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フォルセの果実
61.焦がれて咲く花(後)
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「こちらは私達が手を加えずともいいでしょうか?」
「そうだな」
「あっちの泉はどうする? 水が枯れるのはまずいぞ」
「もう暫く様子を見よう。自然に回復する可能性もあるだろ」
人間界に降りて二日。地動による被害は広く、空から見下ろせば、地面を這う亀裂が遠くまで続いているのが見えた。
多くの生き物の命が儚く消えたであろう大地は痛々しい姿をしていたが、自分達にできることは少ない。
ただ少しばかり、残った命を繋ぎ止める為の、ほんの少しの手助けができるか否かを見極めなければいけなかった。
「泉の底にも亀裂が───」
「あの峰の向こうには聖地があったはずだが───」
極力、自分達は手を加えない。
あるがままに時が過ぎ去るのを待つべきなのが理想なのだ。だからこそ、行動には慎重になり、与えられた役目に集中することが出来た。
だがふとした時、脳裏にチラつく顔に、意識を持っていかれる瞬間があった。
数ヶ月間、三日に一度という決まった日取り、同じ時間で、アドニスと共に過ごしていた。
その日々が途切れたこと、側を離れたからこそ、余計にその存在が気になって仕方なく、思い出しては落ち着かない気持ちになっていた。
今日は何をしているだろう?
穏やかに過ごしているだろうか?
ルカーシュカとは、変わらず睦まじく過ごしているのだろうか───…
離れてしまった寂しさ故か、一度落ち着いていたはずの悋気が顔を出し、もやもやとした感情が胸中に渦巻いた。
今こうしている間も、まるで自分だけが除け者になったかのような寂しさと焦燥感に駆られ、その分、想いは募っていった。
(それでも、アドニスが寂しい思いをしていないだけ、良いのでしょうけど…)
膨れていく感情を鎮めるように、赤ん坊達の声が響く明るい部屋の情景を思い出す。
ルカーシュカと共にあの部屋を訪れた時の暗さも、淀んだ空気も、冷たくなったアドニスの体温も、まだハッキリと覚えている。
悲しみの底に沈んだような孤独の中、眠ったまま朽ちる寸前だった頃のアドニスのことを思えば、嫉妬心も萎んだ。
ルカーシュカとエルダ、プティ達がアドニスを囲む、温かで穏やかな日々の中、笑ってくれているのなら、自分がその場にいない寂しさはあったが、なにより安心することは出来た。
「イヴァニエ、移動しよう」
「…ええ、分かりました」
(…今はこちらに集中しなければ)
どれだけ想ったところで、今はどうしようもない…そう気持ちを切り替えると、大きく翼を広げた。
「ここまでだな」
「そうですね」
人間界に降りて六日。与えられた役目の終わりが見え、ホッと息を吐いた。
広範囲に渡る被害は深く、あちらこちらを見ている間に、六日という時間が過ぎていた。
時間は掛かったが、周辺を見て周り、互いの考えを出し合い、最終的には生き物達の生死に関わる水源の損壊を修復し、清める程度の施しに留めた。
ささやかなものだが、これ以上手を出すのは良くないと判断したのだ。
「あとは彼らの行く末を祈るだけだな」
「ええ」
「きっと大丈夫だ。そう信じてやろう」
「…ああ」
あえて明るく、朗らかに笑うシルヴェストと、傷ついたままの大地を睨むように見つめるフェルディーナ…それぞれの表情は相反していたが、心から願うことは皆一緒だろうと、そっと瞳を伏せた。
「…帰りましょうか」
「そうだな。早く帰ってバルドル様にご報告せねば」
「今回は長くなったからなぁ。帰る頃には向こうは十一…十二日? 過ぎてるのか」
真面目を絵に描いたようなフェルディーナと、のんびりとしたシルヴェストの反応の違いを横目に、手首に付けた腕輪に聖気を流し込めば、金色の蝶が一羽生まれた。
金粉を振り撒く蝶は、数度その場で羽ばたくと、金の粉を残して空気に溶けるようにふわりと消えた。
「行きましょう」
帰還の先触れとして飛ばした帰蝶を見送ると、雲の切れ目を探した。
天界から人間界に降りるには、決まった場所にある扉を開ければいいだけだが、人間界から天界に帰るには雲の切れ間を探し、そこにあちらの世界とこちらの世界とを繋げる扉を設置しなければいけないので、少しばかり手間が掛かる。
(…十二日ですか)
人間界に滞在していたのは六日間だが、移動の往復には更に六日という時間が必要だった。
人間界と天界の時の流れは同じだが、それでも違う次元にある世界と世界を繋ぎ、そこを移動するには、片道だけで三日という時間が消費される。
と言っても、移動している者達にとっては一瞬の出来事だ。扉を開き、光のヴェールをくぐるように数歩進めば、扉の向こう側に出られる。
移動している者には僅かな時間なのだが、扉の先は時空が歪んでいるのか、その一瞬の内に扉の外の世界では七十二時間という時が過ぎているのだ。
(十日ほどで帰れる予定だったのですが…)
人間界の滞在時間は、平均して三日ほどだ。今回もその体でアドニスに話していたのだが、少しばかり長い滞在になってしまった。
(……早く…)
───早く、アドニスに会いたい。
役目を終えた安堵から、気が抜けると同時に、じわじわと欲望が滲み出し、落ち着かない気持ちになる。
たった六日。だが、振り返ってみればその六日間のなんと長かったことだろう。
役目に集中していた時は考えまいと意識していたが、その必要がなくなり、天界へと帰ろうとしている今、押し込めていた分の感情も一緒になって溢れ出した。
会いたい、触れたい、声が聞きたい。
極自然に湧き上がる感情は、自分でも驚くほど恋情に素直で、「早く早く」と急かすように帰路の道を焦らせた。
話さなければいけないことがあるのは勿論覚えているが、それよりも今はただ『会いたい』という思いが強かった。
「お、あそこから帰れそうだな」
シルヴェストが示した先には、雲の切れ間から零れる陽の光が、大地へと差し込んでいた。
その光の筋に沿って上空へと昇り、雲の中を身を隠すように飛ぶと、その場に留まった。
横並びになり、空気の壁に手を付くように手の平を翳すと、聖気を放出する。直後、目の前に見上げるほど大きな扉が現れた。
徐々に形が浮かび上がるのは、金と銀の装飾が施された純白の扉。完全に姿を現したそこに手の平を押し付けると、扉へと聖気を流し込む。
グングンと聖気が吸い取られること数秒、ガコンッという重い音を響かせながら、ゆっくりと扉が開き始めた。
内側から漏れ出す光は眩しく、光の筋となって大地を照らす。陽の光と混じった白い光は、天界へと続く帰り道だ。
光の道に足を踏み出し、開け放たれた扉を通る。
柔らかな光のヴェールが揺蕩う中、二歩、三歩と歩けば、背後で静かに扉が閉じる音がした。
そうして前を向けば、そこにはもう、見慣れた世界の風景が広がっていた。
「おかえりなさいませ、フェルディーナ様、イヴァニエ様、シルヴェスト様」
「ああ、今帰った」
帰蝶の先触れに合わせ、出迎えてくれた天使達に声を返す。
聖気で作り出された帰蝶は、扉を通じなくとも天界と人間界を行き来することが可能であり、移動に費やす時間も僅かなものだ。飛ばしてからそう時を経たずに、バルドル神の元へと辿り着いただろう。
「もう夜になってるな」
「…移動に少し時間が掛かってしまったみたいですね」
扉を介しての移動は七十二時間程度、と少しばかり時間にバラつきがある。
扉に流した聖気の量や、人間界のどの地域にいるか、要因はいくつかあるが、人間界の時の数え方で五時間前後のズレが生じる時があった。
(…今日、アドニスの元へ向かうのは難しいですね)
煌めく星空を見上げながら、思わず溜め息が零れた。
これからバルドル神の元へ報告に向かうのだ。その後となれば、陽が沈めば眠ってしまうアドニスのところへ向かうには、あまりにも遅過ぎる時間だろう。
『会いたい』という欲が積もっていた分、諦めなければいけないことに気分は落ち込んだが、こればかりは仕方がない。
「早いところ報告に行って、今日はもう休もう。流石に疲れたぞ」
「そうだな」
大きく伸びをしながら歩くシルヴェストとフェルディーナの後を、気落ちしたままついていく。
言葉数も少なく、だが役目を成し終えた安堵から緩んだ空気の中、バルドル神の元へと向かう。人気の少なくなった宮廷の回廊に、三人分の足音だけが響いていた。
「そういえば、もうじきフォルセの果実が実るな」
「…ッ」
そんな中、唐突に口を開いたシルヴェストの言葉に、ドクリと心臓が跳ねた。
「ああ、あと二月ほどか」
「早かったなぁ……あれから四年かぁ」
『あれから』という言葉が指す意味に、ドクドクと心臓が鳴った。
「…ああ、これでアレの謹慎も解ける」
「忌々しい」と言わんばかりに眉根にくっきりと皺を刻んだフェルディーナに、シルヴェストが困ったように笑った。
「そんな顔すんなって。アイツだって、この四年間、ずっと大人しかったじゃないか」
「だから改心したとでも? アレに限って有り得んな」
「ん~…まぁ、改心したかどうかはなんとも言えんが…それでも、謹慎を破ってないだけ奇跡的だと思うぞ?」
「随分と安い奇跡だな。罰なのだから当然のことだろう」
楽観的な発言をバッサリと切り捨てるフェルディーナに、シルヴェストが苦笑いを返す。
「お前さんは相変わらずだな~。でも、フェルディーナだって、あれからアドニスには会ってないんだろう?」
『アドニス』と名が出たことで、心臓の鼓動は嫌でも速くなった。
「会う理由が無い。……ああ、いや。そういえば、一度だけ、偶然アレの顔を見てしまったことがあったな」
「…え?」
思いがけない言葉に、思わず声が漏れ、歩みを止めてしまった。
「どうした?」
「あ、ああ……いえ…その、あなたが、アドニスに会っていたとは思わず…」
「好きで会った訳じゃない。たまたまだ」
聞けば、アドニスが謹慎部屋に籠って暫くした頃、アドニスが部屋のバルコニーへと出てきたらしい。
フェルディーナは偶然その近くにいた為、鉢合わせしてしまい、見たくもない顔を見てしまった───と、低い声で語った。
その話を聞きながら、アドニスとルカーシュカの一件で、自分にも威嚇するように声を上げたプティのことを思い出し、ようやく合点がいった。
(エルダの言っていた仮説は合っていたのですね。…なるほど、フェルディーナが相手でしたか…)
よりによってアドニスに対して一等嫌悪感の強い彼がその場にいたのであれば、アドニスが部屋の外に出ることを怖がる気持ちにも納得がいく。恐らく、いや確実に、よほど強い敵意を向けられたのだろう。
「ようやく平穏に過ごせるようになったんだ。謹慎が解けたところで、余計な不和を生むぐらいなら、潔く命の湖に還ってほしいものだ」
「まぁなぁ」
「………」
棘を含んだフェルディーナの言に、言葉を返すことが出来なかった。
(…何も知らなければ、きっと私も、彼らと同じことを思ったのでしょうね…)
今のアドニスのことを知っているからこそ、フェルディーナの言葉に心が痛むのだと、理解できるだけに何も言えず、ズシリと腹の底が重くなった。
以前の粗暴だったアドニスを厭い、嫌悪していたのは自分も同じだ。何も知らなければ、今のアドニスのことを知らなければ、きっと自分も同じように、彼の言葉に同調し、アドニスがいない平穏を喜んだのだろう。
現状を知っているか、知らないか…それだけの違いで、抱く感情はまるで正反対だった。
同時に、あの日あの時、アドニスの元へ向かわなければ、きっと今頃自分は、庇護しなければボロボロに崩れていってしまいそうなほど脆く儚い者がいなくなることを、心から望んでいたのだろう───そんな『もしも』を考え、ゾッとした。
(…今の自分の立場に、彼らがなっていた可能性だってある)
偶然、自分とルカーシュカがその場に収まっただけで、きっと別の誰かが同じ立場になる可能性だってあったのだ。
そうなった時、もしも同じような立場になった時、きっと彼らも今のアドニスのことを守らなければと、そう思っただろう。
もしかしたら、今の自分と同じように、愛しいという感情を抱くようになっていたかもしれない…
そう思えばこそ、フェルディーナの発言に憤りを感じることも、咎めることも出来ず、続く二人の会話を聞きながら、ただ沈黙することしか出来なかった。
「ただいま戻りました」
「おかえり。三人とも、無事に帰ってきてくれて嬉しいよ」
帰還と人間界の報告の為に、バルドル神の元へと向かえば、我らが父は、穏やかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
出発時には他の大天使達も揃っていたが、帰り時は帰還の正確な時間が計れない為、他の者達の姿はない。
シンと静まり返った広い部屋の中、最初にフェルディーナが口を開いた。
「今回の被害の規模についてですが───」
それぞれが人間界で見たもの、聞いたこと、行ったことについて報告していく。
その様子を、バルドル神は時たま頷きながら、静かに聞き入っていた。
質問をされることはなく、ただ自分達が知ったことを事実として、バルドル神は記憶していく。それだけに、伝えるべきことに漏れがないか、誤りがないか、慎重に、丁寧に、報告する必要があった。
「ご報告は以上です」
「…うん。イヴァニエ、フェルディーナ、シルヴェスト、大変な務めを果たしてくれて、ありがとう。疲れただろう? 暫くはゆっくり休みなさい」
「恐れ入ります」
長い報告を終え、労いの言葉を頂くと、見送るようにその場に残ったバルドル神に礼を返し、揃って御前を後にした。
「あ~っ、終わった終わった!」
「ああ、これで御使いの役目は終わった。世話になったな」
「こちらこそ、ありがとうございました」
部屋を出ると、役目を終えた開放感から、ゆるりと気が抜けた。
「俺も、ありがとな。さて、留守にしていた間の報告は明日聞くしかないし、帰って休むかな」
「眠る前に何か口にしておけ」
「はいよ。じゃあな、おやすみ」
「おやすみ。…私も、今日はこれで戻ろう」
「ええ、私も帰りましょう。おやすみなさい」
人間界に長く滞在していたこと、あちらとこちらを繋ぐ扉に多くの聖気の注いだことで、皆消耗が激しかった。
早々に去っていく二人の背を見送り、ゆっくりとその場を離れながら、服の袂から小型の時辰儀を取り出せば、秒針は七時を大きく過ぎていた。
(……アドニスは、寝ていますよね)
きっと今日は会えないだろう…分かりきっていたことだが、改めて実感すれば、どうしたって寂しさが募った。会いたいという気持ちが埋められない喪失感と寂しさに、急激に疲労感が増す。
(というか、アドニスは私が帰ってきていることを知っているのでしょうか?)
帰蝶を飛ばした時点で、他の者達には役目を終えて帰ってくることは伝わっているはずだ。
エルダやルカーシュカから伝わっているかもしれないが、時間が時間ではどうしようもない。
(…明日、エルダに言って、会う時間を設けてもらった方がいいのでしょうね)
より深くなった疲労感に歩みも遅くなる。
夜も更け、照明の絞られた薄暗い宮廷の中、ノロノロと足を動かしていると、こちらに近づいてくる足音があることに気づき、ふっと顔を上げた。
「やっと帰ってきたか。おかえり」
「……ルカーシュカ?」
こちらに向かってくる人影がルカーシュカだったことに驚き、足を止めた。
「…ただいま、帰りました。…どうされたんです? こんな時間に」
「どうって…帰ってきたらアドニスと話しをするんじゃなかったのか?」
願っていた者の名前が出たことに、思わず肩が揺れた。
「それは……そのつもりでしたが、急ですし…」
時間が…と言いかけたところで、ルカーシュカがフッと笑った。
「“こんな時間”だが、アドニスはお前の帰りを待ってるぞ?」
「…!」
その言葉に、瞬間的に心は浮き立ち、身が震えた。
側を離れることでより増した渇望。
「会いたい」と願っていた相手が、自分のことを待っていてくれる…それが堪らなく嬉しかった。
「まぁ、確かに急だしな。アドニスも、お前が疲れているなら今日でなくてもいいと───」
「行きます」
「ふっ…じゃあ行こうか」
食い気味に返事をしてしまったが、ルカーシュカは軽く笑うだけだった。
「それを伝える為に、ずっと待っていたのですか?」
「いや、俺はお前達が帰ってきたって報告を聞いて、待ち伏せしてただけだ」
「ですが……いえ、ありがとうございます」
してただけ、とは言うが、それでもかなり待たせたはずだ。それを言わない彼に、あえて余計なことを言うのは止めた。
「歩きながら話そう」と踵を返すルカーシュカと並ぶように歩きながら、急に軽くなった足取りに、我ながら現金なものだと苦笑いが零れる。
その横で、ルカーシュカが沈んだ息を吐いた。
「…今話すことではないかもしれんが、フォルセの果実の実りが近くなっているせいか、お前達が留守にしている間、何度かアドニスの名前を耳にした」
「…奇遇ですね。私もつい先ほど、その話題を耳にしたばかりですよ」
誰か一人が言い出せば、連鎖のようにその話題は広がっていくものだ。
お互いチラリと横目を合わせると、言葉にし難い状況に揃って肩を落とした。見れば、ルカーシュカの横顔にも若干の疲労が浮かんでいた。
「他のヤツらの言い分が分かる分、何も言えなくてな…」
「それは私も同じですよ。…黙っているしかないでしょう」
ルカーシュカも自分と同じく、複雑な気持ちなのだろう。
誰が悪いという訳ではない。アドニスに対して忌避感があるのは皆同じで、たまたま自分とルカーシュカだけが、その枠組みから外れただけなのだ。
「分かってる。分かっているんだが……少しばかり、悲しくなるな」
「…他の者達は、知らないことですからね。仕方のないことです」
そう、仕方のないことだった。
例え今のアドニスに恋焦がれていたとしても、他の者達が以前のアドニスに向ける感情もまた本物であり、それは否定できるものではない。
自分の想い人に対し、「いなくなればいい」と吐き捨てるように告げられ、どれだけ心が痛んでも、アドニスの現状を話すには危うく、擁護することすら出来ないのだ。
「アドニスがあの部屋を出なければいけなくなるまで、もう二月もない。俺達も、まだアイツのことを正しく知れた訳じゃない。出来ることなら、バルドル様と先に対面させたいんだが…どう思う?」
「私もそれが最善だと思いますが……私がそれに関われるかどうかは、アドニスとの会話次第ですね」
「……そうか。分かった」
何か不穏なものは感じ取っているのだろうが、それでも何も聞いてこないのは彼の優しさだろう。
自分とて、まさかルカーシュカがアドニスと邂逅するよりも前に、保身からアドニスのことを見捨てたなど、とてもではないが言えなかった。
伝えるならば、せめて先にアドニスに伝えてから…その結果がどうなろうと、その時はルカーシュカにも自身の犯した罪を告げようと、今は口を噤んだ。
ふつりと途切れた会話に代わり、周囲の静けさが響く。
カツン、カツンと鳴る二人分の足音の隙間を縫うように、ポツリとルカーシュカが呟いた。
「いつだったか、エルダがアドニスをあの部屋から出すのが怖いと言っていただろう? …今は、その気持ちが嫌になるほど分かるよ」
物静かな声には、目に見えない焦りと不安が滲んでいた。
エルダがアドニスを想い、傷ついてほしくないと嘆き、守ってほしいと真摯に願った言葉を思い出し、そっと瞳を伏せた。
(それは私だって……)
同じ───と、そこまで考えて、ふとある考えが頭を過った。
(…ルカーシュカは、アドニスをどう思っているのでしょう)
それは以前にも抱いた疑問だったが、今となっては既に疑問ではなく、確信めいたものに変わっていた。
エルダが、アドニスに対して主従以上の強い情を抱いていることには気づいていた。
同じように、自分もアドニスに対して恋慕の情を抱いている───ならば、ルカーシュカは?
「どうした?」
知らぬ間に足が止まっていた。
それに気づいたルカーシュカが、数歩先で立ち止まり、こちらを振り返る。
その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「…あなたは、アドニスのことをどう思っていますか?」
何故、今言おうと思ったのだろう?
そんな疑問を抱く間もなく、気づけば思考がそのまま口から漏れていた。
自分でも驚いたが、言われたルカーシュカも驚いただろう。大きく見開かれた黒水晶の瞳が、彼の心情を物語っていた。
(…質問の仕方を間違えましたね)
冷静になれば、あまりにも抽象的な問い方をしてしまったことに気づき、なんとも言えない気まずさが漂った。
妙な緊張感の中、こちらから何か言うべきか口を開きかけた時、瞳を瞬いたルカーシュカがフッと瞳を細め───笑った。
「好きだよ」
静かな空気に反響するように、耳に届いた凛とした声に、ドクリと心臓が鳴った。
質問した意図も、意味も、求めていた答えも…全部ひっくるめて理解した上で、ルカーシュカは答えてくれた。
「好きだよ」と、たった一言。
分かりきっていた答えのはず…それなのに、今また動揺し、焦りを感じている自分がいた。
穏やかに笑い、まるで当然だとでも言うように「好き」と言葉にしたルカーシュカが、何故かとても、遠くに感じた。
「…はぁ…」
辿り着いたアドニスの部屋の前、堪らず零れた溜め息に瞳を伏せた。
あの後、ルカーシュカは「アドニスが待ってるから、早く行ってやれ」とだけ言い残して、その場を去っていった。
自分はと言えば、自ら質問したにも関わらず、茫然としたまま何も言えず、半分意識を飛ばしたまま歩き出すと、ようやくここまで辿り着いた。
(私は、何にショックを受けているのでしょう…?)
ルカーシュカがアドニスに好意を向けていたことには気づいていたはずなのに、どうしてこんなにも動揺し、焦ってしまうのか、自分の心境が分からなかった。
アドニスに会える喜びも、緊張も、きちんと向き合って話がしたいという決意が、自分の迂闊な発言のせいで、ぐずぐずに崩れていってしまいそうな錯覚に、フルリと頭を振った。
(…ダメだ)
大きく息を吸い込むと、モヤモヤとした感情と一緒に深く息を吐き出した。
この扉を開けば、会いたいと願っていた者がいるのだ。今はそのことだけ考えよう───そう思いながら、躊躇いがちにノックをすれば、直後に扉が動き、そのあまりにも早い反応に面食らった。
(…もしや、ずっと待っていたのでしょうか?)
扉の前でうだうだと悩んでいないで、早く訪ねるべきだった…そう反省していると、開いた扉の真正面にアドニスがいて、息を呑んだ。
「お、おかえり、なさい…ませ、イヴァニエ様…!」
まるで一大決心を告げるかのような必死さで、ほんの少しの恥じらいを含んだようなたどたどしさで、アドニスが「おかえりなさい」と言っている───目の前の現実を理解した瞬間、ぶわりと咲き誇った感情に息が止まった。
会いたかった想い人が、自分の帰りを待っていてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、感動にも似た衝撃に、その場で硬直してしまった。
じわじわと全身に滲んでいく『嬉しい』という感情と、徐々に溶け出す『愛しい』という感情に、自然と唇は弧を描いていた。
「…ただいま、帰りました」
───ああ、帰ってきた。
とっくに帰ってきていたのに、「おかえり」という言葉も何度も聞いたはずなのに、どうしてか今、一層強くそう思った。
嬉しくて、愛しくて、溢れる感情を抑えられずに、体は勝手にアドニスへと近づき、指先は無意識の内にその肌へと伸びていた。
「っ!?」
ビクリとアドニスの肩が跳ね、金色の瞳が零れんばかりに大きく見開かれたが、それでも手を離すことが出来なかった。
驚かせているのは分かっていたが、近くにいたい、触れていたいという欲を抑えられず、頬を撫でる手を止められない。
表情から戸惑いは伝わってきたが、嫌がる素振りを見せないアドニスに、「もっと」と欲が出そうになる。…が、それは側に控えていたエルダの存在に止められた。
「…おかえりなさいませ、イヴァニエ様。お帰りををお待ちしておりました」
「……ええ、ただいま帰りました」
瞬時に冷静になった思考に、頬に触れていた手をそっと離した。
(…いけない。自制しないと…)
本来の目的を忘れないように、こっそりと深呼吸をし、昂った気持ちを鎮める。だがそのすぐ後に、いつも座っている席ではなく、ソファーの、更にはアドニスの隣の席を勧められ、心臓が高鳴った。
平常心を装ったものの、ただ隣に座っただけで信じられないくらいドキドキしている自分に驚く。
その間にエルダが茶の用意をし始めたのだが、見慣れない物が並べられていることに首を傾げた。
「これは?」
「これは、ルカーシュカ様が、くださいました…」
「…ルカーシュカが?」
食べ物に対する欲求が乏しいアドニスに何故…と疑問が浮かんだが、口を開こうとしたところで、エルダが一歩下がり、姿勢を正した。
「では、私はこれで失礼させて頂きます」
「あ、う、うん…! …ありがとう、エルダ」
就寝前の挨拶を交わし、アドニスに淡い笑みを返すと、エルダは礼をして部屋を出ていった。
同時に短い静寂が訪れ、遅れて緊張感がやってきたが、自分の緊張がアドニスに移らぬ様、努めて普段通りに振る舞った。
温かな紅茶を一口飲み下せば、少しだけ気持ちも落ち着き、疲労感も和らいだ気がした。
そこから少しだけ、当たり障りのない会話を続けた。
人間界との繋がり方や、純天使に唯一課せられた制限について…どちらの話しも、プティのことになると途端に表情を変えるアドニスに、苦笑が零れた。
「…あなたは、本当にプティ達がお好きですね」
「…? はい」
「もちろん」とでも言うように、コクンとアドニスが頷いたところで、ふっと会話が途切れた。
話題を探すように少し俯いたアドニスに、思わず気になっていたことが口をついて出た。
「…あなたは、何をしていましたか?」
「え?」
「この十日間、どうやって過ごしていました?」
きっとそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
少しだけ驚いた表情で視線を彷徨わせ、ハッとしたようにテーブルの上に置かれた物に目を向けると、嬉しそうに口を開いた。
「あ…あの、これ…ルカーシュカ様が…くださって…た、食べられるように、なったんです」
「これは…ラフラーズのジャムですか?」
「はい。えっと、ルカーシュカ様が…一緒に、食べようって…持ってきて、下さって…それで…」
いつもよりも少しだけ弾んだ声に、直前まで微笑ましく思っていた気持ちが途端に下降した。
感情に引きずられ、反射的に表情が崩れてしまい、慌てて取り繕ったが、上手く笑えていないのだろう。
困惑を滲ませたアドニスの声に「しまった」と思ったが、それも「一緒に食べられたら嬉しい」というアドニスの言葉で簡単に持ち直した。
(…我ながら単純過ぎますね)
あまりにも単純な一喜一憂に、少しばかり気恥ずかしくなる。それを誤魔化すように、用意されていたビスコットに手を伸ばすと、口の中に放り込んだ。
甘いラフラーズのジャムは、あまり口にすることのない味だったが、久方ぶりに摂る食事と、隣で一生懸命に、だが美味しそうに同じ物を咀嚼するアドニスの姿に、素直に美味しいと思えた。
「…しかし、ルカーシュカはどうしてコレを?」
「あ、あの…私が…その、寂しいって…言ったから…ルカーシュカ様も、気にかけて、下さって……それで、お土産って、くれて……一緒に、いて下さって…」
「…寂しい…?」
先ほど抱いた疑問を、何気なく口にしただけ…それだけだったのだが、聞き流せない単語に、思わず聞き返してしまった。
「あ、えっと…あの…イヴァニエ様が…人間界に、行っちゃって…それで…あの…お、お二人と…その……あ、会えなく、なって…しまって…だから…、あの……」
「……寂しかった?」
「ぅ…ぁの……は…はぃ…」
───会えなくて寂しかった。
思ってもいなかった発言に、言葉が出てこない。
驚きにも似た衝撃に、喜びよりも茫然としてしまったが、最後の言葉を言い切る前に、目元を赤く染め、俯いてしまったアドニスに、キュウッと心臓が鳴った。
(ああ…本当に…)
どうしてこんなに可愛らしいのだろう…!
フツフツと感情が沸き立つような感覚に押され、片手がアドニスへと伸び、その頬を撫でていた。
「ふあっ!?」
「…すみません。驚かしてしまいましたね」
「ふゅ、ひ、い、いえ…!」
驚きから跳ねた体につられたのか、パッと上がった顔を指の背で撫でれば、その頬がほんのりと朱色に染まり始めた。
(…そんな反応をされると、勘違いしてしまいそうになるのですが…)
慣れない接触に戸惑っているのだろう。そう理解していても、勘違いしてしまいたかった。
そうしている間にじわじと込み上げる喜びに、勝手に頬は緩み、口からは本音が零れた。
「…私も、会えなくて寂しかったです」
会えなかったことも、自分だけがいつもの輪の中にいられなかったことも、寂しかった───その裏側の「会いたかった」という気持ちに気づいているのか否か、目を見開き、ぱくぱくと唇を震わせるアドニスに、つい笑ってしまう。
混乱している状態のアドニスに、考える為の時間を与えると、急かさぬ様、ゆっくりと紅茶に口を付けた。
(何か、気づいてくれるでしょうか?)
少しばかり期待するも、暫く経つと、コクコクと何かを確認するようにアドニスが小さく頷き、「大丈夫です」と妙にスッキリした顔で言われてしまった。
(…そうですよね)
自分勝手に期待してしまったことを恥じつつ、気になっていたルカーシュカとの交流について尋ねれば、またもや気持ちが急下降した。
毎日アドニスの元へと通っていたというルカーシュカ。
つい先ほど、ハッキリと告げられた「好きだよ」という言葉が脳内で再生され、ルカーシュカがどんな想いで、何を目的として会いに来ていたのかが手に取るように分かってしまい、鳴りを潜めていた嫉妬心が再熱する。
(毎日…)
今まで、決まった日程で顔を合わせていたが、それが決まりという訳でもなければ、特に制限があった訳でもない。
なにより、留守を任せろと言い、アドニスの寂しさを埋めようと足繁く通ってくれたのだから、彼には感謝すべきなのだろう。が、それはそれとして、やはり面白くないと思ってしまう。
(…私も毎日会いに来てもいいのでしょうか?)
嫉妬に自身の欲が混じり、思考が逸れる。
恐らく嫌がられることはないだろうが───そんなことを考えていると、アドニスが妙に焦った様子で慌て始めた。
「イ、イヴァニエ様…!」
「はい?」
「あ、あの…この前の…お、お風呂での、ことなんですけど…っ」
「…!」
───瞬間、煮え始めていた嫉妬心が凍りついた。
(……ああ、そう…そうでした)
「……そうですね。その話しを、しなければいけませんでしたね」
「あ…え…?」
「寂しいと言ってもらえたことに浮かれて……本当に愚かですね。ルカーシュカと違って、私にはその資格も無いでしょうに…」
「え…う……う?」
色んな感情を一度に味わい、振り幅が大きかったせいで、本来の目的を見失っていた。様々な感情が一気に削げ落ち、体と頭がスゥッと冷えていくのが分かった。
(下手をすれば、今日で会うのが最後になってしまうかもしれないのに…)
どけだけ自分の行いが、自己満足を満たす為だけの最低な行為だったか…嫌われても仕方のないことを告白しなければいけない苦しさと、もしも拒絶されてしまったらという考えに、嫌でも緊張感は高まり、ドクドクと心臓が激しく脈打った。
「…あなたに、謝らなければいけないことがあります」
それでも、もう黙ってはいられなかった。
愛しいと思うからこそ、隠していられなかった。
深く息を吸い込むと、震えてしまいそうになる喉を叱咤し、グッと一呼吸飲み込んだ。
「…軽蔑してくれて構いません。私はあの時、治せるはずだった傷痕を残し……あなたを見捨てました」
ハッキリと告げた告白に、目を見開いたアドニスが、オロオロと目に見えて狼狽え始めた。
「…あ、の…」
「…急にこんなことを言われても、困りますよね」
「い、いえ…っ、そ、じゃ…なくて……あ、あの…だ、大丈夫…ですか?」
「……なんの、心配ですか?」
「え…ぅ…」
何故、そんなことを聞くのか?
どうしてそんな言葉が出てくるのか、理解し難いアドニスの反応に、つい訝しむような声を返してしまったが、めげるでも怯むでもなく、アドニスは続けた。
「だ…だって…、イヴァニエ様…の方が…ずっと…く、苦しそう…で…」
「───」
───ああ、お願いだから、そんなに風に言わないでくれ…!
自分のことを心配をしてくれるアドニスに、嬉しいのか悲しいのか、感情がごちゃ混ぜになる。
喜んでいる場合じゃないと分かっていても、気に掛けてもらえる優しさを嬉しいと思ってしまった。
それを振り払うように、なるべく感情を殺し、事実だけを伝えた。
もっと早く、助けることができたこと。
もっと早く、悲しみの底から掬い上げることができたこと。
癒しの手すら、疎かにしたこと。
見て見ぬフリで、見捨てたこと…
自分で言っていて、泣きたくなるほど情けなくて、いっそ自分への怒りもぶちまけてしまいたくて…それでも、それをアドニスに見せるのは違うと、キツく組んだ手に痛くなるほど力を籠めた。
ポツリ、ポツリと話し続け、全て言い終えた後、暫しの沈黙の後、恐る恐るといった風にアドニスが声を発した。
「…ぁ…の…、教えて…下さって…、ありがとう、ございます…」
「……ありがとうではないでしょう」
自身に向けた憤りのまま、つい声が低くなってしまい即座に謝るが、だとしてもアドニスの「ありがとう」という返事はあまりにも理解し難かった。
軽蔑されたいと思っている訳ではないが、そう思われても仕方ないとは思っている。
そうでなくとも、ショックを受けるなり、悲しむなり、怒るなり、なにかしらの負の感情をぶつけてくれてもいいだろうに…何故そうしないのかが分からなかった。
「…アドニス、あなたは私に怒っていいのですよ? どうして、ありがとうなどと言うのです?」
「…どうして…て……だって…怒ることが…ないです」
「……何故です? 私はあなたを───」
「み、見捨てて、ないです…!」
「…!」
突然、アドニスが声を張った。
初めて聞いた少しだけ大きな声に、ハッとして顔を上げれば、アドニスと視線が絡んだ。
「イヴァニエ様は…そう…思われるかも、しれない…けど…でも、わ、私は…そんな風に、思いません、でした…っ」
「それは、あなたが知らなかったから…」
「し、知らなくても…今、知っても…そんな風に、思わない、です…! …だ、だって……う、嬉しかった、から…」
「………」
「背中…痛いの…治して、もらえて…本当に、それだけで…嬉しかったです……ありがとう、ございますって…いっぱい…いっぱい、思いました…! 痛く、なくなって…い、痛くない、だけで…こんなに…嬉しいんだって……それだけで、本当に…わ、私は、救われました…」
「ッ…!」
心臓を鷲掴みにされたような息苦しさに、息を呑む。
必死に言葉を紡ぐのは、きっとそれがアドニスにとっての本心だからだろう。
「救われた」と、本気でそう思っているのだ。
…でもそれを、自分自身が認めてはいけなかった。
「……やめて下さい。そんなことを言われるようなことは…」
アドニスの気持ちを否定したい訳ではない。
ただ聞いていられずに、反射的に顔を逸らせば、固く組んでいた両の手にアドニスの手が重なり、ギョッとした。
「っ!?」
「イ、イヴァニエ様が…わ、私に…か、関わりたくないって、思うのは…と、当然なんです…」
「…!」
「自分は……き、嫌われて、ました…いっぱい…嫌われてて…でもそれは…っ、自分が、いっぱい…わ、悪いこと、したから…だから…嫌われ、てて…イヴァニエ様が…わ、たしに、関わりたくないって、思うのは…当たり前、なんです…!」
───あまりにも悲しい告白だった。
きっと言わせてはいけないことだった。
それに気づいた時にはもう遅く、揺れる瞳には、既に水の膜が張っていた。
「イヴァニエ様は…そ、それでも…来て…くれました…背中の傷も…治して…下さいました…!」
「……それは私の役目だったから…」
「い、いいんです…! 役目でも…なんでも……だ、だって…イヴァニエ様…だけでした…っ」
徐々に震え始めた声に、自分への怒りも、嫌われてしまうかもしれないという恐れも、急速に萎んでいった。
同時に、アドニスの「悲しくなることを言わないで」という感情が痛いほど伝わり、切なさが増していく。
「イヴァニエ様、だけなんです……本当に…本当に、私は、そ、それだけで…、あの日の私は、それだけで…たくさん、救われました…っ」
「アドニス…」
「み…見捨てた、なんて…っ、言わな…で…くださぃ…」
「……ごめんなさい、アドニス」
「…ィ、イヴァニエ様、だけだった…です…っ」
「…ええ……ええ、ごめんなさい。酷いことを言いました。ごめんなさい」
「ひ…っ、ぅ…っ」
大粒の雫が金色の瞳からボタボタと零れ、頬を伝い落ちていった。
目元を真っ赤に染め、しゃくり上げながら泣く姿に、自分まで泣きそうになりグッと奥歯を噛み締める。
目元を擦ろうとする手を押さえ、服の袖で涙を拭うが、それでもなかなか泣き止まないアドニスに、どんどんと申し訳なさが募った。
「…ごめんなさい。言わなければと、自分のことばかりで…あなたに悲しい思いをさせてしまいましたね」
(結局、独りよがりでしたね…)
決して罪の意識から逃れたいが為だけの告白ではなかったが、結果としてアドニスに辛いことを言わせ、思い出させてしまったことを悔やむ。
それでも、アドニスが「あの日の自分は救われた」と言ってくれた言葉に、今の自分は少しだけ、救われた。
(だからと言って、罪が消える訳ではないけれど…)
それをアドニスに見せることも、伝えることも、もう二度と無いだろう。
彼の中で、それが一つの美しい記憶になっているのなら、自分がそれを壊してはならないのだ。
己の犯した罪も、苦しさも、愚かさも、全部、自分だけが飲み下せばいい。
そう胸に刻むと、これ以上不安にさせない様、無理にでも笑ってみせた。
きちんと笑えているかも分からない。
それでも、目が合ったアドニスは、自分に向けて初めて、微笑みを返してくれた。
当初の目的だった会話を終え、一呼吸置くと、アドニスの背に残った傷痕を目にした日からずっと燻り続けていた願いを告げた。
「その…できればで、構いません。私に、背に残った傷痕を、治させて下さいませんか?」
これこそ完全な自己満足だと分かっていたが、どうしても、今のまま放置することが許せなかった。
突然の申し出にアドニスも躊躇っていたが、言葉を重ねればなんとか頷いてくれた。
「ん…と…はい。あの…お願い…します」
「ありがとうございます」
そう言って、おずおずと上半身の服を脱ぎ、背中を向けたアドニスの傷を改めて直視し、眉間に深い皺が寄った。
すべらかな肌に不似合いな、でこぼことした歪な傷痕は、薄い皮膚に透けて赤い肉が見えていた。
(…改めて見ても、酷いですね)
既に遠い日の記憶となった凄惨な光景が脳裏を過る。
痛みこそ覚えているだろうが、せめてもの救いは、あの惨たらしい罰を受けた記憶が、今のアドニスには無いことだろう。
傷痕に触れるように、ペタリと背に触れれば、手の平から直にアドニスの体温と呼吸の振動が伝わってきた。
「では、始めますね。…少し大変かもしれませんが、辛くなったら言って下さい」
恐らく、何も感じずに治すことは無理だろう。様子見から始めよう…そう思いながら、癒しの光を零した。
「───ッ!?」
直後、間髪入れずに、アドニスの体が大きく跳ね、逃げるように背をのけ反らせた。目を白黒させながら振り返ったアドニスに、自分も困惑顔になる。
「なん…なんで…?」
「…ごめんなさい。驚かせてしまいましたね…思ったより、傷痕が酷かったみたいです」
やはり…と思いながらも、痛みはないことを伝え、再びその背に触れたのだが…
「ひわっ!?」
悲鳴を上げ、背を隠すようにソファーの端まで逃げてしまったアドニスに眉を下げた。
(気持ち悪いのでしょうね…)
肉体に定着してしまった傷痕に癒しを施す際、再生しようとする細胞が活発に動き、強い不快感が生じる場合がある。
その説明をすれば、明らかに尻込みするアドニスだったが、泣きそうになりながらも「否」とは言わなかった。
(…無理はさせたくない)
「私の我が儘に付き合わせてしまって、ごめんなさい。無理をさせるつもりはないんです。…もう止めておきましょう」
少しだけ距離を詰め、本当に止めるつもりでそう伝えたのだが、何故かアドニスはムッとしたような顔になり、申し出を拒否した。
「だ、大丈夫…です。び、びっくり…しちゃった…だけ、ですから…」
「ですが…」
「大丈夫、です…!」
見るからに大丈夫ではなさそうなのだが、これを宥めるのも逆に無理強いになりそうで、それ以上強く言えない。
結局、アドニスの体が無意識の内に逃げるのを防ぐ為と、安心感を得られる様、柔らかなクッションの山に寝かせ、枕を抱かせた。気休めにしかならないだろうが、縋る物があった方がいいだろうと思ったのだ。
枕を両腕で抱き、のそのそとクッションに埋もれるように横になったアドニス。
その傍らに膝を着けば、何に驚いているのか、目を丸くしていた。
「…手を握っていた方が、安心するかもしれません」
気休め程度…かつ自分が繋がっていたいという淡い欲求から手を差し出せば、予想外の強さで握り返され、こんな状況だというのに嬉しくなる。
「なるべく早く終わらせます。その分、強く不快に感じるかもしれませんが、あなたを傷つけるものではありません。…どうか怖がらないで下さい」
「ん…」
弱々しい返事には不安がたっぷりと含まれていて、自分まで緊張してきた。
(…強い力で、一気に治してしまいましょう)
弱い力でじわじわと長引かせるよりはマシだろう。
その分、どうしても不快感は増してしまうが、短時間で済む。
「…いきます」
聖気を皮膚の内側、肉そのものに押し付けるイメージで流し込んでいく。
途端に熱を持ち始めた肌に怯みそうになるが、流す力を弱めなかった。
「んん…っ!」
最初は泣き言を我慢するように、くぐもったアドニスの声が聞こえたが、なんとか耐えていた───が、それも次の瞬間にはか細い悲鳴に変わった。
「ひゃっ!? ひ…ん…っ」
肌から伝わるビクビクと跳ねる振動と声に、反射的に背中から手が離れそうになったが堪えた。
「ゃ…っ、…ぃや…っ!」
痛みはないはずだが、それでも尋常ではない不快感があるのだろう。粟立つ肌がブルブルと震えていた。
「あっ…!? ひ…っ、やだ…! やだぁっ!」
肌の熱が上がり、手の平の下で皮膚がうぞうぞと生き物のように動き出回る。
手の平から伝わる感覚でも相当なものだが、これが皮膚と肉の間で行われている動きなのだから、アドニスの感じる不快感は想像以上だろう。
ついに涙を流し、幼な子のように泣き声を上げ始めたアドニス…だがその声が、艶を含んだ嬌声にしか聞こえず、気まずさと動揺から目が泳いだ。
本人には全くそのつもりは無いのだろうが、まるで性交を強要しているかのような錯覚に襲われ、繋がった手を握る手にも力が籠った。
「ふゃ…っ、やだ…っ、こわい…っ、こわいよぉ…!」
「ごめんなさい。ごめんなさい、アドニス…、もう少しですから…!」
「んんぅ…っ」
…二重の意味で謝った。
大変な思いをしているだろうに、卑猥なことを考えてしまったことと、無理をさせてしまっていることを詫びつつ、一層強く力を込めた。
「ぃや…っ、ぁ…っ、イヴァニ…さま…っ、イヴァニエ様…!」
「…大丈夫、もう終わりますよ」
「あっ!? ひっ…いぁぁっ!」
(この状態で名を呼ばれるのは、心臓に悪い…!)
一際嬌声めいて聞こえる声に心を乱しつつ、最後の一押しとなる聖気を流し込む。
瞬間、ザワリと肌が粟立ち、のけ反った背が大きくビクリと跳ねると、強張っていたアドニスの体から一気に力が抜けた。
「はぁっ、はぁっ…、はぁ…っ」
荒い呼吸を繰り返し、ぐったりとしているアドニスだったが、痛々しい見た目をしていた背中の傷痕は綺麗に消えていた。
「ありがとう、アドニス。もう大丈夫です。…頑張りましたね」
「はぁ……はぁ……、ん…」
流れた涙を指先で拭い、褒めるように頬を撫でれば、琥珀色の瞳が柔らかに笑んだ。
気持ち良さそうに蕩けた瞳は蜂蜜のようで、潤んだ瞳も、蒸気した頬も、整わない呼吸も、性交後のような色気を含んでいて心底焦ったが、それも束の間、眠そうにゆっくりと瞬きをしだしたアドニスに、ホッと息を吐き出した。
(こんなに無防備で大丈夫でしょうか…)
危機感が無さすぎることに危機感を覚えつつ、今にも眠ってしまいそうなアドニスに、そっと声を掛けた。
「さぁ、もうお休みなさい。今日は私の話しを聞いてくれて…我が儘を聞いてくれて、ありがとうございました。…大変な目に遭わせてしまって、ごめんなさい」
「…、私も……ありがとう…ございました…」
ふにゃふにゃと、ほとんど聞き取れない声で返事をするアドニスに苦笑しつつ、閉じかけている瞼を手の平で覆った。
「本当に、ありがとう。…おやすみなさい、アドニス」
アドニスが瞼を閉じてすぐ、すぅすぅと聞こえ始めた小さな寝息に、ふっと体から力が抜けた。
直後、脳が揺れるような感覚がして、堪らず立てていた膝を崩すと、その場に座り込んだ。
(聖気を使い過ぎましたね…)
天界へと続く扉へ多くの聖気を注ぎ、回復しないままアドニスの傷を癒したことで、更に消費したのだ。聖気不足でクラクラする頭を押さえながら、それでもアドニスが眠るまでは意地でも平静を保った自分を褒めてやりたい。
ソファーに寄り掛かるように身を預ければ、眠るアドニスの顔が間近に見えた。
目を閉じていると尚あどけなく見える寝顔はやはり可愛らしく、自然と口元は綻んだ。
繋いだままの手をしっかりと握り締め、少し揺らしただけでは離れる気配がないことに愛しさが込み上げる。
(……好き…そう、好きなんですよね)
ルカーシュカに触発されたのだろうか。
何故か唐突に、今となっては当たり前のような感情の名に、ふと気づいた
ずっと前から好意を自覚していたのに、改めて「好き」という言葉で感情を意識すれば、その気持ちはどんどんと膨れていった。
無意識の内に片手が伸び、アドニスの頬に触れる。まだ残る涙の跡を拭いながら頬を撫で、その延長のように、ゆるゆると頭を撫でた。
短く整えられた髪の毛は思っていたよりもずっと柔らかく、ふわふわとした猫っ毛だった。
その感触を楽しむように、やわやわと撫で続ければ、アドニスの目元が笑うように微かに緩んだ。
(……初めて、知りましたね)
言葉遣いも、仕草も、性格も、顔付きも…何もかもが変わってしまったアドニスだが、造形そのものは変わっていない。
初めて知った髪の柔らかさは、ずっと知らなかっただけで、きっと前から変わっていない───何故か、そのことにほんの少しだけ、胸が締め付けられた。
時を忘れ、アドニスの寝顔を眺め続けること暫く、気づけば随分な時間が過ぎていた。
聖気と体力の消耗から、少しばかりウトウトとしてしまったが、アドニスが身動ぎしたことでパッと目が覚めた。
(危ない…ここで夜を明かしてしまうところでした)
気づけば眩暈も落ち着いていた。
流石にこれ以上居座る訳にも、アドニスをこのままソファーに寝かしておく訳にもいかないだろう。
帰る前にアドニスを寝室に連れて行こう…そう思いながら、立ち上がるには少しばかり重い腰に辺りを見回せば、机の上に残ったままの菓子が目に入った。
それに手を伸ばすと、二つほど口に放り込み、雑に咀嚼し、冷たくなってしまった茶で流し込んだ。
流石に食べた物がすぐに栄養として体内に取り込まれることはないが、気休め程度の回復にはなるだろう。
「ふぅ…」
一息吐くと、深呼吸を数度繰り返し、静かに立ち上がる。
名残惜しさに眉を顰めつつ、繋いでいた手を離すと、眠るアドニスの体をゆっくりと持ち上げた。
頭が自分の肩口に凭れる様、少しずつ位置を調整しながら抱き上げれば、すっぽりと腕の中に体が収まった。
服越しに伝わる体温と、間近に聞こえる寝息。
ほんのりと鼻腔を擽るのは、甘いミルクと陽だまりを混ぜたような、赤ん坊のように柔らかなアドニス自身の香りだ。
(エルダやルカーシュカが、アドニスに香油を使わせまいとする理由が分かりますね)
この香りに気持ちが安らぐのは、相手を愛しいと思うからだろう。
許されるならば、ずっとこのままでいたいとも思うが、それが許されないことぐらいは分かっている。
起こさぬ様、慎重に寝室へと向かうと、綺麗に整えられた寝具をついと指先で動かし、空いたスペースにアドニスを寝かせた。
目を覚ます様子がないことにホッとしながら、眠るアドニスの指先にもう一度触れる。
(…温かい)
規則正しい寝息を繰り返すアドニスの表情は穏やかで、その指先はとても温かかった。
いつかの氷のように冷たくなっていた肌の温度…それを上書きするように、グッと握る手に力を込める。
(……もう、あんな顔はさせたくない)
恐怖に歪んだ顔も、輝きを失った瞳も、絶望に染まった悲鳴も…全身で拒絶していたあの頃の悲しみを、二度と繰り返させはしない。
誓いを立てるように、指先へと唇を寄せて───その肌に触れる寸前で、止めた。
中途半端に持ち上げた手に、そっと額を寄せると目を瞑る。
(いつか、この気持ちを伝えられたら…)
その時は、ようやく側にいられるようになった今が、壊れません様に───そう祈るように、請い願った。
目を閉じているせいか、より鮮明に聞こえる小さな寝息。その呼吸音に安堵しながら、繋いでいた手を解くと、眠るアドニスに囁いた。
「…おやすみ、アドニス」
何気ない言葉一つ呟くだけで込み上げる愛しさに、我ながら重症だと呆れた笑いが漏れるが、きっともう止められないのだろう。
新たに抱いた想いを込め、指先で柔い髪の毛をそっと撫でる。
愛しいと溢れる情が、触れた指の先から、ほんの少しでも伝わればいいのに───そんなことを考えながら、今度こそ手を離すと、名残惜しさを残しつつ、静かに部屋を後にした。
--------------------
時辰儀=時計
天界の七時=人間界の二十時
「そうだな」
「あっちの泉はどうする? 水が枯れるのはまずいぞ」
「もう暫く様子を見よう。自然に回復する可能性もあるだろ」
人間界に降りて二日。地動による被害は広く、空から見下ろせば、地面を這う亀裂が遠くまで続いているのが見えた。
多くの生き物の命が儚く消えたであろう大地は痛々しい姿をしていたが、自分達にできることは少ない。
ただ少しばかり、残った命を繋ぎ止める為の、ほんの少しの手助けができるか否かを見極めなければいけなかった。
「泉の底にも亀裂が───」
「あの峰の向こうには聖地があったはずだが───」
極力、自分達は手を加えない。
あるがままに時が過ぎ去るのを待つべきなのが理想なのだ。だからこそ、行動には慎重になり、与えられた役目に集中することが出来た。
だがふとした時、脳裏にチラつく顔に、意識を持っていかれる瞬間があった。
数ヶ月間、三日に一度という決まった日取り、同じ時間で、アドニスと共に過ごしていた。
その日々が途切れたこと、側を離れたからこそ、余計にその存在が気になって仕方なく、思い出しては落ち着かない気持ちになっていた。
今日は何をしているだろう?
穏やかに過ごしているだろうか?
ルカーシュカとは、変わらず睦まじく過ごしているのだろうか───…
離れてしまった寂しさ故か、一度落ち着いていたはずの悋気が顔を出し、もやもやとした感情が胸中に渦巻いた。
今こうしている間も、まるで自分だけが除け者になったかのような寂しさと焦燥感に駆られ、その分、想いは募っていった。
(それでも、アドニスが寂しい思いをしていないだけ、良いのでしょうけど…)
膨れていく感情を鎮めるように、赤ん坊達の声が響く明るい部屋の情景を思い出す。
ルカーシュカと共にあの部屋を訪れた時の暗さも、淀んだ空気も、冷たくなったアドニスの体温も、まだハッキリと覚えている。
悲しみの底に沈んだような孤独の中、眠ったまま朽ちる寸前だった頃のアドニスのことを思えば、嫉妬心も萎んだ。
ルカーシュカとエルダ、プティ達がアドニスを囲む、温かで穏やかな日々の中、笑ってくれているのなら、自分がその場にいない寂しさはあったが、なにより安心することは出来た。
「イヴァニエ、移動しよう」
「…ええ、分かりました」
(…今はこちらに集中しなければ)
どれだけ想ったところで、今はどうしようもない…そう気持ちを切り替えると、大きく翼を広げた。
「ここまでだな」
「そうですね」
人間界に降りて六日。与えられた役目の終わりが見え、ホッと息を吐いた。
広範囲に渡る被害は深く、あちらこちらを見ている間に、六日という時間が過ぎていた。
時間は掛かったが、周辺を見て周り、互いの考えを出し合い、最終的には生き物達の生死に関わる水源の損壊を修復し、清める程度の施しに留めた。
ささやかなものだが、これ以上手を出すのは良くないと判断したのだ。
「あとは彼らの行く末を祈るだけだな」
「ええ」
「きっと大丈夫だ。そう信じてやろう」
「…ああ」
あえて明るく、朗らかに笑うシルヴェストと、傷ついたままの大地を睨むように見つめるフェルディーナ…それぞれの表情は相反していたが、心から願うことは皆一緒だろうと、そっと瞳を伏せた。
「…帰りましょうか」
「そうだな。早く帰ってバルドル様にご報告せねば」
「今回は長くなったからなぁ。帰る頃には向こうは十一…十二日? 過ぎてるのか」
真面目を絵に描いたようなフェルディーナと、のんびりとしたシルヴェストの反応の違いを横目に、手首に付けた腕輪に聖気を流し込めば、金色の蝶が一羽生まれた。
金粉を振り撒く蝶は、数度その場で羽ばたくと、金の粉を残して空気に溶けるようにふわりと消えた。
「行きましょう」
帰還の先触れとして飛ばした帰蝶を見送ると、雲の切れ目を探した。
天界から人間界に降りるには、決まった場所にある扉を開ければいいだけだが、人間界から天界に帰るには雲の切れ間を探し、そこにあちらの世界とこちらの世界とを繋げる扉を設置しなければいけないので、少しばかり手間が掛かる。
(…十二日ですか)
人間界に滞在していたのは六日間だが、移動の往復には更に六日という時間が必要だった。
人間界と天界の時の流れは同じだが、それでも違う次元にある世界と世界を繋ぎ、そこを移動するには、片道だけで三日という時間が消費される。
と言っても、移動している者達にとっては一瞬の出来事だ。扉を開き、光のヴェールをくぐるように数歩進めば、扉の向こう側に出られる。
移動している者には僅かな時間なのだが、扉の先は時空が歪んでいるのか、その一瞬の内に扉の外の世界では七十二時間という時が過ぎているのだ。
(十日ほどで帰れる予定だったのですが…)
人間界の滞在時間は、平均して三日ほどだ。今回もその体でアドニスに話していたのだが、少しばかり長い滞在になってしまった。
(……早く…)
───早く、アドニスに会いたい。
役目を終えた安堵から、気が抜けると同時に、じわじわと欲望が滲み出し、落ち着かない気持ちになる。
たった六日。だが、振り返ってみればその六日間のなんと長かったことだろう。
役目に集中していた時は考えまいと意識していたが、その必要がなくなり、天界へと帰ろうとしている今、押し込めていた分の感情も一緒になって溢れ出した。
会いたい、触れたい、声が聞きたい。
極自然に湧き上がる感情は、自分でも驚くほど恋情に素直で、「早く早く」と急かすように帰路の道を焦らせた。
話さなければいけないことがあるのは勿論覚えているが、それよりも今はただ『会いたい』という思いが強かった。
「お、あそこから帰れそうだな」
シルヴェストが示した先には、雲の切れ間から零れる陽の光が、大地へと差し込んでいた。
その光の筋に沿って上空へと昇り、雲の中を身を隠すように飛ぶと、その場に留まった。
横並びになり、空気の壁に手を付くように手の平を翳すと、聖気を放出する。直後、目の前に見上げるほど大きな扉が現れた。
徐々に形が浮かび上がるのは、金と銀の装飾が施された純白の扉。完全に姿を現したそこに手の平を押し付けると、扉へと聖気を流し込む。
グングンと聖気が吸い取られること数秒、ガコンッという重い音を響かせながら、ゆっくりと扉が開き始めた。
内側から漏れ出す光は眩しく、光の筋となって大地を照らす。陽の光と混じった白い光は、天界へと続く帰り道だ。
光の道に足を踏み出し、開け放たれた扉を通る。
柔らかな光のヴェールが揺蕩う中、二歩、三歩と歩けば、背後で静かに扉が閉じる音がした。
そうして前を向けば、そこにはもう、見慣れた世界の風景が広がっていた。
「おかえりなさいませ、フェルディーナ様、イヴァニエ様、シルヴェスト様」
「ああ、今帰った」
帰蝶の先触れに合わせ、出迎えてくれた天使達に声を返す。
聖気で作り出された帰蝶は、扉を通じなくとも天界と人間界を行き来することが可能であり、移動に費やす時間も僅かなものだ。飛ばしてからそう時を経たずに、バルドル神の元へと辿り着いただろう。
「もう夜になってるな」
「…移動に少し時間が掛かってしまったみたいですね」
扉を介しての移動は七十二時間程度、と少しばかり時間にバラつきがある。
扉に流した聖気の量や、人間界のどの地域にいるか、要因はいくつかあるが、人間界の時の数え方で五時間前後のズレが生じる時があった。
(…今日、アドニスの元へ向かうのは難しいですね)
煌めく星空を見上げながら、思わず溜め息が零れた。
これからバルドル神の元へ報告に向かうのだ。その後となれば、陽が沈めば眠ってしまうアドニスのところへ向かうには、あまりにも遅過ぎる時間だろう。
『会いたい』という欲が積もっていた分、諦めなければいけないことに気分は落ち込んだが、こればかりは仕方がない。
「早いところ報告に行って、今日はもう休もう。流石に疲れたぞ」
「そうだな」
大きく伸びをしながら歩くシルヴェストとフェルディーナの後を、気落ちしたままついていく。
言葉数も少なく、だが役目を成し終えた安堵から緩んだ空気の中、バルドル神の元へと向かう。人気の少なくなった宮廷の回廊に、三人分の足音だけが響いていた。
「そういえば、もうじきフォルセの果実が実るな」
「…ッ」
そんな中、唐突に口を開いたシルヴェストの言葉に、ドクリと心臓が跳ねた。
「ああ、あと二月ほどか」
「早かったなぁ……あれから四年かぁ」
『あれから』という言葉が指す意味に、ドクドクと心臓が鳴った。
「…ああ、これでアレの謹慎も解ける」
「忌々しい」と言わんばかりに眉根にくっきりと皺を刻んだフェルディーナに、シルヴェストが困ったように笑った。
「そんな顔すんなって。アイツだって、この四年間、ずっと大人しかったじゃないか」
「だから改心したとでも? アレに限って有り得んな」
「ん~…まぁ、改心したかどうかはなんとも言えんが…それでも、謹慎を破ってないだけ奇跡的だと思うぞ?」
「随分と安い奇跡だな。罰なのだから当然のことだろう」
楽観的な発言をバッサリと切り捨てるフェルディーナに、シルヴェストが苦笑いを返す。
「お前さんは相変わらずだな~。でも、フェルディーナだって、あれからアドニスには会ってないんだろう?」
『アドニス』と名が出たことで、心臓の鼓動は嫌でも速くなった。
「会う理由が無い。……ああ、いや。そういえば、一度だけ、偶然アレの顔を見てしまったことがあったな」
「…え?」
思いがけない言葉に、思わず声が漏れ、歩みを止めてしまった。
「どうした?」
「あ、ああ……いえ…その、あなたが、アドニスに会っていたとは思わず…」
「好きで会った訳じゃない。たまたまだ」
聞けば、アドニスが謹慎部屋に籠って暫くした頃、アドニスが部屋のバルコニーへと出てきたらしい。
フェルディーナは偶然その近くにいた為、鉢合わせしてしまい、見たくもない顔を見てしまった───と、低い声で語った。
その話を聞きながら、アドニスとルカーシュカの一件で、自分にも威嚇するように声を上げたプティのことを思い出し、ようやく合点がいった。
(エルダの言っていた仮説は合っていたのですね。…なるほど、フェルディーナが相手でしたか…)
よりによってアドニスに対して一等嫌悪感の強い彼がその場にいたのであれば、アドニスが部屋の外に出ることを怖がる気持ちにも納得がいく。恐らく、いや確実に、よほど強い敵意を向けられたのだろう。
「ようやく平穏に過ごせるようになったんだ。謹慎が解けたところで、余計な不和を生むぐらいなら、潔く命の湖に還ってほしいものだ」
「まぁなぁ」
「………」
棘を含んだフェルディーナの言に、言葉を返すことが出来なかった。
(…何も知らなければ、きっと私も、彼らと同じことを思ったのでしょうね…)
今のアドニスのことを知っているからこそ、フェルディーナの言葉に心が痛むのだと、理解できるだけに何も言えず、ズシリと腹の底が重くなった。
以前の粗暴だったアドニスを厭い、嫌悪していたのは自分も同じだ。何も知らなければ、今のアドニスのことを知らなければ、きっと自分も同じように、彼の言葉に同調し、アドニスがいない平穏を喜んだのだろう。
現状を知っているか、知らないか…それだけの違いで、抱く感情はまるで正反対だった。
同時に、あの日あの時、アドニスの元へ向かわなければ、きっと今頃自分は、庇護しなければボロボロに崩れていってしまいそうなほど脆く儚い者がいなくなることを、心から望んでいたのだろう───そんな『もしも』を考え、ゾッとした。
(…今の自分の立場に、彼らがなっていた可能性だってある)
偶然、自分とルカーシュカがその場に収まっただけで、きっと別の誰かが同じ立場になる可能性だってあったのだ。
そうなった時、もしも同じような立場になった時、きっと彼らも今のアドニスのことを守らなければと、そう思っただろう。
もしかしたら、今の自分と同じように、愛しいという感情を抱くようになっていたかもしれない…
そう思えばこそ、フェルディーナの発言に憤りを感じることも、咎めることも出来ず、続く二人の会話を聞きながら、ただ沈黙することしか出来なかった。
「ただいま戻りました」
「おかえり。三人とも、無事に帰ってきてくれて嬉しいよ」
帰還と人間界の報告の為に、バルドル神の元へと向かえば、我らが父は、穏やかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
出発時には他の大天使達も揃っていたが、帰り時は帰還の正確な時間が計れない為、他の者達の姿はない。
シンと静まり返った広い部屋の中、最初にフェルディーナが口を開いた。
「今回の被害の規模についてですが───」
それぞれが人間界で見たもの、聞いたこと、行ったことについて報告していく。
その様子を、バルドル神は時たま頷きながら、静かに聞き入っていた。
質問をされることはなく、ただ自分達が知ったことを事実として、バルドル神は記憶していく。それだけに、伝えるべきことに漏れがないか、誤りがないか、慎重に、丁寧に、報告する必要があった。
「ご報告は以上です」
「…うん。イヴァニエ、フェルディーナ、シルヴェスト、大変な務めを果たしてくれて、ありがとう。疲れただろう? 暫くはゆっくり休みなさい」
「恐れ入ります」
長い報告を終え、労いの言葉を頂くと、見送るようにその場に残ったバルドル神に礼を返し、揃って御前を後にした。
「あ~っ、終わった終わった!」
「ああ、これで御使いの役目は終わった。世話になったな」
「こちらこそ、ありがとうございました」
部屋を出ると、役目を終えた開放感から、ゆるりと気が抜けた。
「俺も、ありがとな。さて、留守にしていた間の報告は明日聞くしかないし、帰って休むかな」
「眠る前に何か口にしておけ」
「はいよ。じゃあな、おやすみ」
「おやすみ。…私も、今日はこれで戻ろう」
「ええ、私も帰りましょう。おやすみなさい」
人間界に長く滞在していたこと、あちらとこちらを繋ぐ扉に多くの聖気の注いだことで、皆消耗が激しかった。
早々に去っていく二人の背を見送り、ゆっくりとその場を離れながら、服の袂から小型の時辰儀を取り出せば、秒針は七時を大きく過ぎていた。
(……アドニスは、寝ていますよね)
きっと今日は会えないだろう…分かりきっていたことだが、改めて実感すれば、どうしたって寂しさが募った。会いたいという気持ちが埋められない喪失感と寂しさに、急激に疲労感が増す。
(というか、アドニスは私が帰ってきていることを知っているのでしょうか?)
帰蝶を飛ばした時点で、他の者達には役目を終えて帰ってくることは伝わっているはずだ。
エルダやルカーシュカから伝わっているかもしれないが、時間が時間ではどうしようもない。
(…明日、エルダに言って、会う時間を設けてもらった方がいいのでしょうね)
より深くなった疲労感に歩みも遅くなる。
夜も更け、照明の絞られた薄暗い宮廷の中、ノロノロと足を動かしていると、こちらに近づいてくる足音があることに気づき、ふっと顔を上げた。
「やっと帰ってきたか。おかえり」
「……ルカーシュカ?」
こちらに向かってくる人影がルカーシュカだったことに驚き、足を止めた。
「…ただいま、帰りました。…どうされたんです? こんな時間に」
「どうって…帰ってきたらアドニスと話しをするんじゃなかったのか?」
願っていた者の名前が出たことに、思わず肩が揺れた。
「それは……そのつもりでしたが、急ですし…」
時間が…と言いかけたところで、ルカーシュカがフッと笑った。
「“こんな時間”だが、アドニスはお前の帰りを待ってるぞ?」
「…!」
その言葉に、瞬間的に心は浮き立ち、身が震えた。
側を離れることでより増した渇望。
「会いたい」と願っていた相手が、自分のことを待っていてくれる…それが堪らなく嬉しかった。
「まぁ、確かに急だしな。アドニスも、お前が疲れているなら今日でなくてもいいと───」
「行きます」
「ふっ…じゃあ行こうか」
食い気味に返事をしてしまったが、ルカーシュカは軽く笑うだけだった。
「それを伝える為に、ずっと待っていたのですか?」
「いや、俺はお前達が帰ってきたって報告を聞いて、待ち伏せしてただけだ」
「ですが……いえ、ありがとうございます」
してただけ、とは言うが、それでもかなり待たせたはずだ。それを言わない彼に、あえて余計なことを言うのは止めた。
「歩きながら話そう」と踵を返すルカーシュカと並ぶように歩きながら、急に軽くなった足取りに、我ながら現金なものだと苦笑いが零れる。
その横で、ルカーシュカが沈んだ息を吐いた。
「…今話すことではないかもしれんが、フォルセの果実の実りが近くなっているせいか、お前達が留守にしている間、何度かアドニスの名前を耳にした」
「…奇遇ですね。私もつい先ほど、その話題を耳にしたばかりですよ」
誰か一人が言い出せば、連鎖のようにその話題は広がっていくものだ。
お互いチラリと横目を合わせると、言葉にし難い状況に揃って肩を落とした。見れば、ルカーシュカの横顔にも若干の疲労が浮かんでいた。
「他のヤツらの言い分が分かる分、何も言えなくてな…」
「それは私も同じですよ。…黙っているしかないでしょう」
ルカーシュカも自分と同じく、複雑な気持ちなのだろう。
誰が悪いという訳ではない。アドニスに対して忌避感があるのは皆同じで、たまたま自分とルカーシュカだけが、その枠組みから外れただけなのだ。
「分かってる。分かっているんだが……少しばかり、悲しくなるな」
「…他の者達は、知らないことですからね。仕方のないことです」
そう、仕方のないことだった。
例え今のアドニスに恋焦がれていたとしても、他の者達が以前のアドニスに向ける感情もまた本物であり、それは否定できるものではない。
自分の想い人に対し、「いなくなればいい」と吐き捨てるように告げられ、どれだけ心が痛んでも、アドニスの現状を話すには危うく、擁護することすら出来ないのだ。
「アドニスがあの部屋を出なければいけなくなるまで、もう二月もない。俺達も、まだアイツのことを正しく知れた訳じゃない。出来ることなら、バルドル様と先に対面させたいんだが…どう思う?」
「私もそれが最善だと思いますが……私がそれに関われるかどうかは、アドニスとの会話次第ですね」
「……そうか。分かった」
何か不穏なものは感じ取っているのだろうが、それでも何も聞いてこないのは彼の優しさだろう。
自分とて、まさかルカーシュカがアドニスと邂逅するよりも前に、保身からアドニスのことを見捨てたなど、とてもではないが言えなかった。
伝えるならば、せめて先にアドニスに伝えてから…その結果がどうなろうと、その時はルカーシュカにも自身の犯した罪を告げようと、今は口を噤んだ。
ふつりと途切れた会話に代わり、周囲の静けさが響く。
カツン、カツンと鳴る二人分の足音の隙間を縫うように、ポツリとルカーシュカが呟いた。
「いつだったか、エルダがアドニスをあの部屋から出すのが怖いと言っていただろう? …今は、その気持ちが嫌になるほど分かるよ」
物静かな声には、目に見えない焦りと不安が滲んでいた。
エルダがアドニスを想い、傷ついてほしくないと嘆き、守ってほしいと真摯に願った言葉を思い出し、そっと瞳を伏せた。
(それは私だって……)
同じ───と、そこまで考えて、ふとある考えが頭を過った。
(…ルカーシュカは、アドニスをどう思っているのでしょう)
それは以前にも抱いた疑問だったが、今となっては既に疑問ではなく、確信めいたものに変わっていた。
エルダが、アドニスに対して主従以上の強い情を抱いていることには気づいていた。
同じように、自分もアドニスに対して恋慕の情を抱いている───ならば、ルカーシュカは?
「どうした?」
知らぬ間に足が止まっていた。
それに気づいたルカーシュカが、数歩先で立ち止まり、こちらを振り返る。
その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「…あなたは、アドニスのことをどう思っていますか?」
何故、今言おうと思ったのだろう?
そんな疑問を抱く間もなく、気づけば思考がそのまま口から漏れていた。
自分でも驚いたが、言われたルカーシュカも驚いただろう。大きく見開かれた黒水晶の瞳が、彼の心情を物語っていた。
(…質問の仕方を間違えましたね)
冷静になれば、あまりにも抽象的な問い方をしてしまったことに気づき、なんとも言えない気まずさが漂った。
妙な緊張感の中、こちらから何か言うべきか口を開きかけた時、瞳を瞬いたルカーシュカがフッと瞳を細め───笑った。
「好きだよ」
静かな空気に反響するように、耳に届いた凛とした声に、ドクリと心臓が鳴った。
質問した意図も、意味も、求めていた答えも…全部ひっくるめて理解した上で、ルカーシュカは答えてくれた。
「好きだよ」と、たった一言。
分かりきっていた答えのはず…それなのに、今また動揺し、焦りを感じている自分がいた。
穏やかに笑い、まるで当然だとでも言うように「好き」と言葉にしたルカーシュカが、何故かとても、遠くに感じた。
「…はぁ…」
辿り着いたアドニスの部屋の前、堪らず零れた溜め息に瞳を伏せた。
あの後、ルカーシュカは「アドニスが待ってるから、早く行ってやれ」とだけ言い残して、その場を去っていった。
自分はと言えば、自ら質問したにも関わらず、茫然としたまま何も言えず、半分意識を飛ばしたまま歩き出すと、ようやくここまで辿り着いた。
(私は、何にショックを受けているのでしょう…?)
ルカーシュカがアドニスに好意を向けていたことには気づいていたはずなのに、どうしてこんなにも動揺し、焦ってしまうのか、自分の心境が分からなかった。
アドニスに会える喜びも、緊張も、きちんと向き合って話がしたいという決意が、自分の迂闊な発言のせいで、ぐずぐずに崩れていってしまいそうな錯覚に、フルリと頭を振った。
(…ダメだ)
大きく息を吸い込むと、モヤモヤとした感情と一緒に深く息を吐き出した。
この扉を開けば、会いたいと願っていた者がいるのだ。今はそのことだけ考えよう───そう思いながら、躊躇いがちにノックをすれば、直後に扉が動き、そのあまりにも早い反応に面食らった。
(…もしや、ずっと待っていたのでしょうか?)
扉の前でうだうだと悩んでいないで、早く訪ねるべきだった…そう反省していると、開いた扉の真正面にアドニスがいて、息を呑んだ。
「お、おかえり、なさい…ませ、イヴァニエ様…!」
まるで一大決心を告げるかのような必死さで、ほんの少しの恥じらいを含んだようなたどたどしさで、アドニスが「おかえりなさい」と言っている───目の前の現実を理解した瞬間、ぶわりと咲き誇った感情に息が止まった。
会いたかった想い人が、自分の帰りを待っていてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、感動にも似た衝撃に、その場で硬直してしまった。
じわじわと全身に滲んでいく『嬉しい』という感情と、徐々に溶け出す『愛しい』という感情に、自然と唇は弧を描いていた。
「…ただいま、帰りました」
───ああ、帰ってきた。
とっくに帰ってきていたのに、「おかえり」という言葉も何度も聞いたはずなのに、どうしてか今、一層強くそう思った。
嬉しくて、愛しくて、溢れる感情を抑えられずに、体は勝手にアドニスへと近づき、指先は無意識の内にその肌へと伸びていた。
「っ!?」
ビクリとアドニスの肩が跳ね、金色の瞳が零れんばかりに大きく見開かれたが、それでも手を離すことが出来なかった。
驚かせているのは分かっていたが、近くにいたい、触れていたいという欲を抑えられず、頬を撫でる手を止められない。
表情から戸惑いは伝わってきたが、嫌がる素振りを見せないアドニスに、「もっと」と欲が出そうになる。…が、それは側に控えていたエルダの存在に止められた。
「…おかえりなさいませ、イヴァニエ様。お帰りををお待ちしておりました」
「……ええ、ただいま帰りました」
瞬時に冷静になった思考に、頬に触れていた手をそっと離した。
(…いけない。自制しないと…)
本来の目的を忘れないように、こっそりと深呼吸をし、昂った気持ちを鎮める。だがそのすぐ後に、いつも座っている席ではなく、ソファーの、更にはアドニスの隣の席を勧められ、心臓が高鳴った。
平常心を装ったものの、ただ隣に座っただけで信じられないくらいドキドキしている自分に驚く。
その間にエルダが茶の用意をし始めたのだが、見慣れない物が並べられていることに首を傾げた。
「これは?」
「これは、ルカーシュカ様が、くださいました…」
「…ルカーシュカが?」
食べ物に対する欲求が乏しいアドニスに何故…と疑問が浮かんだが、口を開こうとしたところで、エルダが一歩下がり、姿勢を正した。
「では、私はこれで失礼させて頂きます」
「あ、う、うん…! …ありがとう、エルダ」
就寝前の挨拶を交わし、アドニスに淡い笑みを返すと、エルダは礼をして部屋を出ていった。
同時に短い静寂が訪れ、遅れて緊張感がやってきたが、自分の緊張がアドニスに移らぬ様、努めて普段通りに振る舞った。
温かな紅茶を一口飲み下せば、少しだけ気持ちも落ち着き、疲労感も和らいだ気がした。
そこから少しだけ、当たり障りのない会話を続けた。
人間界との繋がり方や、純天使に唯一課せられた制限について…どちらの話しも、プティのことになると途端に表情を変えるアドニスに、苦笑が零れた。
「…あなたは、本当にプティ達がお好きですね」
「…? はい」
「もちろん」とでも言うように、コクンとアドニスが頷いたところで、ふっと会話が途切れた。
話題を探すように少し俯いたアドニスに、思わず気になっていたことが口をついて出た。
「…あなたは、何をしていましたか?」
「え?」
「この十日間、どうやって過ごしていました?」
きっとそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
少しだけ驚いた表情で視線を彷徨わせ、ハッとしたようにテーブルの上に置かれた物に目を向けると、嬉しそうに口を開いた。
「あ…あの、これ…ルカーシュカ様が…くださって…た、食べられるように、なったんです」
「これは…ラフラーズのジャムですか?」
「はい。えっと、ルカーシュカ様が…一緒に、食べようって…持ってきて、下さって…それで…」
いつもよりも少しだけ弾んだ声に、直前まで微笑ましく思っていた気持ちが途端に下降した。
感情に引きずられ、反射的に表情が崩れてしまい、慌てて取り繕ったが、上手く笑えていないのだろう。
困惑を滲ませたアドニスの声に「しまった」と思ったが、それも「一緒に食べられたら嬉しい」というアドニスの言葉で簡単に持ち直した。
(…我ながら単純過ぎますね)
あまりにも単純な一喜一憂に、少しばかり気恥ずかしくなる。それを誤魔化すように、用意されていたビスコットに手を伸ばすと、口の中に放り込んだ。
甘いラフラーズのジャムは、あまり口にすることのない味だったが、久方ぶりに摂る食事と、隣で一生懸命に、だが美味しそうに同じ物を咀嚼するアドニスの姿に、素直に美味しいと思えた。
「…しかし、ルカーシュカはどうしてコレを?」
「あ、あの…私が…その、寂しいって…言ったから…ルカーシュカ様も、気にかけて、下さって……それで、お土産って、くれて……一緒に、いて下さって…」
「…寂しい…?」
先ほど抱いた疑問を、何気なく口にしただけ…それだけだったのだが、聞き流せない単語に、思わず聞き返してしまった。
「あ、えっと…あの…イヴァニエ様が…人間界に、行っちゃって…それで…あの…お、お二人と…その……あ、会えなく、なって…しまって…だから…、あの……」
「……寂しかった?」
「ぅ…ぁの……は…はぃ…」
───会えなくて寂しかった。
思ってもいなかった発言に、言葉が出てこない。
驚きにも似た衝撃に、喜びよりも茫然としてしまったが、最後の言葉を言い切る前に、目元を赤く染め、俯いてしまったアドニスに、キュウッと心臓が鳴った。
(ああ…本当に…)
どうしてこんなに可愛らしいのだろう…!
フツフツと感情が沸き立つような感覚に押され、片手がアドニスへと伸び、その頬を撫でていた。
「ふあっ!?」
「…すみません。驚かしてしまいましたね」
「ふゅ、ひ、い、いえ…!」
驚きから跳ねた体につられたのか、パッと上がった顔を指の背で撫でれば、その頬がほんのりと朱色に染まり始めた。
(…そんな反応をされると、勘違いしてしまいそうになるのですが…)
慣れない接触に戸惑っているのだろう。そう理解していても、勘違いしてしまいたかった。
そうしている間にじわじと込み上げる喜びに、勝手に頬は緩み、口からは本音が零れた。
「…私も、会えなくて寂しかったです」
会えなかったことも、自分だけがいつもの輪の中にいられなかったことも、寂しかった───その裏側の「会いたかった」という気持ちに気づいているのか否か、目を見開き、ぱくぱくと唇を震わせるアドニスに、つい笑ってしまう。
混乱している状態のアドニスに、考える為の時間を与えると、急かさぬ様、ゆっくりと紅茶に口を付けた。
(何か、気づいてくれるでしょうか?)
少しばかり期待するも、暫く経つと、コクコクと何かを確認するようにアドニスが小さく頷き、「大丈夫です」と妙にスッキリした顔で言われてしまった。
(…そうですよね)
自分勝手に期待してしまったことを恥じつつ、気になっていたルカーシュカとの交流について尋ねれば、またもや気持ちが急下降した。
毎日アドニスの元へと通っていたというルカーシュカ。
つい先ほど、ハッキリと告げられた「好きだよ」という言葉が脳内で再生され、ルカーシュカがどんな想いで、何を目的として会いに来ていたのかが手に取るように分かってしまい、鳴りを潜めていた嫉妬心が再熱する。
(毎日…)
今まで、決まった日程で顔を合わせていたが、それが決まりという訳でもなければ、特に制限があった訳でもない。
なにより、留守を任せろと言い、アドニスの寂しさを埋めようと足繁く通ってくれたのだから、彼には感謝すべきなのだろう。が、それはそれとして、やはり面白くないと思ってしまう。
(…私も毎日会いに来てもいいのでしょうか?)
嫉妬に自身の欲が混じり、思考が逸れる。
恐らく嫌がられることはないだろうが───そんなことを考えていると、アドニスが妙に焦った様子で慌て始めた。
「イ、イヴァニエ様…!」
「はい?」
「あ、あの…この前の…お、お風呂での、ことなんですけど…っ」
「…!」
───瞬間、煮え始めていた嫉妬心が凍りついた。
(……ああ、そう…そうでした)
「……そうですね。その話しを、しなければいけませんでしたね」
「あ…え…?」
「寂しいと言ってもらえたことに浮かれて……本当に愚かですね。ルカーシュカと違って、私にはその資格も無いでしょうに…」
「え…う……う?」
色んな感情を一度に味わい、振り幅が大きかったせいで、本来の目的を見失っていた。様々な感情が一気に削げ落ち、体と頭がスゥッと冷えていくのが分かった。
(下手をすれば、今日で会うのが最後になってしまうかもしれないのに…)
どけだけ自分の行いが、自己満足を満たす為だけの最低な行為だったか…嫌われても仕方のないことを告白しなければいけない苦しさと、もしも拒絶されてしまったらという考えに、嫌でも緊張感は高まり、ドクドクと心臓が激しく脈打った。
「…あなたに、謝らなければいけないことがあります」
それでも、もう黙ってはいられなかった。
愛しいと思うからこそ、隠していられなかった。
深く息を吸い込むと、震えてしまいそうになる喉を叱咤し、グッと一呼吸飲み込んだ。
「…軽蔑してくれて構いません。私はあの時、治せるはずだった傷痕を残し……あなたを見捨てました」
ハッキリと告げた告白に、目を見開いたアドニスが、オロオロと目に見えて狼狽え始めた。
「…あ、の…」
「…急にこんなことを言われても、困りますよね」
「い、いえ…っ、そ、じゃ…なくて……あ、あの…だ、大丈夫…ですか?」
「……なんの、心配ですか?」
「え…ぅ…」
何故、そんなことを聞くのか?
どうしてそんな言葉が出てくるのか、理解し難いアドニスの反応に、つい訝しむような声を返してしまったが、めげるでも怯むでもなく、アドニスは続けた。
「だ…だって…、イヴァニエ様…の方が…ずっと…く、苦しそう…で…」
「───」
───ああ、お願いだから、そんなに風に言わないでくれ…!
自分のことを心配をしてくれるアドニスに、嬉しいのか悲しいのか、感情がごちゃ混ぜになる。
喜んでいる場合じゃないと分かっていても、気に掛けてもらえる優しさを嬉しいと思ってしまった。
それを振り払うように、なるべく感情を殺し、事実だけを伝えた。
もっと早く、助けることができたこと。
もっと早く、悲しみの底から掬い上げることができたこと。
癒しの手すら、疎かにしたこと。
見て見ぬフリで、見捨てたこと…
自分で言っていて、泣きたくなるほど情けなくて、いっそ自分への怒りもぶちまけてしまいたくて…それでも、それをアドニスに見せるのは違うと、キツく組んだ手に痛くなるほど力を籠めた。
ポツリ、ポツリと話し続け、全て言い終えた後、暫しの沈黙の後、恐る恐るといった風にアドニスが声を発した。
「…ぁ…の…、教えて…下さって…、ありがとう、ございます…」
「……ありがとうではないでしょう」
自身に向けた憤りのまま、つい声が低くなってしまい即座に謝るが、だとしてもアドニスの「ありがとう」という返事はあまりにも理解し難かった。
軽蔑されたいと思っている訳ではないが、そう思われても仕方ないとは思っている。
そうでなくとも、ショックを受けるなり、悲しむなり、怒るなり、なにかしらの負の感情をぶつけてくれてもいいだろうに…何故そうしないのかが分からなかった。
「…アドニス、あなたは私に怒っていいのですよ? どうして、ありがとうなどと言うのです?」
「…どうして…て……だって…怒ることが…ないです」
「……何故です? 私はあなたを───」
「み、見捨てて、ないです…!」
「…!」
突然、アドニスが声を張った。
初めて聞いた少しだけ大きな声に、ハッとして顔を上げれば、アドニスと視線が絡んだ。
「イヴァニエ様は…そう…思われるかも、しれない…けど…でも、わ、私は…そんな風に、思いません、でした…っ」
「それは、あなたが知らなかったから…」
「し、知らなくても…今、知っても…そんな風に、思わない、です…! …だ、だって……う、嬉しかった、から…」
「………」
「背中…痛いの…治して、もらえて…本当に、それだけで…嬉しかったです……ありがとう、ございますって…いっぱい…いっぱい、思いました…! 痛く、なくなって…い、痛くない、だけで…こんなに…嬉しいんだって……それだけで、本当に…わ、私は、救われました…」
「ッ…!」
心臓を鷲掴みにされたような息苦しさに、息を呑む。
必死に言葉を紡ぐのは、きっとそれがアドニスにとっての本心だからだろう。
「救われた」と、本気でそう思っているのだ。
…でもそれを、自分自身が認めてはいけなかった。
「……やめて下さい。そんなことを言われるようなことは…」
アドニスの気持ちを否定したい訳ではない。
ただ聞いていられずに、反射的に顔を逸らせば、固く組んでいた両の手にアドニスの手が重なり、ギョッとした。
「っ!?」
「イ、イヴァニエ様が…わ、私に…か、関わりたくないって、思うのは…と、当然なんです…」
「…!」
「自分は……き、嫌われて、ました…いっぱい…嫌われてて…でもそれは…っ、自分が、いっぱい…わ、悪いこと、したから…だから…嫌われ、てて…イヴァニエ様が…わ、たしに、関わりたくないって、思うのは…当たり前、なんです…!」
───あまりにも悲しい告白だった。
きっと言わせてはいけないことだった。
それに気づいた時にはもう遅く、揺れる瞳には、既に水の膜が張っていた。
「イヴァニエ様は…そ、それでも…来て…くれました…背中の傷も…治して…下さいました…!」
「……それは私の役目だったから…」
「い、いいんです…! 役目でも…なんでも……だ、だって…イヴァニエ様…だけでした…っ」
徐々に震え始めた声に、自分への怒りも、嫌われてしまうかもしれないという恐れも、急速に萎んでいった。
同時に、アドニスの「悲しくなることを言わないで」という感情が痛いほど伝わり、切なさが増していく。
「イヴァニエ様、だけなんです……本当に…本当に、私は、そ、それだけで…、あの日の私は、それだけで…たくさん、救われました…っ」
「アドニス…」
「み…見捨てた、なんて…っ、言わな…で…くださぃ…」
「……ごめんなさい、アドニス」
「…ィ、イヴァニエ様、だけだった…です…っ」
「…ええ……ええ、ごめんなさい。酷いことを言いました。ごめんなさい」
「ひ…っ、ぅ…っ」
大粒の雫が金色の瞳からボタボタと零れ、頬を伝い落ちていった。
目元を真っ赤に染め、しゃくり上げながら泣く姿に、自分まで泣きそうになりグッと奥歯を噛み締める。
目元を擦ろうとする手を押さえ、服の袖で涙を拭うが、それでもなかなか泣き止まないアドニスに、どんどんと申し訳なさが募った。
「…ごめんなさい。言わなければと、自分のことばかりで…あなたに悲しい思いをさせてしまいましたね」
(結局、独りよがりでしたね…)
決して罪の意識から逃れたいが為だけの告白ではなかったが、結果としてアドニスに辛いことを言わせ、思い出させてしまったことを悔やむ。
それでも、アドニスが「あの日の自分は救われた」と言ってくれた言葉に、今の自分は少しだけ、救われた。
(だからと言って、罪が消える訳ではないけれど…)
それをアドニスに見せることも、伝えることも、もう二度と無いだろう。
彼の中で、それが一つの美しい記憶になっているのなら、自分がそれを壊してはならないのだ。
己の犯した罪も、苦しさも、愚かさも、全部、自分だけが飲み下せばいい。
そう胸に刻むと、これ以上不安にさせない様、無理にでも笑ってみせた。
きちんと笑えているかも分からない。
それでも、目が合ったアドニスは、自分に向けて初めて、微笑みを返してくれた。
当初の目的だった会話を終え、一呼吸置くと、アドニスの背に残った傷痕を目にした日からずっと燻り続けていた願いを告げた。
「その…できればで、構いません。私に、背に残った傷痕を、治させて下さいませんか?」
これこそ完全な自己満足だと分かっていたが、どうしても、今のまま放置することが許せなかった。
突然の申し出にアドニスも躊躇っていたが、言葉を重ねればなんとか頷いてくれた。
「ん…と…はい。あの…お願い…します」
「ありがとうございます」
そう言って、おずおずと上半身の服を脱ぎ、背中を向けたアドニスの傷を改めて直視し、眉間に深い皺が寄った。
すべらかな肌に不似合いな、でこぼことした歪な傷痕は、薄い皮膚に透けて赤い肉が見えていた。
(…改めて見ても、酷いですね)
既に遠い日の記憶となった凄惨な光景が脳裏を過る。
痛みこそ覚えているだろうが、せめてもの救いは、あの惨たらしい罰を受けた記憶が、今のアドニスには無いことだろう。
傷痕に触れるように、ペタリと背に触れれば、手の平から直にアドニスの体温と呼吸の振動が伝わってきた。
「では、始めますね。…少し大変かもしれませんが、辛くなったら言って下さい」
恐らく、何も感じずに治すことは無理だろう。様子見から始めよう…そう思いながら、癒しの光を零した。
「───ッ!?」
直後、間髪入れずに、アドニスの体が大きく跳ね、逃げるように背をのけ反らせた。目を白黒させながら振り返ったアドニスに、自分も困惑顔になる。
「なん…なんで…?」
「…ごめんなさい。驚かせてしまいましたね…思ったより、傷痕が酷かったみたいです」
やはり…と思いながらも、痛みはないことを伝え、再びその背に触れたのだが…
「ひわっ!?」
悲鳴を上げ、背を隠すようにソファーの端まで逃げてしまったアドニスに眉を下げた。
(気持ち悪いのでしょうね…)
肉体に定着してしまった傷痕に癒しを施す際、再生しようとする細胞が活発に動き、強い不快感が生じる場合がある。
その説明をすれば、明らかに尻込みするアドニスだったが、泣きそうになりながらも「否」とは言わなかった。
(…無理はさせたくない)
「私の我が儘に付き合わせてしまって、ごめんなさい。無理をさせるつもりはないんです。…もう止めておきましょう」
少しだけ距離を詰め、本当に止めるつもりでそう伝えたのだが、何故かアドニスはムッとしたような顔になり、申し出を拒否した。
「だ、大丈夫…です。び、びっくり…しちゃった…だけ、ですから…」
「ですが…」
「大丈夫、です…!」
見るからに大丈夫ではなさそうなのだが、これを宥めるのも逆に無理強いになりそうで、それ以上強く言えない。
結局、アドニスの体が無意識の内に逃げるのを防ぐ為と、安心感を得られる様、柔らかなクッションの山に寝かせ、枕を抱かせた。気休めにしかならないだろうが、縋る物があった方がいいだろうと思ったのだ。
枕を両腕で抱き、のそのそとクッションに埋もれるように横になったアドニス。
その傍らに膝を着けば、何に驚いているのか、目を丸くしていた。
「…手を握っていた方が、安心するかもしれません」
気休め程度…かつ自分が繋がっていたいという淡い欲求から手を差し出せば、予想外の強さで握り返され、こんな状況だというのに嬉しくなる。
「なるべく早く終わらせます。その分、強く不快に感じるかもしれませんが、あなたを傷つけるものではありません。…どうか怖がらないで下さい」
「ん…」
弱々しい返事には不安がたっぷりと含まれていて、自分まで緊張してきた。
(…強い力で、一気に治してしまいましょう)
弱い力でじわじわと長引かせるよりはマシだろう。
その分、どうしても不快感は増してしまうが、短時間で済む。
「…いきます」
聖気を皮膚の内側、肉そのものに押し付けるイメージで流し込んでいく。
途端に熱を持ち始めた肌に怯みそうになるが、流す力を弱めなかった。
「んん…っ!」
最初は泣き言を我慢するように、くぐもったアドニスの声が聞こえたが、なんとか耐えていた───が、それも次の瞬間にはか細い悲鳴に変わった。
「ひゃっ!? ひ…ん…っ」
肌から伝わるビクビクと跳ねる振動と声に、反射的に背中から手が離れそうになったが堪えた。
「ゃ…っ、…ぃや…っ!」
痛みはないはずだが、それでも尋常ではない不快感があるのだろう。粟立つ肌がブルブルと震えていた。
「あっ…!? ひ…っ、やだ…! やだぁっ!」
肌の熱が上がり、手の平の下で皮膚がうぞうぞと生き物のように動き出回る。
手の平から伝わる感覚でも相当なものだが、これが皮膚と肉の間で行われている動きなのだから、アドニスの感じる不快感は想像以上だろう。
ついに涙を流し、幼な子のように泣き声を上げ始めたアドニス…だがその声が、艶を含んだ嬌声にしか聞こえず、気まずさと動揺から目が泳いだ。
本人には全くそのつもりは無いのだろうが、まるで性交を強要しているかのような錯覚に襲われ、繋がった手を握る手にも力が籠った。
「ふゃ…っ、やだ…っ、こわい…っ、こわいよぉ…!」
「ごめんなさい。ごめんなさい、アドニス…、もう少しですから…!」
「んんぅ…っ」
…二重の意味で謝った。
大変な思いをしているだろうに、卑猥なことを考えてしまったことと、無理をさせてしまっていることを詫びつつ、一層強く力を込めた。
「ぃや…っ、ぁ…っ、イヴァニ…さま…っ、イヴァニエ様…!」
「…大丈夫、もう終わりますよ」
「あっ!? ひっ…いぁぁっ!」
(この状態で名を呼ばれるのは、心臓に悪い…!)
一際嬌声めいて聞こえる声に心を乱しつつ、最後の一押しとなる聖気を流し込む。
瞬間、ザワリと肌が粟立ち、のけ反った背が大きくビクリと跳ねると、強張っていたアドニスの体から一気に力が抜けた。
「はぁっ、はぁっ…、はぁ…っ」
荒い呼吸を繰り返し、ぐったりとしているアドニスだったが、痛々しい見た目をしていた背中の傷痕は綺麗に消えていた。
「ありがとう、アドニス。もう大丈夫です。…頑張りましたね」
「はぁ……はぁ……、ん…」
流れた涙を指先で拭い、褒めるように頬を撫でれば、琥珀色の瞳が柔らかに笑んだ。
気持ち良さそうに蕩けた瞳は蜂蜜のようで、潤んだ瞳も、蒸気した頬も、整わない呼吸も、性交後のような色気を含んでいて心底焦ったが、それも束の間、眠そうにゆっくりと瞬きをしだしたアドニスに、ホッと息を吐き出した。
(こんなに無防備で大丈夫でしょうか…)
危機感が無さすぎることに危機感を覚えつつ、今にも眠ってしまいそうなアドニスに、そっと声を掛けた。
「さぁ、もうお休みなさい。今日は私の話しを聞いてくれて…我が儘を聞いてくれて、ありがとうございました。…大変な目に遭わせてしまって、ごめんなさい」
「…、私も……ありがとう…ございました…」
ふにゃふにゃと、ほとんど聞き取れない声で返事をするアドニスに苦笑しつつ、閉じかけている瞼を手の平で覆った。
「本当に、ありがとう。…おやすみなさい、アドニス」
アドニスが瞼を閉じてすぐ、すぅすぅと聞こえ始めた小さな寝息に、ふっと体から力が抜けた。
直後、脳が揺れるような感覚がして、堪らず立てていた膝を崩すと、その場に座り込んだ。
(聖気を使い過ぎましたね…)
天界へと続く扉へ多くの聖気を注ぎ、回復しないままアドニスの傷を癒したことで、更に消費したのだ。聖気不足でクラクラする頭を押さえながら、それでもアドニスが眠るまでは意地でも平静を保った自分を褒めてやりたい。
ソファーに寄り掛かるように身を預ければ、眠るアドニスの顔が間近に見えた。
目を閉じていると尚あどけなく見える寝顔はやはり可愛らしく、自然と口元は綻んだ。
繋いだままの手をしっかりと握り締め、少し揺らしただけでは離れる気配がないことに愛しさが込み上げる。
(……好き…そう、好きなんですよね)
ルカーシュカに触発されたのだろうか。
何故か唐突に、今となっては当たり前のような感情の名に、ふと気づいた
ずっと前から好意を自覚していたのに、改めて「好き」という言葉で感情を意識すれば、その気持ちはどんどんと膨れていった。
無意識の内に片手が伸び、アドニスの頬に触れる。まだ残る涙の跡を拭いながら頬を撫で、その延長のように、ゆるゆると頭を撫でた。
短く整えられた髪の毛は思っていたよりもずっと柔らかく、ふわふわとした猫っ毛だった。
その感触を楽しむように、やわやわと撫で続ければ、アドニスの目元が笑うように微かに緩んだ。
(……初めて、知りましたね)
言葉遣いも、仕草も、性格も、顔付きも…何もかもが変わってしまったアドニスだが、造形そのものは変わっていない。
初めて知った髪の柔らかさは、ずっと知らなかっただけで、きっと前から変わっていない───何故か、そのことにほんの少しだけ、胸が締め付けられた。
時を忘れ、アドニスの寝顔を眺め続けること暫く、気づけば随分な時間が過ぎていた。
聖気と体力の消耗から、少しばかりウトウトとしてしまったが、アドニスが身動ぎしたことでパッと目が覚めた。
(危ない…ここで夜を明かしてしまうところでした)
気づけば眩暈も落ち着いていた。
流石にこれ以上居座る訳にも、アドニスをこのままソファーに寝かしておく訳にもいかないだろう。
帰る前にアドニスを寝室に連れて行こう…そう思いながら、立ち上がるには少しばかり重い腰に辺りを見回せば、机の上に残ったままの菓子が目に入った。
それに手を伸ばすと、二つほど口に放り込み、雑に咀嚼し、冷たくなってしまった茶で流し込んだ。
流石に食べた物がすぐに栄養として体内に取り込まれることはないが、気休め程度の回復にはなるだろう。
「ふぅ…」
一息吐くと、深呼吸を数度繰り返し、静かに立ち上がる。
名残惜しさに眉を顰めつつ、繋いでいた手を離すと、眠るアドニスの体をゆっくりと持ち上げた。
頭が自分の肩口に凭れる様、少しずつ位置を調整しながら抱き上げれば、すっぽりと腕の中に体が収まった。
服越しに伝わる体温と、間近に聞こえる寝息。
ほんのりと鼻腔を擽るのは、甘いミルクと陽だまりを混ぜたような、赤ん坊のように柔らかなアドニス自身の香りだ。
(エルダやルカーシュカが、アドニスに香油を使わせまいとする理由が分かりますね)
この香りに気持ちが安らぐのは、相手を愛しいと思うからだろう。
許されるならば、ずっとこのままでいたいとも思うが、それが許されないことぐらいは分かっている。
起こさぬ様、慎重に寝室へと向かうと、綺麗に整えられた寝具をついと指先で動かし、空いたスペースにアドニスを寝かせた。
目を覚ます様子がないことにホッとしながら、眠るアドニスの指先にもう一度触れる。
(…温かい)
規則正しい寝息を繰り返すアドニスの表情は穏やかで、その指先はとても温かかった。
いつかの氷のように冷たくなっていた肌の温度…それを上書きするように、グッと握る手に力を込める。
(……もう、あんな顔はさせたくない)
恐怖に歪んだ顔も、輝きを失った瞳も、絶望に染まった悲鳴も…全身で拒絶していたあの頃の悲しみを、二度と繰り返させはしない。
誓いを立てるように、指先へと唇を寄せて───その肌に触れる寸前で、止めた。
中途半端に持ち上げた手に、そっと額を寄せると目を瞑る。
(いつか、この気持ちを伝えられたら…)
その時は、ようやく側にいられるようになった今が、壊れません様に───そう祈るように、請い願った。
目を閉じているせいか、より鮮明に聞こえる小さな寝息。その呼吸音に安堵しながら、繋いでいた手を解くと、眠るアドニスに囁いた。
「…おやすみ、アドニス」
何気ない言葉一つ呟くだけで込み上げる愛しさに、我ながら重症だと呆れた笑いが漏れるが、きっともう止められないのだろう。
新たに抱いた想いを込め、指先で柔い髪の毛をそっと撫でる。
愛しいと溢れる情が、触れた指の先から、ほんの少しでも伝わればいいのに───そんなことを考えながら、今度こそ手を離すと、名残惜しさを残しつつ、静かに部屋を後にした。
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時辰儀=時計
天界の七時=人間界の二十時
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