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フォルセの果実
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「……少し、話しがしたい」
「…っ」
耳元で囁かれた声にピクリと肩が跳ね、反射的に片手で耳元を押さえた。
(…? ルカーシュカ様は、あそこにいるのに…声はすぐ近くで聞こえる…)
大声で話している様子もないのに、間近で聞こえる声を不思議に思いながら、バルコニーから身を乗り出すと、ルカーシュカに届くように少しだけ大きく声を発した。
「あ…あの…、わ、私も…お、お話し、したい…です…!」
自分もルカーシュカと赤ん坊達のことで、思い悩んでいたのだ。言葉を交わせる機会があるのなら、逃す訳にはいかない。
そう思い返事をしたのだが、こちらを見上げるルカーシュカはなぜか驚いたような顔をしていて、パチリと目を瞬いた。
(…あれ? …お話し、しないのかな…?)
何か間違えてしまっただろうか? 不安から言葉を重ねようと、もう少しだけ手摺りから身を乗り出した。
「あ、あの…」
「…おい、危ないぞ」
「あ…」
「俺がそっちに行く。…『いい』と言うまで目を閉じてろ」
「…え?」
「…飛んで上まで行く。その間、目を閉じてるんだ」
「…!」
「飛んで」という言葉にハッとする。
バルコニーという場所、手摺りから身を乗り出す自分、翼を広げた天使達───いつかの、恐ろしいという感情に染まった記憶が一瞬で蘇り、咄嗟に後退るとギュッと目を瞑った。
「…目は閉じたか?」
「…っ、ぅ…は、はい…っ」
すぐ真横から話し掛けられているような声に、反射的にコクコクと頷きながら、身を固くしてルカーシュカが動くのを待った。
次の瞬間、バサリと聞こえた大きな羽音に、体が強張った。相手がルカーシュカだと分かっていても、怖いと思ってしまう…そんな記憶に怯えながら、ドクドクと苦しいほどに鼓動する胸元を押さえて待つこと数秒───…
「もういいぞ」
「……、」
目の前から聞こえた声に、恐る恐る瞳を開けば、先ほどまでバルコニーから見下ろしていたルカーシュカが目の前に立っていた。
その背に翼は無く、いつも目にする彼の姿にホッと息を吐くと同時に、意識は自然と手摺りの外に向いていた。
地上から三階のバルコニーまで、羽ばたき一つで辿り着いた飛躍力にも、着地する時に物音一つしなかったことにも驚くばかりで、まじまじとルカーシュカを見つめてしまう。
「…どうした」
「あ…あ、えと、その……め、目…瞑って…て…なんで…」
見つめ返され、咄嗟に口から出たのは素朴な疑問だった。
「……怖いんだろう?」
「え…?」
「お前が、俺達に……背に翼のある姿に怯えると、エルダから聞いている」
「あ…」
それは、ずっと前にあった出来事だ。エルダを、エルダという名で呼ぶ前のこと。
バルコニーから飛び降りたエルダが、翼を広げて戻ってきた姿が、いつか見た大天使の姿と重なり、一瞬だけ怯えてしまった。
その時もその後も、エルダから深く追求されることもなく、自分もそれ以上のことは言わなかったが、口に出さなかっただけで、エルダはずっと気に掛けてくれていたのかもしれない。その上で、イヴァニエとルカーシュカにも、そのことを伝えていたのだろう。
自分に関することは、全て二人に報告しているとエルダから聞いていたが、どうやら自分が思っている以上に、些細なことも二人には周知されているらしい。
(気に掛けて、下さったんだ…)
ルカーシュカの気遣いに、じんわりと胸の内が温かくなる。
思えば、エルダの背に翼を見たのもあの一度きりで、あれ以降は一度も見ていなかった。
知らぬ間に、気づかぬ内に、自分にとっての『怖いもの』は遠ざけられ、視界に映ることも、意識の端に上る可能性そのものすら、そっと摘まれていたことにようやく気づく。
「………」
丁寧に丁寧に整えられた優しさと気遣いを嬉しく思う反面、少し…ほんの少しだけ、むず痒く感じるのは何故だろうか。
(…エルダと、ルカーシュカ様と…イヴァニエ様なら…もう、怖くないと思う…)
先ほどは以前の記憶が強く蘇ってしまい、怖いと思ってしまったが、きちんと三人を視界に映した状態であれば、たぶん…きっともう、恐怖は感じないはずだ。
「あ…あの…ありがとう、ござい、ます…あの、もう…大丈夫、です…」
なにが、とは言えなかったが、それでも伝わる気がした。
初めて二人きりで言葉を交わそうという現状に、緊張から服の裾を握り締めながら、ルカーシュカの気遣いに感謝の気持ちを伝えた。
「……?」
だがどうしてか、ルカーシュカの表情は曇ったままで、視線は自然と逸らされてしまった。
遠すぎず、だが手を伸ばしても、決して触れることができない距離を保ったまま向き合うこと数秒。なんの返事もないことに、不安と気まずさから視線が泳いだ時だった。
「……悪かった」
「……え?」
唐突に言われた言葉に、パッと顔を向ければ、悲しげな、苦しげな顔をしたルカーシュカと目が合った。
「え……え、と…え…? な、なん、の…?」
突然謝られたことも、何に対して謝られたのかも分からず狼狽えていると、ルカーシュカの視線が僅かに揺れた。
薄く開いた唇は音を発する前に閉じられ、何かを考え込むように強く引き結ばれた。
夜空色の黒い瞳が、二度、三度と瞬きし、少しだけ迷うように揺れてから、スッとこちらを見据えた。
「…今日の、昼間のこともそうだが……ずっと、謝らなければと思っていた。…ずっと、どう切り出せばいいのか分からなく……いや、それはいい。なんでもない」
「ぇ…と…?」
「……白い花が咲く場所で、初めて会った日のことを覚えているか?」
「!」
ルカーシュカの口から、あの日の出来事に触れる言葉が出たことに、驚きから目を見開いた。
「あの夜も、お前はプティと一緒に、花を見ていただけなんだろう?」
「………」
続く言葉は真実その通りだったのだが、どうしてかルカーシュカの声に滲んだ憂いに胸が痛み、返事をすることができなかった。
「…酷いことを言った。傷つけるつもりはなかった…ああ、いや…分からん。言葉に…刃を混ぜたことは確かだ。ただ、それでお前を傷つけるつもりは……傷つくとは、思ってなかったんだ」
言葉を探すように、静かに紡がれる声に、息をするのも忘れて聞き入った。
「お前がこの部屋に閉じ籠るようになったのも、プティ達と会えなくなったのも…俺の言葉が、お前を傷つけたせいだ。……すまなかった」
「ッ…!」
こちらを真っ直ぐ見つめる瞳と、真っ直ぐな言葉───腹の底から込み上げた、言葉にできない感情に強く奥歯を噛み締めた。
(……ああ…この人は…)
───なんて、優しいのだろう。
何か言葉を返したいのに、口を開けば声が震えてしまいそうで、ただ静かに呼吸を繰り返すことしか出来なかった。
ルカーシュカにとって、自分は憎い相手のはずで、心底嫌いな相手のはずだ。それは自分も理解していた。
その上で、自分が何も憶えていない、何も知らないと知って、一時的にその感情を殺して、自分と向き合ってくれているのだろうと思っていたし、恐らくそこに間違いはないはずだった。
そんなことはおくびにも出さず、柔和に接してくれていたルカーシュカ。
だがきっと、表には出さずとも、その感情はきっと今も彼の中で燻っていて、だからこそ、彼は正直に言葉の刃を自分に向けたと言ってくれたのだ。
自身の感情に嘘偽りなく、傷つけようとした訳ではなかったと、純粋な憎悪が含まれていたことを打ち明けながら、傷つけてしまったと、後悔の念を滲ませた謝罪の言葉。
それすらきっと、複雑な感情と、葛藤が混じっているはずだ。
(…ずっとって…いつからだろう…)
憎まれ、嫌われ、蔑まれるのが当然だった自分に対し、傷つけたという負い目を、彼はどれほど長い間背負い続け、どれほど苦しんだのだろう?
本当ならきっと、そんな風に感じる必要すらなかったはず…それなのに、彼は『傷つけてしまった』と、自分に対して心を痛めてくれた。
それは紛れもない、彼の優しさだ。
「許してほしいと思っている訳じゃない。ただ謝って……俺が、楽になりたかっただけだ」
「………」
(……どうして…)
どうして、そんな風に言うのだろう?
謝罪は自身のためと、そう言う彼の言葉の真意が分からず、瞳を伏せた。
その気持ちを声に出すことで、言葉の通り、彼自身の心が軽くなるというのなら良い。…ただ、本当にそうなのかが分からなかった。
読み解くことが困難な感情を前に、何も言えないことを歯痒く思っていると、不意にルカーシュカの右手が動いた。
「…お前に、返す物がある」
「え…?」
返してもらうような物など、元から持っていないはず…そう考えている間に、ルカーシュカが手にしていた何かを投げた。
「…!」
右手から投げ出されたソレは、ルカーシュカの手を離れるとふわりと浮かび、緩やかな弧を描くように自分の元まで飛んできた。
すぐ目の前までふわふわと飛んできたソレを慌てて両手で掴むと、すっぽりと手の平に収まった何かを見つめた。
「……これ、は…?」
手の平に収まっていたのは、小さな小瓶だった。
その中には、どこか見覚えのある白い砂のような物が入っていた。
「砂白というものだ。…エルダから、教わっていないか? 寿命を終えた花は砂白になり、大地に還ると」
「あ…」
そこまで言われ、ようやく白い砂のような物の正体を思い出す。
天界を覆う白い大地は全てこの砂白であり、命を終えた草花が結晶化した物だと、随分前にエルダから教わっていた。
小瓶の中身が何であるかは分かった…が、何故これをルカーシュカに渡されたのかが分からず、首を傾げた。
「あの…返すって…?」
返される物としての心当たりがないことに疑問符を浮かべていると、ルカーシュカの顔がバツが悪そうに歪んだ。
「…寝ている時、側に花を置いていなかったか?」
「え………あっ」
そう言われ、パッと蘇った記憶。と同時に、手の中にある小瓶に視線を落とした。
「俺が…俺と、イヴァニエが初めてこの部屋に来た時だ…その、お前が目覚めた時…と言えばいいんだろうか。あの時にはもう、その姿になっていた。そのままにしておけば、エルダか…エルダでなくとも、誰かが知らずに片づけてしまうだろうと思って、勝手にその場から持ち去ったんだ。…悪かった」
「………」
『悪かった』と言うルカーシュカの姿を、ただ静かに見つめた。
(…どうして、謝るんだろう…?)
彼は、自分が枕元に置いていた花を大事にしていたと、知っていたのではないか?
だからこそ、知らぬ間に片づけられてしまわないように、今の今まで持っていてくれたのではないか? それは、悪いことなのだろうか?
先ほどからずっと、自身のことを責めるように悪く言うルカーシュカも、そう言わせてしまっている自分も悲しくて、唇を噛んだ。
「わ、悪いこと、なんて…ない…です…、ずっと…も、持ってて、くれて…あ、ありがとう…ございます…」
「…大事にしていた物だろう。勝手に持ち出したんだぞ?」
「だ、大事な物…て、し…知ってた、から…だから…あの…無く、ならない、ように…も、持っていて、下さった…の、でしょう…?」
「………」
「…なら、嬉しい…です」
「……そうか」
ルカーシュカから、否定する言葉は返ってこなかった。言葉が途切れ、短い沈黙が流れた後、思い切って口を開いた。
「あ、あの…なんで…、なんで…あの…お、花…大事に、してるって…」
知っていたのか───そう続けようとした言葉は、悲し気に揺れるルカーシュカの瞳の色に呑まれ、喉の奥に詰まったまま、音になることはなかった。
お互い息を殺すような静寂が流れた後、ルカーシュカの口が小さく開いた。
「……プティが、毎晩この部屋を訪れていたのを見たんだ」
「え…?」
「お前が部屋から出てこなくなった後も、あの子達はずっと、お前の元に通っていたんだろう。毎日毎日…花を持って、此処に来ていたはずだ」
「……あ」
『此処』と言われた場所は、長い間、赤ん坊達と過ごしていたバルコニーだ。
そんなルカーシュカの言葉とバルコニーという場所で思い出したのは、窓際で山のように積み重なった沢山の花々のことだった。
(もしかして…ルカーシュカ様が、エルダに花のことを教えてくれた…?)
以前エルダに誘われるまま、久方ぶりに足を踏み出したバルコニーでそれを目にした時、誰から贈られた物かはすぐに気づいた。
それなのに、教えてくれた当のエルダは何も知らない様子だったのが、少し不思議だったのだ。
「…あの…お花…いっぱい…ありました…」
「…そうだな」
「…エルダに…教えて、くれたのも…ルカーシュカ様…?」
「…他に、知ってる奴がいなかっただけだ」
「………」
肯定と捉えていいはずなのに、「ありがとうございます」の一言を言わせてもらえない雰囲気に気づいたのと、どうしてか突き放されているように感じたのは、ほぼ同時だった。
「此処に来たのは、お前に謝りたかったのと、それを返したかっただけだ。……邪魔して悪かった。じゃあな」
「っ…!」
戸惑いから言い淀んでいる間に、ルカーシュカの体が緩やかに動いた。目が合うこともないまま、踵を返してしまったルカーシュカに、ザワリと胸が騒いだ。
───彼とは、また会えるのだろうか?
咄嗟に過ったのは、そんな考えだった。
何故だか、今の言葉が、背を向けるルカーシュカの姿が、別れを告げられたように思えて息を呑んだ。
何かを言われた訳でもないのに、どこか確証めいた不安に、サァッと体が冷えていく。
三日に一度会おうという約束通り、また三日後に、ルカーシュカはイヴァニエと共に来てくれるだろうか?
何も告げず、来なくなってしまったりしないだろうか?
(ま…て…まって…っ)
背を向けたまま、手摺りに手を掛けたルカーシュカが、大きく身を乗り出した。
その姿は、いつか同じようにバルコニーから飛び降りたエルダの姿とそっくりで、そのまま行かせてしまったら、もう自分には後を追うことが出来なくなってしまうという焦燥感に、ドクリと大きく心臓が跳ねた。
───波のように押し寄せる不安から、体は反射的に動いていた。
「ま…まって…!」
「…!?」
ルカーシュカの後を追うように動いた足は、ほんの数歩で距離を詰め、咄嗟に伸ばした手は、彼が羽織っていたローブの端を掴んでいた。
「ま…まって、くださ…っ、ま、まだ…お、お話し…っ、してない…です…っ」
「………」
振り返ったルカーシュカは目を見開き、とても驚いた顔をしていた。
身を乗り出した姿勢のまま、固まってしまった彼のローブを掴んだ手に、ギュッと力を籠める。
「じ、自分も、お、お話し…したい、です…!」
このまま別れてはいけない───本能的に伸ばしてしまった手だったが、彼と赤ん坊のことについて、自分はまだ何も話せていないことを思い出し、こちらを見つめるルカーシュカの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「も、もう少し…、少し、だけ…お、おは、なし…して、下さい…っ」
シンと静まり返った夜の中、心臓の鼓動の音だけが、やけに大きく響いて聞こえた。
「…っ」
耳元で囁かれた声にピクリと肩が跳ね、反射的に片手で耳元を押さえた。
(…? ルカーシュカ様は、あそこにいるのに…声はすぐ近くで聞こえる…)
大声で話している様子もないのに、間近で聞こえる声を不思議に思いながら、バルコニーから身を乗り出すと、ルカーシュカに届くように少しだけ大きく声を発した。
「あ…あの…、わ、私も…お、お話し、したい…です…!」
自分もルカーシュカと赤ん坊達のことで、思い悩んでいたのだ。言葉を交わせる機会があるのなら、逃す訳にはいかない。
そう思い返事をしたのだが、こちらを見上げるルカーシュカはなぜか驚いたような顔をしていて、パチリと目を瞬いた。
(…あれ? …お話し、しないのかな…?)
何か間違えてしまっただろうか? 不安から言葉を重ねようと、もう少しだけ手摺りから身を乗り出した。
「あ、あの…」
「…おい、危ないぞ」
「あ…」
「俺がそっちに行く。…『いい』と言うまで目を閉じてろ」
「…え?」
「…飛んで上まで行く。その間、目を閉じてるんだ」
「…!」
「飛んで」という言葉にハッとする。
バルコニーという場所、手摺りから身を乗り出す自分、翼を広げた天使達───いつかの、恐ろしいという感情に染まった記憶が一瞬で蘇り、咄嗟に後退るとギュッと目を瞑った。
「…目は閉じたか?」
「…っ、ぅ…は、はい…っ」
すぐ真横から話し掛けられているような声に、反射的にコクコクと頷きながら、身を固くしてルカーシュカが動くのを待った。
次の瞬間、バサリと聞こえた大きな羽音に、体が強張った。相手がルカーシュカだと分かっていても、怖いと思ってしまう…そんな記憶に怯えながら、ドクドクと苦しいほどに鼓動する胸元を押さえて待つこと数秒───…
「もういいぞ」
「……、」
目の前から聞こえた声に、恐る恐る瞳を開けば、先ほどまでバルコニーから見下ろしていたルカーシュカが目の前に立っていた。
その背に翼は無く、いつも目にする彼の姿にホッと息を吐くと同時に、意識は自然と手摺りの外に向いていた。
地上から三階のバルコニーまで、羽ばたき一つで辿り着いた飛躍力にも、着地する時に物音一つしなかったことにも驚くばかりで、まじまじとルカーシュカを見つめてしまう。
「…どうした」
「あ…あ、えと、その……め、目…瞑って…て…なんで…」
見つめ返され、咄嗟に口から出たのは素朴な疑問だった。
「……怖いんだろう?」
「え…?」
「お前が、俺達に……背に翼のある姿に怯えると、エルダから聞いている」
「あ…」
それは、ずっと前にあった出来事だ。エルダを、エルダという名で呼ぶ前のこと。
バルコニーから飛び降りたエルダが、翼を広げて戻ってきた姿が、いつか見た大天使の姿と重なり、一瞬だけ怯えてしまった。
その時もその後も、エルダから深く追求されることもなく、自分もそれ以上のことは言わなかったが、口に出さなかっただけで、エルダはずっと気に掛けてくれていたのかもしれない。その上で、イヴァニエとルカーシュカにも、そのことを伝えていたのだろう。
自分に関することは、全て二人に報告しているとエルダから聞いていたが、どうやら自分が思っている以上に、些細なことも二人には周知されているらしい。
(気に掛けて、下さったんだ…)
ルカーシュカの気遣いに、じんわりと胸の内が温かくなる。
思えば、エルダの背に翼を見たのもあの一度きりで、あれ以降は一度も見ていなかった。
知らぬ間に、気づかぬ内に、自分にとっての『怖いもの』は遠ざけられ、視界に映ることも、意識の端に上る可能性そのものすら、そっと摘まれていたことにようやく気づく。
「………」
丁寧に丁寧に整えられた優しさと気遣いを嬉しく思う反面、少し…ほんの少しだけ、むず痒く感じるのは何故だろうか。
(…エルダと、ルカーシュカ様と…イヴァニエ様なら…もう、怖くないと思う…)
先ほどは以前の記憶が強く蘇ってしまい、怖いと思ってしまったが、きちんと三人を視界に映した状態であれば、たぶん…きっともう、恐怖は感じないはずだ。
「あ…あの…ありがとう、ござい、ます…あの、もう…大丈夫、です…」
なにが、とは言えなかったが、それでも伝わる気がした。
初めて二人きりで言葉を交わそうという現状に、緊張から服の裾を握り締めながら、ルカーシュカの気遣いに感謝の気持ちを伝えた。
「……?」
だがどうしてか、ルカーシュカの表情は曇ったままで、視線は自然と逸らされてしまった。
遠すぎず、だが手を伸ばしても、決して触れることができない距離を保ったまま向き合うこと数秒。なんの返事もないことに、不安と気まずさから視線が泳いだ時だった。
「……悪かった」
「……え?」
唐突に言われた言葉に、パッと顔を向ければ、悲しげな、苦しげな顔をしたルカーシュカと目が合った。
「え……え、と…え…? な、なん、の…?」
突然謝られたことも、何に対して謝られたのかも分からず狼狽えていると、ルカーシュカの視線が僅かに揺れた。
薄く開いた唇は音を発する前に閉じられ、何かを考え込むように強く引き結ばれた。
夜空色の黒い瞳が、二度、三度と瞬きし、少しだけ迷うように揺れてから、スッとこちらを見据えた。
「…今日の、昼間のこともそうだが……ずっと、謝らなければと思っていた。…ずっと、どう切り出せばいいのか分からなく……いや、それはいい。なんでもない」
「ぇ…と…?」
「……白い花が咲く場所で、初めて会った日のことを覚えているか?」
「!」
ルカーシュカの口から、あの日の出来事に触れる言葉が出たことに、驚きから目を見開いた。
「あの夜も、お前はプティと一緒に、花を見ていただけなんだろう?」
「………」
続く言葉は真実その通りだったのだが、どうしてかルカーシュカの声に滲んだ憂いに胸が痛み、返事をすることができなかった。
「…酷いことを言った。傷つけるつもりはなかった…ああ、いや…分からん。言葉に…刃を混ぜたことは確かだ。ただ、それでお前を傷つけるつもりは……傷つくとは、思ってなかったんだ」
言葉を探すように、静かに紡がれる声に、息をするのも忘れて聞き入った。
「お前がこの部屋に閉じ籠るようになったのも、プティ達と会えなくなったのも…俺の言葉が、お前を傷つけたせいだ。……すまなかった」
「ッ…!」
こちらを真っ直ぐ見つめる瞳と、真っ直ぐな言葉───腹の底から込み上げた、言葉にできない感情に強く奥歯を噛み締めた。
(……ああ…この人は…)
───なんて、優しいのだろう。
何か言葉を返したいのに、口を開けば声が震えてしまいそうで、ただ静かに呼吸を繰り返すことしか出来なかった。
ルカーシュカにとって、自分は憎い相手のはずで、心底嫌いな相手のはずだ。それは自分も理解していた。
その上で、自分が何も憶えていない、何も知らないと知って、一時的にその感情を殺して、自分と向き合ってくれているのだろうと思っていたし、恐らくそこに間違いはないはずだった。
そんなことはおくびにも出さず、柔和に接してくれていたルカーシュカ。
だがきっと、表には出さずとも、その感情はきっと今も彼の中で燻っていて、だからこそ、彼は正直に言葉の刃を自分に向けたと言ってくれたのだ。
自身の感情に嘘偽りなく、傷つけようとした訳ではなかったと、純粋な憎悪が含まれていたことを打ち明けながら、傷つけてしまったと、後悔の念を滲ませた謝罪の言葉。
それすらきっと、複雑な感情と、葛藤が混じっているはずだ。
(…ずっとって…いつからだろう…)
憎まれ、嫌われ、蔑まれるのが当然だった自分に対し、傷つけたという負い目を、彼はどれほど長い間背負い続け、どれほど苦しんだのだろう?
本当ならきっと、そんな風に感じる必要すらなかったはず…それなのに、彼は『傷つけてしまった』と、自分に対して心を痛めてくれた。
それは紛れもない、彼の優しさだ。
「許してほしいと思っている訳じゃない。ただ謝って……俺が、楽になりたかっただけだ」
「………」
(……どうして…)
どうして、そんな風に言うのだろう?
謝罪は自身のためと、そう言う彼の言葉の真意が分からず、瞳を伏せた。
その気持ちを声に出すことで、言葉の通り、彼自身の心が軽くなるというのなら良い。…ただ、本当にそうなのかが分からなかった。
読み解くことが困難な感情を前に、何も言えないことを歯痒く思っていると、不意にルカーシュカの右手が動いた。
「…お前に、返す物がある」
「え…?」
返してもらうような物など、元から持っていないはず…そう考えている間に、ルカーシュカが手にしていた何かを投げた。
「…!」
右手から投げ出されたソレは、ルカーシュカの手を離れるとふわりと浮かび、緩やかな弧を描くように自分の元まで飛んできた。
すぐ目の前までふわふわと飛んできたソレを慌てて両手で掴むと、すっぽりと手の平に収まった何かを見つめた。
「……これ、は…?」
手の平に収まっていたのは、小さな小瓶だった。
その中には、どこか見覚えのある白い砂のような物が入っていた。
「砂白というものだ。…エルダから、教わっていないか? 寿命を終えた花は砂白になり、大地に還ると」
「あ…」
そこまで言われ、ようやく白い砂のような物の正体を思い出す。
天界を覆う白い大地は全てこの砂白であり、命を終えた草花が結晶化した物だと、随分前にエルダから教わっていた。
小瓶の中身が何であるかは分かった…が、何故これをルカーシュカに渡されたのかが分からず、首を傾げた。
「あの…返すって…?」
返される物としての心当たりがないことに疑問符を浮かべていると、ルカーシュカの顔がバツが悪そうに歪んだ。
「…寝ている時、側に花を置いていなかったか?」
「え………あっ」
そう言われ、パッと蘇った記憶。と同時に、手の中にある小瓶に視線を落とした。
「俺が…俺と、イヴァニエが初めてこの部屋に来た時だ…その、お前が目覚めた時…と言えばいいんだろうか。あの時にはもう、その姿になっていた。そのままにしておけば、エルダか…エルダでなくとも、誰かが知らずに片づけてしまうだろうと思って、勝手にその場から持ち去ったんだ。…悪かった」
「………」
『悪かった』と言うルカーシュカの姿を、ただ静かに見つめた。
(…どうして、謝るんだろう…?)
彼は、自分が枕元に置いていた花を大事にしていたと、知っていたのではないか?
だからこそ、知らぬ間に片づけられてしまわないように、今の今まで持っていてくれたのではないか? それは、悪いことなのだろうか?
先ほどからずっと、自身のことを責めるように悪く言うルカーシュカも、そう言わせてしまっている自分も悲しくて、唇を噛んだ。
「わ、悪いこと、なんて…ない…です…、ずっと…も、持ってて、くれて…あ、ありがとう…ございます…」
「…大事にしていた物だろう。勝手に持ち出したんだぞ?」
「だ、大事な物…て、し…知ってた、から…だから…あの…無く、ならない、ように…も、持っていて、下さった…の、でしょう…?」
「………」
「…なら、嬉しい…です」
「……そうか」
ルカーシュカから、否定する言葉は返ってこなかった。言葉が途切れ、短い沈黙が流れた後、思い切って口を開いた。
「あ、あの…なんで…、なんで…あの…お、花…大事に、してるって…」
知っていたのか───そう続けようとした言葉は、悲し気に揺れるルカーシュカの瞳の色に呑まれ、喉の奥に詰まったまま、音になることはなかった。
お互い息を殺すような静寂が流れた後、ルカーシュカの口が小さく開いた。
「……プティが、毎晩この部屋を訪れていたのを見たんだ」
「え…?」
「お前が部屋から出てこなくなった後も、あの子達はずっと、お前の元に通っていたんだろう。毎日毎日…花を持って、此処に来ていたはずだ」
「……あ」
『此処』と言われた場所は、長い間、赤ん坊達と過ごしていたバルコニーだ。
そんなルカーシュカの言葉とバルコニーという場所で思い出したのは、窓際で山のように積み重なった沢山の花々のことだった。
(もしかして…ルカーシュカ様が、エルダに花のことを教えてくれた…?)
以前エルダに誘われるまま、久方ぶりに足を踏み出したバルコニーでそれを目にした時、誰から贈られた物かはすぐに気づいた。
それなのに、教えてくれた当のエルダは何も知らない様子だったのが、少し不思議だったのだ。
「…あの…お花…いっぱい…ありました…」
「…そうだな」
「…エルダに…教えて、くれたのも…ルカーシュカ様…?」
「…他に、知ってる奴がいなかっただけだ」
「………」
肯定と捉えていいはずなのに、「ありがとうございます」の一言を言わせてもらえない雰囲気に気づいたのと、どうしてか突き放されているように感じたのは、ほぼ同時だった。
「此処に来たのは、お前に謝りたかったのと、それを返したかっただけだ。……邪魔して悪かった。じゃあな」
「っ…!」
戸惑いから言い淀んでいる間に、ルカーシュカの体が緩やかに動いた。目が合うこともないまま、踵を返してしまったルカーシュカに、ザワリと胸が騒いだ。
───彼とは、また会えるのだろうか?
咄嗟に過ったのは、そんな考えだった。
何故だか、今の言葉が、背を向けるルカーシュカの姿が、別れを告げられたように思えて息を呑んだ。
何かを言われた訳でもないのに、どこか確証めいた不安に、サァッと体が冷えていく。
三日に一度会おうという約束通り、また三日後に、ルカーシュカはイヴァニエと共に来てくれるだろうか?
何も告げず、来なくなってしまったりしないだろうか?
(ま…て…まって…っ)
背を向けたまま、手摺りに手を掛けたルカーシュカが、大きく身を乗り出した。
その姿は、いつか同じようにバルコニーから飛び降りたエルダの姿とそっくりで、そのまま行かせてしまったら、もう自分には後を追うことが出来なくなってしまうという焦燥感に、ドクリと大きく心臓が跳ねた。
───波のように押し寄せる不安から、体は反射的に動いていた。
「ま…まって…!」
「…!?」
ルカーシュカの後を追うように動いた足は、ほんの数歩で距離を詰め、咄嗟に伸ばした手は、彼が羽織っていたローブの端を掴んでいた。
「ま…まって、くださ…っ、ま、まだ…お、お話し…っ、してない…です…っ」
「………」
振り返ったルカーシュカは目を見開き、とても驚いた顔をしていた。
身を乗り出した姿勢のまま、固まってしまった彼のローブを掴んだ手に、ギュッと力を籠める。
「じ、自分も、お、お話し…したい、です…!」
このまま別れてはいけない───本能的に伸ばしてしまった手だったが、彼と赤ん坊のことについて、自分はまだ何も話せていないことを思い出し、こちらを見つめるルカーシュカの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「も、もう少し…、少し、だけ…お、おは、なし…して、下さい…っ」
シンと静まり返った夜の中、心臓の鼓動の音だけが、やけに大きく響いて聞こえた。
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唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

朝起きたら幼なじみと番になってた。
オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。
隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた
思いつきの書き殴り
オメガバースの設定をお借りしてます

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