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フォルセの果実
42.尊愛なる貴方(後)
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翌朝、自分でも気が急いていることを自覚しつつ、名を賜るお許しを頂いたことをお伝えすれば、一瞬だけ目を丸くしたアドニス様が、楽しげに笑い出した。
落ち着かない態度でいたのが、バレていたのだろう。それを気恥ずかしく思っていると、私の名を考えたのだとアドニス様が仰り、純粋に驚いた。
昨日の今日で、なによりイヴァニエ様からのお許しを頂けるという確証も無かった。
その上で、それでも考えて下さっていたのだというその事実が嬉しくて、それだけで心が満たされる思いだった。
「あの……エ、エルダ…、エルダは、どう、かな…?」
「……エルダ…」
───『エルダ』
不思議と耳に馴染む響きが、音が、血が流れるように全身を駆け巡った。
自分に似合うと、そう思って考えたのだというアドニス様のお言葉がどれほど嬉しかったか…言葉にできないほどの歓喜で身が震えた。
(ああ…名前だ……私の名だ…!)
初めて“自分”という個を認識できたような感覚に、全身が粟立った。
アドニス様が私のために考えて下さった名であるならば、それ以上など無いと、心の底からそう思った。
「……エルダ。エルダが、良い。あなたの、名前…エルダ…て、呼べたら、嬉しい…!」
『エルダが良い』
アドニス様が、ご自身の意見を主張することはまだまだ少ない。
その数少ない機会の一つに、自分の名が含まれたことが、ただただ嬉しかった。
それだけ、『これが良い』と言葉にするほどに、真摯に考えて下さったのだろう。
じわじわと、全身に熱が広がっていくのが分かった。
名を得たことで、自分という存在の形が決まったような不思議な感覚。
嬉しい、嬉しい、と湧き上がる感情をグッと堪え、その場に膝をつき首を垂れた。
(エルダ……私の名だ)
「未熟な我が身ではございますが、尊愛なる御身より名を賜りまして、恐悦至極に存じます───」
湧き上がる喜びのまま言葉を紡ぐ───と、ふと自分の口から出た言葉に思考を奪われた。
(尊愛…?)
何故、『敬愛』ではなく『尊愛』と口にしたのだろう?
自然と口から零れた言葉に疑問を覚える前に、アドニス様が私の名を呼んだ。
「……エルダ」
「はい、アドニス様」
アドニス様がくださった私の名を、アドニス様が呼んで下さる。
それが嬉しくて、思わず笑えば───アドニス様が、金色の瞳を潤ませながら、ふにゃりと微笑まれた。
「…っ」
瞬間、ドクンと跳ねた心臓に、思わず胸元に添えていた手をキツく握り締めた。
ドクリ、ドクリと脈打つ心臓に、息苦しさから浅く息を吐き出した。
(……なんだ?)
高鳴る鼓動に狼狽える。
何がどうなったのか、考える間も無く、僅かに震えたアドニス様のお声が耳に届いた。
「…エルダ…て、呼べるの、嬉しい…」
「私も、大変嬉しく思います。アドニス様」
狼狽する内心とは別に、本能で言葉を返せば、心底嬉しいとでも言うように、アドニス様が華やかに笑った。
「───」
ドッ、と心臓を打たれるような衝撃に、息が詰まった。
(……綺麗だ)
ポツリと、呟くように浮かんだ言葉は、音にならないまま、胸の内で解けて消えた。
(……ああ、そうか…)
そうして、ようやく気づくのだ。
───私は、アドニス様をお慕いしているのか。
自覚した初めての感情は、存外すんなりと、自分の中の収まるところに収まった。
正直な話、自身の中にある感情が、恋慕であることに驚きも戸惑いもないことに驚いた。
(…そうか、だから…)
一体いつから、仕える者としてお慕いする以上の感情を抱いていたのか。
明確には分からずとも、思い返せば納得できることばかりだった。
プティ相手に抱いた羨望も
羨望から生まれた憧憬も
この方のために尽くしたいと想う心も
泣かれるお姿に苦しくなるほど悲しくなったのも
笑っていてほしいと心から願ったのも
その手に触れたいと、伸ばした自分の手も
アドニス様に呼んでもらうために、そのためだけの名が欲しいと、強烈なまでに望んだ欲望も───アドニス様を、お慕いしていたからなのだろう。
(ああ…だから、あの時……)
アドニス様がプティ達に会いたいと願ったあの日。
夜も更けた頃、星の煌めきを眺めながら、アドニス様と静かに言葉を交わした。
その時、ふいにアドニス様が小さく唸り出した。
仔猫が小さく鳴くような、言葉になってない声が耳に届き、思わずクスリと笑ってしまった。
『小さく唸っていらっしゃったようですが、とてもおかわ、ぃ───…』
『───お可愛らしかったですよ』
続くはずだった言葉に、慌てて口を閉じた。
あの時は、失礼な物言いだと瞬間的に言葉も感情も打ち消したが…今思えば、あの頃には既に、恋心というものを抱いていたのかもしれない。
(…そうか)
恋慕は自覚した。
それでも、従者として、自身の役目を全うしようという気持ちに変わりはなく、今以上を望むつもりもなかった。
「…エルダ」
「…、はい、アドニス様」
アドニス様が、私の名を呼ぶ。
返事をするも、何かを言われることもなく、嬉しそうにニコニコと笑うだけのアドニス様に笑みを返した。
(お側にいれれば…アドニス様が笑っていて下さるのであれば、私はそれで充分だ)
嘘偽りなく、そう思えた。
お慕いしているからこそ、幸せであってほしいと願う。
アドニス様の幸せを願い、そのお手伝いができるのであれば…そうして、笑っていて下さるのであれば、それだけで幸せだと、そう思えた。
「エルダ」
嬉しそうに、楽しそうに、アドニス様が名を呼ぶ。
ただ名前を呼べることが嬉しいのだと、そう言うかのように、その日は何度も何度も、ただ自分の名を呼んで下さった。
「はい、アドニス様」
名を呼ばれるたび、何度だって『嬉しい』と心は沸き立ち、喜んだ。
愛しい人に、自分の名を呼んでもらえる───ただそれだけで、どうしようもないほど嬉しくて、心は満たされていった。
(…私は、今の在り方で充分だ)
恋慕の気持ちは秘めたまま、今はなにより主従としての繋がりを大事にしようと、募る愛しさには目を瞑った。
その日の夜、イヴァニエ様とルカーシュカ様の元を訪れれば、二つの小さな箱を手渡された。
お二人が考えて下さったアドニス様への贈り物。
話し合いの時点で、自然と別々に考えていらっしゃったが、そのまま個別にご用意して下さった様だ。
その場で中身を確認すれば、花を模した蜂蜜と、綿菓子に姿を変えた蜂蜜が入っていた。
それぞれミルクに溶かせば、変化が起きる物であり、ルカーシュカ様は食べて楽しむもの、イヴァニエ様は見て楽しむもの、とざっくりとした説明だけ受けた。
「俺のはまぁ…口に入れない限りは変化が起きないとだけ言っておくか」
「私のはそうですね…驚くかもしれませんが、危険なものではありませんよ」
「ありがとうございます。お二人からの贈り物として、アドニス様にお届けしたいと思います」
受け取ったそれを、慎重にコーディッシュ・ルームに仕舞う。
お二人がアドニス様を想って、作って下さった物だ。純粋に、ただ喜んで頂ければ良い…そんなことを考えながらふと視線を上げれば、笑みを浮かべたお二人と目が合った。
「いかがなさいましたか?」
「あなたの欲しがっていたものは、もらえましたか?」
「!」
自分がアドニス様からの名を望んだというお話を、お二人とも覚えていて下さったことに、少しだけ驚いた。
昨日はサラリと流れてしまった話であり、その後はアドニス様のことをお話していたので、お忘れになっていてもおかしくないことだったからだ。
「…ありがとうございます。未熟な身ではございますが、名を賜る光栄を頂きました」
「それはなによりです」
「良かったな」
「…ありがとうございます」
お二人とも、自分が名を頂いたことを喜んで下さっている。
他意はないと分かっているのに、まだ自覚したばかりの懸想は敏感で、おかしな反応をしていないか妙に不安になってしまう。
その場で深く礼を返せば「おや?」というイヴァニエ様の声が聞こえた。
「私達には、あなたの名を教えてもらえないのですか?」
「いえ、できましたら、私の名については、アドニス様に直接お尋ね頂きたいと思います」
「アドニスに?」
「私の名について、アドニス様にお尋ねになることも、一つの会話になるはずです。お二人とアドニス様の、ご交流の手助けとなる一つとなれば幸いでございます」
「…そうか。すまんな、助かる」
「ええ、有り難いことです。では、あなたの名前は、アドニスに聞くまでのお楽しみですね」
苦笑気味のルカーシュカ様と、楽しげに微笑むイヴァニエ様からは、アドニス様に対する忌避感は感じない。
いつ頃からか、お二人とも“今のアドニス様”と“以前のアドニス様”を、分けて考えて下さるようになっていた。
そのように割り切って考えた方が、お二人にとっても、余計なことを考えずに済むので、お気持ちも軽くなるのだろう。
(あとはアドニス様との親交が深まれば…)
別人のように変わってしまったアドニス様のその根源。
何があったのか? 何が起こったのか? 今は、どういう状況なのか?
───アドニス様は、本当にアドニス様なのか?
その疑問に辿り着くために、少しずつ、一歩ずつ、近づき始めたのだ。
(アドニス様が孤立してしまわないように、お二人との繋がりを確かなものにしなければ…)
未来がどうなるかは分からない。
それでも、いくら今が穏やかとはいえ、アドニス様が今のままではいけないことは分かる。
庇護してもらうため、なにより今のアドニス様をイヴァニエ様とルカーシュカ様に知って頂き、本心から守って頂くため…これからより一層、アドニス様ご自身にも頑張って頂かなければならないのだ。
(…お支えするのが、私の役目だ)
表向きはイヴァニエ様の従者として変わらずお仕えすることになるが、心は既にアドニス様にお渡しした。
側仕えとしての忠誠と、想う方としてお慕いする心。
お慕いする心は、明かすつもりも、告げるつもりも無い。
それよりも、今はただお側にいられることが嬉しく、それを守りたいという気持ちが強かった。
(今の平穏が、アドニス様にとっての幸福が、永く続くように…)
アドニス様の幸せを守り、繋げること。
仕える主の幸せを願う───そのために生きたいと、初めて思えたのだ。
そこに恋慕の念が混じっていても、この気持ちは変わらない。
そうしていつか、アドニス様の平穏が約束された日には、アドニス様の従者として、お仕えする唯一の者となれる様、今はただ願うのだ。
翌日、ルカーシュカ様からの贈り物を楽しげに召し上がっていたアドニス様から、予期せぬ方法でその一欠片を頂戴することになり、心の内が大変な事になったのは、また別の話だ。
落ち着かない態度でいたのが、バレていたのだろう。それを気恥ずかしく思っていると、私の名を考えたのだとアドニス様が仰り、純粋に驚いた。
昨日の今日で、なによりイヴァニエ様からのお許しを頂けるという確証も無かった。
その上で、それでも考えて下さっていたのだというその事実が嬉しくて、それだけで心が満たされる思いだった。
「あの……エ、エルダ…、エルダは、どう、かな…?」
「……エルダ…」
───『エルダ』
不思議と耳に馴染む響きが、音が、血が流れるように全身を駆け巡った。
自分に似合うと、そう思って考えたのだというアドニス様のお言葉がどれほど嬉しかったか…言葉にできないほどの歓喜で身が震えた。
(ああ…名前だ……私の名だ…!)
初めて“自分”という個を認識できたような感覚に、全身が粟立った。
アドニス様が私のために考えて下さった名であるならば、それ以上など無いと、心の底からそう思った。
「……エルダ。エルダが、良い。あなたの、名前…エルダ…て、呼べたら、嬉しい…!」
『エルダが良い』
アドニス様が、ご自身の意見を主張することはまだまだ少ない。
その数少ない機会の一つに、自分の名が含まれたことが、ただただ嬉しかった。
それだけ、『これが良い』と言葉にするほどに、真摯に考えて下さったのだろう。
じわじわと、全身に熱が広がっていくのが分かった。
名を得たことで、自分という存在の形が決まったような不思議な感覚。
嬉しい、嬉しい、と湧き上がる感情をグッと堪え、その場に膝をつき首を垂れた。
(エルダ……私の名だ)
「未熟な我が身ではございますが、尊愛なる御身より名を賜りまして、恐悦至極に存じます───」
湧き上がる喜びのまま言葉を紡ぐ───と、ふと自分の口から出た言葉に思考を奪われた。
(尊愛…?)
何故、『敬愛』ではなく『尊愛』と口にしたのだろう?
自然と口から零れた言葉に疑問を覚える前に、アドニス様が私の名を呼んだ。
「……エルダ」
「はい、アドニス様」
アドニス様がくださった私の名を、アドニス様が呼んで下さる。
それが嬉しくて、思わず笑えば───アドニス様が、金色の瞳を潤ませながら、ふにゃりと微笑まれた。
「…っ」
瞬間、ドクンと跳ねた心臓に、思わず胸元に添えていた手をキツく握り締めた。
ドクリ、ドクリと脈打つ心臓に、息苦しさから浅く息を吐き出した。
(……なんだ?)
高鳴る鼓動に狼狽える。
何がどうなったのか、考える間も無く、僅かに震えたアドニス様のお声が耳に届いた。
「…エルダ…て、呼べるの、嬉しい…」
「私も、大変嬉しく思います。アドニス様」
狼狽する内心とは別に、本能で言葉を返せば、心底嬉しいとでも言うように、アドニス様が華やかに笑った。
「───」
ドッ、と心臓を打たれるような衝撃に、息が詰まった。
(……綺麗だ)
ポツリと、呟くように浮かんだ言葉は、音にならないまま、胸の内で解けて消えた。
(……ああ、そうか…)
そうして、ようやく気づくのだ。
───私は、アドニス様をお慕いしているのか。
自覚した初めての感情は、存外すんなりと、自分の中の収まるところに収まった。
正直な話、自身の中にある感情が、恋慕であることに驚きも戸惑いもないことに驚いた。
(…そうか、だから…)
一体いつから、仕える者としてお慕いする以上の感情を抱いていたのか。
明確には分からずとも、思い返せば納得できることばかりだった。
プティ相手に抱いた羨望も
羨望から生まれた憧憬も
この方のために尽くしたいと想う心も
泣かれるお姿に苦しくなるほど悲しくなったのも
笑っていてほしいと心から願ったのも
その手に触れたいと、伸ばした自分の手も
アドニス様に呼んでもらうために、そのためだけの名が欲しいと、強烈なまでに望んだ欲望も───アドニス様を、お慕いしていたからなのだろう。
(ああ…だから、あの時……)
アドニス様がプティ達に会いたいと願ったあの日。
夜も更けた頃、星の煌めきを眺めながら、アドニス様と静かに言葉を交わした。
その時、ふいにアドニス様が小さく唸り出した。
仔猫が小さく鳴くような、言葉になってない声が耳に届き、思わずクスリと笑ってしまった。
『小さく唸っていらっしゃったようですが、とてもおかわ、ぃ───…』
『───お可愛らしかったですよ』
続くはずだった言葉に、慌てて口を閉じた。
あの時は、失礼な物言いだと瞬間的に言葉も感情も打ち消したが…今思えば、あの頃には既に、恋心というものを抱いていたのかもしれない。
(…そうか)
恋慕は自覚した。
それでも、従者として、自身の役目を全うしようという気持ちに変わりはなく、今以上を望むつもりもなかった。
「…エルダ」
「…、はい、アドニス様」
アドニス様が、私の名を呼ぶ。
返事をするも、何かを言われることもなく、嬉しそうにニコニコと笑うだけのアドニス様に笑みを返した。
(お側にいれれば…アドニス様が笑っていて下さるのであれば、私はそれで充分だ)
嘘偽りなく、そう思えた。
お慕いしているからこそ、幸せであってほしいと願う。
アドニス様の幸せを願い、そのお手伝いができるのであれば…そうして、笑っていて下さるのであれば、それだけで幸せだと、そう思えた。
「エルダ」
嬉しそうに、楽しそうに、アドニス様が名を呼ぶ。
ただ名前を呼べることが嬉しいのだと、そう言うかのように、その日は何度も何度も、ただ自分の名を呼んで下さった。
「はい、アドニス様」
名を呼ばれるたび、何度だって『嬉しい』と心は沸き立ち、喜んだ。
愛しい人に、自分の名を呼んでもらえる───ただそれだけで、どうしようもないほど嬉しくて、心は満たされていった。
(…私は、今の在り方で充分だ)
恋慕の気持ちは秘めたまま、今はなにより主従としての繋がりを大事にしようと、募る愛しさには目を瞑った。
その日の夜、イヴァニエ様とルカーシュカ様の元を訪れれば、二つの小さな箱を手渡された。
お二人が考えて下さったアドニス様への贈り物。
話し合いの時点で、自然と別々に考えていらっしゃったが、そのまま個別にご用意して下さった様だ。
その場で中身を確認すれば、花を模した蜂蜜と、綿菓子に姿を変えた蜂蜜が入っていた。
それぞれミルクに溶かせば、変化が起きる物であり、ルカーシュカ様は食べて楽しむもの、イヴァニエ様は見て楽しむもの、とざっくりとした説明だけ受けた。
「俺のはまぁ…口に入れない限りは変化が起きないとだけ言っておくか」
「私のはそうですね…驚くかもしれませんが、危険なものではありませんよ」
「ありがとうございます。お二人からの贈り物として、アドニス様にお届けしたいと思います」
受け取ったそれを、慎重にコーディッシュ・ルームに仕舞う。
お二人がアドニス様を想って、作って下さった物だ。純粋に、ただ喜んで頂ければ良い…そんなことを考えながらふと視線を上げれば、笑みを浮かべたお二人と目が合った。
「いかがなさいましたか?」
「あなたの欲しがっていたものは、もらえましたか?」
「!」
自分がアドニス様からの名を望んだというお話を、お二人とも覚えていて下さったことに、少しだけ驚いた。
昨日はサラリと流れてしまった話であり、その後はアドニス様のことをお話していたので、お忘れになっていてもおかしくないことだったからだ。
「…ありがとうございます。未熟な身ではございますが、名を賜る光栄を頂きました」
「それはなによりです」
「良かったな」
「…ありがとうございます」
お二人とも、自分が名を頂いたことを喜んで下さっている。
他意はないと分かっているのに、まだ自覚したばかりの懸想は敏感で、おかしな反応をしていないか妙に不安になってしまう。
その場で深く礼を返せば「おや?」というイヴァニエ様の声が聞こえた。
「私達には、あなたの名を教えてもらえないのですか?」
「いえ、できましたら、私の名については、アドニス様に直接お尋ね頂きたいと思います」
「アドニスに?」
「私の名について、アドニス様にお尋ねになることも、一つの会話になるはずです。お二人とアドニス様の、ご交流の手助けとなる一つとなれば幸いでございます」
「…そうか。すまんな、助かる」
「ええ、有り難いことです。では、あなたの名前は、アドニスに聞くまでのお楽しみですね」
苦笑気味のルカーシュカ様と、楽しげに微笑むイヴァニエ様からは、アドニス様に対する忌避感は感じない。
いつ頃からか、お二人とも“今のアドニス様”と“以前のアドニス様”を、分けて考えて下さるようになっていた。
そのように割り切って考えた方が、お二人にとっても、余計なことを考えずに済むので、お気持ちも軽くなるのだろう。
(あとはアドニス様との親交が深まれば…)
別人のように変わってしまったアドニス様のその根源。
何があったのか? 何が起こったのか? 今は、どういう状況なのか?
───アドニス様は、本当にアドニス様なのか?
その疑問に辿り着くために、少しずつ、一歩ずつ、近づき始めたのだ。
(アドニス様が孤立してしまわないように、お二人との繋がりを確かなものにしなければ…)
未来がどうなるかは分からない。
それでも、いくら今が穏やかとはいえ、アドニス様が今のままではいけないことは分かる。
庇護してもらうため、なにより今のアドニス様をイヴァニエ様とルカーシュカ様に知って頂き、本心から守って頂くため…これからより一層、アドニス様ご自身にも頑張って頂かなければならないのだ。
(…お支えするのが、私の役目だ)
表向きはイヴァニエ様の従者として変わらずお仕えすることになるが、心は既にアドニス様にお渡しした。
側仕えとしての忠誠と、想う方としてお慕いする心。
お慕いする心は、明かすつもりも、告げるつもりも無い。
それよりも、今はただお側にいられることが嬉しく、それを守りたいという気持ちが強かった。
(今の平穏が、アドニス様にとっての幸福が、永く続くように…)
アドニス様の幸せを守り、繋げること。
仕える主の幸せを願う───そのために生きたいと、初めて思えたのだ。
そこに恋慕の念が混じっていても、この気持ちは変わらない。
そうしていつか、アドニス様の平穏が約束された日には、アドニス様の従者として、お仕えする唯一の者となれる様、今はただ願うのだ。
翌日、ルカーシュカ様からの贈り物を楽しげに召し上がっていたアドニス様から、予期せぬ方法でその一欠片を頂戴することになり、心の内が大変な事になったのは、また別の話だ。
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