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フォルセの果実
66.願い事は
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イヴァニエ様が人間界へと赴いている間、ルカーシュカ様とアドニス様の仲は、以前にも増して仲睦まじくなられた。
肩が触れる距離で和やかにお話しをする姿は微笑ましく、素直に喜ばしいと思えた。
(私に対する好意を、お言葉にして下さったからだろうな…)
心に余裕があるのは、きっとそのおかげだろう。
同時に、アドニス様がお二人から向けられている『好意』に対し、気持ちを丁寧に整理することで、きちんと理解して頂けるようになったのも大きな一歩だった。
説明するのに苦心したが、好意を好意として素直に受け取れるようになったからか、今まで以上にアドニス様の表情は明るくなった。
この温かな日常が、ずっと続けばいいのに───そう願って止まない穏やかな日々の裏側で、ポツリ、ポツリと、あちらこちらでアドニス様の名を耳にするようになった。
「もうじきフォルセの果実が実るからだろう」
部屋の外、互いに情報を共有する最中、ルカーシュカ様が溜め息と共に呟いた。眉間に皺を寄せたお顔には、心労からかうっすらと疲労の色が浮かんでいた。
(アドニス様の名を耳にするたび、ドキリとするのはルカーシュカ様も同じか…)
悪いことをしている訳ではないのに、周囲の静かな騒めきに、なんとも言えない後ろめたさを感じてしまう。
アドニス様と共に部屋に引き籠り、外部との接触をほとんど断っている自分ですらそう思うのだ。
大天使様が三人不在の今、多くの者達と交流することを余儀なくされ、嫌でもその話題に触れるルカーシュカ様の心労は想像に難しくない。
「そろそろ、アドニスにもこのことを伝えないとな」
「……はい」
フォルセの果実が実る日は、同時にアドニス様の謹慎が解ける日でもある。
ずっと黙っている訳にはいかない…必ず向き合わなければいけない現実が、刻一刻と近づいていた。
数日後、無事人間界からお帰りになられたイヴァニエ様は、その日の内に、アドニス様とお二人だけで言葉を交わし、蟠りを解消された様だった。
詳しくは聞かなかったが、イヴァニエ様とのやりとりについてお話しをするアドニス様からは、ルカーシュカ様と同じく、イヴァニエ様に対する信頼と好意が透けて見えた。
(良かった…)
ニコニコと、嬉しそうに話すアドニス様に笑みを返しながら、内心では背中の傷痕が癒えたことに、なにより安堵していた。
(本当に、良かった)
浴室で背中の傷痕を目にした瞬間、そのあまりの生々しさに絶句した。
アドニス様が翼を剥奪されたことは、事実あったこととして、知ってはいた。
だが、実際目にしたその傷痕は、生易しい想像を嘲笑うかの如く痛々しく、アドニス様の滑らかな肌に、罪人の証を刻んでいる様だった。
アドニス様を穢された様な憤りと、どうしてこのようなモノを背負わなければいけないのかという悲しみで体が震えた。
動揺と狼狽を必死に隠すも、どうしても落ち着かず、理由を付けて逃げるようにアドニス様のお側を離れてしまったが…結果的にイヴァニエ様との仲が深まったのは幸運だった。
アドニス様の背に、もう傷は残っていない。それがとても嬉しかった。
その翌日から、イヴァニエ様のアドニス様に対する態度はあからさまに変わり、少しばかり面食らってしまったが、それもまた良い変化だと思えた。
───だがそんな平穏が続いたのも、この日までだった。
「ゃだ…っ、ちが…違う…! 違う!!」
「アドニス!」
「アドニス様…!」
激しく腕を振り、取り乱す姿に、ただでさえ高まっていた緊張感に焦燥と恐怖が混じった。
『……命の湖に、還りたい』
そう呟いたアドニス様が信じられなくて、悲しみとも怒りとも違う感情から、思わず責め立てるように声を上げてしまったが、その直後、みるみる内にアドニス様の表情が歪んだ。
「ごめんなさい…! 違う…っ、違うの! ごめんなさい…!」
血の気の引いた顔で、ボロボロと涙を零しながら逃げようともがくアドニス様の腕を離さぬ様、必死で繋ぎ止めた。
(急にこんな…っ、どうして…!)
イヴァニエ様やルカーシュカ様からも強い焦りが伝わり、混乱が伝染する。
なんとお声を掛ければいいのか分からない───焦りばかりが募っていく間にも、アドニス様の状態はどんどん悪化していった。
「は…っ、ひ…、ゃだ…、わ、わたし…っ、ごめ、ごめんなさ…っ、ごめ…なさい…っ、ごめんなさ…っ、……ッ!」
「アドニス! 落ち着きなさい! 息を…!」
ヒューッ、ヒューッと、か細く震える呼吸の音が聞こえ始めてすぐ、アドニス様の体が一瞬だけビクリと跳ね、グラリと不自然に揺れた。
「アドニス様!!」
「「アドニス!!」」
咄嗟に掴んでいた手を引き寄せたが、力の抜けた腕はダラリと垂れ、体は背凭れに倒れ込んだ。
「アドニス!」
「アドニス! アドニス! …っ、…まずいな」
必死に呼び掛けるお二人の声が、どこか遠くに聞こえた。
ぐったりと横たわり、ピクリとも動かなくなったアドニス様を前に、頭の中が真っ白になり、声を出すことも出来なかった。
「ひとまず、ベッドに寝かせよう。……エルダ、頼めるか?」
「ぁ……は、い…」
ルカーシュカ様に促され、かろうじて返事をすると、のろのろとした動きでアドニス様の身を起こした。
少し体を浮かせたはずなのに、力の抜けた体は重く、揺らしても、抱き上げても、なんの反応も返ってこないお姿に泣きそうになる。
半ば意識が飛んだまま、覚束無い足取りで寝室へと移動し、そっと寝具の上にアドニス様を横たえるが、その瞼が開くことはなかった。
「……私達が、追い詰めてしまったのでしょうか」
重い沈黙の中、意識を失ったアドニス様の手を握りながら、イヴァニエ様が苦しげに呟いた。
その言葉に心臓は竦み上がり、呼吸は浅くなった。
(私達が…アドニス様の願いを、拒んでしまったから…?)
自分のしでかした失態に、ザァッと冷水を浴びせられたように、手足の先が冷えていくのが分かった。
(そんな……でも…、だって…っ)
どうしたって、アドニス様の願いを受け止めることも、受け入れることも出来なかった。
アドニス様が、己の行く末を決断するのはまだ早い。
どのような決断をするか、その判断材料を得る為に、まずはバルドル様に会わなければいけないのだ。
きっとそこで初めて、アドニス様がアドニス様ご自身を知ることで初めて、ようやくその先を選べるのだ。
どんなお気持ちでアドニス様が「命の湖に還りたい」と言ったのか、その本質は分からない。だが決して明るくない感情から口にされたのは明らかだった。
それが分かったからこそ、つい気持ちが波立ってしまったが…なぜもっと言葉を選べなかったのか、押し寄せる後悔に唇を噛んだ。
「…目が覚めるまで、もう少し様子を見よう」
アドニス様の傍らに立ち、努めて冷静に、だが悔しげに眉を顰めるルカーシュカ様。そこには自分と同じような後悔の色が浮かんでいた。
(…申し訳ございません)
流れた涙の痕を拭いながら、心の中で自身の不甲斐なさを詫びた。
(お目覚めになられたら、きちんと謝ろう…)
きっと同じ気持ちなのだろう。イヴァニエ様もルカーシュカ様も、アドニス様を見守るように、ずっと傍らにいて下さった。
だが結局、ついぞ目を覚ますことのなかったアドニス様は、その日から懇々と眠り続けた。
「………」
アドニス様が目覚めなくなってから、眠るアドニス様の手を握り、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々を過ごした。
静かな部屋は広くて、寂しくて、冷たくて、眠り続けるアドニス様が恐ろしくて、日を追うごとに不安に押し潰されていった。
あの日から、イヴァニエ様もルカーシュカ様も、毎日アドニス様の元へと足を運んで下さり、時間の許す限りお側にいて下さった。
眠るアドニス様に話し掛け、手を握り、頬を撫でる───だがそれでも、アドニス様の瞼が開くことはなかった。
(どうして、目覚めて下さらないのだろう…)
まるで現実を拒むかのように眠り続けるアドニス様。
それほどまでに、あの日の出来事はショックで、アドニス様には耐え難いことだったのかと思うと、泣きたくて悔しくて堪らなくなった。
(ごめんなさい…)
握った手に力を籠めるが、握り返してもらえないことが悲しくて俯く。
ただその手には温もりがあり、静かな寝息の音に合わせ、胸元が緩く上下していることに少しだけ救われた。
イヴァニエ様やルカーシュカ様にとっても、眠り続け、目を覚まさないアドニス様の姿は心的負担があるのか、いつだって苦しそうなお顔をされていた。
「おはよう、アドニス」
「おやすみなさい、アドニス」
朝も夜も、返事が無くとも、お二人はアドニス様に話し掛け続けた。
できることならば、自然に目覚めてほしい───いくつもの複雑な思惑が絡み合い、足踏みをしている間に、なんの手も施せないまま、一日、また一日と過ぎていった。
それに比例するように、約束の日は近づき、焦燥が胸を埋め尽くす。
(……このままじゃ、いけない)
きっと、イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も…分かっている。
「……アドニス様」
呟いてみても返事は無い。
湧き上がる寂しさに、ギュウッと胸が締め付けられた。
早く…早く目覚めて、そうしてまた───…
(……名前を呼んで)
ただ祈るように、握ったアドニス様の手に、額を寄せた。
「………、…?」
「…ッ、アドニス様!」
「…ルカーシュカ様……イヴァニエ、様…、エルダ……?」
結局、眠り続けたアドニス様が自然に目覚めることはなく、ルカーシュカ様とイヴァニエ様が聖気を流したことが刺激となり、覚醒するに至った。
(良かった…!)
表情はぼんやりとしていたが、瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていて、名前を呼んで下さった安堵から瞳が潤んだ。
零れそうになる雫をサッと指で拭うと、深く息を吸い込んだ。
(…まだだ。まだ、これからだ)
喜んでいるばかりではいられない。
本当に大変なのはこれからで、まだ何も始まっていない。…これから、始まるのだ。
アドニス様の目覚めを喜ぶ自分と、目の前に迫った問題を嘆く自分が混じり合い、気持ちが揺らぐらように、アドニス様を見つめる瞳が揺れた。
フォルセの果実が実るまで、あと二日。
見開かれた金色の瞳を直視するのが怖いと、この時初めて思った。
(眠れない…)
アドニス様の謹慎が解ける日を翌日に迎えた夜。
イヴァニエ様の離宮にある自室に戻り、床に就いて暫く、一向に訪れない眠気に嫌気が差し、体を起こした。
(もう明日なのに…)
眠りから目覚めたアドニス様は、身構えていたより和やかに過ごしていらっしゃる様に見えた。…が、それが仮初の姿だったのだと、今日になって痛いほど思い知らされた。
一ヶ月以上眠り続けていたアドニス様は、お食事も受け付けなくなっていた。
ただでさえ不安定になっているアドニス様が、明日に控えたバルドル様との対面を前に、不安がない訳がない…そう思い、夜通しお側に控えているつもりだったのだが、いくらそれを願っても、聞き入れてはもらえなかった。
『明日はきっと大変だから…今日は、お部屋に戻って、ちゃんと休んで?』
「私は大丈夫です」「お側にいます」…何度お伝えしても頑として聞き入れてはもらえず、それ以上何も言えなくなってしまった。
あそこまでアドニス様に拒絶されたのは初めてで、ショックから気持ちが負けてしまったが、今頃になって拒絶されても側にいるべきだったという後悔の念がじわじわと押し寄せた。
(……戻ろう)
今はアドニス様を一人にしたくない。
拒まれたとしても、寝室の隣の部屋で待機しているくらいは許されるだろう。いや、許されなくてもお側にいるべきだ。
思うが早いか、ベッドから抜け出すと、サッと身なりを整え部屋を出た。
皆が寝静まった宮はシンとしており、自身の足音だけが響く回廊を駆け、アドニス様の元へと急いだ。
宮廷に辿り着くと、真っ直ぐアドニス様のお部屋へと向かう。
いつもよりも幾分早足で歩きながら、頭の中はアドニス様のことでいっぱいだった。
思えば、目覚めてからのアドニス様は、異常なまでに落ち着いていらっしゃった。
眠りに落ちる前、あれほど取り乱していたのが嘘のように、穏やかだったアドニス様。
今までなら、不安や心配を、表情にも態度にも言葉にも出して下さったのに…そう思うと、今日のお姿はとても不自然だった。
明け方に訪れた薄暗い部屋の中、ベッドの上に座り込んだままのアドニス様の姿を捉えた瞬間、緊張がピークに達していたのだ。
ノックの音すら聞こえていなかったのか、こちらに視線も向けず、なんの反応も示さず、無表情のままピクリとも動かない姿は死人を連想させ、喉からはヒュッと息を呑むような悲鳴が漏れた。
その後すぐにお休みになり、目覚めてからはいつもとあまり変わらない様子で、イヴァニエ様やルカーシュカ様とも言葉を交わされていたからこそ、安堵の方が勝ってしまったのだが───よくよく考えれば、いつもと変わらない様子であることの方がおかしいのだ。
(そういえば、お二人から贈られた服にも、反応が薄かった…)
いつもなら、もっと感情を表に出して下さるのに…そこでふと、昨日も今日も、アドニス様の笑っているお姿を見ていないことに気づいた。
「っ…」
途端に胸は騒めき、焦る気持ちから、駆けるようにしてアドニス様の元へと急いだ。
辿り着いた部屋の前、一呼吸置くと、ゆっくりと扉を開いた。
室内の様子を窺いながら静かに扉を開けば、そこには慣れ親しんだ光景が広がっていた。
ホッと息を吐くと、足音を立てぬ様に寝室へと向かい、扉の前に立ってノックをすべきか否か、一瞬だけ迷った。
(寝ていらっしゃるなら、あまり音は立てたくないが…)
とはいえ、流石にノックもせずに入室するのは無礼だろう。少し迷いつつ、コンコン…と控えめにノックをするが、案の定、中からの返事はない。
眠っているか、ノックの音が小さすぎたか…返事がないまま勝手に中に入るのは気が引けたが、せめてお姿だけでも確認したかった。
今朝のように、寝ずのまま過ごさせる訳にはいかないと、ゆっくりと、慎重に扉を開けた。
「…失礼致しま───ッ」
そろそろと開いた扉の隙間から中の様子を窺う───が、一目で室内の異変に気づき、衝動のまま勢いよく扉を開いた。
普段からアドニス様が眠る時は、分厚い天蓋の幕で囲われているベッド。
だが視界に飛び込んできたのは、四隅に固められたままの天蓋の幕と、本来そこに居るべき主を失い、もぬけの殻となったベッドだけだった。
「………アドニス、様…?」
脳が、見たものをそのまま現実として受け止められず、理解することを拒んだ。
(な、に…なぜ……どこに…?)
部屋の静けさと反比例するように、心臓の鼓動がうるさく響き、呼吸が乱れる。
停止しかけた思考が、軋みながらゆっくりと回り始めるが、それでも頭はまだ混乱したままで、理解したくない現実との乖離に眩暈がした。
「嘘、だ……、ッアドニス様…!!」
いないと分かっていて、それでも主の名を呼ぶ。
空になった部屋から返事があるはずもなく、自分の声が虚しく反響するだけだった。
その時ふと、椅子の上に置かれたある物に気づき、蹌踉めきながらそこへと向かった。
「………なんで…」
見慣れたそれは、いつもアドニス様が羽織っていた真白いローブだった。
毎日毎朝、自分がアドニス様の肩に掛けていたそれを震える手で取れば、既に持ち主の温もりは消え、冷たくなっていた。
アドニス様に似合うだろうと思って見繕ったローブ。
最初の頃は戸惑っていらっしゃったが、それでも生地の表面を撫で、楽しそうにしていらっしゃる姿を何度か目にしたことがあった。
物への関心が薄く、お召し替えにも頷いて下さらなかったアドニス様が、唯一気に入って下さっていた物…それがこの場にあることの意味に、目の前が真っ暗になった。
あえて置いていかれたのだ。
自分の意思で、此処を出て行ったという、目に見える形として…
「…ッ!」
冷たくなったそれを握り締め、身を翻した。
まだだ。まだ、いなくなったとは限らない。
(もしかしたら…!)
眠れぬ夜、アドニス様はよくバルコニーで星を眺めて過ごしていた。
もしかしたら、窓を開ければ、すぐそこにいらっしゃるかもしれない。
もしかしたら、ただの杞憂に終わるのかもしれない。
そうして突然現れた自分に驚いて、「どうしたの?」と、穏やかに仰って下さる───そんな一縷の望みは、誰もいない静かなバルコニーを目の前に、呆気なく砕かれた。
「……そんな…、アドニス様…」
人の気配の無い夜空の下、へたり込んでしまいそうになる足に力を込め、回らない頭を必死に動かした。
アドニス様の行動できる範囲には限りがある。まして翼を喪ったアドニス様が、三階にある部屋からいなくなるなど不可能だ。
(……まさか、部屋の扉から外へ…?)
その可能性は極めて低いが───そう思った、その時だった。
「………プティ?」
暗闇の中を、ふわふわと飛ぶ小さな白い羽が見えた。
少し離れているが、肉眼でも確認できたその姿は、間違いなくプティだった。
(なぜ、こんな時間に……)
そう考えた瞬間、ハッとする。
反射的にバルコニーの端まで駆け出し、手摺りから身を乗り出すと、プティが飛んできた先にバッと視線を向けた。
考えるよりも早く瞳に聖気を集中させ、『遠見』で遠い草原を見遣れば、そこに愛しい方の姿が見えた。
「良かっ───」
ホッとしたのも束の間、ポツリと独り佇むアドニス様は危う気で、今すぐにでも迎えに行こうと体が動いた───が、その瞳が見据える先、その先にあるものに気づき、全身から血の気が引いた。
脳を揺さぶられるようなショックに力が抜け、膝から崩れ落ちた。
バルコニーの床に打ちつけた膝に痛みが走ったが、体の痛みなど気にならなかった。
「………どう、して…」
お姿を見つけられたことへの安堵もあった。
まだそう遠くはない処にいて下さった。
お迎えに行けば、まだ間に合う…そんな気持ちとは裏腹に、絶望にも似た悲しみで胸が張り裂けてしまいそうだった。
ずっと、アドニス様のお側にいた。
ずっと、アドニス様とお言葉を交わしてきた。
ご不安も、お悩みも、喜びも…アドニス様の御心に添えられる様、いつだって、どんなことだって、仰って頂けた。…そう思っていた。
でも、アドニス様が本当にお辛い場面で心を開き、頼ったのは幼い天使達で───自分ではなかった。
「どうして…!」
アドニス様がプティ達に願い、彼らの力を借りて、意図してお部屋を出たのは明白だった。
何故、何故、どうして、悲しい、悲しい、寂しい、悲しい………悔しい。
喉の奥で潰れた嘆きの咆哮が、胸を刺した。
分かっている。プティ達が悪い訳じゃない。
自分が勝手に傷つき、勝手にあの子達を羨んでいるだけだと分かっている。
それでも…それでも、どうして自分ではないのだと思わずにはいられなかった。
あの子達ではなく、自分を選んでくれとは言わない。ただ一緒に、同じように、頼ってほしかった。
それなのに、自分はただ拒絶され、遠ざけられ、今こうして此処にいなければ、何も知らずに朝を迎えていた───その現実が悲しくて、苦しくて、痛くて…崩れ落ち、座り込んだまま立ち上がることが出来なかった。
(……ダメだ。落ち着け…)
まだ揺れる視界の中、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
分かっている。私やイヴァニエ様、ルカーシュカ様に「命の湖に還りたい」という望みをお話ししても、聞き入れてもらえないと、アドニス様も分かっていたのだろう。
だからこそ、アドニス様は小さな天使達を頼ったのだ。…そう頭では理解していても、心は素直にそれを受け止めることが出来なかった。
(こんなことになるなら、お話ししておけば…)
込み上げる後悔から、唇をキツく噛んだ。
一月前、アドニス様の聖気が全く違うものへと変化していることが証明された。
イヴァニエ様、ルカーシュカ様、そして自分、とそれぞれ異なる性質の聖気を一切の抵抗なく受け入れるなど、到底あり得ないことだ。ましてや元のアドニス様が有していた聖気であれば、確実に弾かれていただろう。
変質の域を超え、全くの別人のそれに変わった聖気に、ずっと抱いてきた疑念が確信に変わった。
だからと言って、不確定なことを言うことは出来なかった。
確信は持てても、確証が無い。バルドル様に断言して頂かない限り、迂闊なことが言えなかったのだ。
それでも我々には確信があり、だからこそアドニス様の願いを許容することが出来なかった。
(今からでも……いや、ダメだ)
安心させる為に告げた言葉が、後でアドニス様を傷つけるかもしれない。
その危険が無いとは言い切れない中、憶測でものを言えるはずもなく、歯痒く、もどかしい。
本当のことが誰にも分からない今、むやみやたらに希望を抱かせるような言葉を伝えることがどれほど危ういか、分かっているからこそ何も言えなかった。
(せめて…せめてお側に…!)
多くは語れないが、それでも寄り添うことで減る不安も、増す安心もあるはずだ。
せめて、胸の内に溜めた不安だけでも吐き出してもらえたなら───僅かに湧いた希望を支えに、グッと立ち上がった。
ジンジンと泣くように痛む膝に癒しを施すと、深く息を吸い込み、翼を広げた。
『ずっとお側にいます』
いつかアドニス様に誓った願いは、この先も変わらない。そう信じていた。
(……どうして…)
夜空の下を駆けるように向かったアドニス様の元、そこで待っていたのは、泣き叫びたいほどの悲しみと絶望だった。
「……エルダは、寝ているでしょう?」
アドニス様の仰っている言葉を、そこに含まれている意味を、脳が理解した瞬間、息が止まった。
見なかったことにして、帰って───突き放すような拒絶の言葉が、グサリと胸を刺した。
(ど…して…)
側にいることも許されない。
アドニス様本人から突き付けられた現実は残酷で、胸が痛くて、苦しくて、悲しくて…癒したはずの膝がカタカタと震えた。
(どうして…!)
いっそ衝動のまま、大声で叫んでしまえたらどれほど楽だっただろう。
ただどうしてもそれが出来なかったのは、不自然なほどに落ち着いた声音で、穏やかな表情で、「おやすみなさい」と告げるアドニス様があまりにも脆く、不安定で、刺激したら今にも崩れてしまいそうで、怖かったからだ。
(嫌だ…!)
引き留める術なんて知らない。分からない。
拒絶された悲しみで胸が苦しくて、痛くて堪らない。
でもこのまま見送ることなんて出来なかった。
震える足に力を籠め、立ち去ろうとする背を飛び越すと、行く手を阻むように両腕を広げた。
「お願いです、アドニス様。どうかお戻り下さい。ご不安も、ご心配も、私にお話しして下さいませ。きっとお力になってみせますから…!」
そう告げても、どこか遠くを見つめているようなアドニス様に泣きたくなる。
もう、自分の声は届かないのだろうか…そんな悲しみが胸を埋め尽くす寸前、アドニス様がゆっくりと歩みを再開させた。
「…ッ」
徐々に縮まる距離に体が強張ったが、それでも道を譲る気は無かった。
「アド───」
目の前まで近づいたアドニス様に、堪らずその名を呼ぼうとした。…が、その名を最後まで口にすることは出来なかった。
ゆっくりと腕を広げるアドニス様の姿を目で追う。
その動きを見ていたはずなのに、気づけば視界はアドニス様の体で塞がれ───広げた腕の中に包まれているのだと理解した時には、強い力で抱き締められていた。
「───」
声が出なかった。
力強く体を締めつける腕の力も、全身を覆う温もりも、視界を塞ぐ全ても、アドニス様に抱き締められているのだと理解するのと同時に、脳が停止した。
(…な…に……なん…)
感情が振り切れているのか、脳が混乱しているのか、茫然とアドニス様からの抱擁を享受していると、風に紛れて、囁くような声が聞こえた。
「…好きだよ」
「…ッ」
耳に届いた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「大好き……大好きだよ、エルダ」
小さく呟くような、それでいてしっかりと声音は、どこまでも優しくて、どこまでも愛しくて───どこまでも、残酷だった。
「大好き…、大好き……大好きだよ。…ごめんね……ごめ…ね…っ」
「大好き」という言葉に「ごめんね」という言葉と、震えが混じった。
(………ちがう…)
今にも泣き出しそうな声も、アドニス様の体温も、とても温かいのに、身体は指の先からどんどんと冷えていく。
「大好きだよ、エルダ。…大好き…ずっと、ずっと、大好きだよ……ありがとう、エルダ」
(…違う)
自分が望んでいたのは、こんな悲しい気持ちで聞く「大好き」という言葉じゃなかった。
アドニス様の腕の中、はくりと息を喰んだその瞬間、毛先を擽られるような感覚と共に、仄かな熱と、チュ…という小さなリップ音が聞こえ、大きく目を見開いた。
(違う…!)
自分が願っていたのは、与えられる愛情をただ嬉しいと思える、純粋な喜びだった。
(違う…違う違う違う…!! 私が欲しかったのは…!)
幼い天使達に惜しみなく注がれる愛情を羨ましいと思った。
アドニス様が贈る優しい口付けを、自分もいつか頂けたなら…と想いを胸に抱いた。
(私が欲しかったのは……こんなものじゃない…っ)
その願いが、こんな形で叶ったことを、悲しいと思ってしまったことが、こんなのは違うと、与えられた情を否定する自分が、悔しくて堪らなかった。
(…違う……だって…)
ポタリと、瞳から雫が落ちた。
(あの子達は……笑ってた…)
同じものなら、自分だってきっと、笑えるはずだ。
(どうして…)
それなのに、自分は今、ほたほたと流れ落ちる涙を止められず、俯くことしか出来ない。
広げていた腕は、いつの間にか力無く垂れていた。
それに気づくと同時に、体を包んでいた温もりは解け、離れていく。
視界からアドニス様のお姿が消え、サクリ、サクリと真横を通り過ぎていく足音が耳に届いた。
ああ…置いていかれた───遅れてやってきた現実に、カクリと力が抜け、その場にへたり込んだ。
(……寒い…)
さっきまで触れていた温もりは遠く、体が凍えていく様だった。
(…痛い…)
胸が、脳が、悲しくて悲しくて、苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。
(嫌だ…!)
置いていかないでと、声に出すのも恐ろしくて、その場に蹲り、声を殺して泣いた。
(どうして……どうしたら…)
どうしたら、アドニス様を止められた?
どうしたら、お側にいられた?
どうしたら、頼ってもらえた?
どうしたら───どうしたら、幼い天使達のように、愛してもらえた?
「…はぁ…っ」
背後から少しずつ遠ざかっていく足音に、置いていかれる寂しさはどんどんと増していき、涙が止め処なく溢れた。
(嫌だ…っ)
脳裏に浮かんだのは、先ほど見た、夜空の下を飛んでいったプティ達。
誰も、悲しい顔はしていなかった。泣いていなかった。
いつもと変わらぬ様子からは、アドニス様と笑って別れたのだろうことが安易に想像できて、余計に胸を締め付けた。
(なんで……どうして、私は…)
あの子達のように、笑えないのだろう?
アドニス様は、あの子達になんと仰ったのだろう?
どうして、自分は───…
(……同じ、ように…なれないのだろう…)
───あの子達のようになりたい。
脳裏に浮かんだ考えが、血のように全身を駆け抜け、肉に染み渡った。
(……そうしたら…)
頼って頂ける?
笑って頂ける?
側にいて下さる?
…愛して、もらえる?
(プティのように…あの子達の、ように…)
アドニス様に、愛しい人に、愛してもらえる彼らになりたい───心の奥底から強く強く、愛を乞い、祈るように強く、願った。
───刹那、心臓の鼓動とは違う衝動がドクリと胸を打ち、咄嗟に胸元を押さえた。
「…ッ、く…っ」
自分の中の、何かが変わった。
本能的にそう感じ、咄嗟に体内に巡る聖気に意識を集中させれば、信じられない感覚を掴み、目を見開いた。
(……まさか……いや…でも…)
トクトクと静かに脈打つ心臓の音が、耳元で聞こえるような静寂と緊張の中、気づけば涙はピタリと止まっていた。
(今なら…)
理屈ではなく、本能と感覚で分かった。
ただ想うまま、望むまま、己の願いを強く胸に描く。
(アドニス様…!)
愛しい人の姿を思い浮かべれば、背中の翼が大きく広がり、自身の体を包みこんだ。
「あぁあぁぁ…っ! ああぁぁっ!」
「ごめん…! ごめんね…っ、ごめんねエルダ…!」
小さくなった体で、真っ直ぐアドニス様の胸へと飛び込んだ。
抱き締められる腕の力と、包み込む温もりを全身に感じ、悲しみに安堵が混じり合い、感情のままに泣きじゃくった。
短い手足は上手く動かせず、もどかしい気持ちになりながら、ただ離れまいと、アドニス様の胸元に必死にしがみつく。
そうして泣き続けている間、アドニス様の優しい声が、頭上からずっと降り注いでいた。
「大好き……大好きだよ、エルダ…! 勝手に、いなくなっちゃ…て、ごめんね…っ」
言葉と共に、口づけの音が何度も響いた。
頭部に感じる熱と、擽るような吐息が嬉しくて、嬉しくて、喉が痛くなるほど泣いた。
『大好き。大好き、大好きです。私も、大好きです』
声にならない想いが、泣き声と共に体から溢れ続けた。
どれほど時間が経っただろう。
涙が止まった後も、アドニス様の腕が解けることはなく、揺り籠のようにゆらゆらと揺れる心地良さに、うっとりと目を閉じた。
(…アドニス様の匂いがする)
陽だまりのような柔らかな香りと、アドニス様の体温に包まれ、安心感と恋しさが募る。
トン…トン…と優しく背中を叩く手は、赤子をあやす時のそれで、嬉しさと少しの恥ずかしさから胸元に顔を埋めると、ふすふすと鼻を鳴らした。
そうしながら、落ち着いてきた頭で、自身の状態を客観的に観察した。
(……特異体質…)
数多といる天使達の中で稀に現れる、他の者達とは異なる能力を有した者を『特異体質』と呼んだ。
自身がそれに当て嵌まるのかは分からないが、特異な能力だろうことは分かる。
自分の身に起こったことを、どこか他人事のように感じながら、もそもそとアドニス様の胸元に頬を擦り寄せた。
もっと…と、くっつくように身じろぎをすれば、不意に名前を呼ばれ、甘えようとしていたのを見透かされたような気恥ずかしさから、少しだけ体を起こした。
「…いっぱい泣かせちゃったね」
「んん…っ」
「あ、まって…」
指摘され、小さくなった腕で顔を擦れば、アドニス様の温かな手に頬を包まれた。
見慣れたはずの手がとても大きく見えて、これがプティ達がいつも見ていた景色なのかと思うと、妙に気持ちが浮ついた。
「ごめんね…エルダみたいに、拭く物、持ってなくて…」
「…んぅ」
「ふふ…いつもと逆だね」
(あ…)
笑って下さった───そこでようやく、アドニス様の纏っている空気が、いつもと同じものに戻っていることに気づき、パァッと視界が開けていく感じがした。
(良かった…)
涙を拭われながら、安堵に胸を撫で下ろしていると、アドニス様がゆっくりと立ち上がった。
「………帰ろっか」
静かで穏やかな声は、先ほどまでのそれとは違って、不安になることはなかった。
…ただふと、淡く微笑むアドニス様から、名残惜しさのような、諦めのような、喪失感を含んだような寂しさを感じ、ハッとする。
(……アドニス様は、どんな気持ちで命の湖に向かおうとしたのだろう…)
思い返せば、一月前も「命の湖に還りたい」と口にしただけで、その理由を聞くことは出来なかった。
取り乱し、怯えていた理由さえ結局聞けず終いで、その話に触れることを躊躇っている間に、明日を迎えようとしていたことにはたと気づき、息を呑んだ。
「……帰ろう」
───どうしてそう思ったのかは分からない。
感情のままに泣いて、スッキリしたせいだろうか。
ただ、このままアドニス様の望みを無視して、明日を迎えてはいけない気がして、意識を月明かりが照らす遠くの大地へと向けた。
決して考えが揺らいだ訳ではない。
今はまだ、アドニス様を命の湖に還したくない。その気持ちは変わらない。
…でも、このままアドニス様をあの部屋に帰らせてはいけない気がして、考えるよりも先に、指先はある方角を指差していた。
「………ん」
命の湖には、向かうだけ───それは、どちらか一方の願いを押し付けても、追い詰めてしまうだけなのだと、嫌というほど理解した頭で見つけた中間点だった。
(…大丈夫。今のアドニス様なら、きっと…)
命の湖に向かわれたとしても、きっと大丈夫…そう思うのに、腕の中から出るのはまだ怖くて、胸元で丸まったまま、アドニス様のお顔を見上げた。
「……エルダ?」
「……ん」
アドニス様の願いに応えることも、叶えることも出来ない。
ただ少しだけ、ほんの少しだけなら───…
(……大丈夫)
穏やかな夜風がそよぐ星空の下、引き留めるようにしがみついた片手は正直で、恐る恐る指差したもう片方の手は、ほんの少しだけ、震えていた。
肩が触れる距離で和やかにお話しをする姿は微笑ましく、素直に喜ばしいと思えた。
(私に対する好意を、お言葉にして下さったからだろうな…)
心に余裕があるのは、きっとそのおかげだろう。
同時に、アドニス様がお二人から向けられている『好意』に対し、気持ちを丁寧に整理することで、きちんと理解して頂けるようになったのも大きな一歩だった。
説明するのに苦心したが、好意を好意として素直に受け取れるようになったからか、今まで以上にアドニス様の表情は明るくなった。
この温かな日常が、ずっと続けばいいのに───そう願って止まない穏やかな日々の裏側で、ポツリ、ポツリと、あちらこちらでアドニス様の名を耳にするようになった。
「もうじきフォルセの果実が実るからだろう」
部屋の外、互いに情報を共有する最中、ルカーシュカ様が溜め息と共に呟いた。眉間に皺を寄せたお顔には、心労からかうっすらと疲労の色が浮かんでいた。
(アドニス様の名を耳にするたび、ドキリとするのはルカーシュカ様も同じか…)
悪いことをしている訳ではないのに、周囲の静かな騒めきに、なんとも言えない後ろめたさを感じてしまう。
アドニス様と共に部屋に引き籠り、外部との接触をほとんど断っている自分ですらそう思うのだ。
大天使様が三人不在の今、多くの者達と交流することを余儀なくされ、嫌でもその話題に触れるルカーシュカ様の心労は想像に難しくない。
「そろそろ、アドニスにもこのことを伝えないとな」
「……はい」
フォルセの果実が実る日は、同時にアドニス様の謹慎が解ける日でもある。
ずっと黙っている訳にはいかない…必ず向き合わなければいけない現実が、刻一刻と近づいていた。
数日後、無事人間界からお帰りになられたイヴァニエ様は、その日の内に、アドニス様とお二人だけで言葉を交わし、蟠りを解消された様だった。
詳しくは聞かなかったが、イヴァニエ様とのやりとりについてお話しをするアドニス様からは、ルカーシュカ様と同じく、イヴァニエ様に対する信頼と好意が透けて見えた。
(良かった…)
ニコニコと、嬉しそうに話すアドニス様に笑みを返しながら、内心では背中の傷痕が癒えたことに、なにより安堵していた。
(本当に、良かった)
浴室で背中の傷痕を目にした瞬間、そのあまりの生々しさに絶句した。
アドニス様が翼を剥奪されたことは、事実あったこととして、知ってはいた。
だが、実際目にしたその傷痕は、生易しい想像を嘲笑うかの如く痛々しく、アドニス様の滑らかな肌に、罪人の証を刻んでいる様だった。
アドニス様を穢された様な憤りと、どうしてこのようなモノを背負わなければいけないのかという悲しみで体が震えた。
動揺と狼狽を必死に隠すも、どうしても落ち着かず、理由を付けて逃げるようにアドニス様のお側を離れてしまったが…結果的にイヴァニエ様との仲が深まったのは幸運だった。
アドニス様の背に、もう傷は残っていない。それがとても嬉しかった。
その翌日から、イヴァニエ様のアドニス様に対する態度はあからさまに変わり、少しばかり面食らってしまったが、それもまた良い変化だと思えた。
───だがそんな平穏が続いたのも、この日までだった。
「ゃだ…っ、ちが…違う…! 違う!!」
「アドニス!」
「アドニス様…!」
激しく腕を振り、取り乱す姿に、ただでさえ高まっていた緊張感に焦燥と恐怖が混じった。
『……命の湖に、還りたい』
そう呟いたアドニス様が信じられなくて、悲しみとも怒りとも違う感情から、思わず責め立てるように声を上げてしまったが、その直後、みるみる内にアドニス様の表情が歪んだ。
「ごめんなさい…! 違う…っ、違うの! ごめんなさい…!」
血の気の引いた顔で、ボロボロと涙を零しながら逃げようともがくアドニス様の腕を離さぬ様、必死で繋ぎ止めた。
(急にこんな…っ、どうして…!)
イヴァニエ様やルカーシュカ様からも強い焦りが伝わり、混乱が伝染する。
なんとお声を掛ければいいのか分からない───焦りばかりが募っていく間にも、アドニス様の状態はどんどん悪化していった。
「は…っ、ひ…、ゃだ…、わ、わたし…っ、ごめ、ごめんなさ…っ、ごめ…なさい…っ、ごめんなさ…っ、……ッ!」
「アドニス! 落ち着きなさい! 息を…!」
ヒューッ、ヒューッと、か細く震える呼吸の音が聞こえ始めてすぐ、アドニス様の体が一瞬だけビクリと跳ね、グラリと不自然に揺れた。
「アドニス様!!」
「「アドニス!!」」
咄嗟に掴んでいた手を引き寄せたが、力の抜けた腕はダラリと垂れ、体は背凭れに倒れ込んだ。
「アドニス!」
「アドニス! アドニス! …っ、…まずいな」
必死に呼び掛けるお二人の声が、どこか遠くに聞こえた。
ぐったりと横たわり、ピクリとも動かなくなったアドニス様を前に、頭の中が真っ白になり、声を出すことも出来なかった。
「ひとまず、ベッドに寝かせよう。……エルダ、頼めるか?」
「ぁ……は、い…」
ルカーシュカ様に促され、かろうじて返事をすると、のろのろとした動きでアドニス様の身を起こした。
少し体を浮かせたはずなのに、力の抜けた体は重く、揺らしても、抱き上げても、なんの反応も返ってこないお姿に泣きそうになる。
半ば意識が飛んだまま、覚束無い足取りで寝室へと移動し、そっと寝具の上にアドニス様を横たえるが、その瞼が開くことはなかった。
「……私達が、追い詰めてしまったのでしょうか」
重い沈黙の中、意識を失ったアドニス様の手を握りながら、イヴァニエ様が苦しげに呟いた。
その言葉に心臓は竦み上がり、呼吸は浅くなった。
(私達が…アドニス様の願いを、拒んでしまったから…?)
自分のしでかした失態に、ザァッと冷水を浴びせられたように、手足の先が冷えていくのが分かった。
(そんな……でも…、だって…っ)
どうしたって、アドニス様の願いを受け止めることも、受け入れることも出来なかった。
アドニス様が、己の行く末を決断するのはまだ早い。
どのような決断をするか、その判断材料を得る為に、まずはバルドル様に会わなければいけないのだ。
きっとそこで初めて、アドニス様がアドニス様ご自身を知ることで初めて、ようやくその先を選べるのだ。
どんなお気持ちでアドニス様が「命の湖に還りたい」と言ったのか、その本質は分からない。だが決して明るくない感情から口にされたのは明らかだった。
それが分かったからこそ、つい気持ちが波立ってしまったが…なぜもっと言葉を選べなかったのか、押し寄せる後悔に唇を噛んだ。
「…目が覚めるまで、もう少し様子を見よう」
アドニス様の傍らに立ち、努めて冷静に、だが悔しげに眉を顰めるルカーシュカ様。そこには自分と同じような後悔の色が浮かんでいた。
(…申し訳ございません)
流れた涙の痕を拭いながら、心の中で自身の不甲斐なさを詫びた。
(お目覚めになられたら、きちんと謝ろう…)
きっと同じ気持ちなのだろう。イヴァニエ様もルカーシュカ様も、アドニス様を見守るように、ずっと傍らにいて下さった。
だが結局、ついぞ目を覚ますことのなかったアドニス様は、その日から懇々と眠り続けた。
「………」
アドニス様が目覚めなくなってから、眠るアドニス様の手を握り、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々を過ごした。
静かな部屋は広くて、寂しくて、冷たくて、眠り続けるアドニス様が恐ろしくて、日を追うごとに不安に押し潰されていった。
あの日から、イヴァニエ様もルカーシュカ様も、毎日アドニス様の元へと足を運んで下さり、時間の許す限りお側にいて下さった。
眠るアドニス様に話し掛け、手を握り、頬を撫でる───だがそれでも、アドニス様の瞼が開くことはなかった。
(どうして、目覚めて下さらないのだろう…)
まるで現実を拒むかのように眠り続けるアドニス様。
それほどまでに、あの日の出来事はショックで、アドニス様には耐え難いことだったのかと思うと、泣きたくて悔しくて堪らなくなった。
(ごめんなさい…)
握った手に力を籠めるが、握り返してもらえないことが悲しくて俯く。
ただその手には温もりがあり、静かな寝息の音に合わせ、胸元が緩く上下していることに少しだけ救われた。
イヴァニエ様やルカーシュカ様にとっても、眠り続け、目を覚まさないアドニス様の姿は心的負担があるのか、いつだって苦しそうなお顔をされていた。
「おはよう、アドニス」
「おやすみなさい、アドニス」
朝も夜も、返事が無くとも、お二人はアドニス様に話し掛け続けた。
できることならば、自然に目覚めてほしい───いくつもの複雑な思惑が絡み合い、足踏みをしている間に、なんの手も施せないまま、一日、また一日と過ぎていった。
それに比例するように、約束の日は近づき、焦燥が胸を埋め尽くす。
(……このままじゃ、いけない)
きっと、イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も…分かっている。
「……アドニス様」
呟いてみても返事は無い。
湧き上がる寂しさに、ギュウッと胸が締め付けられた。
早く…早く目覚めて、そうしてまた───…
(……名前を呼んで)
ただ祈るように、握ったアドニス様の手に、額を寄せた。
「………、…?」
「…ッ、アドニス様!」
「…ルカーシュカ様……イヴァニエ、様…、エルダ……?」
結局、眠り続けたアドニス様が自然に目覚めることはなく、ルカーシュカ様とイヴァニエ様が聖気を流したことが刺激となり、覚醒するに至った。
(良かった…!)
表情はぼんやりとしていたが、瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていて、名前を呼んで下さった安堵から瞳が潤んだ。
零れそうになる雫をサッと指で拭うと、深く息を吸い込んだ。
(…まだだ。まだ、これからだ)
喜んでいるばかりではいられない。
本当に大変なのはこれからで、まだ何も始まっていない。…これから、始まるのだ。
アドニス様の目覚めを喜ぶ自分と、目の前に迫った問題を嘆く自分が混じり合い、気持ちが揺らぐらように、アドニス様を見つめる瞳が揺れた。
フォルセの果実が実るまで、あと二日。
見開かれた金色の瞳を直視するのが怖いと、この時初めて思った。
(眠れない…)
アドニス様の謹慎が解ける日を翌日に迎えた夜。
イヴァニエ様の離宮にある自室に戻り、床に就いて暫く、一向に訪れない眠気に嫌気が差し、体を起こした。
(もう明日なのに…)
眠りから目覚めたアドニス様は、身構えていたより和やかに過ごしていらっしゃる様に見えた。…が、それが仮初の姿だったのだと、今日になって痛いほど思い知らされた。
一ヶ月以上眠り続けていたアドニス様は、お食事も受け付けなくなっていた。
ただでさえ不安定になっているアドニス様が、明日に控えたバルドル様との対面を前に、不安がない訳がない…そう思い、夜通しお側に控えているつもりだったのだが、いくらそれを願っても、聞き入れてはもらえなかった。
『明日はきっと大変だから…今日は、お部屋に戻って、ちゃんと休んで?』
「私は大丈夫です」「お側にいます」…何度お伝えしても頑として聞き入れてはもらえず、それ以上何も言えなくなってしまった。
あそこまでアドニス様に拒絶されたのは初めてで、ショックから気持ちが負けてしまったが、今頃になって拒絶されても側にいるべきだったという後悔の念がじわじわと押し寄せた。
(……戻ろう)
今はアドニス様を一人にしたくない。
拒まれたとしても、寝室の隣の部屋で待機しているくらいは許されるだろう。いや、許されなくてもお側にいるべきだ。
思うが早いか、ベッドから抜け出すと、サッと身なりを整え部屋を出た。
皆が寝静まった宮はシンとしており、自身の足音だけが響く回廊を駆け、アドニス様の元へと急いだ。
宮廷に辿り着くと、真っ直ぐアドニス様のお部屋へと向かう。
いつもよりも幾分早足で歩きながら、頭の中はアドニス様のことでいっぱいだった。
思えば、目覚めてからのアドニス様は、異常なまでに落ち着いていらっしゃった。
眠りに落ちる前、あれほど取り乱していたのが嘘のように、穏やかだったアドニス様。
今までなら、不安や心配を、表情にも態度にも言葉にも出して下さったのに…そう思うと、今日のお姿はとても不自然だった。
明け方に訪れた薄暗い部屋の中、ベッドの上に座り込んだままのアドニス様の姿を捉えた瞬間、緊張がピークに達していたのだ。
ノックの音すら聞こえていなかったのか、こちらに視線も向けず、なんの反応も示さず、無表情のままピクリとも動かない姿は死人を連想させ、喉からはヒュッと息を呑むような悲鳴が漏れた。
その後すぐにお休みになり、目覚めてからはいつもとあまり変わらない様子で、イヴァニエ様やルカーシュカ様とも言葉を交わされていたからこそ、安堵の方が勝ってしまったのだが───よくよく考えれば、いつもと変わらない様子であることの方がおかしいのだ。
(そういえば、お二人から贈られた服にも、反応が薄かった…)
いつもなら、もっと感情を表に出して下さるのに…そこでふと、昨日も今日も、アドニス様の笑っているお姿を見ていないことに気づいた。
「っ…」
途端に胸は騒めき、焦る気持ちから、駆けるようにしてアドニス様の元へと急いだ。
辿り着いた部屋の前、一呼吸置くと、ゆっくりと扉を開いた。
室内の様子を窺いながら静かに扉を開けば、そこには慣れ親しんだ光景が広がっていた。
ホッと息を吐くと、足音を立てぬ様に寝室へと向かい、扉の前に立ってノックをすべきか否か、一瞬だけ迷った。
(寝ていらっしゃるなら、あまり音は立てたくないが…)
とはいえ、流石にノックもせずに入室するのは無礼だろう。少し迷いつつ、コンコン…と控えめにノックをするが、案の定、中からの返事はない。
眠っているか、ノックの音が小さすぎたか…返事がないまま勝手に中に入るのは気が引けたが、せめてお姿だけでも確認したかった。
今朝のように、寝ずのまま過ごさせる訳にはいかないと、ゆっくりと、慎重に扉を開けた。
「…失礼致しま───ッ」
そろそろと開いた扉の隙間から中の様子を窺う───が、一目で室内の異変に気づき、衝動のまま勢いよく扉を開いた。
普段からアドニス様が眠る時は、分厚い天蓋の幕で囲われているベッド。
だが視界に飛び込んできたのは、四隅に固められたままの天蓋の幕と、本来そこに居るべき主を失い、もぬけの殻となったベッドだけだった。
「………アドニス、様…?」
脳が、見たものをそのまま現実として受け止められず、理解することを拒んだ。
(な、に…なぜ……どこに…?)
部屋の静けさと反比例するように、心臓の鼓動がうるさく響き、呼吸が乱れる。
停止しかけた思考が、軋みながらゆっくりと回り始めるが、それでも頭はまだ混乱したままで、理解したくない現実との乖離に眩暈がした。
「嘘、だ……、ッアドニス様…!!」
いないと分かっていて、それでも主の名を呼ぶ。
空になった部屋から返事があるはずもなく、自分の声が虚しく反響するだけだった。
その時ふと、椅子の上に置かれたある物に気づき、蹌踉めきながらそこへと向かった。
「………なんで…」
見慣れたそれは、いつもアドニス様が羽織っていた真白いローブだった。
毎日毎朝、自分がアドニス様の肩に掛けていたそれを震える手で取れば、既に持ち主の温もりは消え、冷たくなっていた。
アドニス様に似合うだろうと思って見繕ったローブ。
最初の頃は戸惑っていらっしゃったが、それでも生地の表面を撫で、楽しそうにしていらっしゃる姿を何度か目にしたことがあった。
物への関心が薄く、お召し替えにも頷いて下さらなかったアドニス様が、唯一気に入って下さっていた物…それがこの場にあることの意味に、目の前が真っ暗になった。
あえて置いていかれたのだ。
自分の意思で、此処を出て行ったという、目に見える形として…
「…ッ!」
冷たくなったそれを握り締め、身を翻した。
まだだ。まだ、いなくなったとは限らない。
(もしかしたら…!)
眠れぬ夜、アドニス様はよくバルコニーで星を眺めて過ごしていた。
もしかしたら、窓を開ければ、すぐそこにいらっしゃるかもしれない。
もしかしたら、ただの杞憂に終わるのかもしれない。
そうして突然現れた自分に驚いて、「どうしたの?」と、穏やかに仰って下さる───そんな一縷の望みは、誰もいない静かなバルコニーを目の前に、呆気なく砕かれた。
「……そんな…、アドニス様…」
人の気配の無い夜空の下、へたり込んでしまいそうになる足に力を込め、回らない頭を必死に動かした。
アドニス様の行動できる範囲には限りがある。まして翼を喪ったアドニス様が、三階にある部屋からいなくなるなど不可能だ。
(……まさか、部屋の扉から外へ…?)
その可能性は極めて低いが───そう思った、その時だった。
「………プティ?」
暗闇の中を、ふわふわと飛ぶ小さな白い羽が見えた。
少し離れているが、肉眼でも確認できたその姿は、間違いなくプティだった。
(なぜ、こんな時間に……)
そう考えた瞬間、ハッとする。
反射的にバルコニーの端まで駆け出し、手摺りから身を乗り出すと、プティが飛んできた先にバッと視線を向けた。
考えるよりも早く瞳に聖気を集中させ、『遠見』で遠い草原を見遣れば、そこに愛しい方の姿が見えた。
「良かっ───」
ホッとしたのも束の間、ポツリと独り佇むアドニス様は危う気で、今すぐにでも迎えに行こうと体が動いた───が、その瞳が見据える先、その先にあるものに気づき、全身から血の気が引いた。
脳を揺さぶられるようなショックに力が抜け、膝から崩れ落ちた。
バルコニーの床に打ちつけた膝に痛みが走ったが、体の痛みなど気にならなかった。
「………どう、して…」
お姿を見つけられたことへの安堵もあった。
まだそう遠くはない処にいて下さった。
お迎えに行けば、まだ間に合う…そんな気持ちとは裏腹に、絶望にも似た悲しみで胸が張り裂けてしまいそうだった。
ずっと、アドニス様のお側にいた。
ずっと、アドニス様とお言葉を交わしてきた。
ご不安も、お悩みも、喜びも…アドニス様の御心に添えられる様、いつだって、どんなことだって、仰って頂けた。…そう思っていた。
でも、アドニス様が本当にお辛い場面で心を開き、頼ったのは幼い天使達で───自分ではなかった。
「どうして…!」
アドニス様がプティ達に願い、彼らの力を借りて、意図してお部屋を出たのは明白だった。
何故、何故、どうして、悲しい、悲しい、寂しい、悲しい………悔しい。
喉の奥で潰れた嘆きの咆哮が、胸を刺した。
分かっている。プティ達が悪い訳じゃない。
自分が勝手に傷つき、勝手にあの子達を羨んでいるだけだと分かっている。
それでも…それでも、どうして自分ではないのだと思わずにはいられなかった。
あの子達ではなく、自分を選んでくれとは言わない。ただ一緒に、同じように、頼ってほしかった。
それなのに、自分はただ拒絶され、遠ざけられ、今こうして此処にいなければ、何も知らずに朝を迎えていた───その現実が悲しくて、苦しくて、痛くて…崩れ落ち、座り込んだまま立ち上がることが出来なかった。
(……ダメだ。落ち着け…)
まだ揺れる視界の中、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
分かっている。私やイヴァニエ様、ルカーシュカ様に「命の湖に還りたい」という望みをお話ししても、聞き入れてもらえないと、アドニス様も分かっていたのだろう。
だからこそ、アドニス様は小さな天使達を頼ったのだ。…そう頭では理解していても、心は素直にそれを受け止めることが出来なかった。
(こんなことになるなら、お話ししておけば…)
込み上げる後悔から、唇をキツく噛んだ。
一月前、アドニス様の聖気が全く違うものへと変化していることが証明された。
イヴァニエ様、ルカーシュカ様、そして自分、とそれぞれ異なる性質の聖気を一切の抵抗なく受け入れるなど、到底あり得ないことだ。ましてや元のアドニス様が有していた聖気であれば、確実に弾かれていただろう。
変質の域を超え、全くの別人のそれに変わった聖気に、ずっと抱いてきた疑念が確信に変わった。
だからと言って、不確定なことを言うことは出来なかった。
確信は持てても、確証が無い。バルドル様に断言して頂かない限り、迂闊なことが言えなかったのだ。
それでも我々には確信があり、だからこそアドニス様の願いを許容することが出来なかった。
(今からでも……いや、ダメだ)
安心させる為に告げた言葉が、後でアドニス様を傷つけるかもしれない。
その危険が無いとは言い切れない中、憶測でものを言えるはずもなく、歯痒く、もどかしい。
本当のことが誰にも分からない今、むやみやたらに希望を抱かせるような言葉を伝えることがどれほど危ういか、分かっているからこそ何も言えなかった。
(せめて…せめてお側に…!)
多くは語れないが、それでも寄り添うことで減る不安も、増す安心もあるはずだ。
せめて、胸の内に溜めた不安だけでも吐き出してもらえたなら───僅かに湧いた希望を支えに、グッと立ち上がった。
ジンジンと泣くように痛む膝に癒しを施すと、深く息を吸い込み、翼を広げた。
『ずっとお側にいます』
いつかアドニス様に誓った願いは、この先も変わらない。そう信じていた。
(……どうして…)
夜空の下を駆けるように向かったアドニス様の元、そこで待っていたのは、泣き叫びたいほどの悲しみと絶望だった。
「……エルダは、寝ているでしょう?」
アドニス様の仰っている言葉を、そこに含まれている意味を、脳が理解した瞬間、息が止まった。
見なかったことにして、帰って───突き放すような拒絶の言葉が、グサリと胸を刺した。
(ど…して…)
側にいることも許されない。
アドニス様本人から突き付けられた現実は残酷で、胸が痛くて、苦しくて、悲しくて…癒したはずの膝がカタカタと震えた。
(どうして…!)
いっそ衝動のまま、大声で叫んでしまえたらどれほど楽だっただろう。
ただどうしてもそれが出来なかったのは、不自然なほどに落ち着いた声音で、穏やかな表情で、「おやすみなさい」と告げるアドニス様があまりにも脆く、不安定で、刺激したら今にも崩れてしまいそうで、怖かったからだ。
(嫌だ…!)
引き留める術なんて知らない。分からない。
拒絶された悲しみで胸が苦しくて、痛くて堪らない。
でもこのまま見送ることなんて出来なかった。
震える足に力を籠め、立ち去ろうとする背を飛び越すと、行く手を阻むように両腕を広げた。
「お願いです、アドニス様。どうかお戻り下さい。ご不安も、ご心配も、私にお話しして下さいませ。きっとお力になってみせますから…!」
そう告げても、どこか遠くを見つめているようなアドニス様に泣きたくなる。
もう、自分の声は届かないのだろうか…そんな悲しみが胸を埋め尽くす寸前、アドニス様がゆっくりと歩みを再開させた。
「…ッ」
徐々に縮まる距離に体が強張ったが、それでも道を譲る気は無かった。
「アド───」
目の前まで近づいたアドニス様に、堪らずその名を呼ぼうとした。…が、その名を最後まで口にすることは出来なかった。
ゆっくりと腕を広げるアドニス様の姿を目で追う。
その動きを見ていたはずなのに、気づけば視界はアドニス様の体で塞がれ───広げた腕の中に包まれているのだと理解した時には、強い力で抱き締められていた。
「───」
声が出なかった。
力強く体を締めつける腕の力も、全身を覆う温もりも、視界を塞ぐ全ても、アドニス様に抱き締められているのだと理解するのと同時に、脳が停止した。
(…な…に……なん…)
感情が振り切れているのか、脳が混乱しているのか、茫然とアドニス様からの抱擁を享受していると、風に紛れて、囁くような声が聞こえた。
「…好きだよ」
「…ッ」
耳に届いた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「大好き……大好きだよ、エルダ」
小さく呟くような、それでいてしっかりと声音は、どこまでも優しくて、どこまでも愛しくて───どこまでも、残酷だった。
「大好き…、大好き……大好きだよ。…ごめんね……ごめ…ね…っ」
「大好き」という言葉に「ごめんね」という言葉と、震えが混じった。
(………ちがう…)
今にも泣き出しそうな声も、アドニス様の体温も、とても温かいのに、身体は指の先からどんどんと冷えていく。
「大好きだよ、エルダ。…大好き…ずっと、ずっと、大好きだよ……ありがとう、エルダ」
(…違う)
自分が望んでいたのは、こんな悲しい気持ちで聞く「大好き」という言葉じゃなかった。
アドニス様の腕の中、はくりと息を喰んだその瞬間、毛先を擽られるような感覚と共に、仄かな熱と、チュ…という小さなリップ音が聞こえ、大きく目を見開いた。
(違う…!)
自分が願っていたのは、与えられる愛情をただ嬉しいと思える、純粋な喜びだった。
(違う…違う違う違う…!! 私が欲しかったのは…!)
幼い天使達に惜しみなく注がれる愛情を羨ましいと思った。
アドニス様が贈る優しい口付けを、自分もいつか頂けたなら…と想いを胸に抱いた。
(私が欲しかったのは……こんなものじゃない…っ)
その願いが、こんな形で叶ったことを、悲しいと思ってしまったことが、こんなのは違うと、与えられた情を否定する自分が、悔しくて堪らなかった。
(…違う……だって…)
ポタリと、瞳から雫が落ちた。
(あの子達は……笑ってた…)
同じものなら、自分だってきっと、笑えるはずだ。
(どうして…)
それなのに、自分は今、ほたほたと流れ落ちる涙を止められず、俯くことしか出来ない。
広げていた腕は、いつの間にか力無く垂れていた。
それに気づくと同時に、体を包んでいた温もりは解け、離れていく。
視界からアドニス様のお姿が消え、サクリ、サクリと真横を通り過ぎていく足音が耳に届いた。
ああ…置いていかれた───遅れてやってきた現実に、カクリと力が抜け、その場にへたり込んだ。
(……寒い…)
さっきまで触れていた温もりは遠く、体が凍えていく様だった。
(…痛い…)
胸が、脳が、悲しくて悲しくて、苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。
(嫌だ…!)
置いていかないでと、声に出すのも恐ろしくて、その場に蹲り、声を殺して泣いた。
(どうして……どうしたら…)
どうしたら、アドニス様を止められた?
どうしたら、お側にいられた?
どうしたら、頼ってもらえた?
どうしたら───どうしたら、幼い天使達のように、愛してもらえた?
「…はぁ…っ」
背後から少しずつ遠ざかっていく足音に、置いていかれる寂しさはどんどんと増していき、涙が止め処なく溢れた。
(嫌だ…っ)
脳裏に浮かんだのは、先ほど見た、夜空の下を飛んでいったプティ達。
誰も、悲しい顔はしていなかった。泣いていなかった。
いつもと変わらぬ様子からは、アドニス様と笑って別れたのだろうことが安易に想像できて、余計に胸を締め付けた。
(なんで……どうして、私は…)
あの子達のように、笑えないのだろう?
アドニス様は、あの子達になんと仰ったのだろう?
どうして、自分は───…
(……同じ、ように…なれないのだろう…)
───あの子達のようになりたい。
脳裏に浮かんだ考えが、血のように全身を駆け抜け、肉に染み渡った。
(……そうしたら…)
頼って頂ける?
笑って頂ける?
側にいて下さる?
…愛して、もらえる?
(プティのように…あの子達の、ように…)
アドニス様に、愛しい人に、愛してもらえる彼らになりたい───心の奥底から強く強く、愛を乞い、祈るように強く、願った。
───刹那、心臓の鼓動とは違う衝動がドクリと胸を打ち、咄嗟に胸元を押さえた。
「…ッ、く…っ」
自分の中の、何かが変わった。
本能的にそう感じ、咄嗟に体内に巡る聖気に意識を集中させれば、信じられない感覚を掴み、目を見開いた。
(……まさか……いや…でも…)
トクトクと静かに脈打つ心臓の音が、耳元で聞こえるような静寂と緊張の中、気づけば涙はピタリと止まっていた。
(今なら…)
理屈ではなく、本能と感覚で分かった。
ただ想うまま、望むまま、己の願いを強く胸に描く。
(アドニス様…!)
愛しい人の姿を思い浮かべれば、背中の翼が大きく広がり、自身の体を包みこんだ。
「あぁあぁぁ…っ! ああぁぁっ!」
「ごめん…! ごめんね…っ、ごめんねエルダ…!」
小さくなった体で、真っ直ぐアドニス様の胸へと飛び込んだ。
抱き締められる腕の力と、包み込む温もりを全身に感じ、悲しみに安堵が混じり合い、感情のままに泣きじゃくった。
短い手足は上手く動かせず、もどかしい気持ちになりながら、ただ離れまいと、アドニス様の胸元に必死にしがみつく。
そうして泣き続けている間、アドニス様の優しい声が、頭上からずっと降り注いでいた。
「大好き……大好きだよ、エルダ…! 勝手に、いなくなっちゃ…て、ごめんね…っ」
言葉と共に、口づけの音が何度も響いた。
頭部に感じる熱と、擽るような吐息が嬉しくて、嬉しくて、喉が痛くなるほど泣いた。
『大好き。大好き、大好きです。私も、大好きです』
声にならない想いが、泣き声と共に体から溢れ続けた。
どれほど時間が経っただろう。
涙が止まった後も、アドニス様の腕が解けることはなく、揺り籠のようにゆらゆらと揺れる心地良さに、うっとりと目を閉じた。
(…アドニス様の匂いがする)
陽だまりのような柔らかな香りと、アドニス様の体温に包まれ、安心感と恋しさが募る。
トン…トン…と優しく背中を叩く手は、赤子をあやす時のそれで、嬉しさと少しの恥ずかしさから胸元に顔を埋めると、ふすふすと鼻を鳴らした。
そうしながら、落ち着いてきた頭で、自身の状態を客観的に観察した。
(……特異体質…)
数多といる天使達の中で稀に現れる、他の者達とは異なる能力を有した者を『特異体質』と呼んだ。
自身がそれに当て嵌まるのかは分からないが、特異な能力だろうことは分かる。
自分の身に起こったことを、どこか他人事のように感じながら、もそもそとアドニス様の胸元に頬を擦り寄せた。
もっと…と、くっつくように身じろぎをすれば、不意に名前を呼ばれ、甘えようとしていたのを見透かされたような気恥ずかしさから、少しだけ体を起こした。
「…いっぱい泣かせちゃったね」
「んん…っ」
「あ、まって…」
指摘され、小さくなった腕で顔を擦れば、アドニス様の温かな手に頬を包まれた。
見慣れたはずの手がとても大きく見えて、これがプティ達がいつも見ていた景色なのかと思うと、妙に気持ちが浮ついた。
「ごめんね…エルダみたいに、拭く物、持ってなくて…」
「…んぅ」
「ふふ…いつもと逆だね」
(あ…)
笑って下さった───そこでようやく、アドニス様の纏っている空気が、いつもと同じものに戻っていることに気づき、パァッと視界が開けていく感じがした。
(良かった…)
涙を拭われながら、安堵に胸を撫で下ろしていると、アドニス様がゆっくりと立ち上がった。
「………帰ろっか」
静かで穏やかな声は、先ほどまでのそれとは違って、不安になることはなかった。
…ただふと、淡く微笑むアドニス様から、名残惜しさのような、諦めのような、喪失感を含んだような寂しさを感じ、ハッとする。
(……アドニス様は、どんな気持ちで命の湖に向かおうとしたのだろう…)
思い返せば、一月前も「命の湖に還りたい」と口にしただけで、その理由を聞くことは出来なかった。
取り乱し、怯えていた理由さえ結局聞けず終いで、その話に触れることを躊躇っている間に、明日を迎えようとしていたことにはたと気づき、息を呑んだ。
「……帰ろう」
───どうしてそう思ったのかは分からない。
感情のままに泣いて、スッキリしたせいだろうか。
ただ、このままアドニス様の望みを無視して、明日を迎えてはいけない気がして、意識を月明かりが照らす遠くの大地へと向けた。
決して考えが揺らいだ訳ではない。
今はまだ、アドニス様を命の湖に還したくない。その気持ちは変わらない。
…でも、このままアドニス様をあの部屋に帰らせてはいけない気がして、考えるよりも先に、指先はある方角を指差していた。
「………ん」
命の湖には、向かうだけ───それは、どちらか一方の願いを押し付けても、追い詰めてしまうだけなのだと、嫌というほど理解した頭で見つけた中間点だった。
(…大丈夫。今のアドニス様なら、きっと…)
命の湖に向かわれたとしても、きっと大丈夫…そう思うのに、腕の中から出るのはまだ怖くて、胸元で丸まったまま、アドニス様のお顔を見上げた。
「……エルダ?」
「……ん」
アドニス様の願いに応えることも、叶えることも出来ない。
ただ少しだけ、ほんの少しだけなら───…
(……大丈夫)
穏やかな夜風がそよぐ星空の下、引き留めるようにしがみついた片手は正直で、恐る恐る指差したもう片方の手は、ほんの少しだけ、震えていた。
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