天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

42.尊愛なる貴方(前)

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アドニス様が過ごすお時間は、とてもゆったりとしている。

朝、カップ半分のミルクを召し上がるところから、アドニス様の一日は始まる。
そのミルクを召し上がる時でさえ、一口に含む量も少なく、含んだそれを味わってから嚥下するため、飲み込むまでの時間もゆっくりだ。
その合間にもプティ達と戯れ、自分と言葉を交わし、外を眺めて休まれる為、それほど量の多くないミルクを飲み切るにも、それなりの時間が必要だった。

相変わらずミルクと少量の果物しかお口にされないアドニス様だが、そんな中でも僅かな好みの違いが出てきたのは良い傾向だった。
好きな物を「好き」と仰って頂けるようになったことは大変喜ばしい。だが、苦手な物に関しては未だにあまり仰って頂けないのがもどかしかった。
我慢するという感覚とは異なるが、アドニス様は苦手と感じる物でも事でも、自然と飲み込んでしまわれようとする。
そんな状態から少しでも引き剝がそうと、些細なことにも意識を向ける様、日々努めていた。




「んなぁ」
「眠いの?」
「だぅ、あ」
「ふふ、そうだね」

毎日プティ達とお喋りをして過ごすアドニス様は、とても楽しそうだ。
お喋りと言っても、プティは喋れないので、正確には会話になっていないはずなのだが…

(…不思議だ)

アドニス様は、プティの言いたいことを理解されて、その上でお返事をされているようだった。
実際にアドニス様に聞いたところ「なんとなく分かるような気がする」と仰っていたが、それは他の者達には無い能力だった。
プティはプティ達にしか分からない『信号』のようなもので会話をしており、それらは天使や大天使には聞こえない。
喋れない分、プティは喜怒哀楽が分かりやすく、どのような感情を抱いているかは分かるが、言いたいことを汲み取るのは難しかった。
もし、もしもアドニス様が、プティ達の『声』を感じ取れるというのであれば、それは───…

(…やはり、純天使に似ている)

そう感じるには充分で、別人のように変わってしまったアドニス様のその一片に、日々触れている気分だった。


一日の大半をプティ達と過ごすようになってから、アドニス様の精神は日毎ひごと安定し、明るくなっていった。
毎日代わる代わる訪れるプティ達を、膝の上や腕に抱いて言葉を交わし、愛でるように撫で、一緒に横になって微睡む。
飽きることなく、お声を掛けなければ恐らく一日中、プティ達の寝顔を眺めていらっしゃるのだろうと安易に想像できるほど、アドニス様は幼い天使達に愛情を注がれていた。
アドニス様の御心が満たされていくことに喜びを感じつつ、日々目にする赤ん坊達とのふれあいに、僅かに焦がれる気持ちがあることも自覚していた。

まろい頬を撫でる手も、抱き上げる腕も、深い情を含んだ微笑みも、その全てが、プティ達だからこそ向けられる愛情だと分かっていて、それでも焦がれてしまうことに、なんとも言えない焦りを感じるようになっていた。

アドニス様がプティ達との再会を果たしたあの夜。
あの日抱いた『羨ましい』という感情と、その一欠片でもと望んでしまった愛情に、毎日触れているのだ。
それを辛いと思うこともなければ、妬む気持ちもない。
仕える者としての立場も忘れていないし、この役目を投げ出すつもりもない。
ただ少し…少しだけ、『もしも自分もプティだったなら』という、そんなあり得ない『もしも』を想像してしまうのだ。

ただ思うがまま、あの腕に抱かれ、微笑みを受けることが出来たなら───どうしてそんなことを考えるのか、そんな感情が生まれる意味すら気づかず、憧憬のような念だけが募っていった。



そんな日々が幾日も過ぎ、アドニス様のご様子と、残された時間を考慮した上で、イヴァニエ様とルカーシュカ様のお二人との再会を願い出た。
プティ達と過ごすことで精神的に安定されたこと、食事を摂ることで聖気も回復し出したこと、そしてフォルセの果実が実るまで半年ほどしか残されていないこと───それらを踏まえた上で、断られてしまうことを前提でアドニス様に提案した。

最初から受け入れて頂くのは難しいだろうと思っていた。それが当然だと、そう考えていたのだ。
何度か願い出ることで、いつか受け入れて頂けたら…と、そう思っていた予想に反し、アドニス様はすぐにお二人に会うことを了承して下さった。
驚きはあったが、とても喜ばしいことでもあった。
だからこそ、お二人にもすぐにご報告したのだが…翌日から目に見えて憔悴していくアドニス様に、後悔の念が滲んだ。
一旦お断りして日を改めることも可能だと、何度かお伝えするも、アドニス様は頑なに首を横に振り続けた。

(参ったな…)

ご無理をしているのは明らかだった。それでも、頑として「無理」とも「嫌」とも言わないアドニス様に、自分もそれ以上何も言えなかった。
と言うのも、私自身、アドニス様に多少のご無理をして頂く必要があると、少なからず思っていたからだ。
「無理をしてほしくない」「御心を乱すことなく過ごして頂きたい」、そんな気持ちを抱く反面で「多少のご無理をしてでも、ご自身のためにもお強くなって頂かなければならない」という矛盾した気持ちが鬩ぎ合っており、強く言い出すことが出来なかったのだ。

(難しい…)

アドニス様がどうしてそこまで頑なな態度でいらっしゃったのか…その本心も聞き出せず、不安ばかりが膨れていく中で迎えたお二人との再会は───ある意味で、予想通りの結果に終わった。


最初から、順調にお言葉を交わせるとは思っていなかった。
それは期待していなかったという訳ではなく、どうあっても無理な話だと、アドニス様と大天使様達との確執を考えれば、当然と言えるものだったからだ。
まずは顔を合わせることから始め、そこから少しずつ慣れていき、言葉を交わせるようになればいい…段階を踏んで、交流を深められればと思っていたのだ。

最終的に泣き出してしまわれたアドニス様は、ご自身を責めていらっしゃったが、お二人を怖がっていた訳でも、再会そのものを疎んでいた訳でもなかったことに人知れず安堵した。
ご無理をさせてしまったことに変わりはないが、お気持ちは前向きであった…そこに拒絶という感情が混じっていなかったことは幸いだった。
なにより、その後、アドニス様からお二人ともう一度会いたいと、そう口にして下さったことが嬉しかった。
───ただ、驚いたのはそこからだった。


「………ゃだ…」


ポツリと零れた小さな声に、息を呑んだ。

それは、アドニス様が初めて、ご自身の意思や感情を優先された言葉だった。

お二人への言付けを早く伝えてほしいと、必死に言葉にするアドニス様のお姿はとても新鮮だった。
その上で、それは出来ないと返せば、キョトリとした表情から「なんで?」という純粋な疑問が返ってきて苦笑してしまった。
自分が「是」と答えなかったことが、よほどショックだったのだらう。
ご自身で自覚されているのかは分からないが、アドニス様の中で、自分に対して一種の信頼や安心といった、『お願い』が言えるだけの気安さが生まれていることは確実だった。
それも勿論嬉しかったが、なにより嬉しかったのは、返事を聞いた上で尚、アドニス様が「やだ」と言い続けられたことが、堪らなく嬉しかった。

「やだ……、やだっ……」

消え入りそうなほどか細い声で「やだ」と繰り返しながら、駄々を捏ねるように泣き出したアドニス様。
そんな姿に、言葉に、不謹慎ながら感極まっていた。

アドニス様が我が儘を仰っている───!

いや、我が儘と言うには、あまりにもささやかだろう。
それでも、普段はご自身の意思を後回しにしてしまうアドニス様にとって、自分から「ダメだ」と言われても、めげずに「やだ」と言葉を返し続けるのは大変な成長だと、一人感動に打ち震えていた。
勿論、我が儘も度を越せば目に余るだろう。
だが今のアドニス様のそれは、我が儘と呼んでいいのかすら怪しいほどの可愛らしいものだった。

アドニス様のお側に控えるようになったばかりの頃、何を言ってもお返事すら頂けず、感情を殺すように、ただ従順であろうとしていたあの頃のお姿に比べれば、どれだけ喜ばしいことだろう。
瞬きの間にも消えてしまいそうな、一瞬の内に儚くなってしまいそうな危うさよりも、例え泣くことが増えてしまったとしても、ご自身の感情を優先して頂く方が余程良い。

(これは…これ以上ダメとは言えないな…)

アドニス様を一人残していくという不安はあったが、互いに譲歩するという形で納得して下さったアドニス様を寝室へとお連れすると、寝息が聞こえ始めたのを確認してから、そっと部屋を後にした。



イヴァニエ様とルカーシュカ様のお二人にアドニス様のご意向をお伝えし、部屋に戻ると、既にアドニス様はお目覚めだった。短い睡眠でも、ある程度体力を回復できるようになったのは、聖気が増えてきた証だろう。
喜ばしいことだと思っていたら、思いがけず、アドニス様からお褒めのお言葉を頂けた。
懸命に紡がれる言葉の端々から、真剣に考えながら口にされているのだということが伝わり、自然と口元は緩んだ。
そのお言葉こそがアドニス様の御心なのだと、噛み締めるように喜んでいたのも束の間、突然休むように言われ、一瞬で体が冷えていく。
いとまを出されたのかと狼狽えたが、それが純粋な意味での『休日』だと知らされ、こっそりと安堵の溜め息を漏らした。

(…気づかれてしまったか)

アドニス様が安息日についてお気づきでなく、自分も必要としていなかった為、あえてお伝えしていなかったことに、ついに気づかれてしまった。
自分には必要の無いものとお伝えしても、何故か渋るアドニス様の御心内を伺えば、「お返しがしたい」と返ってきた。自身の働きに対する礼がしたいのだと…
本当にそのお言葉だけでどれほど心満たされることだろうと、充分だと、この時はそう思っていた。


「じゃ、じゃあ…他の、大天使様…達は、なんにも…しないの…? 何か、お礼とか…あげたり…」


───だが、続いたアドニス様のお言葉に、グラリとその気持ちが揺らいだ。
揺らぎ、波立ったのは、紛れもない『欲』。
本来、私から望んでいいものではないそれを、一瞬の揺らぎの内に欲してしまった。

ほんの数秒だけ、躊躇した。
それでも、初めてそれを「欲しい」と願った時の気持ちはずっと胸の内で燻り続けており、それはプティ達に向けられるアドニス様の愛情に触れれば触れるほど、色濃くなっていった。

生まれて初めて、心から欲したもの。

名が欲しい。アドニス様に呼んで頂くための名前が欲しいと、願うのではなく、望んでしまった。


『ずっと、お側におります』


眠るアドニス様に誓った、いつかの言葉が、脳裏を過った。





「イヴァニエ様、ご報告の前に…いえ、ご報告も含めて、お話ししたいことがございます」

その日の夜、イヴァニエ様とルカーシュカ様が揃ったいつもの報告の場で、一等最初に口を開いた。
自分からこのように言い出すこと自体、珍しかったのだろう。瞬きをするイヴァニエ様の表情が「珍しいこともあるものだ」と語っていた。

「ええ、どうしました?」

イヴァニエ様からの問いに、ふっと息を吐き出すと、その場に膝をつき、首を垂れた。

「…アドニス様より、名を賜りたく存じます」
「…!」

ハッと息を呑む音と共に、場の空気が変わったのが分かった。


“名付きとしての名前でなければ、お仕えしている大天使様以外から頂いても問題ない”


アドニス様にお伝えした言葉は、嘘だった。いや、半分嘘、が正しいだろうか。
名付きというのは、アドニス様にご説明した通り、皆に与えられた名を周知され、呼ばれるようになって初めて『名付き』となるのだ。そこに間違いはない。
但し、例え名付きとしての名でなかったとしても、名を与えられるのはお仕えしている大天使様からのみだ。他の大天使様から名を頂くことは出来ない。

本来ならば、私はアドニス様から名を頂くことは出来ないのだ。
ならば、どうするか───答えは簡単だ。


私が、、アドニス様にお仕えするようになればいいのだ。


「イヴァニエ様にお仕えできましたことは、大変素晴らしく、光栄なことだと心から思っております。…ただ私が、アドニス様のお側にいたいと、そう願ってしまいました」

一度仕えた主を変えるということは、天界においてもあまりない。
理由は簡単で、従者となった殆どの者が、一途にお仕えしている大天使様を慕っており、主を変えようとしないからだ。勿論、が、極めて稀だろう。

「叶うならば、私はアドニス様のお力になりたいと思います。お側に控え、支えるべく、彼の方に仕える者として、そのお役目を全うしとうございます。───アドニス様の従者として、お側に控えることを、お許し願えませんでしょうか」

決して悪いことをしている訳ではない。とはいえ、稀なことに変わりはない。
息が詰まるような緊張の中、イヴァニエ様からのお返事を待った。


「……正直、いつそう言われるのかと思っていましたよ」
「!」


柔らかな声音に、咄嗟に顔を上げれば、穏やかな表情をされたイヴァニエ様と目が合った。

「そんなに驚かなくともいいでしょう? 私はあなたがいつ言い出してもいいように、心の準備はしていましたよ?」
「イヴァニエ様…」
「あなたを見ていれば、心からアドニスを想って、仕えてくれているのだと分かります。不安定なアドニスの一番難しい時期を、全てあなたに任せてしまったことを心苦しく思っていたのですが…だからこそ、彼の側にいたいと思ったのであれば、良きお導きだったのかもしれませんね」
「では…」
「あなたの献身があってこそ、今のアドニスがいるのでしょう。今後はアドニスの従者として、側で支えておやりなさい」
「…っ、ありがとうございます…!」

じわりと目頭が熱くなったのは、自分の願いが届いたという、喜びの感情だけではなかった。
もう一度、深く頭を下げると、そっと瞼を閉じた。声が震えてしまうことがないように、深く息を吸い込み、口を開いた。

「御身にお仕えできました光栄に、心より感謝申し上げます」
「ありがとう。今まで良く仕えてくれました。良き巡り合わせに祝福を」

型に則った言葉ではあったが、イヴァニエ様のお言葉には確かな温もりと優しさが滲んでいた。
契約を交わしている訳ではない為、主従としての繋がりは、私の願い出をイヴァニエ様が了承することで終結する。

短い言葉を交わしただけではあったが、この瞬間に、私はイヴァニエ様の従者ではなく、アドニス様の従者となった。

「いよいよ取られたな」
「ええ。優秀な子だったのに、とても残念です」

黙って成り行きを見守っていらっしゃったルカーシュカ様がおどけたように口を開けば、イヴァニエ様も「アドニスに取られましたね」と笑って言葉を返していた。
実際には、取ったとも取られたとも思っていらっしゃらない軽い口調からは、私への気遣いが見て取れて、あえてそれ以上の言葉を言うことはしなかった。

(有り難いことだ…)

過分なご配慮を噛み締めていると、「ただ…」という躊躇いがちなイヴァニエ様のお声が聞こえた。

「アドニスに仕えること自体は、今までと変わりませんから、問題ないでしょう。ですが、今のアドニスの状況で、新しく従者を迎えるというのは難しいかもしれません」
「はい。その件については、私も承知しております。ですので、大変厚かましいお願いにはなるのですが、表向きは今まで通り、イヴァニエ様の従者として、アドニス様にお仕えできればと思いますが…いかがでしょうか」


今のアドニス様の状況───それはアドニス様が別人のようだという点ではなく、“大天使アドニスが謹慎処分中である”という点に問題があるのだ。
本来であれば、私はイヴァニエ様にお仕えする身であり、アドニス様とはまったく関わりが無かった。
アドニス様本人にその自覚は薄いが、現在は謹慎という罰を受けている最中であり、身の周りの世話は宮廷にいる侍従の数名が宛てがわれる予定だったのだ。恐らくそこには、監視的な意味合いも含まれていたはずだ。
咎人であり、大天使ではなくなったアドニス様が、新たな従者を迎えるというのは難しい話だった。

これが元からアドニス様にお仕えしていた者であったなら、話は違っただろう。
例え罰を受けたとしても、主として敬い、お仕えする気持ちのある者であったなら、あえて引き離されることはなかったはず。

───だが、多くいたアドニス様付きの侍従の中に、アドニス様を慕って後を追う者はただの一人もいなかった。

アドニス様が罰を受けたあの日、誰一人、心からお仕えしていた者は無く、命じられ、仕方なくお仕えしていたのだろうという事実が、嫌味なほど浮き彫りになった。

『お寂しい方だ』

そういった経緯を、ただの事実として誰からともなく聞いた時、そんな感情を抱いたことを今でも覚えていた。


「アドニス様のいらっしゃるお部屋は、離宮とは異なり、アドニス様に与えられたものではございません。ですので、あの中に私のお部屋を頂くこともできません」
「ああ、その問題もありましたね…」

大天使様の従者になると、大天使様の住居となる離宮の中に部屋を頂き、そこで生活をするようになる。だが今のアドニス様は宮廷内の一室を貸し与えられている、という状態だ。私の部屋を設けるのは無理だろう。

「叶うのであれば、今まで通り、イヴァニエ様から頂いたお部屋から、アドニス様のお部屋に通う形を継続できたらと思うのですが…」
「その方が良いんじゃないか? アドニスに仕えることになったとしても、俺達との繋がりまで切れてしまっては困る」
「勿論でございます。お仕えする主が変わっても、私が成すべきことに変わりはございません。今まで通り、アドニス様のご様子については、お二人にご報告に上がります。なにより、今のアドニス様には『主』として、私を動かすというお考えが全くございません。恐らく今後も、私が主体となって判断しなければならない事項が多くなってくるかと思います。ですが私一人で全てを判断するのは難しく、できましたら、ご助言を頂けましたら…」
「それこそ勿論ですよ。あなた一人に任せっぱなしにするはずがないでしょう。…ひとまずは、仕える者が私からアドニスに変わったという点以外は、今まで通りということでいいですか?」
「お願い致します。ご無理を申し上げまして、申し訳───」
「謝るな。そうするのが俺達にとっても、お前にとっても、最善というだけだろう」
「…恐れ入ります」

随分と都合の良いことばかり言っている自覚はあるが、淡々とした態度で受け入れて下さるルカーシュカ様に安堵する。

「…もう一点、できましたら、私がイヴァニエ様の従者でなくなったことは、アドニス様にはご内密にして頂きたいのです」
「何故です?」
「私がアドニス様にお仕えしたいという気持ちは本当です。アドニス様も…恐らく受け入れて下さるとは思います。ただ、私がイヴァニエ様の元を離れて、アドニス様のお側に、というのは…その、アドニス様がどう思われるかという点で、少々不安が…」
「…ああ、なるほど。アイツが、良くない方向に考えるかもしれない、ということか?」
「はい。アドニス様がどのように受け止め、どのように感じられるか…場合によっては、精神的に不安定になられる可能性もございます。その可能性が少しでもあるのであれば、今までと変わらぬままでも良いのではないかと思いまして…」
「お前がそれで良いのなら構わないが…ならば別に今すぐイヴァニエのところを離れなくても…」
「名を頂くお約束しておりますので」
「ああ、そういう話だったか…楽しみだな」
「…、…はい」

思いがけないルカーシュカ様の言葉に驚くも、「楽しみだな」と自身の気持ちを汲んで仰って頂いた言葉が嬉しく、自然と口元は綻んでいた。

「アドニスのあの様子なら、お前が側にいれば純粋に喜ぶだろう。後はいつ伝えるか、タイミングの問題だろうな」
「この件については、一旦ここまでにしましょう。細かい点は改めて考えるとして、アドニスのことで、私とルカーシュカも少し考えたのですが…」
「はい」

主を変えるというお話は、イヴァニエ様がすんなりと受け入れて下さったことで、アッサリと済んでしまった。
緊張していた分、話を終えたところで気が抜けてしまいそうだったが、即座に意識を切り替える。

「まぁ…やはりいきなり会うのは、少し急過ぎたのではという話しになってな」
「会う前に、多少でも交流を交わしておいた方が良かったのでは、と反省をしていたのですよ」
「その点につきましては、私が先を急ぎ過ぎました。申し訳ございません」
「いや、俺達もそこまで気が回らなかった。…今更かもしれんが、次に顔を合わせるまでに何か出来ないかと思って、昼間も話してたんだ」

昼間、というのは、アドニス様とお会いになられた直後、私がここを訪れた時のことを仰っているのだろう。

「顔を合わせる前の交流…ですか」
「……文でも送りますか?」
「…冗談だろ?」
「冗談ですよ?」
「…っ」

「コイツ…」と小さく唸るルカーシュカ様に、イヴァニエ様がヒラリと手を振る。

「半分は本気と言いますか…要は間接的に交流を持つことで、アドニスの緊張が薄れればと思ったのですよ。こちらに敵意はないと、多少でも伝われば、アドニスにとっても気が楽になるでしょう?」
「間接的な交流って…どうすればいいんだ?」
「まぁ、早いのは贈り物などでしょうか」
「…贈り物、ねぇ」
「文と言ったのも、そういうことですよ? 流石にアドニス相手に…というより、何も知らない相手に何を書けという感じなので文は冗談ですが、言葉を贈る代わりに、物を贈るのも悪くないのではと思いまして」
「…ふむ」
「こちらにアドニスを害する気はないと、ハッキリ分かった方がいいでしょうね。好意的な…いや、友好的? とにかくまぁ、アドニスが喜びそうな、私達に対して少しでも気を緩めてくれそうな物が良いのではないかと」
「…なんだろうな。そんな気は全くないんだが、餌付けでもしてるようだな」
「…最初は仕方ないでしょう。最初だけ、です」

「はぁ」と揃って溜め息を零すイヴァニエ様とルカーシュカ様だが、贈り物というのは良い考えだと思った。
今のアドニス様にとってお二人は、決して恐怖の対象ではないはずだ。ただ、知らな過ぎるのだ。
怖くはなくとも、知らないから怖い。
どうしていいか分からないから怖い。
ご自身がどう思われているか、どう言葉を返せばいいのか、どう動けばいいのか…それら全てが分からないからこそ、何も出来ない、何も言えない───そんな現状を『怖い』と感じていらっしゃるように思えた。
この際、餌付けと思われようとなんだろうと、お二人から歩み寄って頂けるのであれば、それを目に見える形でアドニス様にお贈りする、というのは大変有効的だろう。

「贈り物であれば、アドニス様も喜んで下さると思います。プティ達から贈られる花も、いつもとても喜んでいらっしゃいますから」
「それは相手がプティだからでは……それより、まだ花を受け取っているのか?」
「今は週に一度ほどです。私からプティ達に毎日持って来なくていいと伝えてからは頻度は減りました」

毎日毎日、数人のプティ達が花を持ってアドニス様に会いに来るため、流石に数が増え過ぎてしまい、アドニス様に了承を得た上で、プティ達による花の持ち込みは早々に制限した。

「花……花ね…」
「あ、いえ、花に拘らずとも問題ないかと思いますが…」
「…アイツは、花が好きなのか?」

ルカーシュカ様の問いに、パチリと目を瞬く。

「そう…ですね。好んでいらっしゃると思いますが…恐れながら、アドニス様のお好みをまだ把握し切れておりません」
「あの部屋は、あなたが整えたのでしょう? あれは、アドニスに合うように揃えたのですか?」
「はい。僭越ながら、その…アドニス様の雰囲気に合うように、整えさせて頂きました」
「アイツは気に入ってる様子か?」
「…はい。好きだと、仰って頂けました」
「あの雰囲気を好むか…」

腕を組んで黙り込んだお二人は、真剣にアドニス様への贈り物を考えて下さっているのだろう。それが嬉しくて、心は静かに沸き立った。

「アドニスの好みに合わせて贈ろうにも、私達の記憶しているアドニスの好みでは、恐らく役に立たないでしょうね」
「…左様でございますね」

今のアドニス様の趣向は、以前のアドニス様のそれとは真逆と言えるだろう。

「…アイツは、どんなものを好む?」
「私の感じ取った範囲、ということであればお答えできますが…」
「それで構わない。物でも食べ物でも、アドニスが好んでいるようなものが分かれば、教えてくれ」

ルカーシュカ様の黒水晶のような瞳が、こちらを真っ直ぐ見据える。なんの濁りも、躊躇いもない澄んだ瞳に、思わず姿勢を正す。

「あくまで私がそう感じた、ということが前提にはなりますが……アドニス様は、温かな色合いや柔らかな肌触りの物を好まれる傾向にあるかと思います。ご自身が好まれているということもありますが、基本的にプティ達と過ごすお時間が長いので、あの子達にとって優しい感触である物を好まれるのかもしれません。お食事については、良く熟した、甘みの強い果実を好まれているように思います。逆に少しでも酸味のある物は苦手なようです。あとは…これは、好みとは異なるのかもしれませんが、窓の外の風景を眺めながら、陽の光を浴びて過ごすお時間が長いと思います。お外に出ようとはされないのですが、好ましいものだとは思っていらっしゃる様です」
「…そうか」
「他ですと、毎朝召し上がっているミルクがお好きだと思います」
「蜂蜜を混ぜて飲ませているというミルクですか」
「はい。果物については何度か同じ物を口にされて、ようやく好ましいかどうか判断できるようになっていましたが、蜂蜜ミルクに関しては、初めてお口にされた時から、好きなお味だと仰っていました」
「なるほど…因みにですが、アドニスは何かを欲しがったりはするのですか?」
「いいえ、基本的にご自身から何かを求められることはございません。…恐らくですが、そういったことを望んだり、考えたりといった感覚そのものが無いのかもしれません」
「…そうですか」

アドニス様が欲している物があれば、それを贈ることが最善だろうが、現状、アドニス様は今あるものだけで満足していらっしゃるご様子だ。

「アドニス様のご様子を見る限り、現状に不平も不満も、不便も感じていらっしゃらないと思います。…あのお部屋は、アドニス様にとっては安心できる空間なのだと思います。誰かがいらっしゃることもございませんし、訪れるのはプティだけです。プティ達がいて、静かで、暖かくて…アドニス様はそれだけで充分、ご満足されているようです」
「…ささやかと言うには随分と……いや、アドニスが満足しているなら、今はそれで良いか」
「…今は贈る物について考えましょう。アドニスの好む物として考えるなら、その蜂蜜を混ぜたミルクと、プティに焦点を絞った方がいいかもしれませんね」
「そう言われてもなぁ…」
「プティと一緒に楽しめるもの、として考えるなら、最悪、嫌がられることはないでしょう」
「…まぁ、ミルクならプティと一緒に飲めるだろうしな」

ついでに「形として残るよりも、食べて終わってしまう物の方がいいだろう」という考えにより、ミルクに細工を施すことで話がまとまり始めた。

「…よろしければ、『魔法』のような細工がなされていれば、よりお喜びになるかもしれません」
「魔法?」
「アドニス様ですが、未だに聖気で起こる現象を不思議に思っていらっしゃる様です。物を浮かせたり動かしたりといった当たり前の行為でも、珍しそうに眺めていらっしゃいます。普段の生活の中では、それ以上のものをお見せする機会もございませんので、よろしければ『魔法』のような粛法を施した贈り物はいかがでしょうか? アドニス様にとって、不思議だと思えるようなものをお見せすることが出来れば、恐らく楽しんで下さると思います」
「…普段あまり目にしないような、触れることがないような体験ができる物がいい、という考えでいいか?」
「はい」
「…考えてみよう」

顎に手を当て、なにやら考え始めたルカーシュカ様の向かい側では、イヴァニエ様が眉根に皺を寄せていた。

「なかなか考えるのが難しいですね…」
「…アドニス様が喜ぶ物として考えるよりも、プティ達が喜ぶ物、として考えてもよろしいかと思います」
「プティが?」
「プティ達が喜ぶ姿を見て、恐らくアドニス様もお喜びになるはずです」
「ああ、そういう考え方もあるのですね…」
「プティ達も見たことがないような…不思議だと、面白いと、あの子達が思えるような物であれば、きっと一緒に楽しんで下さるのではと思います」
「…少し、考えてみましょう」

(…私がご提案できるのはここまでだ)

あくまで、お二人からアドニス様への贈り物になるのだから、これ以上の発言は良くないだろう。
方向性が決まれば、あとは『どのような形にするか』を考えなければならない。
構想を練りだしたお二人の邪魔にならぬ様、いくつかの言葉を交わすと、静かにその場を後にした。
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