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フォルセの果実
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「お邪魔しますよ」
「ようこそおいで下さいました。イヴァニエ様、ルカーシュカ様」
イヴァニエとルカーシュカが定期的に部屋を訪れるようになって、数週間が過ぎた。
彼らと言葉を交わすことが叶ったあの日、定期的に会わないかと言われた言葉の通り、二人とは三日に一度の頻度で顔を合わせるようになっていた。
と言っても、実際に二人が滞在する時間はそう長くはない。顔を合わせているのは僅かと言える時間だったが、それでも回数をこなす内に、自然と緊張は和らいでいった。
「そういえば、来月はどこかの国で星祭りがありましたね」
「ああ、あれはどこの国だったかな…こちらにも祈りがよく届く、良い祭りだ。今代の星守りが優秀なんだろう」
定位置となった向かい合わせの長椅子に腰を落ち着け、二人の会話に耳を傾ける。
そんな彼らとの対話だが、実際に話しているのはほとんどイヴァニエとルカーシュカの二人だけで、自分は聞いているだけだった。
これは無視されているという訳ではなく、ちゃんと意味があった。
『まずはお二人と一緒にいることから慣れていきましょう』
定期的に顔を合わせることが決まった時、エルダから言われたことだ。
会話をするにも、まずは二人に慣れる必要がある、ということだった。
『お二人が同じ部屋の中、お側にいることに慣れることから始めましょう。会話に加わらなくとも、同じ空間で一緒に過ごすことが大事です。お二人が側にいることを自然に感じられるようになれば、自ずと会話もできるようになるはずです』
そう言われ、最初の頃は本当に向かい側に座る二人の会話を聞いているだけだった。
正直それだけでも緊張して、何を話しているのか半分も頭に入ってこなかったが、黙ってその場で二人と一緒にいることはできた。
隣には変わらずエルダに座ってもらっていたが、それでもちゃんと、イヴァニエとルカーシュカの姿を見ながら話しを聞くことができた…と思う。
そうして彼らと一緒に過ごすこと、同じ空間にいることに徐々に慣れていくことを目的とした顔合わせを何度か繰り返した頃、不意に話しを振られるようになった。
その頃には、彼らと向かい合って座り、ただ黙って話しを聞くことにはだいぶ慣れていたし、話しの内容は分からずとも、“どんなことを話しているのか”を理解できるくらいには、心に余裕もできていた。
『───アドニス』
『ふあっ!? へ、は、はい…っ』
気を抜いていたところに急に話しかけられ、ビクリと体が跳ねた。
『え…ぁ……う…?』
『今の話で、何か分からないことや、気になることはありましたか?』
『え…? ぇ…ぇと…』
言われている言葉は理解できるが、なんと答えればいいのか分からない。…いや、分からないというより───…
(い、言って…いいのかな…?)
イヴァニエもルカーシュカも、自分が何も憶えていないこと、知識のほとんどを失っていることは、エルダを通して知っていると聞いていた。
分からないことを『分からない』と正直に答えても、怪訝な顔をされることは恐らく無いだろう。
それでもやはり、おかしなことを聞く、変なことを聞くと思われるのが怖くて、言葉に詰まってしまった。
『ぁ…あの……』
言葉を探しつつ、チラリと横に座るエルダに視線を送る。
目が合ったエルダは、声にこそ出さなかったが、その瞳が『大丈夫ですよ』と言うように細められたのを見て、ホッと息を吐いた。
(だ、大丈夫…かな…)
チラリと向かい側に座る二人の様子を窺いながら、恐々と口を開いた。
『ぁ、ぅ……その…じゃあ…あの…、だ、大天使…様、達の…その、お役目に、ついて…』
『ええ、何が気になりました?』
『えと…お、お役目、て───…』
そうして恐る恐る尋ねた質問に、イヴァニエもルカーシュカも、丁寧に言葉を返してくれた。
疑問を言葉にするのはとてつもなく緊張したが、二人の反応は至って落ち着いていて、次第に緊張も解けていった。
その上で、せっかくの返答を聞き漏らすことがないようにと、彼らの言葉に真剣に耳を傾けた。
その日から、二人の会話の合間合間に、自分にも話し掛けてくれることが増えた。
最初の頃は話し掛けられるたびに狼狽え、話しを聞くだけでいっぱいいっぱいだったが、幾度も繰り返す内に、ふとあることに気づいた。
───イヴァニエも、ルカーシュカも、自分が知らないこと、分からないことを訊ねることで、知識を授けてくれているのだ…と。
きっと自分の質問のほとんどは、この世界に住まう者ならば常識と思われるような、当たり前のことばかりだろう。そんな呆れられてしまうような疑問でも、二人は丁寧に答えてくれた。
一つの疑問に答えてもらう中で、知らない言葉や分からないことがあれば、その都度教えてくれる。そうやって一つの質問に対して、十のことを教えてくれるのだ。
イヴァニエとルカーシュカ、二人と過ごす時間に慣れることから始まり、自分の知らないことを教えてもらうという行為の中で言葉を交わし、そうして少しずつ『交流』と呼べるようなやりとりを交わす───自分の足りない知識を補いながらも、自然と会話が出来るような環境を整えてくれていた…そんな彼らの気遣いに気づいた時には、顔を合わせるようになってから、一月以上の月日が過ぎていた。
「…エルダ」
「はい、アドニス様。…いかがなさいましたか?」
今日も、イヴァニエとルカーシュカがやって来る。
最初の頃は、本当に僅かとしか呼べない短い時間の対面だったが、顔を合わせる時間は日に日に長くなり、今では半時間ほどの時を一緒に過ごすようになっていた。
恒例となった昼三時の訪問を目前に、長椅子に腰掛けてその時を待ちながら、傍らに立つエルダを見上げた。
「アドニス様?」
心配そうなエルダの表情から、自分が今情けない顔をしているのだと思い知る。
「あの…わ、私…あの…」
気づいてしまったことに対し、ただ黙っていることができなくて、ついエルダに声を掛けてしまったが、なんと言っていいのか分からない。
落ち着かない気持ちから、服の端を掴んだ手を、意味もなくもじもじと動かした。
「…どうなさいました? じきにお二人がお見えになりますが…今日はお休みなさいますか?」
「えっ…ち、ちが…そうじゃ、なくて……そうじゃ…なくて…」
なんと言えばいいのか、言葉を探すが、自分の気持ちを上手く言葉に置き換えられず、もどかしさから服の裾を掴んだ手をギュっと握り締めた。
「…アドニス様、なにか気になることがございましたら、どうぞ仰って下さいませ」
そっと場所を移動したエルダが、正面で片膝をつき、握り締めていた手をやんわりと解いた。
そうして解かれた手の平を、エルダの細い指先が握る。イヴァニエとルカーシュカと対面している間も、最初の時から変わらず、エルダはずっとこうして手を繋いでいてくれた。
細く華奢なこの手に、どれほど安心し、勇気を与えられたことか…握られた指先を柔く握り返しながら、柔らかに笑む翠の瞳を見つめた。
「あ、の…あのね…、ずっと…あの、自分のこと、ばかりで…気づけなかったんだけど……イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も…じ、自分に、色々…教えて、下さるために…そのために、お話しして、くれてる…よね…?」
「…!」
「分かんないことも…い、嫌な、お顔しないで、全部…教えて下さる…し…、そうやって、聞いて下さるから…だから、お話しすることも…できてるんだって……あの、ご、ごめんね…! この前、やっと…気づいて…」
「アドニス様…」
「ご、ごめんね…! 全然、気づけなくて…いつも…あの…ずっと…自分のことしか、考えられなくて…ごめ───」
「アドニス様、そのように仰らないで下さいませ」
「で、でも…」
エルダに預けた指先を、彼の手がギュッと握り締めた。
「仰る通り、イヴァニエ様もルカーシュカ様も、アドニス様の欠けてしまった知識を補うためにお話しして下さっています。そうすることで、会話を増やしているのも事実です。でも、そのこと自体は決して悪いことではないでしょう? お話しの内容を選び、会話を続けるキッカケを作ることは、とても大切なことですよ」
「で、でも…その、私…分かってなくて…いつもただ、聞いてるだけで…、お二人が…その…お、お心を、配って下さってた、ことにも、気づかなくて…自分のこと、ばかりで…、まだ…だって……緊張も、しちゃう、し…」
「…アドニス様、緊張していても、それでもお気づきになれたのは、喜ばしいことではございませんか?」
「……え?」
「アドニス様が、本当にご自身のことしか考えられなかったのであれば、そのことに気づくことも出来なかったはずです。でも、ご自身でちゃんとお気づきになれたのでしょう? 知らないことを、お二人が教えて下さるだけでなく、そこにお二人の御心配りがあったのだと、アドニス様がご自身で気づけたのは、お二人に対して、アドニス様の御心に余裕ができたからではないでしょうか?」
「あ…」
そう言われてハッとする。確かに、今までは二人の話しを聞くだけでいっぱいいっぱいだった。
それがいつの頃からか、二人の顔を見ながら、目を合わせて話しを聞けるようになり、言われたことに対して「何が分からないか」「どう言葉にすればきちんと相手に伝わるか」、考えながら話せるようになっていた。
「まだお二人に緊張されてしまうのは、仕方のないことです。ご自身のことでいっぱいになってしまうのも当然のことです。そんな中で、アドニス様はきちんとお二人のことを考えられるようになったのですから、喜ばしいことではございませんか」
「っ…」
そう言って微笑んでくれるエルダは、本当に喜ばしいことだと思ってくれているのだろう。
ただ、自分がそれを手放しで喜んでいいとは思えず、視線は下がった。
「でも…あの…」
「…アドニス様、アドニス様は頑張っていらっしゃいますよ。同じように、お二人も、慣れぬアドニス様に少しでも慣れて頂こうと、努めて下さっております。もしもアドニス様が、ご自身に対してご不満があり、納得できないのであれば、どうすればご納得できるか、そのお気持ちを言葉や行動にして、お二人にお返しできれば、御心も軽くなるのではございませんか?」
「…お返し…」
確かに、与えてもらうばかりで、何も返せていない。とはいえ、彼らへのお返しを考えるなど、エルダの時以上に困難だ。
言葉で…と言うなら、感謝の言葉を伝えるべきなのだろうが、「自分のためにありがとうございます」などと言うのは憚られる。かと言って行動で、というのは尚のこと難しい。
「…ど、どうしたら、いいの…?」
本当に分からない。
どうしたら、どのように行動し、どのような言葉を言えば、二人への感謝の気持ちになるのか? なにが正解になるのか? それが自分には分からなかった。
「…アドニス様は、どうしたいですか?」
「どう…て…」
「アドニス様がお二人の御心配りに気づいた今、なにより大切なのは、それを知った上で、アドニス様がどうされたいかです。…難しく考えなくていいのです。アドニス様が、お二人に対するご自身のお気持ちを、言葉や行動にして表すことができたなら…それは、お二人がアドニス様のために努めて下さったことへの成果であり、なによりのお返しになりませんか?」
───自分のため…そう言われ、キュッと唇を噛んだ。
本当に、心配してもらえているのだろうと思う。
自分自身ですら、自分のことが分からないのだ。下手をすれば、得体が知れないと忌避され、今まで以上に遠ざけられてもおかしくない相手に、向き合い、心を砕いてくれる───その優しさに、胸が苦しくなった。
(どうしたい…自分は、どうしたいの…?)
なにがしたいのか、どうしたいのか…思考を巡らせ、考え、自分自身に問い掛ける。
「……エ、エルダ…」
「はい、アドニス様」
本当に自分が望むことをそのまま口にしていいのか? 悪いことではないだろうか? …不快な気持ちにさせないだろうか?
そんな不安が何度も湧き上がり、そのたびに振り払った。
(ちがう…っ、そんな風に考えるのは、失礼だ…!)
これが正しい答えになるのか、自信など欠片も無い。不安しかない。
それでも今は、エルダの言葉を、与えてもらえた優しさを、ただ信じたかった。
「ぁの…、お、お話し…っ」
「はい」
「も…もぅちょっと、だけ…ちゃんと、お、お話し…、お二人と…お話し、できるように…な、なりたいと、思う…」
自信の無さから、語尾はどんどん小さくなってしまった。言いながら自然と俯いてしまった顔を上げることができず、堪らずにぎゅっと目を瞑った。
「───畏まりました」
「…っ」
耳に届いた優しい声に、反射的に顔を上げれば、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべるエルダと目が合った。
「お二人と、もう少しお話しができるように、そのためにアドニス様も、頑張れますか?」
「う、うん…!」
「ならば私も、微力ながらお手伝いさせて頂きます。…では、早速本日から、もう少し『お話し合い』らしく、場を整えましょう。大変かとは思いますが、頑張りましょうね」
「…うん?」
場を整えるとはどういうことだろう?
浮かんだ疑問に首を傾げるが、その答えはすぐに分かることとなった。
エルダとのやりとりがあってから間もなく、イヴァニエとルカーシュカが部屋を訪れた。
いつも通り、向かい合わせになった長椅子に座った二人だが、その表情には明らかな困惑が浮かんでいた。
それもそうだろう。何故なら、いつもなら自分の隣に座っているはずのエルダは傍らに立ったまま控えており、自分は一人掛けの椅子に座っているのだから。
(頑張るって、言ったけど…!)
一人掛けの椅子に座り、縮こまったまま、心の中で泣き言を漏らした。
一刻前の話だ。
「では本日から、私はアドニス様のお隣に座ることは致しません」
「へ?」
あまりにも唐突に、突然に、突拍子もないことを言われ、一瞬思考が飛んでしまった。
「え…えっ、な、なんで…!?」
「…アドニス様も、お気づきなのではないですか? 従者である私が、御三方と一緒の席に座るのは、本当はいけないことなのではないか、と」
「う…」
困ったように笑うエルダに、思わず言葉に詰まってしまった。
エルダの言う通り、本当はエルダが隣に座っているのは、あまり良くないことなのだろうと、彼やイヴァニエ達の言動から薄々察してはいた。
だが一人でイヴァニエとルカーシュカに向き合う勇気がなく、何も言われないことに甘えて、ずっと黙っていたのだ。
「本来、従者が同席するのは、あまり褒められたことではございません。ほとんどはその場にいないか、控えていても後方にいるはずです。いつまでもこのまま…という訳にはいかないでしょう。お隣に座ることも、そろそろ止めなければいけません」
「そ、そんな…っ」
「ご安心下さいませ。その場からいなくなったりはしません。お席の隣、視界に入る場所に控えていたいと思います。…御三方だけでお話しができるように、少しずつ慣れていきましょう?」
(席の隣って…)
自身が座る長椅子をチラリと見遣る。
三人は楽に座れそうな大きな椅子だ。当たり前だが、横に広いそれは端と端までが離れており、仮に真ん中に座った場合、手を伸ばしたところで肘掛けに手が届かないような大きさだ。
その横に控えていると言われても、実際はとても離れていることになる。長椅子の端に寄って座ればまだ良いかもしれないが、そうするとイヴァニエとルカーシュカの正面の位置からズレてしまう。…恐らく、それは良くないと言われてしまうだろう。
「…ぅ…、ゃ…、やだ…」
ふるふると首を横に振りながら、我慢できずに口から零れたのは、紛れもない弱音だった。
「むり…、むりだよ…っ」
「アドニス様…」
「だ、だって…、エルダが遠くなっちゃう…!」
「………」
半泣きになりながら、無理だと訴える。
今まではエルダが隣にいて、手を繋いでいてくれたからまだ平気だったのだ。それが急に一人にされ、エルダは手の届かないところへ移動してしまう。
途端に湧いた恐怖と不安に「やだ…」と小さく漏らせば、暫しの沈黙が流れた。
「……では、こちらの椅子ならばいかがですか?」
「え…?」
『こちら』と言われ、視線を動かせば、何も無い空間から一つの椅子が現れた。
驚きから肩が揺れたが、物を収納しているという例の不思議な空間から取り出されたのだろう。
目の前に置かれたそれは、見るからにふかふかとしたマットと、高さのある背もたれと肘掛けが印象的な一人掛け用の椅子だった。
「こちらなら、いかがでしょう? お隣には座れませんが、このすぐ横に控えておりますので、今までと然程距離は変わらないはずです」
「ぅ……」
そう言われ、ジッとその椅子を見つめる。
確かに、これならエルダを遠くに感じることはないだろう…ないだろうが…
「アドニス様、大丈夫です。お隣に座っているか、立っているかの違いです」
「うぅ…」
「…大丈夫です。頑張りましょう?」
「うぅ…っ、…ふぁ、はぃ…」
頑張ると答えた手前、それ以上の我が儘を言えるはずもなく、半泣きになりながら、エルダが椅子を入れ替えている様子を眺めることしか出来なかった。
そうして今、エルダに言われた通り、一人掛けの椅子に座っていた。
幸いだったのは、椅子のクッションが非常に柔らかく、深く座れるため、高い背もたれと肘掛けに囲われているような安心感があったことだ。
エルダもすぐ隣に立っており、身長の関係で目線の高さも近いので、思っていたほどの不安に襲われることはなかったが、手持ち無沙汰になってしまった手の平が落ち着かず、気を紛らわせるように、クッションを抱え込んだ。
「…今日は、どうしたんだ?」
「今までは私が同席していたことも、お二人にお目溢し頂いておりましたが、このままではアドニス様のためにならないと思い、このような形に変えさせて頂きました。…恐れながら、お側を離れることは難しく、こちらに控えさせて頂くことをお許し下さい」
「それは構わないが……大丈夫か?」
「…っ」
薄く眉間に皺を寄せ、こちらに視線を向けるルカーシュカにコクコクと頷き返す。
手を繋いでいないことへの不安はあるが、それでもすぐ隣にエルダが立っていてくれるだけで、随分と気持ちは楽だった。
「しかし、急にどうされたんです?」
「それは…」
イヴァニエがエルダに視線を送り、エルダの視線が自分に移り、自然と三人の視線が自分に集まり、喉の奥でキュウッと変な音が鳴った。
「あ……ぅ…あ、あの…っ」
ドクドクと、心臓から巡る血の音がやけに大きく聞こえる。
エルダから、自分の気持ちはきちんと言葉にして二人に伝えた方が良いと言われたのだ。
言葉にすることで、それが目標になり、決意にもなるから、と…
(ちゃんと、言う…!)
こちらをジッと見つめる蒼と黒の瞳に気圧されそうになりながら、腕に抱いたクッションをぎゅうっと抱き寄せた。
「あの…、い、いつも…あの、お話し…、し、知らないこと…たくさん、教えて…く、下さって…あ、ありがとう…ございます…!」
「……どういたしまして。少しは、役に立っていますか?」
「…っ、ぅ…あの、…い、いっぱい…、いっぱい…あの…」
「…なら良い。知識が増えるのは良いことだ」
「は…はぃ……、あ、あの…っ」
(もっと、一緒に…お話し、して下さいって…言わなきゃ…)
いざ言葉にしようと思うと、緊張と不安でどうにかなってしまいそうだった。
それでも今は、ただ知識を与えられるだけでなく、もっと普通に、ただ二人と話しがしてみたいと、心からそう思っていた。
「あ、の…あの、お、お二人…には…あの…大変、で……た、大変な、ことだと…思うんです、けど…っ、も、もし…じゃなくて……えと、も…もう少し、だけ…イヴァニエ様と、ルカーシュカ様、と、…お、お話し、できたら……う…嬉しい、です…っ」
言いながら、なんとか視線だけは下げないように頑張った。
逸らしてしまいそうになる視線を、俯いてしまいそうになる顔を、逸らさぬ様、俯かぬ様にと必死で耐えた。
そうしてやっとの思いで、二人を見つめながら言葉を言い切ったのだが…イヴァニエもルカーシュカも、目を大きく見開き、驚いた顔のまま固まってしまった。
「ぁ…ぅ…っ、…エ、エルダ…ッ」
「大丈夫ですよ、アドニス様。お二人とも、少し驚いていらっしゃるだけですから」
反応が無いことに、やはり言ってはいけないことだったのかと不安が押し寄せ、泣きそうになる。
縋るように傍らに立つエルダを見上げるが、その様子はとても落ち着いていて、自分だけが一人で狼狽えていた。
「……ああ…まぁ…これからも、気になることがあれば、いくらでも聞けばいい」
「……ええ…そう、ですね…質問でもなんでも、話したいことがあれば、いくらでも話し───いえ、一緒に、お話ししましょう」
「…っ、は、はい…!」
長い沈黙の後に返ってきた穏やかな返事に、つい勢いよく返事をしてしまい、慌てて口元を手で覆う。
「良かったですね」
「うん…っ」
身を屈め、こそりと声を掛けてくれたエルダに笑みを返しながら、深く安堵の息を吐き出した。
(もうちょっとだけ、お話しできるように…お二人と、もう少しだけ、ちゃんと…喋れるように…)
そのために、もう少し距離を縮めるために、エルダから提案されたことがあったのだ。
エルダに向け、コクリと小さく頷けば、心得たと言うように優しく微笑んでくれた。
スッと姿勢を正したエルダが、ふわりと空を撫でるように腕を動かした。
白く細い指先が、楽器を奏でるように広げられ───その手の中に、ポンッと白いティーポットが現れた。
(天使様達は、お茶を飲みながらお話しするって、エルダが言ってた…)
茶を飲み、食事をしながら、和やかに会話を楽しむのだと。
例え形だけだとしても、皆がしていることと同じように、場を整えてみようという話になったのだ。
見てくれだけだとしても、真似をしているだけだとしても、“それらしく”見えるように…
(今できるのは、これくらいだけど…)
少しだけ、もう少しだけ、イヴァニエとルカーシュカのいる所に近づきたいと思った───そのための、一歩だった。
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天界の一時間は人間界の二時間です。なので半時間=約一時間とお考え下さい。
時間はエルダくんが懐中時計のような物を所持しており、それでおおよその滞在時間を計っています。
「ようこそおいで下さいました。イヴァニエ様、ルカーシュカ様」
イヴァニエとルカーシュカが定期的に部屋を訪れるようになって、数週間が過ぎた。
彼らと言葉を交わすことが叶ったあの日、定期的に会わないかと言われた言葉の通り、二人とは三日に一度の頻度で顔を合わせるようになっていた。
と言っても、実際に二人が滞在する時間はそう長くはない。顔を合わせているのは僅かと言える時間だったが、それでも回数をこなす内に、自然と緊張は和らいでいった。
「そういえば、来月はどこかの国で星祭りがありましたね」
「ああ、あれはどこの国だったかな…こちらにも祈りがよく届く、良い祭りだ。今代の星守りが優秀なんだろう」
定位置となった向かい合わせの長椅子に腰を落ち着け、二人の会話に耳を傾ける。
そんな彼らとの対話だが、実際に話しているのはほとんどイヴァニエとルカーシュカの二人だけで、自分は聞いているだけだった。
これは無視されているという訳ではなく、ちゃんと意味があった。
『まずはお二人と一緒にいることから慣れていきましょう』
定期的に顔を合わせることが決まった時、エルダから言われたことだ。
会話をするにも、まずは二人に慣れる必要がある、ということだった。
『お二人が同じ部屋の中、お側にいることに慣れることから始めましょう。会話に加わらなくとも、同じ空間で一緒に過ごすことが大事です。お二人が側にいることを自然に感じられるようになれば、自ずと会話もできるようになるはずです』
そう言われ、最初の頃は本当に向かい側に座る二人の会話を聞いているだけだった。
正直それだけでも緊張して、何を話しているのか半分も頭に入ってこなかったが、黙ってその場で二人と一緒にいることはできた。
隣には変わらずエルダに座ってもらっていたが、それでもちゃんと、イヴァニエとルカーシュカの姿を見ながら話しを聞くことができた…と思う。
そうして彼らと一緒に過ごすこと、同じ空間にいることに徐々に慣れていくことを目的とした顔合わせを何度か繰り返した頃、不意に話しを振られるようになった。
その頃には、彼らと向かい合って座り、ただ黙って話しを聞くことにはだいぶ慣れていたし、話しの内容は分からずとも、“どんなことを話しているのか”を理解できるくらいには、心に余裕もできていた。
『───アドニス』
『ふあっ!? へ、は、はい…っ』
気を抜いていたところに急に話しかけられ、ビクリと体が跳ねた。
『え…ぁ……う…?』
『今の話で、何か分からないことや、気になることはありましたか?』
『え…? ぇ…ぇと…』
言われている言葉は理解できるが、なんと答えればいいのか分からない。…いや、分からないというより───…
(い、言って…いいのかな…?)
イヴァニエもルカーシュカも、自分が何も憶えていないこと、知識のほとんどを失っていることは、エルダを通して知っていると聞いていた。
分からないことを『分からない』と正直に答えても、怪訝な顔をされることは恐らく無いだろう。
それでもやはり、おかしなことを聞く、変なことを聞くと思われるのが怖くて、言葉に詰まってしまった。
『ぁ…あの……』
言葉を探しつつ、チラリと横に座るエルダに視線を送る。
目が合ったエルダは、声にこそ出さなかったが、その瞳が『大丈夫ですよ』と言うように細められたのを見て、ホッと息を吐いた。
(だ、大丈夫…かな…)
チラリと向かい側に座る二人の様子を窺いながら、恐々と口を開いた。
『ぁ、ぅ……その…じゃあ…あの…、だ、大天使…様、達の…その、お役目に、ついて…』
『ええ、何が気になりました?』
『えと…お、お役目、て───…』
そうして恐る恐る尋ねた質問に、イヴァニエもルカーシュカも、丁寧に言葉を返してくれた。
疑問を言葉にするのはとてつもなく緊張したが、二人の反応は至って落ち着いていて、次第に緊張も解けていった。
その上で、せっかくの返答を聞き漏らすことがないようにと、彼らの言葉に真剣に耳を傾けた。
その日から、二人の会話の合間合間に、自分にも話し掛けてくれることが増えた。
最初の頃は話し掛けられるたびに狼狽え、話しを聞くだけでいっぱいいっぱいだったが、幾度も繰り返す内に、ふとあることに気づいた。
───イヴァニエも、ルカーシュカも、自分が知らないこと、分からないことを訊ねることで、知識を授けてくれているのだ…と。
きっと自分の質問のほとんどは、この世界に住まう者ならば常識と思われるような、当たり前のことばかりだろう。そんな呆れられてしまうような疑問でも、二人は丁寧に答えてくれた。
一つの疑問に答えてもらう中で、知らない言葉や分からないことがあれば、その都度教えてくれる。そうやって一つの質問に対して、十のことを教えてくれるのだ。
イヴァニエとルカーシュカ、二人と過ごす時間に慣れることから始まり、自分の知らないことを教えてもらうという行為の中で言葉を交わし、そうして少しずつ『交流』と呼べるようなやりとりを交わす───自分の足りない知識を補いながらも、自然と会話が出来るような環境を整えてくれていた…そんな彼らの気遣いに気づいた時には、顔を合わせるようになってから、一月以上の月日が過ぎていた。
「…エルダ」
「はい、アドニス様。…いかがなさいましたか?」
今日も、イヴァニエとルカーシュカがやって来る。
最初の頃は、本当に僅かとしか呼べない短い時間の対面だったが、顔を合わせる時間は日に日に長くなり、今では半時間ほどの時を一緒に過ごすようになっていた。
恒例となった昼三時の訪問を目前に、長椅子に腰掛けてその時を待ちながら、傍らに立つエルダを見上げた。
「アドニス様?」
心配そうなエルダの表情から、自分が今情けない顔をしているのだと思い知る。
「あの…わ、私…あの…」
気づいてしまったことに対し、ただ黙っていることができなくて、ついエルダに声を掛けてしまったが、なんと言っていいのか分からない。
落ち着かない気持ちから、服の端を掴んだ手を、意味もなくもじもじと動かした。
「…どうなさいました? じきにお二人がお見えになりますが…今日はお休みなさいますか?」
「えっ…ち、ちが…そうじゃ、なくて……そうじゃ…なくて…」
なんと言えばいいのか、言葉を探すが、自分の気持ちを上手く言葉に置き換えられず、もどかしさから服の裾を掴んだ手をギュっと握り締めた。
「…アドニス様、なにか気になることがございましたら、どうぞ仰って下さいませ」
そっと場所を移動したエルダが、正面で片膝をつき、握り締めていた手をやんわりと解いた。
そうして解かれた手の平を、エルダの細い指先が握る。イヴァニエとルカーシュカと対面している間も、最初の時から変わらず、エルダはずっとこうして手を繋いでいてくれた。
細く華奢なこの手に、どれほど安心し、勇気を与えられたことか…握られた指先を柔く握り返しながら、柔らかに笑む翠の瞳を見つめた。
「あ、の…あのね…、ずっと…あの、自分のこと、ばかりで…気づけなかったんだけど……イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も…じ、自分に、色々…教えて、下さるために…そのために、お話しして、くれてる…よね…?」
「…!」
「分かんないことも…い、嫌な、お顔しないで、全部…教えて下さる…し…、そうやって、聞いて下さるから…だから、お話しすることも…できてるんだって……あの、ご、ごめんね…! この前、やっと…気づいて…」
「アドニス様…」
「ご、ごめんね…! 全然、気づけなくて…いつも…あの…ずっと…自分のことしか、考えられなくて…ごめ───」
「アドニス様、そのように仰らないで下さいませ」
「で、でも…」
エルダに預けた指先を、彼の手がギュッと握り締めた。
「仰る通り、イヴァニエ様もルカーシュカ様も、アドニス様の欠けてしまった知識を補うためにお話しして下さっています。そうすることで、会話を増やしているのも事実です。でも、そのこと自体は決して悪いことではないでしょう? お話しの内容を選び、会話を続けるキッカケを作ることは、とても大切なことですよ」
「で、でも…その、私…分かってなくて…いつもただ、聞いてるだけで…、お二人が…その…お、お心を、配って下さってた、ことにも、気づかなくて…自分のこと、ばかりで…、まだ…だって……緊張も、しちゃう、し…」
「…アドニス様、緊張していても、それでもお気づきになれたのは、喜ばしいことではございませんか?」
「……え?」
「アドニス様が、本当にご自身のことしか考えられなかったのであれば、そのことに気づくことも出来なかったはずです。でも、ご自身でちゃんとお気づきになれたのでしょう? 知らないことを、お二人が教えて下さるだけでなく、そこにお二人の御心配りがあったのだと、アドニス様がご自身で気づけたのは、お二人に対して、アドニス様の御心に余裕ができたからではないでしょうか?」
「あ…」
そう言われてハッとする。確かに、今までは二人の話しを聞くだけでいっぱいいっぱいだった。
それがいつの頃からか、二人の顔を見ながら、目を合わせて話しを聞けるようになり、言われたことに対して「何が分からないか」「どう言葉にすればきちんと相手に伝わるか」、考えながら話せるようになっていた。
「まだお二人に緊張されてしまうのは、仕方のないことです。ご自身のことでいっぱいになってしまうのも当然のことです。そんな中で、アドニス様はきちんとお二人のことを考えられるようになったのですから、喜ばしいことではございませんか」
「っ…」
そう言って微笑んでくれるエルダは、本当に喜ばしいことだと思ってくれているのだろう。
ただ、自分がそれを手放しで喜んでいいとは思えず、視線は下がった。
「でも…あの…」
「…アドニス様、アドニス様は頑張っていらっしゃいますよ。同じように、お二人も、慣れぬアドニス様に少しでも慣れて頂こうと、努めて下さっております。もしもアドニス様が、ご自身に対してご不満があり、納得できないのであれば、どうすればご納得できるか、そのお気持ちを言葉や行動にして、お二人にお返しできれば、御心も軽くなるのではございませんか?」
「…お返し…」
確かに、与えてもらうばかりで、何も返せていない。とはいえ、彼らへのお返しを考えるなど、エルダの時以上に困難だ。
言葉で…と言うなら、感謝の言葉を伝えるべきなのだろうが、「自分のためにありがとうございます」などと言うのは憚られる。かと言って行動で、というのは尚のこと難しい。
「…ど、どうしたら、いいの…?」
本当に分からない。
どうしたら、どのように行動し、どのような言葉を言えば、二人への感謝の気持ちになるのか? なにが正解になるのか? それが自分には分からなかった。
「…アドニス様は、どうしたいですか?」
「どう…て…」
「アドニス様がお二人の御心配りに気づいた今、なにより大切なのは、それを知った上で、アドニス様がどうされたいかです。…難しく考えなくていいのです。アドニス様が、お二人に対するご自身のお気持ちを、言葉や行動にして表すことができたなら…それは、お二人がアドニス様のために努めて下さったことへの成果であり、なによりのお返しになりませんか?」
───自分のため…そう言われ、キュッと唇を噛んだ。
本当に、心配してもらえているのだろうと思う。
自分自身ですら、自分のことが分からないのだ。下手をすれば、得体が知れないと忌避され、今まで以上に遠ざけられてもおかしくない相手に、向き合い、心を砕いてくれる───その優しさに、胸が苦しくなった。
(どうしたい…自分は、どうしたいの…?)
なにがしたいのか、どうしたいのか…思考を巡らせ、考え、自分自身に問い掛ける。
「……エ、エルダ…」
「はい、アドニス様」
本当に自分が望むことをそのまま口にしていいのか? 悪いことではないだろうか? …不快な気持ちにさせないだろうか?
そんな不安が何度も湧き上がり、そのたびに振り払った。
(ちがう…っ、そんな風に考えるのは、失礼だ…!)
これが正しい答えになるのか、自信など欠片も無い。不安しかない。
それでも今は、エルダの言葉を、与えてもらえた優しさを、ただ信じたかった。
「ぁの…、お、お話し…っ」
「はい」
「も…もぅちょっと、だけ…ちゃんと、お、お話し…、お二人と…お話し、できるように…な、なりたいと、思う…」
自信の無さから、語尾はどんどん小さくなってしまった。言いながら自然と俯いてしまった顔を上げることができず、堪らずにぎゅっと目を瞑った。
「───畏まりました」
「…っ」
耳に届いた優しい声に、反射的に顔を上げれば、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべるエルダと目が合った。
「お二人と、もう少しお話しができるように、そのためにアドニス様も、頑張れますか?」
「う、うん…!」
「ならば私も、微力ながらお手伝いさせて頂きます。…では、早速本日から、もう少し『お話し合い』らしく、場を整えましょう。大変かとは思いますが、頑張りましょうね」
「…うん?」
場を整えるとはどういうことだろう?
浮かんだ疑問に首を傾げるが、その答えはすぐに分かることとなった。
エルダとのやりとりがあってから間もなく、イヴァニエとルカーシュカが部屋を訪れた。
いつも通り、向かい合わせになった長椅子に座った二人だが、その表情には明らかな困惑が浮かんでいた。
それもそうだろう。何故なら、いつもなら自分の隣に座っているはずのエルダは傍らに立ったまま控えており、自分は一人掛けの椅子に座っているのだから。
(頑張るって、言ったけど…!)
一人掛けの椅子に座り、縮こまったまま、心の中で泣き言を漏らした。
一刻前の話だ。
「では本日から、私はアドニス様のお隣に座ることは致しません」
「へ?」
あまりにも唐突に、突然に、突拍子もないことを言われ、一瞬思考が飛んでしまった。
「え…えっ、な、なんで…!?」
「…アドニス様も、お気づきなのではないですか? 従者である私が、御三方と一緒の席に座るのは、本当はいけないことなのではないか、と」
「う…」
困ったように笑うエルダに、思わず言葉に詰まってしまった。
エルダの言う通り、本当はエルダが隣に座っているのは、あまり良くないことなのだろうと、彼やイヴァニエ達の言動から薄々察してはいた。
だが一人でイヴァニエとルカーシュカに向き合う勇気がなく、何も言われないことに甘えて、ずっと黙っていたのだ。
「本来、従者が同席するのは、あまり褒められたことではございません。ほとんどはその場にいないか、控えていても後方にいるはずです。いつまでもこのまま…という訳にはいかないでしょう。お隣に座ることも、そろそろ止めなければいけません」
「そ、そんな…っ」
「ご安心下さいませ。その場からいなくなったりはしません。お席の隣、視界に入る場所に控えていたいと思います。…御三方だけでお話しができるように、少しずつ慣れていきましょう?」
(席の隣って…)
自身が座る長椅子をチラリと見遣る。
三人は楽に座れそうな大きな椅子だ。当たり前だが、横に広いそれは端と端までが離れており、仮に真ん中に座った場合、手を伸ばしたところで肘掛けに手が届かないような大きさだ。
その横に控えていると言われても、実際はとても離れていることになる。長椅子の端に寄って座ればまだ良いかもしれないが、そうするとイヴァニエとルカーシュカの正面の位置からズレてしまう。…恐らく、それは良くないと言われてしまうだろう。
「…ぅ…、ゃ…、やだ…」
ふるふると首を横に振りながら、我慢できずに口から零れたのは、紛れもない弱音だった。
「むり…、むりだよ…っ」
「アドニス様…」
「だ、だって…、エルダが遠くなっちゃう…!」
「………」
半泣きになりながら、無理だと訴える。
今まではエルダが隣にいて、手を繋いでいてくれたからまだ平気だったのだ。それが急に一人にされ、エルダは手の届かないところへ移動してしまう。
途端に湧いた恐怖と不安に「やだ…」と小さく漏らせば、暫しの沈黙が流れた。
「……では、こちらの椅子ならばいかがですか?」
「え…?」
『こちら』と言われ、視線を動かせば、何も無い空間から一つの椅子が現れた。
驚きから肩が揺れたが、物を収納しているという例の不思議な空間から取り出されたのだろう。
目の前に置かれたそれは、見るからにふかふかとしたマットと、高さのある背もたれと肘掛けが印象的な一人掛け用の椅子だった。
「こちらなら、いかがでしょう? お隣には座れませんが、このすぐ横に控えておりますので、今までと然程距離は変わらないはずです」
「ぅ……」
そう言われ、ジッとその椅子を見つめる。
確かに、これならエルダを遠くに感じることはないだろう…ないだろうが…
「アドニス様、大丈夫です。お隣に座っているか、立っているかの違いです」
「うぅ…」
「…大丈夫です。頑張りましょう?」
「うぅ…っ、…ふぁ、はぃ…」
頑張ると答えた手前、それ以上の我が儘を言えるはずもなく、半泣きになりながら、エルダが椅子を入れ替えている様子を眺めることしか出来なかった。
そうして今、エルダに言われた通り、一人掛けの椅子に座っていた。
幸いだったのは、椅子のクッションが非常に柔らかく、深く座れるため、高い背もたれと肘掛けに囲われているような安心感があったことだ。
エルダもすぐ隣に立っており、身長の関係で目線の高さも近いので、思っていたほどの不安に襲われることはなかったが、手持ち無沙汰になってしまった手の平が落ち着かず、気を紛らわせるように、クッションを抱え込んだ。
「…今日は、どうしたんだ?」
「今までは私が同席していたことも、お二人にお目溢し頂いておりましたが、このままではアドニス様のためにならないと思い、このような形に変えさせて頂きました。…恐れながら、お側を離れることは難しく、こちらに控えさせて頂くことをお許し下さい」
「それは構わないが……大丈夫か?」
「…っ」
薄く眉間に皺を寄せ、こちらに視線を向けるルカーシュカにコクコクと頷き返す。
手を繋いでいないことへの不安はあるが、それでもすぐ隣にエルダが立っていてくれるだけで、随分と気持ちは楽だった。
「しかし、急にどうされたんです?」
「それは…」
イヴァニエがエルダに視線を送り、エルダの視線が自分に移り、自然と三人の視線が自分に集まり、喉の奥でキュウッと変な音が鳴った。
「あ……ぅ…あ、あの…っ」
ドクドクと、心臓から巡る血の音がやけに大きく聞こえる。
エルダから、自分の気持ちはきちんと言葉にして二人に伝えた方が良いと言われたのだ。
言葉にすることで、それが目標になり、決意にもなるから、と…
(ちゃんと、言う…!)
こちらをジッと見つめる蒼と黒の瞳に気圧されそうになりながら、腕に抱いたクッションをぎゅうっと抱き寄せた。
「あの…、い、いつも…あの、お話し…、し、知らないこと…たくさん、教えて…く、下さって…あ、ありがとう…ございます…!」
「……どういたしまして。少しは、役に立っていますか?」
「…っ、ぅ…あの、…い、いっぱい…、いっぱい…あの…」
「…なら良い。知識が増えるのは良いことだ」
「は…はぃ……、あ、あの…っ」
(もっと、一緒に…お話し、して下さいって…言わなきゃ…)
いざ言葉にしようと思うと、緊張と不安でどうにかなってしまいそうだった。
それでも今は、ただ知識を与えられるだけでなく、もっと普通に、ただ二人と話しがしてみたいと、心からそう思っていた。
「あ、の…あの、お、お二人…には…あの…大変、で……た、大変な、ことだと…思うんです、けど…っ、も、もし…じゃなくて……えと、も…もう少し、だけ…イヴァニエ様と、ルカーシュカ様、と、…お、お話し、できたら……う…嬉しい、です…っ」
言いながら、なんとか視線だけは下げないように頑張った。
逸らしてしまいそうになる視線を、俯いてしまいそうになる顔を、逸らさぬ様、俯かぬ様にと必死で耐えた。
そうしてやっとの思いで、二人を見つめながら言葉を言い切ったのだが…イヴァニエもルカーシュカも、目を大きく見開き、驚いた顔のまま固まってしまった。
「ぁ…ぅ…っ、…エ、エルダ…ッ」
「大丈夫ですよ、アドニス様。お二人とも、少し驚いていらっしゃるだけですから」
反応が無いことに、やはり言ってはいけないことだったのかと不安が押し寄せ、泣きそうになる。
縋るように傍らに立つエルダを見上げるが、その様子はとても落ち着いていて、自分だけが一人で狼狽えていた。
「……ああ…まぁ…これからも、気になることがあれば、いくらでも聞けばいい」
「……ええ…そう、ですね…質問でもなんでも、話したいことがあれば、いくらでも話し───いえ、一緒に、お話ししましょう」
「…っ、は、はい…!」
長い沈黙の後に返ってきた穏やかな返事に、つい勢いよく返事をしてしまい、慌てて口元を手で覆う。
「良かったですね」
「うん…っ」
身を屈め、こそりと声を掛けてくれたエルダに笑みを返しながら、深く安堵の息を吐き出した。
(もうちょっとだけ、お話しできるように…お二人と、もう少しだけ、ちゃんと…喋れるように…)
そのために、もう少し距離を縮めるために、エルダから提案されたことがあったのだ。
エルダに向け、コクリと小さく頷けば、心得たと言うように優しく微笑んでくれた。
スッと姿勢を正したエルダが、ふわりと空を撫でるように腕を動かした。
白く細い指先が、楽器を奏でるように広げられ───その手の中に、ポンッと白いティーポットが現れた。
(天使様達は、お茶を飲みながらお話しするって、エルダが言ってた…)
茶を飲み、食事をしながら、和やかに会話を楽しむのだと。
例え形だけだとしても、皆がしていることと同じように、場を整えてみようという話になったのだ。
見てくれだけだとしても、真似をしているだけだとしても、“それらしく”見えるように…
(今できるのは、これくらいだけど…)
少しだけ、もう少しだけ、イヴァニエとルカーシュカのいる所に近づきたいと思った───そのための、一歩だった。
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天界の一時間は人間界の二時間です。なので半時間=約一時間とお考え下さい。
時間はエルダくんが懐中時計のような物を所持しており、それでおおよその滞在時間を計っています。
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