天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

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イヴァニエが天界に帰ってくる。

ルカーシュカからそう聞いた翌日、朝からソワソワした気分で目が覚めた。
いつもと変わらぬ時間を過ごしながら、落ち着かない気持ちを鎮めるように、何度も深呼吸を繰り返す。

「あぅ、あ?」
「…今日は、ルカーシュカ様も来れないんだって」
「んぅ」

夕暮れが近づいた頃、一人の赤ん坊がルカーシュカの姿を探すように、辺りをキョロキョロと見回した。ここ連日、毎日いた彼がいないことを不思議に思ったのだろう。


昨日の帰り際、「明日はたぶん来れそうにない」とルカーシュカに言われていた。
ポツリと零れた声はどこか沈んでいて、そこに僅かな寂しさのようなものが滲んでいることに、きゅうっと胸が鳴り、その妙な締め付けに胸元に手を当てた。

『……?』
『どうかしたか?』
『…いいえ……あの、イヴァニエ様が、お帰りになったら…また…その…お、お二人で、来て…下さったら、嬉しいです…』
『…うん、また来るよ』

また来るよ───その声がとても優しくて、込み上げた何かに一人狼狽えている間に、ルカーシュカは帰ってしまった。


(…最近、少し…変な感じがする)

ふわふわするような、ドキドキするような、表現の難しい感情がふいに顔を出すことがあった。自分自身よく分からない不思議な感覚に首を傾げながら、どこか温かい感情に少し安心していた。

「また、来て下さるから…そしたら、遊んでもらおうね?」
「だぅ」

きゃっきゃっと笑い声を上げ、小さな体で跳ねるように揺れながらペチペチと手を叩く赤子の姿に、思わず笑みが零れる。
ルカーシュカは赤子達の遊んでほしそうな雰囲気を察するのが上手く、よく一緒に遊んでくれているので、仲直りしてからの彼らはとても仲が良い。

(…今日、イヴァニエ様とお話ししたら、また何か、変わるのかな…)

ルカーシュカと二人きりで話したあの夜から、彼との関係は大きく変わった。
今日、同じようにイヴァニエと二人きりで言葉を交わしたら、何か変わるのだろうか───そんなことを考えながら、鮮やかな茜色から濃い紺色にゆっくりと染まっていく空の境目を眺め続けた。



あっという間に陽が沈み、ルカーシュカに聞いていた予定の時間をだいぶ過ぎた頃、落ち着かない気持ちはピークに達していた。

「…イヴァニエ様、遅いね」
「予定していたお戻りの時間に、少しズレがあったのかもしれませんね」

手持ち無沙汰な手をまごまごと絡ませながら、扉の近くで待機するエルダの横に用意された椅子に座り、イヴァニエの訪問を待っていた。
最初は立って待っていたのだが、予定していた時間を過ぎてもイヴァニエが来ないと一早く判断したエルダに「掛けてお待ち下さい」とにこやかに言われ、大人しく従った。

「ねぇ、エルダ…イヴァニエ様も、なにかあったのかも、しれないし…また違う日に…」

陽が落ちてから、それなりの時間が過ぎていた。もしかしたら、彼に迷惑を掛けてしまうのでは…そう思い、言いかけた時だった。


───コンコンコン…


遠慮がちに響いた小さなノックの音に、バッと立ち上がる。

「いらっしゃいましたね」
「うん…!」
「では私が扉を開けますので、アドニス様はこちらに」
「う、うん」

扉の正面、エルダが扉を開けたら、そこにイヴァニエが立っているのだろう真正面に誘導され、嫌でも緊張が高まった。

(まずは、おかえりなさいって言う…!)

エルダとルカーシュカに教えてもらったことをきちんと言えるようにと、何度も頭の中で繰り返した言葉。
ドキドキしながら、閉じられたままの扉を見つめた先、エルダの手がそっとドアノブに掛かり、ゆっくりと扉が開かれた。

開いた扉の向こう側には、長く待ちわびていたイヴァニエがいた。
久方ぶりに目にするその姿に変わった様子はなく、そのことに安堵しながら、意を決して口を開いた。

「お、おかえり、なさい…ませ、イヴァニエ様…!」

(言えた…!)

ちゃんと言えたことに、言い知れぬ達成感から頬が緩む───が、何故か正面に立つイヴァニエは驚いたような表情のまま固まり、動かなかった。

「…?」

(…どうしたんだろう?)

言うべき言葉は間違えていないはずだ。出迎えについても、エルダが一緒にいるので、以前のように叱られるようなことはない…と思う。
なんの反応も無いことに徐々に不安が込み上げ、エルダに助けを求めるように視線を向けた時だった。固まっていたイヴァニエの表情が、柔らかに崩れた。

「…ただいま、帰りました」
「…っ」

ハッと息を呑むほど綺麗な笑顔に、今度は自分が固まった。
いつも柔和な表情のイヴァニエだが、今はとても、本当にとても嬉しそうに微笑んでくれていて、その笑顔がいつものそれとは別物だということは自分にも分かった。
綺麗な笑顔に見惚れている間に、イヴァニエが一歩、二歩と近づき、すぐ目の前に立った彼の右手が、自身の頬にそっと触れた。

「っ!?」

突然のことに身動きも取れず、息が止まった。

(な、に…!? なんで、ほ、ほっぺ…!?)

少しだけ乾いた肌が、左の頬をすべるように撫でる。するりと触れた指先の感触と温度に、ピクリと肩が揺れた。

「うぁ……あ、あの…っ」

唐突なイヴァニエの行動に、どう反応すればいいのか分からず声が出ない。
どうするのが正解なのか、ぐるぐると目まぐるしい思考のまま固まっていると、ふっと傍らの人影が動いた。

「…おかえりなさいませ、イヴァニエ様。お帰りをお待ちしておりました」
「……ええ、ただいま帰りました」

エルダに返事をしながら、イヴァニエの手が頬から離れた。離れていった指先にホッとしつつ、頬に残った肌を撫でる感触に視線は泳いだ。

(…びっくりした)

予想外の接触に驚き、ドキドキと忙しなく脈打つ心臓を押さえるように、胸元でキツく手を組む。

「遅くなって、すみませんでした」
「…っ、い、いえ…、あの…お疲れ、じゃ…?」
「いいえ、大丈夫ですよ」

いつもの雰囲気に戻ったイヴァニエだが、その距離は今までにないほど近い。
すぐ隣、手を伸ばさなくとも届く距離にいることが新鮮で、妙な緊張感に心臓の鼓動はいつまでも落ち着かなかった。

「アドニス様、まずはお掛けになって頂いた方がよろしいかと…」
「あ、う、うん…! あの、イヴァニエ様…こちらに…」

少しのぎこちなさを残しながら、イヴァニエをソファーへと誘った。

「…こちらでいいのですか?」
「は、はい。えっと…こ、こっちの方が…あの…イヴァニエ様が、疲れてたら…柔らかい方が、良いと、思って…」
「…ありがとうございます」

ふかふかのソファーなら、イヴァニエに疲労が残っていても、気休め程度の癒しになるかもしれない…そう思い、エルダと相談していたのだ。
ここ最近はルカーシュカと、夕暮れ時にはエルダと並んで座ることが増えたソファーに腰掛けると、その隣をイヴァニエに勧めた。

「えと…お、お隣に…」
「……では、失礼しますね」

コクコクと頷けば、ゆったりとした動作で隣にイヴァニエが腰を下ろした。
こうして彼と並んで座るのも初めてで、どうしてもドギマギとしてしまうが、それでも隣に座ってもらえたことに安堵の息を吐いた。

(良かった…)

イヴァニエの話しがどういったものかは分からないが、エルダともルカーシュカとも、互いに真摯に話しがしたいと願った時は、こうして並んで座り、言葉を交わした。
だからこそ、自然とイヴァニエともそうするのだろうと思い、その体でエルダとも準備していた。
拒絶されるようなことは無いはず…そう思ってはいたが、それでも自身の隣の席を勧める時は、少しだけ声が震えてしまった。
まだ少し緊張する心臓を宥める様に、静かに呼吸を整えている間、エルダが温かな紅茶とミルクを用意してくれた。
テーブルの上、イヴァニエと自分の前にそれぞれ置かれたカップと一緒に、以前ルカーシュカから貰ったジャムとビスコットを並べた皿が置かれた。

「これは?」
「これは、ルカーシュカ様が、くださいました…」
「…ルカーシュカが?」

見慣れぬ物が並んでいるせいだろう。不思議そうな顔をするイヴァニエに返事をすると、エルダがおもむろに姿勢を正した。

「では、私はこれで失礼させて頂きます」
「あ、う、うん…! …ありがとう、エルダ」
「…ありがとうございます、エルダ」
「恐れ入ります。お二人とも、良きお時間を過ごせますように。…アドニス様、少しお早いですが、おやすみなさいませ」
「うん…おやすみ、エルダ」

うやうやしく頭を下げ、静かに部屋を立ち去るエルダを見送る。パタリと閉じられた扉の向こう、エルダの姿が見えなくなると、途端に部屋の中に広がった静けさが気になり始めた。

「…ん…と…」
「…まずは、お茶を戴きましょうか」
「は、はい…!」

カップに手を伸ばすイヴァニエに促されるまま、自分もカップを手に取った。
蜂蜜の入っていないミルクのほんのりとした甘さと温かさに、体の強張りがゆるりと解けた。

「美味しいですね」
「はい…」

カップに口を付けたイヴァニエが同じように肩の力を抜き、いくらかソファーに深く座ったのが見えた。

「…あの…やっぱり、疲れて、ますか…?」
「いえ、大丈夫ですよ。思ったより、聖気の消費量が多かっただけです」
「…何かに、使ったん…ですか…?」
「私達が人間界に降りる時、どのようにあちらの世界とこちらの世界を繋ぐのかは聞きましたか?」
「えっと……大きな、扉を通って…繋ぐって…」

天界と人間界は、雲の裂け目にある大きな扉を通して繋がっているのだという。
こちらから通る時、その大きな扉を開くと、人間界には『天使の梯子』と呼ばれる、雲の切れ間から差し込む陽の光が地上を照らす。その光に紛れて、大天使達は人間界に降りるのだと、ルカーシュカが教えてくれた。

「そうですね。その扉ですが、通る者の聖気を流すことで開きます。この時点でそれなりの量を消費するのですが、人間界にいる間は、私達は聖気を満足に回復することができません。なのでどうしても減ったままになってしまうんです」
「…回復、できない?」
「人間界と天界では、陽の光は同じでも、大気に含まれているエネルギーの種類が違います。聖気を命の源としている私達は、人間界にいる間は回復量も減ってしまうのですよ」
「ふ…ん…?」
「ふふ、そういうものとして覚えておけばいいですよ」

その原理まで知らなくても問題ない…と言うイヴァニエに頷きながら、気になることを聞いてみた。

「扉は…いつもは、閉まってるんですか…?」
「そうですね。でないとプティ達が勝手に出て行ってしまいますから」
「…それは、いけない…?」
「いけないと言いますか…もし、そのまま扉を閉じてしまったら、プティの聖気量では扉を開くことが出来ません。次に扉が開く時まで、その子は天界に帰ってこれなくなってしまいます」
「ッ…!」

帰ってこれない───小さな天使が、人間界で独りぼっちで迷子になってしまう姿を想像し、ヒュッと心臓が竦んだ。

「そ、そんな…」
「安心なさい。そんなことにはなりませんから」

想像だけでオロオロする自分に、イヴァニエの穏やかな声が続いた。

「ずっと前、まだ扉が開いたまま、特別な制限もなく人間界に行き来が出来ていた頃の話です。プティや好奇心の多い一部の天使達が、少しばかり人間界でいけないことをしてしまったのですよ」
「いけないこと…?」
「悪事という訳ではありませんよ? 世のことわり…人間界の秩序を乱してしまうような、自然に反した行為を行ってしまったのです。勿論、本人達は良かれと思っての行動でしたが、それは人間界に住まう者達のあるべき運命を歪めてしまう行為でした」
「………」
「そんなことがあってから、自由な行き来は制限されました。人間界とを繋ぐ扉は閉じられ、開ける為にはその動力として、扉を通る本人の聖気が必要になりました」
「…それなら、あの子達は開けられないから…ですか?」
「そうですね。あの子達が何十人と揃っても、開くことはないでしょう。そうでなくとも、プティ達は閉じられた扉を開くことが出来ませんが…」

そこまで聞いて、以前似たような話を聞いたことがあったと思い出した。

「あ……それ…その…あの子達は、なんで…閉まってる扉は…開けられないん、ですか…?」

いつか同じ質問をした記憶があるのだが、あの時は答えを聞きそびれてしまっていた。

「ああ…そういえば、そんな話をしていましたね。理由は今の話と少し似ているのですが───」

その昔、赤子達がどんな部屋でも、どんな処でも、自由に出入りすることが出来ていた頃の話だ。
宮廷の奥の奥には、神様だけが触れられる神聖な苗木が植えられているのだそうだ。
淡く光るその苗木は神様から与えられる力で少しずつ成長し、いつしか『聖樹』となり、人間界へと移植される。
人間界へと降りた聖樹は、人里から遠く離れた名も無き神聖な大地に根を張り、そこから少しずつ、恵みとなる実の胞子を飛ばし、清らかな水を生み、大地を豊かにするのだという。
生きとし生けるもの達への恵みではなく、大地を潤す恵みとして根を張る聖樹。
聖樹となる苗木は、神様以外の者が触れればたちまちに光を失い、枯れてしまう───…

「……まさか…」
「ええ、そのまさかです」

宮廷の奥の奥とはいえ、そこに見張りがいる訳でも無い。
『触れてはいけない』と皆知っているからこそ、誰かが見張る必要もなかったからだ。
ところが何をどうしたのか、生まれたばかりで多くの知識を持たない好奇心旺盛な数人の赤ん坊達が、これまた偶然にも誰の目にも留まることなく、いくつもの扉を開け、苗木が植えられた宮廷の最も奥にある小さな庭まで辿り着いてしまった。

そこからは想像した通りだった。
光る苗木に、赤ん坊達は好奇心のまま触れてしまった。
その瞬間、瞬く間に輝きを失い、花が枯れるように真っ白になってしまった苗木に、赤ん坊達は「悪いことをしてしまった!」と即座に理解した。
その場で大声で泣き始めた赤ん坊達に、騒ぎに気づいた者達が駆けつけたが、その時には既に遅かった。

「…っ」
「…そんなに悲しそうな顔をしないで下さい。誰も、プティ達を怒りませんでしたよ」

何も知らなかった赤ん坊達を、責められるはずもない。
「どこでも自由に出入りしていいと許していたのは私だ」と、神様は自分が悪かったと、泣き続ける赤ん坊達を一晩中あやし、宥め続けたのだそうだ。
幸い、まだ若かった苗木は、すぐに新たな芽を出し、ぐずる赤ん坊達に「また育てるから大丈夫だよ」と説明し、その話はそれでなんとか収束したらしい。
だが「また同じことが起きたら、傷つき悲しむ子が生まれてしまう」という神様の言葉により、『純天使は閉じられた窓や扉を勝手に開けてはいけない』という制約が設けられることになったのだという。

「そんな、ことが…」
「事前に事故を防ぐ為の決まり事ですね。宮廷は、多くの場所が開放的な造りになっていますから、プティ達が自由に出入りできる場所が多いですが、逆に言えば、閉め切られた部屋等は無闇に入ってはいけない場所として、プティ達は近づきません」

今までどんな小窓でも、決して自分達では開けようとしなかった赤ん坊達の不思議をようやく知ることが出来た。まさかそんな悲しい出来事があったとは思わず、ずっと昔のこととはいえ、苗木に触れてしまった赤子達のことが気になった。

「…その…その子…苗木に触れちゃった子達は…どうしたんですか…?」
「三人いたプティですが、内二人はもう命の湖に還っていますね。…大丈夫。晴れやかな心で還っていったはずです。もう一人は、まだ天界にいますね」
「その子は、大丈夫…ですか…?」
「……その子、というアレではもう無いのですが…でも、ええ。元気に過ごしていますよ」
「それなら…良かった…」

悲しい気持ちのままでなくて良かった…と、ホッと息を吐いた。

「…あなたは、本当にプティ達がお好きですね」
「…? はい」

大好きな、大切な子達だ。コクリと頷けば、イヴァニエが苦笑気味に笑った。

(…イヴァニエ様は、人間界で何をしてきたのか、とか…聞いてもいいのかな…?)

自分が聞いて理解できるかは分からないが…と、ほんの少しだけ思考を逸らしていると、イヴァニエが口を開いた。

「…あなたは、何をしていましたか?」
「え?」
「この十日間、どうやって過ごしていました?」

思ってもいなかったことを聞かれ、パチリと目を瞬いた。
自分の日々の過ごし方に大きな差はない。
エルダと話しをしているか、赤子達と日向ぼっこをして遊んでいるか…と、そこまで考えて、テーブルの上に置かれたビスコットとジャムの存在が視界に入った。

(そうだ…食べられる物が増えたんだ…!)

イヴァニエに報告もしながら、共に食べようと思って用意していたことを思い出し、皿の上を指差した。

「あ…あの、これ…ルカーシュカ様が…くださって…た、食べられるように、なったんです」
「これは…ラフラーズのジャムですか?」
「はい。えっと、ルカーシュカ様が…一緒に、食べようって…持ってきて、下さって…それで…」
「………一緒に…」
「は…はい…」

(あれ…?)

どうしてか、イヴァニエの表情から笑みが消えた。
いや、笑っていない訳ではないのだが、明らかに微笑みが薄くなった。

「……美味しかったですか?」
「あ…ぅ…は、はい…、あの…だから…イ、イヴァニエ様とも…あの…一緒に…食べられたら…いいな…と思って…」
「…そうでしたか。ありがとうございます」

ふっとイヴァニエの表情が柔らかくなり、微笑みが戻ったことにホッと息を吐いた。

(…なにか、いけなかったのかな…?)

一瞬笑みが薄れたことが気になりつつ、ビスコットの乗った皿を手に取り、イヴァニエに差し出した。

「えと…た、食べられ、そう…なら…」
「ええ、戴きます」

真っ赤なジャムの乗ったそれを一つ手に取り、サクリと喰むイヴァニエの様子を窺った。

「うん、美味しいですね」
「良かった…」
「あなたもお食べなさい」
「はい」

促されるまま、同じ物を指先で摘むとパクリと口に含んだ。
一口で食べるには少しばかり大きなサイズだったそれを、モゴモゴと口を動かしながらなんとか咀嚼する。

「大丈夫ですか?」
「ん…、…んっ」

心配そうにこちらを見るイヴァニエに頷き返しながら、なるべく急いで咀嚼すると、コクリと飲み込んだ。

「…ん、…美味しい、です」
「ええ、良かったですね」

あの日、エルダと食べた後から食べていなかったジャムはやはり美味しく、口の中に広がる甘い果実の香りに頬は緩んだ。

「…しかし、ルカーシュカはどうしてコレを?」
「あ、あの…私が…その、寂しいって…言ったから…ルカーシュカ様も、気にかけて、下さって……それで、お土産って、くれて……一緒に、いて下さって…」
「…寂しい…?」
「あ、えっと…あの…イヴァニエ様が…人間界に、行っちゃって…それで…あの…お、お二人と…その……あ、会えなく、なって…しまって…だから…、あの……」
「……寂しかった?」
「ぅ…ぁの……は…はぃ…」

ルカーシュカにも伝えたように、素直に「寂しかった」と告白しただけ…だが、徐々に顔に熱が集まるのを感じ、言葉尻は萎んでしまった。
改めて言葉にすれば、どうしてか妙に恥ずかしく、視線が下がった。

(…あ、あれ? イヴァニエ様にも…寂しかったって、言って…大丈夫だったのかな…?)

問われるまま、自身の気持ちを伝えていたことに気づき、急激に焦りが滲んだ。
そこに偽りは無かったが、黙り込んでしまったイヴァニエに不安が込み上げた───と、突然左頬を擽られるような感覚がして、ビクリと肩が跳ねた。

「ふあっ!?」
「…すみません。驚かしてしまいましたね」
「ふゅ、ひ、い、いえ…!」

指の背で頬を撫でるように触れるイヴァニエ。その瞳は嬉しげに細められていて、今度は心臓が跳ねた。

「…そう想って頂けて、嬉しいです」
「!」

『嬉しい』
ルカーシュカと同じ言葉に、跳ねた心臓がドクンと鳴った。

「ぁ…あの…」
「……私も、」
「…?」

「…私も、会えなくて寂しかったです」
「───」


一瞬、頭が真っ白になった。

エルダが例え話で「会えなくなったら寂しい」と言ってくれた言葉。それをそのまま言われたことに、数拍呆けた後、ようやく気づいた。
途端にぶわっと込み上げた言葉にできない感情に、はくはくと空気を噛むような声にならない声が出た。

「…っ、ぅあ…ぁ…の…」
「はい」
「ぁ…ぅ……あ…ありがとう…ございます…っ」
「ふ…大丈夫ですか?」
「ぁ……の、ちょ、ちょっと…」
「ええ、落ち着くまで待ちますよ」

笑みを含んだような声と共に、イヴァニエの手が頬から離れていく。その声をどこか遠くに聞きながら、必死になって頭を動かした。

(まって…! 落ち着いて…っ)

イヴァニエの『寂しい』という発言に『嬉しい』と湧き上がる感情。だがそれ以上に、上がった体温と速くなる鼓動に、頭が感情に追いついてこれない。
今はエルダもルカーシュカもいないのだ。助言を求める先がいないことに半泣きになりながら、ぐるぐると思考を巡らせた。

(えっと…えっと…、…そうだ! エ、エルダ! エルダが、寂しいって言ってくれた時は…どう思ったんだっけ…?)

パッと思い出したのは、エルダとの長い話し合いのことだ。
エルダの言ってくれた『寂しい』と、イヴァニエの言ってくれた『寂しい』という言葉。
その気持ちに対して、どちらも『嬉しい』という感情が湧いたが、果たしてそこに違いがあるのか、冷静に、慎重に、自身の感情をなぞった。

(………うん……うん…、一緒……おんなじだ)

丁寧になぞった感情は、どちらも同じ『嬉しい』という気持ちで、そこに違いは無かった。
同様にルカーシュカに言われたらどうだろう…と想像してみたが、やはり同じ質量の同じ感情が胸に湧いた。
そのことに安堵しつつ、だとしたら今こんなにも動揺し、体温が上がり、落ち着かない気持ちになっているのは何故か?
エルダとルカーシュカ、イヴァニエの違いは何かと考え、ふとあることに気づいた。

(…イヴァニエ様は…今まであんまり、近くにいることが無かった…?)

いつも隣にいたのはエルダかルカーシュカで、イヴァニエはいつだって一歩離れたところにいた。その分少しだけ、遠くに感じていた。
触れ合ったのだって、手を引かれて浴室へと連れられたあの時で二度目だ。
もしやこの緊張感と心臓の鼓動は、急速に距離が近くなり、彼と触れ合うことに慣れていないことから来るものではないだろうか?

(そっか……そうかもしれない…)

エルダやルカーシュカと手を繋ぐことにはすっかり慣れたが、イヴァニエとはまだ無いに等しい。まして頬に触れられたのなんて初めてだ。
慣れない接触に、余計に感情が昂ってしまったのだろう…と納得し、うんうんと頷いた。

「…落ち着きましたか?」
「ん…と、はい……大丈夫です」
「…大丈夫なんですね」
「…?」
「いいえ。…ミルクが冷めてしまいますから、先にお飲みなさい」
「あ、はい」

そう言われ、既に少し温くなってしまったミルクに口を付けた。ほのかに甘いミルクに、緊張していた全身の筋肉がふわっと緩む。

「…ところで、ルカーシュカが一緒にいてくれたというのは、どういう意味でしたか?」
「へ…? えと……ずっと…あ、毎日、遊びに来て、下さって…?」

言葉通りの意味だったことを質問され、声には疑問符が混じった。

「……毎日、ですか」
「は、はい……あ、で、でも…お忙しかった、みたいで…あの…あんまり時間は…長く、なくて…」
「…そうでしたか。…いえ、あなたが穏やかに過ごせたのであれば、それがなによりです」

微笑みは変わらない。が、少しだけ声が沈んでいるような、なんとも言えない感情が含まれている様な気がして、言葉に詰まった。

(どうしたんだろう…)

先ほどからイヴァニエの様子がどうにもおかしい。…と、つい先程の「寂しい」という彼の発言を思い出し、ある考えが頭を過った。

(もしかして…自分とルカーシュカ様と、エルダだけで、会ってたから…?)

よもや意図せず彼を除け者にしてしまい、そのせいで寂しい思いをさせてしまったのでは───そんな考えに、サァッと血の気が引いた。
そのようなつもりは全く無かったのに、イヴァニエに余計な不安を与えてしまったのでは…そんな可能性に気づき、慌ててカップをテーブルに置くと、イヴァニエに向き直った。

「あ、あの! イヴァニエ様が、帰られたら…また、ルカーシュカ様と…あ、遊びに…来て、下さったら…嬉しいって…一緒に、お、お話し、してて…」
「…ええ、ありがとうございます」
「あ…ぅ…えっと…」

(ど、どうしよう…!)

イヴァニエの様子は変わらない。もしや、本人のいないところで勝手に話を進めてしまったことで、負担に思わせてしまっただろうか?
先ほどまでのドキドキとは違う心臓の鼓動と気まずさに、懸命に次の言葉を探した。

(…あっ、そうだ! お風呂のお礼…!)

話題を探して行き着いた先は、風呂場での出来事だった。
自身の体が濡れることも厭わず、自分の体を温めてくれたイヴァニエ。そんな彼にきちんとお礼も言えないままだったことを思い出し、焦るまま口を開いていた。

「イ、イヴァニエ様…!」
「はい?」
「あ、あの…この前の…お、お風呂での、ことなんですけど…っ」
「…!」
「あの…あっためて、下さって…ありがとう、ございました…! か、借りてた、お洋服も…ちゃんと、乾かして…あって……だ、から……」

そのまま続けるはずだったいくつかの言葉。
だがそれも、悲しげに眉を顰め、硬質的な瞳でこちらを見つめるイヴァニエを前に、飲み込むことしか出来なかった。

「…イヴァニエ、様…?」
「……そうですね。その話しを、しなければいけませんでしたね」
「あ…え…?」
「寂しいと言ってもらえたことに浮かれて……本当に愚かですね。ルカーシュカと違って、私にはその資格も無いでしょうに…」
「え…う……う?」

(…なに? なんのこと…?)

イヴァニエの言っている意味が分からず、困惑ばかりが募る。
ルカーシュカと違うとはなんだろう? 資格とはなんだろう?
聞けぬ問いにまごついていると、イヴァニエの瞳と視線が絡んだ。

「…!」

至近距離で見る綺麗な水色の瞳。
だがその瞳も、表情も、苦しくなるほどの悲痛な色に染まっていた。

「イヴ───」
「アドニス」

咄嗟に呼ぼうとした彼の名は、重なるように発せられたイヴァニエの声に掻き消された。

「…あなたに、謝らなければいけないことがあります」
「……謝る?」

何故、どうしてイヴァニエが謝るのか。
まったく心当たりが無いことに、だがイヴァニエのあまりの悲愴感に、かえって焦りが生まれた。

「なに、を…?」
「……あなたの、背中の傷についてです」
「…傷?」

(背中の、傷…?)

そこまで言われても、今の状況を整理するのに精一杯な頭は、イヴァニエが何のことを言っているのか理解できずに混乱するばかりだった。


「……私が、あなたの背中の傷を癒した時の話です」
「…っ!」


───思い出したのは、焼けるような背中の痛み。
鈍い頭の底からようやく掘り起こされた記憶は、自分という個が生まれたばかりの頃の、既に遠くなった日の出来事だった。

固まったままイヴァニエを見つめれば、辛そうに、悲しそうに…だがどこか憤りを混ぜたような瞳を伏せた彼が、苦しげに呟いた。




「軽蔑してくれて構いません。私はあの時、治せるはずだった傷痕を残し……あなたを見捨てました」
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感想 503

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