天使様の愛し子

東雲

文字の大きさ
上 下
58 / 140
フォルセの果実

49

しおりを挟む
(わら…て…)

ほんの少しの変化だったが、目を細めたその表情は確かに笑顔だった。
初めて見たルカーシュカの笑った顔に、ただただ驚き、口を開けたまま固まった。
硬い表情や眉を顰めた表情しか見たことがなかったせいか、柔らかに瞳や口元を緩めたその表情との違いの大きさに、パチリと目を瞬く。
一見冷たそうに見える白銀の髪や、黒水晶の瞳を縁取る同色の長い睫毛も、笑うだけで驚くほど柔らかな色に見えた。

「どうした?」
「は…、…ぁ、いえ、いや、あの…」

ルカーシュカから声を掛けられ、ようやく意識を戻す。あまりにもまじまじと見つめてしまったことを反省し、パッと視線を逸らした。

「あの……えっと、じ、自分も…あの、これから…よ、よろしく、お願い…します…!」
「ああ」

短い返事一つにも、今までにない近しい雰囲気が混じっているような気がして、ソワソワと落ち着かない気持ちになる。

(な、仲良くって…ここからどうすればいいんだろう…)

仲良しの定義も分からなければ、仲良くなるための方法も分からず、視線がキョドキョドと彷徨った。

「…また、何か心配事か?」
「ふあっ!? あ…ぅ…えと…」

何も言っていないのに、考えていたことを見抜かれたことに、ビクリと体が跳ねた。

「ぁ…あの…その…」
「うん」
「な、仲良く…て…ど、どうやって…あの…どうしたら、いいのかな…と、思って…」
「ああ……ああ、なるほど…」

ふむ、と考え込むように顎に手を添えたルカーシュカの横顔を見つめながら待つこと数秒、黒い瞳がチラリとこちらを向いた。

「…まぁ、仲良くなろう、とあえて意識する必要はないと思うぞ」
「え…?」
「そうだな…分かりやすく言えば、お前はエルダと仲が良いだろう?」
「えっ…と…は、はい…」

一瞬、自分の判断で“仲が良い”と答えても良いものか、返事に詰まってしまったが、エルダとは主従関係という枠組からは抜け出せずとも、その中で良い関係を築けているはず…と思えた。
ほとんどは自分がエルダの優しさに甘え、与えてもらっているだけというのが現実だが、初めて会った頃に比べれば、仲良くなれたと言える気がした。

「じゃあ今まで、エルダと仲良くなろう、仲良くしようと意識して話していたことがあったか?」
「……あ…」
「たぶん、お互い少しずつ、自然と歩み寄っていったはずだ。仲良くしようとわざわざ意識した訳じゃなく、一緒に過ごす時間や、会話を重ねることで、自然と共に在りたいと思えるような、今のような関係になったんじゃないか?」
「……ん」

ルカーシュカの言葉はするりと頭の中に入ってきて、コクンと小さく頷いた。
思い返せば、最初はただ部屋の中にいるだけの存在だったエルダだが、言葉を交わすようになり、彼の優しさに救われ、たくさん触れ合うようになって、今では互いに笑って話しができるようになった。
その中に、嬉しいという感情や感謝の気持ちは伝えきれないほどあったが、『仲良くしよう』と意識して接することはなかった気がする。

「俺の場合は…まぁ、言葉にした方がきちんと伝わるだろうと思ってわざわざ仲良くなりたいと言ったが、あえて意識しなくていい。今まで通り…いや、今までより少しだけ、会話を増やそう。あとは今みたいに、隣に座ったり、手に触れたり…お互い少しずつ、相手に慣れることから始めよう。…エルダとも、最初はそうだっただろ?」
「あ…、は、はい…!」
「それと一緒だ。少しずつ慣れていって、自然と共に過ごす時間を当たり前だと…エルダと話す時と同じように、気負うことなく話せるようになれれば良いと思ってる。そんな感じだが…分かるか?」
「は、い…っ」
「…うん、良かった」

実際に体験したことをなぞるような説明は想像しやすく、コクリともう一度頷けば、ルカーシュカが淡く笑んでくれた。
その瞬間、繋いでいた手から、ふっと力が抜けたような気がして、その時ようやく、ルカーシュカも自分と同じように緊張していたのだと気づいた。

(…ルカーシュカ様も、緊張するんだ…)

自分相手に…いや、自分相手だからこそだろうか。言葉を選びながらの会話は大変だろうし、気を遣うのだろう。
端から端まで気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思う反面、少しでもその緊張が解け、気を配る必要がなくなってくれたなら…少しでも、気兼ねなく言葉を交わせる相手として、認識してもらえるようになったなら…それは、とても喜ばしいことだと思えた。

(お話し…たくさんできるように、頑張ろう…)

ルカーシュカと話す機会は三日に一度だけ、と限られている。
朝起きてから夜眠るまで、文字通り片時も離れることのないエルダとは違い、共に過ごす時間は圧倒的に少ない。
限られた時間の中で、なるべく多く会話ができるように頑張ろう、と静かに決意した。勿論、ルカーシュカの負担にならない程度に、だ。

「それじゃあ、次会う時はお前の隣に座るようにしよう。その辺の準備は…ああ、今話した内容を、エルダにそのまま伝えてくれ。アイツなら、それで場を整えてくれるはずだ」
「…話すだけで、いい…ですか?」
「エルダならどうするべきか、良いように判断してくれるだろう。後々、俺の方にも確認に来るだろうし、心配があればエルダに直接聞けばいい」
「…はい」

彼の言う通り、不安や疑問はエルダに直接聞けばいいし、ルカーシュカも知っていることなのだから、お互いの話した内容に食い違いがないか、確認を取ることは安易なのだろう。
エルダに頼りっぱなしになってしまうのが申し訳ないが…自分にできることがあれば、やらせてもらおうと、一人小さく頷いた。

「…随分遅くまで付き合わせてしまったな。もうそろそろ、お前は寝た方がいい」

言い終わらない内に、ゆるりと椅子から立ち上がったルカーシュカにつられ、慌てて一緒に立ち上がる。

「いえ…っ、あの…お、遅くまで…いっぱい、お話し、して…下さって…ありがとう、ございました」
「…俺も、話せて良かった。…ありがとう」
「───」

『ありがとう』

まさかそんな言葉が返ってくるとは思っておらず、驚きのあまり固まってしまう。今日の…いや、今夜のルカーシュカは一体どうしてしまったのか?
今までの彼とはあまりに違う様子に戸惑うばかりだが、もしかしたら、今まで自分が見てきた彼こそが別物で、本来の彼はこういう気質なのかもしれない…そんな考えに思い至り、きゅうっと胸が苦しくなった。
悲しいのではない。ただ純粋に、自分の知らなかった彼の側面の、その一片に触れられたことが嬉しかった。

「…そんなに驚くことを言ったか?」
「えっ…あ…、いえ、あの…っ」
「…冗談だ。驚かせるようなことを言った自覚はある」
「あ…ぅ…え、と…」
「いいさ。その内、お互い慣れる」
「………」

本当に、いつか本当に、このやりとりに慣れる日が来るのだろうか?

信じられないような気持ちが半分。本当にそうなったなら、彼とはどんな関係になるのだろうかと、淡い想像を膨らませてしまうのが半分。

言葉を交わすことすら困難で、ただ向き合うことも出来なくて、側にいるだけで怖くて堪らなかった記憶はまだ新しいはずなのに、どこかとても遠くに感じて、こうして互いの手が触れ合っている今が堪らなく不思議で───言葉にできないほど嬉しかった。
夢を見ているような、ふわふわとした感覚のまま、ぼんやりと繋がったままの互いの手を見つめた。

「ほら、もう戻るぞ」
「ぁ…」

くんっと軽く引かれた手に誘われるように足が動いた。
手を引かれて歩くのはエルダで慣れているはずなのに、慣れない気持ちになるのは、目の前を歩く背中の大きさも、髪の色も、歩幅も、手を握る強さも、なにもかもが違うせいだろうか。

「……あ」

窓際に置かれた長椅子から、部屋の中に戻るまでの距離はほんの数歩だ。
その僅か数歩を歩いたところで、ふいに片手に握り締めたままだった小瓶の存在を思い出し、はたと足を止めた。

「どうした?」
「あ…あの、これ…」

自分の動きが止まったことで、ルカーシュカの歩みも止まる。振り返った彼に、手の平の上でコロリと転がった小瓶を差し出した。

「それがどうした?」
「これ…あの…か、還して…あげないと…」
「…かえす?」
「あの…えっと…あれ…? あの…じ、地面に、なくても…お花…咲きます…か?」
「…ああ、そういう…それは知ってるんだな」
「エルダが、教えて、くれた…から…でも、えっと…このまま…でも、お花に…?」
「いや、大地に還さない限り、永遠に砂白シャハクのままだが…いいのか?」
「え…?」
「お前にとって、それは大事な物だったはずだ。手放していいのか?」

そう言われ、少しだけ考える。
確かに、赤ん坊達から貰った大切な、大事な花だった。形が変わってもその気持ちに変わりはない。
だがいつか朽ちて果てて、無くなってしまうものだと思っていた花が、大地に還ることで、新たな花となってまた芽吹くというのなら───亡き骸となった結晶をいつまでも小瓶の中に閉じ込めておくよりも、ずっと大事に、いつまでも大切に想えるような気がしたのだ。

「…だ、大事なもの、だから…また、花になって…咲いて、くれたら…ずっと、嬉しい…です」
「……そうか」

短い返事だったが、その声は少しだけ笑っているように聞こえた。

「なら、お前の手で還してやれ」
「え…」

大地に還す、ということはつまり、真白い地面にこれを撒くということだろう。それはなんとなく想像できるが、問題は、その地面が自分にはとても遠い存在ということだ。

(…上から零すのは…ちょっと…)

バルコニーから下に向けて落とすことは可能だろうが、それをするのはどうにも気が引けた。

「…外に出るのは怖いか?」
「え…と…」
「他の者に見つかるのが怖いか?」
「………」
「この時間だ。周りには誰もいないぞ」
「で、でも…」
「…外に出るのが嫌だと言うなら、無理にとは言わない」
「…い、嫌じゃ…ヤじゃ、ない…です、けど…」
「うん」
「…ぉ、おこ、られる……いけない、こと、だから…」

自然と繋いでいた手には力が籠り、どんな顔をすればいいのか分からなくて俯いた。
エルダや赤ん坊達と過ごす愛しい日々はとても穏やかだが、それがこの部屋の中だけの、限定された安寧だということは理解していた。
限られた空間の中でだけ、この中にいる時だけ許された喜びなのだと、戒めるように外への関心は断ち切った。
エルダと小さな天使達がいれば、それだけで充分だと、自分には過ぎた幸せだと目を背けていたのだが、『嫌か?』と問われて、言葉を濁してしまったことで自身の本心が透けて見えてしまった。

外に出てはいけないと分かっている───それでも、一度触れてしまったものへの憧れのような渇望を、完全に捨てることは出来なかった。

「……分かった」

『いけないことだから』
それ以上のことが言えなくて黙っていると、静かな返事が返ってきた。

「嫌ではないんだな?」
「…え?」
「目を閉じろ」
「…?」

つい先程、聞いたばかりのような言葉におずおずと顔を上げれば、こちらを見つめる夜空色の瞳と目が合った。

「いいから、目を閉じてろ。開けたままでもいいが、どうなっても知らんぞ」
「えっ…あ…ぅ…っ」

どうして? なぜ? と聞く暇がないことを悟り、ほとんど反射的に目を瞑った。

「…っ!」

視界が暗くなってすぐ、小瓶を握り締めていた手を包むようにルカーシュカの手が重なった感触に、ピクリと体が揺れた。
両の手とも繋いでいる───そう認識するより早く、バサリと大きく羽ばたく翼の音に目を開きそうになり、慌てて閉じた瞼にギュッと力を込めた。
瞬間、足の裏が石造りのバルコニーの床から離れた感覚がして、息を呑む。

(浮い、て…!?)

目を閉じてるからこそ、周りが見えないからこその恐怖に体を固くするが、不思議と浮遊感はなく、だが地に足が着いていないという不安から頭は混乱した。

(こ、これ…どうなって…?)

口を閉じていろとは言われていないのに、声を出す余裕もなく、縋るようにルカーシュカの両手を握り締めて耐えること数秒…


───ふぁさ…


「!」

足の裏を擽るような何かに触れたと思った瞬間、ゆっくりと両の足が地に着き、柔らかな草と大地を踏み締めていた。

「もういいぞ」

その声に恐る恐る瞳を開けば、目の前には姿の変わらぬルカーシュカがいて、いつかの日と同じように、部屋の中から眺めているだけだった白い地面の上に立っていた。

「………」

茫然としながら草を踏む自身の足に視線を落とし、同じ目線の高さに広がった大地をゆっくりと見回し、それからずっと高い所にあるバルコニーを見上げた。

(あ…れ? 飛んでる感じは全然なかったのに……ちがう、それよりも、外に出ちゃ…)

赤ん坊に連れられ、外に出ていた時は、いつまでも浮遊感や降下する時の感覚に慣れなかったが、今は浮いた感覚すら皆無で、いつの間に下まで降りたのか、全く分からなかった。
そちらの驚きと、外に出てしまったことへの罪の意識で感情が二分され、なかなか言葉が出てこない。

「…あ、あの…」
「お前は、『外に出たい』とは一言も言っていない」
「……え?」

驚きと混乱と動揺に揺れる頭は鈍く、理解できないルカーシュカの言葉に首を傾げた。

「外に出ることを拒否したお前を、んだ。万が一、誰かに見られて、それで咎められるのだとしたら、それはお前じゃなくて俺だ。…だから、心配しなくていい」

その言葉に、思わず目を見開く。
「無理やり」と彼は言うが、それがそのまま言葉通りの意味ではないことくらい分かっていた。
外に出たいと言外に滲ませた自分への気遣いと優しさ、あまりにも懐かしい、草を踏み締める柔らかな感触に、堪らず泣きそうになる。

「ぁ…ぁの…でも…っ」

だがだからと言って、ルカーシュカに罪を着せるような、責任を押し付けるようなことなど出来ないし、したくなかった。
咄嗟に「戻ろう」と言葉を返そうとして、繋いでいたルカーシュカの片手が外れ、ゆっくりと口元で人差し指を立てた。

「さっきも言っただろ? 周りには誰もいない。万が一の話だ。黙っていれば、誰にもバレない。…内緒だぞ」
「…っ」

少しだけおどけるように、瞳を細めて笑ったルカーシュカに、今後こそ何も言えなくなって口を噤んだ。

(ああ……本当に…)

わざと軽い口調で言ったのも、内緒だという言葉も、全部、彼の優しさだ。
迷惑ばかり掛けてしまうのが申し訳なくて、甘えてばかりではいけないと思うのに、今はその優しさが嬉しくて、喉の奥が痛くなるほど苦しくて、閉じた唇を薄く喰んだ。

「あ…の…っ、あ…あり、がとう…ございます…っ」
「…お前はよく泣くな」
「う…っ」
「ああ、別に責めてる訳じゃない。…エルダがなんでもかんでも持ち歩いてるのは、コレが原因か…」
「…?」
「ほら、それを還すのだろう?」
「あ…は、はい…っ」

瞳の縁から零れそうになっていた雫を、慌てて手の甲で拭う。
ルカーシュカに促され、ようやく此処にいる目的を思い出し、手の平に収まったままの小瓶をもう一度ギュッと握り締めた。

どちらともなく繋いでいた手を解くと、その場にしゃがみ込み、瓶の中に詰まった白い結晶を少しだけ見つめてから、小瓶の栓を抜いた。
キュポンッという軽い音を立てて開いた瓶をそっと傾ければ、小さな口からサラサラと中身が零れ落ち、音もなく真白い大地に溶け込んでいった。
混じり合ったそれの境い目はすぐに分からなくなり、小瓶はあっという間に空になった。
中身の無くなったそれはどこか寂しそうで、それでも気持ちはとても晴れやかだった。

(…また、綺麗な花が咲きますように)

きっとまた、この美しい風景の一部になるのだろう花に思いを馳せ、サラリとした白い大地を指先でそっと撫でた。
ゆっくりと立ち上がり、ルカーシュカに向き直る。自分の手で赤子達からの贈り物を、あるべき場所に還せたことの礼を言うつもりだったのだが、黙ったまま、ジッとこちらを見つめるルカーシュカに首を傾げた。

「…? あの…」
「…、ああ…いや…うん、良かったな」
「はい…あの…ありがとう、ございました」
「大したことはしてない。…どうする? 少し歩くか?」
「…っ、い、いい、です…、あの…もう…大丈夫、です」
「…そうか。なら戻ろう」

スッと当たり前のように差し出されたルカーシュカの手に、添えるように自身の手を重ねた。
あまりにも自然に目の前に出された手も、何も言われずともその手を取っている自分も、妙に馴染んでいるのがとても不思議だった。

「何度も悪いが、もう一度目を…」
「あ、あの…っ、だ、大丈夫です…!」
「…なにがだ?」
「え…えと…あの…は、羽…見ても、大丈夫、です…から、目…開けてても、い、い…ですか…?」

そう、もうきっと、大丈夫なはずなのだ。
他の天使達のことは分からないが、少なくともエルダとルカーシュカ、イヴァニエの三人なら、その背に翼のある姿を見ても、もう恐ろしいと感じることはないのだろうという確信めいたものがあった。

「…無理は…」
「し、してない、です…!」

眉間に皺を寄せたルカーシュカの表情は、一見不機嫌そうに見えるが、こちらを気遣ってくれているからこその険しい顔なのだと、今なら分かる。

「だいじょうぶ、です…、あの…本当に…、ルカーシュカ様…と、イヴァニエ様と、エルダなら、もう…怖くない…です…っ」
「………」

沈黙が流れる。
ルカーシュカからの返事がないことに、ドキドキしながら佇むこと僅か、ふぅっと小さく息を吐き出す音が聞こえた。

「…無理をしてないというのなら、別に構わない」
「…!」
「だが無理だと思ったら、すぐにでも目を閉じろ。いいな?」
「は、はい…っ」

コクコクと何度も頷けば、ルカーシュカは困ったように眉を下げたが、それ以上は何も言わなかった。

「…いいか?」
「はい…!」

繋いだ手は離さぬまま、半歩だけ後ろに下がったルカーシュカが瞳を伏せ、そして───…


───ブワァッ


「ッ…!」

視界の端まで埋めるような、濃紺の夜空を覆い尽くすように広げられた真っ白な四枚の大きな翼。
想像していたよりもずっと大きく、ずっと立派で───ずっと美しい純白の翼に、ゾクリと全身が粟立った。

(……すごい…)

圧倒される迫力に気圧され、ドクリと心臓が大きく脈打ったが、少しの緊張を含んだ高揚感は、生まれて初めての感覚だった。
月の光を目一杯集め、反射させたような真白い翼は、薄暗い夜の世界にあって尚、眩いほどに輝いていた。
大きく広げられた翼がゆっくりと閉じられ、ルカーシュカの背に収まるまで、口を開けたまま、別の生き物のように動くそれを目で追い続けた。

「ふあ…」
「……大丈夫か?」
「あ……は、はいっ…、あの…す、すごい…あの、えっと…っ」
「ふ…、なんだ、その反応」

眉を下げながら表情を緩めるルカーシュカは、なんでもないことのように笑顔を返してくれて───今になってそれがとても嬉しく思えて、自然と笑いが零れた。

「ふふ…」
「───」

瞬間、瞳が零れ落ちてしまいそうなほど大きく目を見開いたルカーシュカと目が合った。

「…?」
「……笑った顔を…初めて見た」
「え…」

そう言われて思い返すが、彼ら一緒に過ごしている間、笑ったことはなかっただろうか?
確かに、緊張していることが多かったので、もしかしたらずっと強張った顔をしていたかもしれないが、そんなに驚かれることだろうか…と、そこまで考え、自分とてルカーシュカの笑った顔を今日初めて見て、とても驚いたことを思い出した。

「あの、じ、自分も…ルカーシュカ様の、笑った顔…今日…初めて、見ました…」
「…、…そう、か」
「ん…」

コクリと頷けば、ついと顔を逸らされてしまった。

「あ~……まぁ…それはいい。…は、怖くないか?」
「はい…すごく…綺麗、です」

怖くて怖くて堪らなかった大天使達の姿だが、相手がルカーシュカというだけで恐怖は欠片もなく、ただただ美しいと思えた。
純粋に綺麗だと思ったから、嘘偽りなく答えたつもりだったのだが、どうしてか、ルカーシュカは少しだけ泣きそうな表情に顔を歪めた。

「…? あの、ルカーシュ…」
「……お前も」


「───お前も、綺麗だよ」


「………へ?」

突然のルカーシュカの発言に、頭の中は疑問符だらけで、口からは間の抜けた声が漏れた。
静かに呟かれた声はひどく平坦で、そこに含まれている感情は読めず、『綺麗』と称されるようなものなど、何も持っていない自分には、言われた言葉の意味を理解することができなかった。

「…いい。分からなくていい」

何を思っての発言なのかが分からず、首を捻るが、ルカーシュカからの返答はそれだけだった。

「もう戻るぞ」
「は、はい…!」

降り立った時同様、急かされるように両手を取られ、慌てて返事をすれば、すぐに足元が浮いた。

「わ…っ」

ふわりと浮かんだ体は、赤子達に浮かせてもらった時とは違う安定感があり、徐々に高くなっていく視点でも気持ちは落ち着いていた。
視点が高くなるほど変わる景色は、窓の内側から眺めていたそれとは全く違う世界で、どこまでも続く広い大地を、視界に映る限り見渡した。


ほんの数秒のことが、とても短く、とても長く感じた浮遊時間を終え、そっとバルコニーの上に降り立つと、足の裏に感じる慣れた感触に、ホッと息を吐き出した。

「…ルカーシュカ様?」
「俺も、もう帰ろう。お前も、このまま部屋に戻って、もう寝てくれ。…遅くまで悪かったな」

翼を広げたまま手摺りの上に立つルカーシュカと体が離れ、繋いでいた手も自然と解けた。

「じゃあな。…また、三日後に」
「あ、は、はい…! また、三日後に…」

今はもう、三日後にまた会えるのだろうかという不安は微塵も無い。
手摺りを軽く蹴り、大きく翼を広げてバルコニーから飛び立ったルカーシュカに、ハッとして声を掛けた。

「あっ、あの…っ」
「うん?」
「お…おやすみ、なさい…」
「…、…ああ、おやすみ」

毎晩、眠る前にエルダと交わす言葉。
咄嗟に口をついて出た言葉に、ルカーシュカは淡く笑んで返事をしてくれた。
バサリと大きな羽音を響かせ、今度こそ飛び立ったルカーシュカの姿は、夜空に吸い込まれるように、あっという間に見えなくなってしまった。

「………」

まだ夢を見ているような現実味のない現実に、もう見えなくなった真白い翼が消えていった空をぼんやりと眺め続けた。

「……あっ」

ぼぅっと夜空を眺めていると、ふと背中を包む衣の温かさを思い出し、ハッとする。ルカーシュカのローブを借りたままだったことを忘れていた。
反射的にルカーシュカが飛んでいった方角に視線を向けるが、そこに彼の姿があるはずもなく、そっと溜め息を吐いた。

(…大丈夫、だよね。また、会えるもの…)

また会おうと、約束をしたのだ。三日後に返してもいいし、明日エルダに預けて、エルダから返してもらってもいいはずだ。 

初めて二人きりで話した緊張感も、不安も、今はもう少しも残っていなかった。
思い出すのは温かな手と、柔らかな声、夜空色の瞳を細めた優しい笑み───たった一晩で、今まで見たことのない、触れたことのないルカーシュカを、信じられないほどたくさん知れた。

(本当に…夢みたいだ)

夢みたいだと、そう思いながらも、背中を温めるローブの存在と、僅かに残っているルカーシュカの移り香が、今までの出来事は夢ではないのだと物語っていた。

(また、三日後…)

次会う時、どんな顔をすればいいのか、どう言葉を交わせばいいのか…今までにない心配事に、そわりと落ち着かない気持ちになるが、少しだけ彼と親しくなれた喜びに心は浮き立っていた。

(…エルダみたいに、お話しできるようになるのかな…)

抱いた気持ちに、もう不安はなかった。


(…できるように、なれたらいいな)


ただ自分の願うまま、想うままに願ってもいいのだという安心感に、自然と頬は緩んでいた。

不思議なほど不安も、心配もない───もう一度見上げた夜空は、とても晴れやかに澄んで見えた。
しおりを挟む
感想 503

あなたにおすすめの小説

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

若さまは敵の常勝将軍を妻にしたい

雲丹はち
BL
年下の宿敵に戦場で一目惚れされ、気づいたらお持ち帰りされてた将軍が、一週間の時間をかけて、たっぷり溺愛される話。

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

後輩が二人がかりで、俺をどんどん責めてくるー快楽地獄だー

天知 カナイ
BL
イケメン後輩二人があやしく先輩に迫って、おいしくいただいちゃう話です。

【完結】愛執 ~愛されたい子供を拾って溺愛したのは邪神でした~

綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
BL
「なんだ、お前。鎖で繋がれてるのかよ! ひでぇな」  洞窟の神殿に鎖で繋がれた子供は、愛情も温もりも知らずに育った。 子供が欲しかったのは、自分を抱き締めてくれる腕――誰も与えてくれない温もりをくれたのは、人間ではなくて邪神。人間に害をなすとされた破壊神は、純粋な子供に絆され、子供に名をつけて溺愛し始める。  人のフリを長く続けたが愛情を理解できなかった破壊神と、初めての愛情を貪欲に欲しがる物知らぬ子供。愛を知らぬ者同士が徐々に惹かれ合う、ひたすら甘くて切ない恋物語。 「僕ね、セティのこと大好きだよ」   【注意事項】BL、R15、性的描写あり(※印) 【重複投稿】アルファポリス、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ 【完結】2021/9/13 ※2020/11/01  エブリスタ BLカテゴリー6位 ※2021/09/09  エブリスタ、BLカテゴリー2位

処理中です...