天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

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(自分が…フォルセの、果実…)

宣言された言葉に、感情も思考も追いつかない。
自分にも出来ることがあった…とても喜ばしいことで、それを素直に嬉しいと思い、安堵する反面、初めて得た知識はそれがどれほど光栄なことか分からず、戸惑う気持ちも大きかった。

「う…、と…」
「いきなり言われても、困ってしまうな。後でイヴァニエ達に、ちゃんと説明してもらいなさい」
「は、はい」
「…大丈夫だ。お前なら、立派に役目を果たせるだろう」
「…っ、…あ、ありがとう、ございます」

表情を綻ばせたまま、頭を撫でるバルドル神に、ぷくぷくと嬉しさが込み上げる。
自分にそのような大事な役が務まるのか…そんな不安は、『大丈夫』と思わせてくれるような力強い声に、どこかへ逃げて行ってしまった。
ドッと押し寄せた安堵の波に、ほぅっと緩い息を吐き出せば、ただでさえくったりとしていた体が更に脱力した。

「疲れてしまったな。早めに終わらせるから、もう少しだけ、父の話に付き合っておくれ」
「はい…」

返事をしつつ、とろとろと溶け始めた意識に、必死に抵抗する。

「そうだな……三つ、今この場で聞いておこう。一つ目は、名前についてだ」
「……名前?」
「そう、お前の名だ」

(…私の名前が、どうしたんだろう?)

キョトリとバルドル神を見つめれば、眉を下げた笑みが返ってきた。

「アドニス……その名前は、あの子の…お前ではないアドニスに与えた名だ。アドニスとお前が別人だと分かった以上、お前にはお前の、名を与えて然るべきだろう」
「え……」

思ってもいなかったことを言われ、眠気も一瞬飛んでしまった。

「名を考えるのにも時間が必要だ。少し待たせてしまうことになるが、良い名を贈ろう」
「え……ぇっと…」

突然のことに、まだ動揺が収まらない。
困惑よりも、『アドニス』という名が、自分の名ではないと言われたことにショックを受けている自分がいて、視線が泳いだ。

「どうした? またそんな泣きそうな顔をして」
「ぁ…ぅ……あ、あの…」
「うん?」
「…な、名前……アドニス…の、ままじゃ…ダメ…ですか…?」

そう告げれば、バルドル神が目を見張った。その表情から、いけないことを言ってしまったと思い、慌てて首を横に振った。

「あ、あの…っ、ダ、ダメなら…いいです…! 別の、名前で…」
「…ダメではないよ。ただ、お前がその名を望む理由を教えてくれるかい?」
「っ…」

射抜くような真剣な眼差しと、有無を言わせぬ声音に、クッと喉が鳴った。

「だ…て…、ず、ずっと…アドニスって、呼ばれてて…ずっと…自分の、名前も…分からなかった、けど…エ、エルダに…アドニスは、私の…名前って、教えて、もらって……だから…私にとっては…アドニスは……私の、名前で…」

しどろもどろになりながら、それでもなんとか自分の気持ちが伝わる様、必死に口を動かした。

自分自身の名前すら分かっていなかったあの頃。
分からずとも、皆に『アドニス』と呼ばれていることで、それが自分の名前なのだろうと、うっすらと理解していた。
曖昧だった輪郭がハッキリとしたのは、エルダにそれが自分の名だと、きちんと教えてもらってからだ。
あの瞬間から、自分は『アドニス』なのだと、ずっとそう認識していた。それが自分の名前なのだと、確かな形になった。
『アドニス』と自分が別人だとしても、それでもその名は、自分の名前でもあり、自身を象る一部だと思っていた。
だからこそ、その一部を失ってしまうのは寂しく、自分が自分で無くなってしまうような恐ろしさがあった。

「ずっと…呼ばれてた…私の名前、だから……アドニスのままが、いい…です…」

我が儘なのは分かっている。
本物の『アドニス』から、名を奪ってしまうような行為なのかもしれない。
それでも叶うならば、自分ではない…もう一人の自分と同じ名前が欲しいと思ってしまった。

「ご、ごめんなさい…! アドニス……様、の、名前を…と、取っちゃうつもりは、なくて…」
「…大丈夫だよ。そんなに悲しそうな顔をするな。…そうだな、お前はもう、アドニスという名で呼ばれているのに、それを奪おうだなんて、酷いことを言ってしまった」
「えっ!? ちが…! 自分が…と、取っちゃ…」
「安心なさい。あの子から名を奪う訳ではないよ。アドニスという名を持つ者が、二人になるだけ……ただ、それだけだよ」
「…バルドル様…」

瞳を細めて笑うその顔が、やはり泣いているように見えて、堪らずその名を呼ぶも、その表情はすぐに消えてしまった。

「では改めて、お前に名を授けよう」
「…!」

言い終えるや否か、バルドル神の体がほんのりと光を帯び、増した神々しさに息を呑んだ。


「幾千、幾万の尊き日々よ。母なる大地の蕾より生まれし、愛しき我が子よ。巡り出逢えた奇跡に感謝し、父から子に名を贈ろう───『アドニス』」


「は、はい…!」

訳も分からず、それでも名を呼ばれたことで、反射的に返事をした。


「大天使アドニス、我が命により、その名をもって、新たな大天使の誕生とする」


「…ん……ん、と…」

(えっと……ど、どうすればいいの…? …て、あれ? 大天使…? そういえば、自分って…何に…)

色んな疑問が頭の中でごちゃごちゃして、なんと答えればいいのか分からない。
助けを求めるように、オロオロと辺りを見回していると、バルドル神の側に控えていた天使が、そっと助け舟を出してくれた。

「アドニス様、『名を頂戴します』と、一言仰って頂ければ大丈夫ですよ」
「あゎ…っ、あ…な、名を…ちょうだい、します…!」

小声で助言してもらった言葉をそのまま繰り返せば、同時に胸の奥がじんわりと熱を帯びたのが分かった。

「んっ…」

瞬間、『アドニス』という響きが、自分の魂に刻まれたような感覚に包まれ、咄嗟に胸元を押さえた。
体の内側から広がった熱は、一瞬で指の先まで巡ると、血肉に染み込むように消えていった。
与えられた名前が、爪の先から髪の一本一本まで、自分と一体化したような不思議な感覚に、ほぅっと息を吐いた。

「きちんと、お前の名になったかな?」
「…はい」
「そうか。良かった」

正しくその通りという感覚にコクンと頷けば、微笑むバルドル神に頭を撫でられた。

「名前はこれで大丈夫だ。ではアドニス、二つ目は離宮についてだ」
「…離宮?」
「そうだ。大天使となった者には、それぞれ離宮を与えている。新たに造っても構わないし、もう一人のアドニスが使っていた離宮もそのままだ。好きなものを選んでもらえばいいと思っているが、どうかな?」

自分ではないアドニスのことを、“もう一人の”と呼んだことで、同じ名前でも明確に別人となったことが分かった。
その響きに、そわりと落ち着かない気持ちになりながら、思考を巡らせ、なんと答えるべきか考えた。

「ん、と……それは…ないと、ダメ…ですか?」
「うん? どういう意味かな?」
「えっと……その…今の、お部屋にいちゃ…ダメ、ですか…?」
「今の部屋に?」

パチリと目を瞬くバルドル神を前に、無意味に指先が遊んだ。

「今の、お部屋が…好きです……んと、自分の…いる場所って…思うから…だから……今のお部屋が、いい…です」
「…ふむ」

思考を巡らせるように、視線を逸らしたバルドル神を見上げ、ドキドキしながら返答を待った。

最初の頃は、自分を閉じ込めておくだけの、外に出てはいけないだけの部屋でしかなかった。
孤独を詰め込んだような無機質な空間は寒々しく、どこまでも寂しかった。

それがいつしか、いつもエルダが居て、赤ん坊達と日永戯れ、ルカーシュカとイヴァニエが遊びに来てくれる場所になった。
何も無かった殺風景な室内は、淡い色合いの家具が並び、赤ん坊達の摘んできた花が所々に飾られ、違う部屋のように彩りを得た。

命の湖から帰ってきて、あの部屋に足を踏み込んだ時、自然と抱いた『帰ってきた』という安心感。
寂しい時間と悲しい記憶も、楽しい時間と愛しい記憶も、共に過ごしたあの部屋が、とても大切な場所になっていた。
叶うならば、この先もあの部屋で過ごしたい…そう思ってしまったのだ。

「…ダメ…なら…あの…違う、お部屋で…あ、お城…?」
「いや、ダメということはないが…あの部屋は、狭くないか?」
「…え?」

(狭い…かな? すごく広いと思うんだけど…)

いや、確かに離宮と呼ばれるような建物に比べれば狭いのかもしれないが…と思いつつ、首を傾げた。

「新たに従者も必要だろう? 部屋の中は自由に変えればいいが、部屋数そのものは増やせないからな」
「……新た、に…?」

(どうして? エルダがいるのに……)

そこまで考え、ハッとする。

───あまりにも当たり前のように側にいてくれた為、今の今まで完全に忘れていた事実に、ザァッと血の気が引いた。

(あ、あれ…? もしかして…エルダって、いなくなっちゃうのかな…?)

今更なことに気づき、堪らず後ろを振り返った。

「…ッ!」

自分でも泣きそうな顔をしているのが分かったが、どうしようもない。
縋るように見つめた先、静かに佇んでいたエルダと視線が絡めば、いつもと変わらず、柔らかな笑みを返してくれた。

『大丈夫ですよ』

そう言ってくれているような笑顔に、今度は安堵で泣きそうになる。

「…バルドル様、よろしければ発言をお許し下さい」
「構わないよ。お前は……エルダだね」
「はい。。…アドニス様の従者ですが、現状、私一人でも問題ございません。恐らくですが、今後も今以上必要にはなることはないでしょう」
「…そんなに手が掛からない子なのか?」
「……はい。何かを言いつけられることもございませんし、私一人でも、余裕があるほどでございます。今後のお役目のことを考えても、恐らくそれは変わらないでしょう」
「そうか……ふむ。まぁ、いずれ必要になれば、その時に増やしてもいいだろう」
「……はい。その時が来れば」
「ぅ……ぅ…」

エルダとバルドル神のやりとりを見守りながら、視線を行ったり来たりさせていると、会話の切れ目でトントンと背を優しく叩かれた。

「大丈夫だよ。お前をずっと見守っていた者がああ言うんだ。何も変えず、今まで通りで構わない」
「は、はい…!」

それはつまり、エルダが側にいてくれるのも変わらないということだろうか?
話の流れではそのような雰囲気だったが…と、そんなことを考えていると、頬を撫でられた。

「では、あの部屋はお前にあげよう。今日からあの部屋の主はアドニスだ。好きに使いなさい。私としても、離れた場所で過ごされるより、宮廷内にいてくれた方が安心だ。私の所へも、いつでも遊びにおいで」
「は、はい…! ありがとう、ございます…!」

(お部屋、もらえた…!)

問答無用で押し込められた場所ではなく、自分が望んで与えてもらった自分の場所。それが嬉しくて、へにゃりと頬が緩んだ。

「───」
「…? バルドル様…?」
「……いや、ようやく笑ってくれたな」

一瞬、その口元から微笑みが消えたように見えたが、瞬きの間に元の表情に戻っていた。

「これからも、愛らしい笑顔を見せておくれ」
「…ん…と……はい」
「ふ…お前は本当に良い子だな」

そう言って、また頬を撫でられた。

(なんだか…たくさん褒められてる気がする…)

先ほどから些細な…いや、些細とすら呼べないようなことでも「良い子」と言って褒められ、ずっと頭や頬を撫でられている。
自然な手付きは心地良く、つい何も考えずに受け入れていたが、はたと自分の現状を思い返し、心拍数が跳ね上がった。

…バルドル神の膝の上に腰を据えてから、どれほどの時間が過ぎただろう?

腰に回されたままの腕に抱き寄せられ、力の入らない体は甘えるようにその身に寄り掛かっていた。
つい今ほどなど、その背にしがみ付き、赤ん坊のように泣きじゃくっていたのだ。

(あ、れ…? これって…良くないんじゃ…?)

相手は神様だ。
神様の膝の上に座って、あまつさえその上で休んでいるようなものだ。
ぶわっと込み上げたのは、焦りか動揺か。内臓が竦み上がるような言葉にし難い感覚と、無意識の内に甘えていた羞恥心に、一気に顔が熱くなった。
それとなく体を起こそうとするのだが、力の入らない体では上手くいかず、不自然に身を捩るだけに終わってしまった。

「どうした?」
「ぅあ…あ、あの、降り…ます…」
「なぜだ? 無理に動こうとしなくていい。休んでいなさい」
「あぅ…」

うごうごと身じろぎするも、その動きごと抱き締められ、結局はより深く抱き寄せられる結果に終わってしまった。

「あと少しだから、大人しくしていなさい。これで最後……お前の、翼のことだ」
「…!」

それまでとは異なる、ハッとするような空気に、寸前までの羞恥心も掻き消された。
慌てて背を正そうとしたが、力の抜けた体は相変わらずで、くたりとバルドル神の体に寄り掛かったまま動けなかった。

「そのままでいいから、聞きなさい。…翼を奪ったのは、もう一人のアドニスへの罰で、お前とは無関係だ。本来在るべき姿として、お前に翼を授けたいと思うが…馴染むまでには時間が掛かるだろう。心身への負担もあるかもしれん。今すぐではなく、落ち着いた頃に、改めて場を設けたいと思うが…いいかな?」

サラリと告げられた言葉に、大きく目を見開いた。
極々当たり前のように、翼を与えようとしてくれるバルドル神───だがそれに反して、自分の中は戸惑いに満ちていた。

「……あ、の…バルドル、様…」
「なんだ?」
「…え…と……あの…翼って……」
「うん」
「……無いと…ダメ、ですか…?」
「……なに?」

恐る恐る呟けば、訝しむような返事が返ってきて、ピャッと体が跳ねた。

「あっ…ぅ、ご、ごめんなさい…! あ、あ、あの…、ヤ…て、ことじゃ…なくて…っ」
「アドニス、怒ってないから落ち着きなさい。私も少し驚いただけだ。…どうした? 欲しくないのか?」
「う……ぅ、と…欲しくない…じゃ、なくて…」
「うん、じゃなくて?」
「…だ…だ、って…あの……最初、から…無かった、から…」

そう返せば、今度はバルドル神が大きく目を見開いた。
驚くのも無理はない。天使が背に携えている純白の翼。そこに在るのが当たり前の、背にあることが当然で、必然である存在。


だがそれは、自分の背には生まれた時から無かった。


無いことが当たり前で、それが自分にとっての普通だった。
彼らの背に在るのは当然で、でも自分の背には無いのが当然で、知らない。
だからこそ、最初から無いものを「授ける」と言われても、困ってしまうのだ。

(自分の背中にっていうのも…なんだか想像できないし…)

皆の翼を見て、綺麗だな、凄いなと見惚れることはあっても、それを欲しいと思ったことはない。
自分の体の一部として、本来在るべきものだったという意識が皆無なのだ。

「だから……あの…」
「…さて、困ったな。お前には必要ないのか」
「え…ぅ……わ、分かんない…です…」

必要なのかそうでないのかさえ分からない。
居た堪れなくなり俯けば、バルドル神が意識を自分から別に移したのが分かった。

「イヴァニエ、ルカーシュカ。この子はこう言っているが、どう思うかな?」

自分が答えられないから仕方ないのだろうが、二人
にその質問を投げられても困るのでは…と、申し訳なさから更に縮こまった。

「……左様でございますね。本来在るべきものということを考えれば、あった方が良い、と思うところもあります。ただ、アドニスの行動が今までと変わらないのであれば、必ずしも必要ということはないのかもしれません」
「同じくです。あれば出来ることも増えますが、アドニス本人がそれをどの程度望むのか、それによって必要かそうでないかは変わってくるのかと思います。…今はその判断すらできないのが、現状かと思います」
「…なるほど。もう少し見聞を広める必要があるのか……そうだな。お前は、あの部屋の中しか知らないんだったな」

(……なるほど)

自分自身の話は、どこか他人事のようで、バルドル神と一緒になって納得する。
客観的な意見に感心していると、痛ましげに表情を曇らせたバルドル神に、するりと頬を撫でられた。
やわやわと頬を撫でる乾いた手の平の温かさは心地良く、うっとりと目を閉じる。

(気持ち良い…)

頬や頭を撫でられるたび、少しずつ蓄積されていく眠気。ゆっくりゆっくりと蕩けていく意識に、ゆるゆると身を委ねる。

「……もう少し、様子を見るべきかな」
「アドニスが必要だと思った時でも、遅くはないのかもしれません」
「…分かった。アドニス」
「ぅあっ、は、はい…っ」

眠気も相まってぼんやりとしていたところに名前を呼ばれ、ビクンと体が跳ねた。

「ふ…、起こしてごめんよ? アドニス、翼については、今はまだ保留にしよう」
「…いいん、ですか…?」
「いいよ。無理に与えるものでも、与えられるものでもないからな。これから先、様々なものに触れ、色んな経験をして、必要だとお前自身が思ったならば、その時に改めて授けよう」
「…はい」

(…いいのかな?)

アッサリと許されてしまったことに、自分で言い出しておいて不安になる。
思えば、先ほどから「あれは嫌」「これが良い」と我が儘ばかり言っていることに気づき、そんな自分が途端に怖くなってきた。

「ぁ…あの…わ、我が儘、ばっかり、言って…ごめんなさい…」
「うん? 何がだ?」
「い、いっぱい……な、名前とか…お部屋、とか…」
「…あれが我が儘なのか。また随分と可愛らしい我が儘だ。愛い子だな、お前は」

(……なんで?)

我が儘を諫めてもらおうと思ったのに、ニコニコと笑うバルドル神に、何故かまた頭を撫でられている。
まったく気にしていない様子に、それ以上も言えず、頭を撫でる右手と、背中に回された左手が背を優しく叩く温度に、朧げだった不安は瞬く間に消えていった。
ふっと気を緩めるのと同じく、意識が眠りの底へと向かい始めたことに気づき、ギュッと目を瞑った。

「…あの、寝ちゃう、から…降ります…」

かろうじて残っていた理性で、バルドル神の膝の上から降りようとするも、力の入っていない動きは呆気なく止められてしまった。

「よく頑張った。そのまま眠ってしまいなさい。長く父の話に付き合ってくれて、ありがとう。アドニス」
「……ぅん」

いけないと思うのに、許しを得たことで、いよいよ緊張の糸もプツリと切れてしまった。
思い返せば、昨夜から睡眠も取らず歩き通しで、感情が昂るままたくさん泣いて、少なからず聖気も消費した。気づいていなかっただけで、自分の肉体はとっくに限界だったのだろう。
みるみる内に眠りに落ちようとする意識の端、バルドル神の低い声が耳に届いた。


「アドニス、私の愛しい子。これから先の未来は、お前のものだ。お前らしく、健やかに過ごせる様、父はいつでも見守っているよ」


「───…」

顔を見ずとも、微笑んでいるのが分かる穏やかな声。
子守唄のようなその声に、口の中でもごもごと返事をすれば、低く笑う声が聞こえた。


「さぁ、もう寝る時間だ。───おやすみ、愛しい子」










◇◇◇◇◇◇

「……眠ったな」

腕の中から聞こえ始めた小さな寝息。
大きな体に不似合いな、それでいてどこかしっくりくるような幼い寝顔を見つめながら、すべらかな頬をそっと撫でた。
聞いているだけで愛しさが込み上げる呼吸の音は、だが同時に胸を締め付けた。

「……この子にも、あの子にも、残酷なことをしてしまった」

吐き出す息は重く、後悔ばかりが募っていく。

「バルドル様、アドニス……その、もう一人のアドニスは…」

躊躇いがちに掛けられたイヴァニエの問いに答える前に、眠る子の周囲から音を消した。こうしておけば、万が一にもこの子の耳に話し声が届くことも、起こすこともないだろう。
…この子に聞かせるのは、あまりにも酷だ。


「───アドニスは、死んだよ」


意を決して発した声は、無様なほど掠れていた。
緊張感に満ちた重苦しい空気の中、言葉を失うイヴァニエ達の顔を直視できず、瞳を伏せたまま、眠るアドニスの頬を撫でた。

「…もう一人のアドニスは、もういない」

事実確認をするように言葉を重ねれば、心臓を押し潰されてしまいそうな痛みが走った。

「……死んだ、のですか…?」

動揺に揺れるルカーシュカの声に、眉根を寄せ、頷き返した。
命の湖に還り、命を巡らせることが常識である天使達にとって、『死』とは限りなく縁遠いものだ。例え、相手が因縁のあった相手であっても、受けるショックは大きいだろう。

「この子が……アドニスがどうやって生まれたのかは、正直分からない。ただ、もう一人のアドニスの記憶も、聖気も、もうどこにも遺っていない。この子の中にもいない。…最初から、いなかったみたいにな」

…ああ、なんて悲しいことだろう。

命の湖に還ることすら出来なかったあの子の魂は、もう二度と、この世界で生まれることはないだろう。

「あの子の体、あの子の器の中で、別の魂…新しい命として、この子は生まれた。きっとこの子が生まれる前……翼を奪った時に、アドニスは死に、生まれたばかりのこの子は、何も知らぬまま、アドニスが負うはずだった罰を受けることになってしまったのだろう…」

…ああ、なんて痛ましいことだろう。

何の罪も無い幼い魂に、なんて惨たらしい罰を与えてしまったのか───悔やんでも悔やみ切れない後悔と、気づいてやれなかった己の愚かさに、アドニスを抱き寄せる腕に力が籠った。

「……、」
「ああ、ごめんよ。起こしてしまうところだったな」

聞こえていないと分かっていても、つい話し掛けてしまう。
一瞬だけ乱れた寝息も、すぐに規則正しいものに変わり、頬を撫でてもなんの反応もない体は、深い眠りについていることが分かった。
あどけない寝顔は幼い子達のそれとそっくりで、眺めているだけで、痛む心を慰めてくれた。




広間に入ってきたアドニスの姿を見た時、一目で分かったその異様さに目を剥いた。

ルカーシュカが、アドニスを心底憎んでいたルカーシュカが、アドニスを横抱きにして現れたのだ。
そしてアドニスも、ルカーシュカの腕の中に大人しく収まっていた。

自身の腕をルカーシュカの体に巻き付け、どこかオドオドとした様子で辺りを窺い、絡んだ視線もすぐに逸らされてしまう…話に聞いていたとはいえ、あまりにもと違うその姿に、頭を強く殴られたような衝撃を受けた。

縋るようにルカーシュカに伸ばした手の弱々しさも、イヴァニエに腰を抱かれそっと寄り添う儚さも、ただ立っているだけで庇護欲を掻き立てる姿のそれら全てが、アドニスあの子の全てと異なっていた。

ゆっくりと階段を上がり、向かってくる姿を見つめ、口元には笑みを浮かべながらも、胸中は酷く取り乱していた。


───この子はきっと、アドニスではない存在だ。


ゆらゆらと揺れる黄金の瞳を見つめながら、体の底から冷えていくような恐ろしさと悲しさに襲われた。

覚悟はしていた。覚悟しながらも、この子がアドニスでないのだとしたら、アドニスは───と目を背けることも、逃げ出すこともできない二つの現実に、ただただ悲しみが募った。


ああ…私は、二人の我が子を不幸にした。


揺るがぬ事実は残酷で、だが目の前に立つ子にとってはこれからの希望に繋がり、光となる───たった一筋だけ許された懺悔を胸に、己の犯した罪と向き合う為、その記憶に触れた。


そうして、もう二度と還ることのない命が、過ぎ去った日々の向こう側で、既に消えていたことを知ったのだ。




「以前の記憶が無くて当たり前だ。生まれる前のことなど、知らなくて当然なのだからな…」

当たり前のことを実感すればするほど、気持ちは暗く、重く、沈んでいく。
そうして湧き上がるのは、生まれたばかりの愛すべき我が子を、絶望の底に堕としてしまった己自身への憤りだった。

「本当に、どれほど怖かっただろう…」

純天使と同じ魂は、悪意や敵意に敏感で、脆く傷つきやすい。
ましてや生まれたばかりの、本来なら皆に愛され、守られるべき存在が、肉体的にも精神的にも耐え難いほどの苦痛の中、無防備に放り込まれ、晒されたのだ。
どれほど恐ろしかったか…せめてあの時、その異変に気づけていたら、と押し寄せる後悔に奥歯を噛み締めた。

アドニスの記憶に残っていた果てのない孤独と、胸が千切れてしまいそうなほど痛みと、凍えてしまいそうなほどの恐怖。
今こうして腕の中で穏やかに眠っていることが奇跡に思えるほど、いつ壊れてもおかしくない状態だった。
その奇跡を繋ぎ留めてくれた幼い子達と、慈しみ、愛情を注いでくれた彼らには、感謝してもしきれない。

「イヴァニエ、ルカーシュカ、エルダ。本当によく、この子を護ってくれた。ありがとう」

心からの感謝を伝えれば、三人が揃ってその場に膝をつき、首を垂れた。

「この子はお前達と共に生きることを望んでいたが、それはお前達も同じ気持ちということかな?」
「はい」
「勿論でございます」

真っ直ぐ返された声は力強く、それがそのまま、この子が愛されている証のようで嬉しかった。

(…そんな風に思う資格が、私にあるだろうか?)

それでも、心の底から、そう思うのだ。

「すまない…すまない、アドニス。……愚かな父を、許さないでおくれ」

募る懺悔は、どちらに向けたものか。
既に一人はもういないのだと分かっていても、言葉を止めることが出来ず、抱き締める腕には再び力が籠った。

「バルドル様…どうか、そのようにご自身ばかりを責めないで下さいませ」
「我々も、同じ罪を犯しました」

苦渋に満ちたイヴァニエとルカーシュカを見遣り、瞳を細めた。

「…ありがとう。だが、この罪は私だけのものだよ」
「いいえ、私達も…我々が、大天使の総意として、アドニスへの罰を御身に願いました。バルドル様は、その願いを聞き入れて下さったに過ぎません」

そう言い切る優しい我が子達に、眉根を寄せ、瞳を伏せた。

「間違えてはいけないよ。イヴァニエ、ルカーシュカ」

ゆるりとかぶりを振ると、すっと息を吸い込んだ。

「お前達がアドニスへの罰として望んだのは、大天使としての地位の剥奪だ。……翼の剥奪は、私があの子に与えた罰だ」



───翼を喪ったことで、アドニスは死んだのだ。



「……あの子を殺したのは、私だよ」



吐き出した言葉は、鉛のように重く、罪の重さに堪え兼ねた心臓が、ギシリと悲鳴を上げた。
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感想 503

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