天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

50. Snowflake dear Obsidian(中)

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アドニスの元へ通うようになって数週間が過ぎ、この日も三時の待ち合わせに間に合う様、急ぎ足で回廊を進んでいた。

「悪い、待たせたな」
「いえ、いつもご苦労様です」

苦笑気味なイヴァニエの言葉に、思わず溜め息が零れる。
アドニスと定期的に会うことが決まった時、始めの頃は宮廷の端でイヴァニエと落ち合い、アドニスのいる部屋まで二人で向かっていた。
ところがそうしていると、何度も他の者達に声を掛けられ、その都度足を止めなければいけなくなり、いい加減それも億劫になった為、今ではアドニスの部屋の前で落ち合う形に落ち着いていた。

「俺が宮廷にいるのがそんなに珍しいか?」
「そうですね…残念ながら、私も昼間の宮廷であなたを見かけた物珍しさから、声を掛けたのが今に繋がっていますので、否定はできませんね」

くつくつと笑うイヴァニエに、その時の出来事を思い出し、僅かに眉根が寄った。
自分の担う役目が夜に活動するということもあり、必然的に行動するのは夜の時間帯になる。と言っても、夜の間中起きている訳でもなければ、昼間寝ているという訳でもないのだが、元々用事がなければ宮廷まで出向くこともなく、特定の誰かと行動を共にすることも少なかった為、ここに来てそれが悪目立ちしてしまった。

「ここでお前を見かけるなんて」「なにか用事か?」「イヴァニエと一緒にいるなんて珍しい」等々、何度も声を掛けられ、いちいち誤魔化すのも面倒になり、早々に逃げた。
別に他の者たちが嫌いという訳ではないし、こんな状況でもなければ話しにも付き合うが、アドニスの元に通っているのがバレれば面倒なことになるのは目に見えている。
余計な詮索を避ける為、今では人目につかぬ様、こっそりと宮廷内を移動するようになっていた。

「これを機に、他の者達ともっと関わってもいいのでは?」
「…気が向いたらな」

これまで、一人でいる方が気が楽で、あまり他の者達と深く関わることがなかった。
拒絶している訳でもないし、顔を合わせれば話しもする。共に食事をすることもあったが、それだけだった。
思い返せば、エルダの報告を聞く為、毎日何かしら言葉を交わすイヴァニエは勿論だが、三日に一度という頻度で、特定の者と顔を合わせるというのは、自分にとっては初めてのことだった。
ましてやその相手が、徹底的に避け続け、遠目からでも姿を見ることの無かったアドニスなのだから、まったくおかしな話だ。

「では、行きましょうか」
「ああ」

始めの頃は、アドニスのいる部屋に向かおうと意識するだけで緊張していたが、今ではもう緊張も迷いもなく、扉の前に立てるようになった。
たった数週間、されど数週間の違いを感慨深く思いながら、イヴァニエが扉をノックする音を聞いていた。



アドニスと顔を合わせるようになっても、主に話しをするのはイヴァニエと自分だけだった。

「そういえば、先日フェルディーナが珍しく人間に加護を与えていましたね」
「ああ、アイツが加護を与えるのは二百…三百年ぶりくらいか? あまりに珍しくて、皆騒いでいたな」

話の内容は他愛もないことだったが、まずは同じ空間で過ごすことに慣れてもらうのが目的であり、話の内容は二の次だった。
と言っても、ただの会話でもアドニスにとっては知識を得ることに繋がる。話す内容にはそれなりに気を遣ったが、意外なことに、アドニスは他の天使達のことを話題に出しても、恐れることも怯えることもなかった。
目の前にいるかいないかの違いなのか、アドニスにとって恐怖の対象となるのがどこからなのか、その線引きが分からなかったが、他の天使達の名前を出しても、様子を語っても、ただ興味深げに聞いているだけだった。

(…あまり実感が湧かないんだろうな)

他の天使達のことも、姿が見えていない状態ではどんな話しを聞いても想像ができないのか、他人事のように聞いている節があった。
その様子から、イヴァニエとの会話の中で、それとなく以前の…翼を喪う前のアドニスに関わりのある話題を出してみたりもした。
もしかしたら、何か気づくかもしれない。何かを思い出すかもしれない…ほとんど賭けのような試みは、まったくなんの反応も示さないアドニスを目の前に、いっそ清々しいほど空振りに終わった。

大天使アドニスが司っていた役目は『戦』と『武運』。人間界では、国によっては『戦神アドニス』とも呼ばれていた。
戦の勝利を願う者や、武に秀でた者からの信仰や祈りは厚く、それがアドニスの横暴な態度に拍車を掛けていたようにも思うが、それらしい話題を聞かせても、荒事が苦手なのか、弱々しく眉を下げるだけなので、この手の話題はそれっきりになった。

(…大事にし過ぎか?)

アドニスと向き合うようになってから、どうにも調子が狂った。意識せずとも、アドニスが好まないような話題を避けている自分がいるのだ。
アドニスの負担になる様なことは言わない、見せない…エルダがそうしているように、自分も同じことをしていた。

(……参ったな)

それに気づいた時には愕然としたが、そうなる要因は常に目の前にあった。
向かい合ったアドニスは、いつも隣に座っているエルダと手を繋ぎ、身を寄せていた。
元はエルダが自身の不安を解消する為に、手に触れるようになったのが始まりだと聞いているが、今は互いに望み、好んで手を繋いでいるらしい。
身を小さくしながら、縋るようにエルダの手を握り締めるアドニス。
そこには以前、エルダから聞いた『弱く儚げなアドニス』の姿があった。

そう思うことが信じられないという気持ちすらどこかに消えてしまうほど、顔を合わせる時間が増えれば増えるほど、エルダと同じような感想を抱き、その感情に自身の思考も引っぱられた。

(今の口調にも、だいぶ慣れたしな)

丁寧な言葉遣いも、敬称を付けて名を呼ぶのも、要はエルダの真似をしているのだ。気づいてしまえばそれはあっけないほど当然で、至極納得のいくものだった。
話し方も、接し方も、よく分からないことだからこそ、全てエルダを見て学び、それと同じことをしようとするのだ。
それは生まれたばかりの生命いのちが、初めて見たものを親と認識し、その行動を真似ながら成長していく姿とよく似ていた。

本当に、真っ新まっさらなのだ───今となっては当然の、当たり前とも言える現実を、改めて目の前に突きつけられた気分だった。



程なくして、アドニスが同じ空間にいることに慣れ始めた頃合いで、イヴァニエとの会話の合間に、アドニスにも話し掛けるようになった。

「アドニス」
「は、はい…っ」

話し掛けるたび、肩を揺らして怯んでいたアドニスだが、それでも少しずつ言葉数は増えていった。
そうして気づいたのは、話そうとする時、アドニスは決まってエルダを見るのだ。
チラリと不安そうに揺れる視線は『答え』を求めているのではなく、自分の考えが合っているか、疑問を口にしてもいいのか、『許可』を求めている様に見えた。
エルダもそれに気づいているのだろう。アドニスの目の動きや、何気ない素振りでも注意を払い、言い淀むことがない様、その先を促すように視線や表情で返事をしていた。
まるで保護者のような振る舞いにも、幼な子に話し掛けるような口調にも、始めの頃こそ戸惑いもしたが、いつしか馴染んでしまった。

そうしていく内に、徐々にアドニスにも変化が現れた。
初めの頃は、エルダの様子を窺いながら話していたアドニスだが、少しずつその回数は減っていき、イヴァニエや自分と目を合わせたまま、返事ができるようになった。
質問の内容も、漠然としたものから、会話の中身を理解した上で疑問を探すようになった。
こちらもそれに合わせ、話す内容の幅を広げ、足りないであろう、失ってしまったのであろう知識を吸収させるように教えていった。

何度も顔を合わせ、言葉を交わし、時たま以前と同じ贈り物を用意しては渡し、地道に交流を重ねた。



おおよそ順調に日々が過ぎていたある日、訪れたアドニスの部屋の一部が様変わりをしていた。
足を踏み入れた部屋の中、いつもなら椅子の側に立って待っているアドニスの姿が無かった。
どこに…と考える間もなく、見覚えのない椅子があることに気づき、首を捻った。

「お二人とも、どうぞお掛け下さい」
「…ああ」

様子の変わらないエルダに促されるまま、定位置となった長椅子に腰掛けようと移動して、そこで初めて、真正面の一人掛け用の椅子に座るアドニスを見つけ、目を丸くした。
白百合色の柔らかそうな椅子は、背もたれも肘掛けも座面を囲むような造りで、アドニスはその真ん中で守られるようにして大人しく座っていた。
不安からか、大きなクッションを抱えたまま縮こまっている姿に、思わず「どうした」とエルダに問うていた。
要約すれば、そろそろ従者と主としての距離感で接したい、とのことだったが、難しいだろうな、というのが率直な感想だった。

(アドニスは勿論だが、エルダも難しいだろうに)

アドニスがエルダに接する時の態度は、本来の従者に対するそれとは完全に異なる。
親しみと信頼の中に、絶対的な安心を混ぜた穏やかな愛情が多分に含まれているのだ。
エルダはエルダで、仕える者として親身になりながらも、自身の役目を全うすべく、線引きをしようとしている様だったが───…

(これだけ惚れ込んでいても、自身の役割に徹しようとする精神は立派だが…)

エルダからアドニスに向けられる視線に、主従関係以上の情が含まれていることは、見ていてすぐに気づいた。
驚きはしたが、それについて自分がどうこう言う権利はないし、言うつもりもない。本人の自由だと思うが、だからこそ常に隣に座り、手を取り合っていられた時間を、わざわざ無くす必要などないだろうに…と思ってしまった。

(まぁ、俺達がいる時だけだろう。本来はこういうものだ、と学ぶことも大切か)

アドニスに知識を与える、ということは、今までは許されていた行為の中にも、間違いはあるのだということも教えていかなければいけないのだろう。
真面目だな、と感心している間にアドニスがゆっくりと口を開いた。

「あ、の…あの、お、お二人…には…あの…大変、で……た、大変な、ことだと…思うんです、けど…っ、も、もし…じゃなくて……えと、も…もう少し、だけ…イヴァニエ様と、ルカーシュカ様、と、…お、お話し、できたら……う…嬉しい、です…っ」

たどたどしい話し方で、気持ちを伝えようと必死に喋ろうとする姿に、その言葉に、咄嗟に返事が出来ず固まった。

そう望まれること───それを素直に嬉しいと思った。

あれだけ泣いて怯えて、自分達を拒絶していたアドニスの姿も、まだ覚えている。
そのアドニスが、交流を望み、それを自分の意思として口に出すまでに、どれほどの勇気を必要としたか…じんわりと緩く締め付けられる胸に、すぐには言葉が出てこなかった。

(…もう少し、踏み込んでみてもいいだろうか)

どうしても、必要以上に踏み込んで関わることを躊躇ってしまうのだ。それはイヴァニエも同じだろう。
どこからがアドニスの負担になるのか分からない今、表面をただ撫でるだけのような関わり方になってしまうのは仕方のないことだし、それでも充分だと思っていたのだが…その考えも、改めた方がいいのかもしれない。

そうして物思いに耽ている間に、今度はエルダが茶の準備をし始めて、早急とも言える変化にこちらが動揺してしまった。が、アドニスとエルダの間では予め話しが成されていたのか、狼狽えることもなく、エルダが動いている姿を興味深げに見つめるアドニスに、自分も体の力を抜いた。

エルダの言う「揃えて頂くことに…」というのは、本来の茶の席のように、飲み物と一緒に菓子や軽めの食事を出しても、アドニスが食べれるか分からないので、飲み物だけに留める…という意味だろう。
自分としては別段構わなかったが、相変わらず少しの果物と蜂蜜を混ぜたミルク以外を口にしていないアドニスに、僅かに眉根を寄せた。

(食への興味がないのか、それで充分だと思っているのか…)

食べることを拒否していない分、安心はできるが、それ以上を望まない姿はやはり少し歪だ。
まだまだ問題が多いな…と考えている視界の中、慣れた手つきで紅茶を淹れ始めたエルダの姿を、ジッと見つめるアドニスが映った。
何がそんなに楽しいのか、金色の瞳を輝かせ、熱心に見つめる姿はやはり幼く、どうしてか妙に擽ったい気持ちになった。

微笑ましい───そう、感じてしまうことに戸惑いながら、どうしてもその姿から視線を逸らすことが出来ない。
その時、隣に座っているイヴァニエが、ふっと笑ったのが空気越しに伝わった。

「…楽しいですか?」
「…っ! は、はい…っ」

微笑みながらアドニスに言葉を返すイヴァニエに、少なからず驚きながら、その柔らかな表情からは自分が感じたのと同じような感情が伝わってきた。

この数週間、アドニスに抱く印象は日々変化していた。
弱々しく、一歩間違えたら簡単に傷つけてしまいそうな危うさに緊張していたが、その中には儚いながらも真っ直ぐな強さがあり、感心したものだ。
それだけならまだ良かったのだが、少しずつこちらに気を許し、柔らかな空気を纏うようになったアドニスに、妙に擽ったい気持ちになり、距離が縮まることに安堵しながらも、僅かな危機感を抱く自分がいた。

不安めいた動揺を払うように、それとなくアドニスに話し掛けるが、淡く色づいた砂糖の詰まった瓶を、まるで特別な物でも観察するように、緩めた表情で見つめる姿に、やはり妙な感情が湧きそうになり、瞳を伏せる。
その横で、イヴァニエは微笑ましいものを見つめるように口元を緩めていて、同じような感情を抱いていることが手に取るように分かった。

(…イヴァニエは、自分がどんな表情をしているのか気づいているのか?)

なんとも言えない気持ちになりつつ、アドニスから砂糖の詰まった瓶を受け取った。
恐る恐る伸ばされた手は、瓶だけ受け渡すとすぐに引っ込められてしまったが、それでも物を手渡しすることは出来たのだ。
それだけで上々だ、と紅茶に口を付ける。濃い茶の香りと砂糖の仄かな甘味が程よく混ざった美味い茶だった。
二口目を飲もうとして、ふとアドニスの視線が不自然に泳いでいることに気づいた。

「…どうした?」
「あ…ぅ……あの…お、お茶…が…」
「うん」
「…お茶…あの…わ、私は…お、同じの…飲まな…?」

そう言って、アドニスが視線で縋った先のエルダも驚いていたが、自分とて驚いた。

(…お前はミルクしか飲まないだろう)

しかし続いた会話で、自分達と一緒に、同じ物を飲むと思っていたらしいアドニスの不意打ちとも言える言葉に、そわりと心は浮き立った。

同じ物を飲みたい───感覚を共有したいという気持ちは、ある程度の好意や親しみがなければ生まれない感情だ。
アドニス本人にその自覚がどの程度あるのかは分からないが、少なくとも、自分が今まで口にしたことがない物でも、一緒に食べたい、飲みたいと思える程度には、近しい関係になれたのかもしれない。

落ち着かない感情に浸っていると、アドニスの前にも、自分達と揃いのカップに入った紅茶が出された。
アドニスが飲みやすいように、温度を調整するエルダのあまりの過保護ぶりに閉口しつつ、カップに口を付けるアドニスの様子を眺めた。

───瞬間、ビキリと体を強張らせ、眉を下げて小さく唸ったアドニスに、思わず腰が浮きそうになったが、即座に反応したエルダにグッと堪えた。

なんとか飲み込んだそれを、遠慮がちに「ちょっと苦い」と評したアドニスだが、実際は相当苦いと感じているのだろう。
互いに謝り続けるアドニスとエルダに割って入れば、それでも紅茶を飲むことは諦めないアドニスのために、エルダがミルクを温め始めた。

(なるほど、ミルクティーにするのか)

小さな火にかけられ、クツクツと煮え始めたミルクの音を耳にしながら、エルダの手元を見つめるアドニスを眺めた。

「…味覚も変わってるな」
「そうですね。以前のアドニスの好みにはあまり詳しくありませんが、苦味のある酒も好んで飲んでいたはずです。紅茶を苦いとは思わないでしょう」

ポソポソと、声を落としてイヴァニエと言葉を交わす。今更、味覚も変わっていようが驚きはしない。真っ新な状態なのだから、それが当然だと考えるべきなのだ。
イヴァニエと緩い会話をしながら、ふと前を向けば、椅子の背凭れに寄り掛かり、ゆっくりと瞬きを繰り返すアドニスが視界に映った。
蜂蜜色の瞳は眠たそうにトロリと蕩け、ぼんやりと一点を見つめる表情は、とても柔らかだ。
体の力を抜き、今にも寝てしまいそうなほど気を抜いた姿は、ひどく無防備だった。

(俺達がいても寝れるのか…)

それは、ある種の信頼と安心だ。
エルダが側にいる、というのが一番の安心に繋がっているのだろうが、自分やイヴァニエを前にしても、必要以上に緊張しなくなったという証でもある。
少し前まででは考えられない変化に、瞳を細める───と次の瞬間、エルダに向けてふにゃりと笑ったアドニスに、心臓がドキリと跳ねた。

(……ああ、まずい)

相手は『アドニス』だと、分かっている。理解している。
だが以前のことを何も知らず、憶えていない。あまりにも純粋で真っ直ぐなアドニスに近づけば近づくほど、知れば知るほど、『アドニス』に対して抱いていた負の感情は溶かされ、上書きされ───惹かれていくのだ。

「………」

認めたくないという気持ちと、認めるのが怖いという気持ちに、浅く溜め息を零した。
否定したいのに、瞳はアドニスの動きを追ってしまう。
その唇が、甘いミルクティーにゆっくりと口を付け、「美味しい」と驚いたように呟く。
ふわふわと、纏う空気すら甘そうなその雰囲気からは、本当に美味いと思って飲んでいる感情が伝わってきた。
ほとんどミルクと変わらないそれは、それでもアドニスにとっては“新しく食べれるようになった物”だ。それを伝えれば、本人も気づいていなかったのか、目を丸くしていた。
本当に、ただ純粋に、自分達と同じ物を口にしたかっただけなのだろう。

(…これから少しずつ、増やしていけばいい)

もしかしたら、自分やイヴァニエが目の前で何か食べて見せれば、同じように食べてくれるようになるのでは…そんな期待のような願望を、初めて抱いた。





そんな期待を叱るように、諌めるように、赤ん坊の天使に咎められ、目が覚めた。





「ぶぅぅぅっ!」

それは、あまりにも突然のことだった。
アドニスへの新たな贈り物を用意したその日、いつもとは違う形の蜂蜜の花を、楽しげに見つめるアドニスの様子に安堵していた。
この頃にはエルダが側にいない状態でも、アドニスと会話ができるようになっていた。
物理的に近くなった距離で見るアドニスは、自分の知っているアドニスと同じなのに、まるで別人のようで、その瞳の色すら違って見えた。

いつもと変わらず、ゆるりとした空気が流れる部屋の中、三人で紅茶を飲んでいた───その時だ。

一人の小さな天使が現れた。

小窓に張り付いたその天使は、小さな手で窓を叩いていた。「中に入れて」と、そう言っているような必死さに、胸がざわついた。


ああ、もしや、もしかしたら…どうしてか、妙に確信めいた焦りは、そのまま現実となった。


室内に入り込むと、一直線にアドニスの元へと飛んできたプティは、自分を指差し、柔らかな頬を丸々と膨らませ、こちらを睨んでいた。
赤ん坊の睨む顔など可愛いものだ…そんな風に感じた遠い日の記憶とは異なり、今はその愛らしい顔が、責めるような無垢な瞳が、酷く恐ろしかった。

ヴェラの花畑での出来事を、プティもずっと覚えていたのだろう。
その表情から滲む『嫌い』という感情は眩しいほどに真っ直ぐで、耐えきれずに目を逸らした。
何が起きているのか理解できていないだろうアドニスが、それでもプティを抱き抱え、その場を離れていくことにホッとしながら、薄れていた罪悪感に気分は沈んだ。

「…悪い、俺は席を外そう。外で待ってる」
「構いませんが…大丈夫ですか? 顔色が…」

フラリと立ち上がると、そのまま部屋の外へと向かった。
一瞬だけアドニスと目が合ったが、今はその瞳を、正面から見る勇気が無かった。



部屋を出ると、扉から少し離れたところまで移動し、重い体を預けるように壁に凭れ掛かった。

「はぁ……」

吐き出す溜め息すら重い。
怒った顔でこちらを睨む赤ん坊の姿が、はっきりと目に焼き付いていた。

(…忘れていた訳じゃ、なかったのにな…)

纏う空気も柔らかく、怯えることも、恐れることもなくなったアドニスに、あの日の出来事も許された気になっていた自分が心底腹立たしい。
そんな憤りと一緒に、深く悲しんでいる自分もいて、吐く息全てが溜め息になってしまいそうだった。

(…これ以上、謝罪を先延ばしにするのはやめよう)

プティに怒られたから謝ったと思われても仕方ないタイミングだが、そんなことを気にしている場合ではない。
実際、謝ろうにもなかなか切り出せず、ましてや二人になれるような機会もなく、今日まで来てしまったのだ。

「ルカーシュカ様」

ふと、視界の端で部屋の扉が静かに開き、中からエルダが出てきた。
その姿に、アドニスはどうした、と言おうとして、エルダが自分の意思でアドニスの側を離れることはまず無いだろうとすぐに気づく。
恐らく、エルダが自分の元に来たのは、アドニスの意思だ。

「…すまんな、驚かせた」
「いいえ、どうかお気になさらず。……恐れながら、プティのあの態度に、なにかお心当たりが…?」
「…俺が、随分前にヴェラの花畑で、アドニスと会った話は聞かせたな?」
「はい、おおよその流れは伺っております」
「掻い摘んでの説明だったが…あの時、その場にプティもいてな…」
「プティが?」
「それで…あぁ~……その…俺が、アドニスを傷つけることを言ってしまって、そのせいでプティを怒らせたんだ」
「…それが、あの態度だと?」
「それ以外にないと思うぞ」

目を丸くしたエルダに、なんと言っていいのか分からず、気まずさから視線を逸らした。
喜怒哀楽の分かりやすい赤ん坊だからこそ、その感情はとてもシンプルだ。
全身で「嫌い!」と叫んでいた姿は、自分に非があるとはいえ、胸が痛くなった。

「はっきり『嫌い』と言われたからな」
「…プティが言ったのですか?」
「ああ、すまん、違う。そういう態度というか、行動を───」

舌を出して、明らかな拒絶を示したプティの様子をどう伝えるべきか、言い淀んだ時だった。


「ああぁぁぁぁ…っ」


「「!」」

扉越しに、うっすらと赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、エルダと二人、目を見合わせて固まった。

「…プティ、か?」
「恐らく…申し訳ございません。少々お待ちを」
「ああ」

アドニスとプティ、イヴァニエしかいない室内からの泣き声に、狼狽えながらもエルダがその場を離れる。
その間も聞こえてくる泣き声は非常に痛ましく、そっと瞳を伏せた。
すぐに泣き止んだのか、開かれた扉からはもう泣き声は聞こえず、エルダが小声で何事か言葉を交わす声だけが微かに聞こえてきた。

少しして扉を閉める音が聞こえ、顔を上げれば、何故かそこにはエルダと一緒にイヴァニエの姿もあり、パチリと目を瞬いた。

「どうした? 何かあったのか?」
「…プティに泣かれました」
「は?」

予想外のことに、思わず素で聞き返してしまった。
まさかプティが泣き出した原因がイヴァニエとは、露ほども思っていなかったのだ。

「…なにしたんだ?」
「なにもしてませんよ、失礼ですね。…アドニスに近づいただけで泣かれました」

心底不可解だと言いたげに眉を顰めるイヴァニエに、首を捻る。

「近づいただけで?」
「はい」
「…俺みたいに、何かあった訳じゃないよな?」
「まったく、なんの心当たりもないですね」

肩を竦めるイヴァニエを見るに、本当にまったく心当たりがないのだろう。にも関わらず、アドニスに近寄っただけで泣き出したというプティ。

「俺だけならまだ良かったんだが…参ったな」
「あなただけなら良いということはないでしょう?」

苦笑を浮かべるイヴァニエにバツが悪くなり、顔を背けた。

「それにしても、何が原因でしょう? 私は普段、あまりプティと関わることもないですし、アドニスと共にいる場面を間近で見たのも、今日が初めてなのですが…」
「俺のことはちゃんと認識している様だから、見間違えている訳でもないだろうしな…」

イヴァニエと唸っていると、それまで黙っていたエルダがおもむろに口を開いた。

「あの、もしかしたら…という、可能性の話ですが…」
「うん、なんだ?」
「イヴァニエ様に、ということではなく…その、もっと広い括りでお考え頂けましたら…もしかしたら、ということも…」
「? どういうことです?」
「恐れながら、アドニス様は大天使である皆様に対して、ずっと恐怖心を抱いていらっしゃいました。…私自身、そうと意識してないところで、怯えさせてしまったこともあります」
「「!」」

その言葉に、ハッとする。

「…他の誰かと、何かあったか?」
「分かりません。ただ、イヴァニエ様にお心当たりがないとなると…」
「なるほど。他の誰かとプティの間で何かあって、誰某だれそれと関係なく、に対して警戒している可能性はありますね」

(…だとしたら、それは誰だ?)

憶測でしかない。だが妙にしっくりくる仮説に、思考を巡らせた。
皆、誰も彼もが罰を受けたアドニスを避け、気にも留めていなかった。害となる存在がいなくなったことに安堵し、心底喜んでいた。
誰かがアドニスと接触したという話は聞いていないし、あえて関わろうとする者もいなかったはずだが…可能性は零ではない。

他人のことをどうこう言える立場ではないが、それでも自分のように、プティを怒らせた誰かがいるかもしれない───裏を返せば、誰かが同じように、アドニスを傷つけ、悲しみの底に突き落としたのかもしれないのだ。

「………」

アドニスを目の前にした時、どのような態度になるか、その感情も、表情も、安易に想像できた。
アドニスの現状を知らなければ、今の姿を知らなければ、恐らくどのような言葉も、態度も、アドニスを傷つけることになるだなんて欠片も思うことなく、抱いた憎しみや嫌悪をそのままアドニスにぶつけるはずだ。

仕方のない、それが当たり前の反応で、どうしようもないことだと分かっていても、切なさに胸が締め付けられた。


「ルカーシュカ? 大丈夫ですか?」
「…ああ」

押し黙ってしまった自分を心配するように、眉を下げたイヴァニエに、ふるりと首を振った。

「なんにせよ、すべて仮定の話です。そうと決まった訳ではありません」
「…そうだな」
「それよりも、ルカーシュカに対するプティの反応の方がよほど問題ですね」
「いや、それは……いい。問題ない」
「問題ないことないでしょう。今のままでは、いけないでしょう?」
「………」

確かに、今後もアドニスと向き合っていくのであれば問題だ。エルダから聞く限り、プティはほぼずっとアドニスと共にいるのだから。
今はまだ、自分達とアドニスが話している場にはいないプティだが、それもいつまでかなんて分からない。

(…ここらで、ちょうどいいのかもしれないな)

だがそれも、アドニスに近づかなければ、きっと問題ないはずだ。
約二ヶ月で、アドニスと言葉を交わせるようになった。アドニスが自分に対して、極度に怯えることもなくなった。
少なからず、気を許してくれるようにもなった…もう、充分ではないだろうか?

(エルダの望みには、足りないかもしれないが…)

それでも今のアドニスを突き放すつもりもないし、向けられる害意から守ってやれるだけの壁にも盾にもなろう。
エルダに願われてではなく、自分の意思で、そう在りたいと思えるくらいにはアドニスに対する感情は変化していた───変化し過ぎてしまった。

(…これ以上、側にいるのはまずい)

惹かれていると気づいてしまった後、感情がどのように変化していくか…なんて容易く想像しやすいことだろう。
「それ以上は踏み込むな」と、いつ頃からか理性の近くで警報が鳴っていた。それを思えば、プティに睨まれ、遠ざけられてしまったことも、ちょうど良かったのかもしれない。

(エルダとイヴァニエがいれば、ひとまずは大丈夫だろう)

自分がアドニスの元を離れても、ただそれだけだ。それ以外は変わらない。
アドニスにとっても、悪いことではないはずだ。
アドニスの自分に対する態度に、怯えが見えないとしても、無理をさせていないという確証もない。
もしかしたら、エルダを心配させまいと、無理をしている可能性だってあるのだ。


アドニスの為にも離れよう───そう言い聞かせながら、臆病者の自分の為に、逃げるのだ。


(その前に、謝らないとな…)

どうにかして、アドニスと一対一で話せる機会を作れないものか…そんな考えに思考を奪われながら、エルダに自身とアドニスの間に起こった出来事を簡潔に伝えると、情報を共有した。
そうしていくつか言葉を交わした後、部屋の中へと戻って行くエルダを見送った。
…静かに閉まった大きな扉が、今は酷く遠く感じた。

見えない扉の向こう側、泣いたプティをあやしているのであろうアドニスの姿を自然と思い浮かべ、淡く唇を噛んだ。



愛しさで溢れているであろうその光景を、自分は一度壊してしまった。

変えられない過去から目を背けることも出来ないまま、触れたら壊れてしまいそうなそれから逃げるように、芽吹く前の感情は心の奥底に隠し、蓋をした。










--------------------
東雲です。
ようやくBLっぽくなってきた本作ですが、一点お伝えしておくべきなのか常々悩んでいたことがあり、私なりに考えまして、一応お伝えしておこうかな…と思い、近況ボードに書かせて頂きました。
CPに関することで、恐らくたぶんそこまで重大な内容ではないと思うのですが、人によってはネタバレと感じてしまう可能性もございます。
ご一考頂きまして「大丈夫!」ということであれば、お目通し頂けましたら幸いです( ´ ▽ ` )
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感想 502

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階段から落ちた衝撃であっけなく死んでしまった主人公はとある乙女ゲームの悪役令息に転生したが...主人公は乙女ゲームの家族から甘やかされて育ったというのを無視して存在を抹消されていた。 王道じゃないですけど王道です(何言ってんだ?)どちらかと言うとファンタジー寄り 更新頻度=適当

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

弟が生まれて両親に売られたけど、売られた先で溺愛されました

にがり
BL
貴族の家に生まれたが、弟が生まれたことによって両親に売られた少年が、自分を溺愛している人と出会う話です

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