混ぜ合わせたような感情だ。
間違ってもアドニス様を抱き寄せるバルドル様に、顔を顰めている御三方の熱を込めた情とは別物だ。そのような甘い感情ではない。
問題はバルドル様だ。今は、亡きアドニス様への悲しみと後悔、理不尽な苦痛を与えてしまったアドニス様への罪悪感と慈しみの情で、感情が激しく揺れ動いているのだろうが、それが落ち着いた頃に、アドニス様にどのような感情を抱くのか…少しばかり不安だ。
(御心の悲しみが、一日でも早く晴れてほしいとは思いますが…)
バルドル様は他の者達よりも少しだけ、『感情』に対して鈍感だ。
それは神故に、神だからこそ、鈍感でなければいけないからだ。
人間界では、一日に何万という命が儚く消えていく。
その中では悲惨で、凄惨で、ただただ惨たらしいだけの死も多くある。
生死だけではない。諍いや争いが絶えず、混沌とした日々が続く時だってある。
そのたびに心を痛め、嘆き、憂いていては、いつか神自身の心が壊れてしまう。
神の崩壊は世界の崩壊に繋がる───それ故に、バルドル様の感情や感覚は、他よりも僅かに鈍く、物事の捉え方もざっくりとしたものにならざるを得ないのだ。
『神』とはそういうものであり、我々とは明らかに違う生き物なのだ。
亡きアドニス様に対する裁きが最たる例だろう。
他の者達の怒りが限界に達するまで、バルドル様はその『怒り』を同じ熱量で感じ取れなかった。
与えた罰に対する重さは理解できても、それ故にアドニス様の命を奪ってしまったことに嘆き悲しんでも、取り乱すこともなく、落ち着いて見えるのは、それ以上に感情が揺れることすら困難だからだ。
本当は誰よりも酷く悲しみ、深く傷つき、己の行いに心を抉られるほど悔いているのに、涙を流すことすら許されない───それが、我らが神だ。
それに対して、自分がどうこう思えることはない。
ただ今心配なのは、アドニス様に心を砕き、可愛がるあまり、妙な方向に意識が逸れないか…という点だ。
物事の捉え方がざっくりということは、愛情の種類や表現に対しても適用される。
その上で、悲しみや憂いに関しては鈍感だが、それを補うように愛情深さは人一倍だ。…正直な話、アドニス様の頬や頭を撫でる手付きに、先ほどからずっとヒヤヒヤしている。
(嫌ですよ…バルドル様がアドニス様を可愛がるあまり、彼らの怒りを買うなんて未来)
謀反でも叛逆でもなく、一人の天使を巡って神と大天使が争うなど、冗談でも笑えない。
(…バルドル様とアドニス様を二人きりにさせない様、気をつけなくてはいけませんね)
人知れず心の中で決意しながら、バルドル様の腕の中で眠りに落ちてしまったアドニス様のお姿を見つめる。
(次にお会いできるのは、いつになるでしょう)
目の前にいるのに、既に次の再会に思いを馳せている自分に気づき、苦笑が零れた。
決して淡い感情を抱いている訳ではないのに、それでも次はもう少し会話ができたなら…と、ついそんなことを思ってしまう。
フォルセの果実としてお務めされるアドニス様を間近で見られるエルダを、ほんの少しだけ羨ましく思いながら、彼がアドニス様の為に尽くした努力が実った今を、心から嬉しく思った。
それから暫く後、久しぶりにお会いしたアドニス様に、「エルダとオリヴィアは似てるね」と言われ、エルダの『頼み事』を思い出して笑ってしまうのは、もう少し先のお話。
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