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フォルセの果実
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イヴァニエとルカーシュカの手を取り、バルコニーと部屋との境い目を跨げば、足裏に馴染んだ床の感触が触れ、ホッと気持ちが緩んだ。
(……帰ってこれた)
半日、たった半日離れていただけなのに、懐かしく感じる雰囲気にホッと息を吐きながら、ぐるりと室内を見回した。
『帰ってきた』
自然とそう思えるほど、この部屋が、自分にとっての居場所になっていたのだと改めて実感させられ、妙に嬉しくなった。
「それじゃあ、行ってくる。すぐ戻るが、俺達が戻るまで、部屋から出るんじゃないぞ?」
「はい」
「エルダ、アドニスを頼みますよ」
「畏まりました」
戻ってきてすぐ、イヴァニエとルカーシュカは、宮廷内を見てくると言って、部屋を出て行った。
バルドル神の元ではなく、一度部屋に戻ってきたことを不思議に思っていたのだが、二人曰く「誰も残っていないか、確認してからでないと不安で外に出せない」とのことだった。
(これから…神様と会うんだ…)
じわじわと実感し始めた現実に、落ち着かない気持ちになりながら、エルダとソファーに並んで座り、二人が戻ってくるのを待った。
「アドニス様、お疲れではございませんか? 少しお休みになられた方がよろしいのでは…」
「ん…大丈夫。あんまり…疲れてないみたい」
夜通し歩き、たくさん喋り、たくさん泣いた。あれほど感情を揺さぶられた後だというのに、高揚感の方が勝っているせいか、肉体的な疲れはほとんど感じなかった。
「エルダは…? 大丈夫? 疲れてない?」
「私は大丈夫です。その…ほとんど動いていませんので…」
うっすらと頬を染めるエルダに、はたとあることを思い出し、ジッとその顔を見つめた。
「そういえば…エルダって、赤ちゃんになれたの…?」
あまりにも今更な質問を口にすれば、エルダの目が僅かに泳いだ。
昨夜はそれどころではない状態で、疑問を尋ねることすら忘れていた。その上で、気持ちが落ち着いてきた頃には、エルダを腕に抱いていることに違和感を感じなくなっていたのだ。
改めてイヴァニエとルカーシュカに指摘されるまで、極々自然に『赤ん坊のエルダ』という存在を受け入れていた。
「…いいえ。昨夜突然……その、目覚めた能力といいますか、体質といいますか…今まで黙っていた訳ではございません」
「突然…?」
「はい」
「他の人は、赤ちゃんになれないの…?」
「そうですね。そのような話を聞いたことはございません」
「じゃあ…エルダだけの、特別な力って、こと…?」
「…はい。恐らく」
「わぁ…すごいね! いつでも、赤ちゃんになれるの?」
「そうですね…特に制限はないようですが───」
それから二人が戻ってくるまで、エルダの能力や『特異体質』と呼ばれる能力について、新たな知識を得ながら、和やかに会話を続けた。
まだまだ知らないことばかりだ…と、エルダの話に耳を傾けていると、程なくして部屋の扉が開く音がした。
「悪い、待たせたな」
「お待たせしました。アドニス、今なら外に出ても大丈夫ですよ」
戻ってきたルカーシュカとイヴァニエにホッとしながら、扉の前から動かない二人に、ドキンと心臓が鳴った。
開かれたままになっている扉の“今から部屋の外に出るぞ”と言わんばかりのその光景に、今更ながらに緊張感が走った。
「アドニス様、参りましょう」
「…うん」
エルダの手を借り、重い腰を上げるが、情けないほど震える手にエルダの眉が下がった。
「アドニス様…」
「だ、だいじょうぶ…! これは…ちょっと……き、緊張してるだけ、だから…」
…半分本当で、半分嘘だ。
今からバルドル神と対峙することも、自分自身と向き合うことも、その先の未来のことも…逃げないと決意したところで、怖いものは怖い。
それでも、もう逃げようとは思わない。怖いけれど、きちんと向き合いたいと思っている。
だからこそ、余計に緊張感は増し、心臓の鼓動が速くなった。
(…だいじょうぶ)
落ち着かない胸を押さえながら、イヴァニエとルカーシュカの元まで向かうも、その足取りは異様なほどに重かった。
「…アドニス、大丈夫か?」
「……はい…」
扉の前で待つ二人の表情には、不安と心配の両方が浮かんでいて、咄嗟に「大丈夫」と頷いていた。
エルダの手が離れ、代わりにイヴァニエとルカーシュカの手を取るも、熱いと感じるほどの体温に、自分の手が冷えているのだと気づかされる。
「大丈夫ですよ。私達がついていますから」
「ん…」
コクンと頷きながら、二人に手を引かれ、ゆっくりと歩を進める…が、扉の前でピタリと足が止まってしまった。
(……初めてだ…)
この部屋に初めて足を踏み入れた遠い日。あの日から、この扉の外側に出たことは一度も無かった。
扉の向こう側、視線を上げた先には、既に記憶にすら残っていない長く広い回廊と、何本も続く白い柱が見えた。
「…ッ」
───怖い。
自分の意思とは関係なく、本能的に湧いたゾワリとした恐怖に、足が竦んだ。
「…アドニス」
「だ、だいじょう…」
「無理をするな。その為に俺達がいるんだ。…さっきは譲ったんだ。今度は俺の番でいいだろう?」
「……嫌とは言えません。仕方ありませんね」
(…? なんだろう…?)
軽い口調で話す二人のやりとりに戸惑ってると、イヴァニエと繋いでいた手がするりと解かれた。
「アドニス」
「は、はい」
「こっちを向いてくれ……そう、そのまま、俺の肩に手を置いて」
「え…は、はい…」
言われるがままルカーシュカと向き合うと、おずおずとその肩に手を置いた。
(あ……手以外に触るの…初めてかも…)
エルダよりはしっかりとした体付きで、でも自分よりもずっと華奢な肩に触れながら、その体温に少しだけ気持ちが和らいだ。
「そのまま掴まっててくれ」
「え……わっ!?」
それも束の間、突然体の重心がグラリと揺れ、驚く暇もなく、イヴァニエの時と同じように、ルカーシュカに抱き上げられていた。
反射的にバランスを取ろうとしたせいだろう。彼の首回りに抱き着くような体勢になってしまい、慌てて体を離そうとしたが、抱き寄せる力にそれを阻まれた。
「っ…」
「悪いが、そのままくっついててくれるか? その方が抱きやすい」
「ひゃ…ぅ…は、はい…」
イヴァニエに抱き上げられた時とは違い、自分から抱き着いている状況に、顔に熱が集まるのが分かった。
妙に恥ずかしく、同時に密着した部分から伝わるルカーシュカの体温は心地良く、安心感と羞恥が綯交ぜになった感情に、抱き上げられた体勢のまま縮こまった。
…気づけば、直前まで抱いていた恐怖心は、姿を消していた。
「……やはり嫌だと言うべきでした」
「そうか。残念だったな」
「…?」
いつもより低い声が聞こえ、顔を上げれば、眉根に皺を寄せたイヴァニエが見えたが、目が合うとニコリと笑みを返してくれた。
「失礼しますね」
「あ…」
そう言うと、イヴァニエが羽織っているローブのフードをそっと頭に被せ、ローブの端を持ち上げると、体を隠すように包んでくれた。
ふんわりとした温かな生地に全身を包まれたことで安心感は増し、胸の鼓動は緩やかに落ち着いていった。
「そのまま目を閉じておいでなさい。バルドル様の元に着いたら、教えますから」
「え…で、でも…」
「いいんだ。元々、お前の足で外を歩かせるつもりはなかった」
「ええ。最初から、私かルカーシュカがあなたを抱いて連れて行く予定でしたから、気にしないで下さい」
(……そうだったの?)
抱いて運ばれる予定だった事実に面食らうも、部屋から出るだけでも二の足を踏んでいることを鑑みれば、二人の考えは妥当だったのだろう。
「そろそろ行くぞ」
「アドニス、大丈夫そうなら、目を開けたままでもいいですからね」
「ん…」
イヴァニエの手が頬を一撫でし、その擽ったさに思わず目を瞑ると、次の瞬間にはルカーシュカが歩き出す振動が体に伝わり、反射的に体が強張った。
「大丈夫だ。俺達以外は、誰もいないよ」
「ん…っ」
耳元を優しく撫でるような声に、ピクリと肩が揺れる。肌が粟立つような感覚に戸惑いつつも、コクリと頷き返せば、僅かに歩みが速くなった。
目深に被ったフードの下、恐る恐る目を開ければ、視界にはルカーシュカの体しか映らず、他のものは目に入らなかった。
揺れる体の振動に合わせるように、隣を歩くイヴァニエの足音と、すぐ後ろを歩いているのだろうエルダの足音が聞こえ、ホッと体から力が抜ける。
ただ部屋から出ただけ───たったそれだけ…それも自分の足ではなく、抱き上げられた状態でのことだったが、確実に動き出した刻に、キュッと唇を噛んだ。
(……大丈夫)
不安も、恐怖も、飲み込んで、細く息を吐き出した。
(大丈夫……バルドル様とも…ちゃんと、お話しできる…)
何も出来ない、自身の足で歩くことすらままならない無力な自分だが、叶えたい願いがある。その為に、頑張りたいと思った。
小さな決意を胸に、もう一度目を閉じると、ルカーシュカの肩に回した手に、ほんの少しだけ、力を籠めた。
「アドニス、着きましたよ」
暫くして、体の揺れが止まった。
イヴァニエの声に、恐る恐る顔を上げれば、美しい細工が施された大きな扉が視界いっぱいに映り、華やかさの中にある重厚さに圧倒された。
(この先に……神様がいる…)
改めてそのことを実感し、心臓がドクドクと鳴り出したが、大きく息を吸い込むと、鼓動の音も押し流すように、ゆっくりと息を吐いた。
「…大丈夫、です」
「怖いことはしない。…大丈夫だからな」
「はい…」
コクリと頷けば、イヴァニエとルカーシュカが互いに目配せをした。
「敬愛なる我らが父に申し上げます。御身が愛子を連れ、イヴァニエとルカーシュカが参りました」
扉の前、広い空間にイヴァニエの澄んだ声がポワンと響いた。
特別大きな声ではなかったはずなのに、不思議と強く響いたその声に息を詰めれば、扉の向こう側で『リィン』と涼やかな鈴の音が鳴った。
「待っていた。入っておいで」
「っ…!?」
直後、間近で響いた低い声に、ビクリと体が跳ねた。
閉じたままの扉を突き抜け、直接こちらに届いたような声に驚いている間に、大きな扉がひとりでに開き始める。
そのことにまた驚き、思考が止まりかけるも、ルカーシュカに抱き上げられたままであることを思い出し、慌てて身を捩った。
「ま、まって…! ルカーシュカ様…!」
「どうした?」
「お、降りる…っ、降りなきゃ…」
「ああ、このままでいい」
「でもっ、だ、だって…!」
今から神様の前に行くのに、このままでいいはずがない。
そう思い、ルカーシュカの腕の中でもがくも、抱き寄せる力は更に強まり、動きを止めざるを得なかった。
「こら、危ないだろう」
「だ、だって…」
「いいんだ、このままで。…この方が、バルドル様にも一目で違いが伝わる」
「……?」
それだけ言うと、ルカーシュカは前を見据えた。
その視線に気づき、同じ方向を向けば、広い部屋の中が全て見渡せるほど、扉が大きく開かれていた。
その真正面、入り口からずっと離れた処、緩やかな階段を数段上がった先で、大きな椅子に座る人物の姿が瞳に映り、息が止まった。
座っている状態でも分かるほどの長身と、凛とした佇まい。
長い長い美しい黒髪と、同じく漆黒の服で全身を包んだ美丈夫。
遠い記憶となったあの日、あの時、悲しげにこちらを見つめていた姿とまったく同じ───神様が、そこにいた。
「───…」
それまでの焦りも、動揺も、緊張も、一瞬で風化してしまうような静かな衝撃に、喉の奥から声が千切れたような、か細い音が漏れた。
遠くに見えるその人…バルドル神もまた、こちらを見つめ、大きく瞳を見開いていた。
「っ…」
驚愕という言葉で表現するには生易しい、驚きと困惑を混ぜた感情をぶつけられ、居た堪れなさと居心地の悪さに、パッと視線を逸らした。
そうしている間に、ルカーシュカとイヴァニエが歩き出し、バルドル神の元へ向かって進み始める。
正面を向く勇気もなく、かと言ってどこを向いていればいいのかも分からず、視線だけでそろりと辺りを見回した。
広い部屋の中は何も無く、ガランとしているのに、不思議と寂しさを感じず、どこまでも澄んでいるように見えた。真白い床や壁はすべらかで、キラキラと煌めく色を反射していた。
(…綺麗…)
そのまま天井を見上げれば、そこにある物に目は釘付けになった。
高い天井は部屋の中央に向かって更に高くなり、中心部からは陽の光が燦々と降り注いでいた。
複雑な装飾が施され、見る角度によって色を変える不思議な色合いの硝子で覆われた天井。そこから差し込む光は、硝子の色を纏い、部屋の中全体を淡く彩っていた。
まるで光の粒を零しているかのような煌めきに、暫し見惚れると、また辺りを見回す…と、そこであることに気がつき、ハッとした。
(………此処…て…)
自分が、生まれた場所だ───…
気づいた事実に、心臓がドクンと一度大きく鼓動したが、恐怖にまみれた記憶や、あの日の苦しみが脳裏に蘇ることはなかった。
あの時は周りを見回す余裕など皆無で、何も目に入っていなかった。まして、大天使達がズラリと並んでいたあの時と今とでは雰囲気も異なり、余計に記憶が結びつかないのだろう。
ただ、平常心でいられるのは、記憶と今が結び付かないからだけじゃない。
(……もう、独りじゃないから…)
あの時の自分と、今の自分は違う。
誰にも助けを求められず、諦めることで自己を守ることしか出来なかった自分はもういない。
部屋の中に閉じ籠り、口を噤んで、時間が過ぎるのをただ待つことしか出来なかった自分はもういない。
「悲しい」と泣いて、「苦しい」と泣いて、「怖い」と泣いて、ベッドの中に逃げ込んだ自分はもういない。
嫌われ、憎まれていただけの自分は───もう、いない。
(……好き…て、言ってもらえたから…)
幼い天使達がいて、エルダがいて、イヴァニエがいて、ルカーシュカがいてくれる。
自身に注がれる愛情をきちんと自覚した今、生まれた日の出来事は、もう怯えることのない記憶として、自分自身を象る一部に姿を変えていた。
「───…」
震えてしまいそうな呼吸を整えるように、深呼吸をするのと揃うように、ルカーシュカの歩みが止まった。
意識を正面に戻せば、緩やかな階段の手前、バルドル神がすぐ近くに見える位置まで辿り着いていた。
「アドニス、降ろすぞ」
「は、はい…」
抱き上げられていた腕の中から離れ、ペタリと床に足を着く。ただ、完全に離れるのはまだ不安で、ルカーシュカの服の端を握れば、彼がその手を緩く握ってくれた。
同時にイヴァニエに腰を抱かれ、片手はルカーシュカと繋いだまま、二人の間に立った。チラリと後ろを振り返れば、そこにはエルダがいて、ニコリと微笑んでくれる…その笑みに、淡く笑みを返した時だった。
「───よく、帰ってきてくれた」
「っ…!」
皆と繋がっている安心感から、気が緩んでいたところに低い声が響き、大袈裟なくらい肩が跳ねた。
「アドニス、大丈夫ですよ」
「ぅ…」
イヴァニエの声に、コクコクと頷きを返しながら、それでも自然と下がってしまう視線にキュッと唇を喰んだ。
「イヴァニエ、ルカーシュカ、よく戻ってきてくれたね」
「恐れ入ります。バルドル様のお力添えにより、私共の望みに手が届きましたこと、感謝の念に堪えません」
「私の望みも同じだよ。本当に、間に合って良かった。……アドニス」
「ひゃっ…ぅ…っ」
突然名を呼ばれ、声が裏返ってしまった。
瞬間的に跳ね上がった心臓に胸が痛んだが、抱き寄せられた腰と、繋いだ手に籠った力の心強さに、意を決して顔を上げた。
「……は、はぃ…」
恐る恐る顔を上げ、真正面に座るバルドル神をそろりと見遣る。
(………あ…)
こちらを見つめる、優しい光を宿した双眸。
互いの視線が絡み、交わり、繋がった瞬間、ふっと柔らかな笑みを返してくれたバルドル神に、不安と緊張を混ぜたような重い何かが、ストンと抜け落ちたのが分かった。
「…やっと、こっちを見てくれたな」
その声は優しく、柔らかで、硬くなった体を溶かすような温かな音が、耳の奥でジンと広がった。
(……そうだ…この人は……神様は、怖くないんだ…)
そう、覚えていたはずだ。
知っていたはずなのに、忘れていた訳ではないのに、こうして再び目の前に立つまで半分信じられず、どこか夢物語のように思っていた。
たった一人だけ、最初からずっと、怖くなかった人。
悲しげに、苦しげに、唯一人、自分のことを案じてくれていた人───それを目の当たりにし、安堵からへにゃりと力が抜けた。
「アドニス様…!」
「アドニス!」
「大丈夫か!?」
「だ、大丈夫、です…」
視界が揺れるような感覚に体がフラついたが、三人に支えられ、なんとかその場に踏み止まった。
ふわふわと揺れるような感覚を残したまま、バルドル神を見れば、その表情は変わらず、柔らかなままだった。
「アドニス」
「…はい…」
「おいで」
「……え…?」
「こうして会うのは久しぶりだ。父に、愛しい我が子の顔をよく見せておくれ」
「え…ぅ……と…」
思いがけない言葉に、思わず左右にいるイヴァニエとルカーシュカを見る。
「…怖いか?」
「う…うぅん…」
「なら、行っておいで」
「私達はここでちゃんと見ていますから、バルドル様と、お話ししてみましょう?」
(…そうだ。お話し…しなきゃ…)
その言葉に頷けば、イヴァニエとルカーシュカの手がするりと離れていった。
「…っ」
温もりを失った体が、途端に心細さに震えた。
一歩踏み出せれば、大丈夫…そう思うのだが、その一歩が踏み出せず、その場で固まっていると、不意に両手を握られ、ハッとして左右を見た。
「あ…」
「途中まで、一緒に行こう」
「一人では行かせませんから、安心して下さい」
「…ん…!」
優しく笑いかけてくれるイヴァニエとルカーシュカに両手を握られ、泣きたくなるほどの安心感に大きく頷いた。
ふと、背中を撫でられたような気がして後ろを振り返れば、エルダが背中にそっと手を添えてくれていた。
「大丈夫ですよ、アドニス様」
「…うん」
エルダに背中を押されるように、イヴァニエとルカーシュカに手を引かれるように、一歩を踏み出す。
すぐ目の前、緩やかな階段に足を載せ、一段一段、ゆっくりと登っていく。そうして最初の数段を登ったところで、イヴァニエとルカーシュカの足が止まった。
「…ここまでだ」
「…ここからは、一人で行けますか?」
バルドル神のすぐ目の前、あとほんの数歩でその膝下に辿り着ける所で立ち止まり、深く息を吸った。
「…大丈夫、です。ありがとう、ございます…」
「うん。頑張れ」
「無理だと思ったら、すぐに私達を呼びなさい」
「…はい」
心配そうに、それでも見送るように離れていく二人の手に、少しだけ不安が顔を覗かせたが、自分で自分の手を握り締めると、前を見据えた。
変わらず柔和な表情でこちらを見つめているバルドル神から、そっと視線を外すと、ゆっくりと足を踏み出し、残りの階段を登った。
一人で歩くのは心細かったが、一歩、また一歩と、確実に前に進んだ。
自分が歩く小さな足音以外、何も聞こえない空間に、嫌でも緊張感は増す。
たった数歩に呆れるほどの時間を掛け、ようやく登り切った階段の上、バルドル神の前に立つと、改めてその姿を見つめた。
そうして見つめ合ったまま、その場で固まった。
近くで見れば、尚圧倒されるその神々しさに気圧されながら、なんとかその場に踏み留まると、ただ静かに呼吸を繰り返した。
(こ、ここから…どうしたらいいんだろう…?)
五歩と離れていない距離で立ち尽くしていると、バルドル神の手が動き、ゆるりと手招きをされた。
「もう少し、近くに」
「っ…」
距離が近くなったせいか、より鮮明に聞こえるようになった声にドキリとしながら、おずおずとその身に近づいた。
「……私が怖いか?」
「えっ!? ち、ちが…ちがい、ます…っ」
悲しげに眉を下げるバルドル神に、フルフルと慌てて首を横に振った。
思ってもみなかった発言だったが、バルドル神からすれば、自分の態度はそう見えてもおかしくないのだろう。
申し訳なさと動揺から、慌てて互いの距離を縮めれば、その表情に笑みが戻った。
「良い子だ。もう少し、近くにおいで」
「え? え、と…」
もう既に、あと一歩という距離に立っている。にも関わらず、更に寄るように手招きをされ、困惑しながらも、半歩距離を詰めた。
「アドニス」
低く響く声に名を呼ばれ、差し出された右手。
なんとなく、本当になんとなく、その手を取ることを求められている様な気がして、躊躇いながらもバルドル神の手に自身の手を重ねた。
イヴァニエの手よりも大きな手に掌を包まれる感覚に、少しだけ気分が高揚する───と次の瞬間、グイッと手を引かれ、突然のことに驚き、バランスを崩した体が倒れそうになった。
「わっ!?」
「バルドル様ッ!」
転ぶ───!
そうと思った瞬間、伸ばされた手に腰を掴まれ、ふわりと体が浮いた。
(……え?)
自分の体が、信じられないほど軽くなったような感覚に目を丸くしている間に、抱き上げられた体はストン、とバルドル神の膝の上に落ち着いた。
「……………え?」
「うん、これでお前の顔がよく見える」
「………え?」
満足そうに笑う顔が、目と鼻の先に見える。
臀部の下に感じる体温と、がっちりと腰に回された腕。
抱き寄せられた腕に体を支えられ、完全にバルドル神の膝の上に座っている状況に、思考は完全に停止した。
(………あ…瞳の色が、違う…)
現実逃避をするように、頭は視界に映った情報をただ処理していた。
恐ろしく整った顔立ちの中にある切れ長な瞳。その瞳を縁取る、長く厚い睫毛の下に見える瞳は、左右で異なる色をしていた。
右眼は自分の瞳と同じ黄金色。
左眼は複数の色が複雑に混じり合い、ゆらゆらと揺らめく不思議な色合いをしていた。
(…あれ…?この色……さっきも…)
乳白色の中を淡く揺らめく、淡い青や赤といったいつくもの色は、母提樹や命の湖とまったく同じ色をしていた。
見る角度で色を変える不思議な瞳を食い入るように見つめていると、その瞳がふっと細められた。
「そんなに見つめて、どうした?」
「え…? ……あっ!」
無意識の内に顔を寄せ、見つめ合っていたことに気づき、反射的に体を仰け反らせた。
至近距離で瞳を見つめていたことに、今更ながらに羞恥が湧き、それと同時に止まっていた思考も回り始めた。
「ご、ごめんなさ…っ」
「こら、そんな風に動いたら危ないだろう」
「うぁっ」
仰け反った背を元に戻すように腰を引き寄せられ、更に距離が近くなる。
「大人しくしておいで」
「あ…ゃ……お、降り…」
「良い子にしてなさい」
「ぅ…」
優しく、それでいて有無を言わさぬ声音に、何も言えなくなってしまう。
それでも動揺と羞恥に落ち着かず、助けを求めるように階段下にいるイヴァニエ達に視線を送れば、険しい顔をした三人と目が合った。
(お、怒ってる…?)
神様の膝の上に座るのは、やはり不敬だろうか…サァと血の気が引く感覚に、フルフルと首を振った。
「ぁ…あの…」
「そんな泣きそうな顔をするな」
「ふゃっ…!」
大きな手に頬を撫でられ、ビクリと体が跳ねた。と同時に、二つの声が重なった。
「…っ、バルドル様! それ以上は…!」
「バルドル様、お戯れも大概になさって下さいませ」
「…!?」
聞き覚えのあるような、初めて聞く声に、ハッとして顔を上げれば、バルドル神のすぐ傍らに、知らない天使が立っていた。
(……誰…?)
突如現れた少年天使に、パチリと目を瞬く。
バルドル神と同じ、艶やかな黒髪とアメジストの瞳。エルダよりも幾分背の高い、凛々しい顔立ちの美少年に、ポカンと口を開けた。
今までそこには誰もいなかったはず…と驚いていると、その子と目が合った。
「っ…」
刹那、ふっと微笑んでくれたその優しげな表情に、目を見開く。
(……笑って、くれた…)
今でこそ、当たり前のように笑いかけてくれるイヴァニエやルカーシュカ、エルダだが、最初は決して友好的とは言い難い状態だった。
それが当然と言えば当然だったのだが、それを思えばこそ、淡い笑みを返してくれる天使に、驚きを隠せなかった。
「恐れ入ります、アドニス様。今のままではお話が進みませんので、つい口を挟んでしまいました。申し訳ございません」
「あ……は…、いえ…」
「バルドル様、これ以上アドニス様に御手を出すのはおやめ下さい」
「愛しい我が子を愛でているだけだぞ?」
「左様でございますね。ですがこれ以上はお控え下さい」
柔らかな口調で、だがキッパリと言い切る天使に茫然としながら成り行きを見守っていると、頬を撫でていた大きな手が離れていった。
「仕方ない。残念だが、可愛がるのはまた今度にしよう。……アドニス」
「は、はい…!」
途端に真剣な眼差しで見つめられ、ピッと背筋を伸ばした。…膝の上からは降ろしてもらえないみたいだが、どうしようもないので仕方がない。
「…お前のことは、イヴァニエとルカーシュカから聞いているよ」
「…!」
唐突に、なんの前触れもなく核心に触れた言葉に、衝撃にも似た鼓動が胸を圧迫した。
「何も憶えていない。何も知らない、分からない。…そうだったな?」
「は…、…はい…」
「自分のことも、他の者達のことも、この世界のことも、何も憶えていなかった」
「…はい…」
「…私のことも、分からなかったか?」
「……は、い…」
「…そうか」
淡々と事実を確認するだけの質問は、どこか非現実的で、狼狽える暇もなかった。
ただ一度大きく跳ねた心臓は、バクバクと鳴りっぱなしで、非現実的だからこそ、改めて問われたことで浮き彫りになった自身のおかしさに、罪悪感が込み上げた。
「ぁ……あの…」
「泣きそうな顔をするな。何も憶えていないとしても、それはお前が悪い訳じゃないだろう?」
「っ…」
そう言われ、込み上げた感情に、グッと奥歯を噛んだ。
『お前が悪い訳じゃない』
ずっと、心のどこかで、何も憶えていない自分が悪いのだという呵責に苛まれていた。
記憶が無いことに怯えながら、どうして何も憶えていないのかと自身を責めていた。
記憶を失ったことすら、自分に対する罰なのでは───そんな風に思うことすらあった。
だがバルドル神の…自分に罰を与えた神様の口から、それを否定してもらえたことで、その呵責からも解放されたような気がした。
「アドニス」
「…はい」
「私がお前の聖気に残る記憶を読むことで、何か分かることがあるかもしれない。それは聞いているな?」
「……はい…」
「お前の身に何が起こったのか、私は罰を与えた者として、知る必要がある。それがお前にとって辛い現実であってもだ。お前自身、知らなければいけないことでもある。…分かるな?」
「…はい」
「…良い子だ。大丈夫だ。怖いことはしないよ」
そう言って、バルドル神の手が再び頬に触れた。
瞬間、触れた掌がぽぅっと熱くなったのを感じ、慌てて身を捩った。
「あ…やっ、ま、まって…!」
「どうした?」
このまま記憶を読まれそうなことに気づき、咄嗟に頬に触れる手を拒んだ。
「あ…あの…、お、お話し…聞いて、下さい…!」
「うん? なんだ、言ってごらん」
バルドル神の膝の上、自分の方が少しだけ高い目線を下げれば、左右で異なる色の双眸と目が合った。
「あ……の…わ、私の…謹慎が、明けたら…私が、…この先、どうしたいか…て、決めて…いいって…本当、ですか…?」
「ああ、勿論だ。お前はもう、充分な罰を受けた。これ以上の責を負わせるつもりはないし、その先を制限するつもりもない」
「……、」
記憶に間違いが無かったことにホッとしつつ、服の端を強く握り締めると、『自分の願い』を伝えるべく口を開いた。
「…お、お願い、が…あります」
「うん。なにかな?」
一切揺るがないバルドル神の視線に、緊張は高まった。
速くなる鼓動にコクリと喉を鳴らすと、深く息を吸い込み、震える息を吐いた。
「も…もし…、……もし、わ、私が…前の……罰を、受ける前の…みんなに嫌われる…嫌われ、ちゃうような…嫌な…自分だったら……もしまた、みんなに、嫌なことをする自分に、なっちゃいそう…なら……その時は、命の湖に…還して、下さい」
「アドニス!」
「アドニス様…!」
泣き声にも似た声が鼓膜を揺らしたが、目の前の瞳から目を逸らさなかった。
(…今、みんなを見たら…また、泣いちゃう…)
なにより、この願いは譲れなかった。
彼らと共に在りたい、共に生きたい。
その願いと同じくらい、また彼らを傷つけるような自分にも、嫌われるような自分にも、もうなりたくなかったのだ。
「…命の湖に還るか否かは、自分で決めることだぞ?」
「…はい。だから……自分で…自分の意思で…動ける、時は…ちゃんと、自分で…還ります。…でも…自分の…私の意思が、無くなっちゃったら……還れなく、なっちゃうかも、しれないから…」
そう、なにより恐ろしいのは、自分が自分でなくなることだった。
『以前の自分』の記憶を失ったように、今いる自分の記憶を失わないという保証がどこにあるだろう?
もしも、『以前の自分』と今の自分が、ただ記憶を失っているだけの同一人物だったら?
もしも、何かの拍子で、記憶を取り戻したら?
もしも…もしも、その拍子に『今の自分』の記憶を失い、元の自分に戻ってしまったら───…?
そうしてまた、誰も彼もを傷つけて、憎悪と侮蔑だけをぶつけられるだけの自分になってしまったら…例え、そこに自分の意思など無くなっていたのだとしても、そんな悲しいことはしたくなかった。
例え、そこに自分の記憶など無くなってしまったのだとしても───それでも、彼らに嫌われる自分には、もうなりたくなかった。
(だから、今の自分の…『私の願い』を、叶えてもらいたい…)
自分の願いは、彼らの平穏を乱さぬことと、愛されていた自分が確かにいたのだという思い出を守ること───彼らから注がれた愛情を大切にしたいからこそ、自分の願う未来を護りたかった。
「私は…ルカーシュカ様も、イヴァニエ様も…エルダも、ちっちゃい子達も…みんな、大好きです…っ、好きだから…みんなに、嫌なことをする自分には…なりたくないです…! そんな、悲しいことを、しちゃう、なら……しちゃう、前に…あの湖に還りたい…!」
気づけば、ポタリと涙が溢れていた。
愛しいから、大切だからこそ抱いた、祈りのような願い。
縋るような気持ちで、バルドル神の瞳を見つめ、互いに視線を逸らすことなく見つめ合うこと数秒…向かい合っていた瞳が、そっと伏せられた。
「……分かった。お前の願いを叶えよう」
「あ…ありがとうござ───」
「バルドル様! お待ち下さい!」
「そのような願いは…っ!」
詰めていた息をホッと吐き出すのと被って、イヴァニエとルカーシュカの叫ぶような声が聞こえた。
「落ち着きなさい。アドニスの望む未来を尊重すると約束したのだ。これを違えるつもりはない」
「しかし…!」
「勿論、無条件に叶えるものではないよ。…アドニス、その願いを叶えるのは、それを願った今のお前が傷つき、悲しむような未来が訪れた時だ。『もしも』の域を超えない限り、その願いを叶えてやることはできない。いいね?」
「……はい。…ありがとう、ございます」
難しい願いだということは分かっている。
だからこそ、無条件で良しと言われないこと、それでも約束を守ってくれると言ってもらえたこと、その両方に安堵した。
「話しは、もういいかな?」
「……はい」
「では、お前の記憶に触れよう」
「は、はい…っ」
改めて宣言され、居住まいを正す。濡れた頬を手の甲で拭い、緊張に体を硬くしていると、大きな手に頬を包まれた。
「大丈夫だ。力を抜きなさい」
「…はい」
「力を抜いて……そう、良い子だ」
さわさわと頬を撫でる掌は心地良く、甘やかな声に、体から余計な力が抜けていく。
頬を撫でる手つきは優しく、徐々に意識が蕩けていくのが分かった。
「そのままゆっくり、私に顔を寄せなさい」
意識がとろりとしてきたところで、やんわりと頬を引き寄せられた。
互いの顔を寄せ合い、今にもぶつかってしまいそうな近さに戸惑い、身を竦める。
「んぅ…」
「大丈夫だ。目を閉じて」
「……ん」
「そのまま、力を抜いていなさい」
言われるがまま、ギュッと目を瞑れば、コツンと額と額が触れる感触がした。
吐息に揺れる空気と、長い睫毛が肌を擽る感触。信じられないほど近い距離にバルドル神を感じ、僅かに気持ちが揺れたが、それもすぐに落ち着いた。
温かな体温に身を委ねるのとほぼ同じく、先ほど感じたぽぅっと広がるような熱を感じ、緩く息を吐き出した。
(あったかい……)
触れ合った皮膚から、じんわりと全身を巡るような熱に、意識がぼうっとし始める。
どこまでも優しい温かさは心地良く、無防備に全てを委ねられる気持ち良さに、少しずつ意識が薄れていった。
あと少し…あとほんの少しだけ繋がり続けたら、眠ってしまうかもしれない───そう思い始めた頃合いで、ふっと触れていた熱が離れていった。
(……おわ…た…?)
一瞬の出来事だったような、随分と長く心地良い熱に揺蕩っていたような、不思議な感覚を残しながら、ゆっくりと瞼を上げた。
「……っ」
ぼんやりとした意識の中、間近に映ったバルドル神の整った顔───その美しい顔が、今にも泣き出しそうな表情に歪んでいて、思わず息を呑んだ。
「…バルドル、様…?」
掠れた声で、呟くようにその名を呼べば、突然、体をキツく抱き締められた。
「わっ!?」
全身を締め付ける、痛いほどの抱擁。
混乱と驚愕に慌てながら、身じろぎをすることすら躊躇われる状況に、困惑しながらも大人しく腕の中に収まった。
どうすればいいのか分からず、傍らに立つ天使に視線を送ったが、その子は何も言わず、黙って首を横に振るだけだった。
(…どうしよう)
体を包み込む腕の力はいつまで経っても緩まず、オロオロと視線を彷徨わせた。…と、ふと抱き締める腕が微かに震えていることに気がつき、目を見開く。
(……泣い、て…?)
弱い弱い、微弱な振動に、もう一度その名を呼ぼうとしたその時、体の締め付けが僅かに緩んだのが分かった。
「……バルドル様…?」
ゆっくりと体が離れ、バルドル神が顔を上げた。
その瞳にも頬にも、涙が流れた痕は無い。それなのに、どうしてか泣いているように見えて、胸がツキリと痛んだ。
「あ、の…」
「───…」
「…え?」
小さな呟きが聞こえたような気がしたが、唇が僅かに動いただけで、その音までは聞き取れなかった。
「………すまなかった」
「……バルドル、様…?」
「本当に…、ああ…私はなんてことを…っ」
「ぁ……」
苦しいほどの抱擁は解けたが、腰を抱き寄せる腕はそのままで、頬を包み込むように触れた大きな手は、やはりほんの少しだけ震えていた。
「バルドル様…?」
「…バルドル様、もし何かお分かりになったのであれば、私共にもお聞かせ下さい」
張り詰めた空気の中、室内に響いたルカーシュカの声に、ハッとした。
声のした方に視線を向ければ、イヴァニエもルカーシュカも、真剣な表情でこちらを見つめていた。
その後ろ、硬い表情をしたエルダと目が合うも、いつものように微笑んでくれることはなかった。
「っ…」
途端に跳ね上がった緊張に、ゾクリと肌が粟立つ。
うるさく脈打つ心臓の音は、きっとバルドル神にも聞こえているだろう。
その音を鎮める方法も分からないまま、『答え』を求め、バルドル神の名を呼んだ。
「…バルドル様……私は……」
───聞くのが怖い。でも、聞きたい。
相反する感情に揺れ、息苦しさから声が震えた。
助けを求めるように、頬を包む大きな手に自身の手を重ねれば、こちらを見上げたバルドル神と目が合った。
眉根に皺を寄せ、眩しいものを見つめるように細められた瞳───その瞳が、ゆっくりと伏せられた。
「……この子は、アドニスじゃない」
泣き声のような、小さな声がポツリと零れ落ちた瞬間、痛いほどの静寂に包まれていた室内に、複数の息を呑む音が聞こえた。
「………アドニスじゃ…ない…?」
言葉の意味を瞬時に理解することができず、聞こえた音をそのまま繰り返した。
バルドル神の声が鼓膜の奥に響いた瞬間、頭の中は真っ白になっていた。
それでも、意味を理解しようと、鈍い頭が血液の巡る鼓動に合わせ、ゆっくり、ゆっくりと回り始める。
短い沈黙の後、異なる色合いの双眸が開かれ、自身の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「…お前の聖気の中に、あの子の…アドニスの記憶は無かった」
「……記憶が…無い…?」
「そうだ。忘れているんじゃない。…無いんだ。一欠片も。聖気の色も、残る記憶も、アドニスのそれとはまったく違う……違うんだ」
(……違う…)
少しずつ、情報を整理するように、紡がれる言葉を拾い上げ、自分の中で『正解』と思しき形を作り上げていく。
複雑な感情が混じり合った思考の中、激しく脈打つ心臓の苦しさに胸を押さえながら、答えを強請るように、声を振り絞った。
「…じゃあ……私、は…?」
───生まれたその時から、誰にも気づいてもらえなかった産ぶ声。
「……アドニスとは違う魂───アドニスとは、別の子だ」
いつか泣いていた、あの日の弱々しい泣き声が、ようやく届いた瞬間だった。
(……帰ってこれた)
半日、たった半日離れていただけなのに、懐かしく感じる雰囲気にホッと息を吐きながら、ぐるりと室内を見回した。
『帰ってきた』
自然とそう思えるほど、この部屋が、自分にとっての居場所になっていたのだと改めて実感させられ、妙に嬉しくなった。
「それじゃあ、行ってくる。すぐ戻るが、俺達が戻るまで、部屋から出るんじゃないぞ?」
「はい」
「エルダ、アドニスを頼みますよ」
「畏まりました」
戻ってきてすぐ、イヴァニエとルカーシュカは、宮廷内を見てくると言って、部屋を出て行った。
バルドル神の元ではなく、一度部屋に戻ってきたことを不思議に思っていたのだが、二人曰く「誰も残っていないか、確認してからでないと不安で外に出せない」とのことだった。
(これから…神様と会うんだ…)
じわじわと実感し始めた現実に、落ち着かない気持ちになりながら、エルダとソファーに並んで座り、二人が戻ってくるのを待った。
「アドニス様、お疲れではございませんか? 少しお休みになられた方がよろしいのでは…」
「ん…大丈夫。あんまり…疲れてないみたい」
夜通し歩き、たくさん喋り、たくさん泣いた。あれほど感情を揺さぶられた後だというのに、高揚感の方が勝っているせいか、肉体的な疲れはほとんど感じなかった。
「エルダは…? 大丈夫? 疲れてない?」
「私は大丈夫です。その…ほとんど動いていませんので…」
うっすらと頬を染めるエルダに、はたとあることを思い出し、ジッとその顔を見つめた。
「そういえば…エルダって、赤ちゃんになれたの…?」
あまりにも今更な質問を口にすれば、エルダの目が僅かに泳いだ。
昨夜はそれどころではない状態で、疑問を尋ねることすら忘れていた。その上で、気持ちが落ち着いてきた頃には、エルダを腕に抱いていることに違和感を感じなくなっていたのだ。
改めてイヴァニエとルカーシュカに指摘されるまで、極々自然に『赤ん坊のエルダ』という存在を受け入れていた。
「…いいえ。昨夜突然……その、目覚めた能力といいますか、体質といいますか…今まで黙っていた訳ではございません」
「突然…?」
「はい」
「他の人は、赤ちゃんになれないの…?」
「そうですね。そのような話を聞いたことはございません」
「じゃあ…エルダだけの、特別な力って、こと…?」
「…はい。恐らく」
「わぁ…すごいね! いつでも、赤ちゃんになれるの?」
「そうですね…特に制限はないようですが───」
それから二人が戻ってくるまで、エルダの能力や『特異体質』と呼ばれる能力について、新たな知識を得ながら、和やかに会話を続けた。
まだまだ知らないことばかりだ…と、エルダの話に耳を傾けていると、程なくして部屋の扉が開く音がした。
「悪い、待たせたな」
「お待たせしました。アドニス、今なら外に出ても大丈夫ですよ」
戻ってきたルカーシュカとイヴァニエにホッとしながら、扉の前から動かない二人に、ドキンと心臓が鳴った。
開かれたままになっている扉の“今から部屋の外に出るぞ”と言わんばかりのその光景に、今更ながらに緊張感が走った。
「アドニス様、参りましょう」
「…うん」
エルダの手を借り、重い腰を上げるが、情けないほど震える手にエルダの眉が下がった。
「アドニス様…」
「だ、だいじょうぶ…! これは…ちょっと……き、緊張してるだけ、だから…」
…半分本当で、半分嘘だ。
今からバルドル神と対峙することも、自分自身と向き合うことも、その先の未来のことも…逃げないと決意したところで、怖いものは怖い。
それでも、もう逃げようとは思わない。怖いけれど、きちんと向き合いたいと思っている。
だからこそ、余計に緊張感は増し、心臓の鼓動が速くなった。
(…だいじょうぶ)
落ち着かない胸を押さえながら、イヴァニエとルカーシュカの元まで向かうも、その足取りは異様なほどに重かった。
「…アドニス、大丈夫か?」
「……はい…」
扉の前で待つ二人の表情には、不安と心配の両方が浮かんでいて、咄嗟に「大丈夫」と頷いていた。
エルダの手が離れ、代わりにイヴァニエとルカーシュカの手を取るも、熱いと感じるほどの体温に、自分の手が冷えているのだと気づかされる。
「大丈夫ですよ。私達がついていますから」
「ん…」
コクンと頷きながら、二人に手を引かれ、ゆっくりと歩を進める…が、扉の前でピタリと足が止まってしまった。
(……初めてだ…)
この部屋に初めて足を踏み入れた遠い日。あの日から、この扉の外側に出たことは一度も無かった。
扉の向こう側、視線を上げた先には、既に記憶にすら残っていない長く広い回廊と、何本も続く白い柱が見えた。
「…ッ」
───怖い。
自分の意思とは関係なく、本能的に湧いたゾワリとした恐怖に、足が竦んだ。
「…アドニス」
「だ、だいじょう…」
「無理をするな。その為に俺達がいるんだ。…さっきは譲ったんだ。今度は俺の番でいいだろう?」
「……嫌とは言えません。仕方ありませんね」
(…? なんだろう…?)
軽い口調で話す二人のやりとりに戸惑ってると、イヴァニエと繋いでいた手がするりと解かれた。
「アドニス」
「は、はい」
「こっちを向いてくれ……そう、そのまま、俺の肩に手を置いて」
「え…は、はい…」
言われるがままルカーシュカと向き合うと、おずおずとその肩に手を置いた。
(あ……手以外に触るの…初めてかも…)
エルダよりはしっかりとした体付きで、でも自分よりもずっと華奢な肩に触れながら、その体温に少しだけ気持ちが和らいだ。
「そのまま掴まっててくれ」
「え……わっ!?」
それも束の間、突然体の重心がグラリと揺れ、驚く暇もなく、イヴァニエの時と同じように、ルカーシュカに抱き上げられていた。
反射的にバランスを取ろうとしたせいだろう。彼の首回りに抱き着くような体勢になってしまい、慌てて体を離そうとしたが、抱き寄せる力にそれを阻まれた。
「っ…」
「悪いが、そのままくっついててくれるか? その方が抱きやすい」
「ひゃ…ぅ…は、はい…」
イヴァニエに抱き上げられた時とは違い、自分から抱き着いている状況に、顔に熱が集まるのが分かった。
妙に恥ずかしく、同時に密着した部分から伝わるルカーシュカの体温は心地良く、安心感と羞恥が綯交ぜになった感情に、抱き上げられた体勢のまま縮こまった。
…気づけば、直前まで抱いていた恐怖心は、姿を消していた。
「……やはり嫌だと言うべきでした」
「そうか。残念だったな」
「…?」
いつもより低い声が聞こえ、顔を上げれば、眉根に皺を寄せたイヴァニエが見えたが、目が合うとニコリと笑みを返してくれた。
「失礼しますね」
「あ…」
そう言うと、イヴァニエが羽織っているローブのフードをそっと頭に被せ、ローブの端を持ち上げると、体を隠すように包んでくれた。
ふんわりとした温かな生地に全身を包まれたことで安心感は増し、胸の鼓動は緩やかに落ち着いていった。
「そのまま目を閉じておいでなさい。バルドル様の元に着いたら、教えますから」
「え…で、でも…」
「いいんだ。元々、お前の足で外を歩かせるつもりはなかった」
「ええ。最初から、私かルカーシュカがあなたを抱いて連れて行く予定でしたから、気にしないで下さい」
(……そうだったの?)
抱いて運ばれる予定だった事実に面食らうも、部屋から出るだけでも二の足を踏んでいることを鑑みれば、二人の考えは妥当だったのだろう。
「そろそろ行くぞ」
「アドニス、大丈夫そうなら、目を開けたままでもいいですからね」
「ん…」
イヴァニエの手が頬を一撫でし、その擽ったさに思わず目を瞑ると、次の瞬間にはルカーシュカが歩き出す振動が体に伝わり、反射的に体が強張った。
「大丈夫だ。俺達以外は、誰もいないよ」
「ん…っ」
耳元を優しく撫でるような声に、ピクリと肩が揺れる。肌が粟立つような感覚に戸惑いつつも、コクリと頷き返せば、僅かに歩みが速くなった。
目深に被ったフードの下、恐る恐る目を開ければ、視界にはルカーシュカの体しか映らず、他のものは目に入らなかった。
揺れる体の振動に合わせるように、隣を歩くイヴァニエの足音と、すぐ後ろを歩いているのだろうエルダの足音が聞こえ、ホッと体から力が抜ける。
ただ部屋から出ただけ───たったそれだけ…それも自分の足ではなく、抱き上げられた状態でのことだったが、確実に動き出した刻に、キュッと唇を噛んだ。
(……大丈夫)
不安も、恐怖も、飲み込んで、細く息を吐き出した。
(大丈夫……バルドル様とも…ちゃんと、お話しできる…)
何も出来ない、自身の足で歩くことすらままならない無力な自分だが、叶えたい願いがある。その為に、頑張りたいと思った。
小さな決意を胸に、もう一度目を閉じると、ルカーシュカの肩に回した手に、ほんの少しだけ、力を籠めた。
「アドニス、着きましたよ」
暫くして、体の揺れが止まった。
イヴァニエの声に、恐る恐る顔を上げれば、美しい細工が施された大きな扉が視界いっぱいに映り、華やかさの中にある重厚さに圧倒された。
(この先に……神様がいる…)
改めてそのことを実感し、心臓がドクドクと鳴り出したが、大きく息を吸い込むと、鼓動の音も押し流すように、ゆっくりと息を吐いた。
「…大丈夫、です」
「怖いことはしない。…大丈夫だからな」
「はい…」
コクリと頷けば、イヴァニエとルカーシュカが互いに目配せをした。
「敬愛なる我らが父に申し上げます。御身が愛子を連れ、イヴァニエとルカーシュカが参りました」
扉の前、広い空間にイヴァニエの澄んだ声がポワンと響いた。
特別大きな声ではなかったはずなのに、不思議と強く響いたその声に息を詰めれば、扉の向こう側で『リィン』と涼やかな鈴の音が鳴った。
「待っていた。入っておいで」
「っ…!?」
直後、間近で響いた低い声に、ビクリと体が跳ねた。
閉じたままの扉を突き抜け、直接こちらに届いたような声に驚いている間に、大きな扉がひとりでに開き始める。
そのことにまた驚き、思考が止まりかけるも、ルカーシュカに抱き上げられたままであることを思い出し、慌てて身を捩った。
「ま、まって…! ルカーシュカ様…!」
「どうした?」
「お、降りる…っ、降りなきゃ…」
「ああ、このままでいい」
「でもっ、だ、だって…!」
今から神様の前に行くのに、このままでいいはずがない。
そう思い、ルカーシュカの腕の中でもがくも、抱き寄せる力は更に強まり、動きを止めざるを得なかった。
「こら、危ないだろう」
「だ、だって…」
「いいんだ、このままで。…この方が、バルドル様にも一目で違いが伝わる」
「……?」
それだけ言うと、ルカーシュカは前を見据えた。
その視線に気づき、同じ方向を向けば、広い部屋の中が全て見渡せるほど、扉が大きく開かれていた。
その真正面、入り口からずっと離れた処、緩やかな階段を数段上がった先で、大きな椅子に座る人物の姿が瞳に映り、息が止まった。
座っている状態でも分かるほどの長身と、凛とした佇まい。
長い長い美しい黒髪と、同じく漆黒の服で全身を包んだ美丈夫。
遠い記憶となったあの日、あの時、悲しげにこちらを見つめていた姿とまったく同じ───神様が、そこにいた。
「───…」
それまでの焦りも、動揺も、緊張も、一瞬で風化してしまうような静かな衝撃に、喉の奥から声が千切れたような、か細い音が漏れた。
遠くに見えるその人…バルドル神もまた、こちらを見つめ、大きく瞳を見開いていた。
「っ…」
驚愕という言葉で表現するには生易しい、驚きと困惑を混ぜた感情をぶつけられ、居た堪れなさと居心地の悪さに、パッと視線を逸らした。
そうしている間に、ルカーシュカとイヴァニエが歩き出し、バルドル神の元へ向かって進み始める。
正面を向く勇気もなく、かと言ってどこを向いていればいいのかも分からず、視線だけでそろりと辺りを見回した。
広い部屋の中は何も無く、ガランとしているのに、不思議と寂しさを感じず、どこまでも澄んでいるように見えた。真白い床や壁はすべらかで、キラキラと煌めく色を反射していた。
(…綺麗…)
そのまま天井を見上げれば、そこにある物に目は釘付けになった。
高い天井は部屋の中央に向かって更に高くなり、中心部からは陽の光が燦々と降り注いでいた。
複雑な装飾が施され、見る角度によって色を変える不思議な色合いの硝子で覆われた天井。そこから差し込む光は、硝子の色を纏い、部屋の中全体を淡く彩っていた。
まるで光の粒を零しているかのような煌めきに、暫し見惚れると、また辺りを見回す…と、そこであることに気がつき、ハッとした。
(………此処…て…)
自分が、生まれた場所だ───…
気づいた事実に、心臓がドクンと一度大きく鼓動したが、恐怖にまみれた記憶や、あの日の苦しみが脳裏に蘇ることはなかった。
あの時は周りを見回す余裕など皆無で、何も目に入っていなかった。まして、大天使達がズラリと並んでいたあの時と今とでは雰囲気も異なり、余計に記憶が結びつかないのだろう。
ただ、平常心でいられるのは、記憶と今が結び付かないからだけじゃない。
(……もう、独りじゃないから…)
あの時の自分と、今の自分は違う。
誰にも助けを求められず、諦めることで自己を守ることしか出来なかった自分はもういない。
部屋の中に閉じ籠り、口を噤んで、時間が過ぎるのをただ待つことしか出来なかった自分はもういない。
「悲しい」と泣いて、「苦しい」と泣いて、「怖い」と泣いて、ベッドの中に逃げ込んだ自分はもういない。
嫌われ、憎まれていただけの自分は───もう、いない。
(……好き…て、言ってもらえたから…)
幼い天使達がいて、エルダがいて、イヴァニエがいて、ルカーシュカがいてくれる。
自身に注がれる愛情をきちんと自覚した今、生まれた日の出来事は、もう怯えることのない記憶として、自分自身を象る一部に姿を変えていた。
「───…」
震えてしまいそうな呼吸を整えるように、深呼吸をするのと揃うように、ルカーシュカの歩みが止まった。
意識を正面に戻せば、緩やかな階段の手前、バルドル神がすぐ近くに見える位置まで辿り着いていた。
「アドニス、降ろすぞ」
「は、はい…」
抱き上げられていた腕の中から離れ、ペタリと床に足を着く。ただ、完全に離れるのはまだ不安で、ルカーシュカの服の端を握れば、彼がその手を緩く握ってくれた。
同時にイヴァニエに腰を抱かれ、片手はルカーシュカと繋いだまま、二人の間に立った。チラリと後ろを振り返れば、そこにはエルダがいて、ニコリと微笑んでくれる…その笑みに、淡く笑みを返した時だった。
「───よく、帰ってきてくれた」
「っ…!」
皆と繋がっている安心感から、気が緩んでいたところに低い声が響き、大袈裟なくらい肩が跳ねた。
「アドニス、大丈夫ですよ」
「ぅ…」
イヴァニエの声に、コクコクと頷きを返しながら、それでも自然と下がってしまう視線にキュッと唇を喰んだ。
「イヴァニエ、ルカーシュカ、よく戻ってきてくれたね」
「恐れ入ります。バルドル様のお力添えにより、私共の望みに手が届きましたこと、感謝の念に堪えません」
「私の望みも同じだよ。本当に、間に合って良かった。……アドニス」
「ひゃっ…ぅ…っ」
突然名を呼ばれ、声が裏返ってしまった。
瞬間的に跳ね上がった心臓に胸が痛んだが、抱き寄せられた腰と、繋いだ手に籠った力の心強さに、意を決して顔を上げた。
「……は、はぃ…」
恐る恐る顔を上げ、真正面に座るバルドル神をそろりと見遣る。
(………あ…)
こちらを見つめる、優しい光を宿した双眸。
互いの視線が絡み、交わり、繋がった瞬間、ふっと柔らかな笑みを返してくれたバルドル神に、不安と緊張を混ぜたような重い何かが、ストンと抜け落ちたのが分かった。
「…やっと、こっちを見てくれたな」
その声は優しく、柔らかで、硬くなった体を溶かすような温かな音が、耳の奥でジンと広がった。
(……そうだ…この人は……神様は、怖くないんだ…)
そう、覚えていたはずだ。
知っていたはずなのに、忘れていた訳ではないのに、こうして再び目の前に立つまで半分信じられず、どこか夢物語のように思っていた。
たった一人だけ、最初からずっと、怖くなかった人。
悲しげに、苦しげに、唯一人、自分のことを案じてくれていた人───それを目の当たりにし、安堵からへにゃりと力が抜けた。
「アドニス様…!」
「アドニス!」
「大丈夫か!?」
「だ、大丈夫、です…」
視界が揺れるような感覚に体がフラついたが、三人に支えられ、なんとかその場に踏み止まった。
ふわふわと揺れるような感覚を残したまま、バルドル神を見れば、その表情は変わらず、柔らかなままだった。
「アドニス」
「…はい…」
「おいで」
「……え…?」
「こうして会うのは久しぶりだ。父に、愛しい我が子の顔をよく見せておくれ」
「え…ぅ……と…」
思いがけない言葉に、思わず左右にいるイヴァニエとルカーシュカを見る。
「…怖いか?」
「う…うぅん…」
「なら、行っておいで」
「私達はここでちゃんと見ていますから、バルドル様と、お話ししてみましょう?」
(…そうだ。お話し…しなきゃ…)
その言葉に頷けば、イヴァニエとルカーシュカの手がするりと離れていった。
「…っ」
温もりを失った体が、途端に心細さに震えた。
一歩踏み出せれば、大丈夫…そう思うのだが、その一歩が踏み出せず、その場で固まっていると、不意に両手を握られ、ハッとして左右を見た。
「あ…」
「途中まで、一緒に行こう」
「一人では行かせませんから、安心して下さい」
「…ん…!」
優しく笑いかけてくれるイヴァニエとルカーシュカに両手を握られ、泣きたくなるほどの安心感に大きく頷いた。
ふと、背中を撫でられたような気がして後ろを振り返れば、エルダが背中にそっと手を添えてくれていた。
「大丈夫ですよ、アドニス様」
「…うん」
エルダに背中を押されるように、イヴァニエとルカーシュカに手を引かれるように、一歩を踏み出す。
すぐ目の前、緩やかな階段に足を載せ、一段一段、ゆっくりと登っていく。そうして最初の数段を登ったところで、イヴァニエとルカーシュカの足が止まった。
「…ここまでだ」
「…ここからは、一人で行けますか?」
バルドル神のすぐ目の前、あとほんの数歩でその膝下に辿り着ける所で立ち止まり、深く息を吸った。
「…大丈夫、です。ありがとう、ございます…」
「うん。頑張れ」
「無理だと思ったら、すぐに私達を呼びなさい」
「…はい」
心配そうに、それでも見送るように離れていく二人の手に、少しだけ不安が顔を覗かせたが、自分で自分の手を握り締めると、前を見据えた。
変わらず柔和な表情でこちらを見つめているバルドル神から、そっと視線を外すと、ゆっくりと足を踏み出し、残りの階段を登った。
一人で歩くのは心細かったが、一歩、また一歩と、確実に前に進んだ。
自分が歩く小さな足音以外、何も聞こえない空間に、嫌でも緊張感は増す。
たった数歩に呆れるほどの時間を掛け、ようやく登り切った階段の上、バルドル神の前に立つと、改めてその姿を見つめた。
そうして見つめ合ったまま、その場で固まった。
近くで見れば、尚圧倒されるその神々しさに気圧されながら、なんとかその場に踏み留まると、ただ静かに呼吸を繰り返した。
(こ、ここから…どうしたらいいんだろう…?)
五歩と離れていない距離で立ち尽くしていると、バルドル神の手が動き、ゆるりと手招きをされた。
「もう少し、近くに」
「っ…」
距離が近くなったせいか、より鮮明に聞こえるようになった声にドキリとしながら、おずおずとその身に近づいた。
「……私が怖いか?」
「えっ!? ち、ちが…ちがい、ます…っ」
悲しげに眉を下げるバルドル神に、フルフルと慌てて首を横に振った。
思ってもみなかった発言だったが、バルドル神からすれば、自分の態度はそう見えてもおかしくないのだろう。
申し訳なさと動揺から、慌てて互いの距離を縮めれば、その表情に笑みが戻った。
「良い子だ。もう少し、近くにおいで」
「え? え、と…」
もう既に、あと一歩という距離に立っている。にも関わらず、更に寄るように手招きをされ、困惑しながらも、半歩距離を詰めた。
「アドニス」
低く響く声に名を呼ばれ、差し出された右手。
なんとなく、本当になんとなく、その手を取ることを求められている様な気がして、躊躇いながらもバルドル神の手に自身の手を重ねた。
イヴァニエの手よりも大きな手に掌を包まれる感覚に、少しだけ気分が高揚する───と次の瞬間、グイッと手を引かれ、突然のことに驚き、バランスを崩した体が倒れそうになった。
「わっ!?」
「バルドル様ッ!」
転ぶ───!
そうと思った瞬間、伸ばされた手に腰を掴まれ、ふわりと体が浮いた。
(……え?)
自分の体が、信じられないほど軽くなったような感覚に目を丸くしている間に、抱き上げられた体はストン、とバルドル神の膝の上に落ち着いた。
「……………え?」
「うん、これでお前の顔がよく見える」
「………え?」
満足そうに笑う顔が、目と鼻の先に見える。
臀部の下に感じる体温と、がっちりと腰に回された腕。
抱き寄せられた腕に体を支えられ、完全にバルドル神の膝の上に座っている状況に、思考は完全に停止した。
(………あ…瞳の色が、違う…)
現実逃避をするように、頭は視界に映った情報をただ処理していた。
恐ろしく整った顔立ちの中にある切れ長な瞳。その瞳を縁取る、長く厚い睫毛の下に見える瞳は、左右で異なる色をしていた。
右眼は自分の瞳と同じ黄金色。
左眼は複数の色が複雑に混じり合い、ゆらゆらと揺らめく不思議な色合いをしていた。
(…あれ…?この色……さっきも…)
乳白色の中を淡く揺らめく、淡い青や赤といったいつくもの色は、母提樹や命の湖とまったく同じ色をしていた。
見る角度で色を変える不思議な瞳を食い入るように見つめていると、その瞳がふっと細められた。
「そんなに見つめて、どうした?」
「え…? ……あっ!」
無意識の内に顔を寄せ、見つめ合っていたことに気づき、反射的に体を仰け反らせた。
至近距離で瞳を見つめていたことに、今更ながらに羞恥が湧き、それと同時に止まっていた思考も回り始めた。
「ご、ごめんなさ…っ」
「こら、そんな風に動いたら危ないだろう」
「うぁっ」
仰け反った背を元に戻すように腰を引き寄せられ、更に距離が近くなる。
「大人しくしておいで」
「あ…ゃ……お、降り…」
「良い子にしてなさい」
「ぅ…」
優しく、それでいて有無を言わさぬ声音に、何も言えなくなってしまう。
それでも動揺と羞恥に落ち着かず、助けを求めるように階段下にいるイヴァニエ達に視線を送れば、険しい顔をした三人と目が合った。
(お、怒ってる…?)
神様の膝の上に座るのは、やはり不敬だろうか…サァと血の気が引く感覚に、フルフルと首を振った。
「ぁ…あの…」
「そんな泣きそうな顔をするな」
「ふゃっ…!」
大きな手に頬を撫でられ、ビクリと体が跳ねた。と同時に、二つの声が重なった。
「…っ、バルドル様! それ以上は…!」
「バルドル様、お戯れも大概になさって下さいませ」
「…!?」
聞き覚えのあるような、初めて聞く声に、ハッとして顔を上げれば、バルドル神のすぐ傍らに、知らない天使が立っていた。
(……誰…?)
突如現れた少年天使に、パチリと目を瞬く。
バルドル神と同じ、艶やかな黒髪とアメジストの瞳。エルダよりも幾分背の高い、凛々しい顔立ちの美少年に、ポカンと口を開けた。
今までそこには誰もいなかったはず…と驚いていると、その子と目が合った。
「っ…」
刹那、ふっと微笑んでくれたその優しげな表情に、目を見開く。
(……笑って、くれた…)
今でこそ、当たり前のように笑いかけてくれるイヴァニエやルカーシュカ、エルダだが、最初は決して友好的とは言い難い状態だった。
それが当然と言えば当然だったのだが、それを思えばこそ、淡い笑みを返してくれる天使に、驚きを隠せなかった。
「恐れ入ります、アドニス様。今のままではお話が進みませんので、つい口を挟んでしまいました。申し訳ございません」
「あ……は…、いえ…」
「バルドル様、これ以上アドニス様に御手を出すのはおやめ下さい」
「愛しい我が子を愛でているだけだぞ?」
「左様でございますね。ですがこれ以上はお控え下さい」
柔らかな口調で、だがキッパリと言い切る天使に茫然としながら成り行きを見守っていると、頬を撫でていた大きな手が離れていった。
「仕方ない。残念だが、可愛がるのはまた今度にしよう。……アドニス」
「は、はい…!」
途端に真剣な眼差しで見つめられ、ピッと背筋を伸ばした。…膝の上からは降ろしてもらえないみたいだが、どうしようもないので仕方がない。
「…お前のことは、イヴァニエとルカーシュカから聞いているよ」
「…!」
唐突に、なんの前触れもなく核心に触れた言葉に、衝撃にも似た鼓動が胸を圧迫した。
「何も憶えていない。何も知らない、分からない。…そうだったな?」
「は…、…はい…」
「自分のことも、他の者達のことも、この世界のことも、何も憶えていなかった」
「…はい…」
「…私のことも、分からなかったか?」
「……は、い…」
「…そうか」
淡々と事実を確認するだけの質問は、どこか非現実的で、狼狽える暇もなかった。
ただ一度大きく跳ねた心臓は、バクバクと鳴りっぱなしで、非現実的だからこそ、改めて問われたことで浮き彫りになった自身のおかしさに、罪悪感が込み上げた。
「ぁ……あの…」
「泣きそうな顔をするな。何も憶えていないとしても、それはお前が悪い訳じゃないだろう?」
「っ…」
そう言われ、込み上げた感情に、グッと奥歯を噛んだ。
『お前が悪い訳じゃない』
ずっと、心のどこかで、何も憶えていない自分が悪いのだという呵責に苛まれていた。
記憶が無いことに怯えながら、どうして何も憶えていないのかと自身を責めていた。
記憶を失ったことすら、自分に対する罰なのでは───そんな風に思うことすらあった。
だがバルドル神の…自分に罰を与えた神様の口から、それを否定してもらえたことで、その呵責からも解放されたような気がした。
「アドニス」
「…はい」
「私がお前の聖気に残る記憶を読むことで、何か分かることがあるかもしれない。それは聞いているな?」
「……はい…」
「お前の身に何が起こったのか、私は罰を与えた者として、知る必要がある。それがお前にとって辛い現実であってもだ。お前自身、知らなければいけないことでもある。…分かるな?」
「…はい」
「…良い子だ。大丈夫だ。怖いことはしないよ」
そう言って、バルドル神の手が再び頬に触れた。
瞬間、触れた掌がぽぅっと熱くなったのを感じ、慌てて身を捩った。
「あ…やっ、ま、まって…!」
「どうした?」
このまま記憶を読まれそうなことに気づき、咄嗟に頬に触れる手を拒んだ。
「あ…あの…、お、お話し…聞いて、下さい…!」
「うん? なんだ、言ってごらん」
バルドル神の膝の上、自分の方が少しだけ高い目線を下げれば、左右で異なる色の双眸と目が合った。
「あ……の…わ、私の…謹慎が、明けたら…私が、…この先、どうしたいか…て、決めて…いいって…本当、ですか…?」
「ああ、勿論だ。お前はもう、充分な罰を受けた。これ以上の責を負わせるつもりはないし、その先を制限するつもりもない」
「……、」
記憶に間違いが無かったことにホッとしつつ、服の端を強く握り締めると、『自分の願い』を伝えるべく口を開いた。
「…お、お願い、が…あります」
「うん。なにかな?」
一切揺るがないバルドル神の視線に、緊張は高まった。
速くなる鼓動にコクリと喉を鳴らすと、深く息を吸い込み、震える息を吐いた。
「も…もし…、……もし、わ、私が…前の……罰を、受ける前の…みんなに嫌われる…嫌われ、ちゃうような…嫌な…自分だったら……もしまた、みんなに、嫌なことをする自分に、なっちゃいそう…なら……その時は、命の湖に…還して、下さい」
「アドニス!」
「アドニス様…!」
泣き声にも似た声が鼓膜を揺らしたが、目の前の瞳から目を逸らさなかった。
(…今、みんなを見たら…また、泣いちゃう…)
なにより、この願いは譲れなかった。
彼らと共に在りたい、共に生きたい。
その願いと同じくらい、また彼らを傷つけるような自分にも、嫌われるような自分にも、もうなりたくなかったのだ。
「…命の湖に還るか否かは、自分で決めることだぞ?」
「…はい。だから……自分で…自分の意思で…動ける、時は…ちゃんと、自分で…還ります。…でも…自分の…私の意思が、無くなっちゃったら……還れなく、なっちゃうかも、しれないから…」
そう、なにより恐ろしいのは、自分が自分でなくなることだった。
『以前の自分』の記憶を失ったように、今いる自分の記憶を失わないという保証がどこにあるだろう?
もしも、『以前の自分』と今の自分が、ただ記憶を失っているだけの同一人物だったら?
もしも、何かの拍子で、記憶を取り戻したら?
もしも…もしも、その拍子に『今の自分』の記憶を失い、元の自分に戻ってしまったら───…?
そうしてまた、誰も彼もを傷つけて、憎悪と侮蔑だけをぶつけられるだけの自分になってしまったら…例え、そこに自分の意思など無くなっていたのだとしても、そんな悲しいことはしたくなかった。
例え、そこに自分の記憶など無くなってしまったのだとしても───それでも、彼らに嫌われる自分には、もうなりたくなかった。
(だから、今の自分の…『私の願い』を、叶えてもらいたい…)
自分の願いは、彼らの平穏を乱さぬことと、愛されていた自分が確かにいたのだという思い出を守ること───彼らから注がれた愛情を大切にしたいからこそ、自分の願う未来を護りたかった。
「私は…ルカーシュカ様も、イヴァニエ様も…エルダも、ちっちゃい子達も…みんな、大好きです…っ、好きだから…みんなに、嫌なことをする自分には…なりたくないです…! そんな、悲しいことを、しちゃう、なら……しちゃう、前に…あの湖に還りたい…!」
気づけば、ポタリと涙が溢れていた。
愛しいから、大切だからこそ抱いた、祈りのような願い。
縋るような気持ちで、バルドル神の瞳を見つめ、互いに視線を逸らすことなく見つめ合うこと数秒…向かい合っていた瞳が、そっと伏せられた。
「……分かった。お前の願いを叶えよう」
「あ…ありがとうござ───」
「バルドル様! お待ち下さい!」
「そのような願いは…っ!」
詰めていた息をホッと吐き出すのと被って、イヴァニエとルカーシュカの叫ぶような声が聞こえた。
「落ち着きなさい。アドニスの望む未来を尊重すると約束したのだ。これを違えるつもりはない」
「しかし…!」
「勿論、無条件に叶えるものではないよ。…アドニス、その願いを叶えるのは、それを願った今のお前が傷つき、悲しむような未来が訪れた時だ。『もしも』の域を超えない限り、その願いを叶えてやることはできない。いいね?」
「……はい。…ありがとう、ございます」
難しい願いだということは分かっている。
だからこそ、無条件で良しと言われないこと、それでも約束を守ってくれると言ってもらえたこと、その両方に安堵した。
「話しは、もういいかな?」
「……はい」
「では、お前の記憶に触れよう」
「は、はい…っ」
改めて宣言され、居住まいを正す。濡れた頬を手の甲で拭い、緊張に体を硬くしていると、大きな手に頬を包まれた。
「大丈夫だ。力を抜きなさい」
「…はい」
「力を抜いて……そう、良い子だ」
さわさわと頬を撫でる掌は心地良く、甘やかな声に、体から余計な力が抜けていく。
頬を撫でる手つきは優しく、徐々に意識が蕩けていくのが分かった。
「そのままゆっくり、私に顔を寄せなさい」
意識がとろりとしてきたところで、やんわりと頬を引き寄せられた。
互いの顔を寄せ合い、今にもぶつかってしまいそうな近さに戸惑い、身を竦める。
「んぅ…」
「大丈夫だ。目を閉じて」
「……ん」
「そのまま、力を抜いていなさい」
言われるがまま、ギュッと目を瞑れば、コツンと額と額が触れる感触がした。
吐息に揺れる空気と、長い睫毛が肌を擽る感触。信じられないほど近い距離にバルドル神を感じ、僅かに気持ちが揺れたが、それもすぐに落ち着いた。
温かな体温に身を委ねるのとほぼ同じく、先ほど感じたぽぅっと広がるような熱を感じ、緩く息を吐き出した。
(あったかい……)
触れ合った皮膚から、じんわりと全身を巡るような熱に、意識がぼうっとし始める。
どこまでも優しい温かさは心地良く、無防備に全てを委ねられる気持ち良さに、少しずつ意識が薄れていった。
あと少し…あとほんの少しだけ繋がり続けたら、眠ってしまうかもしれない───そう思い始めた頃合いで、ふっと触れていた熱が離れていった。
(……おわ…た…?)
一瞬の出来事だったような、随分と長く心地良い熱に揺蕩っていたような、不思議な感覚を残しながら、ゆっくりと瞼を上げた。
「……っ」
ぼんやりとした意識の中、間近に映ったバルドル神の整った顔───その美しい顔が、今にも泣き出しそうな表情に歪んでいて、思わず息を呑んだ。
「…バルドル、様…?」
掠れた声で、呟くようにその名を呼べば、突然、体をキツく抱き締められた。
「わっ!?」
全身を締め付ける、痛いほどの抱擁。
混乱と驚愕に慌てながら、身じろぎをすることすら躊躇われる状況に、困惑しながらも大人しく腕の中に収まった。
どうすればいいのか分からず、傍らに立つ天使に視線を送ったが、その子は何も言わず、黙って首を横に振るだけだった。
(…どうしよう)
体を包み込む腕の力はいつまで経っても緩まず、オロオロと視線を彷徨わせた。…と、ふと抱き締める腕が微かに震えていることに気がつき、目を見開く。
(……泣い、て…?)
弱い弱い、微弱な振動に、もう一度その名を呼ぼうとしたその時、体の締め付けが僅かに緩んだのが分かった。
「……バルドル様…?」
ゆっくりと体が離れ、バルドル神が顔を上げた。
その瞳にも頬にも、涙が流れた痕は無い。それなのに、どうしてか泣いているように見えて、胸がツキリと痛んだ。
「あ、の…」
「───…」
「…え?」
小さな呟きが聞こえたような気がしたが、唇が僅かに動いただけで、その音までは聞き取れなかった。
「………すまなかった」
「……バルドル、様…?」
「本当に…、ああ…私はなんてことを…っ」
「ぁ……」
苦しいほどの抱擁は解けたが、腰を抱き寄せる腕はそのままで、頬を包み込むように触れた大きな手は、やはりほんの少しだけ震えていた。
「バルドル様…?」
「…バルドル様、もし何かお分かりになったのであれば、私共にもお聞かせ下さい」
張り詰めた空気の中、室内に響いたルカーシュカの声に、ハッとした。
声のした方に視線を向ければ、イヴァニエもルカーシュカも、真剣な表情でこちらを見つめていた。
その後ろ、硬い表情をしたエルダと目が合うも、いつものように微笑んでくれることはなかった。
「っ…」
途端に跳ね上がった緊張に、ゾクリと肌が粟立つ。
うるさく脈打つ心臓の音は、きっとバルドル神にも聞こえているだろう。
その音を鎮める方法も分からないまま、『答え』を求め、バルドル神の名を呼んだ。
「…バルドル様……私は……」
───聞くのが怖い。でも、聞きたい。
相反する感情に揺れ、息苦しさから声が震えた。
助けを求めるように、頬を包む大きな手に自身の手を重ねれば、こちらを見上げたバルドル神と目が合った。
眉根に皺を寄せ、眩しいものを見つめるように細められた瞳───その瞳が、ゆっくりと伏せられた。
「……この子は、アドニスじゃない」
泣き声のような、小さな声がポツリと零れ落ちた瞬間、痛いほどの静寂に包まれていた室内に、複数の息を呑む音が聞こえた。
「………アドニスじゃ…ない…?」
言葉の意味を瞬時に理解することができず、聞こえた音をそのまま繰り返した。
バルドル神の声が鼓膜の奥に響いた瞬間、頭の中は真っ白になっていた。
それでも、意味を理解しようと、鈍い頭が血液の巡る鼓動に合わせ、ゆっくり、ゆっくりと回り始める。
短い沈黙の後、異なる色合いの双眸が開かれ、自身の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「…お前の聖気の中に、あの子の…アドニスの記憶は無かった」
「……記憶が…無い…?」
「そうだ。忘れているんじゃない。…無いんだ。一欠片も。聖気の色も、残る記憶も、アドニスのそれとはまったく違う……違うんだ」
(……違う…)
少しずつ、情報を整理するように、紡がれる言葉を拾い上げ、自分の中で『正解』と思しき形を作り上げていく。
複雑な感情が混じり合った思考の中、激しく脈打つ心臓の苦しさに胸を押さえながら、答えを強請るように、声を振り絞った。
「…じゃあ……私、は…?」
───生まれたその時から、誰にも気づいてもらえなかった産ぶ声。
「……アドニスとは違う魂───アドニスとは、別の子だ」
いつか泣いていた、あの日の弱々しい泣き声が、ようやく届いた瞬間だった。
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