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フォルセの果実
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「ソファー…変えるの?」
「はい」
「…今のも、好きだよ?」
「お気に召して頂けて喜ばしい限りです。ですが今後、ルカーシュカ様やイヴァニエ様と並んで座られる時に、今のままではアドニス様がお困りになるかと思いますので…」
「…? そうなの?」
「はい」
イヴァニエとルカーシュカの来訪を前に、なにやら試行錯誤を繰り返すエルダ。その姿を目で追いながら、代わりに用意された椅子に座り、朝の日課であるミルクをくぴりと飲んだ。
色形の異なる敷物やソファーを何回も入れ替え、位置を変え、考え込むようにジッと見つめると、また動かし…ということをエルダは何度も繰り返した。
必要な作業らしいが、なぜ必要なのか分からず、かと言って邪魔をする訳にもいかないので、大人しくその様子を眺めながら、作業が終わるのを待った。
「……これで良いでしょう」
暫くしてポツリと呟かれた声は、どこか満足げだった。
エルダの動きが止まったのを確認すると、そそっと側に寄り、様変わりした一帯を一緒に眺めた。
ソファーは形も大きさも変わり、足元の敷物は毛足は短くなったが、ふわふわとした柔らかさは増していた。
淡い色合いはそのままだが、随分と雰囲気の変わったソファー周りに、感嘆の溜め息が零れる。
「…素敵だね」
「ありがとうございます」
「でも、なんで変えたの?」
「…お二人がお越しになれば、分かりますよ」
「…?」
淡く微笑むエルダは、それ以上答えてくれず、そうこうしている間に二人が来訪する時間を迎えた。
「ようこそ、おいで下さいました」
イヴァニエとルカーシュカを出迎えるエルダ。その様子を、少し後ろに下がったところで見つめながら、彼らが部屋の中へ入って来るのを待った。
昨日も顔は合わせているのだが、きちんと時間を取って会うのは久しぶりだ。
イヴァニエとルカーシュカが揃っている姿を、そわそわと落ち着かない気持ちで待っていると、二人とパチリと目が合った。
「お出迎えですか?」
「う…」
「ふふ、ありがとうございます」
足早に近づいてきたイヴァニエに驚きつつ、コクコクと頷けば、嬉しそうに微笑んでくれた。
「おい、驚いてるぞ。…大丈夫か?」
「…、はい」
「ならいい」
そう言って表情を和らげたルカーシュカが差し出してくれた手を取れば、同じようにイヴァニエからも手を差し出され、反射的にその手を取った。
(…あ)
イヴァニエとルカーシュカ、二人の間に立ち、両手を繋いでいる状態にはたと気づき、妙にむず痒い気持ちになる。
訳もなく視線を彷徨わせている間に、エルダがソファーへと二人を誘い、両の手を引かれるように共に歩いた。
「こちらへどうぞ」
「随分と変わったな」
「…お話し中、アドニス様がお困りになるかと思いまして」
「……ああ、なるほど」
「?」
「アドニス、お座りなさい」
「は、はい…」
何か分かり合っているエルダとルカーシュカを横目に、イヴァニエに促されるまま腰を下ろせば、隣にイヴァニエが、その逆隣にルカーシュカが座った。
(…真ん中だ)
手を繋いでいたからだろう。自然と両隣にイヴァニエとルカーシュカが座る形になった。
膝が触れ合うほどの近さは、相手の体温も伝わってきて、嬉しいような恥ずかしいような、一層落ち着かない気持ちにさせた。
「……ぁ」
そこでふと、ソファーの形が変わったことで、真横を向かなくとも左右にいる二人の顔が視界の端に映ることに気づき、小さく声が漏れた。
(もしかして、エルダが色々変えてたのって…)
パッとエルダに視線を向ければ、目が合った彼は、こちらの考えを読んだように笑んでくれた。
(…エルダはすごいなぁ)
たまたま自分が二人の間に座ることになったのに、それも見越して、朝から色々と準備をしてくれていたことに感謝と感心の念が湧き、言葉の代わりに笑みを返した。
「…アドニス」
「…っ」
繋いでいた手にキュッと力が込められ、視線をエルダから外せば、僅かに強張った表情のルカーシュカと目が合った。
「今日は少しだけ……これから先のことについて、話しをしようか」
「…これから…?」
これから先とは、どういう意味だろうか?
ルカーシュカの声は硬く、紅茶を飲みながらゆったりと過ごす時間に聞くそれとは違う声音に、僅かに緊張が走った。
「アドニス、そんな顔をしなくても大丈夫ですよ」
きっと情けない顔をしているのだろう。
優し気に笑うイヴァニエだが、そんな彼にも、薄い緊張の色が浮かんでいた。
(…真面目なお話だから、今日はあの子達がいないんだ…)
朝の時間だけ居た赤ん坊達は、ルカーシュカ達が来る前に部屋から出されてしまった。
どうして今日は…とエルダに聞いたのだが、「少しだけ、お外で遊んでいてもらいましょうね」と明確な答えは避けられてしまったのだ。
何か良くない話しになるのだろうか…気持ちに比例して下がる視線を遮るように、ルカーシュカが顔を覗き込んだ。
「まだなんの話もしてないぞ?」
「ぅ…」
殊更柔らかな、あやすような声に顔を上げれば、イヴァニエもルカーシュカも、困ったように笑っていた。
「あの、こ、これから…て…?」
「…その前に、少し試したいことがあるのですが、付き合ってもらえますか?」
「…? はい…」
「ありがとうございます。…早速ですが、アドニスに私とルカーシュカから、それぞれ聖気を送ってみたいと思います」
「…聖気を…?」
「随分前に……その、お前を起こす為に、聖気を送ったことがあっただろう?」
「あ…」
言われているのは、いつかの衝撃的な再会のことだろう。
二人と近しい距離で話すようになった今、随分と薄れた記憶を掘り起こして感じるのは、恐怖心ではなく、泣き叫んで取り乱した自身への羞恥心だった。
「あ、あの時は…ごめんなさい…」
「謝らなくていい。…思い出しても平気か?」
「はい」
「なら良かった。…悪いが、あの時みたいに、俺とイヴァニエの聖気をお前の体に送りたいんだが…いいだろうか?」
「? …はい」
コクリと頷きながら、その必要性が分からず首を捻る。
(聖気なら、あると思うんだけど…?)
以前の自分は聖気がとても少なく、体を動かすのがやっとの量だったが、今では食事を摂ることで少しずつ回復しているはずだ。
わざわざ彼らに分けてもらう必要はないのでは…と思いつつ、何か意味があるのだろうと口を噤んだ。
「えっと…お願い、します」
「すまない。なるべく弱い力で試してみるが、苦しいと思ったらすぐに言ってくれ」
「え?」
思ってもいなかったルカーシュカの発言に目を丸くする。
(苦しい…? あれ…でも、あれは確か…)
記憶とルカーシュカの言葉が結びつかず、戸惑っている間に、両の手を握る二人の手に力が籠った。
「いくぞ」
「嫌だと思ったら、構わず手を払って下さい」
「え…う…う?」
聖気を送られることに対して、なんだか自分と彼らで温度が違う気がする。
訳も分からず怯みながら、何かとんでもない衝撃があるのかと身構え、ギュッと目を瞑った。
「………?」
しかし、いつまで待っても考えていたような衝撃は訪れず、そろそろと目を開いた。
繋いだ手からじわじわと溢れ出すような、体温以外の熱。その熱が、少しずつ少しずつ、手から、腕から、体の内側を流れていくような心地良さだけがあった。
(…気持ちいい)
繋いだ手を通り、体の深いところからじんわりと熱を帯びるような感覚に、身構えていた体からは力が抜け、心地良さからホッと息を吐いた。
(…やっぱり、あったくて気持ちいい)
あの時も、同じ感覚だった。
指の先まで冷え切り、少しも動かせなかった体を内側から温め、蘇らせてくれた二人分の熱。
苦しいと感じることもなく、ただ温かくて、気持ち良い…もっと言えば、とても好きな感覚だった。
「……大丈夫ですか?」
「はい」
心地良さに身を委ねていると、イヴァニエにそっと声を掛けられた。
「苦しさなどは感じませんか?」
「? …はい」
「…まったく?」
「はい」
「…もう少し、強めに送ってもいいか?」
「はい」
コクコクと返事をすれば、イヴァニエとルカーシュカが互いに顔を見合わせ、軽く頷き合った。
直後、体の中を流れる熱量が少しだけ強くなったが、それ以外は何も変わらなかった。
「どうだ?」
「きもちいい、です」
「……気持ちいい?」
「あったかくて、気持ちいい…です」
ともすれば眠ってしまいそうな心地良さに、へにゃりと笑えば、二人とも驚いたような表情に変わった。
「あの…?」
「…いや……エルダ」
「はい」
「お前も試してくれ」
「畏まりました」
ルカーシュカの横に控えるように立っていたエルダが、目の前まで来るとその場に膝をついた。
「アドニス様、御手を」
「ん…」
するりと解けたルカーシュカの手から代わるように、エルダの細い手が指先を包むように握った。
その数秒後、手の平がじんわりと熱を帯び始め、先の二人よりも弱いが、確かに温かく感じるものが体の中を巡る感覚がした。
ゆっくりと体内を巡る微弱なそれは、まるで体の内側をサワサワと撫でるような擽ったさで、堪らず身を捩った。
「ふふ」
「アドニス様?」
「ふ…ごめんね、擽ったくて…」
「…擽ったいですか?」
「あ…えっと…こしょこしょって、するけど…あったかくて、気持ちいいよ」
眉を下げたエルダに、慌てて言葉を足す。自分だけ違うような感想を聞かされれば、不安にもなるだろう。
「エルダも同じですか…」
「弾かれるような感覚はあったか?」
「いいえ。まったくございませんでした」
「とすると、やはり…」
「…?」
穏やかな温もりとは反対に、何かを確信したような三人の表情は真剣だ。
口を挟めるような雰囲気でもなく、今の行為で何が分かったのか、聞けぬままオロオロと視線を三方へと向けた。
「ああ、勝手に話しを進めてしまってごめんなさい」
「んん…」
「体は、大丈夫ですか?」
「はい」
「…良かったです」
いつの間にか途切れていた熱だが、繋いだままの手は温かく、ホッと気を緩めた時だった。
「…やはり、先にバルドル様にお目通りしておくべきだろう」
「え…?」
静かに呟かれた言葉に、咄嗟に声が漏れた。
「……神、様…?」
「ええ、神様です。…覚えていないかもしれませんが、この前も少しだけ、そのお話しをしたんですよ?」
「え…」
イヴァニエからそう言われても、いつのことを言っているのか分からない。
呆けている間にルカーシュカが真っ直ぐにこちらを見据えていることに気づき、その眼差しの強さにドキリと心臓が鳴った。
「アドニス、もうじき、お前の謹慎が解ける。…この部屋の外に、出なければいけなくなるんだ」
「…ッ!」
突然の発言に息を呑み、目を見開く。
何か考えるよりも先に、ただ本能的にそれを拒絶しようとした体が竦み上がり、逃げようと後ろに下がった。
「アドニス様!」
「アドニス…ッ」
だがそれも、繋いでいたエルダとイヴァニエの手によって引き止められた。
「ぁ…」
「アドニス、大丈夫ですから。怖がらないで下さい」
イヴェニエの両手に包まれ、その中で指を動かせないほどぎゅうっと握り締められた手に、安心感から少しだけ落ち着きを取り戻すが、体の強張りは解けなかった。
「…悪い。怖がらせるつもりはなかったんだが…謹慎は永遠じゃない。ちゃんと、終わりがあるんだ」
───与えられた罰には終わりがある。
『罰』としてこの部屋に留まっている感覚はとうになく、誰も来ない安全な場所として認識していた脳は、本来喜ばしいことであるはずの解放を拒んだ。
「ゃ…やだ…」
「アドニス、お前が怖がる気持ちは分かるよ。だからこそ先に、バルドル様にお会いした方がいいと思うんだ」
「……どうして?」
部屋の外に出ることと、神に会うことは異なるのだろうか?
恐々と問えば、ルカーシュカに代わってイヴァニエが答えてくれた。
「…アドニス。私達の目には、今のあなたが、以前のアドニスとは別人に見えるんです」
「───」
───なんの前触れもなく、自分すら避けていた問題の核心部に触れられ、息が止まった。
「性格も言葉遣いも仕草も…記憶の欠如だけでは説明できないほど違う。記憶の欠如も、とても不自然なんです」
今まで気づいていても、誰も…エルダもルカーシュカもイヴァニエも、何も言わずにいてくれた、自分自身ですら分かっていなかった自分のこと───なんの守りもなく、剥き出しのままだったそこを鷲掴みにされたような衝撃に、胸が苦しくなった。
「ぁ……ご…ごめ…」
「違う、違うんです。アドニス、あなたを責めている訳ではありません。あなた自身、自分のことが分からないと苦しんでいるのに、それを説明しろだなんて理不尽なことは言いません。それを悪いことだなんて思っていません。…そんな泣きそうな顔をしないで下さい」
「っ…」
イヴァニエの片手が、包むように頬に触れた。
肌から伝わる温もりに、それこそ泣きそうになってしまい、唇を柔く噛んだ。
「…アドニス。謹慎が解けたら、皆の前に出なければいけなくなる。だが今のままでは、ただお前が傷つき、怖い思いをするだけだ。勿論、俺もイヴァニエも側にいるが、なによりお前が無駄に傷つけられない為の護りが必要だ」
「護り…?」
ルカーシュカの言葉は実直で、だからこそ現実味があり、確実にその時が近づいているのだと理解するには充分だった。
この部屋を出ること、他の大天使達の前に出なければいけなくなること…想像しただけで震えそうになる体を、グッと堪えた。
「バルドル様なら、お前の聖気に残った記憶を読むことが出来る。そうすれば、お前の身に何が起こったのか、今のお前がどういう状態なのか、知ることが出来るはずだ」
「え…」
「記憶が欠如しているだけなのか、もっと別の原因があるのか…どちらにせよ、何も分からない状態のお前を、この部屋から出したくないのは俺達も一緒だ。せめて現状を把握するだけ、それだけでも分かれば、これからの他の者達との関わり方も大きく変わってくるはずだ。その為に、まずはバルドル様に会ってほしい。場合によっては、他の者達との接触も避けられるかもしれない」
「…!」
“他の物達との接触を避けられる”───会わなくても済むかもしれないという言葉に、心がスゥッと軽くなる。
決して他の天使達を嫌っている訳ではない。
ただ怖いという気持ちはすぐには変えられない。会わなくて済むのなら…と、どうしても思ってしまうのだ。
(バルドル、様…)
今までも、エルダから何度かバルドル神の名を聞くことがあった。
会話の中で、その名を持つ人が、血溜まりの中、激痛で息をすることすら苦しかった背中の傷を癒し、痛みを和らげてくれた黒髪の美丈夫だと知ったのは、少し前のことだ。
(…バルドル様は……怖くなかった…)
一番最初の、『自分』という個が持っている初めての記憶。
全身を刺すような恐怖と、心臓が潰れてしまいそうなほどの絶望の中で、バルドル神だけが、哀れみと悲しみの情だけを自分に向けていた。
あの方なら、バルドル神なら、会っても大丈夫な気がする───そう思い、口を開きかけてハッとした。
(……バルドル様に会って…それでもし……自分が、以前の自分と…おんなじ存在だったら……?)
誰からも嫌われ、疎まれ、蔑まれていた『アドニス』
もしも『アドニス』と自分が、何も変わらない、同じ存在だったら?
もし記憶を失っているだけで、何かをキッカケに記憶を取り戻してしまったら?
そのせいで、また皆に酷いことをしてしまったら?
酷いことを言ってしまったら?
…誰かを、傷つけてしまったら?
それを知ったイヴァニエとルカーシュカは、エルダは、そんな自分をどう思う?
───また、嫌われてしまったら?
不意に浮かんだ『もしも』の考えに、ザァッと血の気が引き、クラリと眩暈がした。
「「アドニス!」」
「アドニス様!」
「…っ、だ、だい、…じょうぶ…」
グラリと脳まで揺さぶられたような感覚に、視界は眩み、声は憐れなほど震えていた。
(……嫌だ…)
───嫌われたくない。
初めて抱いた感情は、今にも泣いて喚いて暴れ出しそうなほどの激情と、泣き声を殺して蹲っていることしか出来ない無力さを孕んでいた。
(…嫌だ…)
ドクドクと激しく脈打つ心臓の痛みと、恐ろしい『もしも』という考えに、呼吸すらままならない。
エルダも、イヴァニエも、ルカーシュカも、もう微笑んでくれなくなってしまうかもしれない。
言葉を交わしてくれなくなってしまうかもしれない。
赤ん坊達も、もう側に寄ってくれなくなってしまうかもしれない。
愛しいと想う者達が、自分に背を向け、冷たい視線を向ける───ゾッとするほどの恐怖に、ポタポタと涙が零れた。
「アドニス…!」
「…っ、…ゃ…やだ…っ、やだ…!」
「アドニス様…! 大丈夫ですよ。バルドル様は、そのように泣かれるほど、怖い御方ではございませんよ」
目に見えない恐怖から逃げようとする体を繋ぎ止めるように、三人分の温もりがキツく手を結んだ。
(ちがう…ちがう…っ、怖いのは…!)
───恐ろしいのは自分自身だ。
彼らに嫌われてしまうかもしれない恐怖と、また誰かを傷つける自分になってしまうかもしれないという恐怖に、フルフルと頭を振った。
「やっ…、ゃだ…っ、おと、大人しく、してるから…っ」
「アドニス…」
知りたくない。知らないままでいい。
また傷つくくらいなら、自分自身のことなど、分からないままでいい…本気でそう思った。
「外…、出れなくても…い…から…っ」
「…アドニス、どんなに怖くても、ずっとこのままではいられません。バルドル様に会わないまま、皆の前に出ることの方が、あなたにとってはよほど怖い思いをすることになるはずです」
「…っ」
そう言われ、突き刺さるような冷たい視線と、肌を焼くような憎悪を思い出し、カタリと唇が震えた。
(や…やだ…っ、ど、どうしたら…)
バルドル神に会うのも、他の天使達の前に出るのも、この部屋から出るという行為も、すべてが怖くて仕方なかった。
───そこまで考え、あまりにも今更な疑問がふっと浮かび、思考が固まった。
(……あ、れ…? 外に出て…それで…その後は、どうなるの…?)
バルドル神に会うこと、他の天使達に会わなければいけなくなること、そのことばかりに気がいって、その先のことが全く頭に無かった。
謹慎が明け、罰を終えた後、その先で、自分はどうしたらいいのだろう?
知っていて当然の知識はおろか、なんの力もない自分に、果たして居場所なんてあるのだろうか…?
「───」
サァ…と、体の熱が引いていく。
イヴァニエやルカーシュカのように、立派な役目を担うことなど到底無理で、エルダのように、誰かに仕え、身の回りのことを整える能力なんてものも無い。
それどころか、赤ん坊達のように空を飛ぶことも、小さな傷一つ癒すことも出来ないのだ。
天使としての資格も無ければ、誰かの為になるような能力も無い───なに一つ出来ない役立たずな存在なのだと、今になって初めて気づいた。
「……、」
喪失感にも似た虚無感に襲われ、ショックで涙も止まってしまった。
(…自分は……じゃあ…なんの、為に…)
…いや、罰を受けていたのだ。
犯した罪すら憶えていない、知らない罪を償う為の罰。
だからこそ最初は、この部屋に閉じ籠っているだけで良かった。
それだけが自分が行える、唯一正しい行為だったから───ならば、その罰が終わった後は?
夢物語のように、何に怯えることもなく、赤ん坊達と自由に遊べたらと願ったこともあった。
エルダや、イヴァニエやルカーシュカ達と一緒に、穏やかに過ごす日々が続けばそれでいいと、漠然と思い描いていた。
だがそれは本当に夢のような話で、それ以外の、外の世界のことなんて、何も考えていなかった。…考えられなかった。
「…アドニス様?」
エルダの案じるような声に、ようやく黙り込んでしまっていたことに気づき顔を上げるが、力の抜けた体は酷く重かった。
「…わ、たし…は…」
「…うん、どうした?」
「私は……この部屋を、出たら…どうしたら、いいんですか…?」
「ッ…」
ルカーシュカも、イヴァニエも、小さく息を呑んだのが分かった。
「……何かを強要されることはない。謹慎が明けた後どうするかはアドニス次第だと、バルドル様がお決めになっていたからな」
「…自分…次第……」
『───この先どうしたいのか、よく考えなさい』
ふっと脳裏に蘇ったのは、あの日、バルドル神が自分に向けて発した言葉だった。
(……そうだ…)
激痛と恐怖と絶望の中、何が起こっているのかも分からない現実に、意識も虚ろになりながら耳に届いた言葉。
与えられた部屋の中で、何を反省すればいいのか、そのことばかりを考え、いつしか疑問を抱くことにも怯え、考えることすら忘れていた。
だが確かにあの時、バルドル神は『己の在り方を決めろ』と言っていた。
(…でも、そんなの…)
何に成れるかも分からないのに、在りたい自分など想像できない。
(……分かんないよ…)
外に出るのも、その先にある未来も、何もかもが自分にとっては恐ろしく、それでもこの部屋の片隅に閉じ籠もっていることは許されなくて、いっそ逃げ出してしまいたいという衝動に駆られた。
『選択肢など与えるべきではありません。もはや天使ですらないのであれば、ここにいる価値はありません』
(…どうして……)
こんな時に、悲しい過去を思い出すのだろう。
遠い日にも願った「逃げてしまいたい」という気持ちに引きずられたのか、痛みに鈍くなった頭は、記憶の奥底に沈めていた痛々しい傷跡を抉るように、鮮明にあの日の言葉を再生した。
『堕天などしたらそれこそ復讐のためになにをしでかすか…価値がないのならせめて、命の湖に還すべきです』
(………あ…)
瞬間、拾った言葉に、あることを思い出す。
ずっと前、エルダから教わった、この世界の命の在り方と───終わり方。
(そうだ…聞いたことがあるって、思ったけど…)
急に視界が開けたように、まるで、そうすることが最善なのだとでも言うように、バルドル神の低く落ち着いた声が、鼓膜の奥で響いた。
『堕天し、私に復讐したいのならそれもまた良し。心を改め、天使としてやり直すも良し。…そのまま、命の湖に還るも良し。お前に与えられる、お前が自分の意思で選べる、最後の機会だ』
(…私が、私の意思で選べる、最後……)
ならば、選択肢に入っているそれを自分が選んでも、許されるのだろうか?
「アドニス? 大丈夫ですか?」
顔を上げれば、心配そうにこちらを見つめる三人の顔が視界に入った。
「アドニス様、お顔色が…」
「…すまない。不安にさせるだけだったな」
(…あったかい)
自分の身を案じてくれるその中に、好意が含まれているのだと、与えられる温かな情をようやく理解し、きちんと受け取れるようになったのも、つい最近のことだ。
(……私も、みんなのことが…好き…)
与えられるばかりで何も返せていないけど、それでも大事だと、側にいたいと、そう思っていた。
(好きだから、好きなまま……)
だからこそ、好きだからこそ、好きだと思ってもらえる自分のまま───離れたい。
(…命の湖に還るのは…お別れじゃ、ないんだよね…?)
また命が巡るのだから、悲しむことではない───そう、教えてもらったのだ。
「…私、は……」
「うん」
「はい」
先ほどまで騒ついていたのが嘘のように、酷く凪いだ心。
青と翠と黒の、宝石のよりも綺麗な瞳を見つめ返すと、寂しさを飲み込むように、深く息を吸った。
「……命の湖に、還りたい」
「はい」
「…今のも、好きだよ?」
「お気に召して頂けて喜ばしい限りです。ですが今後、ルカーシュカ様やイヴァニエ様と並んで座られる時に、今のままではアドニス様がお困りになるかと思いますので…」
「…? そうなの?」
「はい」
イヴァニエとルカーシュカの来訪を前に、なにやら試行錯誤を繰り返すエルダ。その姿を目で追いながら、代わりに用意された椅子に座り、朝の日課であるミルクをくぴりと飲んだ。
色形の異なる敷物やソファーを何回も入れ替え、位置を変え、考え込むようにジッと見つめると、また動かし…ということをエルダは何度も繰り返した。
必要な作業らしいが、なぜ必要なのか分からず、かと言って邪魔をする訳にもいかないので、大人しくその様子を眺めながら、作業が終わるのを待った。
「……これで良いでしょう」
暫くしてポツリと呟かれた声は、どこか満足げだった。
エルダの動きが止まったのを確認すると、そそっと側に寄り、様変わりした一帯を一緒に眺めた。
ソファーは形も大きさも変わり、足元の敷物は毛足は短くなったが、ふわふわとした柔らかさは増していた。
淡い色合いはそのままだが、随分と雰囲気の変わったソファー周りに、感嘆の溜め息が零れる。
「…素敵だね」
「ありがとうございます」
「でも、なんで変えたの?」
「…お二人がお越しになれば、分かりますよ」
「…?」
淡く微笑むエルダは、それ以上答えてくれず、そうこうしている間に二人が来訪する時間を迎えた。
「ようこそ、おいで下さいました」
イヴァニエとルカーシュカを出迎えるエルダ。その様子を、少し後ろに下がったところで見つめながら、彼らが部屋の中へ入って来るのを待った。
昨日も顔は合わせているのだが、きちんと時間を取って会うのは久しぶりだ。
イヴァニエとルカーシュカが揃っている姿を、そわそわと落ち着かない気持ちで待っていると、二人とパチリと目が合った。
「お出迎えですか?」
「う…」
「ふふ、ありがとうございます」
足早に近づいてきたイヴァニエに驚きつつ、コクコクと頷けば、嬉しそうに微笑んでくれた。
「おい、驚いてるぞ。…大丈夫か?」
「…、はい」
「ならいい」
そう言って表情を和らげたルカーシュカが差し出してくれた手を取れば、同じようにイヴァニエからも手を差し出され、反射的にその手を取った。
(…あ)
イヴァニエとルカーシュカ、二人の間に立ち、両手を繋いでいる状態にはたと気づき、妙にむず痒い気持ちになる。
訳もなく視線を彷徨わせている間に、エルダがソファーへと二人を誘い、両の手を引かれるように共に歩いた。
「こちらへどうぞ」
「随分と変わったな」
「…お話し中、アドニス様がお困りになるかと思いまして」
「……ああ、なるほど」
「?」
「アドニス、お座りなさい」
「は、はい…」
何か分かり合っているエルダとルカーシュカを横目に、イヴァニエに促されるまま腰を下ろせば、隣にイヴァニエが、その逆隣にルカーシュカが座った。
(…真ん中だ)
手を繋いでいたからだろう。自然と両隣にイヴァニエとルカーシュカが座る形になった。
膝が触れ合うほどの近さは、相手の体温も伝わってきて、嬉しいような恥ずかしいような、一層落ち着かない気持ちにさせた。
「……ぁ」
そこでふと、ソファーの形が変わったことで、真横を向かなくとも左右にいる二人の顔が視界の端に映ることに気づき、小さく声が漏れた。
(もしかして、エルダが色々変えてたのって…)
パッとエルダに視線を向ければ、目が合った彼は、こちらの考えを読んだように笑んでくれた。
(…エルダはすごいなぁ)
たまたま自分が二人の間に座ることになったのに、それも見越して、朝から色々と準備をしてくれていたことに感謝と感心の念が湧き、言葉の代わりに笑みを返した。
「…アドニス」
「…っ」
繋いでいた手にキュッと力が込められ、視線をエルダから外せば、僅かに強張った表情のルカーシュカと目が合った。
「今日は少しだけ……これから先のことについて、話しをしようか」
「…これから…?」
これから先とは、どういう意味だろうか?
ルカーシュカの声は硬く、紅茶を飲みながらゆったりと過ごす時間に聞くそれとは違う声音に、僅かに緊張が走った。
「アドニス、そんな顔をしなくても大丈夫ですよ」
きっと情けない顔をしているのだろう。
優し気に笑うイヴァニエだが、そんな彼にも、薄い緊張の色が浮かんでいた。
(…真面目なお話だから、今日はあの子達がいないんだ…)
朝の時間だけ居た赤ん坊達は、ルカーシュカ達が来る前に部屋から出されてしまった。
どうして今日は…とエルダに聞いたのだが、「少しだけ、お外で遊んでいてもらいましょうね」と明確な答えは避けられてしまったのだ。
何か良くない話しになるのだろうか…気持ちに比例して下がる視線を遮るように、ルカーシュカが顔を覗き込んだ。
「まだなんの話もしてないぞ?」
「ぅ…」
殊更柔らかな、あやすような声に顔を上げれば、イヴァニエもルカーシュカも、困ったように笑っていた。
「あの、こ、これから…て…?」
「…その前に、少し試したいことがあるのですが、付き合ってもらえますか?」
「…? はい…」
「ありがとうございます。…早速ですが、アドニスに私とルカーシュカから、それぞれ聖気を送ってみたいと思います」
「…聖気を…?」
「随分前に……その、お前を起こす為に、聖気を送ったことがあっただろう?」
「あ…」
言われているのは、いつかの衝撃的な再会のことだろう。
二人と近しい距離で話すようになった今、随分と薄れた記憶を掘り起こして感じるのは、恐怖心ではなく、泣き叫んで取り乱した自身への羞恥心だった。
「あ、あの時は…ごめんなさい…」
「謝らなくていい。…思い出しても平気か?」
「はい」
「なら良かった。…悪いが、あの時みたいに、俺とイヴァニエの聖気をお前の体に送りたいんだが…いいだろうか?」
「? …はい」
コクリと頷きながら、その必要性が分からず首を捻る。
(聖気なら、あると思うんだけど…?)
以前の自分は聖気がとても少なく、体を動かすのがやっとの量だったが、今では食事を摂ることで少しずつ回復しているはずだ。
わざわざ彼らに分けてもらう必要はないのでは…と思いつつ、何か意味があるのだろうと口を噤んだ。
「えっと…お願い、します」
「すまない。なるべく弱い力で試してみるが、苦しいと思ったらすぐに言ってくれ」
「え?」
思ってもいなかったルカーシュカの発言に目を丸くする。
(苦しい…? あれ…でも、あれは確か…)
記憶とルカーシュカの言葉が結びつかず、戸惑っている間に、両の手を握る二人の手に力が籠った。
「いくぞ」
「嫌だと思ったら、構わず手を払って下さい」
「え…う…う?」
聖気を送られることに対して、なんだか自分と彼らで温度が違う気がする。
訳も分からず怯みながら、何かとんでもない衝撃があるのかと身構え、ギュッと目を瞑った。
「………?」
しかし、いつまで待っても考えていたような衝撃は訪れず、そろそろと目を開いた。
繋いだ手からじわじわと溢れ出すような、体温以外の熱。その熱が、少しずつ少しずつ、手から、腕から、体の内側を流れていくような心地良さだけがあった。
(…気持ちいい)
繋いだ手を通り、体の深いところからじんわりと熱を帯びるような感覚に、身構えていた体からは力が抜け、心地良さからホッと息を吐いた。
(…やっぱり、あったくて気持ちいい)
あの時も、同じ感覚だった。
指の先まで冷え切り、少しも動かせなかった体を内側から温め、蘇らせてくれた二人分の熱。
苦しいと感じることもなく、ただ温かくて、気持ち良い…もっと言えば、とても好きな感覚だった。
「……大丈夫ですか?」
「はい」
心地良さに身を委ねていると、イヴァニエにそっと声を掛けられた。
「苦しさなどは感じませんか?」
「? …はい」
「…まったく?」
「はい」
「…もう少し、強めに送ってもいいか?」
「はい」
コクコクと返事をすれば、イヴァニエとルカーシュカが互いに顔を見合わせ、軽く頷き合った。
直後、体の中を流れる熱量が少しだけ強くなったが、それ以外は何も変わらなかった。
「どうだ?」
「きもちいい、です」
「……気持ちいい?」
「あったかくて、気持ちいい…です」
ともすれば眠ってしまいそうな心地良さに、へにゃりと笑えば、二人とも驚いたような表情に変わった。
「あの…?」
「…いや……エルダ」
「はい」
「お前も試してくれ」
「畏まりました」
ルカーシュカの横に控えるように立っていたエルダが、目の前まで来るとその場に膝をついた。
「アドニス様、御手を」
「ん…」
するりと解けたルカーシュカの手から代わるように、エルダの細い手が指先を包むように握った。
その数秒後、手の平がじんわりと熱を帯び始め、先の二人よりも弱いが、確かに温かく感じるものが体の中を巡る感覚がした。
ゆっくりと体内を巡る微弱なそれは、まるで体の内側をサワサワと撫でるような擽ったさで、堪らず身を捩った。
「ふふ」
「アドニス様?」
「ふ…ごめんね、擽ったくて…」
「…擽ったいですか?」
「あ…えっと…こしょこしょって、するけど…あったかくて、気持ちいいよ」
眉を下げたエルダに、慌てて言葉を足す。自分だけ違うような感想を聞かされれば、不安にもなるだろう。
「エルダも同じですか…」
「弾かれるような感覚はあったか?」
「いいえ。まったくございませんでした」
「とすると、やはり…」
「…?」
穏やかな温もりとは反対に、何かを確信したような三人の表情は真剣だ。
口を挟めるような雰囲気でもなく、今の行為で何が分かったのか、聞けぬままオロオロと視線を三方へと向けた。
「ああ、勝手に話しを進めてしまってごめんなさい」
「んん…」
「体は、大丈夫ですか?」
「はい」
「…良かったです」
いつの間にか途切れていた熱だが、繋いだままの手は温かく、ホッと気を緩めた時だった。
「…やはり、先にバルドル様にお目通りしておくべきだろう」
「え…?」
静かに呟かれた言葉に、咄嗟に声が漏れた。
「……神、様…?」
「ええ、神様です。…覚えていないかもしれませんが、この前も少しだけ、そのお話しをしたんですよ?」
「え…」
イヴァニエからそう言われても、いつのことを言っているのか分からない。
呆けている間にルカーシュカが真っ直ぐにこちらを見据えていることに気づき、その眼差しの強さにドキリと心臓が鳴った。
「アドニス、もうじき、お前の謹慎が解ける。…この部屋の外に、出なければいけなくなるんだ」
「…ッ!」
突然の発言に息を呑み、目を見開く。
何か考えるよりも先に、ただ本能的にそれを拒絶しようとした体が竦み上がり、逃げようと後ろに下がった。
「アドニス様!」
「アドニス…ッ」
だがそれも、繋いでいたエルダとイヴァニエの手によって引き止められた。
「ぁ…」
「アドニス、大丈夫ですから。怖がらないで下さい」
イヴェニエの両手に包まれ、その中で指を動かせないほどぎゅうっと握り締められた手に、安心感から少しだけ落ち着きを取り戻すが、体の強張りは解けなかった。
「…悪い。怖がらせるつもりはなかったんだが…謹慎は永遠じゃない。ちゃんと、終わりがあるんだ」
───与えられた罰には終わりがある。
『罰』としてこの部屋に留まっている感覚はとうになく、誰も来ない安全な場所として認識していた脳は、本来喜ばしいことであるはずの解放を拒んだ。
「ゃ…やだ…」
「アドニス、お前が怖がる気持ちは分かるよ。だからこそ先に、バルドル様にお会いした方がいいと思うんだ」
「……どうして?」
部屋の外に出ることと、神に会うことは異なるのだろうか?
恐々と問えば、ルカーシュカに代わってイヴァニエが答えてくれた。
「…アドニス。私達の目には、今のあなたが、以前のアドニスとは別人に見えるんです」
「───」
───なんの前触れもなく、自分すら避けていた問題の核心部に触れられ、息が止まった。
「性格も言葉遣いも仕草も…記憶の欠如だけでは説明できないほど違う。記憶の欠如も、とても不自然なんです」
今まで気づいていても、誰も…エルダもルカーシュカもイヴァニエも、何も言わずにいてくれた、自分自身ですら分かっていなかった自分のこと───なんの守りもなく、剥き出しのままだったそこを鷲掴みにされたような衝撃に、胸が苦しくなった。
「ぁ……ご…ごめ…」
「違う、違うんです。アドニス、あなたを責めている訳ではありません。あなた自身、自分のことが分からないと苦しんでいるのに、それを説明しろだなんて理不尽なことは言いません。それを悪いことだなんて思っていません。…そんな泣きそうな顔をしないで下さい」
「っ…」
イヴァニエの片手が、包むように頬に触れた。
肌から伝わる温もりに、それこそ泣きそうになってしまい、唇を柔く噛んだ。
「…アドニス。謹慎が解けたら、皆の前に出なければいけなくなる。だが今のままでは、ただお前が傷つき、怖い思いをするだけだ。勿論、俺もイヴァニエも側にいるが、なによりお前が無駄に傷つけられない為の護りが必要だ」
「護り…?」
ルカーシュカの言葉は実直で、だからこそ現実味があり、確実にその時が近づいているのだと理解するには充分だった。
この部屋を出ること、他の大天使達の前に出なければいけなくなること…想像しただけで震えそうになる体を、グッと堪えた。
「バルドル様なら、お前の聖気に残った記憶を読むことが出来る。そうすれば、お前の身に何が起こったのか、今のお前がどういう状態なのか、知ることが出来るはずだ」
「え…」
「記憶が欠如しているだけなのか、もっと別の原因があるのか…どちらにせよ、何も分からない状態のお前を、この部屋から出したくないのは俺達も一緒だ。せめて現状を把握するだけ、それだけでも分かれば、これからの他の者達との関わり方も大きく変わってくるはずだ。その為に、まずはバルドル様に会ってほしい。場合によっては、他の者達との接触も避けられるかもしれない」
「…!」
“他の物達との接触を避けられる”───会わなくても済むかもしれないという言葉に、心がスゥッと軽くなる。
決して他の天使達を嫌っている訳ではない。
ただ怖いという気持ちはすぐには変えられない。会わなくて済むのなら…と、どうしても思ってしまうのだ。
(バルドル、様…)
今までも、エルダから何度かバルドル神の名を聞くことがあった。
会話の中で、その名を持つ人が、血溜まりの中、激痛で息をすることすら苦しかった背中の傷を癒し、痛みを和らげてくれた黒髪の美丈夫だと知ったのは、少し前のことだ。
(…バルドル様は……怖くなかった…)
一番最初の、『自分』という個が持っている初めての記憶。
全身を刺すような恐怖と、心臓が潰れてしまいそうなほどの絶望の中で、バルドル神だけが、哀れみと悲しみの情だけを自分に向けていた。
あの方なら、バルドル神なら、会っても大丈夫な気がする───そう思い、口を開きかけてハッとした。
(……バルドル様に会って…それでもし……自分が、以前の自分と…おんなじ存在だったら……?)
誰からも嫌われ、疎まれ、蔑まれていた『アドニス』
もしも『アドニス』と自分が、何も変わらない、同じ存在だったら?
もし記憶を失っているだけで、何かをキッカケに記憶を取り戻してしまったら?
そのせいで、また皆に酷いことをしてしまったら?
酷いことを言ってしまったら?
…誰かを、傷つけてしまったら?
それを知ったイヴァニエとルカーシュカは、エルダは、そんな自分をどう思う?
───また、嫌われてしまったら?
不意に浮かんだ『もしも』の考えに、ザァッと血の気が引き、クラリと眩暈がした。
「「アドニス!」」
「アドニス様!」
「…っ、だ、だい、…じょうぶ…」
グラリと脳まで揺さぶられたような感覚に、視界は眩み、声は憐れなほど震えていた。
(……嫌だ…)
───嫌われたくない。
初めて抱いた感情は、今にも泣いて喚いて暴れ出しそうなほどの激情と、泣き声を殺して蹲っていることしか出来ない無力さを孕んでいた。
(…嫌だ…)
ドクドクと激しく脈打つ心臓の痛みと、恐ろしい『もしも』という考えに、呼吸すらままならない。
エルダも、イヴァニエも、ルカーシュカも、もう微笑んでくれなくなってしまうかもしれない。
言葉を交わしてくれなくなってしまうかもしれない。
赤ん坊達も、もう側に寄ってくれなくなってしまうかもしれない。
愛しいと想う者達が、自分に背を向け、冷たい視線を向ける───ゾッとするほどの恐怖に、ポタポタと涙が零れた。
「アドニス…!」
「…っ、…ゃ…やだ…っ、やだ…!」
「アドニス様…! 大丈夫ですよ。バルドル様は、そのように泣かれるほど、怖い御方ではございませんよ」
目に見えない恐怖から逃げようとする体を繋ぎ止めるように、三人分の温もりがキツく手を結んだ。
(ちがう…ちがう…っ、怖いのは…!)
───恐ろしいのは自分自身だ。
彼らに嫌われてしまうかもしれない恐怖と、また誰かを傷つける自分になってしまうかもしれないという恐怖に、フルフルと頭を振った。
「やっ…、ゃだ…っ、おと、大人しく、してるから…っ」
「アドニス…」
知りたくない。知らないままでいい。
また傷つくくらいなら、自分自身のことなど、分からないままでいい…本気でそう思った。
「外…、出れなくても…い…から…っ」
「…アドニス、どんなに怖くても、ずっとこのままではいられません。バルドル様に会わないまま、皆の前に出ることの方が、あなたにとってはよほど怖い思いをすることになるはずです」
「…っ」
そう言われ、突き刺さるような冷たい視線と、肌を焼くような憎悪を思い出し、カタリと唇が震えた。
(や…やだ…っ、ど、どうしたら…)
バルドル神に会うのも、他の天使達の前に出るのも、この部屋から出るという行為も、すべてが怖くて仕方なかった。
───そこまで考え、あまりにも今更な疑問がふっと浮かび、思考が固まった。
(……あ、れ…? 外に出て…それで…その後は、どうなるの…?)
バルドル神に会うこと、他の天使達に会わなければいけなくなること、そのことばかりに気がいって、その先のことが全く頭に無かった。
謹慎が明け、罰を終えた後、その先で、自分はどうしたらいいのだろう?
知っていて当然の知識はおろか、なんの力もない自分に、果たして居場所なんてあるのだろうか…?
「───」
サァ…と、体の熱が引いていく。
イヴァニエやルカーシュカのように、立派な役目を担うことなど到底無理で、エルダのように、誰かに仕え、身の回りのことを整える能力なんてものも無い。
それどころか、赤ん坊達のように空を飛ぶことも、小さな傷一つ癒すことも出来ないのだ。
天使としての資格も無ければ、誰かの為になるような能力も無い───なに一つ出来ない役立たずな存在なのだと、今になって初めて気づいた。
「……、」
喪失感にも似た虚無感に襲われ、ショックで涙も止まってしまった。
(…自分は……じゃあ…なんの、為に…)
…いや、罰を受けていたのだ。
犯した罪すら憶えていない、知らない罪を償う為の罰。
だからこそ最初は、この部屋に閉じ籠っているだけで良かった。
それだけが自分が行える、唯一正しい行為だったから───ならば、その罰が終わった後は?
夢物語のように、何に怯えることもなく、赤ん坊達と自由に遊べたらと願ったこともあった。
エルダや、イヴァニエやルカーシュカ達と一緒に、穏やかに過ごす日々が続けばそれでいいと、漠然と思い描いていた。
だがそれは本当に夢のような話で、それ以外の、外の世界のことなんて、何も考えていなかった。…考えられなかった。
「…アドニス様?」
エルダの案じるような声に、ようやく黙り込んでしまっていたことに気づき顔を上げるが、力の抜けた体は酷く重かった。
「…わ、たし…は…」
「…うん、どうした?」
「私は……この部屋を、出たら…どうしたら、いいんですか…?」
「ッ…」
ルカーシュカも、イヴァニエも、小さく息を呑んだのが分かった。
「……何かを強要されることはない。謹慎が明けた後どうするかはアドニス次第だと、バルドル様がお決めになっていたからな」
「…自分…次第……」
『───この先どうしたいのか、よく考えなさい』
ふっと脳裏に蘇ったのは、あの日、バルドル神が自分に向けて発した言葉だった。
(……そうだ…)
激痛と恐怖と絶望の中、何が起こっているのかも分からない現実に、意識も虚ろになりながら耳に届いた言葉。
与えられた部屋の中で、何を反省すればいいのか、そのことばかりを考え、いつしか疑問を抱くことにも怯え、考えることすら忘れていた。
だが確かにあの時、バルドル神は『己の在り方を決めろ』と言っていた。
(…でも、そんなの…)
何に成れるかも分からないのに、在りたい自分など想像できない。
(……分かんないよ…)
外に出るのも、その先にある未来も、何もかもが自分にとっては恐ろしく、それでもこの部屋の片隅に閉じ籠もっていることは許されなくて、いっそ逃げ出してしまいたいという衝動に駆られた。
『選択肢など与えるべきではありません。もはや天使ですらないのであれば、ここにいる価値はありません』
(…どうして……)
こんな時に、悲しい過去を思い出すのだろう。
遠い日にも願った「逃げてしまいたい」という気持ちに引きずられたのか、痛みに鈍くなった頭は、記憶の奥底に沈めていた痛々しい傷跡を抉るように、鮮明にあの日の言葉を再生した。
『堕天などしたらそれこそ復讐のためになにをしでかすか…価値がないのならせめて、命の湖に還すべきです』
(………あ…)
瞬間、拾った言葉に、あることを思い出す。
ずっと前、エルダから教わった、この世界の命の在り方と───終わり方。
(そうだ…聞いたことがあるって、思ったけど…)
急に視界が開けたように、まるで、そうすることが最善なのだとでも言うように、バルドル神の低く落ち着いた声が、鼓膜の奥で響いた。
『堕天し、私に復讐したいのならそれもまた良し。心を改め、天使としてやり直すも良し。…そのまま、命の湖に還るも良し。お前に与えられる、お前が自分の意思で選べる、最後の機会だ』
(…私が、私の意思で選べる、最後……)
ならば、選択肢に入っているそれを自分が選んでも、許されるのだろうか?
「アドニス? 大丈夫ですか?」
顔を上げれば、心配そうにこちらを見つめる三人の顔が視界に入った。
「アドニス様、お顔色が…」
「…すまない。不安にさせるだけだったな」
(…あったかい)
自分の身を案じてくれるその中に、好意が含まれているのだと、与えられる温かな情をようやく理解し、きちんと受け取れるようになったのも、つい最近のことだ。
(……私も、みんなのことが…好き…)
与えられるばかりで何も返せていないけど、それでも大事だと、側にいたいと、そう思っていた。
(好きだから、好きなまま……)
だからこそ、好きだからこそ、好きだと思ってもらえる自分のまま───離れたい。
(…命の湖に還るのは…お別れじゃ、ないんだよね…?)
また命が巡るのだから、悲しむことではない───そう、教えてもらったのだ。
「…私、は……」
「うん」
「はい」
先ほどまで騒ついていたのが嘘のように、酷く凪いだ心。
青と翠と黒の、宝石のよりも綺麗な瞳を見つめ返すと、寂しさを飲み込むように、深く息を吸った。
「……命の湖に、還りたい」
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