天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

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───コンコンコン…



控えめに響いたノックの音に、「はて?」と首を傾げた。

少し前までの自分なら、きっと扉を叩く音を聞いただけで怯えていただろう。だがイヴァニエやルカーシュカと顔を合わせるようになってからは、ノックの音も怖くなくなった。なにより今の音は───…

(…イヴァニエ様の音だ)

この数ヵ月の間、何度も耳にした扉をノックする音。
特定の人物しか関わることがないという限定的な行為のせいか、最近ではイヴァニエとルカーシュカ、それぞれのノックの音を聞き分けられるようになっていた。
特別な特徴がある訳ではないのだが、扉を叩く時の間隔と強さが少しだけ違うのだ。
だからこそ、今のノックの音はイヴァニエだと分かったからこそ、怖いという感情は湧かなかったが、少しの困惑につい辺りを見回してしまった。

(どうしよう…)

今はエルダがいない。
今日はイヴァニエとルカーシュカが来る日で間違いないが、時間が早過ぎるのだ。
正確な時間は知らないが、本来であれば風呂に入っていたことを考えれば、二人が来る時間はまだまだ先のはずだ。エルダが時間を間違えた、なんてことはないだろう。

(えっと…えっと…)

どうしたものかと、その場で小さく足踏みをしながら必死に頭を動かした。

(まだ、いつもの時間じゃない…でも、イヴァニエ様が来てて…エルダはいなくて……)

こういう時、どうしたらいいのかが分からない。
自分が出迎えてもいいものなのか…その判断ができずに唸っていると、ふとある考えが頭を過った。

(あ……来るのが早いってことは…何かあったのかもしれない…?)

ふいに閃いた考えに、パッと顔を上げた。
もしかしたら、何か急な用事があって、そのことをエルダに伝えに来たのかもしれない…思いついた考えは案外的を得ている気がして、少しの困惑はどこかに消えてしまった。

(…出ても、いいよね…?)

外に出る訳ではない。あくまで部屋の中から扉を開けて、イヴァニエを迎え入れるだけ…それだけなら、恐らく怒られることはないはずだ。
よし…! と少しばかりの気合を入れると、ノックの音が聞こえてからだいぶ時間が経ってしまっていることに気づき、慌てて扉へと小走りで駆け寄った。
広い部屋の中を急いで向かった先、扉の前まで辿り着くと、もう一度気合を入れ直す。

…目の前の扉に触れるのも、生まれて初めてだった。

部屋に入った時は、案内をしてくれた天使が扉を開き、そのまま何かを問うことも出来ずに閉められてしまったので、触れることはおろか、それ以降は近寄ることすらなかった。

(…大丈夫、だよね)

初めて触れる外と中とを繋ぐ境界線にドキドキしながら、ゆっくりとドアノブに手を掛けた。
グッと力を入れて引いた大きな扉は存外軽く、思いの外すんなりと開いた。
そこにいるのはイヴァニエだと分かっていたが、部屋の外を覗く勇気はなく、扉の陰に隠れるように、そろりそろりと扉を開けた。

「……エルダ?」

本来そこにいるはずのエルダの姿が見えなかったせいだろう。困惑を混ぜた怪訝そうな声が聞こえ、慌てて扉の裏から顔を出した。

「あ、あのっ…、今、エルダが、いなくて…」
「───」

恐る恐る顔を覗かせた扉の外には、予想していた通りイヴァニエがいた。…が、目が合った瞬間、大きく見開いた瞳と、僅かに息を呑む音が聞こえた。
なに、と思う暇もなく、薄く開いた扉の隙間からイヴァニエが素早く体を滑り込ませ、室内に入ると同時にバタン! と乱暴に扉を閉めた。

「あ…」
「なんて恰好をしてるんです!!」
「ふあっ」

突然の大きな声に、ビクリと肩が跳ねた。

「エルダは!?」
「ぁ……あの…お、外、に…」
「あなた一人の時に、不用心に扉を開けるのはやめなさい! 外に誰がいるか分からないのですよ!?」
「ふぁ…、ぁ……ごめ…なさい…」

ただ扉を開けただけ…それほどいけないことをしたつもりはなかったのだが、あまりにも険しい顔と強い語尾で叱られ、項垂れるように縮こまった。
包まっていたタオルの裾をキツく握り締めながら、ここからどうすればいいのか、続く言葉を懸命に探していると、深い溜め息の音が聞こえた。

「……大きな声を出して、すみませんでした」
「い、いえ…っ、あの…ご、ごめんなさい…あの…あんまり、ちゃ、ちゃんと…考えて、なくて…」
「…すみません。怖がらせるつもりはなかったのですが…」
「こ、怖くない…です! あの…お、怒った…んじゃ、なくて…あの……し、叱って…下さったんだって…分かってます…から…あの……ご、ごめんなさい…でした…」
「……本当に、誰がいるか分からないのですから、無闇に扉を開けてはいけませんよ。…それと、その格好で人前に出るのはおやめなさい」
「あっ…ご、ごめんなさ…っ」

出迎えるべきか否か、そのことで頭がいっぱいで、自分の格好にまで意識が向いていなかった。
肩から羽織るように包まっていた大きなタオルは、かろうじて股下が隠れる程度だ。慌てて腰から下を隠すように巻き直そうとするが、上手くできずに四苦八苦し、垂れた裾が床についてしまった。

「…なぜ、そんな格好でいるのです? エルダはどこに?」
「えっと…お風呂に、入ってる、途中…だったんですけど…エルダは…えっと…ちょっと…いなくて……その…一人で、待ってるのが…あの……少し、怖くて…だから…」
「…まさか、その濡れた体でずっといたのですか?」
「ず、ずっとじゃ、ないです…まだ少し…」

「だけ」と続けようとした言葉は、不意に伸びてきたイヴァニエの手に驚き、飲み込んでしまった。
二の腕に軽く触れたサラリと乾いた手の感触、それがイヴァニエの手だと気づくのと、彼が眉を顰め、端正な顔を歪めたのは同時だった。

「…冷え切ってるではないですか」
「ご、ごめ…」
「怒ってはいません。…付き添いますから、早く湯浴みに戻りなさい。体に障ります」
「え…でも…」
「…エルダを心配させますよ」
「ぁ…」
「来なさい。一人でいるよりは、怖くないでしょう?」

殊更優しく発せられた声に、それ以上「否」とは言えず、コクリと小さく頷いた。
そのままゆるりと背を向け、浴室へと向かうイヴァニエ。その背を追おうと数歩足を踏み出し───その数歩目で、腰に巻き直したタオルの裾を踏んだ。

「わっ…!」

踏んだ拍子にクンッと前のめりになったが、転ぶことはなかった。ただ、巻きつけの甘かったタオルがハラリと解け、足元に落ちてしまった。

「どうしました?」
「あっ、わ…!」

自分の発した声に反応してくれたのであろうイヴァニエが振り返り、反射的に体を隠そうと、咄嗟にその場に蹲った。
落ちたタオルを慌てて拾い上げると、体の前面を隠すように胸元に引き寄せ、丸まった。

(び、びっくりした…)

風呂場とは異なり、部屋の中で一糸纏わぬ姿になるのには流石に抵抗がある。なにより、あまり裸を他者に見せるものではない…という一応の知識は備わっているのだ。
多少の羞恥と、イヴァニエに自身の裸を見せてしまったかもしれないという不安で、心臓がドクドクと脈打った。
また叱られてしまう…と、俯いたまま顔を上げられずにいたが、数秒待ってもイヴァニエからの反応はなく、不思議に思いながらそろりと顔を上げた。

「…? イヴァニエ様…?」


恐る恐る見上げた先───そこで目にしたのは、不自然なほどに青褪め、強張り、悲痛な表情に歪んだイヴァニエの顔だった。


「……どうして…」

(…なんで? さっきのエルダと、おんなじ顔…)

つい先ほど、同じような表情を見たばかりだったことに、口からはポツリと言葉が零れた。
どうして二人とも同じような表情をするのか、その理由が分からず、だが自分の何かに関係していることだけは確実なことが分かり、狼狽えた。

「ぇ…と…あの……」

なんと声を掛ければいいのか分からない。いや、声を掛けていいのかすら分からなかった。
どうしようもない居た堪れなさと申し訳なさから、視線は再び床に落ちた。

バサリと布が翻るような音と、ふわりと柔らかな絹が肌に触れる感触がしたのは、その直後だった。

「え……え?」

大きな花の模様と、肌がうっすらと透ける薄さの絹。丸まった体をすっぽりと包むようなそれは、イヴァニエがいつも身につけている羽織りだった。

「イ、イヴァニエ様…?」
「……手を。転んだのではないですね」
「あ…は、い……あの…タ、タオルが…」
「いいから。それを羽織ってなさい」

差し出された手に戸惑いながらも手を重ねれば、驚くほど強い力で引かれ、その拍子にタオルが滑り落ちた。
片手はイヴァニエの手を、もう片手は羽織りが落ちないように押さえていた為、押さえる術のなかったタオルは必然的に床へと落ちてしまった。

「あ、あゎ…っ」
「そのまま羽織ってなさい」
「で、でも、あの…私…は、裸で…あの…、イヴァニエ様の、服が…」
「…気にしなくていい。行きますよ」
「ぁ…」

グイッと引かれる力の強さに戸惑いつつ、羽織りが肩から落ちない様、必死に片手で留めた。
…と、少し遅れて、ようやくイヴァニエと手を繋いでいることに気づいた。
エルダとルカーシュカと触れる機会が増え、手を繋ぐ行為にもすっかり慣れていたせいか、差し出された手を自然と取っていたが、思い返せば、イヴァニエとこうして触れ合うのは初めてだった。
エルダの手とも、ルカーシュカの手とも違う。大きな手の平と長い指は、ほっそりとしているが少しだけ骨張っていて、『男の人の手』だと妙なほど強く意識した。
自身の手よりも少しだけ大きな手に、手の平から指先まで、すっぽりと包まれている感覚も初めてで、なぜか少しだけドキドキした。
同時に、無言で浴室へと歩を進めるイヴァニエが、ほんの少しだけ怖くて、前を歩く背を見つめながら、胸元で押さえた羽織りの端をギュッと握り締めた。

(…何か、しちゃったのかな…)

強引さはないが、それでも幾分強い力で引かれる右手。その手を握るイヴァニエの手の力は強く、しっかりと繋がれた手の平からは、怒りのような感情は伝わってこなかったが、それでも不安は拭えなかった。
ぐるぐると不安と疑問が混じる思考の中、イヴァニエの歩みを止めない様、早足になりながらその後を追えば、あっという間に浴室へと辿り着いていた。

「えっ…イ、イヴァニエ様…!」

てっきり浴室の手前、服を脱いだ部屋まで付き添ってくれるのだろうと思っていたイヴァニエが、靴も服もそのままに浴場へと足を踏み入れ、慌てて声を掛けた。

「服が…っ、あの、く、靴も…!」
「慌てなくとも問題ありませんよ」
「でも…」

アワアワしている間に、つい先ほどまで自分が座っていた湯船の縁まで戻ってきてしまった。

「湯には浸かれるのですか?」
「…ぁ…あの……ま、まだ…」
「先ほどは…エルダは、何をしてくれましたか?」
「え…と、そ、そこに、座って…お湯を、体に…掛けて、くれて…」
「…なるほど。ではもう一度、そこにお座りなさい」
「え…? でも…あの…コレ…濡れちゃ…」
「濡れたなら乾かせばいいだけです。構いません」
「ぅあ…」

湯船から溢れた湯で、浴場はどこも水浸しだ。
その上に座れば、確実に羽織りを濡らしてしまうことになるのだが、それでもキッパリ「構わない」と強く言い切るイヴァニエに、それ以上何も言えず、恐る恐る元いた場所に腰を下ろした。
途端に床から伝わる温かな熱に、ホッと強張っていた体から力が抜ける。じわじわと体に移る熱は熱いほどで、自覚していなかっただけで、随分と体が冷えていたことに気づかされた。

(…あったかい)

ほぅっと息を吐いたのも束の間、イヴァニエが傍らに膝をつき、ザパリと湯船に溜まった湯の中に手を突っ込む姿が見え、ギョッとした。
イヴァニエの服は、裾も袖も長い。湯の表面に触れた裾も、膝を付いた足元も、みるみる内に濡れていった。

「イ、イヴァニエ様…っ、服が…」
「乾かせばいいだけです」
「あ、え…っ、わっ…!」

狼狽えている間に、湯の表面からプクン、プクンと両の手に余る大きさの湯の玉が浮き、シャボン玉のようにふわふわと宙に浮いた。
驚きながらその光景を見ていると、乳白色のそれはふよふよと浮きながら自身の方に寄ってきた。
そのまま体に当たった湯の玉は、肌に触れるとパシャンと弾け、ただの温かな湯に変わり、体を濡らした。
肩から背中から、パシャン、パシャンと弾けながら掛かる温かな湯に、気持ち良いと感じるよりも先に、羽織りがぐっしょりと濡れ、肌に張り付く感覚にヒュッと息を吸った。

「あっ、あの…」
「アドニス。私の服のことは気にしなくていいです。ただ濡れてるだけなのですから、乾かせば問題ありません」
「あ…ぅ…」
「それよりも、体は温まってきましたか?」
「あ…ぁ、う…はい…」

コクコクと頷いている間も、パシャンと弾ける湯の玉が腕や足に当たり、全身を濡らしていく。湯が弾けるたびにイヴァニエの服にも掛かり、裾も袖もしとどに濡れていた。
落ち着かない気持ちになりながら、それでも徐々に戻ってきた体の熱に、ゆるゆると筋肉は緩んだ。

(……気持ちいい…)

ぽぅっとしながら湯を浴びる最中、ふと未だにイヴァニエと手を繋いだままだったことに気づいた。
湯が流れ落ちる自身の右手から、繋がったイヴァニエの右手へ、互いの体の境い目なく伝わっていく湯の流れを、不思議な気持ちで見つめた。

「…イ───」
「…今日ですが」
「は、はい…!」
「……私もルカーシュカも予定が入り、こちらに来ることが出来なくなってしまいました」
「え…? あ…は、はい…」

突然切り出された話に、一瞬理解が追いつかなかったが、言われた言葉を反芻し、反射的に返事をした。

(来れない……でも、大天使様なんだから、色々やることがあるんだろうな…)

少しずつ言葉の意味を理解し、飲み込んだ。
当たり前のように、いつも決まった時間に同じ時間を過ごしてくれていたイヴァニエとルカーシュカだが、改めて彼らには彼らの、外の世界で過ごす時間があるのだと思い知る。
外の世界で過ごす彼らと、部屋の中だけで過ごす自分───どれだけ知識を得ても、交われない部分があるのだと強く感じ、急に胸の奥が重くなった。

「アドニス?」
「…、いえ、あの…だ、大丈夫です…! あの…えっと…いつも、来て下さって…ありがとう、ございます。…あの…今日はって、ことは……その…こ、今度、は…?」
「………私は、暫くの間来れなくなりそうです」
「え…」

予想していなかった返答に、一瞬固まった。

「詳しいことはエルダに伝えます。恐らく十日ほど、こちらを留守にすることになりますが…ルカーシュカはいますので、彼は来れると思いますよ」
「は、はい…」

静かに語るイヴァニエに、なんと言葉を返していいのか分からず、頷くことしか出来なかった。

「……アドニス」
「…っ、はい…!」

会話が途切れたその切れ目に、今までと違う声音で名を呼ばれ、ピッと背筋が伸びた。

「…十日後、戻ってきたら……私とも話しをして頂けませんか?」
「え?」
「ルカーシュカと…彼と同じように、できれば二人だけで話しがしたいのです。…その時間を、もらえませんか?」
「───」

傍らに膝をつき、ジッとこちらを見つめる澄んだ水色の瞳は、目を逸らせないほど真っ直ぐだった。
真っ直ぐで、それでいてどこか悲痛な必死さを含んだような色に、返事をすることも忘れて魅入ってしまった。

「…アドニス?」
「はっ…、あ、いえ、あの…は、はい…! お、お話し、して、下さい…っ」
「…ありがとう」

ホッと頬を緩めたイヴァニエに、「あ」とあることに気づく。
部屋に足を踏み入れてから今の今まで、いつも柔和な表情を浮かべていたイヴァニエが、ずっと難しい顔をしていた。
悲しそうな、苦しそうな表情をしていたイヴァニエが、ようやく表情を和らげてくれたことに気づき、自分の何が彼にそんな顔をさせていたのか…治っていた不安がじわじわとぶり返した。

「あ…あの…」

その表情の理由を聞きたい───そう思い、口を開いた時だった。


「イヴァニエ様!?」

驚きを含んだエルダの声が浴室に響き、ハッとして入り口を見れば、慌てた様子でこちらに寄ってくるエルダの姿が見えた。

「エルダ…」
「戻りが遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。イヴァニエ様は…何故、こちらに…」
「…色々あったのですよ。エルダも戻ってきましたし、私はこれで失礼しましょう」
「あ…」

イヴァニエが立ち上がるのと同時に、繋いでいた手がするりと解けた。

「エルダ…、あの、イヴァニエ様の服が…」
「自分で乾かせますから、大丈夫です。エルダはアドニスに付いておやりなさい」
「わ、私は、大丈夫…だから、あの…えっと、エルダにお話しも、あるみたい、だし…」
「…一人が怖くて、風呂場から逃げたのではなかったですか?」
「うぁ…」
「え?」

エルダには黙っておこうと思っていたことをバラされてしまい、言葉に詰まった。

「申し訳ございません! 長くお側を離れてしまい…」
「ち、ちがうの…! 大丈夫…あの…」
「…アドニスの湯浴みが終わった後で構いません。いくつか伝えることがありますから、エルダは私のところへ来て下さい」
「畏まりました」
「あ…」

それだけ言うと、イヴァニエはくるりと踵を返し、扉の方へと向かって行ってしまった。
去り際に、どこからか吹いた風に、彼の服の袖がふわりと舞う…その姿を、茫然と見送った。

「…アドニス様? 大丈夫ですか?」
「あっ……うん…あの…えっと…」
「お話しは後で伺いますね。…本当に、長くお側を離れてしまい、大変申し訳ございませんでした」
「ゃ、ま、まって…、ちがうの…! だ、大丈夫だから…っ」
「…でも、ご不安になってしまったのですよね?」
「ぁ…う、その…ちがくて……あっ」

しどろもどろになりながら首を振る…と、肌にぺっとりと張り付いたイヴァニエの羽織りの存在を思い出し、パッと彼が去った後を見遣るが、そこに姿があるはずも無く、慌ててエルダに向き直った。

「こ、これ…イヴァニエ様の…!」
「大丈夫ですよ、アドニス様。後ほど、お返ししておきますので…」
「…濡れちゃった…」
「乾かせばいいだけです。ご心配なさらないで下さい」
「…ん」

イヴァニエと同じように「濡れただけ」と言うエルダに、少しばかり安堵しつつ、全身を包むような濡れた羽織りの感触が落ち着かず、もぞりと身じろいだ。

「…アドニス様、湯浴みは、いかがなさいますか?」
「ん……と、ぇと…」

…正直、なんとなくそれどころではない気持ちにはなっていた。イヴァニエの様子も気になるし、なにより純粋に湯浴みを楽しめそうな雰囲気でもなかった。
だがエルダが色々と準備してくれていたことを考えると、断ることも出来ず、返事に迷ってオロオロしていると、エルダが苦笑気味に声を掛けてくれた。

「湯浴みの続きは、また日を改めてでも大丈夫ですよ。今日どうしても入らなければいけないものではございませんから」
「あ……あの…じゃあ…また、違う日に入っても、いい…?」
「ええ、勿論です」
「…色々、準備してくれたのに、ごめんね…」
「大した準備はしておりませんので、ご安心下さい。初めての湯浴みは、アドニス様にも楽しんで頂きたいと思いますので、また日を改めて入りましょうね」
「ん…」

コクンと頷きながら、濡れてしまったイヴァニエの羽織りをエルダに預けると、少しの名残惜しさを残して浴室を出た。


その後、エルダの起こしてくれた温かな風で髪の毛は一瞬で乾き、驚いている間もなく服を着せられ、ローブの代わりに毛布を巻かれて部屋の中へと戻った。
部屋の中に落ちていたタオルと、イヴァニエが浴室にいた経緯を話したところ、一時的にだが体が冷えていたことをエルダがとても心配してくれたのだ。
と同時に、勝手に部屋の扉を開けてしまったことについても注意されてしまった。

「アドニス様が、扉のお側まで近寄れたことも、ご自身で扉を開けようと思って行動して下さったことも、大変嬉しく思います。ですが、どなたがお外にいらっしゃるかも分からない状況で、安易に扉を開けるのだけはおやめ下さい。…もしも、怖いことが起きてしまったら、どうされるんです?」
「……ごめんなさい」

イヴァニエにも同じようなことを言われていたが、エルダにも改めて言われ、反省しながら少し落ち込む。

「…でも、今回は…イヴァニエ様って、分かったから…開けたよ…?」
「イヴァニエ様だと、分かって…?」
「あの、ノックの音が…イヴァニエ様の音、だったから…そうなの、かなって…思って……だから…」
「…左様でございましたか。それでも、できましたら私がいない時に、どなたかが訪ねてきても、お出になることはおやめ下さいね? 私がお側にいる時でしたら、是非お二人をお出迎えして下さいませ」
「…うん」

コクンと頷きながら、エルダにもイヴァニエにも心配をかけてしまったこと、安易に行動してしまったことを反省した。

(…三人以外、誰も来ないと思うんだけどな…)

…とは流石に言えないが、それでも心配してくれる優しさが嬉しく、今以上の心配を掛けない様、気をつけようと心に留めた。




それから少しして、エルダはイヴァニエの元へと向かった。

遊びに来た赤ん坊達と戯れながら待つこと暫く、戻ってきたエルダが教えてくれたのは、イヴァニエが人間界に降りた、という話だった。
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