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フォルセの果実
67.想い、想ふ、君へ(後)
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「あったかくて、気持ちいい…です」
気持ち良さそうに瞳を細め、ふにゃりと笑うアドニスに、喜びと安堵から、胸が熱くなった。
いつかと変わらず、自身の手からアドニスの手を伝って流れていく聖気は、血液が体内を巡るかの如く、アドニスの体へと渡った。
まるで体を共有しているような、一続きの肉体であるかのように錯覚してしまうほど、心地良く流れていく聖気に、僅かに興奮した。
(ああ…やっぱり違う)
ずっと燻っていた疑問が、本当にこの生き物はアドニスなのかという疑念が、霧が晴れていくように静かに、サラサラと形を崩し、消えていく。
そうして最後に残った『別人のようだ』という思いだけが、この場にいる三人の中で確信に変わった。そんな瞬間だった。
エルダと手を結び、エルダからの聖気を受けている間も、ふにゃふにゃと笑うアドニス。
その姿を愛しいと思う気持ちに、僅かな喜びが混じったが、気を抜かない様、為すべきことだけを考えた。
確信は得ても、何がどうしてこのようなことになっているのか、そこまでは分からない。どのように受け止め、考えればいいのかも分からないままだ。
今はまだ、複雑に絡み合う感情は押し殺すべきだと、努めて冷静であろうとした。
だが、束の間の和やかな空気は、その後一変した。
「アドニス!!」
不自然に揺れた体が、倒れるようにソファーの背凭れに沈む。
流した涙もそのまま、事切れたように瞳を閉じ、意識を失ったアドニスに、焦りと恐怖ばかりが募っていった。
『命の湖に、還りたい』
アドニスの口から静かに発せられた声は、とても小さな音だったのに、脳を揺さぶるほど大きく聞こえた。
そんなことを言わせたかったんじゃない───!
激情がそのまま言葉にならない様、必死に堪えながら、アドニスの真意を探ろうとした。
だがその直後、何がアドニスの琴線に触れたのか、突然取り乱し、怯えるように泣き始め、逃げようと体を捩り、もがき始めた。
急にどうして、何故…そんなことを考えている暇もなく、喉を引き攣らせるように呼吸を乱し始めたアドニスは、目の前で気を失った。
アドニスの頬に手を当て、必死に声を掛けるイヴァニエと、ただでさえ白い肌を青白くさせ、茫然とするエルダ…自分自身、動揺し、狂ったように心臓が鳴っていたが、頭は馬鹿みたいに冴えていた。
(…ダメだ。落ち着け)
無意識の内に止まっていた呼吸を深く吐き出すと、アドニス同様、今にも倒れてしまいそうなエルダの目を覚まさせるべく、口を開いた。
「ひとまず、ベッドに寝かせよう。……エルダ、頼めるか?」
「ぁ……は、い…」
茫然としながらも、緩慢な動きでアドニスを抱き上げるエルダ。その姿を目で追いながら、深呼吸を繰り返した。
大丈夫。大丈夫だ。
きっと、心に負荷が掛かり過ぎたのだ。
少し眠ったら、きっと、目を覚ましてくれる。
そうしたらまず真っ先に、無理をさせてしまったことを謝ろう…そう自分自身に言い聞かせながら、眠るアドニスの手を握った。
起きたら今度は、もっとゆっくり、少しずつ話しをしよう───そんな希望を揺さぶり、拒絶するかのように、金色の瞳が開かれることはなく、その日からアドニスは、昼も夜も、延々と眠り続けた。
「おはよう、アドニス」
ベッドの上、静かに呼吸を繰り返すだけのアドニスに声を掛ける。
返事が無いのは分かっているが、それでも手を握り、今が朝だということを報せた。
エルダは部屋の外に控えている今、この場には自分とアドニスしかいない。落ち着かないほど静かな部屋の中、アドニスの寝顔を見つめた。
(……温かい)
握った手が熱を帯びていることに、ホッとする。
こうしてアドニスの体温を確認し、安堵する日々を何日繰り返しただろう。
当初はすぐに目を覚ますだろうと思っていたアドニスだが、翌日になっても、二日経っても、どれだけ経っても、目を覚ますことはなかった。
綺麗に整えられたベッドの上、眠り続けるアドニスに、日々不安は大きくなっていった。
どうして、目覚めない?
どうして、なんの反応も返してくれない?
なにが、そこまでお前を追い詰めた?
…一体どれだけ、お前を傷つけた?
答えが返ってくるはずもない疑問に、少しずつ精神は擦り減っていく。
早く目覚めてほしいのに、無理やり起こすような勇気もなく、自分もイヴァニエもエルダも、自然にアドニスが目覚めることを願い続けた。
強制的に起こしたことで、アドニスの身に何か起こるのではないか…そんな不安が、どうしても拭えなかったのだ。
アドニスの聖気が変質したことも、記憶のある限りを失ったことも、原因と呼べる出来事に心当たりはあるが、今のアドニスが一体どのような状態なのか、それが分からないからこそ、手を出せなかった。
もしも無理に起こしたことで、また何かが変わったら?
もしもまた、記憶を失っていたら?
もしも…もしも、今のアドニスを失うようなことになったら───…?
その可能性が無いと、どうして言い切れるだろう。
誰も彼も臆病になって、眠るアドニスを見守ることしか出来なかった。
なにより、意識を手放したアドニスは、まるで現実を拒絶している様で、目覚めさせることがアドニスの苦痛になるのではと思わずにいられなかった。
(……分かってる)
このまま時が過ぎるのを待つだけなんて、そんなことが許されないとは分かってる。
それでも、何かが変わることが、失うことが怖くて、一歩が踏み込めなかった。
アドニスのことは、バルドル神にも報告した。
ただでさえ、アドニスの身を案じていたバルドル神は、目覚めないアドニスに心を痛め、自身の元で見守ろうとさえ言い出した。
それを『否』と言って断ってしまったのは、アドニスと離れたくない、自分達の見えない所に行ってほしくないという我が儘だった。
(バルドル様を疑う訳ではないが…)
彼の方は、とても愛情深い方だ。アドニスのことを、心から案じて下さっている。
だからこそ、弱り切った我が子を守ろうと、一度懐に入れたら、囲って表に出そうとしないのでは…と、そんな懸念が払えなかったのだ。
いっそ眠っている間に、アドニスの聖気に残る記憶を読んでもらえば…そう思いもしたが、何が刺激になるのか分からない今、どんなことが起こるかも分からないのに、双方にとって危険なことはしてもらいたくなかった。
「……アドニス」
臆病で、保身的で、なにもしてやれない我が身が情けなくて、腹立たしい。
「…ごめん。…ごめんな」
それでも、愛しい者を失いたくないと、みっともなく心が泣き喚くのだ。
(目覚めない方が…お前にとっては幸せなんだろうか…?)
それを悲しいと思うことすら、我が儘なのかもしれない───約束の日が近づくにつれ、胸の締め付けは深く、キツくなっていった。
それから約一ヶ月。三人で悩み、話し合い、何度も躊躇い、そのたびに現実を恨めしく思いながら、フォルセの果実が実る二日前、意を決して再びアドニスに聖気を譲渡することで、目覚めを促した。
緊張と恐怖で心臓がどうにかなってしまいそうだったが、微弱な聖気を少しずつ少しずつ、アドニスの体に流していけば、程なくして、睫毛を震わせながらその瞳が開いた。
「…ルカーシュカ様……イヴァニエ、様…、エルダ……?」
『ルカーシュカ様』───その呼び方に、こんなにも安心したのは初めてだった。
(良かった…!!)
アドニスは、何も変わらず、何も失っていなかった。
とろりと蕩けた蜂蜜色の瞳も、寝起きのあどけない表情も、よく知るアドニスのそれで、安堵と喜びで視界が滲んだ。
(……まだ、これからだ)
キツく瞼を閉じ、気持ちを切り替える。
いつ目覚めてもらうべきか、前日では遅過ぎるし、それより早くてもアドニスの心労になる…悩んだ末に選んだ約束の日の二日前という事実は、アドニスにとっては衝撃的だったのだろう。
目を見開いて驚く姿に気持ちが怯まない様、拳を強く握り締めた。
(……ごめん)
これ以上、辛い思いはさせたくない。そう思うのに、何もしてやれない自分に、唇を噛んだ。
「やはり、気持ちが追いつかないのでしょうね」
アドニスが目覚めたその日の夕刻、アドニスの元を離れると、その足でイヴァニエの離宮へと向かった。
目が覚めたばかりのアドニスはぼんやりとしていて、その様子にただただ不安になった。
プティ達の呼び掛けに対する反応も鈍く、その表情は微かに動くだけで、笑えていなかった。
まるで一月前、泣き喚いたあの日に感情を置いてきてしまったような危うさと脆さに、自分もイヴァニエも、怯んでまともに話し掛けることすら出来なかった。
「…いっそ、泣いてくれれば良いのにと思ってしまいます」
「……そうだな」
イヴァニエの言いたいことが、痛いほど分かる。
いっそ泣いて、怒ってくれるなら、どれだけ良かっただろう。
泣いて、嫌だと、怖いと、そう言ってくれれば、いくらでも抱き締めてやれるのに…今のアドニスは、それすら許されないほど、不安定に見えた。
「出来ることなら、一晩中側にいてやりたいのですが…」
「…諦めろ。何がアドニスの負担になるか、分からないんだ」
本当は自分だって、付きっきりで側にいたい。
だが当のアドニスは、エルダでさえ部屋から帰し、共に過ごすことをやんわりと拒んだのだ。エルダの落ち込み様は、見ていられないほどだった。
「…一人で考える時間が欲しいという気持ちも分かる。せめて、明日はずっと、一緒にいよう」
「ええ…」
どうせ明後日のことで、そこかしこで落ち着かない空気が蔓延し、アドニスの名を聞くことになるのだ。
とてもではないが、今は他の者達がアドニスのことを話題にしている姿を見たくもないし、聞きたくもなかった。
「…用意した服も、気に入ってくれるといいんだがな」
「きっと気に入ってくれますよ。アドニスの好みを一番分かっているエルダと、一緒に拵えたのですから」
そう言って動いたイヴァニエの視線の先を、目で辿った。
青と黒と白の三色で纏めた衣は、以前のアドニスの好みからはかけ離れた、楚々とした装いだ。
金糸で彩られた刺繍は見事だが、その輝きは控え目で、布が揺れる動きに合わせてキラキラと仄かに煌めく程度のささやかさだ。
充てがった色は、自身とイヴァニエの瞳の色。その色を纏わせることで、アドニスを庇護する立場であることを主張すると同時に、装いをガラリと変えることで、皆の記憶に残るアドニスのイメージを壊してしまおうと画作して用意した物だった。
「…やり過ぎたか?」
「いいえ。むしろ足りないくらいです。できることなら、もっと青い色が欲しいのですが…」
「…エルダがちょうどいいバランスで整えてくれたんだ。諦めろ」
色々と主張が激しい装いだと思うのだが、これで足りないというのだから、この男はだいぶ独占欲が強いらしい。
「ローブには守りの加護を施してある。纏っていれば、周りから向けられる感情や声を、ある程度遮断してやれるはずだ」
「私も花飾りに安らぎの加護を施しました。気持ちが落ち着く様、不安を軽減してくれるでしょう」
アドニス本人が粛法を一切扱えず、身を守る術を持たないのだ。自分達が常に隣にいるつもりだが、心の負担を減らすくらいの加護は必要だった。
「まずは明日を、穏やかに過ごせるように…」
「…そうですね」
明日も、明後日も、無事過ぎてくれますように───祈るように迎えた明日は、朝から早々に翳りを帯びていた。
「一睡も…?」
「はい……」
訪れたアドニスの部屋、明らかに憔悴した様子のエルダに出迎えられ、嫌な予感がした。
慌てて部屋に入るが、そこにアドニスの姿は無く、寝室に向かえば昨日までと同じように、ベッドで眠るアドニスがいて、瞬間的に心臓が竦み上がった。
「ご安心下さい。ただ、眠っていらっしゃるだけです」
まったく安心できない顔で、朝見た光景と、無理やり寝かせたアドニスの様子を聞き、胃が痛くなる。
昨日は食事も摂れなかったのだ。ただでさえ心配していたのに、加えて一睡もせずに夜を明かしたという状況に、ますます不安と心配は募った。
「……こんな状態で、明日は大丈夫なのか?」
「……大丈夫ではないでしょうね」
他の者達はこの際どうでもいい。いっそ会わなくていい。
だがバルドル神との対面は避けられない。
バルドル神と会って、アドニス自身が自分のことを知らなければ、身動きを取ることすら出来ないのだ。
(……本当に、ただ眠っているだけなんだよな?)
また深い眠りの底に落ちてしまったら───ゾッとするような考えに苛まれながら、眠るアドニスの手に触れた。
温かな手の温もりに、少しだけ不安は薄れたが、今度は離すのが怖くなり、アドニスが目覚める直前まで、繋がった手を握り続けた。
夕刻になり、恐る恐るアドニスの体を揺すって起こせば、存外すんなりと目を覚ましてくれた。
そのことに心底安堵としつつ、身支度が整うのを待てば、部屋の片隅に用意しておいた服にアドニスの視線が釘付けになるのが分かった。
「……綺麗」
ポツリと零れた声と、少しだけ輝きを取り戻した金色の瞳にホッとする。
気に入ってもらえたみたいだ…と、喜んだのは一瞬で、何故か黙り込んでしまったアドニスに、じわじわと不安が忍び寄った。
(…なんでだ?)
言葉を飲み込むように結ばれた唇と、徐々に下がる視線と眉。少しずつ俯いていく顔は今にも泣き出しそうなのに、まるで流す涙まで枯れてしまったかのように虚ろで、いよいよ耐え切れずに手を伸ばした。
「アドニス、明日はずっと、あなたの側にいます。決して一人にはさせませんし、他の者達の声も届かせません。…不安かもしれませんが、絶対に怖い思いはさせません」
「すまない。結局、ろくに話しもできなかったな…アドニス、不安があるなら…いや、不安しかないかもしれないが、言いたいことがあれば言ってくれ。……望みがあるなら、教えてほしい」
「………」
泣いてほしかった。
怖いことを怖いと、嫌なことを嫌だと、言ってほしかった。
叶えてやれる自信はないが、もう一度、胸の内に隠してしまった願いを吐き出してほしいと、自分勝手にも望んでしまった。
そんな自分勝手な願いは、当然のように拒絶された。
「……ん…」
フルフルと、小さく首を横に振るだけのアドニスに、無性に泣きたくなった。
分かってる。素直に話してもらえないのは、自分のせいだと分かっている。
それでも、何もかも諦めたようなその姿が悲しくて、辛くて、ただ話しを聞いてやることすら出来なくなった自分が腹立たしくて、奥歯を噛み締めた。
「……本当か? 望みでなくてもいい。言いたいことが…言っておきたいことがあれば、言ってくれていいんだぞ?」
「……大丈夫、です」
「………そうか」
それ以上、何も言えなかった。言えるはずがなかった。
「大丈夫」という言葉をただ信じるのはあまりにも愚かで、それでも信じることしか出来なかった。
(…ああ、嫌だ)
みっともなく震えてしまいそうになる声を叱咤し、努めて普段通りの声音で、なるべく深刻さを隠し、明日の予定を伝える。
胸の奥で渦巻く悔しさも悲しさも噛み殺し、精一杯微笑んでみせても、アドニスの表情が変わることはなかった。
目の前にいて、その手に触れているはずのアドニスが、とても遠くに感じた。
翌日、未だに現実味のない現実にぼんやりしながら、身支度を整える。
フォルセの果実が実る、今日という特別な日。
一堂に会する大天使達は皆、普段とは違う特別な装いで参加するのが常だった。
それもあってか、従者達も皆張り切り、仕える主を飾り立て、楽しそうに笑った。
(…暗い顔でいるものじゃないな)
そう思うが、表情筋はなかなか素直に動かなかった。
昨夜は、正直どうやってアドニスの元から帰ってきたのかよく覚えていない。
自身の不甲斐なさに打ちのめされ、ショックで回らない頭のまま、フラフラと自分の宮まで帰ってきたのだろう。
(……しゃんとしろ。今日は…今日こそは、強くあらねば)
不安も、恐怖も、本当は泣きたくて堪らないのも、その感情は全部、アドニスが背負っているのだ。
(俺が揺らぐな)
側にいることしか出来ないのだから、ならばせめて、しっかりと立ち、アドニスが蹌踉けて倒れそうになった時、助けてやれるくらいの自分になりたい。
決意を固めるように、深く息を吸い込み、顔を上げた。
「待たせたな」
「いえ、時間通りですよ」
身支度が整うと、離宮を離れ、宮廷へと足を向けた。
待ち合わせ場所には既にイヴァニエがいて、挨拶も程々に、そわそわと落ち着かない雰囲気に包まれた宮廷の中を通り過ぎ、アドニスの元へと向かった。
(この道を辿るのも今日で最後か…)
喜ばしいことのはずなのに、どこか寂しい気持ちになりながら、辿り着いた扉の前で深く息を吸い込んだ。
「…緊張しますね」
「…そうだな」
イヴァニエと、互いにぎこちなく笑みを交わすと、扉をノックする。
───コンコンコン…
「………?」
扉を叩いて暫く、いつもならエルダが出迎えてくれる頃合いを過ぎても、何故か中からの反応は無かった。
(………いや…まさかな)
にじり寄る不安を振り払うように、もう一度扉を叩くが、シンと静まり返った回廊には、ノックの音が虚しく響くだけだった。
「…っ、ルカーシュカ!」
「分かってる!」
頭で考えるよりも先にドアノブに手を掛けると、勢いよく扉を開けた。
「アドニス!」
「エルダ!」
そこにいるはずの二人の名を呼ぶ───が、次の瞬間、イヴァニエも自分もその場で固まった。
カーテンの締め切られた薄暗い部屋。
その光景は、初めてこの部屋を訪れたあの日の姿とあまりにも酷似していて、息を呑んだまま、吐き出すことも忘れた。
「………嘘だろ…」
たった一言、声を発するのがやっとで、部屋の中に足を踏み入れることも出来ない。
人の気配も無く、呼び掛けに応じる返事も無い。
うるさいほどの静寂が、此処には誰もいないのだということを如実に物語っていた。
「…ッ」
思考が停止しかける中、隣にいたイヴァニエが動いた。
足早に部屋の中を進む背を追うように、半分回らない頭で足を動かせば、目の前で寝室の扉が大きく開かれた。
「アドニス! エルダ!」
静かな室内に、イヴァニエの声が響く。
一切の乱れのない寝具に、部屋の片隅に置かれたままのアドニスに贈った服…整ったままの室内は酷く寂しく、異常なほど冷たく見えた。
「っ…、どこに…!」
焦るイヴァニエの声を聞きながら、混乱と動揺、焦燥で震えそうになる体を、拳を握り締めて耐えた。
悲しいのか、ショックなのか、それすらも分からないまま、必死に状況を理解しようと鈍い頭を動かした。
此処にいないということは、どこかへ出て行ったということだ。それも、恐らくは夜の内に…
カーテンが締め切られたままということは、陽が昇る前にはもう───と、そこまで考えた時、ふと視界の端でカーテンが揺れているのが見えた。
誘われるように、そこへと足を向ければ、バルコニーへと続く窓が半分開いたままになっていた。
(ああ……そんな…)
中途半端に開けられた扉の先…ここから二人が外に出て行ったのは明らかだった。
此処ではないどこかへ、アドニスが向かったのだとしたら…心当たりのある場所なんて、一つしかない。
(くそ…っ!)
憤りにも似た気持ちから、痛くなるほど拳を握り締める。
謹慎が解けるその日に、アドニスが命の湖へ向かってしまった。
ギリギリまで耐えて、耐えて耐えて耐えて…それでも耐えれなかったのだという現実に、胸が抉られるような思いだった。
「ルカーシュカ…! まさか二人は…」
寝室から窓辺へと近づいてきたイヴァニエが、開いたままの窓を見て、更に顔色を悪くした。
「……たぶん、命の湖に向かったんだろう」
「っ…!」
弾かれたように顔を上げ、今にもバルコニーから飛び立とうとするイヴァニエを既のところで引き留めた。
「待て! このまま行ってどうする!?」
「早く行かなければ…! あの子がいなくなってしまうかもしれないんですよ!? 追わないつもりですか!?」
「追うに決まってるだろっ!!」
感情のまま発した声は大きく、自分でも驚くほど昂っていた。
「アドニスが命の湖に向かったのは間違いない。俺だって、このまま行かせるつもりはない。だからこそ、戻ってきた時のことを考えて、準備してから追うべきだ」
「…ッ」
そう伝えれば、イヴァニエの体から、今すぐにでも飛び立とうとしていた勢いが抜けたのが分かった。
「恐らく、夜の内に出て行ったんだろうが、アドニスの足で向かったのだとしたら、辿り着くにはまだ時間が掛かるはずだ」
宮廷から命の湖まで、飛んでいけば半刻よりもずっと短い時間で着くだろう。
だがアドニスには翼が無い。徒歩で向かうしかないのだ。
本人に自覚があるのかは分からないが、アドニスの歩みは遅い。まして普段は、この部屋の中でしか生活していない。長距離を移動する機会など無かったはずだ。
途中で休みながら、少しずつ移動するはず…そう考えれば、今すぐ後を追わなくとも、まだ時間には余裕があると思えた。
(ただ、もしエルダがアドニスを抱き抱えて連れていったのだとしたら…)
そう、今この場にいないエルダが、恐らくはアドニスと共に行動しているだろうことが一番厄介だった。
あの天使は、なにより主の望みを優先させる思考の持ち主だ。
アドニスが別人格になっていることを理解している分、無条件に全てを受け入れることは無いだろう。だが、敬愛する主が苦悩すればするほど、その苦しみから解放させる為に、他のものを切り捨てるはずだ。
もし万が一にでも、アドニスの「命の湖に還りたい」という願いを叶える為に、動いているのだとしたら───…
(…絶対に無いとは言い切れないのが恐ろしいな)
流石にその線は薄いだろうと思いつつ、事実この場にはいない二人に、気持ちばかりが急いだ。
まして、エルダがアドニスを連れて、命の湖に向かったのだとしたら───その先は、考えたくなかった。
緩く頭を振ると、もしもという考えを無理やり意識の外へと追いやり、気持ちを鎮めるように、深呼吸をした。
「今は、アドニスが戻ってきた時のことを考えるんだ」
「……分かりました」
完全に安心することも、納得することも出来ないのだろう。それでも、苦い気持ちを飲み込むような返事が、イヴァニエから返ってきた。
そこからはまず、部屋全体を結界で覆った。
アドニスがいなくなったと知って、この部屋に踏み込んでくる者がいないとは言い切れない。
自分とイヴァニエ以外の者が立ち入れない様、簡易的にではあるが二人分の聖気を込めた二重結界を施した。
窓も扉も締め切り、部屋の外に出ると、扉にも二重封じを施し、一時的な閉鎖状態にする。
「ひとまず部屋はこれでいいだろう」
「ええ、早くバルドル様のところへ」
「ああ」
幸い、他の者達が集まるまでには数刻の余裕があり、今はまだ誰の姿も見かけていなかった。
逸る気持ちを抑えきれず、半ば駆けるように回廊を進みながら、バルドル神の元へと急いだ。
「オリヴィア!」
バルドル神が普段過ごしている部屋の前に着けば、運良く側仕えが外に控えていた。
「ルカーシュカ様…と、イヴァニエ様。如何なさいましたか? そのように慌てて…」
パチリと目を瞬く側仕えを前に、乱れた呼吸を整える。
「バルドル様へ、急ぎお目通り願いたい」
「…なにか、ございましたか?」
「アドニスが部屋からいなくなりました」
「なっ…」
見開かれた瞳には、声にならない驚きが混じっていた。
この天使は、自分とイヴァニエとエルダ、バルドル神以外で唯一、アドニスの現状を知っている者だ。だからこそ、信じられないという気持ちが大きいのだろう。
「中に入ってお待ちを。急ぎ呼んで参ります」
「バルドル様はご不在ですか?」
「…気の早い御方が、バルドル様のお気を煩わせるとも限りませんので…皆様がお集りになるまでは、奥の宮におります」
「……そうですか」
言葉を濁したが、要はアドニスのことで何かと口を挟んでくる者がいるということだろう。
仕方のないことと分かっていても、気持ちの良いものではない。同じ気持ちなのだろう、イヴァニエの眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。
バルドル神を待つ間、互いに落ち着かず、言葉数も少ないまま意味もなく部屋の中をウロウロと歩き回った。
こうしている間にも、アドニスが手の届かないところへ行ってしまったら…そんな焦りと恐怖を混ぜた感情で胸が騒めく中、部屋の正面、薄絹で閉ざされた通路の向こうから、大股で歩いてくる足音が聞こえた。
「バルドル様…!」
「アドニスがいなくなったというのは、どういうことだ?」
珍しく焦りを含んだバルドル神の声に、イヴァニエと二人、その場に膝をついた。
普段の装いとは異なり、ゆったりとした衣服に身を包んでいる姿からは、身なりを整える時間も惜しんで来て下さったのが分かった。
「申し訳ございません。先ほどアドニスの元へと向かった時には既に姿が無く……恐らくですが、昨夜の内に、命の湖へ向かったものと思われます」
「───」
大きく瞳を見開いたバルドル神が、悲しげに眉を下げた。
「……私は、まだあの子と何も話していない」
「…はい。私共が充分にアドニスの気持ちを汲んでやれず、追い詰めてしまったのが原因です。このようなことになり、誠に申し訳ございません」
深く首を垂れたまま息を詰めていると、緩く息を吐き出す音が聞こえた。
「お前達のせいではないよ。今までよく、アドニスに寄り添ってくれた。…お前達は、これからどうしたい?」
「アドニスの後を追います。まだ、間に合うはずです」
「……そうか」
一言ポツリと呟くと、緩慢な動きで歩を進め、バルドル神が高座に腰を下ろした。
「連れ戻すつもりかい?」
「はい」
「分かった。任せよう。だが、もしあの子が、心から命の湖に還りたいと願ったのなら、その道を阻んではいけないよ」
「………はい」
鉛を飲み込んだような気持ちから、返事が遅れた。
命の湖に還ることは、誰に止められることでも、誰に指図できることでもない。
本人の意思がなにより尊重され、例え神ですら、口出しすることは出来ないのだ。
「アドニスの願いを叶えるという約束だからな。…だが叶うならば、帰ってきてほしい。父に、愛しい我が子の顔を見せておくれと、伝えてもらえるかな」
「はい。必ずや」
もう一度深く頭を下げると、立ち上がった。
「バルドル様、アドニスを連れ戻したいとは思いますが、やはり今のまま、他の者達の前に出すのはあまりに酷かと思われます」
「私も同じ気持ちです。フォルセの果実が実るのを、共に見届けるのは不可能かと…」
大天使が一堂に会したところで、今代のフォルセの果実が決まる。
元々、アドニスとバルドル神が対面した後、全てが詳らかになってから、皆の前に出すべきか否かを決めるつもりだった。
だが部屋からいなくなったことを考えても、今のアドニスと他の者達を引き合わせるのは到底不可能だろう。
「そうだな……では、アドニスは私が保護したことにしておこう」
「保護、ですか? それは…しかし、どのような理由で…」
「なに、事実をそのまま伝えるだけだよ。罰を与えたあの日から、アドニスの様子が変わったこと、とても不安定で、皆の前に出せるような状態ではないと、ありのまま伝えよう」
「…納得するでしょうか?」
「事実そうなのだから、してもらわないと困るな。どちらにせよ、アドニスが謹慎を言い渡した部屋にいないのなら好都合だ。奥の宮で保護していることにして、部屋は閉じてしまおう」
「簡易的にですが、既に閉鎖しております」
「良い判断だ」
奥の宮。宮廷のその奥にある、バルドル神の私的な離宮だ。
そこへ赴くにはバルドル神の許可が必要で、現時点では筆頭側仕えだけが、自由に立ち入ることを許可されている。
(そこでアドニスを保護したとなれば…)
それ以上、言及できる者はいないだろう。
安堵すると同時に、バルドル神が私的空間にアドニスを招いたことで、妙な憶測を呼ばないか、なんとも言えない不安を抱いたが、今はそうも言っていられない。
「では、他の者達が宮廷に集まっている間は、こちらに戻らない方がよろしいでしょうか?」
「そうだな。今から予定を変えたところで、何故と疑問を抱く者がほとんどだろう。ならばそのまま集まってもらい、その場で伝えてしまった方が早い」
「私達はその場にいなくとも、よろしいのですか?」
「ああ、あの子の側にいてやっておくれ。お前達二人は、不安定なアドニスの子守りをしていると伝えておこう」
「……子守り…」
複雑な気持ちにはなるが、かと言って濁した説明では、それ以上的確な言い方もなかった。
「アドニスを見つけたら、その場で待機していなさい。他の者達を帰したら、こちらから報せを飛ばそう。…オリヴィア」
「畏まりました」
静かに傍らに控えていた側仕えの返事を聞くと、部屋を出ようと動きかけて、踏み止まった。
「バルドル様。先に、お伝えしておきたいことがございます」
「なにかな?」
バルドル神に伝えておかなければいけないこと───それは、変化したアドニスの聖気についてだった。
「アドニスの聖気ですが、やはり以前とは全く異なるものへと変質しています」
「…何か、分かったのか?」
「私とイヴァニエ、アドニスに付けた従者の三人で、それぞれアドニスに聖気を譲渡しましたが、いずれも一切の抵抗なく、アドニスへと渡りました。本人曰く、不快感もなく、ただ心地良いものとして感じられたそうです」
「……そうか」
短く返事をするバルドル神の声音は幾分硬く、それだけで、こちらの言いたいことが伝わったのだと分かった。
黙ってしまったバルドル神に一礼だけすると、静かに御前を後にした。
「なぜ今、バルドル様にアドニスの聖気のことを話したんです?」
バルドル神の元を離れ、一度それぞれの離宮へと戻る為、足早に元来た道を進む中、イヴァニエが不思議そうに聞いてきた。
「『月読』でアドニスの記憶を辿れば、何があったのかは分かるが、今までアドニスと接してきた俺達と違って、バルドル様はあの日……アドニスに罰を与えたあの日が、アイツと顔を合わせた最後だ」
悲しいと呼ぶには納得できず、寂しいと呼ぶには烏滸がましい感覚に苛まれながら、溜め息を零した。
「もし本当にアドニスが全くの別人になっていたのだとしたら…バルドル様は、きっと色んなことに対して、御心を痛めるはずだ」
それは、これまでずっと心配していたことだった。
「俺達のように、少しずつ確信を得た訳じゃない。直接会うことだって叶わなかった。俺達から聞いた話だけで、それだけで今までずっと、アドニスの……以前のアドニスのことも、今のアドニスのことも、どちらに対しても、ずっと御心を配っていらっしゃった」
「…そうですね」
「もし……もしもの話だが、例えばアドニスが、記憶を失っているのではなく、もっと根本的な何かを失っているのだとしたら…バルドル様にとっては、とてもお辛い現実となるはずだ」
彼の方は、あのアドニスのことですら、愛しい我が子と呼んで、慈しんでいらっしゃったのだ。
「どうなるかなんて分からない。でもだからこそ、バルドル様だって、御心の準備は必要だろう」
自分もイヴァニエもエルダも、覚悟は出来ていた。
どんな事実を突きつけられても、受け入れようと。
その為にも、憶測で期待することはしない。
ただ芽生えた感情は本物で、だからこそ、その気持ちを大事にしようと決めていた。
少しずつ少しずつ、降り積もっていったアドニスへの恋慕と同様に、今日という日を迎えるまでの覚悟も、少しずつ固めてきたのだ。
その為の時間が、例え僅かでも、我らが父にも必要だと思ったのだ。
「今日は恐らく帰らない。もし誰かが訪ねてきても、追い返してくれ」
「畏まりました。どうかお気をつけて、いってらっしゃいませ」
一度離宮に戻ると、簡潔にアドニスのことと今までの経緯、これから起こるかもしれないことについて、側仕えに説明した。
正に寝耳に水だったのだろう。側仕えは目を白黒させていたが、自分の焦りが伝わったのか、すぐに姿勢を正すと、落ち着いた様子で見送ってくれた。
(後のことは、任せて大丈夫だろう)
心配事が一つ、また一つと減っていくのに比例して、不安に揺らいでいた心が、強く芯を持ち始めた。
───アドニスを、必ず連れて帰る。
そうして今夜は、今夜こそは、絶対に側を離れないと心に決めた。
(こんな気持ちになるのは、もう御免だ)
一昨日の夜も、うだうだと悩まず、ずっと側にいれば良かった。
黙り込んでしまう前に、もっと話しを聞けば良かった。
感情を押し殺してしまう前に、嫌だと拒絶されても、怖いと泣かれても、鬱陶しいと思われるほど「大丈夫だ」と、「側にいるよ」と何度でも繰り返し、伝えれば良かった。
近寄ることを躊躇って、今にも崩れそうな脆さに怯えて、愛しいと想う感情を失うことを恐れて、一歩引いてしまった結果の今に、腹が立つほど後悔していた。
迎えに行く為の準備が整い、理性で抑え込んでいた感情が溢れ出すように、箍が音を立てて外れていくのが分かった。
(まだ、お前が好きだってことも伝えてないんだ…!)
一刻も早く、アドニスに会いたい。会わなければ───込み上げる恋しさと愛しさを胸に、大きく翼を広げると、命の湖へと向けて飛び立った。
気持ち良さそうに瞳を細め、ふにゃりと笑うアドニスに、喜びと安堵から、胸が熱くなった。
いつかと変わらず、自身の手からアドニスの手を伝って流れていく聖気は、血液が体内を巡るかの如く、アドニスの体へと渡った。
まるで体を共有しているような、一続きの肉体であるかのように錯覚してしまうほど、心地良く流れていく聖気に、僅かに興奮した。
(ああ…やっぱり違う)
ずっと燻っていた疑問が、本当にこの生き物はアドニスなのかという疑念が、霧が晴れていくように静かに、サラサラと形を崩し、消えていく。
そうして最後に残った『別人のようだ』という思いだけが、この場にいる三人の中で確信に変わった。そんな瞬間だった。
エルダと手を結び、エルダからの聖気を受けている間も、ふにゃふにゃと笑うアドニス。
その姿を愛しいと思う気持ちに、僅かな喜びが混じったが、気を抜かない様、為すべきことだけを考えた。
確信は得ても、何がどうしてこのようなことになっているのか、そこまでは分からない。どのように受け止め、考えればいいのかも分からないままだ。
今はまだ、複雑に絡み合う感情は押し殺すべきだと、努めて冷静であろうとした。
だが、束の間の和やかな空気は、その後一変した。
「アドニス!!」
不自然に揺れた体が、倒れるようにソファーの背凭れに沈む。
流した涙もそのまま、事切れたように瞳を閉じ、意識を失ったアドニスに、焦りと恐怖ばかりが募っていった。
『命の湖に、還りたい』
アドニスの口から静かに発せられた声は、とても小さな音だったのに、脳を揺さぶるほど大きく聞こえた。
そんなことを言わせたかったんじゃない───!
激情がそのまま言葉にならない様、必死に堪えながら、アドニスの真意を探ろうとした。
だがその直後、何がアドニスの琴線に触れたのか、突然取り乱し、怯えるように泣き始め、逃げようと体を捩り、もがき始めた。
急にどうして、何故…そんなことを考えている暇もなく、喉を引き攣らせるように呼吸を乱し始めたアドニスは、目の前で気を失った。
アドニスの頬に手を当て、必死に声を掛けるイヴァニエと、ただでさえ白い肌を青白くさせ、茫然とするエルダ…自分自身、動揺し、狂ったように心臓が鳴っていたが、頭は馬鹿みたいに冴えていた。
(…ダメだ。落ち着け)
無意識の内に止まっていた呼吸を深く吐き出すと、アドニス同様、今にも倒れてしまいそうなエルダの目を覚まさせるべく、口を開いた。
「ひとまず、ベッドに寝かせよう。……エルダ、頼めるか?」
「ぁ……は、い…」
茫然としながらも、緩慢な動きでアドニスを抱き上げるエルダ。その姿を目で追いながら、深呼吸を繰り返した。
大丈夫。大丈夫だ。
きっと、心に負荷が掛かり過ぎたのだ。
少し眠ったら、きっと、目を覚ましてくれる。
そうしたらまず真っ先に、無理をさせてしまったことを謝ろう…そう自分自身に言い聞かせながら、眠るアドニスの手を握った。
起きたら今度は、もっとゆっくり、少しずつ話しをしよう───そんな希望を揺さぶり、拒絶するかのように、金色の瞳が開かれることはなく、その日からアドニスは、昼も夜も、延々と眠り続けた。
「おはよう、アドニス」
ベッドの上、静かに呼吸を繰り返すだけのアドニスに声を掛ける。
返事が無いのは分かっているが、それでも手を握り、今が朝だということを報せた。
エルダは部屋の外に控えている今、この場には自分とアドニスしかいない。落ち着かないほど静かな部屋の中、アドニスの寝顔を見つめた。
(……温かい)
握った手が熱を帯びていることに、ホッとする。
こうしてアドニスの体温を確認し、安堵する日々を何日繰り返しただろう。
当初はすぐに目を覚ますだろうと思っていたアドニスだが、翌日になっても、二日経っても、どれだけ経っても、目を覚ますことはなかった。
綺麗に整えられたベッドの上、眠り続けるアドニスに、日々不安は大きくなっていった。
どうして、目覚めない?
どうして、なんの反応も返してくれない?
なにが、そこまでお前を追い詰めた?
…一体どれだけ、お前を傷つけた?
答えが返ってくるはずもない疑問に、少しずつ精神は擦り減っていく。
早く目覚めてほしいのに、無理やり起こすような勇気もなく、自分もイヴァニエもエルダも、自然にアドニスが目覚めることを願い続けた。
強制的に起こしたことで、アドニスの身に何か起こるのではないか…そんな不安が、どうしても拭えなかったのだ。
アドニスの聖気が変質したことも、記憶のある限りを失ったことも、原因と呼べる出来事に心当たりはあるが、今のアドニスが一体どのような状態なのか、それが分からないからこそ、手を出せなかった。
もしも無理に起こしたことで、また何かが変わったら?
もしもまた、記憶を失っていたら?
もしも…もしも、今のアドニスを失うようなことになったら───…?
その可能性が無いと、どうして言い切れるだろう。
誰も彼も臆病になって、眠るアドニスを見守ることしか出来なかった。
なにより、意識を手放したアドニスは、まるで現実を拒絶している様で、目覚めさせることがアドニスの苦痛になるのではと思わずにいられなかった。
(……分かってる)
このまま時が過ぎるのを待つだけなんて、そんなことが許されないとは分かってる。
それでも、何かが変わることが、失うことが怖くて、一歩が踏み込めなかった。
アドニスのことは、バルドル神にも報告した。
ただでさえ、アドニスの身を案じていたバルドル神は、目覚めないアドニスに心を痛め、自身の元で見守ろうとさえ言い出した。
それを『否』と言って断ってしまったのは、アドニスと離れたくない、自分達の見えない所に行ってほしくないという我が儘だった。
(バルドル様を疑う訳ではないが…)
彼の方は、とても愛情深い方だ。アドニスのことを、心から案じて下さっている。
だからこそ、弱り切った我が子を守ろうと、一度懐に入れたら、囲って表に出そうとしないのでは…と、そんな懸念が払えなかったのだ。
いっそ眠っている間に、アドニスの聖気に残る記憶を読んでもらえば…そう思いもしたが、何が刺激になるのか分からない今、どんなことが起こるかも分からないのに、双方にとって危険なことはしてもらいたくなかった。
「……アドニス」
臆病で、保身的で、なにもしてやれない我が身が情けなくて、腹立たしい。
「…ごめん。…ごめんな」
それでも、愛しい者を失いたくないと、みっともなく心が泣き喚くのだ。
(目覚めない方が…お前にとっては幸せなんだろうか…?)
それを悲しいと思うことすら、我が儘なのかもしれない───約束の日が近づくにつれ、胸の締め付けは深く、キツくなっていった。
それから約一ヶ月。三人で悩み、話し合い、何度も躊躇い、そのたびに現実を恨めしく思いながら、フォルセの果実が実る二日前、意を決して再びアドニスに聖気を譲渡することで、目覚めを促した。
緊張と恐怖で心臓がどうにかなってしまいそうだったが、微弱な聖気を少しずつ少しずつ、アドニスの体に流していけば、程なくして、睫毛を震わせながらその瞳が開いた。
「…ルカーシュカ様……イヴァニエ、様…、エルダ……?」
『ルカーシュカ様』───その呼び方に、こんなにも安心したのは初めてだった。
(良かった…!!)
アドニスは、何も変わらず、何も失っていなかった。
とろりと蕩けた蜂蜜色の瞳も、寝起きのあどけない表情も、よく知るアドニスのそれで、安堵と喜びで視界が滲んだ。
(……まだ、これからだ)
キツく瞼を閉じ、気持ちを切り替える。
いつ目覚めてもらうべきか、前日では遅過ぎるし、それより早くてもアドニスの心労になる…悩んだ末に選んだ約束の日の二日前という事実は、アドニスにとっては衝撃的だったのだろう。
目を見開いて驚く姿に気持ちが怯まない様、拳を強く握り締めた。
(……ごめん)
これ以上、辛い思いはさせたくない。そう思うのに、何もしてやれない自分に、唇を噛んだ。
「やはり、気持ちが追いつかないのでしょうね」
アドニスが目覚めたその日の夕刻、アドニスの元を離れると、その足でイヴァニエの離宮へと向かった。
目が覚めたばかりのアドニスはぼんやりとしていて、その様子にただただ不安になった。
プティ達の呼び掛けに対する反応も鈍く、その表情は微かに動くだけで、笑えていなかった。
まるで一月前、泣き喚いたあの日に感情を置いてきてしまったような危うさと脆さに、自分もイヴァニエも、怯んでまともに話し掛けることすら出来なかった。
「…いっそ、泣いてくれれば良いのにと思ってしまいます」
「……そうだな」
イヴァニエの言いたいことが、痛いほど分かる。
いっそ泣いて、怒ってくれるなら、どれだけ良かっただろう。
泣いて、嫌だと、怖いと、そう言ってくれれば、いくらでも抱き締めてやれるのに…今のアドニスは、それすら許されないほど、不安定に見えた。
「出来ることなら、一晩中側にいてやりたいのですが…」
「…諦めろ。何がアドニスの負担になるか、分からないんだ」
本当は自分だって、付きっきりで側にいたい。
だが当のアドニスは、エルダでさえ部屋から帰し、共に過ごすことをやんわりと拒んだのだ。エルダの落ち込み様は、見ていられないほどだった。
「…一人で考える時間が欲しいという気持ちも分かる。せめて、明日はずっと、一緒にいよう」
「ええ…」
どうせ明後日のことで、そこかしこで落ち着かない空気が蔓延し、アドニスの名を聞くことになるのだ。
とてもではないが、今は他の者達がアドニスのことを話題にしている姿を見たくもないし、聞きたくもなかった。
「…用意した服も、気に入ってくれるといいんだがな」
「きっと気に入ってくれますよ。アドニスの好みを一番分かっているエルダと、一緒に拵えたのですから」
そう言って動いたイヴァニエの視線の先を、目で辿った。
青と黒と白の三色で纏めた衣は、以前のアドニスの好みからはかけ離れた、楚々とした装いだ。
金糸で彩られた刺繍は見事だが、その輝きは控え目で、布が揺れる動きに合わせてキラキラと仄かに煌めく程度のささやかさだ。
充てがった色は、自身とイヴァニエの瞳の色。その色を纏わせることで、アドニスを庇護する立場であることを主張すると同時に、装いをガラリと変えることで、皆の記憶に残るアドニスのイメージを壊してしまおうと画作して用意した物だった。
「…やり過ぎたか?」
「いいえ。むしろ足りないくらいです。できることなら、もっと青い色が欲しいのですが…」
「…エルダがちょうどいいバランスで整えてくれたんだ。諦めろ」
色々と主張が激しい装いだと思うのだが、これで足りないというのだから、この男はだいぶ独占欲が強いらしい。
「ローブには守りの加護を施してある。纏っていれば、周りから向けられる感情や声を、ある程度遮断してやれるはずだ」
「私も花飾りに安らぎの加護を施しました。気持ちが落ち着く様、不安を軽減してくれるでしょう」
アドニス本人が粛法を一切扱えず、身を守る術を持たないのだ。自分達が常に隣にいるつもりだが、心の負担を減らすくらいの加護は必要だった。
「まずは明日を、穏やかに過ごせるように…」
「…そうですね」
明日も、明後日も、無事過ぎてくれますように───祈るように迎えた明日は、朝から早々に翳りを帯びていた。
「一睡も…?」
「はい……」
訪れたアドニスの部屋、明らかに憔悴した様子のエルダに出迎えられ、嫌な予感がした。
慌てて部屋に入るが、そこにアドニスの姿は無く、寝室に向かえば昨日までと同じように、ベッドで眠るアドニスがいて、瞬間的に心臓が竦み上がった。
「ご安心下さい。ただ、眠っていらっしゃるだけです」
まったく安心できない顔で、朝見た光景と、無理やり寝かせたアドニスの様子を聞き、胃が痛くなる。
昨日は食事も摂れなかったのだ。ただでさえ心配していたのに、加えて一睡もせずに夜を明かしたという状況に、ますます不安と心配は募った。
「……こんな状態で、明日は大丈夫なのか?」
「……大丈夫ではないでしょうね」
他の者達はこの際どうでもいい。いっそ会わなくていい。
だがバルドル神との対面は避けられない。
バルドル神と会って、アドニス自身が自分のことを知らなければ、身動きを取ることすら出来ないのだ。
(……本当に、ただ眠っているだけなんだよな?)
また深い眠りの底に落ちてしまったら───ゾッとするような考えに苛まれながら、眠るアドニスの手に触れた。
温かな手の温もりに、少しだけ不安は薄れたが、今度は離すのが怖くなり、アドニスが目覚める直前まで、繋がった手を握り続けた。
夕刻になり、恐る恐るアドニスの体を揺すって起こせば、存外すんなりと目を覚ましてくれた。
そのことに心底安堵としつつ、身支度が整うのを待てば、部屋の片隅に用意しておいた服にアドニスの視線が釘付けになるのが分かった。
「……綺麗」
ポツリと零れた声と、少しだけ輝きを取り戻した金色の瞳にホッとする。
気に入ってもらえたみたいだ…と、喜んだのは一瞬で、何故か黙り込んでしまったアドニスに、じわじわと不安が忍び寄った。
(…なんでだ?)
言葉を飲み込むように結ばれた唇と、徐々に下がる視線と眉。少しずつ俯いていく顔は今にも泣き出しそうなのに、まるで流す涙まで枯れてしまったかのように虚ろで、いよいよ耐え切れずに手を伸ばした。
「アドニス、明日はずっと、あなたの側にいます。決して一人にはさせませんし、他の者達の声も届かせません。…不安かもしれませんが、絶対に怖い思いはさせません」
「すまない。結局、ろくに話しもできなかったな…アドニス、不安があるなら…いや、不安しかないかもしれないが、言いたいことがあれば言ってくれ。……望みがあるなら、教えてほしい」
「………」
泣いてほしかった。
怖いことを怖いと、嫌なことを嫌だと、言ってほしかった。
叶えてやれる自信はないが、もう一度、胸の内に隠してしまった願いを吐き出してほしいと、自分勝手にも望んでしまった。
そんな自分勝手な願いは、当然のように拒絶された。
「……ん…」
フルフルと、小さく首を横に振るだけのアドニスに、無性に泣きたくなった。
分かってる。素直に話してもらえないのは、自分のせいだと分かっている。
それでも、何もかも諦めたようなその姿が悲しくて、辛くて、ただ話しを聞いてやることすら出来なくなった自分が腹立たしくて、奥歯を噛み締めた。
「……本当か? 望みでなくてもいい。言いたいことが…言っておきたいことがあれば、言ってくれていいんだぞ?」
「……大丈夫、です」
「………そうか」
それ以上、何も言えなかった。言えるはずがなかった。
「大丈夫」という言葉をただ信じるのはあまりにも愚かで、それでも信じることしか出来なかった。
(…ああ、嫌だ)
みっともなく震えてしまいそうになる声を叱咤し、努めて普段通りの声音で、なるべく深刻さを隠し、明日の予定を伝える。
胸の奥で渦巻く悔しさも悲しさも噛み殺し、精一杯微笑んでみせても、アドニスの表情が変わることはなかった。
目の前にいて、その手に触れているはずのアドニスが、とても遠くに感じた。
翌日、未だに現実味のない現実にぼんやりしながら、身支度を整える。
フォルセの果実が実る、今日という特別な日。
一堂に会する大天使達は皆、普段とは違う特別な装いで参加するのが常だった。
それもあってか、従者達も皆張り切り、仕える主を飾り立て、楽しそうに笑った。
(…暗い顔でいるものじゃないな)
そう思うが、表情筋はなかなか素直に動かなかった。
昨夜は、正直どうやってアドニスの元から帰ってきたのかよく覚えていない。
自身の不甲斐なさに打ちのめされ、ショックで回らない頭のまま、フラフラと自分の宮まで帰ってきたのだろう。
(……しゃんとしろ。今日は…今日こそは、強くあらねば)
不安も、恐怖も、本当は泣きたくて堪らないのも、その感情は全部、アドニスが背負っているのだ。
(俺が揺らぐな)
側にいることしか出来ないのだから、ならばせめて、しっかりと立ち、アドニスが蹌踉けて倒れそうになった時、助けてやれるくらいの自分になりたい。
決意を固めるように、深く息を吸い込み、顔を上げた。
「待たせたな」
「いえ、時間通りですよ」
身支度が整うと、離宮を離れ、宮廷へと足を向けた。
待ち合わせ場所には既にイヴァニエがいて、挨拶も程々に、そわそわと落ち着かない雰囲気に包まれた宮廷の中を通り過ぎ、アドニスの元へと向かった。
(この道を辿るのも今日で最後か…)
喜ばしいことのはずなのに、どこか寂しい気持ちになりながら、辿り着いた扉の前で深く息を吸い込んだ。
「…緊張しますね」
「…そうだな」
イヴァニエと、互いにぎこちなく笑みを交わすと、扉をノックする。
───コンコンコン…
「………?」
扉を叩いて暫く、いつもならエルダが出迎えてくれる頃合いを過ぎても、何故か中からの反応は無かった。
(………いや…まさかな)
にじり寄る不安を振り払うように、もう一度扉を叩くが、シンと静まり返った回廊には、ノックの音が虚しく響くだけだった。
「…っ、ルカーシュカ!」
「分かってる!」
頭で考えるよりも先にドアノブに手を掛けると、勢いよく扉を開けた。
「アドニス!」
「エルダ!」
そこにいるはずの二人の名を呼ぶ───が、次の瞬間、イヴァニエも自分もその場で固まった。
カーテンの締め切られた薄暗い部屋。
その光景は、初めてこの部屋を訪れたあの日の姿とあまりにも酷似していて、息を呑んだまま、吐き出すことも忘れた。
「………嘘だろ…」
たった一言、声を発するのがやっとで、部屋の中に足を踏み入れることも出来ない。
人の気配も無く、呼び掛けに応じる返事も無い。
うるさいほどの静寂が、此処には誰もいないのだということを如実に物語っていた。
「…ッ」
思考が停止しかける中、隣にいたイヴァニエが動いた。
足早に部屋の中を進む背を追うように、半分回らない頭で足を動かせば、目の前で寝室の扉が大きく開かれた。
「アドニス! エルダ!」
静かな室内に、イヴァニエの声が響く。
一切の乱れのない寝具に、部屋の片隅に置かれたままのアドニスに贈った服…整ったままの室内は酷く寂しく、異常なほど冷たく見えた。
「っ…、どこに…!」
焦るイヴァニエの声を聞きながら、混乱と動揺、焦燥で震えそうになる体を、拳を握り締めて耐えた。
悲しいのか、ショックなのか、それすらも分からないまま、必死に状況を理解しようと鈍い頭を動かした。
此処にいないということは、どこかへ出て行ったということだ。それも、恐らくは夜の内に…
カーテンが締め切られたままということは、陽が昇る前にはもう───と、そこまで考えた時、ふと視界の端でカーテンが揺れているのが見えた。
誘われるように、そこへと足を向ければ、バルコニーへと続く窓が半分開いたままになっていた。
(ああ……そんな…)
中途半端に開けられた扉の先…ここから二人が外に出て行ったのは明らかだった。
此処ではないどこかへ、アドニスが向かったのだとしたら…心当たりのある場所なんて、一つしかない。
(くそ…っ!)
憤りにも似た気持ちから、痛くなるほど拳を握り締める。
謹慎が解けるその日に、アドニスが命の湖へ向かってしまった。
ギリギリまで耐えて、耐えて耐えて耐えて…それでも耐えれなかったのだという現実に、胸が抉られるような思いだった。
「ルカーシュカ…! まさか二人は…」
寝室から窓辺へと近づいてきたイヴァニエが、開いたままの窓を見て、更に顔色を悪くした。
「……たぶん、命の湖に向かったんだろう」
「っ…!」
弾かれたように顔を上げ、今にもバルコニーから飛び立とうとするイヴァニエを既のところで引き留めた。
「待て! このまま行ってどうする!?」
「早く行かなければ…! あの子がいなくなってしまうかもしれないんですよ!? 追わないつもりですか!?」
「追うに決まってるだろっ!!」
感情のまま発した声は大きく、自分でも驚くほど昂っていた。
「アドニスが命の湖に向かったのは間違いない。俺だって、このまま行かせるつもりはない。だからこそ、戻ってきた時のことを考えて、準備してから追うべきだ」
「…ッ」
そう伝えれば、イヴァニエの体から、今すぐにでも飛び立とうとしていた勢いが抜けたのが分かった。
「恐らく、夜の内に出て行ったんだろうが、アドニスの足で向かったのだとしたら、辿り着くにはまだ時間が掛かるはずだ」
宮廷から命の湖まで、飛んでいけば半刻よりもずっと短い時間で着くだろう。
だがアドニスには翼が無い。徒歩で向かうしかないのだ。
本人に自覚があるのかは分からないが、アドニスの歩みは遅い。まして普段は、この部屋の中でしか生活していない。長距離を移動する機会など無かったはずだ。
途中で休みながら、少しずつ移動するはず…そう考えれば、今すぐ後を追わなくとも、まだ時間には余裕があると思えた。
(ただ、もしエルダがアドニスを抱き抱えて連れていったのだとしたら…)
そう、今この場にいないエルダが、恐らくはアドニスと共に行動しているだろうことが一番厄介だった。
あの天使は、なにより主の望みを優先させる思考の持ち主だ。
アドニスが別人格になっていることを理解している分、無条件に全てを受け入れることは無いだろう。だが、敬愛する主が苦悩すればするほど、その苦しみから解放させる為に、他のものを切り捨てるはずだ。
もし万が一にでも、アドニスの「命の湖に還りたい」という願いを叶える為に、動いているのだとしたら───…
(…絶対に無いとは言い切れないのが恐ろしいな)
流石にその線は薄いだろうと思いつつ、事実この場にはいない二人に、気持ちばかりが急いだ。
まして、エルダがアドニスを連れて、命の湖に向かったのだとしたら───その先は、考えたくなかった。
緩く頭を振ると、もしもという考えを無理やり意識の外へと追いやり、気持ちを鎮めるように、深呼吸をした。
「今は、アドニスが戻ってきた時のことを考えるんだ」
「……分かりました」
完全に安心することも、納得することも出来ないのだろう。それでも、苦い気持ちを飲み込むような返事が、イヴァニエから返ってきた。
そこからはまず、部屋全体を結界で覆った。
アドニスがいなくなったと知って、この部屋に踏み込んでくる者がいないとは言い切れない。
自分とイヴァニエ以外の者が立ち入れない様、簡易的にではあるが二人分の聖気を込めた二重結界を施した。
窓も扉も締め切り、部屋の外に出ると、扉にも二重封じを施し、一時的な閉鎖状態にする。
「ひとまず部屋はこれでいいだろう」
「ええ、早くバルドル様のところへ」
「ああ」
幸い、他の者達が集まるまでには数刻の余裕があり、今はまだ誰の姿も見かけていなかった。
逸る気持ちを抑えきれず、半ば駆けるように回廊を進みながら、バルドル神の元へと急いだ。
「オリヴィア!」
バルドル神が普段過ごしている部屋の前に着けば、運良く側仕えが外に控えていた。
「ルカーシュカ様…と、イヴァニエ様。如何なさいましたか? そのように慌てて…」
パチリと目を瞬く側仕えを前に、乱れた呼吸を整える。
「バルドル様へ、急ぎお目通り願いたい」
「…なにか、ございましたか?」
「アドニスが部屋からいなくなりました」
「なっ…」
見開かれた瞳には、声にならない驚きが混じっていた。
この天使は、自分とイヴァニエとエルダ、バルドル神以外で唯一、アドニスの現状を知っている者だ。だからこそ、信じられないという気持ちが大きいのだろう。
「中に入ってお待ちを。急ぎ呼んで参ります」
「バルドル様はご不在ですか?」
「…気の早い御方が、バルドル様のお気を煩わせるとも限りませんので…皆様がお集りになるまでは、奥の宮におります」
「……そうですか」
言葉を濁したが、要はアドニスのことで何かと口を挟んでくる者がいるということだろう。
仕方のないことと分かっていても、気持ちの良いものではない。同じ気持ちなのだろう、イヴァニエの眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。
バルドル神を待つ間、互いに落ち着かず、言葉数も少ないまま意味もなく部屋の中をウロウロと歩き回った。
こうしている間にも、アドニスが手の届かないところへ行ってしまったら…そんな焦りと恐怖を混ぜた感情で胸が騒めく中、部屋の正面、薄絹で閉ざされた通路の向こうから、大股で歩いてくる足音が聞こえた。
「バルドル様…!」
「アドニスがいなくなったというのは、どういうことだ?」
珍しく焦りを含んだバルドル神の声に、イヴァニエと二人、その場に膝をついた。
普段の装いとは異なり、ゆったりとした衣服に身を包んでいる姿からは、身なりを整える時間も惜しんで来て下さったのが分かった。
「申し訳ございません。先ほどアドニスの元へと向かった時には既に姿が無く……恐らくですが、昨夜の内に、命の湖へ向かったものと思われます」
「───」
大きく瞳を見開いたバルドル神が、悲しげに眉を下げた。
「……私は、まだあの子と何も話していない」
「…はい。私共が充分にアドニスの気持ちを汲んでやれず、追い詰めてしまったのが原因です。このようなことになり、誠に申し訳ございません」
深く首を垂れたまま息を詰めていると、緩く息を吐き出す音が聞こえた。
「お前達のせいではないよ。今までよく、アドニスに寄り添ってくれた。…お前達は、これからどうしたい?」
「アドニスの後を追います。まだ、間に合うはずです」
「……そうか」
一言ポツリと呟くと、緩慢な動きで歩を進め、バルドル神が高座に腰を下ろした。
「連れ戻すつもりかい?」
「はい」
「分かった。任せよう。だが、もしあの子が、心から命の湖に還りたいと願ったのなら、その道を阻んではいけないよ」
「………はい」
鉛を飲み込んだような気持ちから、返事が遅れた。
命の湖に還ることは、誰に止められることでも、誰に指図できることでもない。
本人の意思がなにより尊重され、例え神ですら、口出しすることは出来ないのだ。
「アドニスの願いを叶えるという約束だからな。…だが叶うならば、帰ってきてほしい。父に、愛しい我が子の顔を見せておくれと、伝えてもらえるかな」
「はい。必ずや」
もう一度深く頭を下げると、立ち上がった。
「バルドル様、アドニスを連れ戻したいとは思いますが、やはり今のまま、他の者達の前に出すのはあまりに酷かと思われます」
「私も同じ気持ちです。フォルセの果実が実るのを、共に見届けるのは不可能かと…」
大天使が一堂に会したところで、今代のフォルセの果実が決まる。
元々、アドニスとバルドル神が対面した後、全てが詳らかになってから、皆の前に出すべきか否かを決めるつもりだった。
だが部屋からいなくなったことを考えても、今のアドニスと他の者達を引き合わせるのは到底不可能だろう。
「そうだな……では、アドニスは私が保護したことにしておこう」
「保護、ですか? それは…しかし、どのような理由で…」
「なに、事実をそのまま伝えるだけだよ。罰を与えたあの日から、アドニスの様子が変わったこと、とても不安定で、皆の前に出せるような状態ではないと、ありのまま伝えよう」
「…納得するでしょうか?」
「事実そうなのだから、してもらわないと困るな。どちらにせよ、アドニスが謹慎を言い渡した部屋にいないのなら好都合だ。奥の宮で保護していることにして、部屋は閉じてしまおう」
「簡易的にですが、既に閉鎖しております」
「良い判断だ」
奥の宮。宮廷のその奥にある、バルドル神の私的な離宮だ。
そこへ赴くにはバルドル神の許可が必要で、現時点では筆頭側仕えだけが、自由に立ち入ることを許可されている。
(そこでアドニスを保護したとなれば…)
それ以上、言及できる者はいないだろう。
安堵すると同時に、バルドル神が私的空間にアドニスを招いたことで、妙な憶測を呼ばないか、なんとも言えない不安を抱いたが、今はそうも言っていられない。
「では、他の者達が宮廷に集まっている間は、こちらに戻らない方がよろしいでしょうか?」
「そうだな。今から予定を変えたところで、何故と疑問を抱く者がほとんどだろう。ならばそのまま集まってもらい、その場で伝えてしまった方が早い」
「私達はその場にいなくとも、よろしいのですか?」
「ああ、あの子の側にいてやっておくれ。お前達二人は、不安定なアドニスの子守りをしていると伝えておこう」
「……子守り…」
複雑な気持ちにはなるが、かと言って濁した説明では、それ以上的確な言い方もなかった。
「アドニスを見つけたら、その場で待機していなさい。他の者達を帰したら、こちらから報せを飛ばそう。…オリヴィア」
「畏まりました」
静かに傍らに控えていた側仕えの返事を聞くと、部屋を出ようと動きかけて、踏み止まった。
「バルドル様。先に、お伝えしておきたいことがございます」
「なにかな?」
バルドル神に伝えておかなければいけないこと───それは、変化したアドニスの聖気についてだった。
「アドニスの聖気ですが、やはり以前とは全く異なるものへと変質しています」
「…何か、分かったのか?」
「私とイヴァニエ、アドニスに付けた従者の三人で、それぞれアドニスに聖気を譲渡しましたが、いずれも一切の抵抗なく、アドニスへと渡りました。本人曰く、不快感もなく、ただ心地良いものとして感じられたそうです」
「……そうか」
短く返事をするバルドル神の声音は幾分硬く、それだけで、こちらの言いたいことが伝わったのだと分かった。
黙ってしまったバルドル神に一礼だけすると、静かに御前を後にした。
「なぜ今、バルドル様にアドニスの聖気のことを話したんです?」
バルドル神の元を離れ、一度それぞれの離宮へと戻る為、足早に元来た道を進む中、イヴァニエが不思議そうに聞いてきた。
「『月読』でアドニスの記憶を辿れば、何があったのかは分かるが、今までアドニスと接してきた俺達と違って、バルドル様はあの日……アドニスに罰を与えたあの日が、アイツと顔を合わせた最後だ」
悲しいと呼ぶには納得できず、寂しいと呼ぶには烏滸がましい感覚に苛まれながら、溜め息を零した。
「もし本当にアドニスが全くの別人になっていたのだとしたら…バルドル様は、きっと色んなことに対して、御心を痛めるはずだ」
それは、これまでずっと心配していたことだった。
「俺達のように、少しずつ確信を得た訳じゃない。直接会うことだって叶わなかった。俺達から聞いた話だけで、それだけで今までずっと、アドニスの……以前のアドニスのことも、今のアドニスのことも、どちらに対しても、ずっと御心を配っていらっしゃった」
「…そうですね」
「もし……もしもの話だが、例えばアドニスが、記憶を失っているのではなく、もっと根本的な何かを失っているのだとしたら…バルドル様にとっては、とてもお辛い現実となるはずだ」
彼の方は、あのアドニスのことですら、愛しい我が子と呼んで、慈しんでいらっしゃったのだ。
「どうなるかなんて分からない。でもだからこそ、バルドル様だって、御心の準備は必要だろう」
自分もイヴァニエもエルダも、覚悟は出来ていた。
どんな事実を突きつけられても、受け入れようと。
その為にも、憶測で期待することはしない。
ただ芽生えた感情は本物で、だからこそ、その気持ちを大事にしようと決めていた。
少しずつ少しずつ、降り積もっていったアドニスへの恋慕と同様に、今日という日を迎えるまでの覚悟も、少しずつ固めてきたのだ。
その為の時間が、例え僅かでも、我らが父にも必要だと思ったのだ。
「今日は恐らく帰らない。もし誰かが訪ねてきても、追い返してくれ」
「畏まりました。どうかお気をつけて、いってらっしゃいませ」
一度離宮に戻ると、簡潔にアドニスのことと今までの経緯、これから起こるかもしれないことについて、側仕えに説明した。
正に寝耳に水だったのだろう。側仕えは目を白黒させていたが、自分の焦りが伝わったのか、すぐに姿勢を正すと、落ち着いた様子で見送ってくれた。
(後のことは、任せて大丈夫だろう)
心配事が一つ、また一つと減っていくのに比例して、不安に揺らいでいた心が、強く芯を持ち始めた。
───アドニスを、必ず連れて帰る。
そうして今夜は、今夜こそは、絶対に側を離れないと心に決めた。
(こんな気持ちになるのは、もう御免だ)
一昨日の夜も、うだうだと悩まず、ずっと側にいれば良かった。
黙り込んでしまう前に、もっと話しを聞けば良かった。
感情を押し殺してしまう前に、嫌だと拒絶されても、怖いと泣かれても、鬱陶しいと思われるほど「大丈夫だ」と、「側にいるよ」と何度でも繰り返し、伝えれば良かった。
近寄ることを躊躇って、今にも崩れそうな脆さに怯えて、愛しいと想う感情を失うことを恐れて、一歩引いてしまった結果の今に、腹が立つほど後悔していた。
迎えに行く為の準備が整い、理性で抑え込んでいた感情が溢れ出すように、箍が音を立てて外れていくのが分かった。
(まだ、お前が好きだってことも伝えてないんだ…!)
一刻も早く、アドニスに会いたい。会わなければ───込み上げる恋しさと愛しさを胸に、大きく翼を広げると、命の湖へと向けて飛び立った。
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