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フォルセの果実
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「……ん…」
ゆらゆらと漂っていた感覚が途切れ、ふっと目が覚めた。重い瞼を上げ、ぼんやりと瞬きを繰り返しながら、ぬくぬくとした布団の温もりに浸ること暫く、ふとある違和感に気づき、パチリと意識が覚醒した。
「……あれ?」
いつもとは違う部屋の雰囲気に、上体を起こすと周囲を見回す。
(…エルダと、みんなは?)
毎朝起きれば必ず傍らにいたエルダと、ベッドの上に寝転んでいるはずの赤ん坊達がいない。
自分だけが取り残されたような室内は静まり返り、寂しさに包まれていた。
茫然としながらもその場でジッとしていると、微かに隣室から赤ん坊達の声が聞こえ、ホッと胸を撫で下ろす。
(…どうして、隣にいるんだろう?)
はて? と思いながら、もぞもぞとベッドから抜け出した。
扉に近づけば近づくほどハッキリと聞こえる赤ん坊達の声はなにやらはしゃいでいて、皆で遊んでいる様だった。
朝から元気な声に頬が綻ぶのを感じつつ、そっと扉を開けた。
「あ…、アドニス様。おはようございます」
「エルダ」
ゆっくりと扉を開けば、その隙間から、扉のすぐ真横に立つエルダの姿が見えた。
近くにいてくれたこと、いつもと変わらぬ笑みを返してくれたことに、知らぬ間に張っていた気がホワリと抜けた。
「おはよう、エル───」
そこまで言いかけた時だった。
「アドニス!」
「ふぇっ?」
突然聞こえた第三者の声に驚き、声が跳ねる。慌てて声のした方を見遣れば、ソファーの周りで固まっている赤ん坊達の中にイヴァニエの姿があり、目を瞬いた。
「……イヴァニエ様?」
(…え? どうして…?)
いないはずの人物がいることに、疑問符を浮かべたまま固まっていると、その間にイヴァニエがこちらへと早足で近づいてきた。
「おはようございます。…体調はいかがですか?」
「…おはよう、ございます…えっと…大丈夫…です?」
「どこか痛かったり、気分が悪かったりしませんか?」
「う…? 大丈夫、です」
なぜイヴァニエが今ここにいるのか、不思議に思いながらフルフルと首を横に振れば、イヴァニエがホッと表情を和らげた。
(……あ)
そこでようやく、昨夜のやりとりを思い出す。
きっと心配して、わざわざ来てくれたのだろうと思い至り、サワサワと胸の内側を撫でられるような、擽ったい気持ちになる。
「あの…ありがとう、ございます。…どこも、痛くない、です」
「そうですか…良かった」
頬を緩めたイヴァニエに、つられて笑みを返していると、エルダが僅かに動いた。
「イヴァニエ様、先にアドニス様のお支度をさせて頂きたく存じます」
「ああ、そうですね。私はプティ達ともう少し待っていましょう」
そう言われ、赤ん坊達に視線を向ければ、何人かがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。が、それをイヴァニエがそっと手で制し、ソファーの方へと一緒に戻っていった。
その様子を目で追いつつ、エルダに促されて寝室の中に戻ると、いつもと同じようにエルダが身支度を整えてくれた。
「イヴァニエ様は…いつから、いらっしゃってたの?」
「半刻ほど前からです。昨夜は遅い時間までアドニス様を付き合わせてしまったから、目が覚めるまで起こさなくていいと仰られて…」
「…もしかして、いつもより起きる時間…遅い?」
「はい。一時間ほど遅いお目覚めかと…ですが、昨夜は寝るのも遅かったですし、睡眠時間はいつもと変わりませんよ」
「そっか…」
窓の外を見れば、確かにいつもの目覚めよりも陽が高くに昇っている様に見えた。
「…イヴァニエ様と、お話しはできましたか?」
ローブを肩に掛けてもらっていると、背後から呟くようなエルダの声が聞こえた。
「…うん。ちゃんと、お話しできたよ」
「それは良うございました」
エルダもずっと、心配してくれていたのだろう。耳に届いた声には安堵の色が滲んでいた。
身支度が整ったところで、エルダの華奢な手を両の手で包むように握り締めた。
「エルダも、いっぱい心配してくれて…ありがとう」
「…恐れ入ります。アドニス様が嬉しそうで、私も嬉しいです」
その言葉で、昨夜イヴァニエと言葉を交わせて、彼の胸の内をきちんと聞くことができて良かったと、改めてそう思えた。
温かく笑んでくれるエルダが嬉しくて、握った手を揺らしながら、思うまま口を動かす。
「あのね、エルダも、びっくりしちゃったと、思うんだけど…あの、背中にあった傷をね、イヴァニエ様が、綺麗に治して…」
「…アドニス様、お話しして下さって大変嬉しいのですが、そちらの件はまた後で、ゆっくりお話ししましょう。今はイヴァニエ様をお待たせしておりますので…」
「あっ、は、はい…!」
困り顔で笑うエルダに諭され、反射的に背筋が伸びる。握っていた手を握り返され、そのまま手を引かれて隣室へと向かった。
(…あれ? そういえば、昨日はどうやってベッドまで移動したんだろう?)
そこでふと、初めて記憶と現実が繋がっていないことに気づく。
昨日は確か、ソファーで横になったまま意識が途切れたはずだ。それなのに、目覚めた時にはベッドの上にいた。
(エルダはいなかったし……イヴァニエ様が…?)
まさか…と思うも、自力で正解に辿り着けるはずもない。エルダは何か知っているだろうか…と思っている間に、カチャリと扉が開く音がした。
「…え?」
扉の開いた先、ソファーに戻ったとばかり思っていたイヴァニエが、何故か先ほどと変わらない立ち位置で赤ん坊達と共に待ち構えており、思わず声が漏れた。
「んぁ!」
「あ、わ…っ」
その姿を認識するや否や、イヴァニエの周囲に飛んでいた赤ん坊達が一斉に向かってきて、反射的に抱き留めた。
「え…ど…?」
「すみません。すぐに戻ってくると伝えたのですが、中に入ると言って聞かないので…」
苦笑するイヴァニエ曰く、自分とエルダが寝室に戻ろうと背を向けた時、赤ん坊達も一緒に中に入ろうと向かってきていたのだが、間に合わなかったらしい。
中に入ろうにも、扉を開けられない赤子達にはそれが出来ない。それでも扉を押そうとしたり、イヴァニエに「開けて」とせがんだりと、短い時間だったがごねて大変だったそうだ。
「ご、ごめんなさい…」
「私は何もできていませんから、気にしないで下さい」
「あの…、朝はいつも…一緒にいるので…もしまた…同じようなことがあれば…開けて、あげて下さい……みんなも、イヴァニエ様のこと、困らせちゃダメだよ…?」
「…む」
「ふふ…待たせて、ごめんね。おはよう」
「だぅ」
唇を尖らす赤子の頬をつつきながら、起床が遅れてしまったことを謝る。…と、イヴァニエが驚いたような表情でこちらを見ていることに気づき、首を傾げた。
「あの…?」
「…また……いえ、開けていいのですか?」
「…? はい…」
困惑したような表情と声音に、更に首を傾げる。
(…いけないのかな?)
何かおかしなことを言っているのだろうか?
チラリと視線をエルダに向けたが、曖昧な笑みを返されてしまった。
「あぅあ?」
「…うぅん、なんでもないよ」
「どうしたの?」と言いたげな赤子の声に、まだ寝室を出てすらいないことに気づき、慌てて一歩踏み出した───と、目の前にイヴァニエの手が差し出され、足が止まった。
「…え?」
「どうぞ」
赤ん坊を抱き留めた時点で、エルダと繋いでいた手は離れていたが、それでも思ってもいなかったイヴァニエの行動に目を丸くする。
もう一度エルダに視線を向ければ、既に後ろに下がっており、なんとなくだがイヴァニエと役目を交代したような雰囲気が察せられた。
(…いいの、かな…?)
差し出された手におずおずと手を重ねると、キュッと握り返され、ゆっくりと手を引かれた。
エルダともルカーシュカとも違う、包まれるような手の大きさや指の長さに慣れず、少しの緊張感に心臓がドクドクと脈打つ。
誘うような足取りを追うようにしてソファーまで辿り着けば、優美な動作で座るよう促された。
「…お隣、失礼しますね」
「は、はい…っ」
指の先まで丁寧な、物腰の柔らかなイヴァニエの人柄をそのまま映したような佇まいに見惚れ、ポーッとしていたところにふいに話しかけられて、慌てて返事をする。
(…あ、お隣に、座ってくれた…)
ゆるりと隣に腰を下ろすイヴァニエの姿を目で追いながら、そこでふと、ルカーシュカ同様、彼との距離も近くなったという現実を改めて感じ、今更ながらにじわじわと喜びが湧き上がった。
「…嬉しそうですね」
「へ?」
「いえ、そういう顔が見れたのは、私にとっても嬉しいことです」
ニコニコと微笑むイヴァニエに目を瞬いている間に、テーブルの上にミルクの入ったカップがコトリと置かれた。
「アドニス様。せっかくですから、イヴァニエ様とお話しをしながら、お食事にしましょう」
「あ…うん」
「そういえば、食事がまだでしたね」
先にご飯…と、蜂蜜の甘い香りがふんわりと漂うカップを手に持つと、コクリと一口だけ飲み込んだ。
「美味しいですか?」
「はい」
「んぅー?」
「…これはご飯だから、お花は出ないよ?」
イヴァニエが隣にいるからだろうか。彼からの贈り物の花を降らす雲を探すように、赤ん坊達が空中に向かって両腕をパタパタと動かした。
「また贈りましょうね」
「あ…ご、ごめんなさい…! あの、ね、強請った、訳じゃ…!」
「あなたも、プティも喜んでくれるのなら、喜んで用意しましょう。…いくらでも強請って下さい」
「…っ、で、でも…」
「アドニス様、イヴァニエ様のお気持ちですから、どうかお受け取り下さいませ」
「ぁ…う……ぅ、…ありがとう、ございます…」
「ふふ、こちらこそ」
「あ~!」
意味が分かっているのかいないのか、きゃあきゃあとはしゃいでパチパチと手を叩く赤ん坊達。
本当に良いのだろうかと心配になりつつ、先ほどのイヴァニエの発言に、トクトクと鳴る心臓を隠したくて、そっと胸元を押さえた。
『強請って下さい』
甘やかすような言葉と、嬉しそうに微笑むイヴァニエ。
素直に喜ぶにはむず痒くて、どことなく落ち着かない気持ちになりながら、それを誤魔化すようにカップに口を付けた。
口の中に広がったミルクの味は、いつもより少しだけ、甘く感じた。
イヴァニエとエルダ、赤ん坊達とゆったりと過ごしながら、残りのミルクを飲み干した頃、突如『コンコン』と扉を叩く音がした。
「…ルカーシュカ様ですね」
「そう、だね…?」
確認を取りつつ、足早に扉へと向かったエルダの背を見送る。ここ数日、毎日訪れていたルカーシュカの訪問には、自分もエルダも慣れていた。
「おはようございます、ルカーシュカ様」
「おはよう」
予想していた通り、扉が開かれた先にはルカーシュカの姿があった。
最近はエルダと交わす言葉も簡略化された様で、朝の挨拶のみ交わすとルカーシュカが部屋の中へと入ってきた。
瞬間、隣に座るイヴァニエを見て顔を顰めたが、すぐに視線を逸らすと、真っ直ぐこちらに向かってきた。
「おはよう、アドニス」
「おはようございます…ルカーシュカ様」
柔らかな表情にホッとしたのも束の間、再びイヴァニエに視線を移した顔は険しいものだった。
「…ここで何してる」
普段よりも幾分低いルカーシュカの声に、反射的にピャッと体が揺れてしまったが、エルダが傍らに戻ってきてくれたことで、それ以上狼狽えることはなかった。
「…あなたも来ているではないですか」
「俺はお前の側仕えに、お前の姿が見当たらないと泣きつかれたから来たんだ」
「まさかと思って来てみれば、案の定だったな」と、溜め息を吐くルカーシュカと、どこか居心地悪そうに視線を逸らすイヴァニエ。
何が起きているのか分からず、交互に二人に視線を送っていると、気づいたルカーシュカが簡単に説明してくれた。
人間界に降りている間、イヴァニエ達が普段担っていた役目は、他の天使達が代理として行っていた。
その為、天界に戻ったらまずは留守中にあった出来事の報告等、必要なやりとりがあるのだが、その主となるイヴァニエが朝から姿を消したせいで、仕える天使達はあちらこちらを探し回っているのだという。
「…バルドル様から休んでいいと言われています」
「必要最低限のことを終えるのが大前提だ、馬鹿野郎」
不機嫌さを隠さないルカーシュカと、怪しくなってきた雲行きにオロオロと視線を彷徨わせていると、隣に立つエルダがそっと口を開いた。
「イヴァニエ様。アドニス様のことを気に掛けて下さるのは大変有り難いことではございますが、教育上、あまりよろしくないことのお手本は避けて頂きたく存じます」
「…!」
「?」
エルダの言葉に、イヴァニエはハッとしてこちらを見たが、言葉の意味を理解出来ず、今度はエルダとイヴァニエを交互に見る。
「そうだな。良くないことを、そういうものだと覚えられたら大変だ」
「はい。見たもの、聞いたことを、そのまま真似されてしまうのは大変危険です」
「……分かりました。戻ります」
「…?」
誰に何を聞けばいいのか分からない内に、話が収束していく。首を傾げていると、一緒に話を聞いていた赤子達も、真似して同じようにコテリと頭を傾けた。
「うー?」
「…なんだろうね?」
(…あ、この子達が真似しちゃうって、お話しかな?)
今も自分の真似をしている姿に、「なるほど」と納得する。
ルカーシュカの話の内容からも、イヴァニエが此処にいるのは、あまり良くないのだろうことも理解できた。
「他の…エルダと、おんなじ子達が、困ってるの?」
「…っ、アドニス、それは…」
「ええ、そうですね。皆とても困ってしまって、ルカーシュカ様に助けを求めたのでしょう」
「エルダ…!」
どこか焦った様子のイヴァニエと、その様子を呆れ顔で見つめるルカーシュカ、いつもと変わらぬ微笑みで答えてくれるエルダを順々に見渡してから、イヴァニエに視線を戻した。
「…イヴァニエ様…あの、…来て、下さるのは…嬉しいです…けど…、でも…あの…みんなが、困るのは……」
「…ええ、ごめんなさい。すぐに戻りましょう。あなたにそんな顔をさせたくはありませんから」
「あ、あの…嬉しいのは、本当で…」
「…ありがとうございます。やることを終えたら、また来てもいいですか?」
「…! はい…!」
「では、また改めて」
コクコクと頷けば、一つ笑みを零したイヴァニエがゆっくりと席を立った。
帰るのだということが分かり、一緒に席を立つ。見送りの為、赤子達に「待っててね」と伝えていると、そそっと側に寄ったエルダが、声を落としてあることを教えてくれた。
「アドニス様、イヴァニエ様のお召し物をお預かりしたままです」
「あ」
そう言われて初めて、昨夜返す予定だった羽織りの存在を思い出す。
返さなきゃ、と口にするより早く、既にエルダの手には綺麗に畳まれた羽織りがあり、流れるような動作で手渡された。
「ありがとう」
「よろしければ、アドニス様の手で、イヴァニエ様の肩に掛けて差し上げて下さいませ」
「……いいの?」
「勿論です。きっとお元気になられるはずです」
「…? …うん」
(…元気、ないのかな?)
そうは見えなかったのだが、元気になるのは良いことだと思う。
エルダと言葉を交わしている間に二人との距離が空いてしまい、やや駆け足で後を追えば、扉の前に辿り着いていたイヴァニエとルカーシュカが揃ってこちらを振り返っていた。
「イ、イヴァニエ様…っ」
「はい、どうしました?」
「あの、これ…ありがとう、ございました…!」
「ああ、すっかり忘れていましたね」
苦笑を漏らしながら受け取ろうとするイヴァニエに、エルダの言っていたことを実行するにはどうすればいいのか迷い、差し出した腕を手前に引いた。
「アドニス?」
「あ…あの…」
(あれ? でも、イヴァニエ様…違うの羽織ってるけど…)
思えば、昨夜も今と同じ羽織りを身に付けていた。既に羽織っている状態なのだから、借りていた物はそのまま返せばいいのでは…と思っていると、エルダが一歩前に出た。
「イヴァニエ様、よろしければ、お召し物をお預かり致します」
「…! ええ、お願いします」
何かに気づいたように、ハッと息を呑んだイヴァニエが背を向け、おもむろに羽織りを脱ぐと、肩から滑り落ちたそれをエルダが素早く受け取った。
「アドニス様」
「あ、は、はい…っ」
一連の二人の行動をポカンとしたまま見ていたが、エルダの促すような声に、慌てて腕の中にある羽織りを広げた。
毎朝エルダがそうしてくれるように、イヴァニエの背後に立つと、そろそろとその肩に羽織りを掛ける。
(えっと…エルダは、いつもこうして…)
毎日エルダの動きを見ているので、次にどうすればいいのかは覚えている。
背後から正面に周り、形を整えようと胸元に手を添えようとして、至近距離でイヴァニエと目が合ってしまい、驚きから慌てて手を引っ込めた。
「っ…」
「おや? もう終わりですか?」
「ぅ…えっと…」
何も考えずに体に触れようとしていたことに気づき、視線が泳ぐ。気恥ずかしさから後退ると、エルダが前に進み出てくれた。
「恐れながら、続きは私が整えさせて頂きます」
「…残念ですが、仕方ありませんね」
そう言って肩を竦めながら、それでも嬉しそうに笑っているイヴァニエはどこか元気そうで、ホッと息を吐いた。
「…アドニス」
「!」
後ろに下がり、エルダがイヴァニエの衣服を整えているのを眺めていると、ルカーシュカに名を呼ばれ、スッと左手を差し出された。
たったそれだけだったが、言葉にせずとも求められていることが分かり、側まで寄るとその手を握った。
「慌ただしくて悪いな」
「んん…、来てくれて…ありがとう、ございます。…あの、どうしてイヴァニエ様が、ここにいるって…分かったんですか?」
「他はあらかた探し終えた後だからな。残ってるのはこの部屋ぐらいだったんだよ」
話しながら、指先を握って遊ぶようなルカーシュカの手の動きが擽ったくて、つい笑ってしまう。
「ふふ…」
「…今日はもう来れないかもしれんが、明日また、イヴァニエと一緒に来るよ」
「はい…待って、ます」
「うん」
「……随分と楽しそうですね」
「うん? ああ、終わったか」
声に気づき、パッと顔を上げれば、イヴァニエがいつの間にかすぐ近くに立っていた。
薄絹に大柄の花が描かれた羽織りを纏ったイヴァニエの姿は見慣れたそれで、しっくりとくる装いを見つめていると、イヴァニエの右手が差し出された。
瞬きをしつつ、その手に自身の手を重ねればギュッと握られた。
「また来ますね」
「はい…明日また、来て下さったら…嬉しいです」
「…今日はダメなのですか?」
「おい」
「……分かってます。また明日、伺いますね」
「…はい」
悲しげな表情のイヴァニエと、胡乱な表情のルカーシュカを交互に見遣りつつ、繋がった両の手をやんわりと握った。
「お二人、とも…来て下さって、ありがとう、ございます」
キュッと指先に力を込めれば、それに応えるように二人が淡く笑んでくれた。
「いえ、急な訪問ですみませんでした」
「また明日な」
コクリと頷けば、繋がっていた両手がするりと解けた。
「じゃあな、いってくる」
「いってきますね」
「いってらっしゃいませ、イヴァニエ様。ルカーシュカ様」
扉を開け、彼らを見送るエルダ───それを真似るように、同じ言葉を口にした。
「ぁ…い、いってらっしゃい…ませ」
馴染みのない挨拶に、イヴァニエもルカーシュカも目を丸くしていたが、次の瞬間、目を細めて笑ってくれた。
二人が去った後は、いつもと変わらぬ時間を過ごしながら、昨夜イヴァニエに背中の傷痕を治してもらったことをエルダに伝えた。
「それでね、イヴァニエ様が、治して下さったから…背中はもう…大丈夫なんだよ」
「良うございました。アドニス様もイヴァニエ様も、憂いが晴れた様で、私も嬉しく思います」
「…ありがとう。……あの、エルダ」
「はい」
「えっと……えっと、また…あの、お風呂…入らせて、もらえる…?」
「ええ、勿論です。この前は入れないままでしたからね。今度は私もきちんと準備しておきますから、またお風呂に入ってみましょう」
「うん…!」
本当は、他にも色々と話しをした。
でもイヴァニエの後悔と懺悔については、自分が言うべきことではないと思い、口を噤んだ。
エルダも自分があえて黙っていることに気づいているのか、傷痕を癒してもらったこと以外、口にしないことについて、何も聞いてはこなかった。
安堵しつつ、隠し事をしている様な気持ちが落ち着かなくて、つい話を逸らしてしまったが、それでも微笑んでくれるエルダの優しさに、今はただ甘えさせてもらった。
翌日、言われていた通り、イヴァニエとルカーシュカが揃って部屋を訪れた。
予めエルダから来訪時間について聞いていたので、出迎える為の準備も整っており、久方ぶりに三人揃って話しが出来ることに、心は浮き立っていた。
(今日は、なんのお話しをするのかな…)
ふわふわとした気持ちで迎えた約束の時間───それなのに、どうしてか訪れた二人の表情は、ほんの少しだけ強張っていた。
「アドニス、今日は少しだけ……これから先のことについて、話しをしようか」
ゆらゆらと漂っていた感覚が途切れ、ふっと目が覚めた。重い瞼を上げ、ぼんやりと瞬きを繰り返しながら、ぬくぬくとした布団の温もりに浸ること暫く、ふとある違和感に気づき、パチリと意識が覚醒した。
「……あれ?」
いつもとは違う部屋の雰囲気に、上体を起こすと周囲を見回す。
(…エルダと、みんなは?)
毎朝起きれば必ず傍らにいたエルダと、ベッドの上に寝転んでいるはずの赤ん坊達がいない。
自分だけが取り残されたような室内は静まり返り、寂しさに包まれていた。
茫然としながらもその場でジッとしていると、微かに隣室から赤ん坊達の声が聞こえ、ホッと胸を撫で下ろす。
(…どうして、隣にいるんだろう?)
はて? と思いながら、もぞもぞとベッドから抜け出した。
扉に近づけば近づくほどハッキリと聞こえる赤ん坊達の声はなにやらはしゃいでいて、皆で遊んでいる様だった。
朝から元気な声に頬が綻ぶのを感じつつ、そっと扉を開けた。
「あ…、アドニス様。おはようございます」
「エルダ」
ゆっくりと扉を開けば、その隙間から、扉のすぐ真横に立つエルダの姿が見えた。
近くにいてくれたこと、いつもと変わらぬ笑みを返してくれたことに、知らぬ間に張っていた気がホワリと抜けた。
「おはよう、エル───」
そこまで言いかけた時だった。
「アドニス!」
「ふぇっ?」
突然聞こえた第三者の声に驚き、声が跳ねる。慌てて声のした方を見遣れば、ソファーの周りで固まっている赤ん坊達の中にイヴァニエの姿があり、目を瞬いた。
「……イヴァニエ様?」
(…え? どうして…?)
いないはずの人物がいることに、疑問符を浮かべたまま固まっていると、その間にイヴァニエがこちらへと早足で近づいてきた。
「おはようございます。…体調はいかがですか?」
「…おはよう、ございます…えっと…大丈夫…です?」
「どこか痛かったり、気分が悪かったりしませんか?」
「う…? 大丈夫、です」
なぜイヴァニエが今ここにいるのか、不思議に思いながらフルフルと首を横に振れば、イヴァニエがホッと表情を和らげた。
(……あ)
そこでようやく、昨夜のやりとりを思い出す。
きっと心配して、わざわざ来てくれたのだろうと思い至り、サワサワと胸の内側を撫でられるような、擽ったい気持ちになる。
「あの…ありがとう、ございます。…どこも、痛くない、です」
「そうですか…良かった」
頬を緩めたイヴァニエに、つられて笑みを返していると、エルダが僅かに動いた。
「イヴァニエ様、先にアドニス様のお支度をさせて頂きたく存じます」
「ああ、そうですね。私はプティ達ともう少し待っていましょう」
そう言われ、赤ん坊達に視線を向ければ、何人かがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。が、それをイヴァニエがそっと手で制し、ソファーの方へと一緒に戻っていった。
その様子を目で追いつつ、エルダに促されて寝室の中に戻ると、いつもと同じようにエルダが身支度を整えてくれた。
「イヴァニエ様は…いつから、いらっしゃってたの?」
「半刻ほど前からです。昨夜は遅い時間までアドニス様を付き合わせてしまったから、目が覚めるまで起こさなくていいと仰られて…」
「…もしかして、いつもより起きる時間…遅い?」
「はい。一時間ほど遅いお目覚めかと…ですが、昨夜は寝るのも遅かったですし、睡眠時間はいつもと変わりませんよ」
「そっか…」
窓の外を見れば、確かにいつもの目覚めよりも陽が高くに昇っている様に見えた。
「…イヴァニエ様と、お話しはできましたか?」
ローブを肩に掛けてもらっていると、背後から呟くようなエルダの声が聞こえた。
「…うん。ちゃんと、お話しできたよ」
「それは良うございました」
エルダもずっと、心配してくれていたのだろう。耳に届いた声には安堵の色が滲んでいた。
身支度が整ったところで、エルダの華奢な手を両の手で包むように握り締めた。
「エルダも、いっぱい心配してくれて…ありがとう」
「…恐れ入ります。アドニス様が嬉しそうで、私も嬉しいです」
その言葉で、昨夜イヴァニエと言葉を交わせて、彼の胸の内をきちんと聞くことができて良かったと、改めてそう思えた。
温かく笑んでくれるエルダが嬉しくて、握った手を揺らしながら、思うまま口を動かす。
「あのね、エルダも、びっくりしちゃったと、思うんだけど…あの、背中にあった傷をね、イヴァニエ様が、綺麗に治して…」
「…アドニス様、お話しして下さって大変嬉しいのですが、そちらの件はまた後で、ゆっくりお話ししましょう。今はイヴァニエ様をお待たせしておりますので…」
「あっ、は、はい…!」
困り顔で笑うエルダに諭され、反射的に背筋が伸びる。握っていた手を握り返され、そのまま手を引かれて隣室へと向かった。
(…あれ? そういえば、昨日はどうやってベッドまで移動したんだろう?)
そこでふと、初めて記憶と現実が繋がっていないことに気づく。
昨日は確か、ソファーで横になったまま意識が途切れたはずだ。それなのに、目覚めた時にはベッドの上にいた。
(エルダはいなかったし……イヴァニエ様が…?)
まさか…と思うも、自力で正解に辿り着けるはずもない。エルダは何か知っているだろうか…と思っている間に、カチャリと扉が開く音がした。
「…え?」
扉の開いた先、ソファーに戻ったとばかり思っていたイヴァニエが、何故か先ほどと変わらない立ち位置で赤ん坊達と共に待ち構えており、思わず声が漏れた。
「んぁ!」
「あ、わ…っ」
その姿を認識するや否や、イヴァニエの周囲に飛んでいた赤ん坊達が一斉に向かってきて、反射的に抱き留めた。
「え…ど…?」
「すみません。すぐに戻ってくると伝えたのですが、中に入ると言って聞かないので…」
苦笑するイヴァニエ曰く、自分とエルダが寝室に戻ろうと背を向けた時、赤ん坊達も一緒に中に入ろうと向かってきていたのだが、間に合わなかったらしい。
中に入ろうにも、扉を開けられない赤子達にはそれが出来ない。それでも扉を押そうとしたり、イヴァニエに「開けて」とせがんだりと、短い時間だったがごねて大変だったそうだ。
「ご、ごめんなさい…」
「私は何もできていませんから、気にしないで下さい」
「あの…、朝はいつも…一緒にいるので…もしまた…同じようなことがあれば…開けて、あげて下さい……みんなも、イヴァニエ様のこと、困らせちゃダメだよ…?」
「…む」
「ふふ…待たせて、ごめんね。おはよう」
「だぅ」
唇を尖らす赤子の頬をつつきながら、起床が遅れてしまったことを謝る。…と、イヴァニエが驚いたような表情でこちらを見ていることに気づき、首を傾げた。
「あの…?」
「…また……いえ、開けていいのですか?」
「…? はい…」
困惑したような表情と声音に、更に首を傾げる。
(…いけないのかな?)
何かおかしなことを言っているのだろうか?
チラリと視線をエルダに向けたが、曖昧な笑みを返されてしまった。
「あぅあ?」
「…うぅん、なんでもないよ」
「どうしたの?」と言いたげな赤子の声に、まだ寝室を出てすらいないことに気づき、慌てて一歩踏み出した───と、目の前にイヴァニエの手が差し出され、足が止まった。
「…え?」
「どうぞ」
赤ん坊を抱き留めた時点で、エルダと繋いでいた手は離れていたが、それでも思ってもいなかったイヴァニエの行動に目を丸くする。
もう一度エルダに視線を向ければ、既に後ろに下がっており、なんとなくだがイヴァニエと役目を交代したような雰囲気が察せられた。
(…いいの、かな…?)
差し出された手におずおずと手を重ねると、キュッと握り返され、ゆっくりと手を引かれた。
エルダともルカーシュカとも違う、包まれるような手の大きさや指の長さに慣れず、少しの緊張感に心臓がドクドクと脈打つ。
誘うような足取りを追うようにしてソファーまで辿り着けば、優美な動作で座るよう促された。
「…お隣、失礼しますね」
「は、はい…っ」
指の先まで丁寧な、物腰の柔らかなイヴァニエの人柄をそのまま映したような佇まいに見惚れ、ポーッとしていたところにふいに話しかけられて、慌てて返事をする。
(…あ、お隣に、座ってくれた…)
ゆるりと隣に腰を下ろすイヴァニエの姿を目で追いながら、そこでふと、ルカーシュカ同様、彼との距離も近くなったという現実を改めて感じ、今更ながらにじわじわと喜びが湧き上がった。
「…嬉しそうですね」
「へ?」
「いえ、そういう顔が見れたのは、私にとっても嬉しいことです」
ニコニコと微笑むイヴァニエに目を瞬いている間に、テーブルの上にミルクの入ったカップがコトリと置かれた。
「アドニス様。せっかくですから、イヴァニエ様とお話しをしながら、お食事にしましょう」
「あ…うん」
「そういえば、食事がまだでしたね」
先にご飯…と、蜂蜜の甘い香りがふんわりと漂うカップを手に持つと、コクリと一口だけ飲み込んだ。
「美味しいですか?」
「はい」
「んぅー?」
「…これはご飯だから、お花は出ないよ?」
イヴァニエが隣にいるからだろうか。彼からの贈り物の花を降らす雲を探すように、赤ん坊達が空中に向かって両腕をパタパタと動かした。
「また贈りましょうね」
「あ…ご、ごめんなさい…! あの、ね、強請った、訳じゃ…!」
「あなたも、プティも喜んでくれるのなら、喜んで用意しましょう。…いくらでも強請って下さい」
「…っ、で、でも…」
「アドニス様、イヴァニエ様のお気持ちですから、どうかお受け取り下さいませ」
「ぁ…う……ぅ、…ありがとう、ございます…」
「ふふ、こちらこそ」
「あ~!」
意味が分かっているのかいないのか、きゃあきゃあとはしゃいでパチパチと手を叩く赤ん坊達。
本当に良いのだろうかと心配になりつつ、先ほどのイヴァニエの発言に、トクトクと鳴る心臓を隠したくて、そっと胸元を押さえた。
『強請って下さい』
甘やかすような言葉と、嬉しそうに微笑むイヴァニエ。
素直に喜ぶにはむず痒くて、どことなく落ち着かない気持ちになりながら、それを誤魔化すようにカップに口を付けた。
口の中に広がったミルクの味は、いつもより少しだけ、甘く感じた。
イヴァニエとエルダ、赤ん坊達とゆったりと過ごしながら、残りのミルクを飲み干した頃、突如『コンコン』と扉を叩く音がした。
「…ルカーシュカ様ですね」
「そう、だね…?」
確認を取りつつ、足早に扉へと向かったエルダの背を見送る。ここ数日、毎日訪れていたルカーシュカの訪問には、自分もエルダも慣れていた。
「おはようございます、ルカーシュカ様」
「おはよう」
予想していた通り、扉が開かれた先にはルカーシュカの姿があった。
最近はエルダと交わす言葉も簡略化された様で、朝の挨拶のみ交わすとルカーシュカが部屋の中へと入ってきた。
瞬間、隣に座るイヴァニエを見て顔を顰めたが、すぐに視線を逸らすと、真っ直ぐこちらに向かってきた。
「おはよう、アドニス」
「おはようございます…ルカーシュカ様」
柔らかな表情にホッとしたのも束の間、再びイヴァニエに視線を移した顔は険しいものだった。
「…ここで何してる」
普段よりも幾分低いルカーシュカの声に、反射的にピャッと体が揺れてしまったが、エルダが傍らに戻ってきてくれたことで、それ以上狼狽えることはなかった。
「…あなたも来ているではないですか」
「俺はお前の側仕えに、お前の姿が見当たらないと泣きつかれたから来たんだ」
「まさかと思って来てみれば、案の定だったな」と、溜め息を吐くルカーシュカと、どこか居心地悪そうに視線を逸らすイヴァニエ。
何が起きているのか分からず、交互に二人に視線を送っていると、気づいたルカーシュカが簡単に説明してくれた。
人間界に降りている間、イヴァニエ達が普段担っていた役目は、他の天使達が代理として行っていた。
その為、天界に戻ったらまずは留守中にあった出来事の報告等、必要なやりとりがあるのだが、その主となるイヴァニエが朝から姿を消したせいで、仕える天使達はあちらこちらを探し回っているのだという。
「…バルドル様から休んでいいと言われています」
「必要最低限のことを終えるのが大前提だ、馬鹿野郎」
不機嫌さを隠さないルカーシュカと、怪しくなってきた雲行きにオロオロと視線を彷徨わせていると、隣に立つエルダがそっと口を開いた。
「イヴァニエ様。アドニス様のことを気に掛けて下さるのは大変有り難いことではございますが、教育上、あまりよろしくないことのお手本は避けて頂きたく存じます」
「…!」
「?」
エルダの言葉に、イヴァニエはハッとしてこちらを見たが、言葉の意味を理解出来ず、今度はエルダとイヴァニエを交互に見る。
「そうだな。良くないことを、そういうものだと覚えられたら大変だ」
「はい。見たもの、聞いたことを、そのまま真似されてしまうのは大変危険です」
「……分かりました。戻ります」
「…?」
誰に何を聞けばいいのか分からない内に、話が収束していく。首を傾げていると、一緒に話を聞いていた赤子達も、真似して同じようにコテリと頭を傾けた。
「うー?」
「…なんだろうね?」
(…あ、この子達が真似しちゃうって、お話しかな?)
今も自分の真似をしている姿に、「なるほど」と納得する。
ルカーシュカの話の内容からも、イヴァニエが此処にいるのは、あまり良くないのだろうことも理解できた。
「他の…エルダと、おんなじ子達が、困ってるの?」
「…っ、アドニス、それは…」
「ええ、そうですね。皆とても困ってしまって、ルカーシュカ様に助けを求めたのでしょう」
「エルダ…!」
どこか焦った様子のイヴァニエと、その様子を呆れ顔で見つめるルカーシュカ、いつもと変わらぬ微笑みで答えてくれるエルダを順々に見渡してから、イヴァニエに視線を戻した。
「…イヴァニエ様…あの、…来て、下さるのは…嬉しいです…けど…、でも…あの…みんなが、困るのは……」
「…ええ、ごめんなさい。すぐに戻りましょう。あなたにそんな顔をさせたくはありませんから」
「あ、あの…嬉しいのは、本当で…」
「…ありがとうございます。やることを終えたら、また来てもいいですか?」
「…! はい…!」
「では、また改めて」
コクコクと頷けば、一つ笑みを零したイヴァニエがゆっくりと席を立った。
帰るのだということが分かり、一緒に席を立つ。見送りの為、赤子達に「待っててね」と伝えていると、そそっと側に寄ったエルダが、声を落としてあることを教えてくれた。
「アドニス様、イヴァニエ様のお召し物をお預かりしたままです」
「あ」
そう言われて初めて、昨夜返す予定だった羽織りの存在を思い出す。
返さなきゃ、と口にするより早く、既にエルダの手には綺麗に畳まれた羽織りがあり、流れるような動作で手渡された。
「ありがとう」
「よろしければ、アドニス様の手で、イヴァニエ様の肩に掛けて差し上げて下さいませ」
「……いいの?」
「勿論です。きっとお元気になられるはずです」
「…? …うん」
(…元気、ないのかな?)
そうは見えなかったのだが、元気になるのは良いことだと思う。
エルダと言葉を交わしている間に二人との距離が空いてしまい、やや駆け足で後を追えば、扉の前に辿り着いていたイヴァニエとルカーシュカが揃ってこちらを振り返っていた。
「イ、イヴァニエ様…っ」
「はい、どうしました?」
「あの、これ…ありがとう、ございました…!」
「ああ、すっかり忘れていましたね」
苦笑を漏らしながら受け取ろうとするイヴァニエに、エルダの言っていたことを実行するにはどうすればいいのか迷い、差し出した腕を手前に引いた。
「アドニス?」
「あ…あの…」
(あれ? でも、イヴァニエ様…違うの羽織ってるけど…)
思えば、昨夜も今と同じ羽織りを身に付けていた。既に羽織っている状態なのだから、借りていた物はそのまま返せばいいのでは…と思っていると、エルダが一歩前に出た。
「イヴァニエ様、よろしければ、お召し物をお預かり致します」
「…! ええ、お願いします」
何かに気づいたように、ハッと息を呑んだイヴァニエが背を向け、おもむろに羽織りを脱ぐと、肩から滑り落ちたそれをエルダが素早く受け取った。
「アドニス様」
「あ、は、はい…っ」
一連の二人の行動をポカンとしたまま見ていたが、エルダの促すような声に、慌てて腕の中にある羽織りを広げた。
毎朝エルダがそうしてくれるように、イヴァニエの背後に立つと、そろそろとその肩に羽織りを掛ける。
(えっと…エルダは、いつもこうして…)
毎日エルダの動きを見ているので、次にどうすればいいのかは覚えている。
背後から正面に周り、形を整えようと胸元に手を添えようとして、至近距離でイヴァニエと目が合ってしまい、驚きから慌てて手を引っ込めた。
「っ…」
「おや? もう終わりですか?」
「ぅ…えっと…」
何も考えずに体に触れようとしていたことに気づき、視線が泳ぐ。気恥ずかしさから後退ると、エルダが前に進み出てくれた。
「恐れながら、続きは私が整えさせて頂きます」
「…残念ですが、仕方ありませんね」
そう言って肩を竦めながら、それでも嬉しそうに笑っているイヴァニエはどこか元気そうで、ホッと息を吐いた。
「…アドニス」
「!」
後ろに下がり、エルダがイヴァニエの衣服を整えているのを眺めていると、ルカーシュカに名を呼ばれ、スッと左手を差し出された。
たったそれだけだったが、言葉にせずとも求められていることが分かり、側まで寄るとその手を握った。
「慌ただしくて悪いな」
「んん…、来てくれて…ありがとう、ございます。…あの、どうしてイヴァニエ様が、ここにいるって…分かったんですか?」
「他はあらかた探し終えた後だからな。残ってるのはこの部屋ぐらいだったんだよ」
話しながら、指先を握って遊ぶようなルカーシュカの手の動きが擽ったくて、つい笑ってしまう。
「ふふ…」
「…今日はもう来れないかもしれんが、明日また、イヴァニエと一緒に来るよ」
「はい…待って、ます」
「うん」
「……随分と楽しそうですね」
「うん? ああ、終わったか」
声に気づき、パッと顔を上げれば、イヴァニエがいつの間にかすぐ近くに立っていた。
薄絹に大柄の花が描かれた羽織りを纏ったイヴァニエの姿は見慣れたそれで、しっくりとくる装いを見つめていると、イヴァニエの右手が差し出された。
瞬きをしつつ、その手に自身の手を重ねればギュッと握られた。
「また来ますね」
「はい…明日また、来て下さったら…嬉しいです」
「…今日はダメなのですか?」
「おい」
「……分かってます。また明日、伺いますね」
「…はい」
悲しげな表情のイヴァニエと、胡乱な表情のルカーシュカを交互に見遣りつつ、繋がった両の手をやんわりと握った。
「お二人、とも…来て下さって、ありがとう、ございます」
キュッと指先に力を込めれば、それに応えるように二人が淡く笑んでくれた。
「いえ、急な訪問ですみませんでした」
「また明日な」
コクリと頷けば、繋がっていた両手がするりと解けた。
「じゃあな、いってくる」
「いってきますね」
「いってらっしゃいませ、イヴァニエ様。ルカーシュカ様」
扉を開け、彼らを見送るエルダ───それを真似るように、同じ言葉を口にした。
「ぁ…い、いってらっしゃい…ませ」
馴染みのない挨拶に、イヴァニエもルカーシュカも目を丸くしていたが、次の瞬間、目を細めて笑ってくれた。
二人が去った後は、いつもと変わらぬ時間を過ごしながら、昨夜イヴァニエに背中の傷痕を治してもらったことをエルダに伝えた。
「それでね、イヴァニエ様が、治して下さったから…背中はもう…大丈夫なんだよ」
「良うございました。アドニス様もイヴァニエ様も、憂いが晴れた様で、私も嬉しく思います」
「…ありがとう。……あの、エルダ」
「はい」
「えっと……えっと、また…あの、お風呂…入らせて、もらえる…?」
「ええ、勿論です。この前は入れないままでしたからね。今度は私もきちんと準備しておきますから、またお風呂に入ってみましょう」
「うん…!」
本当は、他にも色々と話しをした。
でもイヴァニエの後悔と懺悔については、自分が言うべきことではないと思い、口を噤んだ。
エルダも自分があえて黙っていることに気づいているのか、傷痕を癒してもらったこと以外、口にしないことについて、何も聞いてはこなかった。
安堵しつつ、隠し事をしている様な気持ちが落ち着かなくて、つい話を逸らしてしまったが、それでも微笑んでくれるエルダの優しさに、今はただ甘えさせてもらった。
翌日、言われていた通り、イヴァニエとルカーシュカが揃って部屋を訪れた。
予めエルダから来訪時間について聞いていたので、出迎える為の準備も整っており、久方ぶりに三人揃って話しが出来ることに、心は浮き立っていた。
(今日は、なんのお話しをするのかな…)
ふわふわとした気持ちで迎えた約束の時間───それなのに、どうしてか訪れた二人の表情は、ほんの少しだけ強張っていた。
「アドニス、今日は少しだけ……これから先のことについて、話しをしようか」
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