天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

73.新たな大天使

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静まり返った部屋の中、どこか遠くから、サァ…と聞こえた雨粒の音。それに逸早く反応したのはオリヴィアだった。

「バルドル様、いなくなられてしまったアドニス様のことを想い、憂うことをお止めはしません。悔やまれるお気持ちは、私とて同じです。ですが今はどうか、お側にいらっしゃるアドニス様の未来を、想って下さい。…アドニス様の前で、そのように嘆かれてはなりません」

凛と澄んだ声は厳しく、だが無情という訳ではない。
もう一人のアドニスを蔑ろにするものでも、己を諫めるものでもなく、ただ目の前の子を想い、その為に今は堪えてほしいという切実な色を含んでいた。

「それ以上の嘆きは、アドニス様のお体にも障ります。どうか…」
「……ああ、それはいけないな」

強く抱き締めていた体を離せば、周囲の空気がふっと緩んだのが分かった。
起きる気配のないアドニスの体を抱き直すと、深く息を吐き出し、乱れた胸の内をゆっくりと鎮めていく。

「ありがとう、オリヴィア。…お前達も、心配させたね」
「…御身の嘆きの幾許かでも、共に有することが出来ましたなら、我らは嬉しく思います」
「…ありがとう。その優しさに、甘えさせておくれ」

耳を澄ませば、微かに聞こえる雨音。
しとしとと振る雨は寂しそうで、少しだけ、泣いているように聞こえた。

「……アドニスの葬斂そうれんの儀を、改めて行おう。この子のお披露目も…と思ったが、皆の前に出すのは不安だな」

イヴァニエとルカーシュカの言っていた意味がよく分かる。とてもではないが、この子を他の者達の前に出すことはできないだろう。

「お披露目とは、大天使として…ということですか?」
「そうだな」

軽く答えれば、何かを思案するように、イヴァニエの瞳が彷徨った。

「…バルドル様、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なにかな?」
「アドニスは……その、大天使なのですか?」

疑惑というよりも、疑問とアドニスを案ずる気もちの混じった問いに、思考を巡らせた。

「そうだな。正直に言えばなんとも言い難い…が、母提樹はフォルセの果実として、アドニスを選んだ」

母提樹がどういった基準でフォルセの果実を選ぶのか、ハッキリしたことは分からない。ただ確実なのは、“大天使の中から選ばれる”ということだけだ。

フォルセの果実に選ばれる者の多くは愛情深く、また純粋にプティ達の成長を喜ぶ者が多い。ある程度の傾向は見て取れたが、それでも明確な基準は分からないままだった。
大天使の中からしか選ばれないのも、単純に聖気の多さで測っているのかと思っていたが…どうやら、そうではなかったことが今回の件で分かった。

「アドニスの『器』は、大天使のそれと一緒だ。…恐らくだが、母提樹は器の大きさで選別しているんだろう」

天使達の体内には、目に見えない『器』があり、その大きさに比例して聖気量も増えていく。
純天使の頃はとても小さく、故に聖気の量も少ない為、扱える能力にも制限がある。この器を成長させる為に必要な物がフォルセの果実であり、実を口にするほど器は大きく成長し、それが純天使の成長へと繋がる。
純天使から天使に成長した者は、今度は己の力で少しずつ器を大きくし、聖気の量を増やしていく。この過程では誰かの手助けは無く、本人が努力した分だけ成長していく。
そうして数多といる天使の中から、大天使と呼べるに相応しい大きさまで器を成長させた者が、大天使として、新たな名前と姿を得るのだ。

「アドニスを形作っているのは、もう一人のアドニスの姿そのものだ。顔も、体も、声も、ありとあらゆるものがアドニスのまま、魂だけが入れ替わっているような状態だ」

俄かには信じ難いことだが、触れた記憶と聖気の色は、そうとしか言えないものだった。

「同じなのは見た目だけではない。器の大きさも、もう一人のアドニスのままだ」

目に見えない部分も、そっくりそのまま、アドニスの肉体なのだ。不思議なことではないことが、不思議でならなかった。

「器は同じでも、魂が違うのだから、有している聖気は異なる。アドニスの聖気はお前達が予想していた通り、純天使と同じ色だった」

生まれたばかりの天使だけが有している、何色にも変われる、何色にも染まれる、可能性の色───アドニスの体内に満ちていたのは、母提樹や命の湖、自身の左眼と同じ、煌めくオパール色だ。

「アドニスの体には、大天使と同じ大きな器の中に、純天使達と同程度の聖気が、ほんの少しだけ入っている状態だ」

カップの底、ひと匙分の聖気が一雫だけ入っているようなものだ。その聖気量は、純天使とそう変わらないだろう。

「バルドル様、アドニスの聖気は…変質した、ということですか?」
「変質というよりも、魂と共に聖気も生まれ変わった、と考えた方が正しいだろうな。…恐らくとしか言えないが、アドニスが死んだ時に、聖気も一度生き絶え、真っ新な状態に戻ったのだろう……でなければ、何もかも忘れるだなんてことにはならないはずだ」

説明し難く、理解し難い。
それでも現実として起こり、腕の中で、今その現実は穏やかに眠っているのだ。

授花じゅかがあれほどに光ったのも初めて見たが…もしかしたら、魂の在り方が聖気そのものに近しいからこそ、あのように反応したのかもしれないな」

今まで何代ものフォルセの果実達が選ばれる瞬間を見てきたが、本来は淡く発光するだけだ。部屋全体を照らすほど、目が眩むほどの光を放つことはなかった。

「……次代のフォルセの果実は、当分現れないかもしれないな」
「…なぜ、そう思われるのですか?」

ポツリと呟いた声に、ルカーシュカが反応した。

「この子の聖気が、これ以上成長しないからだ」
「……成長しない、ですか…?」
「そうだよ。器がこれ以上、大きくならないからな」

そう返せば、何かに気づいたように、ルカーシュカの瞳が僅かに見開いた。
聖気は天使が成長していく中で、それぞれの性質や性格に徐々に染まっていく。
そしてそれは、器の変化と共に起こることだ。

アドニスの有している器は、大天使の器として既に完成されている状態───それ以上、もう成長できないのだ。

「アドニスを大天使として定めたのは、母提樹が選んだからだけではないよ」

純天使と呼ぶには熟した思考、天使と呼ぶには未熟な知識。
成長過程の経験も無く、生きた時間はまだ短く、聖気の量は微々たるもので、粛法も扱えず、翼も無い。
それでもその肉体と、有している器の大きさは、紛れもなく大天使のそれなのだ。

「アドニスの聖気は、完成された器の中で、既に固定されていた。この子の聖気はこのまま…生まれた時の色のまま、変わらない」

そう告げれば、誰もが目を見張った。

「この子の魂は、驚くほど純度が高い。生まれたばかりの純天使と同じだから、というのが理由ではないよ。…アドニスの中には、憎しみや恨みといった負の感情が一切無い。そういった感情での濁りが、まったく無いんだ」

強すぎる負の感情は、魂を濁らせる。それが幼な子の頃であれば尚更だ。
理不尽に歪められた誕生と、一方的にぶつけられた憎悪に対し、アドニスが強い反感を覚えてもおかしくなかった。

だがアドニスは、「悲しい」と涙を流し、「どうして」と憂い、身を刺すような痛みを受けても、他者を責めるような感情を一切抱かなかった。
行き場の無い感情を向けていた矛先は、いつだって自分自身…『アドニス』に向かっていた。
その感情ですら、傷つき痛々しい姿をした、牙にも毒にもならないものだった。

「お前達にも、覚えがあるんじゃないかな? この子は、他者を恐れることはあっても、嫌うことは無かっただろう?」

そう伝えれば、覚えがあるのだろう二人がそっと目を伏せた。

「私を恨み、皆を嫌い、憎しみと怒りだけを募らせていたら、きっと今のアドニスのままではいられなかった。そうならなかったのはアドニスが…この子の魂が、きっと特別美しいからだ」

どれほど泣いても、どれだけ傷ついても、それを自分自身で癒すように…記憶で触れたアドニスは、小さな小さな幸せを見つけては、ささやかな幸福を喜んでいた。

それは、ただ窓を開けて一歩外に出るだけのような
それは、薄絹のカーテンが風に揺れる様を眺めて楽しむような
それは、満点の星空を見上げて祈るような───…

限られた世界の中、ただ在るものを喜び、僅かばかりの幸せを慈しみ、与えられた情に感謝し、愛しいと尊ぶ。
驚くほど素直で、危う気なほど純粋で、恐ろしいほどに美しい魂───それが、今のアドニスが有する聖気の色だった。


「アドニスがアドニスで在り続ける限り、きっと永遠に、母提樹はこの子をフォルセの果実に選び続けるだろう」


永遠が途切れる日は恐らく、アドニスが命の湖に還る時だろう───声に出さずとも伝わった言葉に、誰もが皆、口を結んだ。




「随分長く、話し込んでしまったな」

気づけば、硝子天井からは月が見えていた。
ポツリ、ポツリと降る雨粒が、月明かりと星明かりを反射し、キラキラと煌めく。淡い光が零れる広間では、イヴァニエとルカーシュカ、オリヴィアを交え、今後のことについて話し合った。

昼間集まった大天使達には、予定していた通り、詳細は伏せたまま、アドニスを保護したことだけ伝えた。
反発もあったが、フォルセの果実を選ぶ段階になり、その場にいた誰も選ばれなかったことで、別の騒ぎが起きた。

誰も選ばれなかったということはつまり、フォルセの果実に相応しい者が、その場にいないということ───裏を返せば、イヴァニエ、ルカーシュカ…そしてアドニスの内の誰か、ということになる。

皆が落ち着きを無くす中、アドニスを『保護した』のだと重ねて伝えれば、少なからず何かあるのだろうと察しはつく。
自分自身まだ何も分からず、何も説明できないとした上で、改めて説明の場を設けると言って、強制的に離宮へと帰らせたのが夕刻の話だ。

「改めて、三日後に皆を招集しよう。前日には『はなむけ』の報せを飛ばそうと思う。誰の、とは伝えず、皆が集まったその場で、アドニスとの別れと、新たな大天使の誕生を伝えようと思うが、いいかな?」
「アドニスは、その場にいなくてよろしいのですね?」
「ああ、いない方がいい。アドニスがフォルセの果実に選ばれたことも伝えるが、他の者達と接触しない様、皆にはフレールの庭への立ち入りも禁ずるつもりだ」

アドニスのことで、恐らく大きな混乱が起こるだろう。
そこに悪意や敵意が無かったとしても、皆が騒つく姿だけで、今のアドニスには負担になる。
今後はイヴァニエ達と情報を擦り合わせ、アドニスがこれから穏やかに過ごせる為の基盤を作り、不安なく務めを果たせる様、環境を整えていかなければならない。
間違っても、もう一人のアドニスと混同され、無意味に傷つくことがないように───過保護過ぎるくらいで、ちょうどいいのだ。

「───…」

ふとした時、もう一人のアドニスはもういないのだと思い出しては、ふるりとかぶりを振った。
忘れはしない、決して。ただ今は、腕の中で眠るアドニスの未来を考える時間だと、意識を切り替えた。

「…今度こそ、怖い思いをしない様、父が守ってあげよう」

すぅすぅと零れる吐息は規則的で、当分目覚めそうにない。
幼い寝顔を見つめ、指先で長い睫毛を撫でると、頬に触れる。柔い肉を少しばかり揉むように撫でれば、仔猫の鳴き声のような寝言が漏れた。

「んに…」
「ふふ、本当に可愛らしい子だな」
「……バルドル様、そろそろアドニスを部屋で休ませてやりたいのですが」
「うん? もう少しこのままでもいいんだが…」
「バルドル様、アドニス様もお疲れです。お戯れもほどほどになさって下さいませ」
「…仕方ない。諦めるしかないな」

眠りが深いのは、それだけ疲労が積もっているということだろう。
肩を竦め、アドニスを抱き直すと、イヴァニエとルカーシュカの斜め後ろ、存在感を極限まで消し、静かに佇んでいる天使を見た。


「エルダ」


「……、」

ピクリと肩が揺れ、僅かに身構えたのが見て取れたが、それを瞬時に消す辺り、なかなかに優秀な子だ。

「アドニスを」
「…はい」

それだけで伝わったのだろう。数歩前に出たエルダに向けて、ふわりとアドニスの体を浮かせた。
緩やかな波にその身を任せるように、ふわふわとエルダの元まで飛んでいく体を、細い腕が優しく抱き留めた。
アドニスの体を小さな体でしっかりと抱き締め、ホッと緩めた表情は、つい先ほどまでの無表情が嘘のようだった。

(……なるほど。この子もイヴァニエとルカーシュカと同じか)

それぞれがアドニスに向けた恋慕の情。
熱く、穏やかで、深い愛情は微笑ましく、アドニスを大事に、大切に想っているのが伝わってきた。


───なればこそ、見て見ぬフリはやめておこう。


本人が口を閉ざすことを選んだのであれば、それもいいかと目を瞑っていたが…と、そんなことを考えながら、エルダを見つめた。

「エルダ、あなたは先に部屋に戻ってアドニスを休ませ───」
「ああ、待ちなさい」

イヴァニエの指示に従い、部屋を出て行こうとするエルダを引き留めた。

「…バルドル様? いかがなさいましたか?」
「なに、エルダに話しがあるんだ」
「…っ」

途端、緊張が走ったのは、誰だろう。

「そう緊張しなくていい。アドニスを寝かせておく場所を用意しよう。オリヴィア」
「畏まりました」
「……恐れながら、そちらは不要でございます」

そう告げると、エルダのコーディッシュルームから、三日月の形をした揺り籠のようなベッドが現れた。
揺り籠といっても、使うのはアドニスだ。大人一人がゆったりと横になれる大きさのベッドが、当たり前のように出てきたことに驚いたのは、自分だけではないはずだ。

「…すごいものを持ち歩いているんだな」
「アドニス様に必要だと思う物は、一通り揃えておりますので」

そのベッドは必要な物なのか? という疑問は、たった今必要になったので飲み込んだ。
幼な子が喜ぶような可愛らしい形のベッドにアドニスを寝かせ、光と音を遮断する粛法を施すエルダを目で追いながら、イヴァニエとルカーシュカに視線を移す。
どこか緊張した面持ちの二人の様子に、もしかしたら、何か気づいているのだろうか…と顎を撫でた。

(…なんとも、慌ただしい一日だ)

大きな争い事も無く、平穏な日々を繰り返す天界において、こんなにも様々な出来事が一日で起こることは珍しい。
滅多にない稀有な日に、思わず零れた笑みを口元に浮かべると、こちらに向き直り、姿勢を正したエルダを見据えた。

「さて…エルダ、というのは、アドニスが付けた名だね?」
「……はい。左様でございます」

咎めるつもりはないのだが、返事をするエルダの声は硬く、苦笑が漏れた。


「良い名だ。……単刀直入に聞こう。エルダ、姿?」


「───ッ!」

瞬間、その表情が強張った。
翠色の瞳を揺らし、薄く噛まれた唇を見つめながら、内心で「やはり」と独り言ちる。

(お前はきっと、今の姿のままでいたいんだな)


───アドニスの為に。


その願いを壊すつもりはない。
不安気にこちらを見つめる瞳を真っ直ぐ見つめ返すと、殊更柔らかな声で問い掛けた。






「───『器』の大きさが、変わっているね」
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