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フォルセの果実
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静まり返った星空の下、トクントクンと脈打つ心臓の音に緊張感は増していく。
思わずルカーシュカを引き止めてしまったが、この後どう言葉を繋げればいいのか…俯いた視界の中、ルカーシュカのローブを掴む自分の手が映り、ヒュッと喉が鳴った。
「っ…!」
反射的に手を離すと、慌てて後退り、彼の服を掴んでしまった手を胸元でキツく握り締めた。
(ど、どうしよ…っ、さ、触っちゃった…!)
咄嗟のこととはいえ、ルカーシュカに、彼の身につけているものに触れてしまったことに、緊張とは別の感情で心臓がドクドクと激しく鼓動した。
嫌がられたかもしれない。
不快に思われたかもしれない。
───汚れると、顔を顰めるかもしれない。
今のルカーシュカなら、きっとそんな風に思ったりしない…そう思うのに、瞬く間に全身に広がった恐怖と、自分が彼に触れてしまったことへの罪悪感に体が震えた。
「ご、ごめんなさぃ…」
ルカーシュカの顔を見れない。
こうしている間にも、彼がこの場を去ってしまうかもしれないのに、それでも俯いたまま、顔を上げることが出来なかった。
ドクン、ドクンと心臓が脈打つたびに広がる恐怖とじわりと滲む嫌な汗に、呼吸が荒くなり始めた───その時だった。
「……別に、怒ったりしない」
「…ッ」
穏やかな夜に溶け込むような声に、ピクリと肩が跳ねた。
「服に触れられた程度で、どうこう思わない。…怖いなら、あまり俺に近づくな。わざわざ近づかなくても、会話くらいならできるし、無理に話す必要もな───」
「まっ…、ち、ちが…!」
とんでもない誤解をされてしまったことに血の気が引いた。
「こ、怖いだなんて…お、思ってない…です…! い、今、のは…ちが…くて…っ、…わ、私…が…あの…さ…触っちゃ…ダメ、かも…て…」
自分が彼を恐れ、距離を取ろうとしている…そう思わせてしまったことが怖くて、苦しくて、吐き出す音に泣き声が混じった。
「あの…っ、ち、ちがくて…っ」
「…おい」
「ご、ごめんなさい…、ごめんなさ───」
「アドニス!」
「っ…!」
空気を裂くような凛とした声が飛んできて、ビクリと体が跳ねた。
「…落ち着け。謝る必要はない」
「ふ…っ、ふ…」
響いた声の強さとは異なり、ルカーシュカの纏う空気は落ち着いていた。
いつの間にか、体の向きごと振り返っていたルカーシュカの黒い瞳と、視線が絡んだ。
「……無理に、怖くないと言わなくていい」
「…え?」
僅かに掠れた声が、夜風に紛れて耳に届いた。
言葉の意味を理解するより早く、ルカーシュカの言葉が続く。
「嫌なら嫌で、怖いなら怖いで構わない。無理して受け入れようとする必要も、話す必要もない。…あえて、俺と交流しようと思わなくてもいいんだ。イヴァニエもお前の事情を知っているし、エルダもいる。怖くないと思い込もうとしなくても、誰も…俺も、お前を責めはしないさ」
淡々と静かに紡がれる言葉に、ショックで言葉が出てこなかった。
(なんで…どうして…? 怖くないって…)
怖くないと言ったのに、その言葉を信じてもらえなかったことに、茫然と立ち尽くした。
強がりだと思われてしまったのだとしたら、それは自分の態度が悪かったせいだろう。だがそれを抜きにしても、ルカーシュカは自分を遠避け、遠去かろうとしている───ズシリと全身が重くなったような感覚に襲われるのと、視界が滲んだのは同時だった。
「…こ…怖く、ない…です…」
振り絞った声は小さく、これではダメだと、深く息を飲み込むと、もう一度口を開いた。
「さ…最初は…、こ、怖かった…です…けど、でもっ、それは…ル、ルカーシュカ様…だけじゃ、なくて……その、…こ、怖い…こと、言われて…ど、どうしてって…、か、悲しく、なったり…なった、けど……でも、それは、自分が…わ、悪いこと…した、からで…っ」
「…っ」
「じ、自分が、先に…ルカーシュカ様、を…き、傷つけて…悪いこと、したから…だから……ほ、本当は…ルカ…シュカ様…が……に、あ、謝って、頂く…必要も、ないんです…っ」
言いながら、ポタリと涙が零れた。
見苦しいものを見せてしまう───咄嗟に深く頭を下げると、手にしていた小瓶を両手で強く握り締めた。
「い、いつも…や…やさしく、して、くれて…あ、ありがとう…ござ…ます…っ、…ほ、本当に…怖く、ない、し…お、お話し…したい、て…っ、お…思ってます…けど…っ、ルカーシュカ…様、に…む…無理を、させ…て…、…ひ、酷い、ことを…して、しまって……ごめんなさぃ…!」
ボタボタと零れる涙を止めることも出来ず、だが拭うことも出来ない。
顔を上げてルカーシュカの反応を見る勇気もなく、頭を下げたまま、その場で立ち尽くした。
「……やめてくれ」
「…ッ!」
低く響いた声に、喉の奥が引き攣った。
「知らないことを、謝らないでくれ」
ルカーシュカの言葉に血の気が引き、指の先まで凍えていくような感覚に、ブルリと背筋が震えた。
自分は知らないこと、憶えていないことなのに、言葉だけの、中身の無い空っぽな謝罪をしてしまった。そのせいで、ルカーシュカを怒らせてしまった。
(ま、また…)
───余計なことをしてしまった。
久しく感じていなかった自己嫌悪と、平穏な日々に埋もれ、忘れてしまっていた自分に向けられていた負の感情を思い出し、グラリと視界が揺れた。
(あ…あやまら、なきゃ…)
ああそれとも、それすら彼にとっては、聞きたくない言葉だったりするのだろうか?
自身ではもう、まともに判断することの出来なくなった鈍い頭で、それでも口からは無意識の内に謝罪の言葉が零れていた。
「ご…ごめ…なさ…、失礼な…こと、を…っ」
「…! 違うっ、今のは…」
「ごめん、なさい…、ほ、本当に…っ、ごめんなさ…」
「だから…っ、…~~~っ!」
───バサッ…
「っ!?」
下げていた頭の上に、突然降ってきた布。
上半身まですっぽりと覆うように降ってきたそれに驚き、反射的に顔を上げていた。
「っ…、え……え?」
ずり落ちそうになったそれを手で押さえながら、顔を上げたことで、再び視界に映ったルカーシュカ───と、その装いが変わっていることに気づき、目を丸くした。
(…これ……ルカーシュカ様の…ローブ…?)
先ほどまでルカーシュカが羽織っていたローブが見当たらない。代わりに、自分の上半身を包むオフホワイトの布地は、つい先ほど触れたそれの感触と同じだった。
「え……なん…なん、で…?」
「俺も、お前も、一旦落ち着こう。…落ち着いて、話しをしよう」
ひくり、としゃくりあげながら、回らない頭でルカーシュカを見つめた。
(怒って…ない…?)
少しの困惑が混じったような表情は、それでもどこか晴れやかで、怒りや不快の色は浮かんでいなかった。
先ほどの低く発せられた声はなんだったのだろう?
どうして自分はローブを渡されたのだろう?
…どうして、そんなに優しい目ができるのだろう?
いくつも浮かぶ疑問に、パチパチと目を瞬いていると、ルカーシュカがふっと浅く息を吐き出した。
「…立ったままというのも、疲れるだろう。座ってくれ」
「ぁ…ぅ…」
そう言われた視線の先にあったのは、窓際に置かれた長椅子。展開についていけず、狼狽えながらも流されるまま動こうとして、ピタリと足を止めた。
(い、いなくならない、よね…?)
背を向けた途端に、いなくなったりしないだろうか?
まさか…と思いつつ、不安からなかなか足を動かすことが出来ず、チラチラとルカーシュカを振り返った。
「どうした?」
「あ…ぇ…えと…」
「……行くぞ」
「っ!?」
伸びてきたルカーシュカの手が、自身の右の手首を掴み、そのまま手を引かれるようにして歩いた。
緩く掴まれた手首に唖然とするが、それよりなにより驚いたのは、手首から伝わるその手の温度だ。
(…つめたい…)
突然手首を掴まれたことへの驚きよりも、真っ白なその手の冷たさにギョッとした。予想外のルカーシュカの行動と、氷のような手の冷たさに、直前まで流れていた涙も止まっていた。
柔く握られた手首を引く力に強引さはなく、混乱している間に長椅子の前まで辿り着いていた。
「…ほら」
「あ……あり、がとう、ございます…」
促されるまま長椅子に腰を下ろせば、手首を握っていた手はスルリと解けていった。ふっと温かさを取り戻した手首には、少しの不安と、冷たい手の感触だけが残った。
「あ、あの…これ…お返し…」
「いい。そのまま羽織ってろ」
頭からずり落ち、肩に羽織った状態で留まっていたローブに手を添えるが、返ってきた返事は有無を言わさぬものだった。
「悪いが、エルダのようになんでも持ち歩いている訳じゃない。タオル代わりにでも使ってくれ」
「い、いえ…っ、そんな…だ、大丈夫、です…!」
まさかこれで涙を拭うなど、畏れ多くてできる訳もなく、慌てて首を横に振りながら、手の甲で頬に残った涙の跡を拭った。
まだ彼の温もりが残るローブに落ち着かない気持ちになりながら、肩から落ちてしまわない様、身を包むようにそっと引き寄せる。
ここからどうすればいいのか…分からないまま視線を彷徨わせ、ふと目の前に立ったままのルカーシュカが気になって、その姿を見上げた。
「…あの……す、座らない…ですか…?」
なんとなく、一緒に座るのだろうと思い端に寄っていたのだが、動く気配のない彼に恐る恐る声を掛けた。
「…いや………そうだな」
薄く開かれた唇は一度閉じられ、なにかを思案するように、少し間を空けてからルカーシュカがゆっくりと隣に腰を下ろした。
間隔を空けて座ったその位置は、ホッとすると同時に少しだけ寂しさを覚える、なんとも微妙な距離だった。
隣に座ったルカーシュカに視線を向けていいものか、気配だけで様子を窺っていると、ふいに声を掛けられた。
「……悪い。さっきのは、責めようとした訳じゃない。言葉の通りの意味だ。知らないことを謝る必要はないし、その責任をお前が負う必要はないと言いたかった。…お前が考えているような意味で言った訳ではないから、安心してくれ」
静かに紡がれる言葉に、鋭さはない。
低く凪いだ声に、不安と自己嫌悪に揺れていた心は落ち着きを取り戻すが、膝の上で組まれた指に視線を落としたまま、こちらを見ようとはしないルカーシュカに、別の不安が込み上げた。
(えと…怒ってた訳じゃ、ない…みたい、だけど…)
───本当に、それでいいのだろうか?
彼はそう言うが、結局は無理をさせているだけではないだろうか? 言われた通りの意味として、受け取っていいのだろうか?
どうしても素直に言葉を受け取ることができず、ぐるぐると巡る思考の中、必死に返す言葉を探した。
「ぁ…う……あの…、じ、自分も…あ、謝って…頂か、なくて…だ、だいじょうぶ…です…」
「…なに?」
「あ…っ、ちが…あの…その……じ、自分が、悪いこと、したのは…その……お、憶えて、なくても…本当の、ことで…だ、だから…あの…ルカ、シュカ…様が、怒ったのも…と、当然の、こと…だと…思う、し…」
「………」
「だから…あの、その…ゆ、許す…とか、許さないとか…な、ないん…です……い、今…こうやって、その…お話しが、できるように、なった、だけで…その…それだけで、もう……、でも…っ、あの…、…そ、それで…その…ルカーシュカ様の…お、お気持ちが…、あの…落ち着く…なら……えっと…」
「……分かった。もういい」
「ぅ…」
なんと言えばいいのか分からず、きちんと自分の気持ちを伝えられたとは到底思えなかったが、それ以上は言えない雰囲気に、キュッと下唇を噛んだ。
気まずさから下を向くと、隣で動く衣擦れの音が聞こえた。
「……すまん。今のも言い方が悪かったな。…お前がそれで良いと言うならそれで良い。だが、俺が謝りたいと思ったのも、正直な気持ちだ。……受け取る、受け取らないは、お前の好きにしてくれ」
「…は…ぃ…」
「…この話しはここまでにしよう。…お前は、何が話したかったんだ?」
「え…?」
「何か話したいことがあって、引き止めたんだろう?」
「あ…」
ただ飲み込むには難しい感情を咀嚼している間に、話題が切り替わる。急な問い掛けに、すぐには頭が回らなかった。
(そうだ…お話し……あの子達の…)
なんとか頭を動かし、思い出した『話したいこと』だが…正直、この短い時間の中でのやりとりで、ルカーシュカになんと言われるか、少しだけ予想ができてしまっていた。
「あ、あの…ちっちゃい子…たちの、こと、なんです、けど…」
「うん」
「その……ど、どうしたら…ルカーシュカ様と…あの…な、仲直り…で、できる…かな…て…思って、て…」
「……そうか。だが、お前が気にする必要はない。俺の責任だからな」
「ぅ…で、でも…」
やはりと言うべきか、予想通りの返事に、なんと返せばいいのか言葉に詰まる。
「心配しなくていい。俺がお前の側にいなければ、プティの態度は変わらない」
(…それ…て…)
自分の受け取り方のせいだろうか?
まるで『自分と会わなければいい』と言いたげな言葉が妙に引っかかった。それとも、あの子達がいない間なら、問題ないという意味だろうか?
だが正直なところ、それは難しいことのように思えた。
今でこそルカーシュカとイヴァニエと会う時だけ、赤ん坊達には席を外してもらっているが、それだってずっとそうとは限らない。
あの子達とも、共に過ごすようになったらどうするのか?
なにより、先に浮かんだ考えの方が、ルカーシュカの思考に合っているような気がしてならなかった。
「あ…の……で、でも…それじゃ…その…い、一緒に…いられ、ない…」
自然と口から零れたのは、そんな言葉だった。
そこに深い意味はなく、ただ今まで通り、ルカーシュカとイヴァニエと定期的に会って、話しをすることができたならいいなと、そんな気持ちからだった。
特別なことを言ったつもりはない。だが、そこでようやくこちらを見たルカーシュカは、僅かに眉間に皺を寄せていて、何か変なことを言ってしまったかと少しだけ怯んだ。
「あ…ぅ…あの…」
「……嫌じゃないのか?」
「え?」
「さっきも言ったが、わざわざ俺と一緒にいる必要はない。イヴァニエも、エルダもいるだろう」
「………」
どうしてか、自分の言葉も気持ちも、彼に真っ直ぐ届かない。
無理をしているつもりはない。ルカーシュカのことも、もう怖いとは思っていない。
叶うなら、今まで通りの関係で在りたいと願っているのに…
(どうして…)
そこまで考え、はたと気づく。
今まで通り会いたい、会って話しがしたい───そう思っているのは、自分だけではないか?
相手もそのように考えているとは限らない。
むしろ、そんなことは望んでいない可能性だってあるはずだ。…いや、その可能性の方が、きっと高い。
ようやく思い至ったその考えに、きゅうっと胸が苦しくなると同時に、ルカーシュカの気持ちをまったく考えていなかった自分の浅ましさを恥じた。
「あ…あの…ご、ごめんなさ……だ、だいじょうぶ、です…ごめんなさい…」
「……大丈夫って、なにがだ?」
「ぁ……え、と…あの…ル、ルカーシュカ様…にも…あの…その、ぇと…ご、無理を…言って、しまって…その…だから…だ、大丈夫…です、と…おも…て…」
そのまま聞き返されるとは思っておらず、しどろもどろになりながら返事をするが、言い終わらない内にルカーシュカの眉間の皺は深くなり、険しくなった表情に言葉尻は萎んだ。
「あの…ご、ごめんなさい…」
「……頼むから、謝らないでくれ」
「あ…ぅ…でも…」
「…別に、俺がお前に会いたくないと思って言った訳じゃない。何度も言うが、言葉通りの意味だ。お前が無理をする必要はないと、ただそれだけだ」
「む、無理なんて、してない、です…っ、ほ、本当に…本当に…もっと…お、お話し、したいと…思って…」
「……そうか」
「…ル、ルカーシュカ、様は…い、嫌…じゃ、ない…?」
「……嫌だと思っているなら、三日に一度会いに来るなんてことはしない」
素っ気ない返事だったが、その声音はとても優しかった。
いつだったか、やはり同じようなことを言われた気がするが、彼の言動には裏表が無いのだろう。
本当に嫌だと思っているなら、恐らく彼は自分と関ろうとすらしないのでは───漠然と浮かんだ考えだったが、遠く誤っているとも思えなかった。
ルカーシュカのことをよく知りもしない自分が、こんな風に感じるのも失礼なのかもしれない。
それでも彼は「嫌」とは言わず、今もこうして隣に座っていてくれる。…それが、彼の『答え』のような気がした。
ふわふわと心が浮き立つような、落ち着かない気持ちに、膝の上に置いた手が意味もなく服の端で遊んだ。
「…俺も、お前も…お互い、相手の言葉を悪い方向に捉えてしまうな」
ポツリと呟かれた言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。
事実、先ほども自分はルカーシュカの言葉の裏側を勝手に想像し、勝手に悪いように受け取ってしまっていた。
(……あ…)
自分の言葉が真っ直ぐルカーシュカに届かない───そんな風に考えていたが、自分自身、彼の言葉を素直に受け取れていなかったではないか。
そんなことに今更に気づき、激しく反省する。
「ぁ…あの、ご、ごめんなさ…」
「いい、分かっているから謝るな。“俺も”と言っただろう。…俺も同じだ。あいこでいいだろう」
「………」
ルカーシュカが「いい」と言うのだから、本当にそれでいいのだろう。それ以上は言ってはいけない気がして、そっと口を噤んだ。
そうして少しの沈黙が流れた。
気まずくはないが、何か言うべきなのか、それとも次の言葉を待つべきなのか、そわそわと落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせた時だった。
「……さっき」
「は、はい…!」
「…突然触れてしまったが、大丈夫だったか?」
「あ……は、はい…、大丈夫、です…」
言われて思い出すのは、手首を握る手の冷たさだ。
ルカーシュカは突然の接触を気にしてくれたのだろうが、驚きよりなにより、震えるような手の冷たさの方がよほど気になった。
(寒い…訳じゃないよね…)
恐らくもっと別の要因があるはずだが、生憎と自分にはそれが何かは分からなかった。
部屋から何か温められるような物でも持ってこようかとも思ったが、席を立ってしまったら最後、そのままルカーシュカも帰ってしまいそうで、二の足を踏んだ。
ふと、こちらを見つめる黒い瞳に気づき、そちらに意識を向けると、自分と彼の間、空いたそこに白い手が差し出された。
「…触れられるか?」
「……え?」
あまりに唐突な提案に、ポカンと口を開けたまま、ルカーシュカを見つめた。
(えっと…手を握る…てことかな…?)
こちらを見る彼はそれ以上何も言わず、自分も差し出された手に視線を落とした。
何故いきなりそんなことを言われたのかは分からない。ただ、そこには不思議と大きな躊躇いも、戸惑いもなかった。
(…触って、いいのかな?)
少し躊躇ってしまうのは、自分が彼に触れてもいいのか、嫌ではないのか───そんな考えが、瞬間的に脳内を巡ったからだ。
(…ちがう。嫌なら…嫌だと思うなら、ルカーシュカ様はこんなこと言わない…)
触ってもいい、手を握ってもいいと思ってくれたからこその言葉のはずだ。
「………」
互いに口を噤む中、差し出された白い手に、恐る恐る手を伸ばした。
ルカーシュカの指に、自身の指が重なる───触れた先はやはり冷たいままで、クッと浅く息を呑んだ。
無意識の内に温めようと思ったのか、自分の手よりも幾分細い指先を軽く握ると、その華奢な手に思いがけず強く握り返され、思わず目を見開いた。
「…っ」
「…平気か?」
「ぅ、だ、だいじょうぶ、です…っ」
(…びっくりした)
コクコクと何度も頷きながら、指先を包む冷たさと、握り締められた手の力強さに心臓がドキドキと音を立てて鳴った。が、そこには緊張も恐怖も無かった。
ただ純粋に『触れることが出来た』という事実に、安堵の気持ちが広がった。
(…エルダの手と、全然違う…)
エルダと同じく細身で、どことなく雰囲気の似ているルカーシュカだが、エルダの柔らかな手とは異なり、細くとも固く、しっかりとしたその手の感触は、初めて触れるものだった。
「…他に、何か話したいことはあるか?」
「へ?」
自分の手と繋がった白く冷たい手を注視していたせいか、間の抜けた返事をしてしまった。
「俺ばかり話してしまったからな。何か聞きたいこと…言いたいことがあるなら、話してくれて構わない」
「え…え…と…」
「なんでもいいぞ。無ければ無いで構わないし、だからと言って無理をして話そうとする必要もない。話すのも、話さないのも、お前の好きにしていい」
そう言って繋いだ手はそのまま、背凭れに寄り掛かり、ルカーシュカは目を閉じてしまった。
(……好き、に…)
なんでも聞いていい、とは言われたが、即座に思いつくはずもなく、突然のことに止まりかけていた頭をゆるゆると動かすと、思考を巡らせた。
(なに、聞こう…)
…何故、手を繋いだのか?
それも気になったが、普段からエルダと触れ合っている時間が長いからか、手を繋ぐという行為そのものに抵抗感はなく、深く疑問を抱くことでもなかった。
(他…他は……)
選択肢が多すぎるのか、パッと思いつかないことに焦り始めた時だった。
「ぅ…と………あっ、さ、さっきの…」
「うん?」
小さく漏れた声に反応したのか、パチリと瞼を開けたルカーシュカがこちらに視線を向けた。
「こ、声…が…あの…し、下に、ルカーシュカ様が…いたのに…声が…あの…近くで、聞こえたの、は…なんで、ですか?」
「ああ、あれは声を飛ばしただけだ」
「…声を、飛ばす…?」
「離れた場所にいる相手にも声が届くように、聖気に音を乗せて飛ばすんだ。他にも遠くを見たり、離れている場所の音を拾ったり…まぁ、あまり離れていると届かないし、聞こえないがな」
目に映る範囲なら届く、という言葉に、仕組みこそ分からないが、そういった粛法もあるのかと、ほぅ…と感嘆の溜め息が零れた。
「あの…ル、ルカーシュカ様は…なんで…えっと、この時間に…ここに…?」
「…元々、俺の役目は夜動くものだからな。その帰りだ」
「…なんで…あの…自分が…そ、外に出てくる、て…知ってたん、です…か?」
「別に知ってた訳じゃない。…お前が、夜になると外に出ていることがあると、エルダに聞いていたからな。…今日は昼間のこともあったし、出てくるんじゃないかと思って待っていただけだ」
「…そう、なんですか…」
自分のことについて、本当に事細かに報告されていることにも驚くが、それよりも自身の行動を読まれているということに驚いた。
「えと…あの、ルカーシュカ様…の、お、お役目…て…?」
「……例の、白い花…ヴェラという名の花だが、あれの成長を見守り、定められた日に開花する様、調整するのが俺の役目だ」
「あ……あ…ぇと…」
「…お前は、あの日ヴェラの花を見ていただけだ。ならそれ以上を気にする必要はない」
「………」
「…どうだった?」
「え…?」
「ヴェラの花を見て、どう思った?」
「あ…、す、すごく…綺麗、でした…!」
「……そうか」
(あ…)
瞬間、ほんの少しだけ目元を柔らかくしたルカーシュカの表情に、ドキリとした。
いつもほとんど表情が変わらず、変化しても曇った表情ばかりの彼の初めて見る表情に、視線は釘付けになった。
(…本当に、大切なものなんだろうな…)
謝らなくていいとルカーシュカは言うが、それでも胸に痞えるものは残る。だがそれを表に出してしまったら、彼はまた気にしてしまうのだろう。
せめてこれ以上、余計な気を遣わせてしまわないように、俯いてしまいそうになった顔をグッと上げた。
「……俺も」
「…?」
「俺も一つ、聞きたいんだが…」
「は、はい…!」
自分のことは全てエルダから報告されているはずなのに、改めて聞きたいことなどあるのだろうか?
自分よりも、エルダの方がよほど自分のことに詳しいのに、果たして答えられることがあるのだろうか…と緊張しながら、ルカーシュカの言葉を待った。
「その…まぁ、些細なことなんだが」
「は、はい…」
「……なんで、俺もイヴァニエも、様を付けて呼ぶんだ?」
「…はい?」
まったく予想していなかった質問に、コテリと首を傾げた。
(なんで、て…)
───エルダが、そう呼んでいたから。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
エルダが『ルカーシュカ様』『イヴァニエ様』と呼んでいたから、それをそのまま真似ていた。ただそれだけだったのだが…
「え…と…、エルダ…が、ルカーシュカ様…イヴァニエ様…て、呼んでた…から…あの…そう、なのかな…て…」
もしや何かいけなかっただろうか?
モゴモゴと言い訳のように答えれば、ルカーシュカがゆっくりと頷いた。
「そうか…いや、うん、予想通りだったな」
「えっと…」
「ああ、少し気になったから聞いただけだ」
「な、なにか……あの…ダメ、で…?」
「…いや、そのままでいい。変なことを聞いて悪かったな」
「…は、い」
わざわざ聞いたということは、恐らく何かあるのだろうが、それ以上は何も言われず、自然とその話は流れ、別の話題へと移ってしまった。
その後も、ポツリポツリと、ルカーシュカと言葉を交わし続けた。
ルカーシュカやイヴァニエは普段はどこにいるのか、二人はどういった食事を摂るのか、どんな役目を担っているのか、三日に一度の訪問は大変ではないのか…そんな他愛もない質問にも、ルカーシュカは丁寧に答えてくれた。
天界や天使達のことについてはいくつも話を聞いてきたが、ルカーシュカやイヴァニエ個人のことは聞いたことがなく、自然と彼らに関することばかり質問していた。
その合間にルカーシュカから質問されるのは、自分に関することばかりで、あたふたしながらも、なるべく丁寧に言葉を返した。
どれほど二人で話したか。ふと繋いでいた手の温度が変わっていることに気づき、そっと視線を落とした。
(…あったかい)
氷のように冷たかったルカーシュカの手は、いつの間にかじんわりと熱を帯び、手の平から伝わる温かく心地良い体温に、ホッと息を吐き出した。
「…どうした? 眠いか?」
「あ…ぅ…だ、大丈夫、です…っ」
『大丈夫』とは言ったが、外に出てからどれくらい時間が経ったのだろう。
そんなに時間が経っているようには感じなかったが、元々時間の感覚が鈍い自分にはよく分からなかった。
「ルカーシュカ様…は、ね、眠く、ない…ですか…?」
「ああ、大丈夫だ」
静かだが、穏やかな空気が流れていることに、ふっと体の力を抜き、空を見上げた。
(……あ)
煌めく夜空と温かな体温、静かに交わされる会話に、ふと小さな天使達のことを思い出した。
ずっとずっと前、赤ん坊達とこのバルコニーの隅に座って、夜の間中起きて過ごしていた日々。
あの穏やか夜と、今過ごしているこの時間は、少し似ている気がした。
いつの間にか、ルカーシュカと手を繋いでいることにも馴染んでいた。
それどころか、繋がっていることにひどく安心している自分がいて、とても不思議な気持ちだった。
(エルダと初めて手を繋いだ時も…こんな感じだったかな…)
直接触れ合っている方が、不思議と気持ちは落ち着いた。手の平から伝わる温かな体温と一緒に、相手の言葉と感情も直接流れてくるような安心感があるからだろうか?
心地良さにそっと瞼を閉じれば、自分がよく知っている、同じような体温を思い出した。
エルダと赤ん坊の天使達。
あの子達のような柔らかな手ではないし、花のように綻ぶ笑顔もないけれど、ルカーシュカの素っ気ない言葉や突き放すような態度の中に、愛しい子達と同じ優しさが詰まっているような気がした。
(……やっぱり…あの子達と仲が悪いままなのは、ヤだな…)
ルカーシュカも、赤子の天使達も、優しく温かい存在だ。
遠い日の『怒り』の感情はどちらも間違っていなくて、どちらも正しい感情だったからこそ、否定せず、その上で仲直りできないかと思ってしまう。
そのためにはどうすればいいのか…思考は再びそちらに引っ張られ始めた。
「どうした? 眠いなら、もう部屋に戻って…」
「あ、ちが…あの…っ」
考えに没頭し、意図せず会話が途切れていた。
「無理して起きていなくてもいいぞ」
「だ、大丈夫、です…、そ…じゃなくて…」
言いながら、ルカーシュカと赤ん坊達のことについて、中途半端なところで会話は終わっており、なにも解決していなかったことを思い出す。
「あの…ち、ちっちゃい子、達と…ルカーシュカ様…と、やっぱり…あの…な、仲直り、できたら…いいな…て…」
「それはお前が気にする必要はないと───」
「だ、だって…、…ル、ルカーシュカ様も、あの子達も…や、優しいのに…どっちか、が…わ、悪い、とかじゃ、ないのに……悪くないのに…このまま…なのは…ゃ…ヤ、です…」
「……俺は、悪いことをしただろう?」
「ちが…っ、それは…だって…ルカーシュカ様が、怒った、のも…た、正しい、感情で……わ、悪い、ことじゃ…ない…はずです…っ」
「………」
「で、でも…あの子達が、おこ…て、くれたのも…あの…自分の、せい…だから…、そのせいで、こ、このまま…なのは…、あの…っ」
「…分かった。分かったから…あまり泣くな」
「…っ」
泣いてはいなかったのだが、瞬きをしたら雫が零れてしまいそうなほど水気を帯びた瞳に気づき、慌てて目元を擦った。
「おい、そんなに強く擦ったら……はぁ、少し目を閉じてろ」
「え…?」
「いいから」
「ん…」
言われるまま、ギュッと固く目を瞑ると、瞼の上がじんわりと温まり、直前の擦った感覚がスッと消えていった。
「もういいぞ」
ほんの数秒の後、パチリと目を開ければ、涙が滲んで重かった瞼はスッキリとしていて、パチパチと目を瞬いた。
(これ…エルダがたまにやってくれるやつだ…)
キラキラと光の粒子を零しながら、傷や痛みを癒してくれる粛法。それをルカーシュカが、自分に施してくれたのだと気づく。
「あ…ありがとう、ございます…」
「…ああ」
ふいと視線は逸らされてしまったが、感謝の言葉は否定されなかった。それに───…
(わかった、て…いいよって、こと…?)
自分がそうあってほしいと望むだけの我が儘にも、彼は頷いてくれた。
パァッと気持ちが晴れるような、心が軽くなるような感覚に、繋いだままの手に力が籠った。
「あ、ありがとう、ございます…! あの…わ、我が儘、言って…、ご、ごめんなさい…」
「…今のが我が儘になるのか? 随分とかわ………い、や…なんでもない。……俺も、プティとこのままというのは、流石にこたえるからな」
「ん…っ」
ルカーシュカも、現状の赤ん坊達との関係に憂いがあったことに、少しだけ安心する。あとはどうやってすれ違ってしまった仲を元に戻すかだが、もう考えは浮かんでいた。
「あの、で、できたら…あの…今みたいに…あの子達と…ぇと、一緒にいる時に…よ、横に、座って…もらえ…たら…と、思うん、です…」
エルダが言うには、赤ん坊達は、自分がルカーシュカに虐められたと思ったからこそ怒ったらしい。
ならば、虐められた訳ではないと、ルカーシュカは本当は優しい人で、今は仲良しなのだと、言葉と行動で伝えれば、分かってくれるかもしれないと思ったのだ。
「…それは、俺がお前に危害を加えないというところを、見せればいいということか?」
「き、危害じゃ…そうじゃ、なくて…その…い、今は…仲良し、だよ…て……」
そこまで言って、ハッとした。
『仲良し』だなんて、なんて烏滸がましいことを言ってしまったのだろう───!
瞬間的に萎縮した心臓に、喉から細い悲鳴が漏れた。
「ッ…、ち、ちが…! そ、そういう意味じゃ…っ!」
あくまで仲良くなったように見えれば、そのように赤子達に伝わればいいと、そんな意味合いで言ったつもりだった。
ルカーシュカやイヴァニエが優しいのも、気を遣ってくれるのも、上部だけの、見せかけの優しさではないとは分かっている。
だが優しくしてくれるのと、仲良くなりたいという気持ちは別物のはずだ。
いくら二人が優しくしてくれたとしても、それ以上を求めてはいけない。なにより、今以上に二人の重荷になるようなことは望んではいなかった。
言葉が足りなかったせいで、自分がおかしな勘違いをしていると思われるだけならまだいい。それよりも、二人におかしな勘違いを押しつけてしまう形になってしまうことの方がよほど恐ろしかった。
サァッと血の気が引いていき、心臓が気持ち悪いほど激しく脈打っていた。
「ご、ごめんなさ…っ、な、なか、よく、て…あの、ち、ちがくて…あのっ、ほ、本当じゃ、なくて、…そ、そういう風に…あの…あの子達に…つ、伝われ、ば、て…っ」
「おい、落ち着け。何も言ってないだろう」
「はっ…、ぁ…だ…だ、て…」
ドッドッと脈打つ心臓が痛い。息が苦しい。
反射的に胸元を押さえようとすれば、ルカーシュカと繋いでいた手をグッと強く握られ、ビクリと肩が跳ねた。
「ふっ…、…ふ…っ」
「…なにを怖がってるのかは知らないが、お前が不安に思うことはない。…今は仲良くしていると、プティ達に分かってもらいたいんだろう?」
「…っ、で、でも…」
「良い考えだと思うぞ。実際にその姿を見せた方が、プティ達も理解してくれるはずだ」
「ぁ…ほ、本当じゃ、なくて、い、いい…ので…」
「…本当じゃなくていいのか?」
「は、はぃ…っ、…あの、ご、ごめんなさ───」
「……俺は、本当に仲良くなれたらいいと思ってるぞ」
「………ぇ…」
耳に届いた言葉は、すぐに理解するのが難しく、ポカンとしたまま、こちらを見つめるルカーシュカの瞳を見つめ返した。
寸前までパニックになっていた頭がまともに動くはずもなく、固まっている間にルカーシュカが動いた。
お互いの間、少し空いていた距離を縮めるように、ルカーシュカがそっと位置を変えて座り直した。
(あ……)
それは言葉の通り、『隣』と言える距離だった。
互いに少し動けば体が当たってしまいそうなほど近くに座ったルカーシュカに驚いたが、気持ちはとても凪いでいた。
緊張も、妙な不安も無い。繋いだままの手も、近くなった距離も、ただ安心した。
「仲良くなれるなら、なりたいと思っている。だがそれをお前に無理強いするつもりはないし、そもそも無理強いするものでもないからな。…自然に仲を深められるならそれが一番だろうが、それが難しいことも分かってる。だからあえて言うぞ。…俺は、お前と仲良くあれたらいいと思ってる」
「…ぁ…ぇ……?」
「勿論、お前にその気がないならそれでいい。今のままでも、大して変わらないだろうしな…要は気持ちの問題だ。どちらでもいい。望む、望まないはお前次第だ。今以上を求めようとする必要もないし、こちらから強要するつもりもない。今この場で決めなくてもいい。…お前は、どうしたい?」
「…ど、う…」
耳に届いた言葉に、思考が追いつかない。
茫然とルカーシュカを見つめながら、言われた言葉を理解しようと、一つ一つ中身を噛み砕き、飲み込んでいった。
(…仲良く…)
───なれるならば、なりたい。
動きの悪い頭でも、澱みも戸惑いもなく、すんなりとそう思えた。
ただ『仲良く』とは具体的にどういう状態を指すのか、それが分からなくて、鈍い頭を必死に動かした。
(……エルダと、一緒にいる時みたい、な…?)
正確に言えば、また違うのかもしれない。だが、エルダと話す時にまったく緊張しなくなったように、気負うことなく言葉を交わし、笑って過ごせるようになったなら───少しは『仲良く』なれたということになるのだろうか?
「……、」
そわりと落ち着かない気持ちになる反面、どうしても拭えない不安に視線は下がった。
本当に、自分がそれを望んでいいのだろうか?
本当は、ルカーシュカに無理をさせているのではないだろうか?
…望んでいないことを、言わせてはいないだろうか?
(どうしよう…)
『言葉の通り受け取っていい』という言葉を忘れた訳ではないのに、それでも不安で、望むまま気持ちを伝えるのがどうしても怖くて、背を丸めた。
「……すまん。今の言い方だと返事がしにくかったな」
「…ッ」
沈黙を破るように囁かれた声に、腹の奥がズンと重くなる。
違うのだ。彼は言葉を選んで話してくれた。その上で、選択肢も逃げ道も与えてくれた。
そうまでして伝えてくれたのは、そうしないと自分には伝わらないと、きっと分かっていたからだ。だからこそ、わざわざ言葉にしてくれたのに…
「ゆっくり考えてくれ。返事はいつでも構わな───」
「ちが…っ、ちがいます…! そうじゃ…、そうじゃ、なくて…!」
逃げ道を唯一として与えてくれる彼の優しさが悲しくて、そう言わせてしまった自分の愚かさが悔しくて、声が震えた。
「そうじゃ、なくて…」
「……まだ心配か?」
「…っ!」
ルカーシュカの声にビクリと体が跳ねた。
(…自分は…どうして…)
彼は真摯に向き合ってくれているのに、それでも不安になる自分の臆病さが嫌になる。
これでは彼を、彼の言葉を、信じられないと言っているのと同義だ。こんな失礼な話があるだろうか。
(…ああ…また…)
───また、嫌な気持ちにさせてしまった。
少しだけ、ほんの少しだけ、彼らに近づけたと思っていたのに、自分のせいでまた遠く離れてしまう…そんな考えが脳内を埋め尽くし、俯いたまま顔を上げることができなかった。
「…ご、ごめ…なさ…」
「アドニス」
自分の名を呼ぶ凛とした声。その音は、とても柔らかかった。
「何度でも言うぞ。俺は、お前と仲良くありたいと思っている。嫌だと思うならこんなことは言わないし、無理をしている訳でもない。本心だ。だから、心配をしなくていい。不安に思わなくてもいい。…大丈夫だ」
「…ッ」
『大丈夫』
耳に馴染むその言葉と、力強く優しい声音に、湧き上がる感情を抑えるように唇をキツく噛んだ。
ここまで言われないと、言ってもらえないと、一歩を踏み出せない自分が心底情けない。
それでもようやく、「大丈夫」と言ってもらえてやっと、思うまま答えてもいいのだと、望んでもいいのだと許されたようで、胸を締め付ける枷がストンと落ちた。
「……ぁ…あの…」
「うん」
「じ、自分…も、…ルカーシュカ様と…な…仲良く…なりたい…です…」
「…うん」
「もっと…ちゃ、ちゃんと…お話し、できるように…、お話し、して…エ、エルダや…あの子達…みたいに、…お喋り、できる、ように…な、なりたい…です…っ」
「…そうか」
ドクン、ドクンと、大きく鼓動する心臓が痛い。
心配も不安もなかったが、自分の気持ちを素直に吐き出したことに、どうしようもなく緊張していて、繋いだ手をぎゅうっと握り締めた。
「俺もだ」
「ッ…!」
刹那、返事と共に繋いでいた手を強く握り返された。
同時に、今まで聞いたことがないような、朗らかなルカーシュカの声が鼓膜を揺らし、弾かれたように顔を上げた。
「改めて、よろしくな。アドニス」
そう言って柔らかに瞳を細めて微笑むルカーシュカ───彼の笑顔を、初めて見た。
思わずルカーシュカを引き止めてしまったが、この後どう言葉を繋げればいいのか…俯いた視界の中、ルカーシュカのローブを掴む自分の手が映り、ヒュッと喉が鳴った。
「っ…!」
反射的に手を離すと、慌てて後退り、彼の服を掴んでしまった手を胸元でキツく握り締めた。
(ど、どうしよ…っ、さ、触っちゃった…!)
咄嗟のこととはいえ、ルカーシュカに、彼の身につけているものに触れてしまったことに、緊張とは別の感情で心臓がドクドクと激しく鼓動した。
嫌がられたかもしれない。
不快に思われたかもしれない。
───汚れると、顔を顰めるかもしれない。
今のルカーシュカなら、きっとそんな風に思ったりしない…そう思うのに、瞬く間に全身に広がった恐怖と、自分が彼に触れてしまったことへの罪悪感に体が震えた。
「ご、ごめんなさぃ…」
ルカーシュカの顔を見れない。
こうしている間にも、彼がこの場を去ってしまうかもしれないのに、それでも俯いたまま、顔を上げることが出来なかった。
ドクン、ドクンと心臓が脈打つたびに広がる恐怖とじわりと滲む嫌な汗に、呼吸が荒くなり始めた───その時だった。
「……別に、怒ったりしない」
「…ッ」
穏やかな夜に溶け込むような声に、ピクリと肩が跳ねた。
「服に触れられた程度で、どうこう思わない。…怖いなら、あまり俺に近づくな。わざわざ近づかなくても、会話くらいならできるし、無理に話す必要もな───」
「まっ…、ち、ちが…!」
とんでもない誤解をされてしまったことに血の気が引いた。
「こ、怖いだなんて…お、思ってない…です…! い、今、のは…ちが…くて…っ、…わ、私…が…あの…さ…触っちゃ…ダメ、かも…て…」
自分が彼を恐れ、距離を取ろうとしている…そう思わせてしまったことが怖くて、苦しくて、吐き出す音に泣き声が混じった。
「あの…っ、ち、ちがくて…っ」
「…おい」
「ご、ごめんなさい…、ごめんなさ───」
「アドニス!」
「っ…!」
空気を裂くような凛とした声が飛んできて、ビクリと体が跳ねた。
「…落ち着け。謝る必要はない」
「ふ…っ、ふ…」
響いた声の強さとは異なり、ルカーシュカの纏う空気は落ち着いていた。
いつの間にか、体の向きごと振り返っていたルカーシュカの黒い瞳と、視線が絡んだ。
「……無理に、怖くないと言わなくていい」
「…え?」
僅かに掠れた声が、夜風に紛れて耳に届いた。
言葉の意味を理解するより早く、ルカーシュカの言葉が続く。
「嫌なら嫌で、怖いなら怖いで構わない。無理して受け入れようとする必要も、話す必要もない。…あえて、俺と交流しようと思わなくてもいいんだ。イヴァニエもお前の事情を知っているし、エルダもいる。怖くないと思い込もうとしなくても、誰も…俺も、お前を責めはしないさ」
淡々と静かに紡がれる言葉に、ショックで言葉が出てこなかった。
(なんで…どうして…? 怖くないって…)
怖くないと言ったのに、その言葉を信じてもらえなかったことに、茫然と立ち尽くした。
強がりだと思われてしまったのだとしたら、それは自分の態度が悪かったせいだろう。だがそれを抜きにしても、ルカーシュカは自分を遠避け、遠去かろうとしている───ズシリと全身が重くなったような感覚に襲われるのと、視界が滲んだのは同時だった。
「…こ…怖く、ない…です…」
振り絞った声は小さく、これではダメだと、深く息を飲み込むと、もう一度口を開いた。
「さ…最初は…、こ、怖かった…です…けど、でもっ、それは…ル、ルカーシュカ様…だけじゃ、なくて……その、…こ、怖い…こと、言われて…ど、どうしてって…、か、悲しく、なったり…なった、けど……でも、それは、自分が…わ、悪いこと…した、からで…っ」
「…っ」
「じ、自分が、先に…ルカーシュカ様、を…き、傷つけて…悪いこと、したから…だから……ほ、本当は…ルカ…シュカ様…が……に、あ、謝って、頂く…必要も、ないんです…っ」
言いながら、ポタリと涙が零れた。
見苦しいものを見せてしまう───咄嗟に深く頭を下げると、手にしていた小瓶を両手で強く握り締めた。
「い、いつも…や…やさしく、して、くれて…あ、ありがとう…ござ…ます…っ、…ほ、本当に…怖く、ない、し…お、お話し…したい、て…っ、お…思ってます…けど…っ、ルカーシュカ…様、に…む…無理を、させ…て…、…ひ、酷い、ことを…して、しまって……ごめんなさぃ…!」
ボタボタと零れる涙を止めることも出来ず、だが拭うことも出来ない。
顔を上げてルカーシュカの反応を見る勇気もなく、頭を下げたまま、その場で立ち尽くした。
「……やめてくれ」
「…ッ!」
低く響いた声に、喉の奥が引き攣った。
「知らないことを、謝らないでくれ」
ルカーシュカの言葉に血の気が引き、指の先まで凍えていくような感覚に、ブルリと背筋が震えた。
自分は知らないこと、憶えていないことなのに、言葉だけの、中身の無い空っぽな謝罪をしてしまった。そのせいで、ルカーシュカを怒らせてしまった。
(ま、また…)
───余計なことをしてしまった。
久しく感じていなかった自己嫌悪と、平穏な日々に埋もれ、忘れてしまっていた自分に向けられていた負の感情を思い出し、グラリと視界が揺れた。
(あ…あやまら、なきゃ…)
ああそれとも、それすら彼にとっては、聞きたくない言葉だったりするのだろうか?
自身ではもう、まともに判断することの出来なくなった鈍い頭で、それでも口からは無意識の内に謝罪の言葉が零れていた。
「ご…ごめ…なさ…、失礼な…こと、を…っ」
「…! 違うっ、今のは…」
「ごめん、なさい…、ほ、本当に…っ、ごめんなさ…」
「だから…っ、…~~~っ!」
───バサッ…
「っ!?」
下げていた頭の上に、突然降ってきた布。
上半身まですっぽりと覆うように降ってきたそれに驚き、反射的に顔を上げていた。
「っ…、え……え?」
ずり落ちそうになったそれを手で押さえながら、顔を上げたことで、再び視界に映ったルカーシュカ───と、その装いが変わっていることに気づき、目を丸くした。
(…これ……ルカーシュカ様の…ローブ…?)
先ほどまでルカーシュカが羽織っていたローブが見当たらない。代わりに、自分の上半身を包むオフホワイトの布地は、つい先ほど触れたそれの感触と同じだった。
「え……なん…なん、で…?」
「俺も、お前も、一旦落ち着こう。…落ち着いて、話しをしよう」
ひくり、としゃくりあげながら、回らない頭でルカーシュカを見つめた。
(怒って…ない…?)
少しの困惑が混じったような表情は、それでもどこか晴れやかで、怒りや不快の色は浮かんでいなかった。
先ほどの低く発せられた声はなんだったのだろう?
どうして自分はローブを渡されたのだろう?
…どうして、そんなに優しい目ができるのだろう?
いくつも浮かぶ疑問に、パチパチと目を瞬いていると、ルカーシュカがふっと浅く息を吐き出した。
「…立ったままというのも、疲れるだろう。座ってくれ」
「ぁ…ぅ…」
そう言われた視線の先にあったのは、窓際に置かれた長椅子。展開についていけず、狼狽えながらも流されるまま動こうとして、ピタリと足を止めた。
(い、いなくならない、よね…?)
背を向けた途端に、いなくなったりしないだろうか?
まさか…と思いつつ、不安からなかなか足を動かすことが出来ず、チラチラとルカーシュカを振り返った。
「どうした?」
「あ…ぇ…えと…」
「……行くぞ」
「っ!?」
伸びてきたルカーシュカの手が、自身の右の手首を掴み、そのまま手を引かれるようにして歩いた。
緩く掴まれた手首に唖然とするが、それよりなにより驚いたのは、手首から伝わるその手の温度だ。
(…つめたい…)
突然手首を掴まれたことへの驚きよりも、真っ白なその手の冷たさにギョッとした。予想外のルカーシュカの行動と、氷のような手の冷たさに、直前まで流れていた涙も止まっていた。
柔く握られた手首を引く力に強引さはなく、混乱している間に長椅子の前まで辿り着いていた。
「…ほら」
「あ……あり、がとう、ございます…」
促されるまま長椅子に腰を下ろせば、手首を握っていた手はスルリと解けていった。ふっと温かさを取り戻した手首には、少しの不安と、冷たい手の感触だけが残った。
「あ、あの…これ…お返し…」
「いい。そのまま羽織ってろ」
頭からずり落ち、肩に羽織った状態で留まっていたローブに手を添えるが、返ってきた返事は有無を言わさぬものだった。
「悪いが、エルダのようになんでも持ち歩いている訳じゃない。タオル代わりにでも使ってくれ」
「い、いえ…っ、そんな…だ、大丈夫、です…!」
まさかこれで涙を拭うなど、畏れ多くてできる訳もなく、慌てて首を横に振りながら、手の甲で頬に残った涙の跡を拭った。
まだ彼の温もりが残るローブに落ち着かない気持ちになりながら、肩から落ちてしまわない様、身を包むようにそっと引き寄せる。
ここからどうすればいいのか…分からないまま視線を彷徨わせ、ふと目の前に立ったままのルカーシュカが気になって、その姿を見上げた。
「…あの……す、座らない…ですか…?」
なんとなく、一緒に座るのだろうと思い端に寄っていたのだが、動く気配のない彼に恐る恐る声を掛けた。
「…いや………そうだな」
薄く開かれた唇は一度閉じられ、なにかを思案するように、少し間を空けてからルカーシュカがゆっくりと隣に腰を下ろした。
間隔を空けて座ったその位置は、ホッとすると同時に少しだけ寂しさを覚える、なんとも微妙な距離だった。
隣に座ったルカーシュカに視線を向けていいものか、気配だけで様子を窺っていると、ふいに声を掛けられた。
「……悪い。さっきのは、責めようとした訳じゃない。言葉の通りの意味だ。知らないことを謝る必要はないし、その責任をお前が負う必要はないと言いたかった。…お前が考えているような意味で言った訳ではないから、安心してくれ」
静かに紡がれる言葉に、鋭さはない。
低く凪いだ声に、不安と自己嫌悪に揺れていた心は落ち着きを取り戻すが、膝の上で組まれた指に視線を落としたまま、こちらを見ようとはしないルカーシュカに、別の不安が込み上げた。
(えと…怒ってた訳じゃ、ない…みたい、だけど…)
───本当に、それでいいのだろうか?
彼はそう言うが、結局は無理をさせているだけではないだろうか? 言われた通りの意味として、受け取っていいのだろうか?
どうしても素直に言葉を受け取ることができず、ぐるぐると巡る思考の中、必死に返す言葉を探した。
「ぁ…う……あの…、じ、自分も…あ、謝って…頂か、なくて…だ、だいじょうぶ…です…」
「…なに?」
「あ…っ、ちが…あの…その……じ、自分が、悪いこと、したのは…その……お、憶えて、なくても…本当の、ことで…だ、だから…あの…ルカ、シュカ…様が、怒ったのも…と、当然の、こと…だと…思う、し…」
「………」
「だから…あの、その…ゆ、許す…とか、許さないとか…な、ないん…です……い、今…こうやって、その…お話しが、できるように、なった、だけで…その…それだけで、もう……、でも…っ、あの…、…そ、それで…その…ルカーシュカ様の…お、お気持ちが…、あの…落ち着く…なら……えっと…」
「……分かった。もういい」
「ぅ…」
なんと言えばいいのか分からず、きちんと自分の気持ちを伝えられたとは到底思えなかったが、それ以上は言えない雰囲気に、キュッと下唇を噛んだ。
気まずさから下を向くと、隣で動く衣擦れの音が聞こえた。
「……すまん。今のも言い方が悪かったな。…お前がそれで良いと言うならそれで良い。だが、俺が謝りたいと思ったのも、正直な気持ちだ。……受け取る、受け取らないは、お前の好きにしてくれ」
「…は…ぃ…」
「…この話しはここまでにしよう。…お前は、何が話したかったんだ?」
「え…?」
「何か話したいことがあって、引き止めたんだろう?」
「あ…」
ただ飲み込むには難しい感情を咀嚼している間に、話題が切り替わる。急な問い掛けに、すぐには頭が回らなかった。
(そうだ…お話し……あの子達の…)
なんとか頭を動かし、思い出した『話したいこと』だが…正直、この短い時間の中でのやりとりで、ルカーシュカになんと言われるか、少しだけ予想ができてしまっていた。
「あ、あの…ちっちゃい子…たちの、こと、なんです、けど…」
「うん」
「その……ど、どうしたら…ルカーシュカ様と…あの…な、仲直り…で、できる…かな…て…思って、て…」
「……そうか。だが、お前が気にする必要はない。俺の責任だからな」
「ぅ…で、でも…」
やはりと言うべきか、予想通りの返事に、なんと返せばいいのか言葉に詰まる。
「心配しなくていい。俺がお前の側にいなければ、プティの態度は変わらない」
(…それ…て…)
自分の受け取り方のせいだろうか?
まるで『自分と会わなければいい』と言いたげな言葉が妙に引っかかった。それとも、あの子達がいない間なら、問題ないという意味だろうか?
だが正直なところ、それは難しいことのように思えた。
今でこそルカーシュカとイヴァニエと会う時だけ、赤ん坊達には席を外してもらっているが、それだってずっとそうとは限らない。
あの子達とも、共に過ごすようになったらどうするのか?
なにより、先に浮かんだ考えの方が、ルカーシュカの思考に合っているような気がしてならなかった。
「あ…の……で、でも…それじゃ…その…い、一緒に…いられ、ない…」
自然と口から零れたのは、そんな言葉だった。
そこに深い意味はなく、ただ今まで通り、ルカーシュカとイヴァニエと定期的に会って、話しをすることができたならいいなと、そんな気持ちからだった。
特別なことを言ったつもりはない。だが、そこでようやくこちらを見たルカーシュカは、僅かに眉間に皺を寄せていて、何か変なことを言ってしまったかと少しだけ怯んだ。
「あ…ぅ…あの…」
「……嫌じゃないのか?」
「え?」
「さっきも言ったが、わざわざ俺と一緒にいる必要はない。イヴァニエも、エルダもいるだろう」
「………」
どうしてか、自分の言葉も気持ちも、彼に真っ直ぐ届かない。
無理をしているつもりはない。ルカーシュカのことも、もう怖いとは思っていない。
叶うなら、今まで通りの関係で在りたいと願っているのに…
(どうして…)
そこまで考え、はたと気づく。
今まで通り会いたい、会って話しがしたい───そう思っているのは、自分だけではないか?
相手もそのように考えているとは限らない。
むしろ、そんなことは望んでいない可能性だってあるはずだ。…いや、その可能性の方が、きっと高い。
ようやく思い至ったその考えに、きゅうっと胸が苦しくなると同時に、ルカーシュカの気持ちをまったく考えていなかった自分の浅ましさを恥じた。
「あ…あの…ご、ごめんなさ……だ、だいじょうぶ、です…ごめんなさい…」
「……大丈夫って、なにがだ?」
「ぁ……え、と…あの…ル、ルカーシュカ様…にも…あの…その、ぇと…ご、無理を…言って、しまって…その…だから…だ、大丈夫…です、と…おも…て…」
そのまま聞き返されるとは思っておらず、しどろもどろになりながら返事をするが、言い終わらない内にルカーシュカの眉間の皺は深くなり、険しくなった表情に言葉尻は萎んだ。
「あの…ご、ごめんなさい…」
「……頼むから、謝らないでくれ」
「あ…ぅ…でも…」
「…別に、俺がお前に会いたくないと思って言った訳じゃない。何度も言うが、言葉通りの意味だ。お前が無理をする必要はないと、ただそれだけだ」
「む、無理なんて、してない、です…っ、ほ、本当に…本当に…もっと…お、お話し、したいと…思って…」
「……そうか」
「…ル、ルカーシュカ、様は…い、嫌…じゃ、ない…?」
「……嫌だと思っているなら、三日に一度会いに来るなんてことはしない」
素っ気ない返事だったが、その声音はとても優しかった。
いつだったか、やはり同じようなことを言われた気がするが、彼の言動には裏表が無いのだろう。
本当に嫌だと思っているなら、恐らく彼は自分と関ろうとすらしないのでは───漠然と浮かんだ考えだったが、遠く誤っているとも思えなかった。
ルカーシュカのことをよく知りもしない自分が、こんな風に感じるのも失礼なのかもしれない。
それでも彼は「嫌」とは言わず、今もこうして隣に座っていてくれる。…それが、彼の『答え』のような気がした。
ふわふわと心が浮き立つような、落ち着かない気持ちに、膝の上に置いた手が意味もなく服の端で遊んだ。
「…俺も、お前も…お互い、相手の言葉を悪い方向に捉えてしまうな」
ポツリと呟かれた言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。
事実、先ほども自分はルカーシュカの言葉の裏側を勝手に想像し、勝手に悪いように受け取ってしまっていた。
(……あ…)
自分の言葉が真っ直ぐルカーシュカに届かない───そんな風に考えていたが、自分自身、彼の言葉を素直に受け取れていなかったではないか。
そんなことに今更に気づき、激しく反省する。
「ぁ…あの、ご、ごめんなさ…」
「いい、分かっているから謝るな。“俺も”と言っただろう。…俺も同じだ。あいこでいいだろう」
「………」
ルカーシュカが「いい」と言うのだから、本当にそれでいいのだろう。それ以上は言ってはいけない気がして、そっと口を噤んだ。
そうして少しの沈黙が流れた。
気まずくはないが、何か言うべきなのか、それとも次の言葉を待つべきなのか、そわそわと落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせた時だった。
「……さっき」
「は、はい…!」
「…突然触れてしまったが、大丈夫だったか?」
「あ……は、はい…、大丈夫、です…」
言われて思い出すのは、手首を握る手の冷たさだ。
ルカーシュカは突然の接触を気にしてくれたのだろうが、驚きよりなにより、震えるような手の冷たさの方がよほど気になった。
(寒い…訳じゃないよね…)
恐らくもっと別の要因があるはずだが、生憎と自分にはそれが何かは分からなかった。
部屋から何か温められるような物でも持ってこようかとも思ったが、席を立ってしまったら最後、そのままルカーシュカも帰ってしまいそうで、二の足を踏んだ。
ふと、こちらを見つめる黒い瞳に気づき、そちらに意識を向けると、自分と彼の間、空いたそこに白い手が差し出された。
「…触れられるか?」
「……え?」
あまりに唐突な提案に、ポカンと口を開けたまま、ルカーシュカを見つめた。
(えっと…手を握る…てことかな…?)
こちらを見る彼はそれ以上何も言わず、自分も差し出された手に視線を落とした。
何故いきなりそんなことを言われたのかは分からない。ただ、そこには不思議と大きな躊躇いも、戸惑いもなかった。
(…触って、いいのかな?)
少し躊躇ってしまうのは、自分が彼に触れてもいいのか、嫌ではないのか───そんな考えが、瞬間的に脳内を巡ったからだ。
(…ちがう。嫌なら…嫌だと思うなら、ルカーシュカ様はこんなこと言わない…)
触ってもいい、手を握ってもいいと思ってくれたからこその言葉のはずだ。
「………」
互いに口を噤む中、差し出された白い手に、恐る恐る手を伸ばした。
ルカーシュカの指に、自身の指が重なる───触れた先はやはり冷たいままで、クッと浅く息を呑んだ。
無意識の内に温めようと思ったのか、自分の手よりも幾分細い指先を軽く握ると、その華奢な手に思いがけず強く握り返され、思わず目を見開いた。
「…っ」
「…平気か?」
「ぅ、だ、だいじょうぶ、です…っ」
(…びっくりした)
コクコクと何度も頷きながら、指先を包む冷たさと、握り締められた手の力強さに心臓がドキドキと音を立てて鳴った。が、そこには緊張も恐怖も無かった。
ただ純粋に『触れることが出来た』という事実に、安堵の気持ちが広がった。
(…エルダの手と、全然違う…)
エルダと同じく細身で、どことなく雰囲気の似ているルカーシュカだが、エルダの柔らかな手とは異なり、細くとも固く、しっかりとしたその手の感触は、初めて触れるものだった。
「…他に、何か話したいことはあるか?」
「へ?」
自分の手と繋がった白く冷たい手を注視していたせいか、間の抜けた返事をしてしまった。
「俺ばかり話してしまったからな。何か聞きたいこと…言いたいことがあるなら、話してくれて構わない」
「え…え…と…」
「なんでもいいぞ。無ければ無いで構わないし、だからと言って無理をして話そうとする必要もない。話すのも、話さないのも、お前の好きにしていい」
そう言って繋いだ手はそのまま、背凭れに寄り掛かり、ルカーシュカは目を閉じてしまった。
(……好き、に…)
なんでも聞いていい、とは言われたが、即座に思いつくはずもなく、突然のことに止まりかけていた頭をゆるゆると動かすと、思考を巡らせた。
(なに、聞こう…)
…何故、手を繋いだのか?
それも気になったが、普段からエルダと触れ合っている時間が長いからか、手を繋ぐという行為そのものに抵抗感はなく、深く疑問を抱くことでもなかった。
(他…他は……)
選択肢が多すぎるのか、パッと思いつかないことに焦り始めた時だった。
「ぅ…と………あっ、さ、さっきの…」
「うん?」
小さく漏れた声に反応したのか、パチリと瞼を開けたルカーシュカがこちらに視線を向けた。
「こ、声…が…あの…し、下に、ルカーシュカ様が…いたのに…声が…あの…近くで、聞こえたの、は…なんで、ですか?」
「ああ、あれは声を飛ばしただけだ」
「…声を、飛ばす…?」
「離れた場所にいる相手にも声が届くように、聖気に音を乗せて飛ばすんだ。他にも遠くを見たり、離れている場所の音を拾ったり…まぁ、あまり離れていると届かないし、聞こえないがな」
目に映る範囲なら届く、という言葉に、仕組みこそ分からないが、そういった粛法もあるのかと、ほぅ…と感嘆の溜め息が零れた。
「あの…ル、ルカーシュカ様は…なんで…えっと、この時間に…ここに…?」
「…元々、俺の役目は夜動くものだからな。その帰りだ」
「…なんで…あの…自分が…そ、外に出てくる、て…知ってたん、です…か?」
「別に知ってた訳じゃない。…お前が、夜になると外に出ていることがあると、エルダに聞いていたからな。…今日は昼間のこともあったし、出てくるんじゃないかと思って待っていただけだ」
「…そう、なんですか…」
自分のことについて、本当に事細かに報告されていることにも驚くが、それよりも自身の行動を読まれているということに驚いた。
「えと…あの、ルカーシュカ様…の、お、お役目…て…?」
「……例の、白い花…ヴェラという名の花だが、あれの成長を見守り、定められた日に開花する様、調整するのが俺の役目だ」
「あ……あ…ぇと…」
「…お前は、あの日ヴェラの花を見ていただけだ。ならそれ以上を気にする必要はない」
「………」
「…どうだった?」
「え…?」
「ヴェラの花を見て、どう思った?」
「あ…、す、すごく…綺麗、でした…!」
「……そうか」
(あ…)
瞬間、ほんの少しだけ目元を柔らかくしたルカーシュカの表情に、ドキリとした。
いつもほとんど表情が変わらず、変化しても曇った表情ばかりの彼の初めて見る表情に、視線は釘付けになった。
(…本当に、大切なものなんだろうな…)
謝らなくていいとルカーシュカは言うが、それでも胸に痞えるものは残る。だがそれを表に出してしまったら、彼はまた気にしてしまうのだろう。
せめてこれ以上、余計な気を遣わせてしまわないように、俯いてしまいそうになった顔をグッと上げた。
「……俺も」
「…?」
「俺も一つ、聞きたいんだが…」
「は、はい…!」
自分のことは全てエルダから報告されているはずなのに、改めて聞きたいことなどあるのだろうか?
自分よりも、エルダの方がよほど自分のことに詳しいのに、果たして答えられることがあるのだろうか…と緊張しながら、ルカーシュカの言葉を待った。
「その…まぁ、些細なことなんだが」
「は、はい…」
「……なんで、俺もイヴァニエも、様を付けて呼ぶんだ?」
「…はい?」
まったく予想していなかった質問に、コテリと首を傾げた。
(なんで、て…)
───エルダが、そう呼んでいたから。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
エルダが『ルカーシュカ様』『イヴァニエ様』と呼んでいたから、それをそのまま真似ていた。ただそれだけだったのだが…
「え…と…、エルダ…が、ルカーシュカ様…イヴァニエ様…て、呼んでた…から…あの…そう、なのかな…て…」
もしや何かいけなかっただろうか?
モゴモゴと言い訳のように答えれば、ルカーシュカがゆっくりと頷いた。
「そうか…いや、うん、予想通りだったな」
「えっと…」
「ああ、少し気になったから聞いただけだ」
「な、なにか……あの…ダメ、で…?」
「…いや、そのままでいい。変なことを聞いて悪かったな」
「…は、い」
わざわざ聞いたということは、恐らく何かあるのだろうが、それ以上は何も言われず、自然とその話は流れ、別の話題へと移ってしまった。
その後も、ポツリポツリと、ルカーシュカと言葉を交わし続けた。
ルカーシュカやイヴァニエは普段はどこにいるのか、二人はどういった食事を摂るのか、どんな役目を担っているのか、三日に一度の訪問は大変ではないのか…そんな他愛もない質問にも、ルカーシュカは丁寧に答えてくれた。
天界や天使達のことについてはいくつも話を聞いてきたが、ルカーシュカやイヴァニエ個人のことは聞いたことがなく、自然と彼らに関することばかり質問していた。
その合間にルカーシュカから質問されるのは、自分に関することばかりで、あたふたしながらも、なるべく丁寧に言葉を返した。
どれほど二人で話したか。ふと繋いでいた手の温度が変わっていることに気づき、そっと視線を落とした。
(…あったかい)
氷のように冷たかったルカーシュカの手は、いつの間にかじんわりと熱を帯び、手の平から伝わる温かく心地良い体温に、ホッと息を吐き出した。
「…どうした? 眠いか?」
「あ…ぅ…だ、大丈夫、です…っ」
『大丈夫』とは言ったが、外に出てからどれくらい時間が経ったのだろう。
そんなに時間が経っているようには感じなかったが、元々時間の感覚が鈍い自分にはよく分からなかった。
「ルカーシュカ様…は、ね、眠く、ない…ですか…?」
「ああ、大丈夫だ」
静かだが、穏やかな空気が流れていることに、ふっと体の力を抜き、空を見上げた。
(……あ)
煌めく夜空と温かな体温、静かに交わされる会話に、ふと小さな天使達のことを思い出した。
ずっとずっと前、赤ん坊達とこのバルコニーの隅に座って、夜の間中起きて過ごしていた日々。
あの穏やか夜と、今過ごしているこの時間は、少し似ている気がした。
いつの間にか、ルカーシュカと手を繋いでいることにも馴染んでいた。
それどころか、繋がっていることにひどく安心している自分がいて、とても不思議な気持ちだった。
(エルダと初めて手を繋いだ時も…こんな感じだったかな…)
直接触れ合っている方が、不思議と気持ちは落ち着いた。手の平から伝わる温かな体温と一緒に、相手の言葉と感情も直接流れてくるような安心感があるからだろうか?
心地良さにそっと瞼を閉じれば、自分がよく知っている、同じような体温を思い出した。
エルダと赤ん坊の天使達。
あの子達のような柔らかな手ではないし、花のように綻ぶ笑顔もないけれど、ルカーシュカの素っ気ない言葉や突き放すような態度の中に、愛しい子達と同じ優しさが詰まっているような気がした。
(……やっぱり…あの子達と仲が悪いままなのは、ヤだな…)
ルカーシュカも、赤子の天使達も、優しく温かい存在だ。
遠い日の『怒り』の感情はどちらも間違っていなくて、どちらも正しい感情だったからこそ、否定せず、その上で仲直りできないかと思ってしまう。
そのためにはどうすればいいのか…思考は再びそちらに引っ張られ始めた。
「どうした? 眠いなら、もう部屋に戻って…」
「あ、ちが…あの…っ」
考えに没頭し、意図せず会話が途切れていた。
「無理して起きていなくてもいいぞ」
「だ、大丈夫、です…、そ…じゃなくて…」
言いながら、ルカーシュカと赤ん坊達のことについて、中途半端なところで会話は終わっており、なにも解決していなかったことを思い出す。
「あの…ち、ちっちゃい子、達と…ルカーシュカ様…と、やっぱり…あの…な、仲直り、できたら…いいな…て…」
「それはお前が気にする必要はないと───」
「だ、だって…、…ル、ルカーシュカ様も、あの子達も…や、優しいのに…どっちか、が…わ、悪い、とかじゃ、ないのに……悪くないのに…このまま…なのは…ゃ…ヤ、です…」
「……俺は、悪いことをしただろう?」
「ちが…っ、それは…だって…ルカーシュカ様が、怒った、のも…た、正しい、感情で……わ、悪い、ことじゃ…ない…はずです…っ」
「………」
「で、でも…あの子達が、おこ…て、くれたのも…あの…自分の、せい…だから…、そのせいで、こ、このまま…なのは…、あの…っ」
「…分かった。分かったから…あまり泣くな」
「…っ」
泣いてはいなかったのだが、瞬きをしたら雫が零れてしまいそうなほど水気を帯びた瞳に気づき、慌てて目元を擦った。
「おい、そんなに強く擦ったら……はぁ、少し目を閉じてろ」
「え…?」
「いいから」
「ん…」
言われるまま、ギュッと固く目を瞑ると、瞼の上がじんわりと温まり、直前の擦った感覚がスッと消えていった。
「もういいぞ」
ほんの数秒の後、パチリと目を開ければ、涙が滲んで重かった瞼はスッキリとしていて、パチパチと目を瞬いた。
(これ…エルダがたまにやってくれるやつだ…)
キラキラと光の粒子を零しながら、傷や痛みを癒してくれる粛法。それをルカーシュカが、自分に施してくれたのだと気づく。
「あ…ありがとう、ございます…」
「…ああ」
ふいと視線は逸らされてしまったが、感謝の言葉は否定されなかった。それに───…
(わかった、て…いいよって、こと…?)
自分がそうあってほしいと望むだけの我が儘にも、彼は頷いてくれた。
パァッと気持ちが晴れるような、心が軽くなるような感覚に、繋いだままの手に力が籠った。
「あ、ありがとう、ございます…! あの…わ、我が儘、言って…、ご、ごめんなさい…」
「…今のが我が儘になるのか? 随分とかわ………い、や…なんでもない。……俺も、プティとこのままというのは、流石にこたえるからな」
「ん…っ」
ルカーシュカも、現状の赤ん坊達との関係に憂いがあったことに、少しだけ安心する。あとはどうやってすれ違ってしまった仲を元に戻すかだが、もう考えは浮かんでいた。
「あの、で、できたら…あの…今みたいに…あの子達と…ぇと、一緒にいる時に…よ、横に、座って…もらえ…たら…と、思うん、です…」
エルダが言うには、赤ん坊達は、自分がルカーシュカに虐められたと思ったからこそ怒ったらしい。
ならば、虐められた訳ではないと、ルカーシュカは本当は優しい人で、今は仲良しなのだと、言葉と行動で伝えれば、分かってくれるかもしれないと思ったのだ。
「…それは、俺がお前に危害を加えないというところを、見せればいいということか?」
「き、危害じゃ…そうじゃ、なくて…その…い、今は…仲良し、だよ…て……」
そこまで言って、ハッとした。
『仲良し』だなんて、なんて烏滸がましいことを言ってしまったのだろう───!
瞬間的に萎縮した心臓に、喉から細い悲鳴が漏れた。
「ッ…、ち、ちが…! そ、そういう意味じゃ…っ!」
あくまで仲良くなったように見えれば、そのように赤子達に伝わればいいと、そんな意味合いで言ったつもりだった。
ルカーシュカやイヴァニエが優しいのも、気を遣ってくれるのも、上部だけの、見せかけの優しさではないとは分かっている。
だが優しくしてくれるのと、仲良くなりたいという気持ちは別物のはずだ。
いくら二人が優しくしてくれたとしても、それ以上を求めてはいけない。なにより、今以上に二人の重荷になるようなことは望んではいなかった。
言葉が足りなかったせいで、自分がおかしな勘違いをしていると思われるだけならまだいい。それよりも、二人におかしな勘違いを押しつけてしまう形になってしまうことの方がよほど恐ろしかった。
サァッと血の気が引いていき、心臓が気持ち悪いほど激しく脈打っていた。
「ご、ごめんなさ…っ、な、なか、よく、て…あの、ち、ちがくて…あのっ、ほ、本当じゃ、なくて、…そ、そういう風に…あの…あの子達に…つ、伝われ、ば、て…っ」
「おい、落ち着け。何も言ってないだろう」
「はっ…、ぁ…だ…だ、て…」
ドッドッと脈打つ心臓が痛い。息が苦しい。
反射的に胸元を押さえようとすれば、ルカーシュカと繋いでいた手をグッと強く握られ、ビクリと肩が跳ねた。
「ふっ…、…ふ…っ」
「…なにを怖がってるのかは知らないが、お前が不安に思うことはない。…今は仲良くしていると、プティ達に分かってもらいたいんだろう?」
「…っ、で、でも…」
「良い考えだと思うぞ。実際にその姿を見せた方が、プティ達も理解してくれるはずだ」
「ぁ…ほ、本当じゃ、なくて、い、いい…ので…」
「…本当じゃなくていいのか?」
「は、はぃ…っ、…あの、ご、ごめんなさ───」
「……俺は、本当に仲良くなれたらいいと思ってるぞ」
「………ぇ…」
耳に届いた言葉は、すぐに理解するのが難しく、ポカンとしたまま、こちらを見つめるルカーシュカの瞳を見つめ返した。
寸前までパニックになっていた頭がまともに動くはずもなく、固まっている間にルカーシュカが動いた。
お互いの間、少し空いていた距離を縮めるように、ルカーシュカがそっと位置を変えて座り直した。
(あ……)
それは言葉の通り、『隣』と言える距離だった。
互いに少し動けば体が当たってしまいそうなほど近くに座ったルカーシュカに驚いたが、気持ちはとても凪いでいた。
緊張も、妙な不安も無い。繋いだままの手も、近くなった距離も、ただ安心した。
「仲良くなれるなら、なりたいと思っている。だがそれをお前に無理強いするつもりはないし、そもそも無理強いするものでもないからな。…自然に仲を深められるならそれが一番だろうが、それが難しいことも分かってる。だからあえて言うぞ。…俺は、お前と仲良くあれたらいいと思ってる」
「…ぁ…ぇ……?」
「勿論、お前にその気がないならそれでいい。今のままでも、大して変わらないだろうしな…要は気持ちの問題だ。どちらでもいい。望む、望まないはお前次第だ。今以上を求めようとする必要もないし、こちらから強要するつもりもない。今この場で決めなくてもいい。…お前は、どうしたい?」
「…ど、う…」
耳に届いた言葉に、思考が追いつかない。
茫然とルカーシュカを見つめながら、言われた言葉を理解しようと、一つ一つ中身を噛み砕き、飲み込んでいった。
(…仲良く…)
───なれるならば、なりたい。
動きの悪い頭でも、澱みも戸惑いもなく、すんなりとそう思えた。
ただ『仲良く』とは具体的にどういう状態を指すのか、それが分からなくて、鈍い頭を必死に動かした。
(……エルダと、一緒にいる時みたい、な…?)
正確に言えば、また違うのかもしれない。だが、エルダと話す時にまったく緊張しなくなったように、気負うことなく言葉を交わし、笑って過ごせるようになったなら───少しは『仲良く』なれたということになるのだろうか?
「……、」
そわりと落ち着かない気持ちになる反面、どうしても拭えない不安に視線は下がった。
本当に、自分がそれを望んでいいのだろうか?
本当は、ルカーシュカに無理をさせているのではないだろうか?
…望んでいないことを、言わせてはいないだろうか?
(どうしよう…)
『言葉の通り受け取っていい』という言葉を忘れた訳ではないのに、それでも不安で、望むまま気持ちを伝えるのがどうしても怖くて、背を丸めた。
「……すまん。今の言い方だと返事がしにくかったな」
「…ッ」
沈黙を破るように囁かれた声に、腹の奥がズンと重くなる。
違うのだ。彼は言葉を選んで話してくれた。その上で、選択肢も逃げ道も与えてくれた。
そうまでして伝えてくれたのは、そうしないと自分には伝わらないと、きっと分かっていたからだ。だからこそ、わざわざ言葉にしてくれたのに…
「ゆっくり考えてくれ。返事はいつでも構わな───」
「ちが…っ、ちがいます…! そうじゃ…、そうじゃ、なくて…!」
逃げ道を唯一として与えてくれる彼の優しさが悲しくて、そう言わせてしまった自分の愚かさが悔しくて、声が震えた。
「そうじゃ、なくて…」
「……まだ心配か?」
「…っ!」
ルカーシュカの声にビクリと体が跳ねた。
(…自分は…どうして…)
彼は真摯に向き合ってくれているのに、それでも不安になる自分の臆病さが嫌になる。
これでは彼を、彼の言葉を、信じられないと言っているのと同義だ。こんな失礼な話があるだろうか。
(…ああ…また…)
───また、嫌な気持ちにさせてしまった。
少しだけ、ほんの少しだけ、彼らに近づけたと思っていたのに、自分のせいでまた遠く離れてしまう…そんな考えが脳内を埋め尽くし、俯いたまま顔を上げることができなかった。
「…ご、ごめ…なさ…」
「アドニス」
自分の名を呼ぶ凛とした声。その音は、とても柔らかかった。
「何度でも言うぞ。俺は、お前と仲良くありたいと思っている。嫌だと思うならこんなことは言わないし、無理をしている訳でもない。本心だ。だから、心配をしなくていい。不安に思わなくてもいい。…大丈夫だ」
「…ッ」
『大丈夫』
耳に馴染むその言葉と、力強く優しい声音に、湧き上がる感情を抑えるように唇をキツく噛んだ。
ここまで言われないと、言ってもらえないと、一歩を踏み出せない自分が心底情けない。
それでもようやく、「大丈夫」と言ってもらえてやっと、思うまま答えてもいいのだと、望んでもいいのだと許されたようで、胸を締め付ける枷がストンと落ちた。
「……ぁ…あの…」
「うん」
「じ、自分…も、…ルカーシュカ様と…な…仲良く…なりたい…です…」
「…うん」
「もっと…ちゃ、ちゃんと…お話し、できるように…、お話し、して…エ、エルダや…あの子達…みたいに、…お喋り、できる、ように…な、なりたい…です…っ」
「…そうか」
ドクン、ドクンと、大きく鼓動する心臓が痛い。
心配も不安もなかったが、自分の気持ちを素直に吐き出したことに、どうしようもなく緊張していて、繋いだ手をぎゅうっと握り締めた。
「俺もだ」
「ッ…!」
刹那、返事と共に繋いでいた手を強く握り返された。
同時に、今まで聞いたことがないような、朗らかなルカーシュカの声が鼓膜を揺らし、弾かれたように顔を上げた。
「改めて、よろしくな。アドニス」
そう言って柔らかに瞳を細めて微笑むルカーシュカ───彼の笑顔を、初めて見た。
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