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フォルセの果実
76.彼方への餞と、真白の虹
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春雨に烟る、ある晴れた日。
音もなく静かに降り注ぐ雫が、天界全域を包んだ。
陽の光を反射した雨粒はキラキラと煌めき、白い大地を照らす。淡い水色の空の下、どこまでも美しい世界はシンと静まり返っていた。
宮廷の至る所には大きな白い布が掛けられ、はたはたと風にそよぐ。
静寂が包む回廊の先、大天使達が一堂に会した大広間では、全員が純白の衣に身を包み、口を閉ざしてバルドルの言葉を待った。
三日間降り続けた雨は、バルドルの憂う心を写したかのように大地を濡らし、辺り一面に薄い水の膜を張った。
雨が降り始めた日、誰もが父なるバルドルを案じたが、その姿を目にすることは叶わず、翌日届いた報せに皆困惑した。
葬斂の儀『餞』───命の湖に還ること叶わず、その命を終えた天使の魂を送る、葬送の報せだった。
だが、誰もいなくなった者に心当たりが無かった。
争い事も無く、人間界での大きな諍いも無く、誰も欠けていないはず───…
誰を送る為の餞なのか、何も知らされぬまま、皆が純白の衣を身に纏った。
そうして今日、困惑と緊張、戸惑いが満ちた広い部屋の中、全身を真白い服で染めたバルドルが、ようやく固く閉ざしていた口を開いた。
「大天使アドニスは、命の湖に還れないまま、その命を終えた」
低く響いた声に、誰もが息を呑み、目を見開いた。
「アドニスの魂は、罰を与えたあの日、この場所で喪われた」
「バルドル様! お待ち下さい!」
一人の大天使が声を上げたが、バルドルはそれを片手で制した。
「全て話すから、今は聞きなさい」
「っ…、…申し訳ございません」
声を上げた者が一歩下がり、再び静寂が訪れると、バルドルはゆっくりと、アドニスとアドニスについて語り始めた。
翼の剥奪により、アドニスの命は消えたこと。
同時に、魂を失ったアドニスの肉体の中で、新たな生命が生まれたこと。
記憶を失ったのでは無く、魂そのものが別物であり、今生きているアドニスは別人であること。
バルドル自身が聖気に残った記憶を辿り、その在り方を確認したこと。
失われた生命と、誕生した生命があること…
淡々と語り続けるバルドルに、皆言葉を失い、顔色を無くした。
自分達が罰を望んだことで、アドニスの命を奪ってしまった───そんな思考を読んだかのように、バルドルは言葉を続けた。
「あの子の命を奪ったのは、私だよ」
感情を殺した声は、嘆きに嘆いて、溢れる悲しみを削ぎ落としたかのように痛々しかった。
己を責めれば、皆が心を痛める。
そうと分かっているからこそ、事実を事実として、ありのまま伝えるだけのバルドルに、「否」と告げられる者はいなかった。
「アドニスの魂は、もう此処には還ってこれない。…それでも、いつか遠い何処かで、その魂が巡り芽吹くことを、皆も共に祈っておくれ」
静かに語り終えたバルドルが片手を上げ、手の平の上に真白く輝く光を集めた。
沈黙の中、それに倣うように皆が右手を掲げ、淡い光を手の平に灯す。
「遠く離れてしまった愛しい我が子へ。旅立つ先に、煢然たる影が落ちぬ様、道行きを照らす、手向けの輝きを」
言葉と共にふわりと浮かんだいくつもの光。
渦を巻くように絡み合った光は、キラキラと輝く光の粒子を零しながら、高い天井を突き抜け、遠い空の向こうへと溶けるように消えていった。
その様子を見上げながら、誰にも聞き取れぬ声で、バルドルが小さく呟いた。
「永い間、ずっと気づいてやれず、すまなかった。寂しい思いをさせて、ごめんよ……アドニス」
それはどちらに向けた言葉だったのか───その瞳は、遥か遠くをずっと見つめていた。
「…皆、ありがとう。餞はこれで終わりだ。ここからは、新しく生まれた子について話そう」
ふっとバルドルが表情を和らげると同時に、室内の緊張が薄れ、そんな中で新たに生まれた天使について語られた。
魂は幼いが、肉体と器は大天使のそれの為、大天使として名を与えたこと。
本人が望んだ為、『アドニス』という名になったこと。
外見も名も、皆がよく知るアドニスと同じだが、性格も魂も、全て異なるまったくの別人であること。
翼を得ることを望まなかった為、飛べないこと。
そして、今代のフォルセの果実であること───そう伝えれば、途端にザワリとさざめく声が広がった。
「まさか…!」
「そんな…」
「アドニスが……いえ、アドニスとは別人とはいえ…」
サワサワといくつもの声が重なり合う中、先ほど声を上げた者が一歩前へ出た。
「…その者が、以前のアドニスと別人であるならば、何故この場にいないのでしょう? バルドル様のお言葉を疑う訳ではございませんが、お話だけではとても信じられません」
皆を代表するような言葉に、バルドルは深く頷いた。
「その気持ちは最もだ。だが、悪いが今はあの子を皆の前に出す訳にはいかない。いや、出せないと言った方が正しいかな」
「何故でしょうか?」
「…あの子は、お前達を酷く怖がるのだ」
その一言に、息を呑むような緊張が走った。
「ああ、皆が悪いと言いたいのではないよ。…どうしようもなかったことだ。あの子も、それは理解しているはずだ。だがそれでも、記憶に刻まれた恐怖はすぐには消えない」
生まれたばかりの幼な子が、生まれ初めて感じたのは“痛み”と“恐怖”だった。
肉体を抉る傷に『痛い』と泣く声と、向けられる敵意に『怖い』と叫ぶ悲鳴。
長く続く孤独と、いつまでも精神を蝕むような自責の念。
「生まれたばかりの子が背負うには、あまりにも酷な傷痕を残してしまった。傷が癒えるまで…アドニスが自分から他者との交流を望むまでは、待ってあげてほしい。あの子はまだ、あの部屋から満足に出たことすら無いんだ」
あの部屋から───その言葉に、ハッとしたのは誰だろう。
アドニスが謹慎部屋に籠った時、誰もが「どうせすぐに言い付けを破るはずだ」と顔を顰めた。
だがその予想に反し、大人しく過ごしているアドニスに、最初こそ疑いと好奇の目を向けていたが、その関心すら徐々に失われ、ついにはその存在ごと忘れ去られてしまった。
忘れ去られた部屋の中、純天使と変わらぬ存在が、ずっと独りで過ごしていた───ゾッとするような光景を思い浮かべ、何人かが怯んだ。
「生まれたばかりの頃に比べれば、少しは安心できるようになったが、それでもまだまだ目の離せない、危うい子だ。知識も経験も、何もかもが足りない。ようやく安心できる場所と相手を見つけて、落ち着いたばかりだ。気にはなるだろうが、今暫くは、そっとしておいてあげておくれ」
幼な子を見守るような口ぶりに、戸惑いと動揺が広がる。そんな中でまた一人、バルドルに質問を投げ掛けた。
「…恐れながら、バルドル様は、アドニスの異変にいつから気づいていらっしゃったのですか?」
「…残念だが、私が気づいたのではないよ。ちょうどいい。このまま話そう。イヴァニエ、ルカーシュカ」
「はい」
「それともう一人……こちらにおいで」
「はい」
一歩前に出たイヴァニエとルカーシュカ、二人と共に呼ばれた天使の三人に、皆の視線が集まった。
「アドニスの元を訪れ、最初にアドニスの異変に気づき、それからずっとあの子を守ってきてくれたのは、イヴァニエとルカーシュカ……それと、この子だ」
バルドルの言葉に、多くの者が驚愕の表情を浮かべた。
皆が嫌い、厭い、嫌悪したアドニス。その彼の元に、自ら赴いたというだけでも充分な驚きだった。
「最初、というのは一体いつから…」
「その辺りは、後で本人達に聞いておくれ。それよりも今はもう一つ、大事な知らせがある」
ふっと声が途切れたのに合わせ、イヴァニエの隣に立っていた天使がバルドルの前に進み出た。
何事か…と皆が目で追った次の瞬間、ぶわりと広がった翼に、静かな驚愕が広がった。
大きく真白い四枚の羽根───大天使の証である翼にその身を包まれた天使が次に現れると、そこには先ほどまでの少年の姿は無く、青年の姿となった天使がいた。
「新たに、名を授ける子が生まれた」
バルドルの穏やかな声に、数人がハッと現実へと引き戻される。
「アドニスのお披露目も一緒にしてやりたかったが、先の理由であの子はまだ皆の前に出せないからな。今日はこの子のお披露目と、与える役目について話そう。本当ならもう少し大々的に行ってもいいんだが…本人が望まないので、手短に済ませようか」
手招きをするバルドルに向かい、新たに大天使となった者が数歩近づき、その場に膝をついて首を垂れた。
「幾千、幾万の尊き日々よ。母なる大地の蕾より生まれし、愛しき我が子よ。巡り出逢えた奇跡に感謝し、父から子に名を贈ろう。『エルダ』」
「はい」
「大天使エルダ、我が命により、その名をもって、新たな大天使の誕生とする」
「名を頂戴致します」
それまで黙っていた天使が、ようやく声を発した…と思ったのも束の間、あっけないほどアッサリと終わった名贈りに、ポカンと口を開けて固まる者もいた。
本来であれば披露目の場らしく、もっと華やかに執り行うのが通例だ。餞の後ということを考えても、あまりにも義務的な流れに、皆どのように反応すればいいのか分からなかった。
「そういう反応になるのも仕方ないが、本人が望んだことだからな。気持ちだけでも、祝福してやっておくれ」
困り顔で微笑むバルドルに深く頭を下げ、『エルダ』と名を得た者が広間にいる者達に向き直った。
「エルダに与える役目だが、少々特殊だ。エルダには、大天使の役目として、天使としてアドニスの従者として仕えてもらう」
「…は?」
「お待ち下さい! バルドル様、それはどういう…」
困惑と動揺が残る中、更なる問題発言に広間の中は騒然としたが、それも一瞬だった。
「アドニスは、粛法が使えない」
「……え?」
「聖気が無い訳ではない。フォルセの果実としての役目は問題なく果たせるはずだ。だが飛ぶことはおろか、癒しの力も無く、何かあった時に対処する術も持っていない。…一人で行動させるのは、あまりにも不安だ」
先ほどから想像を絶する話が続き、皆絶句した。
生まれた時には当たり前のように使えるはずの粛法。
息をするのと飛ぶことが同義である彼らにとって、飛べないということも、粛法を使えないということも、理解の範疇を超えていたのだ。
「あの子の在り方は酷く歪だ。それでも、とても素直で可愛らしい、愛しい私の子だ。出来うる限り護ってやりたい。エルダにはアドニスの従者として、あの子の不足分を補ってもらう。これは、エルダ本人の望みでもある」
穏やかに、だが力強く発せられた言葉に、誰もが言葉に詰まった。
「…バルドル様。お言葉ですが、大天使が大天使に仕えるというのは…」
躊躇いがちな苦言に、バルドルはゆるりと首を振った。
「間違えてはいけないよ。エルダには『天使として仕えてもらう』と言っただろう?」
その言葉を待っていたかのように、エルダの翼が再び大きく広がり、その身を包んだ。次の瞬間には、つい先ほどまでと同じ、少年の姿に戻ったエルダがそこに立っていた。
全員が呆気に取られ、言葉を無くす中、静かに口を開いたのはエルダだった。
「特異体質により、私はこの姿に戻ることが可能です。大天使として新たなお役目を与えられない限り、私はこの姿で過ごし、アドニス様の手足としてお仕えします。アドニス様の従者という役目から逸脱するような、愚かな振る舞いも致しません。…但し、場合によってはこの限りではございませんので、ご承知おき下さいませ」
有無を言わさぬ声の強さと眼差しに、意義を唱えようとする者はいなかった。
「さて、アドニスについてもう少し話しておこうか」
固くなった空気を和らげるように、バルドルが和やかに話し始めた。
アドニスは今までと変わらず、宮廷の一室で過ごすこと。
フォルセの果実として、アドニスがフレールの庭に出入りする為、他の者の立ち入りを禁ずること。
エルダは従者として側に控え、イヴァニエとルカーシュカはアドニスを補佐する者として、共に行動することが増えるだろうこと…それに伴ういくつかの事項が簡潔に伝えられた。
「フレールの庭も、フォルセの果実でない者には用のない場所だろう。色々言ってしまったが、皆の行動に大きく制限を設けるつもりはない。すまないが、あの子の為、少しだけ気をつけてくれると嬉しい」
バルドルの言葉は事実その通りで、フレールの庭への立ち入りを禁じられても、なんの問題もない。
互いに顔を見合わせながら、皆が同意を示すように口を噤んだ。
「ありがとう。今はまだ難しいが、いつかこの場で、アドニスと皆の姿を揃って見られる日が来ることを、願っているよ」
微笑んだその表情は、いつものバルドルの顔だった。
皆それぞれ、疑問や疑念、胸に痞えるものはあったが、今は敬愛なる父の憂いが晴れたことに純粋に安堵し、喜んだ。
そうしながら、バルドルが庇護し、大天使三人が守る『アドニス』という名の大天使は、一体どんな人物なのか───誰もが記憶に残る姿を思い浮かべ、そわりと気を揺らした。
◇◇◇◇◇◇
「あーぅ」
「…ポカポカして、気持ちいいね」
「んにゅ」
分厚い絨毯の上、遊ぶようにころり、ころりと寝返りを打つ赤子にクスリと笑みが零れる。
絨毯の隅に置かれたソファーに座り、その様子を眺めながら、膝の上に座る赤ん坊の体を柔らかなタオルで包んだ。
「きゃふっ」
「体拭いてから、遊ぼうね」
「あ!」
雨に濡れ、しっとりと湿った髪の毛や体を、ふわふわのタオルで拭いていく。本当ならパンツも乾かしてあげたいのだが、残念ながら自分にその能力は無い。せめて体を冷やさないように…と、水気を含んで重くなったパンツを脱がした。
幸い、エルダが用意してくれた絨毯は不思議と仄かに温かく、それが気持ち良いのか、赤ん坊達はその上に裸のまま寝転がって遊んでいた。
「んあ、う?」
「…エルダも、ルカーシュカ様も、イヴァニエ様も、いないよ。…今日は、みんなとお留守番」
「えぅ?」
「……アドニス様と、お別れする日なんだって」
こちらを見上げる赤ん坊を見つめながら、自分と同じ名前の天使の名を呟いた。
しとしとと降り続ける雨は、三日経っても止むことはなかった。
陽は射しているのだが、いつもよりも淡い色をした空はどこか翳っているようで、ほんの少しだけ空気が冷たい日々が続いた。
その間、変わらず部屋の中で過ごしていたのだが、皆は忙しいらしく、あまり顔を合わせる時間もなかった。それはエルダも同じようで、いつもどこかへと出かけていく背中を見送った。
「絶対に、お一人でお外に出ないで下さいね」という言葉を言い残し、毎回とても悲しそうな顔で出ていく姿はどうにも胸が苦しく、「どこにも行かないよ」「みんなと待ってるね」と伝え、細い体を抱き締めた。
イヴァニエとルカーシュカとは、朝と夜だけだが、短いながらも言葉を交わすことができた。
僅かな疲労の色が滲む二人が心配だったが、「もう少ししたら落ち着くよ」という言葉を信じ、赤ん坊達と大人しく過ごした。
そうして今日、見慣れない真っ白な服に身を包んだイヴァニエとルカーシュカ、そしてその傍らに控えたエルダを見送った。
数年前、誰に気づかれることもなく、静かにこの世を去った大天使アドニスの魂を、皆で弔い、祈りを捧げるのだという。
自分はその場にいなくていいのか心配になったが、生前の彼を知る者だけが集まるのだと言われ、それ以上は聞かずに頷いた。
三人が部屋を出ていく間際、寂しそうな、悔しそうな、言葉にし難い感情が見えて、堪らず一人一人と抱擁を交わした。
「行ってくる」
「…いってらっしゃい」
「明日になったら、お外に出られますからね」
「…はい」
「すぐお側に戻ります」
「うん…待ってるね」
互いの体を密着させれば、少しだけ不安が和らいだ気がした。短い言葉を交わすと、彼らの姿が完全に見えなくてなるまで、その背を見送り続けた。
三人を見送ってまもなく、開いたままの小窓からは、赤ん坊達が一人、また一人と入ってきた。
この三日間、外は雨だというのに、それでも遊びに来てくれる小さな天使達が愛おしく、同時にずぶ濡れの状態が心配になったが、エルダが用意してくれたタオルと温かな絨毯のおかげで、その心配も無くなった。
「…あ」
「だ~ぅ!」
そうしてまた一人、びしょびしょに濡れた赤ん坊が部屋の中へと飛び込んできた。
「来てくれて、ありがとう。おいで」
「う~」
両手でタオルを広げれば、その中にすっぽりと収まるように、小さな体が丸まった。雫の落ちる髪の毛を拭い、パンツを脱がせ、顔や体を丁寧に拭いていく。
もちもちとした肌はひんやりとしていて、少しだけ心配だが、乾いた体で絨毯に寝転がれば、その頬はすぐに薔薇色に染まった。
ふかふかの絨毯の上、既に何人かは眠りに落ちていて、眠る赤子を毛布でやんわりと包み込めば、うにゃうにゃと小さな口が動いた。
「ふふ…」
愛らしい姿に思わず頬が緩む。他の赤子達もウトウトとし始め、静かになった部屋の中、ふと何かに誘われるように窓辺へと近づいた。
窓の外は明るく、だが霧雨に烟るような空気は、ほんの少しだけ物悲しく見えた。
空から落ちる雫の音すら聞こえない世界はどこか寂し気で、静かに泣いているようだった。
(…雨が降るのは、バルドル様が泣いてるから…)
初めて降る雨は新鮮で、だがなかなか止まないことが不思議で、ルカーシュカにその疑問を問うたのだ。
そうして返ってきた返事は「バルドル様の代わりに、空が泣くんだ」という答えだった。
『…バルドル様の代わりに、空が…泣くんですか…?』
『そうだよ』
『…バルドル様は、泣かないんですか…?』
『…そうだな』
『……どうして?』
『─── 神様だから』
穏やかな表情で、穏やかな声で、でもそれ以上は問えないルカーシュカの微笑みに、ただ口を噤んだ。
ふと脳裏に浮かんだのは、つい先日間近で見た、くしゃりと歪んだバルドル神の顔。
震える指先で、泣きそうな顔で、それでもただの一度もその涙を見なかったのは、きっと彼の人が『神様』だったからなのだと、どこかで納得している自分がいた。
窓の外を眺めて暫く、雨粒がポツリ、ポツリとバルコニーを濡らす光景がどうしても気になり、絨毯の上で眠り始めた赤子達をチラリと振り返ると、そっと窓を開いた。
「わ…」
まるで初めて外に出た時のように、ドキドキしながらバルコニーへと踏み出す。
濡れた石畳みはひんやりとしていて、歩くたびに、ぴちゃり、ぴちゃりと水音が響いた。
肌に当たる雨粒は小さかったが、空から降る水によって全身が濡れていく初めての感覚は不思議で、顔が濡れるのも構わず空を見上げた。
(……ずっと泣いてる…)
今はもういない彼の天使の為、神様がずっと泣き続けている。
それはとても悲しくて───とても優しい雨だった。
「……あ」
その時、見上げた空に向かい、どこからともなく打ち上げられた眩い光が、天高く昇っていった。
光の粒子が尾を引きながら昇っていくその様は、綿雲から花を降らすイヴァニエからの贈り物のそれとよく似ていた。
どこかで弾けるのだろうか…そう思いながら見つめ続けたが、高く高く昇っていった光は、そのまま空の向こう側へと消え、いつしか見えなくなった。
───直後、サァッと霧が晴れるように、空は濃い青色に染まり、天からはキラキラと光の粒が零れ落ちた。
同時に止んだ雨と、目が醒めるように晴れ渡った空に、先ほどの光は『アドニス』を送る為の輝きだったのだろうと、誰に教えてもらわずとも理解した。
「わ、ぁ…」
大地全体に降り注いだ小さな小さな光の粒。ふと辺りを見回せば、真白い大地は一面水面と化していた。
風に揺れる水面に、陽の光と光の粒が反射し、眩いほどに輝く。薄く張った水の中では、色とりどりの草花が揺れ、純白の大地を虹色に染め上げていた。
ゆらゆらと揺らめくようなその色は、命の湖と同じ色で───涙が出そうなほど、愛情に満ちた輝きだった。
(……泣いちゃダメだ)
きっとこの風景も、あの光も、たった一人に贈られたもので、自分が泣くのは違うのだ。
グッと唇を結ぶと、鮮やかに晴れ渡った空を見上げた。いつもと変わらぬ空色は、バルドル神の涙が止まったことを告げていて、ホッと体から力が抜けた。
彼という個に対して、どんな感情を抱けばいいのか、結局分からないままだった。
それでも、彼の為に泣いてくれる人がいる…それを嬉しいと思う自分がいた。
彼も自分を知らず、自分も彼を知らない。
近いようで遠い関係で、何かを願うなど烏滸がましいのかもしれないけれど、それでも、込み上げる想いを胸に、そっと瞳を閉じた。
(……彼方に、優しい光が届きますように)
遠い遠い空の向こう、永遠の別れと共に、祈りを捧げた。
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いつも『天使様の愛し子』をお読み頂き、ありがとうございます。大変長くなりましたが、これにて3章終幕です!
4章からはアドニスくんがぽわぽわと過ごしていく様子を書いていきたいと思います(*´◒`*)
物語的にはようやく折り返し地点かな…!という感じで、まだまだ先の長いお話ですが、今後もアドニスくん達を見守って頂けましたら幸いです!
東雲
音もなく静かに降り注ぐ雫が、天界全域を包んだ。
陽の光を反射した雨粒はキラキラと煌めき、白い大地を照らす。淡い水色の空の下、どこまでも美しい世界はシンと静まり返っていた。
宮廷の至る所には大きな白い布が掛けられ、はたはたと風にそよぐ。
静寂が包む回廊の先、大天使達が一堂に会した大広間では、全員が純白の衣に身を包み、口を閉ざしてバルドルの言葉を待った。
三日間降り続けた雨は、バルドルの憂う心を写したかのように大地を濡らし、辺り一面に薄い水の膜を張った。
雨が降り始めた日、誰もが父なるバルドルを案じたが、その姿を目にすることは叶わず、翌日届いた報せに皆困惑した。
葬斂の儀『餞』───命の湖に還ること叶わず、その命を終えた天使の魂を送る、葬送の報せだった。
だが、誰もいなくなった者に心当たりが無かった。
争い事も無く、人間界での大きな諍いも無く、誰も欠けていないはず───…
誰を送る為の餞なのか、何も知らされぬまま、皆が純白の衣を身に纏った。
そうして今日、困惑と緊張、戸惑いが満ちた広い部屋の中、全身を真白い服で染めたバルドルが、ようやく固く閉ざしていた口を開いた。
「大天使アドニスは、命の湖に還れないまま、その命を終えた」
低く響いた声に、誰もが息を呑み、目を見開いた。
「アドニスの魂は、罰を与えたあの日、この場所で喪われた」
「バルドル様! お待ち下さい!」
一人の大天使が声を上げたが、バルドルはそれを片手で制した。
「全て話すから、今は聞きなさい」
「っ…、…申し訳ございません」
声を上げた者が一歩下がり、再び静寂が訪れると、バルドルはゆっくりと、アドニスとアドニスについて語り始めた。
翼の剥奪により、アドニスの命は消えたこと。
同時に、魂を失ったアドニスの肉体の中で、新たな生命が生まれたこと。
記憶を失ったのでは無く、魂そのものが別物であり、今生きているアドニスは別人であること。
バルドル自身が聖気に残った記憶を辿り、その在り方を確認したこと。
失われた生命と、誕生した生命があること…
淡々と語り続けるバルドルに、皆言葉を失い、顔色を無くした。
自分達が罰を望んだことで、アドニスの命を奪ってしまった───そんな思考を読んだかのように、バルドルは言葉を続けた。
「あの子の命を奪ったのは、私だよ」
感情を殺した声は、嘆きに嘆いて、溢れる悲しみを削ぎ落としたかのように痛々しかった。
己を責めれば、皆が心を痛める。
そうと分かっているからこそ、事実を事実として、ありのまま伝えるだけのバルドルに、「否」と告げられる者はいなかった。
「アドニスの魂は、もう此処には還ってこれない。…それでも、いつか遠い何処かで、その魂が巡り芽吹くことを、皆も共に祈っておくれ」
静かに語り終えたバルドルが片手を上げ、手の平の上に真白く輝く光を集めた。
沈黙の中、それに倣うように皆が右手を掲げ、淡い光を手の平に灯す。
「遠く離れてしまった愛しい我が子へ。旅立つ先に、煢然たる影が落ちぬ様、道行きを照らす、手向けの輝きを」
言葉と共にふわりと浮かんだいくつもの光。
渦を巻くように絡み合った光は、キラキラと輝く光の粒子を零しながら、高い天井を突き抜け、遠い空の向こうへと溶けるように消えていった。
その様子を見上げながら、誰にも聞き取れぬ声で、バルドルが小さく呟いた。
「永い間、ずっと気づいてやれず、すまなかった。寂しい思いをさせて、ごめんよ……アドニス」
それはどちらに向けた言葉だったのか───その瞳は、遥か遠くをずっと見つめていた。
「…皆、ありがとう。餞はこれで終わりだ。ここからは、新しく生まれた子について話そう」
ふっとバルドルが表情を和らげると同時に、室内の緊張が薄れ、そんな中で新たに生まれた天使について語られた。
魂は幼いが、肉体と器は大天使のそれの為、大天使として名を与えたこと。
本人が望んだ為、『アドニス』という名になったこと。
外見も名も、皆がよく知るアドニスと同じだが、性格も魂も、全て異なるまったくの別人であること。
翼を得ることを望まなかった為、飛べないこと。
そして、今代のフォルセの果実であること───そう伝えれば、途端にザワリとさざめく声が広がった。
「まさか…!」
「そんな…」
「アドニスが……いえ、アドニスとは別人とはいえ…」
サワサワといくつもの声が重なり合う中、先ほど声を上げた者が一歩前へ出た。
「…その者が、以前のアドニスと別人であるならば、何故この場にいないのでしょう? バルドル様のお言葉を疑う訳ではございませんが、お話だけではとても信じられません」
皆を代表するような言葉に、バルドルは深く頷いた。
「その気持ちは最もだ。だが、悪いが今はあの子を皆の前に出す訳にはいかない。いや、出せないと言った方が正しいかな」
「何故でしょうか?」
「…あの子は、お前達を酷く怖がるのだ」
その一言に、息を呑むような緊張が走った。
「ああ、皆が悪いと言いたいのではないよ。…どうしようもなかったことだ。あの子も、それは理解しているはずだ。だがそれでも、記憶に刻まれた恐怖はすぐには消えない」
生まれたばかりの幼な子が、生まれ初めて感じたのは“痛み”と“恐怖”だった。
肉体を抉る傷に『痛い』と泣く声と、向けられる敵意に『怖い』と叫ぶ悲鳴。
長く続く孤独と、いつまでも精神を蝕むような自責の念。
「生まれたばかりの子が背負うには、あまりにも酷な傷痕を残してしまった。傷が癒えるまで…アドニスが自分から他者との交流を望むまでは、待ってあげてほしい。あの子はまだ、あの部屋から満足に出たことすら無いんだ」
あの部屋から───その言葉に、ハッとしたのは誰だろう。
アドニスが謹慎部屋に籠った時、誰もが「どうせすぐに言い付けを破るはずだ」と顔を顰めた。
だがその予想に反し、大人しく過ごしているアドニスに、最初こそ疑いと好奇の目を向けていたが、その関心すら徐々に失われ、ついにはその存在ごと忘れ去られてしまった。
忘れ去られた部屋の中、純天使と変わらぬ存在が、ずっと独りで過ごしていた───ゾッとするような光景を思い浮かべ、何人かが怯んだ。
「生まれたばかりの頃に比べれば、少しは安心できるようになったが、それでもまだまだ目の離せない、危うい子だ。知識も経験も、何もかもが足りない。ようやく安心できる場所と相手を見つけて、落ち着いたばかりだ。気にはなるだろうが、今暫くは、そっとしておいてあげておくれ」
幼な子を見守るような口ぶりに、戸惑いと動揺が広がる。そんな中でまた一人、バルドルに質問を投げ掛けた。
「…恐れながら、バルドル様は、アドニスの異変にいつから気づいていらっしゃったのですか?」
「…残念だが、私が気づいたのではないよ。ちょうどいい。このまま話そう。イヴァニエ、ルカーシュカ」
「はい」
「それともう一人……こちらにおいで」
「はい」
一歩前に出たイヴァニエとルカーシュカ、二人と共に呼ばれた天使の三人に、皆の視線が集まった。
「アドニスの元を訪れ、最初にアドニスの異変に気づき、それからずっとあの子を守ってきてくれたのは、イヴァニエとルカーシュカ……それと、この子だ」
バルドルの言葉に、多くの者が驚愕の表情を浮かべた。
皆が嫌い、厭い、嫌悪したアドニス。その彼の元に、自ら赴いたというだけでも充分な驚きだった。
「最初、というのは一体いつから…」
「その辺りは、後で本人達に聞いておくれ。それよりも今はもう一つ、大事な知らせがある」
ふっと声が途切れたのに合わせ、イヴァニエの隣に立っていた天使がバルドルの前に進み出た。
何事か…と皆が目で追った次の瞬間、ぶわりと広がった翼に、静かな驚愕が広がった。
大きく真白い四枚の羽根───大天使の証である翼にその身を包まれた天使が次に現れると、そこには先ほどまでの少年の姿は無く、青年の姿となった天使がいた。
「新たに、名を授ける子が生まれた」
バルドルの穏やかな声に、数人がハッと現実へと引き戻される。
「アドニスのお披露目も一緒にしてやりたかったが、先の理由であの子はまだ皆の前に出せないからな。今日はこの子のお披露目と、与える役目について話そう。本当ならもう少し大々的に行ってもいいんだが…本人が望まないので、手短に済ませようか」
手招きをするバルドルに向かい、新たに大天使となった者が数歩近づき、その場に膝をついて首を垂れた。
「幾千、幾万の尊き日々よ。母なる大地の蕾より生まれし、愛しき我が子よ。巡り出逢えた奇跡に感謝し、父から子に名を贈ろう。『エルダ』」
「はい」
「大天使エルダ、我が命により、その名をもって、新たな大天使の誕生とする」
「名を頂戴致します」
それまで黙っていた天使が、ようやく声を発した…と思ったのも束の間、あっけないほどアッサリと終わった名贈りに、ポカンと口を開けて固まる者もいた。
本来であれば披露目の場らしく、もっと華やかに執り行うのが通例だ。餞の後ということを考えても、あまりにも義務的な流れに、皆どのように反応すればいいのか分からなかった。
「そういう反応になるのも仕方ないが、本人が望んだことだからな。気持ちだけでも、祝福してやっておくれ」
困り顔で微笑むバルドルに深く頭を下げ、『エルダ』と名を得た者が広間にいる者達に向き直った。
「エルダに与える役目だが、少々特殊だ。エルダには、大天使の役目として、天使としてアドニスの従者として仕えてもらう」
「…は?」
「お待ち下さい! バルドル様、それはどういう…」
困惑と動揺が残る中、更なる問題発言に広間の中は騒然としたが、それも一瞬だった。
「アドニスは、粛法が使えない」
「……え?」
「聖気が無い訳ではない。フォルセの果実としての役目は問題なく果たせるはずだ。だが飛ぶことはおろか、癒しの力も無く、何かあった時に対処する術も持っていない。…一人で行動させるのは、あまりにも不安だ」
先ほどから想像を絶する話が続き、皆絶句した。
生まれた時には当たり前のように使えるはずの粛法。
息をするのと飛ぶことが同義である彼らにとって、飛べないということも、粛法を使えないということも、理解の範疇を超えていたのだ。
「あの子の在り方は酷く歪だ。それでも、とても素直で可愛らしい、愛しい私の子だ。出来うる限り護ってやりたい。エルダにはアドニスの従者として、あの子の不足分を補ってもらう。これは、エルダ本人の望みでもある」
穏やかに、だが力強く発せられた言葉に、誰もが言葉に詰まった。
「…バルドル様。お言葉ですが、大天使が大天使に仕えるというのは…」
躊躇いがちな苦言に、バルドルはゆるりと首を振った。
「間違えてはいけないよ。エルダには『天使として仕えてもらう』と言っただろう?」
その言葉を待っていたかのように、エルダの翼が再び大きく広がり、その身を包んだ。次の瞬間には、つい先ほどまでと同じ、少年の姿に戻ったエルダがそこに立っていた。
全員が呆気に取られ、言葉を無くす中、静かに口を開いたのはエルダだった。
「特異体質により、私はこの姿に戻ることが可能です。大天使として新たなお役目を与えられない限り、私はこの姿で過ごし、アドニス様の手足としてお仕えします。アドニス様の従者という役目から逸脱するような、愚かな振る舞いも致しません。…但し、場合によってはこの限りではございませんので、ご承知おき下さいませ」
有無を言わさぬ声の強さと眼差しに、意義を唱えようとする者はいなかった。
「さて、アドニスについてもう少し話しておこうか」
固くなった空気を和らげるように、バルドルが和やかに話し始めた。
アドニスは今までと変わらず、宮廷の一室で過ごすこと。
フォルセの果実として、アドニスがフレールの庭に出入りする為、他の者の立ち入りを禁ずること。
エルダは従者として側に控え、イヴァニエとルカーシュカはアドニスを補佐する者として、共に行動することが増えるだろうこと…それに伴ういくつかの事項が簡潔に伝えられた。
「フレールの庭も、フォルセの果実でない者には用のない場所だろう。色々言ってしまったが、皆の行動に大きく制限を設けるつもりはない。すまないが、あの子の為、少しだけ気をつけてくれると嬉しい」
バルドルの言葉は事実その通りで、フレールの庭への立ち入りを禁じられても、なんの問題もない。
互いに顔を見合わせながら、皆が同意を示すように口を噤んだ。
「ありがとう。今はまだ難しいが、いつかこの場で、アドニスと皆の姿を揃って見られる日が来ることを、願っているよ」
微笑んだその表情は、いつものバルドルの顔だった。
皆それぞれ、疑問や疑念、胸に痞えるものはあったが、今は敬愛なる父の憂いが晴れたことに純粋に安堵し、喜んだ。
そうしながら、バルドルが庇護し、大天使三人が守る『アドニス』という名の大天使は、一体どんな人物なのか───誰もが記憶に残る姿を思い浮かべ、そわりと気を揺らした。
◇◇◇◇◇◇
「あーぅ」
「…ポカポカして、気持ちいいね」
「んにゅ」
分厚い絨毯の上、遊ぶようにころり、ころりと寝返りを打つ赤子にクスリと笑みが零れる。
絨毯の隅に置かれたソファーに座り、その様子を眺めながら、膝の上に座る赤ん坊の体を柔らかなタオルで包んだ。
「きゃふっ」
「体拭いてから、遊ぼうね」
「あ!」
雨に濡れ、しっとりと湿った髪の毛や体を、ふわふわのタオルで拭いていく。本当ならパンツも乾かしてあげたいのだが、残念ながら自分にその能力は無い。せめて体を冷やさないように…と、水気を含んで重くなったパンツを脱がした。
幸い、エルダが用意してくれた絨毯は不思議と仄かに温かく、それが気持ち良いのか、赤ん坊達はその上に裸のまま寝転がって遊んでいた。
「んあ、う?」
「…エルダも、ルカーシュカ様も、イヴァニエ様も、いないよ。…今日は、みんなとお留守番」
「えぅ?」
「……アドニス様と、お別れする日なんだって」
こちらを見上げる赤ん坊を見つめながら、自分と同じ名前の天使の名を呟いた。
しとしとと降り続ける雨は、三日経っても止むことはなかった。
陽は射しているのだが、いつもよりも淡い色をした空はどこか翳っているようで、ほんの少しだけ空気が冷たい日々が続いた。
その間、変わらず部屋の中で過ごしていたのだが、皆は忙しいらしく、あまり顔を合わせる時間もなかった。それはエルダも同じようで、いつもどこかへと出かけていく背中を見送った。
「絶対に、お一人でお外に出ないで下さいね」という言葉を言い残し、毎回とても悲しそうな顔で出ていく姿はどうにも胸が苦しく、「どこにも行かないよ」「みんなと待ってるね」と伝え、細い体を抱き締めた。
イヴァニエとルカーシュカとは、朝と夜だけだが、短いながらも言葉を交わすことができた。
僅かな疲労の色が滲む二人が心配だったが、「もう少ししたら落ち着くよ」という言葉を信じ、赤ん坊達と大人しく過ごした。
そうして今日、見慣れない真っ白な服に身を包んだイヴァニエとルカーシュカ、そしてその傍らに控えたエルダを見送った。
数年前、誰に気づかれることもなく、静かにこの世を去った大天使アドニスの魂を、皆で弔い、祈りを捧げるのだという。
自分はその場にいなくていいのか心配になったが、生前の彼を知る者だけが集まるのだと言われ、それ以上は聞かずに頷いた。
三人が部屋を出ていく間際、寂しそうな、悔しそうな、言葉にし難い感情が見えて、堪らず一人一人と抱擁を交わした。
「行ってくる」
「…いってらっしゃい」
「明日になったら、お外に出られますからね」
「…はい」
「すぐお側に戻ります」
「うん…待ってるね」
互いの体を密着させれば、少しだけ不安が和らいだ気がした。短い言葉を交わすと、彼らの姿が完全に見えなくてなるまで、その背を見送り続けた。
三人を見送ってまもなく、開いたままの小窓からは、赤ん坊達が一人、また一人と入ってきた。
この三日間、外は雨だというのに、それでも遊びに来てくれる小さな天使達が愛おしく、同時にずぶ濡れの状態が心配になったが、エルダが用意してくれたタオルと温かな絨毯のおかげで、その心配も無くなった。
「…あ」
「だ~ぅ!」
そうしてまた一人、びしょびしょに濡れた赤ん坊が部屋の中へと飛び込んできた。
「来てくれて、ありがとう。おいで」
「う~」
両手でタオルを広げれば、その中にすっぽりと収まるように、小さな体が丸まった。雫の落ちる髪の毛を拭い、パンツを脱がせ、顔や体を丁寧に拭いていく。
もちもちとした肌はひんやりとしていて、少しだけ心配だが、乾いた体で絨毯に寝転がれば、その頬はすぐに薔薇色に染まった。
ふかふかの絨毯の上、既に何人かは眠りに落ちていて、眠る赤子を毛布でやんわりと包み込めば、うにゃうにゃと小さな口が動いた。
「ふふ…」
愛らしい姿に思わず頬が緩む。他の赤子達もウトウトとし始め、静かになった部屋の中、ふと何かに誘われるように窓辺へと近づいた。
窓の外は明るく、だが霧雨に烟るような空気は、ほんの少しだけ物悲しく見えた。
空から落ちる雫の音すら聞こえない世界はどこか寂し気で、静かに泣いているようだった。
(…雨が降るのは、バルドル様が泣いてるから…)
初めて降る雨は新鮮で、だがなかなか止まないことが不思議で、ルカーシュカにその疑問を問うたのだ。
そうして返ってきた返事は「バルドル様の代わりに、空が泣くんだ」という答えだった。
『…バルドル様の代わりに、空が…泣くんですか…?』
『そうだよ』
『…バルドル様は、泣かないんですか…?』
『…そうだな』
『……どうして?』
『─── 神様だから』
穏やかな表情で、穏やかな声で、でもそれ以上は問えないルカーシュカの微笑みに、ただ口を噤んだ。
ふと脳裏に浮かんだのは、つい先日間近で見た、くしゃりと歪んだバルドル神の顔。
震える指先で、泣きそうな顔で、それでもただの一度もその涙を見なかったのは、きっと彼の人が『神様』だったからなのだと、どこかで納得している自分がいた。
窓の外を眺めて暫く、雨粒がポツリ、ポツリとバルコニーを濡らす光景がどうしても気になり、絨毯の上で眠り始めた赤子達をチラリと振り返ると、そっと窓を開いた。
「わ…」
まるで初めて外に出た時のように、ドキドキしながらバルコニーへと踏み出す。
濡れた石畳みはひんやりとしていて、歩くたびに、ぴちゃり、ぴちゃりと水音が響いた。
肌に当たる雨粒は小さかったが、空から降る水によって全身が濡れていく初めての感覚は不思議で、顔が濡れるのも構わず空を見上げた。
(……ずっと泣いてる…)
今はもういない彼の天使の為、神様がずっと泣き続けている。
それはとても悲しくて───とても優しい雨だった。
「……あ」
その時、見上げた空に向かい、どこからともなく打ち上げられた眩い光が、天高く昇っていった。
光の粒子が尾を引きながら昇っていくその様は、綿雲から花を降らすイヴァニエからの贈り物のそれとよく似ていた。
どこかで弾けるのだろうか…そう思いながら見つめ続けたが、高く高く昇っていった光は、そのまま空の向こう側へと消え、いつしか見えなくなった。
───直後、サァッと霧が晴れるように、空は濃い青色に染まり、天からはキラキラと光の粒が零れ落ちた。
同時に止んだ雨と、目が醒めるように晴れ渡った空に、先ほどの光は『アドニス』を送る為の輝きだったのだろうと、誰に教えてもらわずとも理解した。
「わ、ぁ…」
大地全体に降り注いだ小さな小さな光の粒。ふと辺りを見回せば、真白い大地は一面水面と化していた。
風に揺れる水面に、陽の光と光の粒が反射し、眩いほどに輝く。薄く張った水の中では、色とりどりの草花が揺れ、純白の大地を虹色に染め上げていた。
ゆらゆらと揺らめくようなその色は、命の湖と同じ色で───涙が出そうなほど、愛情に満ちた輝きだった。
(……泣いちゃダメだ)
きっとこの風景も、あの光も、たった一人に贈られたもので、自分が泣くのは違うのだ。
グッと唇を結ぶと、鮮やかに晴れ渡った空を見上げた。いつもと変わらぬ空色は、バルドル神の涙が止まったことを告げていて、ホッと体から力が抜けた。
彼という個に対して、どんな感情を抱けばいいのか、結局分からないままだった。
それでも、彼の為に泣いてくれる人がいる…それを嬉しいと思う自分がいた。
彼も自分を知らず、自分も彼を知らない。
近いようで遠い関係で、何かを願うなど烏滸がましいのかもしれないけれど、それでも、込み上げる想いを胸に、そっと瞳を閉じた。
(……彼方に、優しい光が届きますように)
遠い遠い空の向こう、永遠の別れと共に、祈りを捧げた。
--------------------
いつも『天使様の愛し子』をお読み頂き、ありがとうございます。大変長くなりましたが、これにて3章終幕です!
4章からはアドニスくんがぽわぽわと過ごしていく様子を書いていきたいと思います(*´◒`*)
物語的にはようやく折り返し地点かな…!という感じで、まだまだ先の長いお話ですが、今後もアドニスくん達を見守って頂けましたら幸いです!
東雲
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