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フォルセの果実
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───コンコンコン
響いたノックの音に、エルダと二人、顔を見合わせた。
「今のは…」
「…ルカーシュカ様だね?」
ノックの音で、扉の向こう側にいるのはルカーシュカだと分かる。が、突然の訪問の理由が分からず、首を傾げた。
「どうされたのでしょう? ひとまず、お出迎え致しますね」
「うん」
(来るのは明日のはずだけど…)
一日早い訪問を不思議に思いながら、出迎えに向かうエルダの背を見送る。自分も…と思い、立ち上がろうとして、ハッとした。
「あ……えっと…」
「んむ?」
自身の膝の上に座る赤ん坊が、「なぁに?」とこちらを見上げた。
(抱っこ…? それとも横に…)
抱き上げて立ち上がろうか、一旦横に座ってもらおうか、少し迷っている間に部屋の扉が開かれた。
「約束も無しに悪いな」
「いいえ、ようこそお越し下さいました」
扉の前で話す二人と、膝の上に座る赤子を交互に見遣る。そうしてオロオロしている間に、ルカーシュカがエルダと共にすぐ近くまで来ていた。
「急に悪いな」
「あ、ぅ、いえ…あの……こ、こんにちは…?」
「ふ、こんにちは」
「えと…どうしたん、ですか…?」
約束の三日に一度の訪問は明日のはずだ。それ以外の日にルカーシュカやイヴァニエが来たことは無く、突然の訪問が純粋に不思議だった。
「…来たかったから来ただけだ」
「え…?」
「遊びに来ただけだよ」
「遊び、に…」
「とりあえず、座ってもいいか?」
「あっ、は、はい…!」
慌てて少しだけ横にズレると、空いたスペースにルカーシュカが腰を下ろした。いつも赤子達と過ごす柔らかなソファー。そこにルカーシュカと並んで座ったのは初めてだった。
いつもと違う場所、いつもと違う時間、いつもと違うサイクルで訪れたルカーシュカ…それだけでも落ち着かないというのに、「来たかったから来た」という言葉に、心臓の鼓動が大きくなった。
(ま、まだ…ちゃんと考えられてないのに…!)
先日のルカーシュカの発言をきちんと受け止められる様、自分の中で燻る不安の芽のようなものを、明日までに少しずつ溶かそうと思っていたのだが、それより先に顔を合わせることになってしまった。
自身がルカーシュカに対して好意を向けていることも、それをルカーシュカが受け入れてくれていることも、その裏側に、ルカーシュカからの好意が含まれていることも…嬉しいのに、それをそのまま『嬉しい』と、ルカーシュカのように伝えられない自分が情けなくて、もう少しだけ、考える時間が欲しかった。
「どうした?」
「いえっ、あの……今日、来て…大丈夫、ですか…?」
「うん? ああ、今日は大丈夫なんだが…明日は少し時間が取れそうになくてな」
「え…」
「顔は出すぞ。でもいつものように、ゆっくりできそうにないからな。今日の内に来たんだ」
「…忙しい…ですか?」
「忙しいというか、今はイヴァニエを含めた三人が抜けてるからな。その穴埋めだ」
「…穴埋め?」
どういうことだろう? と疑問符を浮かべていると、エルダが説明してくれた。
「普段、大天使の皆様は、バルドル様を補助するお役目を担っております。ですが今は、三名の方が天界を離れておりますので、その方々の分のお役目を、他の大天使様方が分担して担っていらっしゃるのですよ」
「はぇ…」
言われてみればその通りのことに、コクコクと頷きながら、ハッとしてルカーシュカを見た。
「あ、あの…忙しい、なら…その、無理、しないで…」
何もせず、エルダや赤ん坊達と一緒にのんびりと過ごしているだけの自分とは違うのだ。ルカーシュカの負担になる様なら、無理はさせたくない…そんな思いから出た言葉だった。
「無理はしてない。そこまで忙しい訳じゃないんだが、少し顔を見に来るくらいしかできそうにないからな」
「でも…」
「……寂しいじゃないか」
「…え?」
「時間が無くて会えないというのも、寂しいだろう?」
「あ……ぇ…は、はい…」
(え? え? ど、どっち…?)
『寂しい』という言葉にドキリとしながら、ルカーシュカの言葉の真意が掴めず、ふわふわとした返事をしてしまった。
自分が寂しいという意味なのか、ルカーシュカが寂しいという意味なのか…まさかどちらの意味ですか、などと聞けるはずもない。
だがもし、もしもルカーシュカにとって寂しいという意味だったら───そう考えただけで、ぶわりと熱が込み上げ、心臓がトクリと鳴った。
どうにもルカーシュカからの好意というものを意識すると、嬉しい反面、落ち着かない気持ちになる。その上で、素直に嬉しいと思うことを引き留める自分もいて、更に言葉に詰まってしまうのだ。
そうやってまごついている間に、隣に座ったルカーシュカがなにやら見慣れぬものを取り出し、テーブルの上に並べ始めた。
「…? …なんですか?」
「ラフラーズのジャムだ」
「ラフ……ジャム?」
生成色の籠から出てきた小瓶には、真っ赤なジャムがたっぷりと詰まっていた。それと一緒に出された物をエルダが受け取り、共に出された皿の上に綺麗に並べていく。
突然のことにポカンとしている間に、ルカーシュカがジャムの蓋を開けた。
「ぷあっ」
「わぁ…」
カパッと蓋が開いた瞬間、ふわりと広がった甘い香りに、周囲にいた赤子達と揃って声が出た。
「この匂い…知ってる」
「左様でございますね、アドニス様もご存知の果物ですよ。たまに召し上がる真っ赤な…アドニス様が少し酸っぱいと仰っていた果物です」
「……あ…」
その言葉に、柔らかな三角形をした小ぶりな果実を思い出す。
「酸っぱいか?」
「ほんの少しですが、酸味がございますから」
「そうか…だがまぁ、これなら甘いだけだからな。お前でも食べられるだろう」
「……食べる?」
「一緒に食べようと思って持ってきたんだ」
あまりにも予想外のことを言われ、目を丸くする。
今日のルカーシュカはどうしたのか…急な訪問もだが、急な言動にも、事前に用意されていた目の前の品にも驚く。
「前に俺達だけで紅茶を飲もうとした時、お前も同じものを飲みたがっただろう?」
「…ぁ、は、はい」
「もしかしたら、一緒に食べようってなれば、他の物でも食べれる様になるんじゃないかと思ったんだ」
「え…」
「ミルクと果物だけでも構わないんだがな。他にも食べられそうな物があるなら、せっかくだから食べてみてもいいんじゃないか? 好きな物が、増えるかもしれないだろう?」
「…!」
そう言って微笑むルカーシュカの瞳はとても優しげで、自分のことを想って用意してくれたのだという気持ちがじわじわと伝わってきた。
「あ、ありがとう、ございます…」
「いや、勝手に持ってきてしまったからな。無理に食べなくても…」
「い、嫌…っ、あ…あの、…食べたい…です…!」
「…そうか」
ホッと和らいだ表情に、コクコクと頷き返しながら、テーブルの上に並べられた物を見た。
「…ジャムだけ…食べるんじゃ、ないんですか?」
「ジャムだけだと甘過ぎるし、これはそのまま食べる物じゃないからな」
「アドニス様、こちらのビスコットに載せて食べるのですよ」
「ビスコット…」
エルダが指した先には、皿に並べられた、薄くて白い食べ物らしい何かがあった。
「……これは、お菓子…?」
「はい。ただ、これ単体ではほとんど味がしないので、この上にジャムを乗せて食べるのです」
「まずは、ジャムだけ舐めてみたらどうだ?」
言うと同時に、ルカーシュカが甘い香りを漂わせる小瓶に、小さな木べらを差し込み、クルリと回した。
鮮やかな赤がキラキラと煌めく姿は、宝石を溶かしたようでとても綺麗だ。そっと抜かれた木べらには半透明の赤が絡み、トロリと垂れた蜜の香りがより一層広がる。
甘い香りのするそれを、ルカーシュカがパクリと口に含んだ。
「ん、美味い」
「………」
軽く咀嚼する姿をジッと見つめながら、辺りに広がった香りを楽しんだ。
(…美味しそう)
知った果実の甘い香りと、僅かに緩んだルカーシュカの口元に、自然と『食べてみたい』という気持ちが湧いた。
ルカーシュカが手にしていた小さな木べらを置き、新たな木べらを手に持つと、同じように瓶に差し込み、その先に少しだけジャムを掬い───…
「ほら」
「え?」
「まずはジャムだけで食べてみろ」
「え、あ、え?」
───それをそのまま、自分の口元に差し出した。
「え…えと…」
「食べられそうだろう?」
「…そぅ…です、けど…あの…」
「ほれ、口を開けろ。あー」
「~~~ッ」
…なぜか猛烈に恥ずかしく、エルダに助けを求めるように視線を向けるが、そこでふと、自分も以前エルダに同じようなことをしていたことを思い出し、更に羞恥が加速した。
目の前に差し出されたそれをどうすることも出来ず、悩む暇もないまま、観念して薄く口を開く。
「ぁ……んむ」
僅かな隙間に差し込まれた薄い木べらの先。そこに絡んだ赤い蜜を舐め取ると、スルリと口の中から木べらが抜けた。
途端に咥内に広がった果実の香りと、蜂蜜のような甘さ。少しだけ形の残った果肉は、噛む必要がないほど柔らかく、舌の上にトロリと馴染んだ蜜を転がすように味わってから、コクリと飲み込んだ。
(…美味しい……美味しい、けど…!)
ジャムは美味しい。だが正直それどころではなく、顔面の熱さに、知らず瞳が潤んだ。
「あの…エルダ、ごめんね…」
「え?」
誰かに食べさせてもらうという行為が、自分の思っていた以上に羞恥を含むものだと知らなかった。
以前、今のルカーシュカのように、ミルクの花を自分がエルダに食べさせたことがあった。あの時、エルダが食べることを躊躇っていたのは、遠慮からではなく、羞恥からだったのだと、自身が体験してようやく思い知った。
「あの…た、食べさせて、もらうのって…は、恥ずかしいって…知らなくて…っ」
「…!」
「ご、ごめんね…、前に…エルダに、おんなじこと、しちゃって…」
「いえっ、そんな、私は…!」
「なんだ、同じことをしてたのか」
「…っ、いえ、ルカーシュカ様、あれは…っ」
「仲が良くて、良いことじゃないか」
「ぅ…、で、でも…」
「その話しの続きは、後でゆっくりすればいい。…で、どうだ?」
「…?」
「食べられそうか?」
「…! あ、は、はい…! 美味しい…です」
「それは良かった」
フッと笑ったルカーシュカに変わった様子はなく、その姿に波立っていた気持ちも徐々に落ち着き始める。
その間にルカーシュカの手がビスコットへと伸び、一口サイズのそれにジャムが落とされた。
白いビスコットに真っ赤なジャム。見た目にも可愛らしいそれは、そのままルカーシュカの口の中に消えていった。
サクサクと、僅かに聞こえる耳慣れない咀嚼音を不思議に思いながら、その様子をジッと見つめる。
「…美味しい、ですか?」
「うん、美味いぞ。…食べてみるか?」
「……ん」
「エルダ」
「畏まりました」
食べてみたい、とコクリと頷けば、傍らに控えていたエルダがそっと近くに寄った。
「こちらを持っていて下さい」
「うん」
「ジャムをお乗せしますので、落とさないようにお気をつけ下さいね」
「はい」
皿ごと差し出されたビスコットを指先に摘むと、エルダがその上にトロリとジャムを落としてくれた。
間近で見れば、一層キラキラと煌めいて見えるジャムをひとしきり目で楽しむと、ジャムが零れない様、気をつけながら口へと運んだ。
───サクッ…
初めての食感にまず驚きながら、ゆっくりと咀嚼し、サクサクという音を楽しむ。
エルダの言った通り、ビスコットはほとんど味がしないが、ジャムと混じり合ったそれはとても美味しく、鼻から抜ける果実の香りもより強く感じた。
モクモクと、いつも食べる果実よりも長い時間を掛けて咀嚼し、ゆっくりと飲み込んだ。
「……美味しい…」
「それは良かった」
「だぅ、あ!」
「…うん、美味しい食べ物だよ」
赤ん坊達は、自分達には食べられない物と分かっているのだろう。欲しがることもなく、ただ嬉しそうに「美味しい?」「良かったね」とニコニコと笑ってくれていた。
「良うございましたね、アドニス様」
「うん。…ルカーシュカ様、ありがとう、ございました」
「いや、一緒に食べられて良かった」
一緒に───その言葉に、ジン…と胸の奥で何かが滲むような感覚がして、少しだけ視線を下げた。
(……嬉しい)
ルカーシュカは優しい。
言葉も態度も優しいけれど、それ以上の、目に見えないずっと深いところを温めてくれるような優しさがあった。
こうして接していれば、より真っ直ぐ伝わってくる『好意』をどうして不安に思うのか、そのまま受け取れないのか、悲しくて、苦しくて、そんな自分がまた嫌になりそうになり、グッと奥歯を噛み締めた。
(ちがう…、それじゃダメなんだ…!)
どうしたって拭えない『自分は嫌われ者なのだから』という考えが、頭の底にこびり付いて離れない。
でも今は、この考えに囚われてばかりではいけないなのだと分かる。
向き合うための勇気を、エルダとルカーシュカ、イヴァニエから、たくさん貰ったのだ。
せっかく与えてもらった心を、自分自身が否定したくない。
嫌われていた過去が事実でも、ルカーシュカもイヴァニエも、自分と笑って話してくれる様になった。
その今を不安に思うのは、きっと彼らの与えてくれた心に対して失礼なのだと、ちゃんと分かっている。
───ならば、自分にできることはなんだろう?
「アドニス? どうした?」
「アドニス様?」
黙り込んでしまった自分を案じるようなエルダの声が耳に届き、ルカーシュカの手が自身の手にそっと重なった。
(心配して下さるのだって…きっと…)
そこに温かな情がなければ、心配されることすらないのだと、心が痛むほどよく知っている。
情があるからこそ、心配してくれるのだと、もう理解できるだけの時間を、共に過ごしている。
(…自分で、自分を、否定しないように…)
そうして向けられた好意に、戸惑わないように、迷わないように…『嬉しい』と感じたのなら、その気持ちをそのまま相手に伝えられるように───それが今の自分に…与えられるばかりの自分にできる、最小で最大の、彼らへ返せる全てだった。
「ぁ…あの…」
「うん、どうした?」
「この前、の…あの…う、嬉しいって、…言って、下さった…」
「!」
ドクドクと鳴る心臓が痛くて、まだ言葉にする前だというのに、胸が苦しくて泣いてしまいそうになる。
それでも涙は零れないように、なんとか堪えた。
「…それが、どうした?」
「あ…あの…、エルダと、お話しして……その、ちゃ、ちゃんと…う、嬉しいって…言って下さった…意味も……ちゃ、ちゃんと…知りました…」
「うん」
柔らかなルカーシュカの声がより一層優しくて、震える唇をキュッと喰んだ。
「ぁの…っ、う…嬉しいって、言ってもらえて……わ、私も……嬉しい、です…っ」
「アドニス……」
「ちゃ、ちゃんと…あの…、ど、どういう…気持ち…とか、は…あの…分かってて……う、嬉しいっていう、気持ちが…その…嬉しいって…っ」
「…うん、大丈夫。分かってるよ。…ありがとう」
「ご、ごめんなさい…! 私…ずっと…ずっと…っ」
「いいから。…ちゃんと分かってるから、あんまり泣くな」
「…っ!」
気づかぬ内にボロボロと零れていた涙。その雫を慌てて拭えば、それまで大人しくしていた赤ん坊達が一斉に声を上げた。
「あぁ~っ!」
「んぁー!」
「あ、まっ…」
自分が泣いてしまったからだろう。皆一様にルカーシュカに向かって頬を膨らませており、慌ててぷくりと膨れた小さな頬を撫でた。
「まって…! ち、ちがうよ? あの、ケンカ…とか、そういうんじゃ…」
「…泣かせないって言ったのにな。ごめんな」
「ちが…っ、私が…!」
「分かってるから…ほら、とりあえず泣き止め」
「ぅむ…っ」
赤子達に謝るルカーシュカにも慌てていると、彼の手にいつの間にか握られていた柔らかな布で顔全体を覆われ、くぐもった声が漏れた。
そうこうしている間に涙は止まり、頬を伝った雫も綺麗に拭われた。
「…あり、がとう…ございます…」
「もう平気か?」
「…はい」
「アドニス様、大丈夫ですか?」
「うん……ありがとう、エルダ」
「…もう、大丈夫なのですか?」
「……うん。もう…大丈夫」
…大丈夫。きっともう、大丈夫だ。
彼らの温かな情を受け取る自分を否定するような悲しい自分は、きっともう現れない───そう確信するように、そっと瞳を伏せた。
その後、ルカーシュカは紅茶を、自分は少量のミルクを飲みながら、同じ物をもう一つ食べた。
いつもよりもまったりとした空気の中、言葉数の少ない会話をルカーシュカと交わしながら、ともすればウトウトとしてしまいそうな心地良い時間を過ごした。
帰り際、残ったジャムとビスコットは「エルダと一緒に食べてくれ」とそのまま渡され、「また明日」と言って部屋を出るルカーシュカの背を見送った。
「…明日も、来て下さるって」
「はい。お時間はあまり取れないようですが、それでも楽しみですね」
「…うん」
きっと予定の詰まっている合間に、立ち寄ってくれるのだろう。
会えることの嬉しさにソワリと心は浮き立ったが、それとは別に、やはり忙しいのなら無理はさせたくないという気持ちも湧いた。
(…会えることは、嬉しいけど…無理はしてほしくないって…ちゃんとお伝えしよう)
どちらも大事な気持ちだと思うからこそ、明日会えたらきちんと伝えよう、と心に留めた。
「ジャム、一緒に食べてって」
「…ええ、左様でございますね」
「一緒に食べようね…?」
「…はい。ありがとうございます」
はにかむように笑うエルダは、どことなく照れているように見えて、以前の自分の食べさし行為を思い出させてしまったのだろうと反省した。
その日の夕暮れ、エルダと話しをしながら、ジャムを乗せたビスコットを一つずつだけ食べた。
エルダには「私はもう充分です」と遠慮されてしまったが、エルダの中に『これ以上はダメ』という領域があるのだと、最近になってなんとなく分かる様になったので、それ以上食い下がることはしなかった。
「イヴァニエ様がお帰りになったら、一緒にお召し上がりになりましょう」
「…そうだね。一緒に、食べて頂けたら、嬉しいな」
食べれる物が増えたのだと、同時に伝えることも出来る、とエルダの提案を喜びながら、イヴァニエの帰りを待つ日々が続いた。
その翌日から、ルカーシュカは毎日部屋を訪れてくれるようになった。
と言っても、ゆっくりと過ごす時間はない様で、普段の滞在時間の半分にも満たない時間で帰ってしまうことがほとんどだったが、それでも会えることが嬉しかった。
「会えるのは嬉しいけど、忙しいなら無理はしてほしくない」ともきちんと伝えたが、「会いたいから会いに来てる」の一言で、それ以上は言えず、感謝の気持ちを伝えるので精一杯だった。
短い時間でも気に掛けて会いに来てくれるルカーシュカ…そんな彼に、感謝しながら過ごす日々が、六日続いた日のことだった。
「明日、イヴァニエが帰ってくるぞ」
その日のルカーシュカの訪問は夕暮れ近くで、赤ん坊が自分達の寝床へ帰っていくのを見送ってすぐの頃合いだった。
「無事に、帰ってこれ…ますか?」
「ああ、なんの心配もいらない。…はぁ、これでやっと面倒事から解放される」
大きく息を吐きながら、ソファーの背凭れにぐったりと寄り掛かるルカーシュカには疲労の色が濃く、やはりこの数日間、無理をさせてしまったのかと心配が募った。
「あ、あの…やっぱり、疲れて…」
「ん? …ああ、違う違う。面倒っていうのは他のヤツらが……とにかく大丈夫だ。特別忙しかった訳でもないし、大変だった訳じゃない」
「でも…」
「イヴァニエ様のお戻りは、何時頃になるのでしょうか?」
ヒラヒラと手を振り「大丈夫」と言うルカーシュカに言葉を続けようとしたのだが、エルダと声が重なってしまい、咄嗟に口を噤んだ。
「一応、明日の今くらいの時間になるはずだ」
「ありがとうございます」
(…帰ってくる時間とか、どうやって分かるんだろう?)
自分はまだ教わっていない知識なんだろうな…と、二人のやりとりを聞いていると、不意にルカーシュカと目が合った。
「俺も詳しいことは聞いていないが、イヴァニエが戻ってきたら、二人で話しをする予定なんだろう?」
「……あ」
(そうだった…)
無事に帰ってこれるか、そのことばかりが心配で、十日ほど前にイヴァニエと交わした約束はすっかり頭から抜け落ちていた。
「お話し…します…」
「うん。じゃあ戻ってきたら、俺が捕まえて連れてくるから、準備だけしといてくれ」
「…捕まえ…?」
「アイツのことだからな。帰ってきて早々じゃなく、日を改めて…とか言い出しそうだ」
「…そう、です…?」
「だがイヴァニエだって、この十日間、相当気を揉んだだろうからな。できることなら、早くお前に会って、話しがしたいと思っているはずだ」
「…!」
言われて思い出したのは、最後に見たイヴァニエの姿だ。
思い詰めたような硬い表情で「話しがしたい」と願いを受けたあの日。
どうしてそんな顔をするのか、どうしてそんなに苦しそうなのか…何も分からないまま、ただ彼の背を見送ってしまった。
(そういえば…体、温めてくれたことのお礼も言ってない…)
冷えた体を心配して、自身が濡れるのも構わず湯を掛け続けてくれたイヴァニエに、彼の服が濡れてしまうことばかり気にして、礼を言っていなかったことを今更になって思い出した。
(服のお礼と一緒に…ちゃんと、心配して下さったお礼も言わなきゃ…)
イヴァニエの羽織りは、あの後エルダにより浄化が施され、戻ったらすぐに返せる様、綺麗な状態で保管してもらっている。
イヴァニエのしたい話とはなんだろうか…不安がないと言えば嘘になるが、それでも聞くのが怖いとは思わなかった。
「あの…イヴァニエ様は…帰ってきてすぐで、大変じゃ、ない…ですか?」
「まぁ、少しばかり疲れてはいるだろうが…そこはアイツの判断に任せるよ。どうしても無理そうなら、また改めて時間を作ればいい。連れてくるとは言ったが、無理はさせないから安心してくれ」
「…ありがとう、ございます」
ホッと息を吐き出せば、優しい瞳をしたルカーシュカがフッと笑った。
そっと重なった手の平を、やんわりと包むように握られ、返事をするように握り返した。
「良い話しができるといいな」
「…はい」
思い返せば、ルカーシュカと今のような関係になったのも、二人だけで言葉を交わすようになってからだった。
(どんなお話しをするのかな…)
少しだけ緊張してきた胸を押さえる───と、ある疑問がポッと頭に浮かんだ。
「あの、イヴァニエ様は…帰ってきたら…そのまま、ここに来て下さるん、ですか?」
「一通りのやることを終えたらな」
「…ルカーシュカ様は、いない…?」
「二人で話すんだから、俺がいちゃダメだろ?」
「…エルダは?」
「私はアドニス様と一緒にお出迎えをしまして、その後はお席を外させて頂きますね」
「お出迎え…」
「なにか心配事か?」
「心配…じゃ、ないんですけど…」
視線を彷徨わせつつ、ポツリと心配事を漏らした。
「えっと…イヴァニエ様が…帰ってきたら…最初に、な、なんて…言ったら…いいのかな…て…」
久しぶりに会うのだから、『お久しぶりです』だろうかとも思うのだが、何か違う。
ならば『こんばんは』だろうか? それともエルダがいつも二人を出迎える時のように───いや、それを自分が言うのはおかしいと流石に分かる。
約十日ぶりに会うイヴァニエに、まずはなんと声を掛ければいいのか、いざその場面になって狼狽えないように聞いておきたかった。
「なんだ、最初に言うことなら、決まってるじゃないか」
「決まってる…?」
「アドニス様、イヴァニエ様がお戻りになられましたら、最初はこう仰って下さい」
何故かおかしそうに笑うルカーシュカに首を傾げていると、笑みを浮かべたエルダが、楽しそうに答えてくれた。
「───『おかえりなさい』と」
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ラフラーズ=苺
響いたノックの音に、エルダと二人、顔を見合わせた。
「今のは…」
「…ルカーシュカ様だね?」
ノックの音で、扉の向こう側にいるのはルカーシュカだと分かる。が、突然の訪問の理由が分からず、首を傾げた。
「どうされたのでしょう? ひとまず、お出迎え致しますね」
「うん」
(来るのは明日のはずだけど…)
一日早い訪問を不思議に思いながら、出迎えに向かうエルダの背を見送る。自分も…と思い、立ち上がろうとして、ハッとした。
「あ……えっと…」
「んむ?」
自身の膝の上に座る赤ん坊が、「なぁに?」とこちらを見上げた。
(抱っこ…? それとも横に…)
抱き上げて立ち上がろうか、一旦横に座ってもらおうか、少し迷っている間に部屋の扉が開かれた。
「約束も無しに悪いな」
「いいえ、ようこそお越し下さいました」
扉の前で話す二人と、膝の上に座る赤子を交互に見遣る。そうしてオロオロしている間に、ルカーシュカがエルダと共にすぐ近くまで来ていた。
「急に悪いな」
「あ、ぅ、いえ…あの……こ、こんにちは…?」
「ふ、こんにちは」
「えと…どうしたん、ですか…?」
約束の三日に一度の訪問は明日のはずだ。それ以外の日にルカーシュカやイヴァニエが来たことは無く、突然の訪問が純粋に不思議だった。
「…来たかったから来ただけだ」
「え…?」
「遊びに来ただけだよ」
「遊び、に…」
「とりあえず、座ってもいいか?」
「あっ、は、はい…!」
慌てて少しだけ横にズレると、空いたスペースにルカーシュカが腰を下ろした。いつも赤子達と過ごす柔らかなソファー。そこにルカーシュカと並んで座ったのは初めてだった。
いつもと違う場所、いつもと違う時間、いつもと違うサイクルで訪れたルカーシュカ…それだけでも落ち着かないというのに、「来たかったから来た」という言葉に、心臓の鼓動が大きくなった。
(ま、まだ…ちゃんと考えられてないのに…!)
先日のルカーシュカの発言をきちんと受け止められる様、自分の中で燻る不安の芽のようなものを、明日までに少しずつ溶かそうと思っていたのだが、それより先に顔を合わせることになってしまった。
自身がルカーシュカに対して好意を向けていることも、それをルカーシュカが受け入れてくれていることも、その裏側に、ルカーシュカからの好意が含まれていることも…嬉しいのに、それをそのまま『嬉しい』と、ルカーシュカのように伝えられない自分が情けなくて、もう少しだけ、考える時間が欲しかった。
「どうした?」
「いえっ、あの……今日、来て…大丈夫、ですか…?」
「うん? ああ、今日は大丈夫なんだが…明日は少し時間が取れそうになくてな」
「え…」
「顔は出すぞ。でもいつものように、ゆっくりできそうにないからな。今日の内に来たんだ」
「…忙しい…ですか?」
「忙しいというか、今はイヴァニエを含めた三人が抜けてるからな。その穴埋めだ」
「…穴埋め?」
どういうことだろう? と疑問符を浮かべていると、エルダが説明してくれた。
「普段、大天使の皆様は、バルドル様を補助するお役目を担っております。ですが今は、三名の方が天界を離れておりますので、その方々の分のお役目を、他の大天使様方が分担して担っていらっしゃるのですよ」
「はぇ…」
言われてみればその通りのことに、コクコクと頷きながら、ハッとしてルカーシュカを見た。
「あ、あの…忙しい、なら…その、無理、しないで…」
何もせず、エルダや赤ん坊達と一緒にのんびりと過ごしているだけの自分とは違うのだ。ルカーシュカの負担になる様なら、無理はさせたくない…そんな思いから出た言葉だった。
「無理はしてない。そこまで忙しい訳じゃないんだが、少し顔を見に来るくらいしかできそうにないからな」
「でも…」
「……寂しいじゃないか」
「…え?」
「時間が無くて会えないというのも、寂しいだろう?」
「あ……ぇ…は、はい…」
(え? え? ど、どっち…?)
『寂しい』という言葉にドキリとしながら、ルカーシュカの言葉の真意が掴めず、ふわふわとした返事をしてしまった。
自分が寂しいという意味なのか、ルカーシュカが寂しいという意味なのか…まさかどちらの意味ですか、などと聞けるはずもない。
だがもし、もしもルカーシュカにとって寂しいという意味だったら───そう考えただけで、ぶわりと熱が込み上げ、心臓がトクリと鳴った。
どうにもルカーシュカからの好意というものを意識すると、嬉しい反面、落ち着かない気持ちになる。その上で、素直に嬉しいと思うことを引き留める自分もいて、更に言葉に詰まってしまうのだ。
そうやってまごついている間に、隣に座ったルカーシュカがなにやら見慣れぬものを取り出し、テーブルの上に並べ始めた。
「…? …なんですか?」
「ラフラーズのジャムだ」
「ラフ……ジャム?」
生成色の籠から出てきた小瓶には、真っ赤なジャムがたっぷりと詰まっていた。それと一緒に出された物をエルダが受け取り、共に出された皿の上に綺麗に並べていく。
突然のことにポカンとしている間に、ルカーシュカがジャムの蓋を開けた。
「ぷあっ」
「わぁ…」
カパッと蓋が開いた瞬間、ふわりと広がった甘い香りに、周囲にいた赤子達と揃って声が出た。
「この匂い…知ってる」
「左様でございますね、アドニス様もご存知の果物ですよ。たまに召し上がる真っ赤な…アドニス様が少し酸っぱいと仰っていた果物です」
「……あ…」
その言葉に、柔らかな三角形をした小ぶりな果実を思い出す。
「酸っぱいか?」
「ほんの少しですが、酸味がございますから」
「そうか…だがまぁ、これなら甘いだけだからな。お前でも食べられるだろう」
「……食べる?」
「一緒に食べようと思って持ってきたんだ」
あまりにも予想外のことを言われ、目を丸くする。
今日のルカーシュカはどうしたのか…急な訪問もだが、急な言動にも、事前に用意されていた目の前の品にも驚く。
「前に俺達だけで紅茶を飲もうとした時、お前も同じものを飲みたがっただろう?」
「…ぁ、は、はい」
「もしかしたら、一緒に食べようってなれば、他の物でも食べれる様になるんじゃないかと思ったんだ」
「え…」
「ミルクと果物だけでも構わないんだがな。他にも食べられそうな物があるなら、せっかくだから食べてみてもいいんじゃないか? 好きな物が、増えるかもしれないだろう?」
「…!」
そう言って微笑むルカーシュカの瞳はとても優しげで、自分のことを想って用意してくれたのだという気持ちがじわじわと伝わってきた。
「あ、ありがとう、ございます…」
「いや、勝手に持ってきてしまったからな。無理に食べなくても…」
「い、嫌…っ、あ…あの、…食べたい…です…!」
「…そうか」
ホッと和らいだ表情に、コクコクと頷き返しながら、テーブルの上に並べられた物を見た。
「…ジャムだけ…食べるんじゃ、ないんですか?」
「ジャムだけだと甘過ぎるし、これはそのまま食べる物じゃないからな」
「アドニス様、こちらのビスコットに載せて食べるのですよ」
「ビスコット…」
エルダが指した先には、皿に並べられた、薄くて白い食べ物らしい何かがあった。
「……これは、お菓子…?」
「はい。ただ、これ単体ではほとんど味がしないので、この上にジャムを乗せて食べるのです」
「まずは、ジャムだけ舐めてみたらどうだ?」
言うと同時に、ルカーシュカが甘い香りを漂わせる小瓶に、小さな木べらを差し込み、クルリと回した。
鮮やかな赤がキラキラと煌めく姿は、宝石を溶かしたようでとても綺麗だ。そっと抜かれた木べらには半透明の赤が絡み、トロリと垂れた蜜の香りがより一層広がる。
甘い香りのするそれを、ルカーシュカがパクリと口に含んだ。
「ん、美味い」
「………」
軽く咀嚼する姿をジッと見つめながら、辺りに広がった香りを楽しんだ。
(…美味しそう)
知った果実の甘い香りと、僅かに緩んだルカーシュカの口元に、自然と『食べてみたい』という気持ちが湧いた。
ルカーシュカが手にしていた小さな木べらを置き、新たな木べらを手に持つと、同じように瓶に差し込み、その先に少しだけジャムを掬い───…
「ほら」
「え?」
「まずはジャムだけで食べてみろ」
「え、あ、え?」
───それをそのまま、自分の口元に差し出した。
「え…えと…」
「食べられそうだろう?」
「…そぅ…です、けど…あの…」
「ほれ、口を開けろ。あー」
「~~~ッ」
…なぜか猛烈に恥ずかしく、エルダに助けを求めるように視線を向けるが、そこでふと、自分も以前エルダに同じようなことをしていたことを思い出し、更に羞恥が加速した。
目の前に差し出されたそれをどうすることも出来ず、悩む暇もないまま、観念して薄く口を開く。
「ぁ……んむ」
僅かな隙間に差し込まれた薄い木べらの先。そこに絡んだ赤い蜜を舐め取ると、スルリと口の中から木べらが抜けた。
途端に咥内に広がった果実の香りと、蜂蜜のような甘さ。少しだけ形の残った果肉は、噛む必要がないほど柔らかく、舌の上にトロリと馴染んだ蜜を転がすように味わってから、コクリと飲み込んだ。
(…美味しい……美味しい、けど…!)
ジャムは美味しい。だが正直それどころではなく、顔面の熱さに、知らず瞳が潤んだ。
「あの…エルダ、ごめんね…」
「え?」
誰かに食べさせてもらうという行為が、自分の思っていた以上に羞恥を含むものだと知らなかった。
以前、今のルカーシュカのように、ミルクの花を自分がエルダに食べさせたことがあった。あの時、エルダが食べることを躊躇っていたのは、遠慮からではなく、羞恥からだったのだと、自身が体験してようやく思い知った。
「あの…た、食べさせて、もらうのって…は、恥ずかしいって…知らなくて…っ」
「…!」
「ご、ごめんね…、前に…エルダに、おんなじこと、しちゃって…」
「いえっ、そんな、私は…!」
「なんだ、同じことをしてたのか」
「…っ、いえ、ルカーシュカ様、あれは…っ」
「仲が良くて、良いことじゃないか」
「ぅ…、で、でも…」
「その話しの続きは、後でゆっくりすればいい。…で、どうだ?」
「…?」
「食べられそうか?」
「…! あ、は、はい…! 美味しい…です」
「それは良かった」
フッと笑ったルカーシュカに変わった様子はなく、その姿に波立っていた気持ちも徐々に落ち着き始める。
その間にルカーシュカの手がビスコットへと伸び、一口サイズのそれにジャムが落とされた。
白いビスコットに真っ赤なジャム。見た目にも可愛らしいそれは、そのままルカーシュカの口の中に消えていった。
サクサクと、僅かに聞こえる耳慣れない咀嚼音を不思議に思いながら、その様子をジッと見つめる。
「…美味しい、ですか?」
「うん、美味いぞ。…食べてみるか?」
「……ん」
「エルダ」
「畏まりました」
食べてみたい、とコクリと頷けば、傍らに控えていたエルダがそっと近くに寄った。
「こちらを持っていて下さい」
「うん」
「ジャムをお乗せしますので、落とさないようにお気をつけ下さいね」
「はい」
皿ごと差し出されたビスコットを指先に摘むと、エルダがその上にトロリとジャムを落としてくれた。
間近で見れば、一層キラキラと煌めいて見えるジャムをひとしきり目で楽しむと、ジャムが零れない様、気をつけながら口へと運んだ。
───サクッ…
初めての食感にまず驚きながら、ゆっくりと咀嚼し、サクサクという音を楽しむ。
エルダの言った通り、ビスコットはほとんど味がしないが、ジャムと混じり合ったそれはとても美味しく、鼻から抜ける果実の香りもより強く感じた。
モクモクと、いつも食べる果実よりも長い時間を掛けて咀嚼し、ゆっくりと飲み込んだ。
「……美味しい…」
「それは良かった」
「だぅ、あ!」
「…うん、美味しい食べ物だよ」
赤ん坊達は、自分達には食べられない物と分かっているのだろう。欲しがることもなく、ただ嬉しそうに「美味しい?」「良かったね」とニコニコと笑ってくれていた。
「良うございましたね、アドニス様」
「うん。…ルカーシュカ様、ありがとう、ございました」
「いや、一緒に食べられて良かった」
一緒に───その言葉に、ジン…と胸の奥で何かが滲むような感覚がして、少しだけ視線を下げた。
(……嬉しい)
ルカーシュカは優しい。
言葉も態度も優しいけれど、それ以上の、目に見えないずっと深いところを温めてくれるような優しさがあった。
こうして接していれば、より真っ直ぐ伝わってくる『好意』をどうして不安に思うのか、そのまま受け取れないのか、悲しくて、苦しくて、そんな自分がまた嫌になりそうになり、グッと奥歯を噛み締めた。
(ちがう…、それじゃダメなんだ…!)
どうしたって拭えない『自分は嫌われ者なのだから』という考えが、頭の底にこびり付いて離れない。
でも今は、この考えに囚われてばかりではいけないなのだと分かる。
向き合うための勇気を、エルダとルカーシュカ、イヴァニエから、たくさん貰ったのだ。
せっかく与えてもらった心を、自分自身が否定したくない。
嫌われていた過去が事実でも、ルカーシュカもイヴァニエも、自分と笑って話してくれる様になった。
その今を不安に思うのは、きっと彼らの与えてくれた心に対して失礼なのだと、ちゃんと分かっている。
───ならば、自分にできることはなんだろう?
「アドニス? どうした?」
「アドニス様?」
黙り込んでしまった自分を案じるようなエルダの声が耳に届き、ルカーシュカの手が自身の手にそっと重なった。
(心配して下さるのだって…きっと…)
そこに温かな情がなければ、心配されることすらないのだと、心が痛むほどよく知っている。
情があるからこそ、心配してくれるのだと、もう理解できるだけの時間を、共に過ごしている。
(…自分で、自分を、否定しないように…)
そうして向けられた好意に、戸惑わないように、迷わないように…『嬉しい』と感じたのなら、その気持ちをそのまま相手に伝えられるように───それが今の自分に…与えられるばかりの自分にできる、最小で最大の、彼らへ返せる全てだった。
「ぁ…あの…」
「うん、どうした?」
「この前、の…あの…う、嬉しいって、…言って、下さった…」
「!」
ドクドクと鳴る心臓が痛くて、まだ言葉にする前だというのに、胸が苦しくて泣いてしまいそうになる。
それでも涙は零れないように、なんとか堪えた。
「…それが、どうした?」
「あ…あの…、エルダと、お話しして……その、ちゃ、ちゃんと…う、嬉しいって…言って下さった…意味も……ちゃ、ちゃんと…知りました…」
「うん」
柔らかなルカーシュカの声がより一層優しくて、震える唇をキュッと喰んだ。
「ぁの…っ、う…嬉しいって、言ってもらえて……わ、私も……嬉しい、です…っ」
「アドニス……」
「ちゃ、ちゃんと…あの…、ど、どういう…気持ち…とか、は…あの…分かってて……う、嬉しいっていう、気持ちが…その…嬉しいって…っ」
「…うん、大丈夫。分かってるよ。…ありがとう」
「ご、ごめんなさい…! 私…ずっと…ずっと…っ」
「いいから。…ちゃんと分かってるから、あんまり泣くな」
「…っ!」
気づかぬ内にボロボロと零れていた涙。その雫を慌てて拭えば、それまで大人しくしていた赤ん坊達が一斉に声を上げた。
「あぁ~っ!」
「んぁー!」
「あ、まっ…」
自分が泣いてしまったからだろう。皆一様にルカーシュカに向かって頬を膨らませており、慌ててぷくりと膨れた小さな頬を撫でた。
「まって…! ち、ちがうよ? あの、ケンカ…とか、そういうんじゃ…」
「…泣かせないって言ったのにな。ごめんな」
「ちが…っ、私が…!」
「分かってるから…ほら、とりあえず泣き止め」
「ぅむ…っ」
赤子達に謝るルカーシュカにも慌てていると、彼の手にいつの間にか握られていた柔らかな布で顔全体を覆われ、くぐもった声が漏れた。
そうこうしている間に涙は止まり、頬を伝った雫も綺麗に拭われた。
「…あり、がとう…ございます…」
「もう平気か?」
「…はい」
「アドニス様、大丈夫ですか?」
「うん……ありがとう、エルダ」
「…もう、大丈夫なのですか?」
「……うん。もう…大丈夫」
…大丈夫。きっともう、大丈夫だ。
彼らの温かな情を受け取る自分を否定するような悲しい自分は、きっともう現れない───そう確信するように、そっと瞳を伏せた。
その後、ルカーシュカは紅茶を、自分は少量のミルクを飲みながら、同じ物をもう一つ食べた。
いつもよりもまったりとした空気の中、言葉数の少ない会話をルカーシュカと交わしながら、ともすればウトウトとしてしまいそうな心地良い時間を過ごした。
帰り際、残ったジャムとビスコットは「エルダと一緒に食べてくれ」とそのまま渡され、「また明日」と言って部屋を出るルカーシュカの背を見送った。
「…明日も、来て下さるって」
「はい。お時間はあまり取れないようですが、それでも楽しみですね」
「…うん」
きっと予定の詰まっている合間に、立ち寄ってくれるのだろう。
会えることの嬉しさにソワリと心は浮き立ったが、それとは別に、やはり忙しいのなら無理はさせたくないという気持ちも湧いた。
(…会えることは、嬉しいけど…無理はしてほしくないって…ちゃんとお伝えしよう)
どちらも大事な気持ちだと思うからこそ、明日会えたらきちんと伝えよう、と心に留めた。
「ジャム、一緒に食べてって」
「…ええ、左様でございますね」
「一緒に食べようね…?」
「…はい。ありがとうございます」
はにかむように笑うエルダは、どことなく照れているように見えて、以前の自分の食べさし行為を思い出させてしまったのだろうと反省した。
その日の夕暮れ、エルダと話しをしながら、ジャムを乗せたビスコットを一つずつだけ食べた。
エルダには「私はもう充分です」と遠慮されてしまったが、エルダの中に『これ以上はダメ』という領域があるのだと、最近になってなんとなく分かる様になったので、それ以上食い下がることはしなかった。
「イヴァニエ様がお帰りになったら、一緒にお召し上がりになりましょう」
「…そうだね。一緒に、食べて頂けたら、嬉しいな」
食べれる物が増えたのだと、同時に伝えることも出来る、とエルダの提案を喜びながら、イヴァニエの帰りを待つ日々が続いた。
その翌日から、ルカーシュカは毎日部屋を訪れてくれるようになった。
と言っても、ゆっくりと過ごす時間はない様で、普段の滞在時間の半分にも満たない時間で帰ってしまうことがほとんどだったが、それでも会えることが嬉しかった。
「会えるのは嬉しいけど、忙しいなら無理はしてほしくない」ともきちんと伝えたが、「会いたいから会いに来てる」の一言で、それ以上は言えず、感謝の気持ちを伝えるので精一杯だった。
短い時間でも気に掛けて会いに来てくれるルカーシュカ…そんな彼に、感謝しながら過ごす日々が、六日続いた日のことだった。
「明日、イヴァニエが帰ってくるぞ」
その日のルカーシュカの訪問は夕暮れ近くで、赤ん坊が自分達の寝床へ帰っていくのを見送ってすぐの頃合いだった。
「無事に、帰ってこれ…ますか?」
「ああ、なんの心配もいらない。…はぁ、これでやっと面倒事から解放される」
大きく息を吐きながら、ソファーの背凭れにぐったりと寄り掛かるルカーシュカには疲労の色が濃く、やはりこの数日間、無理をさせてしまったのかと心配が募った。
「あ、あの…やっぱり、疲れて…」
「ん? …ああ、違う違う。面倒っていうのは他のヤツらが……とにかく大丈夫だ。特別忙しかった訳でもないし、大変だった訳じゃない」
「でも…」
「イヴァニエ様のお戻りは、何時頃になるのでしょうか?」
ヒラヒラと手を振り「大丈夫」と言うルカーシュカに言葉を続けようとしたのだが、エルダと声が重なってしまい、咄嗟に口を噤んだ。
「一応、明日の今くらいの時間になるはずだ」
「ありがとうございます」
(…帰ってくる時間とか、どうやって分かるんだろう?)
自分はまだ教わっていない知識なんだろうな…と、二人のやりとりを聞いていると、不意にルカーシュカと目が合った。
「俺も詳しいことは聞いていないが、イヴァニエが戻ってきたら、二人で話しをする予定なんだろう?」
「……あ」
(そうだった…)
無事に帰ってこれるか、そのことばかりが心配で、十日ほど前にイヴァニエと交わした約束はすっかり頭から抜け落ちていた。
「お話し…します…」
「うん。じゃあ戻ってきたら、俺が捕まえて連れてくるから、準備だけしといてくれ」
「…捕まえ…?」
「アイツのことだからな。帰ってきて早々じゃなく、日を改めて…とか言い出しそうだ」
「…そう、です…?」
「だがイヴァニエだって、この十日間、相当気を揉んだだろうからな。できることなら、早くお前に会って、話しがしたいと思っているはずだ」
「…!」
言われて思い出したのは、最後に見たイヴァニエの姿だ。
思い詰めたような硬い表情で「話しがしたい」と願いを受けたあの日。
どうしてそんな顔をするのか、どうしてそんなに苦しそうなのか…何も分からないまま、ただ彼の背を見送ってしまった。
(そういえば…体、温めてくれたことのお礼も言ってない…)
冷えた体を心配して、自身が濡れるのも構わず湯を掛け続けてくれたイヴァニエに、彼の服が濡れてしまうことばかり気にして、礼を言っていなかったことを今更になって思い出した。
(服のお礼と一緒に…ちゃんと、心配して下さったお礼も言わなきゃ…)
イヴァニエの羽織りは、あの後エルダにより浄化が施され、戻ったらすぐに返せる様、綺麗な状態で保管してもらっている。
イヴァニエのしたい話とはなんだろうか…不安がないと言えば嘘になるが、それでも聞くのが怖いとは思わなかった。
「あの…イヴァニエ様は…帰ってきてすぐで、大変じゃ、ない…ですか?」
「まぁ、少しばかり疲れてはいるだろうが…そこはアイツの判断に任せるよ。どうしても無理そうなら、また改めて時間を作ればいい。連れてくるとは言ったが、無理はさせないから安心してくれ」
「…ありがとう、ございます」
ホッと息を吐き出せば、優しい瞳をしたルカーシュカがフッと笑った。
そっと重なった手の平を、やんわりと包むように握られ、返事をするように握り返した。
「良い話しができるといいな」
「…はい」
思い返せば、ルカーシュカと今のような関係になったのも、二人だけで言葉を交わすようになってからだった。
(どんなお話しをするのかな…)
少しだけ緊張してきた胸を押さえる───と、ある疑問がポッと頭に浮かんだ。
「あの、イヴァニエ様は…帰ってきたら…そのまま、ここに来て下さるん、ですか?」
「一通りのやることを終えたらな」
「…ルカーシュカ様は、いない…?」
「二人で話すんだから、俺がいちゃダメだろ?」
「…エルダは?」
「私はアドニス様と一緒にお出迎えをしまして、その後はお席を外させて頂きますね」
「お出迎え…」
「なにか心配事か?」
「心配…じゃ、ないんですけど…」
視線を彷徨わせつつ、ポツリと心配事を漏らした。
「えっと…イヴァニエ様が…帰ってきたら…最初に、な、なんて…言ったら…いいのかな…て…」
久しぶりに会うのだから、『お久しぶりです』だろうかとも思うのだが、何か違う。
ならば『こんばんは』だろうか? それともエルダがいつも二人を出迎える時のように───いや、それを自分が言うのはおかしいと流石に分かる。
約十日ぶりに会うイヴァニエに、まずはなんと声を掛ければいいのか、いざその場面になって狼狽えないように聞いておきたかった。
「なんだ、最初に言うことなら、決まってるじゃないか」
「決まってる…?」
「アドニス様、イヴァニエ様がお戻りになられましたら、最初はこう仰って下さい」
何故かおかしそうに笑うルカーシュカに首を傾げていると、笑みを浮かべたエルダが、楽しそうに答えてくれた。
「───『おかえりなさい』と」
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ラフラーズ=苺
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