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フォルセの果実
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命の湖に還り、魂を循環させること───それは死ではなく、再生だと教えられた。
花がその命を終え、白い結晶となって大地へと還り、また花を咲かせるのと同じように、命は巡っているのだ、と…
悲しい別れでないのなら、せめて今のまま…“誰かに好きと思ってもらえる自分”という幸福を抱いたまま、還りたい───
「アドニス様…!!」
───それが自分勝手な願いだと思い知るのは、想いを口にした直後だった。
「そのような…っ、そのようなことを、仰らないで下さいませ…!」
叫ぶようなエルダの悲痛な声と、くしゃりと歪んだ顔に、凪いでいたはずの心が一瞬でざわめいた。
「エルダ…?」
「……それが、お前の望みなのか?」
「ぁ……」
厳しい眼差しでこちらを見据え、静かに問い掛けるルカーシュカに声が出なくなる。
「…駄目です。アドニス、それは……許せません」
「…ッ!」
怒りが滲んだような険しい表情のイヴァニエに、願いを否定されたことよりも、怒らせるようなことを言ってしまったことへのショックが勝った。
「え…ぅ……」
(なに…? どうして…?)
自分が間違ったことを言ってしまったのは明らかだ。
だが、怒らせてしまうようなことを言ったつもりはなかった。
命の湖に還ることは、自分の選ぶべき未来として、選択肢の中に含まれていた。なにより、命の湖に還ることそのものが、自身の判断に委ねられていたはずだ。
誰かに指図されることでも、制限されることでもない、自由な権利として与えられているもの…そう、記憶していた。
それなのに、エルダもイヴァニエもルカーシュカも、皆が眉根に皺を寄せ、表情を歪めていた。
泣き出しそうな、怒り出しそうな…そんな顔を見ていられなくて、俯きながら「どうして」と思考を巡らせた。
(怒らせた…? ど…して…? 自分は…だって…)
好きだから、好きなままでいてほしかった。
好きと思ってもらえる自分のままでいたかった。
他の天使達の前に出るのが怖かった。
自分自身のことを知るのが怖かった。
また嫌われてしまうかもしれない自分になるのが怖かった。
誰かに酷いことをしてしまう自分になってしまうのが怖かった。
何も出来ない、何も知らない、在りたいと思い描く未来すら無い。
迷惑を掛けてしまうくらいなら、嫌われてしまうくらいなら、また傷つくくらいなら…そんな気持ちで、最期を望んでしまったのがいけなかったのだろうか?
言葉にできない焦りと不安に、思考は渦巻き、息苦しさを覚えた時だった。
命の湖に還りたいという願いは、彼らが与えてくれた優しさを、無下にしているのではないだろうか?
「───ッ!」
不意に浮かんだ考えに、全身からぶわりと嫌な汗が流れ、喉の奥で引き攣ったような悲鳴が漏れた。
(ちがう…違う…!)
大事な思い出だからこそ、大切にしたい。
愛しい記憶のまま、いなくなりたい…そんな願いは、裏を返せば三人がくれたたくさんの優しさや温もりを、せっかく与えてくれた恩情を、無駄なものに変えてしまうのではないだろうか…?
「ぁ…ゃ…」
蔑ろにするつもりなんてなかった。
それなのに、嫌われるのが怖いと思っていながら、結局自分は、彼らに対してとても嫌なことを言ってしまった。
それに気づき、目の前が真っ暗になった。
「ゃだ…っ、ちが…違う…! 違う!!」
「アドニス!」
「アドニス様…!」
彼らの怒っているような表情が、自分の失言そのものを象徴している様で、自責の念から湧き上がる恐怖に体は震えた。
繋がっている彼らの体温すら、自分には過ぎたものに思えて、無意識の内に振り解こうと両腕が暴れたが、キツく結ばれた手が解けることはなかった。
「ごめんなさい…! 違う…っ、違うの! ごめんなさい…!」
「アドニス、誰も怒っていませんから、怖がらないで…!」
大事にしたかっただけ、大切にしたかっただけなのに、どうして自分は、それが出来ないのだろう?
傷つきたくないという自分可愛さに望んだ願いのその裏側で、もらった温かさを無駄にするような自分も、そんなつもりはなかったと言い訳をしてしまう自分も心底嫌で、ごちゃ混ぜになった感情が溢れ出すように涙がボロボロと零れた。
「ごめんなさ…っ、ごめんなさい…!」
嫌なことを言ってしまった自分が、皆から嫌われていたかつての自分と重なり、ドクドクと脈打つ心臓の鼓動に合わせ、冷たい感覚が全身へと広がっていった。
生まれた時から、嫌われ、憎まれているのが当たり前だった。
悲しかったけど、苦しかったけど、怖かったけど、「何故?」と思うことはあっても、『そういうものだ』と諦めればそれで良かった。
『自分は嫌われ者なのだ』と認識できていたからこそ、それ以上を望むことが無かった。悩むことも無かった。それが、当然のことだったから。
最初から無いのだから、失うこともない。
だから嫌われていても、皆が向ける嫌悪感に恐怖を抱くことはあっても、嫌われていることそのものに対して恐怖を抱くことはなかった。
嫌われていることは、怖くなかったのだ。
でも、今は違う。
たくさんの情をもらった。
いっぱい優しくしてくれた。
温かい感情を、心地良い体温を、言葉を交わす楽しさを、共に笑える愛しさを───向けられる好意を嬉しいと感じる喜びを、知ってしまった。
だからこそ、自分自身のせいでそれら全てを失ってしまうかもしれない今が、恐ろしくて堪らなかった。
「嫌…っ! やだ…っ、やだ…!」
「アドニス! 落ち着け!」
嫌われたくない。また嫌われるのが怖い。
もしそんな未来が現実になったら、今度こそ心が壊れてしまう。
与えられた優しさの分だけ、それを失うことへの恐怖は募り、同時に考えてはいけない思考が脳裏を過った。
こんな気持ちになるくらいなら、いっそずっと、嫌われていたままだったなら───…
「───ッ!!」
絶対に、そんなことを思ってはいけないのに、それこそ本当に、彼らの優しさを蔑ろにするような愚かな考えなのに…一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に絶望し、洪水のように溢れ出した後悔に胸が詰まった。
「は…っ、ひ…、ゃだ…、わ、わたし…っ、ごめ、ごめんなさ…っ、ごめ…なさい…っ、ごめんなさ…っ、……ッ!」
「アドニス! 落ち着きなさい! 息を…!」
胸が苦しくて、痛くて、呼吸が上手く出来ない。
いくつもの恐怖が混じりに混じり、そこに後悔と失望、自責の念が積み重なり、心臓を押し潰した。
想像しただけで恐ろしい喪失感は脳を圧迫し、許容量を超えた感情に、何かがプツリと切れた。
「───……ぁ…」
「アドニス様!!」
「「アドニス!!」」
グラリと揺れた視界の端に、驚愕と焦りに歪んだ三人の表情が映った。
一瞬で暗くなった視界の中、響いた彼らの声に、思考がスゥッと冷静になるのが分かった。
倒れる───そう思った時にはもう、意識は途切れていた。
「………、…?」
「…ッ、アドニス様!」
真っ暗だった世界が徐々に明るくなっていく。
夜明けのように、少しずつ光が溶け出していく暗闇に、自然と瞼が開いた。
同時に、体内を巡る温かな聖気の存在に気づき、ゆるりと瞳を動かした。
「…ルカーシュカ様……イヴァニエ、様…、エルダ……?」
「アドニス…! ああ、良かった…っ」
「アドニス、大丈夫ですか? 苦しくないですか?」
「……ん…」
視界の中、泣きそうな顔をしたエルダと、安堵と不安を混ぜたような表情をしたイヴァニエとルカーシュカの姿が映った。
ふと熱を感じる方に意識を向ければ、自身の片手を二人の手が包み込むように握り締めていた。
心地良い体温と聖気の温もりにホッと息を吐き出したのも束の間、直前までの酷く取り乱していた自分を思い出し、一気に意識が覚醒した。
「…ッ、あ…」
「アドニス様、お願いです。どうかそのまま…急に動かれませんように」
反射的に起き上がろうとした体をエルダに留められ、一瞬だけ力んだ体は、ポフリと柔らかな羽毛に沈んだ。
「…ぁの……ごめん、なさい……私…」
「いや、俺達こそ悪かった。……急なことで、驚かせたな」
「ごめんなさい。あなたに掛かる負担を、推し量れませんでした……目が覚めて、本当に良かった…」
「…?」
深く息を吐くイヴァニエに違和感を覚え、エルダとルカーシュカにも目を向けるが、三人共どこか憔悴している様子に焦りが滲んだ。
「あ…あの、ご、ごめ…なさい…」
「いいえ、あなたに責がある訳ではありませんよ。……その…私達が誰か、分かりますか?」
「え…? は、はい…」
「…倒れる前のことは、覚えていますか?」
「……はい」
つい返事をする声が小さくなる。
幸か不幸か、それまでの会話の流れも、波のように押し寄せた様々な感情も、全部、覚えていた。
ただ「私達が誰か…」の質問の意図が掴めず、その言葉の意味を求めるように三人を見上げれば、エルダがベッドの傍らに膝をついた。
横たわった自分と、ほぼ同じ目線の高さになったエルダの瞳をジッと見つめる。
僅かに揺れる翠色の瞳は、だがとても真剣で、真っ直ぐにこちらを見つめ返していた。
「…アドニス様。アドニス様は長く、お眠りになられたままでした」
「…そうなの?」
「はい。意識を失われたのは、もう一月以上前のことです」
「………え?」
信じられないエルダの言葉に、目を見開く。
(一月以上…前…? そんなにずっと…眠ってたの…?)
自分としては、つい先ほどまで彼らと会話をしていて、意識が途切れてすぐに目が覚めたような感覚だったのだが、自分の知らぬ間に長い時間が過ぎ去っていたことに愕然とした。
(……あ、れ…まって…一月以上って…)
同時にあることに気づき、ハッとして縋るようにエルダを見返せば、その瞳が僅かに伏せられた。
震える睫毛の先を見つめ続ければ、意を決したように、エルダが小さく息を吸う音が聞こえた。
「……申し訳ございません。私達には、どうするべきだったのか…どうすることが、アドニス様にとっての最善だったのか、分かりませんでした」
「エルダ…」
「……明後日、フォルセの果実が実ります」
「………え…」
「アドニス様の謹慎が解けるまで……あと二日です」
目が覚めてから暫く、ようやくベッドから起き上がると、部屋を移動し、ソファーに腰を落ち着けた。
(あと、二日…)
あまりにも衝撃的な事実を、どこか他人事のように感じながら、ぼんやりと空を見つめた。
「…アドニス、大丈夫か?」
「どこか具合が悪いなら言って下さい」
「…うぅん、大丈夫…です」
両隣に座ったイヴァニエとルカーシュカに、なんとか笑みを返すが、その表情は曇ったままだ。
あれから、彼らにはたくさん謝られてしまった。
『自然と目が覚めるのを待つべきか否か』
『無理に起こすことで、余計な負担を掛けるのではないか』
『目覚めた先でまた苦しめるのではないか』
『目覚めないことが、アドニスにとっては幸せなことなのではないか』
エルダの言っていた通り、自分の為にどうするべきなのか、ずっと悩み続けて、結局答えが出ないまま、謹慎が明けるギリギリまで、判断できずにいた…と。
その上で今日を選んだのは、自分達のエゴだと、何度も何度も、謝られた。
謝ってもらうことなど何もない。
そう思うが、きっと言葉にはしないだけで、それ以外にも様々な葛藤があったのだろうことが痛いほど伝わり、自分のことを想ってくれたその気持ちだけで嬉しいと、感謝の言葉を返すのが精一杯だった。
(…でも…今日で、良かったのかもしれない)
一ヶ月以上、ごちゃごちゃとした感情と思考を抱えていたら、それこそおかしくなっていたかもしれない。
あの時倒れたのも、恐らくは溢れた感情が許容量を超え、自分では処理しきれなくなり、自己防衛から意識を手放したのだろう。
今日と明日、この二日間をどう過ごすべきなのか…未だにぼんやりとした意識のまま、ソファーに体を預けた。
ふと、やんわりと両手を握られる感覚がして頭を動かせば、イヴァニエとルカーシュカに両手を握られていた。
「まだ眠い様なら、寝てていいぞ?」
「…んん…」
「後でプティ達も招きましょう。あの子達も、とても心配していましたから…」
「…ん…」
どうしても意識を失ったところで記憶が途切れているので、いないことに疑問を感じなかったが、よくよく考えればいつもはいるはずの赤ん坊達がいないのは不思議な感じだった。
シンと静まり返った、穏やかな静寂。誰も口を開かずとも、何も喋らずとも、今はそれで良いと感じるような時間は、少しだけ落ち着かなくて、それでもどこか安心感があって、ゆるゆると思考が解け始めた。
イヴァニエも、ルカーシュカも、エルダも…自分が「命の湖に還りたい」と言ったこと、それに対して反対の意を告げたことについて、何も言おうとはしなかった。
自分が取り乱したせいで、あえてその話を避けようとしているのか…いずれにせよ、彼らの望みに反しているということは分かった。
(…分かった、けど…)
そうなれば、他に選べる道は一つしかない。
バルドル神に会って、己のことを知る───きっとそれが最善で、正しい選択なのだ。
だがそれを簡単に受け入れることは出来なかった。
その先で何が起こるのか…考えたくもない『もしも』があるかもしれないと思うだけで、怖くて怖くて堪らないのだ。
彼らが何も言わないのをいいことに、自分も何も言わない。…言えやしない。
だからこそ、ほんの少しの刺激で、たった一言で壊れてしまいそうな穏やかな静寂を壊さないように、口を噤み、二人の手の温もりにだけ集中した。
逃げているだけだと分かっている。
それでも今は、これ以上どうすることも出来なかった。
ポツリ、ポツリと言葉を交わすだけの時間が過ぎて程なく、赤ん坊達が次々と部屋の中へと入ってきた。
眠り続ける自分を心配してくれたのだろう。誰も彼もが、泣きそうな顔で胸元に飛び込んできた。
来てくれた全員を抱き止め、抱き締め、頭を撫でたが、どうしてかその顔に笑顔は戻らなかった。
「…ぁう」
「…どうしたの?」
「ん"ぅー」
抱き上げた赤子の小さな手が伸び、口元に触れた。
「…?」
「んー!」
(…どうしたんだろう?)
薄い眉を寄せ、頬を膨らませる赤ん坊は、少しばかりご機嫌斜めで、でもどうしてそんな顔をするのかが分からず戸惑った。
「…プティ、アドニスはまだ起きたばかりで、元気になるまでにはもう少し時間が掛かるんだ」
腕に抱いた赤子の頭をそっと撫でながら、諭すようにルカーシュカが呟いた。
(……私、元気…ない?)
ぼんやりとしている自覚はあったが、それほど良くない状態に見えるのだろうか?
(…いっぱい、心配してくれてる…)
向けられる優しさを嬉しいと思う反面、ギュウッと締め付けられる胸に、苦しさは増した。
その後、赤ん坊達との抱擁を繰り返す合間に、エルダが温かなミルクを用意してくれた。
久しぶりの食事だからと、カップの半分にも満たない、少しばかりの蜂蜜味のミルク。
甘やかな香りのそれは、自分の好きなもの───それなのに、どうしても口を付けることが出来ず、手の中でただ冷えていくミルクにすら、罪悪感が込み上げた。
「…アドニス様、本当によろしいのですか?」
夜、ベッドの傍らに立ち、心配そうにこちらを見つめるエルダに、コクリと頷き返した。
「大丈夫、だよ。寝る…だけだもの」
「……畏まりました」
昼間、たったの一口もミルクを飲めなかったことで、エルダには随分と心配させてしまった。
エルダだけじゃない。イヴァニエも、ルカーシュカも、赤ん坊達も、皆に心配されて…それでも、胸を刺すような苦しさに何かを飲み込む気力もなく、謝ることしか出来なかった。
そのせいで、エルダが夜も部屋に残ると言い出したのをなんとか宥め、きちんと休んでもらうようにお願いしたのが今さっきのことだ。
イヴァニエもルカーシュカも、陽が落ちる間際までずっと寄り添ってくれていたが、明後日のことも、バルドル神のことも、その話題に触れることはついぞ無かった。
「…おやすみなさいませ。アドニス様」
「おやすみ、エルダ」
パタリと静かに閉じられた扉を見つめると、ベッドの上で膝を抱えて丸まった。
自分の中ですら、考えが纏っていないのだ。時間が経って、少しは落ち着いた今ならば、改めて考えることができるはず───…
───そう思っていたのに、いくら繰り返し繰り返し考えても、気持ちが固まることはなかった。
(……なんで…)
痛いほどの静寂の中、茫然としながらへたり込む。
考えようとすればするほど、いくつもの『怖い』という感情に追いかけられ、まるで自分を守るように、途中で思考が切断されてしまうのだ。
自分のこと、他の天使達のこと、これからのこと…意識するだけで体は強張り、『怖い』という感情だけが残され、それ以外のことが考えられない。
必然的に、命の湖に還りたいという願望が顔を出すが、それを否定するように、『彼らの優しさを無駄にするのか』という叱責の声がどこからともなく聞こえ、己の願いを詰った。
同時に、険しい表情と悲しい声でこちらを見つめていた三人の顔が脳裏に浮かぶ。
そんな顔をさせてしまった自分が嫌で、自分のことしか考えていない自分が嫌で、己を責め立てる声に胸は詰まり、呼吸はどんどん苦しくなった。
望んではいけない願いなのだと、そう思い知らされ、ならば…とバルドル神と対面すること、その先を考えようとするが、そこでフツリと思考が途切れてしまう。
意識を失ったあの日、プツリと切れた何かがそのままになってしまっているかのように、新たに結び直すことも出来ない思考回路は、壊れたように何度も何度も同じことを考えては、何度も何度も恐怖と失望を頭の中で再生した。
怖くて、苦しくて、情けなくて、申し訳なくて、それでも怖くて…ぐるぐると巡る思考が積み重なるほどに、少しずつ少しずつ、考えようとする気力は擦り切れ、不安と恐怖に押し潰されていった。
「…なんで……」
何度考えようとしても纏まらない思考に、ポツリと泣き言が漏れた。
「なんでぇ…っ」
分からない。
考えれば考えるほどに、どんどんと脳は麻痺し、まともに考えることが出来なくなっていくのが分かり、その得体の知れなさに更に恐怖は増した。
「…どうして…、ゎかんない…っ」
泣き言と一緒にポロポロと涙が零れる。
「…う、ぇ…っ」
吐き出す物など何もないのに、息苦しさから嗚咽が漏れた。
(わかんない……わかんないよ…)
何が分からないのか、それすら分からない。
それでも眠れない夜の間、何回も、何十回も、答えの見つからない疑問が身体中を蝕むように、延々と思考を支配し続けた。
「アドニス様!」
「………エルダ…?」
室内に響いたエルダの声に、意識が逸れる。
いつの間に部屋の中にいたのか、ぼぅっとエルダに目を向ければ、その顔が泣きそうに歪んだ。
「…お休みに、なられていないのですか…?」
「……ぇ…?」
ふと辺りを見渡せば、カーテンの隙間からは陽の光が漏れていた。
───結局、答えも出ないまま夜が過ぎ、眠らぬままに朝を迎えていた。
その後、エルダに懇願され、勢いに気圧されるようにベッドに横になったが、数秒後にはストンと眠りに落ちた。
途中、何度か赤ん坊達に起こされ、ウトウトしながら言葉を交わし、また眠りに落ちる…そんなことを何度か繰り返している間に、陽が傾き始めていた。
「…ニス……アドニス」
「…ん……?」
「あーうー」
ゆさゆさと揺すられる感覚に、とろりと瞼を上げれば、視界の中にルカーシュカとイヴァニエ、赤ん坊達の姿が映った。
「……?」
「起こして悪いな。…少し、起きれるか?」
「……ん…はい…起きます…」
のそのそとした緩慢な動きで起き上がり、ベッドから下りれば、エルダがスッと前に出た。
「恐れ入ります。アドニス様のお召し物を整えさせて頂きますので…」
「ああ、分かった。俺達は下がっていよう」
数歩下がったルカーシュカとイヴァニエと場所を交代するように、エルダが目の前に立ち、身なりを整え、ローブを羽織らせてくれた。
「…ありがとう」
「…良く、お休みになれましたか?」
「うん……大丈夫」
正直、体も頭も重く、どこかモヤが掛かったように鈍いが、休息は取れた。
少しばかりフラフラとする足に力を入れると、イヴァニエとルカーシュカに向き合う───と、その傍らに見慣れない物があることに気づき、視線はそちらに釘付けになった。
「…それ、は…?」
寝室の片隅に飾られていたのは、目を奪われるほど綺麗な服とローブだった。
純白の服は、今身に着けている物と似た形をしているが、洗練された意匠で、裾を縁取るようにあしらわれた金糸の刺繍がささやかに煌めいていた。
なにより目を惹いたのは、胸元を彩る水色の花飾りだ。同色の小さな石が、まるで水滴のように花弁に散りばめられ、光を反射してキラキラと輝いた。
服と同じく、金糸の刺繍が施された純白のローブは、纏えば体を包み込むであろう、空気を含んだようなふんわりとした軽さが見て取れた。
真っ白なローブの表面に対し、内側は深い黒色だが、漆黒ではなく、星空をそのまま切り取ったかのように、極小の光がさざめくように輝いていた。
角度を変えるたび、動くたびにキラキラと瞬くであろうそれは表に透け、純白のローブはどこか淡い光を放っていた。
「……綺麗」
暫し見惚れ、ポツリと零れた声に、イヴァニエとルカーシュカが表情を緩めた。
「私とルカーシュカで用意しました。あなたの服ですよ」
「……私、の…?」
「お前が今着ているのは…その、夜着に近いからな。明日に備えて、きちんとした服が必要だと思ったんだ」
(……お二人が、用意して下さった…)
そう言われ、もう一度、服に視線を向け、美しい水色の花飾りと夜空色のローブを見つめた。
(……イヴァニエ様と、ルカーシュカ様の色だ)
一目で気づいた。
ブルージルコンのように柔らかな色彩を放つ花はイヴァニエ、星空のように煌めき、身を包むのはルカーシュカ…二人の瞳の色と一緒だった。
服一つでも一人ではないような、例え他の天使達の前に出ても、二人が側にいてくれるような、そんな心遣いを感じるには充分過ぎるほどだった。
(……なのに…)
それなのに、自分の為に用意してもらった物なのに、嬉しいはずなのに、これ以上無いほど安心しているのに───その気持ちを上回ったのは、もう明日という現実が目の前まで差し迫っているという絶望だった。
(……最低だ…)
考えて考えて考えて…一晩中考えて、それでも出せなかった答えを、目の前に突きつけられた気分だった。
今の自分がこの服を身に纏うのは、彼らの好意に対する裏切りになる───それが、答えだと思った。
ショックで涙も出ない。
自身への失望に、返す言葉もなく佇んでいると、イヴァニエとルカーシュカの手が両手を包み、力強く握ってくれた。
「アドニス、明日はずっと、あなたの側にいます。決して一人にはさせませんし、他の者達の声も届かせません。…不安かもしれませんが、絶対に怖い思いはさせません」
「すまない。結局、ろくに話しもできなかったな…アドニス、不安があるなら…いや、不安しかないかもしれないが、言いたいことがあれば言ってくれ。……望みがあるなら、教えてほしい」
「………」
自分の望み───それはきっと、望んではいけないことだ。
言えば、ルカーシュカもイヴァニエも、エルダも、皆を嫌な気持ちにさせる。
それが分かっていて、言えるはずなどなかった。
「……ん」
フルフルと首を横に振れば、ルカーシュカは辛そうに眉を下げた。
「……本当か? 望みでなくてもいい。言いたいことが…言っておきたいことがあれば、言ってくれていいんだぞ?」
「……大丈夫、です」
「………そうか」
苦虫を潰したような、なんとも言えない表情をしたルカーシュカだったが、それ以上問われることは無かった。
「…アドニス、明日は夕暮れ前に、皆で集まることになる。その前に、皆が集まる前に、バルドル様の元へと向かう予定だ。陽が高く昇る頃…いつもと同じ時間に、迎えに来るよ」
「移動は私とルカーシュカに任せて下さい。目を瞑っている間に、終わらせますから」
「………」
バルドル神の名が出たことで頭が真っ白になったが、体は意識に関係なく、反射的にゆっくりと頷いていた。
その様子に幾分表情を緩めた彼らに、心臓がギシリと軋むような悲鳴を上げた。
(…ごめんなさい)
自分は今、嘘の返事をしました───声に出せない謝罪が、喉の奥で静かに消えた。
少ない会話を交わした後、イヴァニエとルカーシュカは帰っていった。
自分が眠っている間も側にいてくれたらしく、起こさぬ様にと、赤ん坊達の遊び相手をしてくれていたのだという。
「また明日」と告げる二人に、こっくりと頷き、繋いでいた指先を解いた。
見送りと言ってエルダも一緒に部屋の外へと行ってしまったが、恐らくは明日のことを皆で話し合っているのだろう。
「すぐに戻りますね」という柔らかな声に頷き、三人が扉の向こう側へと向かうのを見届けると、自分の周りで戯れる赤ん坊達に視線を向けた。
───悪いことだと分かっている。
それでも、他に頼れる相手も術も知らない自分には、彼らに縋るしかなかった。
この場にいる赤ん坊は三人…力を借りるには、ぴったりな人数だった。
「……みんな、内緒のお話しが、あるんだけど…聞いてくれる?」
こちらを見上げ、「なぁに?」と首を傾げる無垢な姿に胸が痛んだが、開いた唇から、言葉が止まることはなかった。
「あのね……命の湖って…どこにあるか、知ってる…?」
その日の夜、静まり返った部屋の中、寝室の片隅に飾られた服を眺めながら、時が過ぎるのを待った。
「今日こそはお側にいます」と言うエルダを「明日はきっと大変だから、ちゃんと休んで」となんとか説得し、彼が帰るべき場所へと帰した。
ベッドには潜らず、一脚だけ置かれた椅子に腰掛けると、陽が落ちた真っ暗な部屋の中、淡く光る美しい服をぼんやりと眺めた。
昼間ずっと眠っていたせいか、目は冴えていて、静かに呼吸を繰り返すだけの時間に、どこか懐かしさを覚える。
どれほどかそうして過ごした後、ゆっくりと立ち上がった。
そこでふと、いつの頃からか毎日羽織っているのが当たり前になっていたローブの存在を思い出した。
(これは、持っていったらダメだ…)
纏っていたローブを脱ぐと、できる限り丁寧に畳み、椅子の上に置いた。
綺麗に整えられたままの寝具と、乱れの無い室内を見渡せば、気持ちが整然としていくのが分かった。
「……うん」
一つ頷くと、暗闇に慣れた薄暗い視界の中、そっと寝室を後にした。
「あ~!」
「…こんばんは」
寝室を出た足で向かった先はバルコニーだ。
いつもと変わらない、煌めく星空を眺めていると、どこからかパタパタと小さな羽の音が聞こえてきた。
「寝てなきゃいけない時間なのに…ごめんね」
「んぅ~」
「……ありがとう。少しだけ…お散歩に、付き合ってね?」
「んあ」
ニコニコと笑ってくれる赤ん坊達に罪悪感が降り積もるが、それを押し殺すように、なんとか笑ってみせた。
昼間、命の湖の場所について問うた時、赤ん坊達は一斉に『あっち』と、ある方角を指差した。
小さな指が指す方向を脳に刻みつつ、「遠い?」と聞けば、三人とも「う~ん?」と首を傾げた。遠くはないけど近くもない、ということだろう。
それだけ聞いたところで、『お願い』をした。
「…あのね、…久しぶりに、夜のお散歩がしたいの。みんな、眠ってる時間だと思うんだけど…少しだけ…ちょっとだけ……お月様が出たら、遊びに来てくれる?」
「来てくれて、ありがとう」
「だぅ」
「大丈夫!」と言うように笑う赤ん坊達と手を繋ぎ、バルコニーの端へと向かう。
そのままなんの躊躇いもなく、手摺りの向こう側へと手を引っ張る赤子達についていけば、ふわりと体が宙に浮いた。
久方ぶりの浮遊感に小さく声が漏れたが、なんとも言えない感覚に慣れる頃には、柔らかな草の上に降り立っていた。
「…ありがとう」
「ん! ん!」
「…ふふ、そうだね。久しぶりの…お散歩だね」
ぐいぐいと楽しそうに手を引く小さな手に、思わず笑みが零れる。
思えば、こうして赤ん坊達と一緒に外に出るのも、随分久しいことだと思い出す。
(最後にこの子達と一緒に外に出たのは…ルカーシュカ様と、初めて会った日なんだよね)
今となっては、懐かしいという気持ちが湧くだけなのが不思議だが、一瞬『もしも』の未来を強く意識してしまいそうになり、記憶にそっと蓋をした。
「……ゆっくり、お散歩しようか」
「んにゃ!」
きゃあきゃあとはしゃぐ赤子達に連れられ、夜の小さな花が揺れる草原をゆっくりと歩いた。
サクサクと踏み締める草の感触も、少しだけひんやりとした夜の空気も、風に乗った花の甘い香りも、ただ愛しかった。
手を繋ぎ、パタパタと周りを飛び回り、アレコレと指を指しては楽しげに話す小さな天使達の気の向くまま、白い大地の片隅を歩いた。
そうして長くも短くも感じる穏やかな時間がいくらか過ぎた頃、緩やかに足を止めた。
「…いっぱいお散歩、できたね」
「んん~…」
いつも以上にはしゃいだせいだろう。「くぁ…」と欠伸をする赤ん坊を引き寄せ、胸に抱いた。
「…ありがとう。夜なのに、呼んじゃってごめんね? …もうそろそろ、寝ないとね」
「ぷぅ…」
コクリと頷く赤ん坊達が、先ほどまでよりも弱い力で、「帰ろう」と手を引く。その小さな手をやんわりと解くと、三人に向かって笑った。
「…みんなは、もう戻っておやすみしようね? 自分は…もう少しだけ、歩いてから…戻るから」
「んぅ?」
「どうして?」と言うようにコテリと首を傾げる赤ん坊の頬をやわやわと撫でる。
「ちょっと…もう少しだけ…歩きたいなって……でも、みんなはもう、おねむだから、帰って寝ようね?」
「あぅあ?」
「うー?」
「帰れるの?」「大丈夫?」「お部屋にはどうやって戻るの?」と、手のかかる子の我が儘に困ったような顔をする赤ん坊達に苦笑する。
「…大丈夫だよ。朝になれば、お迎えが……お迎えに、来てくれるから」
『誰が』なんて言えない。
苦しい嘘だと分かっているが、「大丈夫」で突き通すしかないのだ。
「…遅くまで、ごめんね。ありがとう。…大好きだよ」
腕に抱いた赤子を抱き締め、柔らかな髪を撫で、額に唇を落とす。
「きゃふっ」
「あぁ~!」
「ふふ…二人も、ありがとう」
代わる代わる赤ん坊を腕に抱くと、同じようにキスを贈り、抱き締め、「大好きだよ」と呟く。
「ありがとう。今日は…とっても楽しかったよ。本当に、ありがとう。…おやすみなさい」
満足そうに笑った赤子達は、パタパタと嬉しそうに羽ばたくと、「おやすみ」「おやすみ」「また明日ね」と言うように、手を振りながら飛んでいった。
小さな体が見えなくなるまで、去っていく姿を見届けると、足下に視線を落とした。
(…お散歩に、付き合ってもらっただけ……だから、今から…お散歩の後に、自分だけが別の所に行っても…あの子達は、悪いことの手伝いをしたことには、ならないよね…?)
昼間、あの子達には、命の湖がある『方角』を聞いただけで、そこに行きたいとは言っていない。
今こうして外に出たのも、『散歩に行きたい』という自分の我が儘に付き合ってくれただけで、あの子達はそれ以上のことなんてしていない。
自分が勝手に、皆との散歩の後に、命の湖に向かっただけ───巻き込んではしまったけれど、そこへ向かう為の手伝いはさせていない…はずだ。
(命の湖について聞いたのは、内緒だよって言ったけど…外に出ることは内緒って言ってないから……たぶん、大丈夫)
勝手に外に出るのも、本当はダメなことなのだ。
『内緒』と言ってしまうと、あの子達がいけないことと知った上で、自分が外に出る為の手伝いをしてしまったことになる。…それは嫌だったのだ。
「………」
サァ…と草を撫でるように風が吹く。
途端に、外の世界で一人ポツンと佇んでいる現実を実感し、急激な心細さに襲われた。
今まで、外に出ることはあっても、必ず側に誰かがいてくれた。一人でいることなどなかった。
どこまでも続く大地は広くて、空は高くて、星の降る夜は静かで…独りぼっちで立つ不安と心細さに体は震え、いけないことをしているという罪悪感に胸は埋め尽くされたが、それでも今のこの状況を作り出したのは自分なのだと思えば、冷静になれた。
「………」
寂しくないはずがない。本当は寂しくて堪らない。
それでも、くるりと体の向きを変えると、赤ん坊達が指差した方面を見据えた。
(……あっちの方に、命の湖がある)
ドクドクと大きく脈打つ心臓はうるさいほどで、静かな夜の空気にもその振動が伝わってしまいそうだった。
(…いけないことだって、分かってる)
エルダも、イヴァニエも、ルカーシュカも、きっと望んでいないことだ。
───それでも、先の分からない未来が恐ろしくて、不安に押し潰され、どうにかなってしまいそうだったのだ。
自分のことを知るのが怖かった。
誰かを傷つけることも、傷つけられることも怖かった。
また嫌われてしまうかもしれない自分が怖くて、与えてもらった優しさを手放そうとする自分も嫌で…アレも嫌、コレも嫌と泣いて喚く心臓が痛くて───追い討ちをかけるような明日への絶望で、何かが壊れてしまったかのように、思考することを放棄した頭は、ただ現状から逃げ出した。
(…悪いこと、いっぱいしちゃった)
いっぱい嘘を吐いた。
黙って出てきてしまった。
自分が嫌だという我が儘だけで、勝手に行動している。
それでも、いけないことだと分かっていて、止められなかった。
(……嫌われたくないって…思ったのにな…)
嫌われたくない、また嫌われるのが怖い。
そう思っていたはずなのに、自分の行動は自分勝手で、嘘だらけで、嫌われるようなことばかりだ。
矛盾している…自分の望みがどこにあるのかも、もうよく分からなくなっていた。
(でも…これで、嫌われちゃっても……それは、自分のせいだ)
自分の知らない自分のせいじゃない。覚えていない罪でもない。
ちゃんと、きちんと、自分が自分の為に犯した罪だ───そう思えば、少しだけ胸が軽くなった。
(……馬鹿だなぁ…)
どうして、ちゃんと考えられないんだろう。
どうして、皆が望む答えを選べないのだろう。
どうして、偽りばかりを吐いてしまうのだろう。
どうして、差し伸べられた手を振り払うようなことをしてしまうのだろう。
どうして、嫌われるようなことばかりしてしまうのだろう。
どうして…自分はこんなに愚かなのだろう───延々と続く自責の念を払うように、ふるりと頭を振ると、深く息を吸い込んだ。
(正しいことじゃないって、分かってるけど……)
きっとこのまま考え込んでいたら、一歩も歩き出せない。
気力を振り絞るように片足を踏み出すと、ゆっくりと目的の場所に向けて歩き始めた。
そこへ辿り着けたとして、本当に自分がどうしたいのかなんて分からない。そもそも還り方すら知らない。
ただ今は、行きたいと願った場所へ行きたい───そんな気持ちに手を引かれ、少しずつ足取りに迷いが無くなってきた時だった。
「───アドニス様!!」
バサリと羽ばたく翼の音と、泣き声にも似た、自分の名を呼ぶエルダの声が聞こえた。
花がその命を終え、白い結晶となって大地へと還り、また花を咲かせるのと同じように、命は巡っているのだ、と…
悲しい別れでないのなら、せめて今のまま…“誰かに好きと思ってもらえる自分”という幸福を抱いたまま、還りたい───
「アドニス様…!!」
───それが自分勝手な願いだと思い知るのは、想いを口にした直後だった。
「そのような…っ、そのようなことを、仰らないで下さいませ…!」
叫ぶようなエルダの悲痛な声と、くしゃりと歪んだ顔に、凪いでいたはずの心が一瞬でざわめいた。
「エルダ…?」
「……それが、お前の望みなのか?」
「ぁ……」
厳しい眼差しでこちらを見据え、静かに問い掛けるルカーシュカに声が出なくなる。
「…駄目です。アドニス、それは……許せません」
「…ッ!」
怒りが滲んだような険しい表情のイヴァニエに、願いを否定されたことよりも、怒らせるようなことを言ってしまったことへのショックが勝った。
「え…ぅ……」
(なに…? どうして…?)
自分が間違ったことを言ってしまったのは明らかだ。
だが、怒らせてしまうようなことを言ったつもりはなかった。
命の湖に還ることは、自分の選ぶべき未来として、選択肢の中に含まれていた。なにより、命の湖に還ることそのものが、自身の判断に委ねられていたはずだ。
誰かに指図されることでも、制限されることでもない、自由な権利として与えられているもの…そう、記憶していた。
それなのに、エルダもイヴァニエもルカーシュカも、皆が眉根に皺を寄せ、表情を歪めていた。
泣き出しそうな、怒り出しそうな…そんな顔を見ていられなくて、俯きながら「どうして」と思考を巡らせた。
(怒らせた…? ど…して…? 自分は…だって…)
好きだから、好きなままでいてほしかった。
好きと思ってもらえる自分のままでいたかった。
他の天使達の前に出るのが怖かった。
自分自身のことを知るのが怖かった。
また嫌われてしまうかもしれない自分になるのが怖かった。
誰かに酷いことをしてしまう自分になってしまうのが怖かった。
何も出来ない、何も知らない、在りたいと思い描く未来すら無い。
迷惑を掛けてしまうくらいなら、嫌われてしまうくらいなら、また傷つくくらいなら…そんな気持ちで、最期を望んでしまったのがいけなかったのだろうか?
言葉にできない焦りと不安に、思考は渦巻き、息苦しさを覚えた時だった。
命の湖に還りたいという願いは、彼らが与えてくれた優しさを、無下にしているのではないだろうか?
「───ッ!」
不意に浮かんだ考えに、全身からぶわりと嫌な汗が流れ、喉の奥で引き攣ったような悲鳴が漏れた。
(ちがう…違う…!)
大事な思い出だからこそ、大切にしたい。
愛しい記憶のまま、いなくなりたい…そんな願いは、裏を返せば三人がくれたたくさんの優しさや温もりを、せっかく与えてくれた恩情を、無駄なものに変えてしまうのではないだろうか…?
「ぁ…ゃ…」
蔑ろにするつもりなんてなかった。
それなのに、嫌われるのが怖いと思っていながら、結局自分は、彼らに対してとても嫌なことを言ってしまった。
それに気づき、目の前が真っ暗になった。
「ゃだ…っ、ちが…違う…! 違う!!」
「アドニス!」
「アドニス様…!」
彼らの怒っているような表情が、自分の失言そのものを象徴している様で、自責の念から湧き上がる恐怖に体は震えた。
繋がっている彼らの体温すら、自分には過ぎたものに思えて、無意識の内に振り解こうと両腕が暴れたが、キツく結ばれた手が解けることはなかった。
「ごめんなさい…! 違う…っ、違うの! ごめんなさい…!」
「アドニス、誰も怒っていませんから、怖がらないで…!」
大事にしたかっただけ、大切にしたかっただけなのに、どうして自分は、それが出来ないのだろう?
傷つきたくないという自分可愛さに望んだ願いのその裏側で、もらった温かさを無駄にするような自分も、そんなつもりはなかったと言い訳をしてしまう自分も心底嫌で、ごちゃ混ぜになった感情が溢れ出すように涙がボロボロと零れた。
「ごめんなさ…っ、ごめんなさい…!」
嫌なことを言ってしまった自分が、皆から嫌われていたかつての自分と重なり、ドクドクと脈打つ心臓の鼓動に合わせ、冷たい感覚が全身へと広がっていった。
生まれた時から、嫌われ、憎まれているのが当たり前だった。
悲しかったけど、苦しかったけど、怖かったけど、「何故?」と思うことはあっても、『そういうものだ』と諦めればそれで良かった。
『自分は嫌われ者なのだ』と認識できていたからこそ、それ以上を望むことが無かった。悩むことも無かった。それが、当然のことだったから。
最初から無いのだから、失うこともない。
だから嫌われていても、皆が向ける嫌悪感に恐怖を抱くことはあっても、嫌われていることそのものに対して恐怖を抱くことはなかった。
嫌われていることは、怖くなかったのだ。
でも、今は違う。
たくさんの情をもらった。
いっぱい優しくしてくれた。
温かい感情を、心地良い体温を、言葉を交わす楽しさを、共に笑える愛しさを───向けられる好意を嬉しいと感じる喜びを、知ってしまった。
だからこそ、自分自身のせいでそれら全てを失ってしまうかもしれない今が、恐ろしくて堪らなかった。
「嫌…っ! やだ…っ、やだ…!」
「アドニス! 落ち着け!」
嫌われたくない。また嫌われるのが怖い。
もしそんな未来が現実になったら、今度こそ心が壊れてしまう。
与えられた優しさの分だけ、それを失うことへの恐怖は募り、同時に考えてはいけない思考が脳裏を過った。
こんな気持ちになるくらいなら、いっそずっと、嫌われていたままだったなら───…
「───ッ!!」
絶対に、そんなことを思ってはいけないのに、それこそ本当に、彼らの優しさを蔑ろにするような愚かな考えなのに…一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に絶望し、洪水のように溢れ出した後悔に胸が詰まった。
「は…っ、ひ…、ゃだ…、わ、わたし…っ、ごめ、ごめんなさ…っ、ごめ…なさい…っ、ごめんなさ…っ、……ッ!」
「アドニス! 落ち着きなさい! 息を…!」
胸が苦しくて、痛くて、呼吸が上手く出来ない。
いくつもの恐怖が混じりに混じり、そこに後悔と失望、自責の念が積み重なり、心臓を押し潰した。
想像しただけで恐ろしい喪失感は脳を圧迫し、許容量を超えた感情に、何かがプツリと切れた。
「───……ぁ…」
「アドニス様!!」
「「アドニス!!」」
グラリと揺れた視界の端に、驚愕と焦りに歪んだ三人の表情が映った。
一瞬で暗くなった視界の中、響いた彼らの声に、思考がスゥッと冷静になるのが分かった。
倒れる───そう思った時にはもう、意識は途切れていた。
「………、…?」
「…ッ、アドニス様!」
真っ暗だった世界が徐々に明るくなっていく。
夜明けのように、少しずつ光が溶け出していく暗闇に、自然と瞼が開いた。
同時に、体内を巡る温かな聖気の存在に気づき、ゆるりと瞳を動かした。
「…ルカーシュカ様……イヴァニエ、様…、エルダ……?」
「アドニス…! ああ、良かった…っ」
「アドニス、大丈夫ですか? 苦しくないですか?」
「……ん…」
視界の中、泣きそうな顔をしたエルダと、安堵と不安を混ぜたような表情をしたイヴァニエとルカーシュカの姿が映った。
ふと熱を感じる方に意識を向ければ、自身の片手を二人の手が包み込むように握り締めていた。
心地良い体温と聖気の温もりにホッと息を吐き出したのも束の間、直前までの酷く取り乱していた自分を思い出し、一気に意識が覚醒した。
「…ッ、あ…」
「アドニス様、お願いです。どうかそのまま…急に動かれませんように」
反射的に起き上がろうとした体をエルダに留められ、一瞬だけ力んだ体は、ポフリと柔らかな羽毛に沈んだ。
「…ぁの……ごめん、なさい……私…」
「いや、俺達こそ悪かった。……急なことで、驚かせたな」
「ごめんなさい。あなたに掛かる負担を、推し量れませんでした……目が覚めて、本当に良かった…」
「…?」
深く息を吐くイヴァニエに違和感を覚え、エルダとルカーシュカにも目を向けるが、三人共どこか憔悴している様子に焦りが滲んだ。
「あ…あの、ご、ごめ…なさい…」
「いいえ、あなたに責がある訳ではありませんよ。……その…私達が誰か、分かりますか?」
「え…? は、はい…」
「…倒れる前のことは、覚えていますか?」
「……はい」
つい返事をする声が小さくなる。
幸か不幸か、それまでの会話の流れも、波のように押し寄せた様々な感情も、全部、覚えていた。
ただ「私達が誰か…」の質問の意図が掴めず、その言葉の意味を求めるように三人を見上げれば、エルダがベッドの傍らに膝をついた。
横たわった自分と、ほぼ同じ目線の高さになったエルダの瞳をジッと見つめる。
僅かに揺れる翠色の瞳は、だがとても真剣で、真っ直ぐにこちらを見つめ返していた。
「…アドニス様。アドニス様は長く、お眠りになられたままでした」
「…そうなの?」
「はい。意識を失われたのは、もう一月以上前のことです」
「………え?」
信じられないエルダの言葉に、目を見開く。
(一月以上…前…? そんなにずっと…眠ってたの…?)
自分としては、つい先ほどまで彼らと会話をしていて、意識が途切れてすぐに目が覚めたような感覚だったのだが、自分の知らぬ間に長い時間が過ぎ去っていたことに愕然とした。
(……あ、れ…まって…一月以上って…)
同時にあることに気づき、ハッとして縋るようにエルダを見返せば、その瞳が僅かに伏せられた。
震える睫毛の先を見つめ続ければ、意を決したように、エルダが小さく息を吸う音が聞こえた。
「……申し訳ございません。私達には、どうするべきだったのか…どうすることが、アドニス様にとっての最善だったのか、分かりませんでした」
「エルダ…」
「……明後日、フォルセの果実が実ります」
「………え…」
「アドニス様の謹慎が解けるまで……あと二日です」
目が覚めてから暫く、ようやくベッドから起き上がると、部屋を移動し、ソファーに腰を落ち着けた。
(あと、二日…)
あまりにも衝撃的な事実を、どこか他人事のように感じながら、ぼんやりと空を見つめた。
「…アドニス、大丈夫か?」
「どこか具合が悪いなら言って下さい」
「…うぅん、大丈夫…です」
両隣に座ったイヴァニエとルカーシュカに、なんとか笑みを返すが、その表情は曇ったままだ。
あれから、彼らにはたくさん謝られてしまった。
『自然と目が覚めるのを待つべきか否か』
『無理に起こすことで、余計な負担を掛けるのではないか』
『目覚めた先でまた苦しめるのではないか』
『目覚めないことが、アドニスにとっては幸せなことなのではないか』
エルダの言っていた通り、自分の為にどうするべきなのか、ずっと悩み続けて、結局答えが出ないまま、謹慎が明けるギリギリまで、判断できずにいた…と。
その上で今日を選んだのは、自分達のエゴだと、何度も何度も、謝られた。
謝ってもらうことなど何もない。
そう思うが、きっと言葉にはしないだけで、それ以外にも様々な葛藤があったのだろうことが痛いほど伝わり、自分のことを想ってくれたその気持ちだけで嬉しいと、感謝の言葉を返すのが精一杯だった。
(…でも…今日で、良かったのかもしれない)
一ヶ月以上、ごちゃごちゃとした感情と思考を抱えていたら、それこそおかしくなっていたかもしれない。
あの時倒れたのも、恐らくは溢れた感情が許容量を超え、自分では処理しきれなくなり、自己防衛から意識を手放したのだろう。
今日と明日、この二日間をどう過ごすべきなのか…未だにぼんやりとした意識のまま、ソファーに体を預けた。
ふと、やんわりと両手を握られる感覚がして頭を動かせば、イヴァニエとルカーシュカに両手を握られていた。
「まだ眠い様なら、寝てていいぞ?」
「…んん…」
「後でプティ達も招きましょう。あの子達も、とても心配していましたから…」
「…ん…」
どうしても意識を失ったところで記憶が途切れているので、いないことに疑問を感じなかったが、よくよく考えればいつもはいるはずの赤ん坊達がいないのは不思議な感じだった。
シンと静まり返った、穏やかな静寂。誰も口を開かずとも、何も喋らずとも、今はそれで良いと感じるような時間は、少しだけ落ち着かなくて、それでもどこか安心感があって、ゆるゆると思考が解け始めた。
イヴァニエも、ルカーシュカも、エルダも…自分が「命の湖に還りたい」と言ったこと、それに対して反対の意を告げたことについて、何も言おうとはしなかった。
自分が取り乱したせいで、あえてその話を避けようとしているのか…いずれにせよ、彼らの望みに反しているということは分かった。
(…分かった、けど…)
そうなれば、他に選べる道は一つしかない。
バルドル神に会って、己のことを知る───きっとそれが最善で、正しい選択なのだ。
だがそれを簡単に受け入れることは出来なかった。
その先で何が起こるのか…考えたくもない『もしも』があるかもしれないと思うだけで、怖くて怖くて堪らないのだ。
彼らが何も言わないのをいいことに、自分も何も言わない。…言えやしない。
だからこそ、ほんの少しの刺激で、たった一言で壊れてしまいそうな穏やかな静寂を壊さないように、口を噤み、二人の手の温もりにだけ集中した。
逃げているだけだと分かっている。
それでも今は、これ以上どうすることも出来なかった。
ポツリ、ポツリと言葉を交わすだけの時間が過ぎて程なく、赤ん坊達が次々と部屋の中へと入ってきた。
眠り続ける自分を心配してくれたのだろう。誰も彼もが、泣きそうな顔で胸元に飛び込んできた。
来てくれた全員を抱き止め、抱き締め、頭を撫でたが、どうしてかその顔に笑顔は戻らなかった。
「…ぁう」
「…どうしたの?」
「ん"ぅー」
抱き上げた赤子の小さな手が伸び、口元に触れた。
「…?」
「んー!」
(…どうしたんだろう?)
薄い眉を寄せ、頬を膨らませる赤ん坊は、少しばかりご機嫌斜めで、でもどうしてそんな顔をするのかが分からず戸惑った。
「…プティ、アドニスはまだ起きたばかりで、元気になるまでにはもう少し時間が掛かるんだ」
腕に抱いた赤子の頭をそっと撫でながら、諭すようにルカーシュカが呟いた。
(……私、元気…ない?)
ぼんやりとしている自覚はあったが、それほど良くない状態に見えるのだろうか?
(…いっぱい、心配してくれてる…)
向けられる優しさを嬉しいと思う反面、ギュウッと締め付けられる胸に、苦しさは増した。
その後、赤ん坊達との抱擁を繰り返す合間に、エルダが温かなミルクを用意してくれた。
久しぶりの食事だからと、カップの半分にも満たない、少しばかりの蜂蜜味のミルク。
甘やかな香りのそれは、自分の好きなもの───それなのに、どうしても口を付けることが出来ず、手の中でただ冷えていくミルクにすら、罪悪感が込み上げた。
「…アドニス様、本当によろしいのですか?」
夜、ベッドの傍らに立ち、心配そうにこちらを見つめるエルダに、コクリと頷き返した。
「大丈夫、だよ。寝る…だけだもの」
「……畏まりました」
昼間、たったの一口もミルクを飲めなかったことで、エルダには随分と心配させてしまった。
エルダだけじゃない。イヴァニエも、ルカーシュカも、赤ん坊達も、皆に心配されて…それでも、胸を刺すような苦しさに何かを飲み込む気力もなく、謝ることしか出来なかった。
そのせいで、エルダが夜も部屋に残ると言い出したのをなんとか宥め、きちんと休んでもらうようにお願いしたのが今さっきのことだ。
イヴァニエもルカーシュカも、陽が落ちる間際までずっと寄り添ってくれていたが、明後日のことも、バルドル神のことも、その話題に触れることはついぞ無かった。
「…おやすみなさいませ。アドニス様」
「おやすみ、エルダ」
パタリと静かに閉じられた扉を見つめると、ベッドの上で膝を抱えて丸まった。
自分の中ですら、考えが纏っていないのだ。時間が経って、少しは落ち着いた今ならば、改めて考えることができるはず───…
───そう思っていたのに、いくら繰り返し繰り返し考えても、気持ちが固まることはなかった。
(……なんで…)
痛いほどの静寂の中、茫然としながらへたり込む。
考えようとすればするほど、いくつもの『怖い』という感情に追いかけられ、まるで自分を守るように、途中で思考が切断されてしまうのだ。
自分のこと、他の天使達のこと、これからのこと…意識するだけで体は強張り、『怖い』という感情だけが残され、それ以外のことが考えられない。
必然的に、命の湖に還りたいという願望が顔を出すが、それを否定するように、『彼らの優しさを無駄にするのか』という叱責の声がどこからともなく聞こえ、己の願いを詰った。
同時に、険しい表情と悲しい声でこちらを見つめていた三人の顔が脳裏に浮かぶ。
そんな顔をさせてしまった自分が嫌で、自分のことしか考えていない自分が嫌で、己を責め立てる声に胸は詰まり、呼吸はどんどん苦しくなった。
望んではいけない願いなのだと、そう思い知らされ、ならば…とバルドル神と対面すること、その先を考えようとするが、そこでフツリと思考が途切れてしまう。
意識を失ったあの日、プツリと切れた何かがそのままになってしまっているかのように、新たに結び直すことも出来ない思考回路は、壊れたように何度も何度も同じことを考えては、何度も何度も恐怖と失望を頭の中で再生した。
怖くて、苦しくて、情けなくて、申し訳なくて、それでも怖くて…ぐるぐると巡る思考が積み重なるほどに、少しずつ少しずつ、考えようとする気力は擦り切れ、不安と恐怖に押し潰されていった。
「…なんで……」
何度考えようとしても纏まらない思考に、ポツリと泣き言が漏れた。
「なんでぇ…っ」
分からない。
考えれば考えるほどに、どんどんと脳は麻痺し、まともに考えることが出来なくなっていくのが分かり、その得体の知れなさに更に恐怖は増した。
「…どうして…、ゎかんない…っ」
泣き言と一緒にポロポロと涙が零れる。
「…う、ぇ…っ」
吐き出す物など何もないのに、息苦しさから嗚咽が漏れた。
(わかんない……わかんないよ…)
何が分からないのか、それすら分からない。
それでも眠れない夜の間、何回も、何十回も、答えの見つからない疑問が身体中を蝕むように、延々と思考を支配し続けた。
「アドニス様!」
「………エルダ…?」
室内に響いたエルダの声に、意識が逸れる。
いつの間に部屋の中にいたのか、ぼぅっとエルダに目を向ければ、その顔が泣きそうに歪んだ。
「…お休みに、なられていないのですか…?」
「……ぇ…?」
ふと辺りを見渡せば、カーテンの隙間からは陽の光が漏れていた。
───結局、答えも出ないまま夜が過ぎ、眠らぬままに朝を迎えていた。
その後、エルダに懇願され、勢いに気圧されるようにベッドに横になったが、数秒後にはストンと眠りに落ちた。
途中、何度か赤ん坊達に起こされ、ウトウトしながら言葉を交わし、また眠りに落ちる…そんなことを何度か繰り返している間に、陽が傾き始めていた。
「…ニス……アドニス」
「…ん……?」
「あーうー」
ゆさゆさと揺すられる感覚に、とろりと瞼を上げれば、視界の中にルカーシュカとイヴァニエ、赤ん坊達の姿が映った。
「……?」
「起こして悪いな。…少し、起きれるか?」
「……ん…はい…起きます…」
のそのそとした緩慢な動きで起き上がり、ベッドから下りれば、エルダがスッと前に出た。
「恐れ入ります。アドニス様のお召し物を整えさせて頂きますので…」
「ああ、分かった。俺達は下がっていよう」
数歩下がったルカーシュカとイヴァニエと場所を交代するように、エルダが目の前に立ち、身なりを整え、ローブを羽織らせてくれた。
「…ありがとう」
「…良く、お休みになれましたか?」
「うん……大丈夫」
正直、体も頭も重く、どこかモヤが掛かったように鈍いが、休息は取れた。
少しばかりフラフラとする足に力を入れると、イヴァニエとルカーシュカに向き合う───と、その傍らに見慣れない物があることに気づき、視線はそちらに釘付けになった。
「…それ、は…?」
寝室の片隅に飾られていたのは、目を奪われるほど綺麗な服とローブだった。
純白の服は、今身に着けている物と似た形をしているが、洗練された意匠で、裾を縁取るようにあしらわれた金糸の刺繍がささやかに煌めいていた。
なにより目を惹いたのは、胸元を彩る水色の花飾りだ。同色の小さな石が、まるで水滴のように花弁に散りばめられ、光を反射してキラキラと輝いた。
服と同じく、金糸の刺繍が施された純白のローブは、纏えば体を包み込むであろう、空気を含んだようなふんわりとした軽さが見て取れた。
真っ白なローブの表面に対し、内側は深い黒色だが、漆黒ではなく、星空をそのまま切り取ったかのように、極小の光がさざめくように輝いていた。
角度を変えるたび、動くたびにキラキラと瞬くであろうそれは表に透け、純白のローブはどこか淡い光を放っていた。
「……綺麗」
暫し見惚れ、ポツリと零れた声に、イヴァニエとルカーシュカが表情を緩めた。
「私とルカーシュカで用意しました。あなたの服ですよ」
「……私、の…?」
「お前が今着ているのは…その、夜着に近いからな。明日に備えて、きちんとした服が必要だと思ったんだ」
(……お二人が、用意して下さった…)
そう言われ、もう一度、服に視線を向け、美しい水色の花飾りと夜空色のローブを見つめた。
(……イヴァニエ様と、ルカーシュカ様の色だ)
一目で気づいた。
ブルージルコンのように柔らかな色彩を放つ花はイヴァニエ、星空のように煌めき、身を包むのはルカーシュカ…二人の瞳の色と一緒だった。
服一つでも一人ではないような、例え他の天使達の前に出ても、二人が側にいてくれるような、そんな心遣いを感じるには充分過ぎるほどだった。
(……なのに…)
それなのに、自分の為に用意してもらった物なのに、嬉しいはずなのに、これ以上無いほど安心しているのに───その気持ちを上回ったのは、もう明日という現実が目の前まで差し迫っているという絶望だった。
(……最低だ…)
考えて考えて考えて…一晩中考えて、それでも出せなかった答えを、目の前に突きつけられた気分だった。
今の自分がこの服を身に纏うのは、彼らの好意に対する裏切りになる───それが、答えだと思った。
ショックで涙も出ない。
自身への失望に、返す言葉もなく佇んでいると、イヴァニエとルカーシュカの手が両手を包み、力強く握ってくれた。
「アドニス、明日はずっと、あなたの側にいます。決して一人にはさせませんし、他の者達の声も届かせません。…不安かもしれませんが、絶対に怖い思いはさせません」
「すまない。結局、ろくに話しもできなかったな…アドニス、不安があるなら…いや、不安しかないかもしれないが、言いたいことがあれば言ってくれ。……望みがあるなら、教えてほしい」
「………」
自分の望み───それはきっと、望んではいけないことだ。
言えば、ルカーシュカもイヴァニエも、エルダも、皆を嫌な気持ちにさせる。
それが分かっていて、言えるはずなどなかった。
「……ん」
フルフルと首を横に振れば、ルカーシュカは辛そうに眉を下げた。
「……本当か? 望みでなくてもいい。言いたいことが…言っておきたいことがあれば、言ってくれていいんだぞ?」
「……大丈夫、です」
「………そうか」
苦虫を潰したような、なんとも言えない表情をしたルカーシュカだったが、それ以上問われることは無かった。
「…アドニス、明日は夕暮れ前に、皆で集まることになる。その前に、皆が集まる前に、バルドル様の元へと向かう予定だ。陽が高く昇る頃…いつもと同じ時間に、迎えに来るよ」
「移動は私とルカーシュカに任せて下さい。目を瞑っている間に、終わらせますから」
「………」
バルドル神の名が出たことで頭が真っ白になったが、体は意識に関係なく、反射的にゆっくりと頷いていた。
その様子に幾分表情を緩めた彼らに、心臓がギシリと軋むような悲鳴を上げた。
(…ごめんなさい)
自分は今、嘘の返事をしました───声に出せない謝罪が、喉の奥で静かに消えた。
少ない会話を交わした後、イヴァニエとルカーシュカは帰っていった。
自分が眠っている間も側にいてくれたらしく、起こさぬ様にと、赤ん坊達の遊び相手をしてくれていたのだという。
「また明日」と告げる二人に、こっくりと頷き、繋いでいた指先を解いた。
見送りと言ってエルダも一緒に部屋の外へと行ってしまったが、恐らくは明日のことを皆で話し合っているのだろう。
「すぐに戻りますね」という柔らかな声に頷き、三人が扉の向こう側へと向かうのを見届けると、自分の周りで戯れる赤ん坊達に視線を向けた。
───悪いことだと分かっている。
それでも、他に頼れる相手も術も知らない自分には、彼らに縋るしかなかった。
この場にいる赤ん坊は三人…力を借りるには、ぴったりな人数だった。
「……みんな、内緒のお話しが、あるんだけど…聞いてくれる?」
こちらを見上げ、「なぁに?」と首を傾げる無垢な姿に胸が痛んだが、開いた唇から、言葉が止まることはなかった。
「あのね……命の湖って…どこにあるか、知ってる…?」
その日の夜、静まり返った部屋の中、寝室の片隅に飾られた服を眺めながら、時が過ぎるのを待った。
「今日こそはお側にいます」と言うエルダを「明日はきっと大変だから、ちゃんと休んで」となんとか説得し、彼が帰るべき場所へと帰した。
ベッドには潜らず、一脚だけ置かれた椅子に腰掛けると、陽が落ちた真っ暗な部屋の中、淡く光る美しい服をぼんやりと眺めた。
昼間ずっと眠っていたせいか、目は冴えていて、静かに呼吸を繰り返すだけの時間に、どこか懐かしさを覚える。
どれほどかそうして過ごした後、ゆっくりと立ち上がった。
そこでふと、いつの頃からか毎日羽織っているのが当たり前になっていたローブの存在を思い出した。
(これは、持っていったらダメだ…)
纏っていたローブを脱ぐと、できる限り丁寧に畳み、椅子の上に置いた。
綺麗に整えられたままの寝具と、乱れの無い室内を見渡せば、気持ちが整然としていくのが分かった。
「……うん」
一つ頷くと、暗闇に慣れた薄暗い視界の中、そっと寝室を後にした。
「あ~!」
「…こんばんは」
寝室を出た足で向かった先はバルコニーだ。
いつもと変わらない、煌めく星空を眺めていると、どこからかパタパタと小さな羽の音が聞こえてきた。
「寝てなきゃいけない時間なのに…ごめんね」
「んぅ~」
「……ありがとう。少しだけ…お散歩に、付き合ってね?」
「んあ」
ニコニコと笑ってくれる赤ん坊達に罪悪感が降り積もるが、それを押し殺すように、なんとか笑ってみせた。
昼間、命の湖の場所について問うた時、赤ん坊達は一斉に『あっち』と、ある方角を指差した。
小さな指が指す方向を脳に刻みつつ、「遠い?」と聞けば、三人とも「う~ん?」と首を傾げた。遠くはないけど近くもない、ということだろう。
それだけ聞いたところで、『お願い』をした。
「…あのね、…久しぶりに、夜のお散歩がしたいの。みんな、眠ってる時間だと思うんだけど…少しだけ…ちょっとだけ……お月様が出たら、遊びに来てくれる?」
「来てくれて、ありがとう」
「だぅ」
「大丈夫!」と言うように笑う赤ん坊達と手を繋ぎ、バルコニーの端へと向かう。
そのままなんの躊躇いもなく、手摺りの向こう側へと手を引っ張る赤子達についていけば、ふわりと体が宙に浮いた。
久方ぶりの浮遊感に小さく声が漏れたが、なんとも言えない感覚に慣れる頃には、柔らかな草の上に降り立っていた。
「…ありがとう」
「ん! ん!」
「…ふふ、そうだね。久しぶりの…お散歩だね」
ぐいぐいと楽しそうに手を引く小さな手に、思わず笑みが零れる。
思えば、こうして赤ん坊達と一緒に外に出るのも、随分久しいことだと思い出す。
(最後にこの子達と一緒に外に出たのは…ルカーシュカ様と、初めて会った日なんだよね)
今となっては、懐かしいという気持ちが湧くだけなのが不思議だが、一瞬『もしも』の未来を強く意識してしまいそうになり、記憶にそっと蓋をした。
「……ゆっくり、お散歩しようか」
「んにゃ!」
きゃあきゃあとはしゃぐ赤子達に連れられ、夜の小さな花が揺れる草原をゆっくりと歩いた。
サクサクと踏み締める草の感触も、少しだけひんやりとした夜の空気も、風に乗った花の甘い香りも、ただ愛しかった。
手を繋ぎ、パタパタと周りを飛び回り、アレコレと指を指しては楽しげに話す小さな天使達の気の向くまま、白い大地の片隅を歩いた。
そうして長くも短くも感じる穏やかな時間がいくらか過ぎた頃、緩やかに足を止めた。
「…いっぱいお散歩、できたね」
「んん~…」
いつも以上にはしゃいだせいだろう。「くぁ…」と欠伸をする赤ん坊を引き寄せ、胸に抱いた。
「…ありがとう。夜なのに、呼んじゃってごめんね? …もうそろそろ、寝ないとね」
「ぷぅ…」
コクリと頷く赤ん坊達が、先ほどまでよりも弱い力で、「帰ろう」と手を引く。その小さな手をやんわりと解くと、三人に向かって笑った。
「…みんなは、もう戻っておやすみしようね? 自分は…もう少しだけ、歩いてから…戻るから」
「んぅ?」
「どうして?」と言うようにコテリと首を傾げる赤ん坊の頬をやわやわと撫でる。
「ちょっと…もう少しだけ…歩きたいなって……でも、みんなはもう、おねむだから、帰って寝ようね?」
「あぅあ?」
「うー?」
「帰れるの?」「大丈夫?」「お部屋にはどうやって戻るの?」と、手のかかる子の我が儘に困ったような顔をする赤ん坊達に苦笑する。
「…大丈夫だよ。朝になれば、お迎えが……お迎えに、来てくれるから」
『誰が』なんて言えない。
苦しい嘘だと分かっているが、「大丈夫」で突き通すしかないのだ。
「…遅くまで、ごめんね。ありがとう。…大好きだよ」
腕に抱いた赤子を抱き締め、柔らかな髪を撫で、額に唇を落とす。
「きゃふっ」
「あぁ~!」
「ふふ…二人も、ありがとう」
代わる代わる赤ん坊を腕に抱くと、同じようにキスを贈り、抱き締め、「大好きだよ」と呟く。
「ありがとう。今日は…とっても楽しかったよ。本当に、ありがとう。…おやすみなさい」
満足そうに笑った赤子達は、パタパタと嬉しそうに羽ばたくと、「おやすみ」「おやすみ」「また明日ね」と言うように、手を振りながら飛んでいった。
小さな体が見えなくなるまで、去っていく姿を見届けると、足下に視線を落とした。
(…お散歩に、付き合ってもらっただけ……だから、今から…お散歩の後に、自分だけが別の所に行っても…あの子達は、悪いことの手伝いをしたことには、ならないよね…?)
昼間、あの子達には、命の湖がある『方角』を聞いただけで、そこに行きたいとは言っていない。
今こうして外に出たのも、『散歩に行きたい』という自分の我が儘に付き合ってくれただけで、あの子達はそれ以上のことなんてしていない。
自分が勝手に、皆との散歩の後に、命の湖に向かっただけ───巻き込んではしまったけれど、そこへ向かう為の手伝いはさせていない…はずだ。
(命の湖について聞いたのは、内緒だよって言ったけど…外に出ることは内緒って言ってないから……たぶん、大丈夫)
勝手に外に出るのも、本当はダメなことなのだ。
『内緒』と言ってしまうと、あの子達がいけないことと知った上で、自分が外に出る為の手伝いをしてしまったことになる。…それは嫌だったのだ。
「………」
サァ…と草を撫でるように風が吹く。
途端に、外の世界で一人ポツンと佇んでいる現実を実感し、急激な心細さに襲われた。
今まで、外に出ることはあっても、必ず側に誰かがいてくれた。一人でいることなどなかった。
どこまでも続く大地は広くて、空は高くて、星の降る夜は静かで…独りぼっちで立つ不安と心細さに体は震え、いけないことをしているという罪悪感に胸は埋め尽くされたが、それでも今のこの状況を作り出したのは自分なのだと思えば、冷静になれた。
「………」
寂しくないはずがない。本当は寂しくて堪らない。
それでも、くるりと体の向きを変えると、赤ん坊達が指差した方面を見据えた。
(……あっちの方に、命の湖がある)
ドクドクと大きく脈打つ心臓はうるさいほどで、静かな夜の空気にもその振動が伝わってしまいそうだった。
(…いけないことだって、分かってる)
エルダも、イヴァニエも、ルカーシュカも、きっと望んでいないことだ。
───それでも、先の分からない未来が恐ろしくて、不安に押し潰され、どうにかなってしまいそうだったのだ。
自分のことを知るのが怖かった。
誰かを傷つけることも、傷つけられることも怖かった。
また嫌われてしまうかもしれない自分が怖くて、与えてもらった優しさを手放そうとする自分も嫌で…アレも嫌、コレも嫌と泣いて喚く心臓が痛くて───追い討ちをかけるような明日への絶望で、何かが壊れてしまったかのように、思考することを放棄した頭は、ただ現状から逃げ出した。
(…悪いこと、いっぱいしちゃった)
いっぱい嘘を吐いた。
黙って出てきてしまった。
自分が嫌だという我が儘だけで、勝手に行動している。
それでも、いけないことだと分かっていて、止められなかった。
(……嫌われたくないって…思ったのにな…)
嫌われたくない、また嫌われるのが怖い。
そう思っていたはずなのに、自分の行動は自分勝手で、嘘だらけで、嫌われるようなことばかりだ。
矛盾している…自分の望みがどこにあるのかも、もうよく分からなくなっていた。
(でも…これで、嫌われちゃっても……それは、自分のせいだ)
自分の知らない自分のせいじゃない。覚えていない罪でもない。
ちゃんと、きちんと、自分が自分の為に犯した罪だ───そう思えば、少しだけ胸が軽くなった。
(……馬鹿だなぁ…)
どうして、ちゃんと考えられないんだろう。
どうして、皆が望む答えを選べないのだろう。
どうして、偽りばかりを吐いてしまうのだろう。
どうして、差し伸べられた手を振り払うようなことをしてしまうのだろう。
どうして、嫌われるようなことばかりしてしまうのだろう。
どうして…自分はこんなに愚かなのだろう───延々と続く自責の念を払うように、ふるりと頭を振ると、深く息を吸い込んだ。
(正しいことじゃないって、分かってるけど……)
きっとこのまま考え込んでいたら、一歩も歩き出せない。
気力を振り絞るように片足を踏み出すと、ゆっくりと目的の場所に向けて歩き始めた。
そこへ辿り着けたとして、本当に自分がどうしたいのかなんて分からない。そもそも還り方すら知らない。
ただ今は、行きたいと願った場所へ行きたい───そんな気持ちに手を引かれ、少しずつ足取りに迷いが無くなってきた時だった。
「───アドニス様!!」
バサリと羽ばたく翼の音と、泣き声にも似た、自分の名を呼ぶエルダの声が聞こえた。
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