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フォルセの果実
61.焦がれて咲く花(前)
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静かな部屋の中、「すー…すー…」という小さな寝息が聞こえ始め、瞼を覆っていた手をゆっくりと外した。
瞼を閉じた表情はあどけなく、薄く開いた唇から漏れる寝息すら愛しいと感じた。
(ああ…本当に一体いつから…)
そう考えたところで、答えに辿り着くはずもない。かと言って今更否定しようという気も起きない。
淡く色付いた情は、確かに目の前で眠る者へと注がれていた。
アドニスと改めて顔を合わせようと取り決めた数日後、ルカーシュカと揃ってアドニスの元へと向かった。滲む緊張から足取りは重く、浅い呼吸に胸は苦しくなった。
(…本当に大丈夫でしょうか)
自分ですらこれだけ緊張しているのだ。恐らくアドニスも同じように…それ以上に緊張しているであろうことが安易に想像できた。
相手はアドニスだが、今はもう『あの』アドニスだとは思っていない。ただそれとは別に、言葉にし難い不安が胸の中で渦巻いた。
間近で最後に見たアドニスは、自分達の姿を目にしただけで泣き叫び、怯え、拒絶した。
驚愕と恐怖に染まり、光を失った金色の瞳…絶望にも似た表情と悲痛な叫びが、ずっと脳にこびりついていた。
自身がそういう対象になったことが無く、そのような感情を向けられることにも動揺したが、それに混じった遠い日の己の行動を悔やむ気持ちが、少しずつ少しずつ、心に圧を掛けた。
(これで、何かが変わればいいのですが…)
不安ばかりが募る中、僅かに混ぜた期待は、迎え入れられた部屋の中、ポツンと佇むアドニスを目にした瞬間、霧散した。
───ああ、やはり時期尚早だった…と。
目深に被ったフードの下、アドニスの表情は読み取れなかったが、それでも怯えと恐怖、痛いほどの緊張感が伝わってきた。
なんとか向かい合って座るまでには至ったが、それでもまともに言葉を交わすことなど到底不可能な状態だった。
「っ…、ふ…っ、ごめ…、ご、ごめ…なさ……!」
ただの一言も言葉を交わせないまま、ルカーシュカが席を立ち、その背を見送っている間に泣き出したアドニスにギョッとした。
幼な子のようにボロボロと涙を流しながら泣きじゃくる姿に、動揺より何より焦りが勝った。咄嗟に「ルカーシュカは怒った訳ではない」と伝えたが、なぜかより一層強く泣き出してしまった。
困惑し、焦っている間に、アドニスをあやすように側仕えが頬を流れる雫を拭い、その手を握った。
(…今日は、ここまでですね)
安心しきって涙を拭われているアドニスの様子に、今はこの場を離れるべきだろうと、そっと席を立つ…と、それを追うように、濡れた瞳が縋るようにこちらを見上げた。
親に置いていかれた仔猫のような瞳と、か細く鳴くような声に、どうしてか自分が悪いことをしているようで、軋むように心臓が鳴った。
(…そんな目で見ないでほしい)
殊更優しく、宥めるように声を掛けるも、アドニスの涙は止まらない。それ以上どうすることも出来ず、結局はルカーシュカ同様、逃げるようにその場を離れてしまった。
「はぁ…」
パタリと閉じた扉を背に、浅い溜め息が零れた。
(やはり私とも、目が合いませんでしたね…)
去り際にほんの少しだけ絡んだ視線は、気まずさから自分から逸らしてしまった。
ルカーシュカは、彼ばかりが恐怖の対象であるかのように思い込んでいるが、そうではないことが今回のことでハッキリと分かった。
(…それでも、僅かな時間でも対面することはできた)
まともに会話も出来ていないし、そもそもアドニスの顔を見ることすら出来なかった。
対面できたと言うにはあまりにも残念な結果だが、それでもいつかの、泣き叫んで逃げ出した姿と比べれば、向かい合うことができただけ、その場に留まることができただけでも目覚ましい進歩だ。
(…次は、いつ会えるのでしょうね)
いや、そもそも『次』などあるのだろうか?
つい今ほど見たばかりの光景と涙を思い出し、腹の底が重くなるような息苦しさを感じながら、静かにその場を後にした。
───が、この時感じた不確定な未来への憂いは、早々に払われた。
離宮へと戻り、ルカーシュカと共に今日の出来事を振り返った。
自責の念が強いルカーシュカに自身の気持ちを伝えながら、その反面で苦い後悔に染まった己の行いに自嘲が漏れた。
そうして会話が途切れたところで、アドニスに付けた側仕えが、静かなノックの音と共に部屋に入ってきた。
「先程のことがあって、今すぐこのようなお願いを申し上げるのは大変心苦しく、申し訳ないのですが……できましたら、またアドニス様とお会いして頂けないでしょうか?」
離宮に戻ってそう時間を置かずに現れた側仕えの言葉に、ルカーシュカと共に、ただただ驚いた。
その機会をもう一度得られるのであれば、それに越したことはない。だが随分性急では…と自分もルカーシュカも懸念したが、側仕えの意思は固く、紡ぐ言葉は真っ直ぐで、どこまでもアドニスを想う心に染まっていた。
「アドニス様がお目覚めになるキッカケとなったのは、イヴァニエ様とルカーシュカ様がアドニス様に聖気を分け与えて下さったからです。アドニス様も、そのことはご理解されています。だからこそ、お礼の言葉を言いたいのだと、仰っていました」
「泣かれてしまったのも、恐怖からではありません。ルカーシュカ様が席を立たれたことが原因でもございません。…お二人とお言葉を交わしたいと願っていたのに、何も言うことが出来なかったと、お話しをすることが出来なかったご自身を責められて、泣かれてしまったのです」
「無理をしなければ、無理をしてでも、お二人とお言葉を交わすことが出来なければ、アドニス様はずっと今のままです。お二人に感謝のお気持ちは抱いていても、怯えたまま変わりません。変われません。…少しでいいのです。多少のご無理をしてでも、お二人と言葉を交わすキッカケさえあれば、必ず御心を開いて下さいます」
力強い声は真摯で、仕える主を心から想う言葉はどこまでも澄んでいた。
アドニスの望みに驚きながらも、同時に目の前にいる彼の願いに心底感動していた。
(…やはりこの子は、アドニスを主にと願うのですね)
長く仕えてくれた彼だからこそだろうか。そこに寂しさはなく、アドニスを想うその気持ちに自然と頬は緩んだ。
一人残されるアドニスの為に…と、偶然招び声に応えてくれたのが彼だった。
あの日の偶然が今に繋がっているのであれば、きっとこれも巡り合わせだったのだろう。
清々しい気持ちでそんなことを考えながら、同時に心のどこかで、アドニスと再び会えることに安堵している自分がいた。
それが何に対する安堵なのかは分からなかった。
アドニスが自分達に対して、心底怯えていないと知れたからだろうか?
それとも、アドニスを見守るという役目を、まだ守れるからだろうか?
それとも…また会えるということ、ただそれだけのことに、安心したのだろうか?
自分自身、何に安堵しているのか分からない。
それでも今はただ、アドニス本人が自分の意思で、再会を望んでくれることに感謝した。
その夜、側仕えだった彼は、アドニスの側仕えとなった。
と言っても、アドニス本人の預かり知らぬところで交わされた会話であり、今までと何も変わりはないのだが、気持ちの在りどころが変わったのは大きいだろう。
『アドニス様より、名を賜りたく存じます』
そう言った側仕えの天使は、以前では考えられないほど表情も感情も豊かになっていた。
そうやって少しずつ彼を変えたのもアドニスなのだと、感慨深い気持ちになりながら、長く仕えてくれたことに感謝の言葉を返し、事実上、彼は自分の元を離れた。
晴れやかな気分のまま、すぐにアドニスと向き合う為にはどうすればいいかという話題に移り、最終的には贈り物を渡すことで話がまとまった。
まずはこちらに敵意が無いこと、友好的でありたいと伝えることが大事だろう…と。
我々とアドニスの間に隔たる分厚い壁は、そう簡単には崩せない。何気ない会話ですら、交わすのが困難な状態なのだと、よくよく思い知った一日だった。
その後、ルカーシュカが立ち去った部屋の中、手元に用意したミルクと蜂蜜を前に頭を悩ませた。
(…困りましたね)
アドニスへ渡す贈り物。
構想を練る為のいくつかの助言をもらい、“どういった物を贈ればいいのか”ということは理解できたが、それをどう形ある物にすればいいのか、それが分からず悩んでいた。
(花と蜂蜜……プティ達も楽しめるような…)
目を閉じ、アドニスの部屋の様子を思い出しながら、思考を重ねていく。
今日改めて訪問した室内は、いつかの記憶に残る殺風景で無機質だったガラリと様相を変えていた。
白を基調に置かれたいくつかの家具の周りには、桃色や黄色といった淡い色合いの小物が添えられ、その見た目は、白い大地に咲いた色とりどりの花々によく似ていた。
あまりにも可愛らしい室内に少しばかり面食らったが、以前の寒々しい部屋とは比べるべくもない温かな空気に、ホッとしたのもまた事実だった。
あの雰囲気を好むというアドニスは、やはり以前とは別人のようで、胸に巣食った後悔がザワリと騒いだが、今悔やむことではない、と無理やりその考えを振り払った。
(…柔らかくて、可愛らしい…)
今まで考えたこともなかった種の構想に、かなり時間を費やしたが、最終的に「蜂蜜で作った綿菓子の雲から花を降らせれば、楽しんでもらえるのでは?」という考えに落ち着いた。何かしらの動きがあった方が、プティ達も楽しめるだろうと思ったのだ。
ふんわりとした構想を形作るべく、意識を集中させながら、手の平に落とすように蜂蜜を垂らす。蜜は手の平に垂れる前に空中でピタリと止まると、徐々にその姿を変えていった。
細い細い糸が絡み合うように空気と遊び、手の平の上で舞うように踊る。その間も練った構想を織り込むように、聖気を注ぎ続けた。
(食事という意味でも、ミルクを飲むことで変化が起きるのがいいでしょうね…ならば連動と…生まれる花はミルクを媒体に…)
無から有を生み出すことは出来ない。花を形作る為の素として、ミルクという物質を液体から別の個として新たに作り変えていく。
花の形を成したそれが、ふわりと咲く姿を想像している間にも、繊維のように細く、空気を包み込むように絡み合った蜂蜜は、金の粉を含んだような小さな綿菓子へと姿を変えていた。
「…ふむ」
初めて造った物だが、なかなか悪くない。
予め用意しておいたカップ入りのミルクを温めると、その上に出来上がったばかりの綿菓子を浮かべた。
しゅわしゅわと溶けながら沈んでいったそれが完全に消えると、次いで起こった変化をじっくりと観察する───と、膨らんだそれはカップから離れ、雲のようにプカリと宙に浮いた。
ふわふわと浮かんだそれは、可愛らしいと言えば可愛らしいと言える見た目だ。試しに…とミルクを一口飲めば、「ポンッ」という小さな音と共に白い花弁の花が二つ、三つと雲から生まれ、ふわふわと舞うように降った。
ささやかなものだが、プティ達が戯れるだけ、と考えれば充分だろう。カップの中身は半分ほどの量に減っており、仕組みとしても問題はなさそうだった。
もう一口飲めば花が生まれ、それを手の平に乗せれば、しっとりとした花弁の感触が手に伝わった。
手の平に乗ったそれをそっと包むように握り込めば、手の中で『パシャンッ♪』と軽やかな音を立て白い花は弾け、キラキラと輝く金の粒子を残して消えた。
(これなら、アドニスも…)
少しは喜んでくれるだろうか───?
そんなことを思いながら、少しだけ寂しさが残る花の消え方に、何か手を加えられないかと考えを巡らせ、余ったミルクに口を付けた。
(…甘い)
慣れない甘さだが、不思議と好ましいと思えた。
温かで柔らかな口当たりは、閉鎖的ながらも陽だまりの中にあるような、あの部屋の風景を強く思い出させた。
翌々日、自分とルカーシュカからの贈り物を受け取ったというアドニスの反応に、ホッと胸を撫で下ろした。…が、ルカーシュカからの贈り物は、普段の物静かな彼の性格を表しているような、慎ましさの中に品があるような品で、それを目の当たりにした時、何故か急激に焦りが生まれた。
(試行錯誤が過ぎたでしょうか…)
あの後、人間界にある『花火』という夜空に咲く鮮やかな炎の花を思い出し、つい遊び心で取り入れてしまったが、不要だったかもしれない…と今更になって不安が込み上げた。
側仕え曰く、どちらの贈り物も喜んではくれたらしいが、それでも目で楽しみ、食べて楽しむ、という趣旨に沿って造られたルカーシュカの贈り物は、見た目にもとても美しかった。
自分の贈り物は、アドニスにどう思われたのだろう…その反応が気になってしまう自分に戸惑いつつ、落ち着かない気持ちを抱えたまま、再会の日を待った。
そうして迎えたその日は、部屋に入った瞬間から、前回とは異なっていた。
部屋の中で待つアドニスはフードを取った姿で、久方ぶりに見たその顔に、思わず息を呑んだ。
唇を柔く噛み、服の裾を強く握り締めた姿は、震えそうになるのを必死に耐えている様だった。
既に少し潤んだ瞳で、時折顔を逸らしながらも、自分達と目を合わせようと忙しなく動く金の双眸…言葉を交わすことはおろか、こちらに視線を向けることすら、いっぱいいっぱいなのだろう。
それでも懸命に、途切れ、痞えながらも、自身の気持ちを言葉にしようとしている気概が痛いほど伝わってきた。
その必死さから、今まで自分達にどんな感情を抱いていたのかが伝わり、改めて苦い気持ちになる。だがそれと同時に、その懸命さに心のどこかで、何か別の感情が揺れるのを感じた。
これ以上、怖がらせるようなことはしたくない───自然とそんな気持ちになりながら、今こうして向き合ってくれるようになったのは、アドニスの中でも、自分達に対する考え方が少し変わったのかもしれない…と、淡い期待を抱いてしまう自分がいた。
そんな中、贈り物に関してアドニスの口から感想を聞くことができたのだが、振り絞るように紡がれた言葉に、思考は凍り付いた。
「ル、ルカーシュカ、様…のは、あの、すごく…綺麗で、そのまま、でも、綺麗…だった、けど…食べる時も、た、楽しくて…みんなと、一緒に、食べれた…し、イ…ヴァニエ様、のは…えっと…、か、可愛らしくて、小っちゃい子達も、すごく…笑ってて、楽しかった…です、し…ぇと、ど、どっちも、とても…う…嬉しかった…です…!」
イヴァニエ“様”───耳に慣れたはずの敬称が、こんなにも得体の知れない音に聞こえたのは初めてだった。
隣に座るルカーシュカを視界の端で確認すれば、絶句したまま固まっていた。
いや、アドニスの不自然な言葉遣いから、予想しようと思えばいくらでも予想できる流れだったはずだ。ただ、それを現実として突きつけられた瞬間の衝撃が、あまりにも大きかったのだ。
(…必要以上に動揺するのは、アドニスを不安にさせるだけなのでしょうね)
既に手遅れな気がしたが、努めて柔らかな声で返せば、ルカーシュカからの援護もあり、なんとか会話を繋げることが出来た。
(…贈り物は、喜んでもらえていたのですね)
耳慣れない呼び方に動揺するも、落ち着きを取り戻した頭は、アドニスの『どちらもとても嬉しかった』という言葉を遅れて理解した。
感謝の言葉を重ねるアドニスは、全身で感謝と喜びを表現している様で、安堵すると同時に、そわりと波が立つような感覚が寄せてくるのを感じ、胸の鼓動が速くなった。
(…?)
贈り物を喜んでもらえたのは、自分にとっても喜ばしいことだ。だからこそ、感情が波立つのだろう…と、この瞬間は思ったのだが、どうしてかアドニスが言葉を重ねれば重ねるほど、揺らぎは大きくなっていった。
側仕えに『エルダ』と名を与えたことと、その名の意味を、顔を真っ赤にしながら懸命に説明する姿に、あり得ない情が湧き出そうになり、自身がそれを認識する前に、心の底に押し込めた。
きっと、慣れぬ姿に動揺しているだけ、ただそれだけだと…
だがその直後、ポトリと一粒の涙を零したアドニスの、あまりにも無垢な表情にドキリと心臓が跳ねた。
その慌てた様子から、アドニス自身、予期せず涙腺が緩んだのだろう。
「大丈夫」と繰り返し言いながら、側仕え…エルダにほんの少しだけ笑い掛ける。初めて間近で見たその柔らかな表情に、驚きにも似た感情から、目は釘付けになった。
(…そういえば、今のアドニスは、こんな顔も出来たのですね…)
ふと脳裏に浮かんだのは、赤子達との再会に喜び、愛しい、愛しいと涙を流していた、いつかの姿だった。
星明かりの下、幾人ものプティがアドニスの元へと駆けるように飛んで行き、互いに望むまま抱きつき、抱き締めていたあの夜の光景は、鮮明に記憶に刻まれていた。
『嬉しい』『愛しい』と、泣きながら笑うアドニスの表情を、自分はあの時確かに「綺麗だ」と思ったのだ。
(……私達の前でも、笑えるようになったのは、良いことなのでしょう)
トクトクと、妙なほど気になる鼓動の音は、きっとその一片のような一欠片を間近で見たせいだろう───そんな言い訳じみた考えを誤魔化すように、冷静を装う思考は、予め用意していた提案をアドニスへと告げていた。
「…もし、もしよければですが、今後もこうして、定期的に顔を合わせて話しをしませんか?」
そう伝えれば、案の定アドニスは目を丸くして驚いていた。
「もしも、これからも話しができるのなら…嬉しく思います」
『嬉しく思う』
自分にとって、それは紛れもない本心だった。
知らないからこそ、知りたい───知ろうともしなかった自分が、都合の良いことを言っている自覚はある。だが自分可愛さに、また目を背けるようなことは、もうしたくなかったのだ。
断ってくれてもいい、そう言いながらも、もし断られたら…という不安に、息が詰まった。
だからと言って、自身の望みを押し付けるような無理強いはしたくない。
アドニスに自分勝手な願いが伝わらぬように、必死に表情と声音を取り繕った。
「…そ、の…、ヤ…ヤじゃ、なければ…、その、ま、また…会って…お、お話し…して…もらえ、たら…、…っ、ぅ…嬉しい…と、思います…っ」
そうして長く短い沈黙が流れた後、可哀想なほどに震えた声が返ってきて、詰めていた息をゆっくりと吐き出すと同時に、安堵と喜びが湧き上がった。
(良かった…!)
まだ何一つ解決できていない。
アドニスのことを何も知らない。
ただ今は、拒絶されなかったことが喜ばしかった。
差し出せたはずの手があったことを忘れぬように、今度こそ選択を間違えないように───アドニスとルカーシュカ、エルダと穏やかに言葉を交わしながら、一人固く決意した。
短いながらも実りある対面を済ませ、ルカーシュカと共に席を立ち、部屋を後にした。
扉を閉める間際、ふと後ろを振り返れば、エルダと並んで立つアドニスの姿が視界に映った。
部屋に入って来た時、怯えるように揺れていた金色の双眸───その瞳が、今は真っ直ぐにこちらを見つめている。それがただ、嬉しかった。
瞼を閉じた表情はあどけなく、薄く開いた唇から漏れる寝息すら愛しいと感じた。
(ああ…本当に一体いつから…)
そう考えたところで、答えに辿り着くはずもない。かと言って今更否定しようという気も起きない。
淡く色付いた情は、確かに目の前で眠る者へと注がれていた。
アドニスと改めて顔を合わせようと取り決めた数日後、ルカーシュカと揃ってアドニスの元へと向かった。滲む緊張から足取りは重く、浅い呼吸に胸は苦しくなった。
(…本当に大丈夫でしょうか)
自分ですらこれだけ緊張しているのだ。恐らくアドニスも同じように…それ以上に緊張しているであろうことが安易に想像できた。
相手はアドニスだが、今はもう『あの』アドニスだとは思っていない。ただそれとは別に、言葉にし難い不安が胸の中で渦巻いた。
間近で最後に見たアドニスは、自分達の姿を目にしただけで泣き叫び、怯え、拒絶した。
驚愕と恐怖に染まり、光を失った金色の瞳…絶望にも似た表情と悲痛な叫びが、ずっと脳にこびりついていた。
自身がそういう対象になったことが無く、そのような感情を向けられることにも動揺したが、それに混じった遠い日の己の行動を悔やむ気持ちが、少しずつ少しずつ、心に圧を掛けた。
(これで、何かが変わればいいのですが…)
不安ばかりが募る中、僅かに混ぜた期待は、迎え入れられた部屋の中、ポツンと佇むアドニスを目にした瞬間、霧散した。
───ああ、やはり時期尚早だった…と。
目深に被ったフードの下、アドニスの表情は読み取れなかったが、それでも怯えと恐怖、痛いほどの緊張感が伝わってきた。
なんとか向かい合って座るまでには至ったが、それでもまともに言葉を交わすことなど到底不可能な状態だった。
「っ…、ふ…っ、ごめ…、ご、ごめ…なさ……!」
ただの一言も言葉を交わせないまま、ルカーシュカが席を立ち、その背を見送っている間に泣き出したアドニスにギョッとした。
幼な子のようにボロボロと涙を流しながら泣きじゃくる姿に、動揺より何より焦りが勝った。咄嗟に「ルカーシュカは怒った訳ではない」と伝えたが、なぜかより一層強く泣き出してしまった。
困惑し、焦っている間に、アドニスをあやすように側仕えが頬を流れる雫を拭い、その手を握った。
(…今日は、ここまでですね)
安心しきって涙を拭われているアドニスの様子に、今はこの場を離れるべきだろうと、そっと席を立つ…と、それを追うように、濡れた瞳が縋るようにこちらを見上げた。
親に置いていかれた仔猫のような瞳と、か細く鳴くような声に、どうしてか自分が悪いことをしているようで、軋むように心臓が鳴った。
(…そんな目で見ないでほしい)
殊更優しく、宥めるように声を掛けるも、アドニスの涙は止まらない。それ以上どうすることも出来ず、結局はルカーシュカ同様、逃げるようにその場を離れてしまった。
「はぁ…」
パタリと閉じた扉を背に、浅い溜め息が零れた。
(やはり私とも、目が合いませんでしたね…)
去り際にほんの少しだけ絡んだ視線は、気まずさから自分から逸らしてしまった。
ルカーシュカは、彼ばかりが恐怖の対象であるかのように思い込んでいるが、そうではないことが今回のことでハッキリと分かった。
(…それでも、僅かな時間でも対面することはできた)
まともに会話も出来ていないし、そもそもアドニスの顔を見ることすら出来なかった。
対面できたと言うにはあまりにも残念な結果だが、それでもいつかの、泣き叫んで逃げ出した姿と比べれば、向かい合うことができただけ、その場に留まることができただけでも目覚ましい進歩だ。
(…次は、いつ会えるのでしょうね)
いや、そもそも『次』などあるのだろうか?
つい今ほど見たばかりの光景と涙を思い出し、腹の底が重くなるような息苦しさを感じながら、静かにその場を後にした。
───が、この時感じた不確定な未来への憂いは、早々に払われた。
離宮へと戻り、ルカーシュカと共に今日の出来事を振り返った。
自責の念が強いルカーシュカに自身の気持ちを伝えながら、その反面で苦い後悔に染まった己の行いに自嘲が漏れた。
そうして会話が途切れたところで、アドニスに付けた側仕えが、静かなノックの音と共に部屋に入ってきた。
「先程のことがあって、今すぐこのようなお願いを申し上げるのは大変心苦しく、申し訳ないのですが……できましたら、またアドニス様とお会いして頂けないでしょうか?」
離宮に戻ってそう時間を置かずに現れた側仕えの言葉に、ルカーシュカと共に、ただただ驚いた。
その機会をもう一度得られるのであれば、それに越したことはない。だが随分性急では…と自分もルカーシュカも懸念したが、側仕えの意思は固く、紡ぐ言葉は真っ直ぐで、どこまでもアドニスを想う心に染まっていた。
「アドニス様がお目覚めになるキッカケとなったのは、イヴァニエ様とルカーシュカ様がアドニス様に聖気を分け与えて下さったからです。アドニス様も、そのことはご理解されています。だからこそ、お礼の言葉を言いたいのだと、仰っていました」
「泣かれてしまったのも、恐怖からではありません。ルカーシュカ様が席を立たれたことが原因でもございません。…お二人とお言葉を交わしたいと願っていたのに、何も言うことが出来なかったと、お話しをすることが出来なかったご自身を責められて、泣かれてしまったのです」
「無理をしなければ、無理をしてでも、お二人とお言葉を交わすことが出来なければ、アドニス様はずっと今のままです。お二人に感謝のお気持ちは抱いていても、怯えたまま変わりません。変われません。…少しでいいのです。多少のご無理をしてでも、お二人と言葉を交わすキッカケさえあれば、必ず御心を開いて下さいます」
力強い声は真摯で、仕える主を心から想う言葉はどこまでも澄んでいた。
アドニスの望みに驚きながらも、同時に目の前にいる彼の願いに心底感動していた。
(…やはりこの子は、アドニスを主にと願うのですね)
長く仕えてくれた彼だからこそだろうか。そこに寂しさはなく、アドニスを想うその気持ちに自然と頬は緩んだ。
一人残されるアドニスの為に…と、偶然招び声に応えてくれたのが彼だった。
あの日の偶然が今に繋がっているのであれば、きっとこれも巡り合わせだったのだろう。
清々しい気持ちでそんなことを考えながら、同時に心のどこかで、アドニスと再び会えることに安堵している自分がいた。
それが何に対する安堵なのかは分からなかった。
アドニスが自分達に対して、心底怯えていないと知れたからだろうか?
それとも、アドニスを見守るという役目を、まだ守れるからだろうか?
それとも…また会えるということ、ただそれだけのことに、安心したのだろうか?
自分自身、何に安堵しているのか分からない。
それでも今はただ、アドニス本人が自分の意思で、再会を望んでくれることに感謝した。
その夜、側仕えだった彼は、アドニスの側仕えとなった。
と言っても、アドニス本人の預かり知らぬところで交わされた会話であり、今までと何も変わりはないのだが、気持ちの在りどころが変わったのは大きいだろう。
『アドニス様より、名を賜りたく存じます』
そう言った側仕えの天使は、以前では考えられないほど表情も感情も豊かになっていた。
そうやって少しずつ彼を変えたのもアドニスなのだと、感慨深い気持ちになりながら、長く仕えてくれたことに感謝の言葉を返し、事実上、彼は自分の元を離れた。
晴れやかな気分のまま、すぐにアドニスと向き合う為にはどうすればいいかという話題に移り、最終的には贈り物を渡すことで話がまとまった。
まずはこちらに敵意が無いこと、友好的でありたいと伝えることが大事だろう…と。
我々とアドニスの間に隔たる分厚い壁は、そう簡単には崩せない。何気ない会話ですら、交わすのが困難な状態なのだと、よくよく思い知った一日だった。
その後、ルカーシュカが立ち去った部屋の中、手元に用意したミルクと蜂蜜を前に頭を悩ませた。
(…困りましたね)
アドニスへ渡す贈り物。
構想を練る為のいくつかの助言をもらい、“どういった物を贈ればいいのか”ということは理解できたが、それをどう形ある物にすればいいのか、それが分からず悩んでいた。
(花と蜂蜜……プティ達も楽しめるような…)
目を閉じ、アドニスの部屋の様子を思い出しながら、思考を重ねていく。
今日改めて訪問した室内は、いつかの記憶に残る殺風景で無機質だったガラリと様相を変えていた。
白を基調に置かれたいくつかの家具の周りには、桃色や黄色といった淡い色合いの小物が添えられ、その見た目は、白い大地に咲いた色とりどりの花々によく似ていた。
あまりにも可愛らしい室内に少しばかり面食らったが、以前の寒々しい部屋とは比べるべくもない温かな空気に、ホッとしたのもまた事実だった。
あの雰囲気を好むというアドニスは、やはり以前とは別人のようで、胸に巣食った後悔がザワリと騒いだが、今悔やむことではない、と無理やりその考えを振り払った。
(…柔らかくて、可愛らしい…)
今まで考えたこともなかった種の構想に、かなり時間を費やしたが、最終的に「蜂蜜で作った綿菓子の雲から花を降らせれば、楽しんでもらえるのでは?」という考えに落ち着いた。何かしらの動きがあった方が、プティ達も楽しめるだろうと思ったのだ。
ふんわりとした構想を形作るべく、意識を集中させながら、手の平に落とすように蜂蜜を垂らす。蜜は手の平に垂れる前に空中でピタリと止まると、徐々にその姿を変えていった。
細い細い糸が絡み合うように空気と遊び、手の平の上で舞うように踊る。その間も練った構想を織り込むように、聖気を注ぎ続けた。
(食事という意味でも、ミルクを飲むことで変化が起きるのがいいでしょうね…ならば連動と…生まれる花はミルクを媒体に…)
無から有を生み出すことは出来ない。花を形作る為の素として、ミルクという物質を液体から別の個として新たに作り変えていく。
花の形を成したそれが、ふわりと咲く姿を想像している間にも、繊維のように細く、空気を包み込むように絡み合った蜂蜜は、金の粉を含んだような小さな綿菓子へと姿を変えていた。
「…ふむ」
初めて造った物だが、なかなか悪くない。
予め用意しておいたカップ入りのミルクを温めると、その上に出来上がったばかりの綿菓子を浮かべた。
しゅわしゅわと溶けながら沈んでいったそれが完全に消えると、次いで起こった変化をじっくりと観察する───と、膨らんだそれはカップから離れ、雲のようにプカリと宙に浮いた。
ふわふわと浮かんだそれは、可愛らしいと言えば可愛らしいと言える見た目だ。試しに…とミルクを一口飲めば、「ポンッ」という小さな音と共に白い花弁の花が二つ、三つと雲から生まれ、ふわふわと舞うように降った。
ささやかなものだが、プティ達が戯れるだけ、と考えれば充分だろう。カップの中身は半分ほどの量に減っており、仕組みとしても問題はなさそうだった。
もう一口飲めば花が生まれ、それを手の平に乗せれば、しっとりとした花弁の感触が手に伝わった。
手の平に乗ったそれをそっと包むように握り込めば、手の中で『パシャンッ♪』と軽やかな音を立て白い花は弾け、キラキラと輝く金の粒子を残して消えた。
(これなら、アドニスも…)
少しは喜んでくれるだろうか───?
そんなことを思いながら、少しだけ寂しさが残る花の消え方に、何か手を加えられないかと考えを巡らせ、余ったミルクに口を付けた。
(…甘い)
慣れない甘さだが、不思議と好ましいと思えた。
温かで柔らかな口当たりは、閉鎖的ながらも陽だまりの中にあるような、あの部屋の風景を強く思い出させた。
翌々日、自分とルカーシュカからの贈り物を受け取ったというアドニスの反応に、ホッと胸を撫で下ろした。…が、ルカーシュカからの贈り物は、普段の物静かな彼の性格を表しているような、慎ましさの中に品があるような品で、それを目の当たりにした時、何故か急激に焦りが生まれた。
(試行錯誤が過ぎたでしょうか…)
あの後、人間界にある『花火』という夜空に咲く鮮やかな炎の花を思い出し、つい遊び心で取り入れてしまったが、不要だったかもしれない…と今更になって不安が込み上げた。
側仕え曰く、どちらの贈り物も喜んではくれたらしいが、それでも目で楽しみ、食べて楽しむ、という趣旨に沿って造られたルカーシュカの贈り物は、見た目にもとても美しかった。
自分の贈り物は、アドニスにどう思われたのだろう…その反応が気になってしまう自分に戸惑いつつ、落ち着かない気持ちを抱えたまま、再会の日を待った。
そうして迎えたその日は、部屋に入った瞬間から、前回とは異なっていた。
部屋の中で待つアドニスはフードを取った姿で、久方ぶりに見たその顔に、思わず息を呑んだ。
唇を柔く噛み、服の裾を強く握り締めた姿は、震えそうになるのを必死に耐えている様だった。
既に少し潤んだ瞳で、時折顔を逸らしながらも、自分達と目を合わせようと忙しなく動く金の双眸…言葉を交わすことはおろか、こちらに視線を向けることすら、いっぱいいっぱいなのだろう。
それでも懸命に、途切れ、痞えながらも、自身の気持ちを言葉にしようとしている気概が痛いほど伝わってきた。
その必死さから、今まで自分達にどんな感情を抱いていたのかが伝わり、改めて苦い気持ちになる。だがそれと同時に、その懸命さに心のどこかで、何か別の感情が揺れるのを感じた。
これ以上、怖がらせるようなことはしたくない───自然とそんな気持ちになりながら、今こうして向き合ってくれるようになったのは、アドニスの中でも、自分達に対する考え方が少し変わったのかもしれない…と、淡い期待を抱いてしまう自分がいた。
そんな中、贈り物に関してアドニスの口から感想を聞くことができたのだが、振り絞るように紡がれた言葉に、思考は凍り付いた。
「ル、ルカーシュカ、様…のは、あの、すごく…綺麗で、そのまま、でも、綺麗…だった、けど…食べる時も、た、楽しくて…みんなと、一緒に、食べれた…し、イ…ヴァニエ様、のは…えっと…、か、可愛らしくて、小っちゃい子達も、すごく…笑ってて、楽しかった…です、し…ぇと、ど、どっちも、とても…う…嬉しかった…です…!」
イヴァニエ“様”───耳に慣れたはずの敬称が、こんなにも得体の知れない音に聞こえたのは初めてだった。
隣に座るルカーシュカを視界の端で確認すれば、絶句したまま固まっていた。
いや、アドニスの不自然な言葉遣いから、予想しようと思えばいくらでも予想できる流れだったはずだ。ただ、それを現実として突きつけられた瞬間の衝撃が、あまりにも大きかったのだ。
(…必要以上に動揺するのは、アドニスを不安にさせるだけなのでしょうね)
既に手遅れな気がしたが、努めて柔らかな声で返せば、ルカーシュカからの援護もあり、なんとか会話を繋げることが出来た。
(…贈り物は、喜んでもらえていたのですね)
耳慣れない呼び方に動揺するも、落ち着きを取り戻した頭は、アドニスの『どちらもとても嬉しかった』という言葉を遅れて理解した。
感謝の言葉を重ねるアドニスは、全身で感謝と喜びを表現している様で、安堵すると同時に、そわりと波が立つような感覚が寄せてくるのを感じ、胸の鼓動が速くなった。
(…?)
贈り物を喜んでもらえたのは、自分にとっても喜ばしいことだ。だからこそ、感情が波立つのだろう…と、この瞬間は思ったのだが、どうしてかアドニスが言葉を重ねれば重ねるほど、揺らぎは大きくなっていった。
側仕えに『エルダ』と名を与えたことと、その名の意味を、顔を真っ赤にしながら懸命に説明する姿に、あり得ない情が湧き出そうになり、自身がそれを認識する前に、心の底に押し込めた。
きっと、慣れぬ姿に動揺しているだけ、ただそれだけだと…
だがその直後、ポトリと一粒の涙を零したアドニスの、あまりにも無垢な表情にドキリと心臓が跳ねた。
その慌てた様子から、アドニス自身、予期せず涙腺が緩んだのだろう。
「大丈夫」と繰り返し言いながら、側仕え…エルダにほんの少しだけ笑い掛ける。初めて間近で見たその柔らかな表情に、驚きにも似た感情から、目は釘付けになった。
(…そういえば、今のアドニスは、こんな顔も出来たのですね…)
ふと脳裏に浮かんだのは、赤子達との再会に喜び、愛しい、愛しいと涙を流していた、いつかの姿だった。
星明かりの下、幾人ものプティがアドニスの元へと駆けるように飛んで行き、互いに望むまま抱きつき、抱き締めていたあの夜の光景は、鮮明に記憶に刻まれていた。
『嬉しい』『愛しい』と、泣きながら笑うアドニスの表情を、自分はあの時確かに「綺麗だ」と思ったのだ。
(……私達の前でも、笑えるようになったのは、良いことなのでしょう)
トクトクと、妙なほど気になる鼓動の音は、きっとその一片のような一欠片を間近で見たせいだろう───そんな言い訳じみた考えを誤魔化すように、冷静を装う思考は、予め用意していた提案をアドニスへと告げていた。
「…もし、もしよければですが、今後もこうして、定期的に顔を合わせて話しをしませんか?」
そう伝えれば、案の定アドニスは目を丸くして驚いていた。
「もしも、これからも話しができるのなら…嬉しく思います」
『嬉しく思う』
自分にとって、それは紛れもない本心だった。
知らないからこそ、知りたい───知ろうともしなかった自分が、都合の良いことを言っている自覚はある。だが自分可愛さに、また目を背けるようなことは、もうしたくなかったのだ。
断ってくれてもいい、そう言いながらも、もし断られたら…という不安に、息が詰まった。
だからと言って、自身の望みを押し付けるような無理強いはしたくない。
アドニスに自分勝手な願いが伝わらぬように、必死に表情と声音を取り繕った。
「…そ、の…、ヤ…ヤじゃ、なければ…、その、ま、また…会って…お、お話し…して…もらえ、たら…、…っ、ぅ…嬉しい…と、思います…っ」
そうして長く短い沈黙が流れた後、可哀想なほどに震えた声が返ってきて、詰めていた息をゆっくりと吐き出すと同時に、安堵と喜びが湧き上がった。
(良かった…!)
まだ何一つ解決できていない。
アドニスのことを何も知らない。
ただ今は、拒絶されなかったことが喜ばしかった。
差し出せたはずの手があったことを忘れぬように、今度こそ選択を間違えないように───アドニスとルカーシュカ、エルダと穏やかに言葉を交わしながら、一人固く決意した。
短いながらも実りある対面を済ませ、ルカーシュカと共に席を立ち、部屋を後にした。
扉を閉める間際、ふと後ろを振り返れば、エルダと並んで立つアドニスの姿が視界に映った。
部屋に入って来た時、怯えるように揺れていた金色の双眸───その瞳が、今は真っ直ぐにこちらを見つめている。それがただ、嬉しかった。
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