天使様の愛し子

東雲

文字の大きさ
上 下
44 / 140
フォルセの果実

37

しおりを挟む
三日後にイヴァニエとルカーシュカと会う約束をしてから、あっという間に時間が過ぎた。
当初、彼らに会いたいと口にした時は、多少の恐怖や不安はあったが、それでも大丈夫だと思っていた。

(……どうしよう…)

それが日を追うごとに、どんどんと不安は大きくなっていった。
いや、不安というよりは緊張だろう。何を話せばいいだろうか、どう話せばいいだろうか、ちゃんと話せるだろうか…自分が話しかけても、不快ではないだろうか…そんな心配とも不安とも言えない気持ちで、緊張感はどんどんと高まっていった。
考えるだけで気が重く、胸が苦しい。決して嫌だと思っている訳ではないのに「会いたくない」という気持ちが日毎ひごと増していった。
「そんな風に考えたらダメだ」と分かっているのに、逃げ出したい気持ちばかりが膨れていく。
同時に、せっかく会ってもらえるのに、そんな風に考えてしまう自分も嫌で、気持ちは更に暗く沈んでいった。

(…どうしよう…)

泣いてしまいたいほどの不安に苛まれながら、それでも「否」とは言いたくない感情に板挟みになり、悶々と考え込むだけの時間が三日過ぎ───とうとう約束の日を迎えてしまった。




その日は、とても何かを飲み込めるほどの気力も無く、彼に手渡されたミルクに口をつけることもできなかった。

「アドニス様、本日のお約束ですが、難しいようであれば日を改めることも可能です。必ず今日お会いにならなければいけないということではございません。よろしければ、私からお二人に申し伝えますので、今日はこのままお休みになりましょう?」

手渡されたカップを手にしたまま、動けない自分を心配した彼が、顔を覗き込むように床に膝をついた。
この数日間、彼がずっと心配してくれていたのは知っている。
気にして声をかけてくれた彼に、頑なに「大丈夫」と言葉を返していたのは、他でもない自分だ。
不安気に曇ったその表情に、思わず下唇を噛んだ。
彼にだって、そんな顔をさせたくないし、余計な心配をさせたくない。きっとここで「今はまだ無理だ」と、正直に伝えた方がいいのだろう。
だがここまで来ても尚、そう言いたくない自分が邪魔をする。

せっかく来てくれるのに、約束もしたのに、それを無駄にしたくないという気持ちと、ここまできて「会えない」等と言ったら、もう二度と会ってもらえないかもしれないという不安。
そしてまた…もっと、嫌われてしまうかもしれない───そんな恐怖から、とてもではないが言い出すことが出来なかった。

イヴァニエもルカーシュカも、きっとそんなことで怒ったり、機嫌を損ねたりしないだろうことは、彼の話を聞いて理解していた。それくらいは、分かるようになった。
それでもまだ、怖いのだ。
数え切れない不安と緊張が混じって、それが恐怖となって、脳内を埋め尽くしていた。

「……せ…かく、会って…くれる、のに…っ」
「アドニス様…」

彼の気遣いに、ふるりと頭を振った。
分かっている。きっとダメになると分かってて、無理をしているのは分かっている。
本当に無駄な強がりだと分かっている。
それでも、逃げ出す勇気すらない自分が、心底嫌になる。

温かかったはずのミルクは、いつの間にか手の中で冷たくなっていた。



約束の時間が近づき、緊張はピークに達していた。
座っているのも落ち着かず、長椅子の近くをウロウロと歩きながら時間が過ぎるのを待つ。
イヴァニエとルカーシュカが来るということで、赤ん坊達とも朝から会っていない。赤子達がその場にいては、自分の気が散ってしまうだろうというのが原因だが、そもそも朝の元気のなさでは、あの子達にまで心配をさせてしまっただろう。
不安を、緊張を、恐怖を紛らわすように、羽織ったローブの裾を握り締め───ふと、そこにあったフードの存在を思い出し、縋るように掴んだ布の端を持ち上げると、それを目深に被った。

視界を遮り、身を包むような久しぶりの感覚に、少しだけホッとした…その時だった。


───コンコンコン…


「───ッ!」

扉を叩く、ノックの音に体が竦んだ。
扉の前で二人を出迎えるために待機していた彼が、こちらを不安そうな顔で見つめていた。

『今なら、まだ間に合います』

そんな声が聞こえてきそうな表情に、それだけで泣きそうになり、それでも小さく首を振った。

(…ああ…どうして…)

きっと、会わない方がいい。自分のためだけじゃない。
せっかく来てくれた二人のためにも、今は会うべきではない。
きっと嫌な思いをさせる───…

そう分かっているのに、言い出す勇気も、逃げる勇気も、腹を括ってきちんと二人と向き合おうという勇気も無い。
ただ後に引き下がれないばっかりに、この瞬間を迎えてしまったことに、今更ながら猛烈な後悔が押し寄せた。


───カチャリ…


観念したように、彼がゆっくりと扉を開いた。
ドクドクと脈打つ心臓は早鐘のようで、息苦しさに眩暈がした。
開いた扉の向こう側に立つ二人の姿を見る勇気もなく、俯いたまま服の端をキツく握り締めた。

(…ど…どうしよ…)

───怖くないはずなのに怖い。
緊張は既に振り切れ、感情の許容量を超えているのが自分でも分かった。
このままでは倒れてしまうのではないか…そんな不安に、吐き気すら込み上げてきた時、ふっと側に寄る温かな体温にハッと息を呑んだ。

「…アドニス様、大丈夫ですか?」
「…っ、は…っ、…ぁ…う、…っ」

大丈夫ではない。彼に話しかけられるまで、息を止めていたことすら気づいていなかった。
目の前に差し出された彼の手に、縋るように手を伸ばすと、強く握り締めた。

…ああ、彼の表情が強張った。
自分でも分かるほど冷たくなった指先に、奥歯を噛み締めた。
繋いだ彼の手の温かさが、なによりの救いで、離れぬように、強く握り締めた。

そうしている間に、部屋の中に招き入れられたイヴァニエとルカーシュカが、この日のために用意された長椅子へと腰を下ろしたのが分かった。

「…アドニス様、参りましょう」

ほんの数歩で辿り着けるはずの距離を、彼に手を引かれないと歩けない。

(…ダメだ……これじゃ…)

まともに話せるはずがない。
分かり切っていたはずの今の状況を作り出した自分自身に腹が立ち、情けなさから唇を噛んだ。
せめて泣かないようにと、滲みそうになる瞳をギュッと瞑る。まだ何も始まってすらいないのに、既に這々の体で二人と向かい合うように椅子に腰を下ろした。

浅く短い呼吸を繰り返しながら、そっと視線を上げた。
テーブルを挟んだ向かい側、手を伸ばせば届きそうなほど近いところに二人がいる───その事実が、どうしようもなく怖かった。

(ど…して…っ)

怖くない。怖くないはずなのだ。
それなのに、思考が勝手に「怖い」と悲鳴を上げる。
繋いだままの彼の手を強く握り締めると、不意に向かい側から声を掛けられ、反射的にビクリと体が跳ねてしまった。

「…あなたも、座りなさい」
「イヴァニエ様…しかし…」
「あなたが気にすることも分かります。ですが今は、アドニスの隣にいるべきでしょう」

二人のやりとりを聞きながら、ハッとする。

(……もしかして…ダメだった…?)

もしや、自分一人で向き合うべきだったのだろうか? だがこの状況で一人にされるのは無理だ。
そう考えている間にも、繋いだ彼の手からは戸惑いのようなものが伝わってきて、心臓がきゅうっと痛くなった。

(また…迷惑かけちゃ…)

泣かないようにと、我慢していた瞳がじわりと滲み、続く重い沈黙に息が苦しくなった。


「……名を、もう一度名乗るべきだろうか?」
「…っ!」


沈黙を破るように声を掛けられ、体が揺れる。
何か考える前に、イヴァニエとルカーシュカがそれぞれ名を教えてくれた。
自分も名乗るべきなのだろうかと考え、口を開きかけて───噤んだ。

(ちがう…二人は…自分のこと、知ってるんだから……)

なんと言葉を返せばいいのか考えている間に、次の質問が飛んでくる。
極度の緊張で思考の鈍った頭では返す言葉も分からず、恐怖に飲まれた体はガチガチに固まったまま、開いた口からは、はくりと息を噛む音しか漏れなかった。
途中から声の主がルカーシュカからイヴァニエに代わり、なんとか首を横に振るか頷くかだけの動作は返せたが、それでもただの一言も、声にはならなかった。

(…どしよう……こんな、じゃ…)

───呆れられてしまう。

自分で会いたいと言ったくせに、この様だ。
お礼が言いたいという、あの感情は一体どこへ行ってしまったのか。
話しをするどころか、顔を合わせることも出来ない。
なんて失礼な奴だと、怒られても当然だろう。

そんな考えが頭の中をぐるぐると渦巻き始めた時───小さな溜め息を吐く音がして、喉の奥が引き攣った。

(…あ……お…おこ…)

彼の手を握り締める指先に、知らず知らずの内に力が籠った。
自分がまともに話すことも出来ないから、せっかく二人から話しかけてくれたのに、無茶だと分かっていて彼に無理を言って、二人にわざわざここまで来てもらったのに、こんな嫌な態度だから───…

頭の中が真っ白になる。
それでもギリギリのところで残った理性で、謝ろうと口を開きかけた時だった。


「…すまん。今のは、お前に対してのものじゃない」


(……? …どうして…)

何故、ルカーシュカが謝るのだろう?
謝られた意味が分からず、言葉に詰まっていると、空気が動く気配と衣擦れの音がした。

「俺はここまでで充分だ。…無理をさせて悪かったな」
「え……」

弾かれるように顔を上げた先で、椅子から立ち上がったルカーシュカと目が合った。

(……あ…)

呆れられていると思っていた。きっとイラつかせてしまったと思っていた。
だがその予想に反して、ルカーシュカの黒い瞳は、とても穏やかに凪いでいた。

「あまり無理をしなくてもいい」

低く響いたその声音も、こちらを見つめる瞳も、ただただ柔らかく、言葉通りの労りの念が籠っていることに気づき、目を見開いた。

「……ぁ…」

それだけ言って、踵を返してしまったルカーシュカに、動揺と焦り、どうしようもない不安が込み上げた。

(…ま、まって……)

言えるはずもない言葉が、喉の奥で潰れ、飲み込んだ空気から痛みが走った。
開かれた扉が静かに閉じる瞬間、少しだけこちらを振り返ったルカーシュカの翳った表情に、押し込めていた感情が一気に溢れ出した。

「彼にも困ったもので……っ、アドニス…!?」
「アドニス様…!」

驚きと焦りを混ぜたようなイヴァニエと彼の声が聞こえたが、それに反応できる余裕などなかった。
ボタリ、ボタリと、後から後から涙が零れ落ち、頬を伝って膝の上へと落ちていった。

「っ…、ふ…っ、ごめ…、ご、ごめ…なさ……!」

どうして、あんなに優しく話しかけてくれたのに、返事すら出来なかったのだろう。
どうして、顔を見ることすらしなかったのだろう。
どうして、あんなに怯えてしまったのだろう。
…怖くないと、分かっていたのに。

イヴァニエも、ルカーシュカも、この部屋に入ってきた瞬間から、怖くなかった。
刺すような視線も、痛いほどの敵意も、欠片も感じなかった。
それなのに、少しも怖くなどなかったはずなのに、体が、脳が、勝手に『怖い』と叫び、拒絶した。

「ひっ…、ごぇ…ごめんなさ…っ」

怖くないのに、怒ってもいなかったのに、勝手に怯えて、怖い人だと決めつけて、お礼を言いたいと言っていたくせに、まったく歩み寄ろうともしなかった自分が恥ずかしくて、情けなくて、心底嫌で…どれだけ彼らに失礼だったのかと、申し訳なさと不甲斐なさ、自分への腹立たしさから涙が止まらなかった。

「…アドニス、ルカーシュカは決して、怒っていた訳ではないのですよ?」
「…っ、ひ、ひが…っ」

(ちがう…、怒ってただなんて思ってない…!)

自分がルカーシュカに怯えて泣いたと勘違いされてしまったことに、更に気持ちは沈んだ。

「うぅ~…っ」
「アドニス様、擦ってはいけません」

胸を締め付ける苦しさに目を細めれば、ボタボタと雫が零れた。それを拭おうと持ち上げた手を、やんわりと彼に制され、代わりに柔らかなタオルが目元を覆った。

「っ…、…ひ…っ…」
「…今日はここまでにしましょう。一度、落ち着いた方がいいでしょう」
「…ッ、…ぁ……ま…」
「はい。御心を配って頂き、ありがとうございます」

自分が応える前に、彼の返事を聞いてイヴァニエも席を立ってしまった。

「見送りは結構ですよ。側にいておやりなさい」
「…恐れ入ります。本日はお越し頂き、ありがとうございました」
「…アドニス、ゆっくり休みなさい」
「ふ…ぅ…っ」

見上げたその顔はルカーシュカ同様、とても穏やかで、降ってきた声はとても温かかった。
ゆっくりと去っていく背に、声を掛けることも出来ず、パタリと閉じられた扉をただ茫然と見つめた。

(ど…しよう……)

お礼を言おうだなんて、言えるだなんて、どうして思えたのだろう。
まともに言葉を交わすことも出来ず、あまりにも短く、なんの意味も成さなかった再会。
イヴァニエにもルカーシュカにも、キッカケを作ってこの場を用意してくれた彼にも、申し訳なくて不甲斐なくて、また涙が溢れた。

「…ごめ、ごめんね…っ!」
「アドニス様、大丈夫ですよ」
「ごめ…っ、ごめんなさ…っ、せ…せっかく…あ、て…くれたのに…っ!」
「…最初からいきなり、仲良くお話しが出来るとは、私もお二人も考えていませんでした。少しずつ、慣れていくためのお時間が今は必要です。そのための今日だったのですから、お顔を合わせることが出来ただけでも、すごいことなのですよ?」
「…っ、…で、でも…っ、話し、かけ…て、くれた、のに…っ、わ、わたし、な…なんにも…返せな…っ」
「大丈夫です。お二人とも、分かって下さっております。怒ってなど───」
「~~~っ、ちが、ちがうの…っ! ちがう…!」

彼にまで誤解されそうになり、ぶわりと一層涙が溢れた。

「ちがう…っ、怖くない…っ、怖くないよぉ…!」
「…っ、申し訳ございません。アドニス様、どうか落ち着いて下さいませ。…ゆっくり、お話ししましょう?」
「…ひっ…、ふ……ぅん…っ」


そこから、なんとか自分の気持ちを彼に伝えた。
確かに最初は怖かったが、それも不安や緊張という感情が大きかったこと。
会わないという選択肢を選ぶ勇気もなかったこと。
それでも二人に会って、直接お礼が言いたいという気持ちが強かったこと。
部屋に入ってきた二人を怖いとは思わなかったのに、体が勝手に震えて怖くなってしまったこと。
ルカーシュカが怒っていないことも、そのせいで席を立った訳でもないことも理解していること。
何も話せなかった自分が不甲斐なくて、情けなくて、申し訳なくて泣いてしまっただけだということ…

しゃくり上げ、つかえながらで聞きにくい言葉も、彼は真剣に聞いてくれた。

「ご、ごめんね…っ、あ、あなたにも、いっぱい、迷惑…、かけちゃ…っ」
「迷惑などと思ってはおりません。…頑張られましたね、アドニス様」
「ふ…っ、うぅ…っ」

…頑張れてなどいない。何一つできていない。
なのにどうしてそんな風に言ってくれるのか…彼の優しさが理解できない自分がまた悔しくて、ポタポタと雫が零れた。

(泣いて、ばかりじゃ…ダメだ…)

せめて、今日伝えることができなかった感謝の言葉だけでも、きちんと伝えたい。
自分からこんなことを言うのは烏滸がましいだろうと思いつつ、それでも言わなければと、強く拳を握り締めた。

「つ、次は…ちゃんと、がんばる、から…っ、だから……、ま、また…っ」

『会いたい』と言外に含めて言えば、彼が驚いたように目を見開いた。

「…アドニス様、またお二人と会って頂けるのですか…?」
「…っ、ダ、ダメなら…、い───」
「いえ! …いいえ、会って頂けるのは、大変喜ばしいことです。ですが、アドニス様にあまりご負担になるようであれば…」
「いい…っ、大丈夫…!」
「…今日も、ご無理をされましたよね?」
「あ…ぅ……でも…ぁの…、こ、今度は…だ、だいじょうぶ…」
「アドニス様…」
「だ、だいじょうぶ…っ、だいじょ、ぶ…だから…っ、……会いたい…っ」

彼の心配も最もだ。なんの根拠もない「大丈夫」という言葉を、そのまま信じる訳にはいかないのだろう。
不安気な彼の表情に、自分の弱さが透けて見えるようで、ますます悲しくなった。

「だいじょうぶ…っ、大丈夫、だから…、会う…!」
「……畏まりました。アドニス様のお気持ちは、私からお二人にお伝え致します」
「…! あ、ありがとう…!」

そう言って淡く微笑んでくれる彼に、胸に溜まっていた不安が溶けるように消えていく。

「ぁ……でも…あの、ふ、二人は…イヤじゃ、ない…かな…」
「そんな、とんでもない。きっとお喜び頂けますよ」

その言葉に安堵しつつ、ようやく涙が止まった瞳で、部屋の扉を見つめた。

「……二人とも、行っちゃった、から……あの…お願い…できる…?」
「? なにをでしょう?」
「え…えと、また…お会い、したい…て、言わなきゃ…?」
「ええ、そちらについては、今夜お二人の元へお伺いした際にお伝えしますね」
「……今夜?」


その言葉に一瞬、思考が止まる。
それはつまり、夜までこのことを二人は知らないまま、ということだろうか?


(……どうしよう…)

『嫌だ』と、思ってしまった。
再び込み上げた不安に、ザワリと胸が波立つ。
イヴァニエもルカーシュカも、自分が二人を怖がり、拒絶し、遠ざけたと思っているのだ。
正直、今までならどう思われていても良かった。その通りだっただろうし、否定する必要もなかった。

でも今は違う。
彼らにそう思われていることも、そう思わせてしまっていることも、ひどく苦しく、嫌だと思ってしまった。
去り際の、穏やかに凪いだ蒼と黒の瞳を思い出し、反射的に口からは言葉が漏れていた。


「………ゃだ…」


ポツリと一言零れれば、もう止めることは出来なかった。

「や、だ…はやく…、は、早く、伝えなきゃ…」
「アドニス様?」
「も、もう、帰っちゃった…から、あの…ど、どこ…どこに…っ」
「落ち着いて下さいませ。…お二人でしたら、恐らくイヴァイニエ様の離宮にお帰りになったはずです」
「じゃ、じゃあ…そこに…」
「はい。陽が沈みましたら、私もそちらに戻りますので、その時に…」
「ゃ…やだ…、やだ…早く…早く、教えなきゃ…」
「…今お伝えしても、夜にお伝えしても、あまり違いはございませんよ?」
「で、でも…だって…」

この焦燥を、どう言葉にすればいいのか分からない。
もしも、自分のせいで二人が嫌な気持ちになっていたら…そんな不安と焦りは大きくなるばかりで、喉の奥で「くぅ」と唸るような音が小さく鳴った。

「ご、ごめんね…っ、自分で、行けない、から…お、お願いしか、できなくて…ごめんね…、…でも、あの…は、早く、伝えてほしい、から…、お願い…!」

気持ちだけが急いていた。とにかく早く二人の誤解を解きたい。もう一度、会う機会をもらいたいと伝えたい。
自分のことも、彼らのことも、等しく心配してくれている彼なら、きっと分かってくれるはず───そう思っていた。


「駄目です」


困ったように笑いながら、キッパリと返された言葉に、一瞬なんと言われたのか理解できなかった。

「………なんでぇ…?」

(なんで…どうして…?)

彼に拒否されると思ってなかった頭には、疑問符ばかりが浮かぶ。

「どして…? …だって…早く…言った方が…」
「アドニス様の、お二人へのお心遣いは大変嬉しく思います。ですが、アドニス様をお一人のまま、お部屋に残して行く訳にはまいりません」
「そ、そんな…」

まさか自分自身が原因だとは思わなかった。

「だ、大丈夫、だよ…! ちゃんと…あの、一人でも、待ってられるよ…?」
「いいえ、いけません」
「本当に、大丈夫だよ…っ、お、大人しく、してるから…」
「そうですね。でもいけません」
「う…っ、で、でも…」
「…アドニス様。私が、アドニス様をお一人にするのが嫌なのです」
「んぅ…っ」

そう言われてしまえば、なんと返せばいいのか分からない。
彼にまで嫌な思いはさせたくない。
でもこのまま夜まで悶々とした気持ちを抱えたまま、過ごしたくもない。
どっちも嫌だという気持ちで、ぎゅうぎゅうと締め付けられる胸に、吐き出す息が震えた。

「…ぅ……ゃ…やだ……」

止まったはずの涙が、瞳の表面に膜を張る。

「やだぁ…」

瞬きをするたびに、ぱたぱたと落ちる涙と一緒に「やだ」という言葉が零れ落ちる。
我が儘を言っていると分かっていて、それでも止められない感情に、俯きながら身を縮めた。


「………分かりました」
「…!」


静かな攻防が続いた後、僅かに笑うような響きを含んだ彼の声が聞こえ、パッと顔を上げた。

「今から、お二人のところへ行ってまいります」
「っ…!」
「その代わり、アドニス様はこのままベッドに戻って、ミルクを飲んで、お休みになって下さい」
「え…?」

思ってもなかったことを言われ、パチリと目を瞬いた。

「…眠く、ないよ…?」
「いいえ。ここ数日は気を張っていらっしゃったのですから、お疲れも溜まっているはずです。それに、今日はまだ何もお口にされていませんでしょう? たくさん泣かれて、体力も消耗しているはずです。ミルクをお飲みになって、ベッドでお休み下さい。アドニス様がお休みになっている間に、お二人の元へ行ってまいります」
「で、でも…」
「お休みになって頂けないなら、行きません」

微笑みを崩さない彼の有無を言わさぬ声音に、これ以上の我が儘は本当にダメなのだと理解する。
乱れていた呼吸を整え、濡れた頬を手の甲で拭うと、ポツリと呟いた。

「……寝、ます…」
「はい、お休みになりましょうね」

ニコリと笑んだ彼が、すっくと立ち上がった。このまま寝室へと向かうのだろうと察し、のそのそと立ち上がる。

「…我が儘言って、ごめんね…」

彼の気持ちを無視してしまったことに、今更ながらに罪悪感が滲んだ───と次の瞬間、突然体が大きく傾き、爪先が重力に逆らってふわりと浮いた。

「ふひゃっ…!?」
「お体を楽にしていて下さい。このまま、ベッドまでお連れしますね」
「え……あ…え?」


───彼に、横抱きにされている。

一瞬の出来事に思考が停止しかけるも、浮いた体と、触れた肌から伝わる彼の体温に、脳がじわじわと状況を理解し始めた。

「っ…、じ、自分で、歩ける…よ?」

突然のことに、心臓がドキドキと脈打っている。あまりにも唐突な彼の行動に、恐る恐る声を掛ければ、目の前の綺麗な顔が柔らかに笑んだ。

「いいえ、たくさん泣かれて、きっとお疲れのはずです。歩くのも大変でしょう。…どうか今は、私めにお任せ下さいませ」

(………あ…)

その声音と微笑みから、ふと、彼の気遣いが伝わってきて、口を噤んだ。
自分を安心させるために、わざとこうして触れ合う時間を作ってくれたのだ…そう思い至り、少しだけ恥ずかしくなる。

(…甘えてばかりだ…)

彼の優しさに甘えてばかりではいけない…そう思うのに、体からはゆるゆると力が抜けていった。
力んでいた体から緊張が抜け、彼の腕に大人しく身を預ければ、彼がゆっくりと寝室に向かって歩き出す。
僅かな振動でゆらゆらと揺れる感覚と、肌から伝わる温かな体温は心地良く、それだけで眠ってしまいそうだった。


寝室の扉の前、自分を抱えたまま、彼が指先をほんの少し揺らせば、触れずとも扉は開き、続いてベッドは眠る場所を空けるように布団を捲った。
何度見ても不思議なその光景を、彼の腕に抱えられたまま眺めている内に、そっとベッドの上に降ろされた。

「少しお待ち下さいね」

そう言って、いつの間にか用意されていたミルクを、彼がいつものように温めてくれる。
彼がカップに手を翳せば、キラキラとした光の粒が零れ、次の瞬間にはミルクからほわりと湯気が立った。
そこへ蜂蜜をスプーンにひと匙、くるりと回し溶かされた物を手渡され、そっと受け取る。

「…ベッドの上で、飲んでいいの…?」
「ふふ、今日は特別です」

ずっと甘やかされてる…それを自覚しながら、温かなカップに口を付ける。甘く温かなミルクが喉の奥を流れていく感覚に、ほぅっと息を吐いた。
その間に、彼が窓のカーテンを閉めていく。薄暗くなった部屋につられるように、ミルクを飲んで温まった体からは力が抜け、次第にウトウトとしてきた。

「アドニス様、もうお休み下さいませ」
「……まだ…全部、飲んでない…」
「もうお眠いのでしょう? 大丈夫ですよ、こちらはお預かりしますね。さぁ、横になって下さいませ」

手に持っていたカップを彼に下げられ、言われるがまま、柔らかな布団に身を沈める。
今にも眠ってしまいそうな意識の中、傍らに立った彼を見上げた。

「…ごめん、ね…いっぱい…我が儘、言って…」
「我が儘というには、些か控えめではございますが…私は、アドニス様の仰る我が儘を、嬉しく思いますよ」
「…?」

そう言って微笑む彼は、なぜか本当に嬉しそうに見えた。
我が儘を言って、嬉しいと返される意味が分からない…が、眠りに落ちかけた頭に、その続きを考えられるほどの力は残っていなかった。
少し眠って、ちゃんと考えて喋られるようになったら、もう一度きちんと謝ろう、と胸に刻む。
意識がどんどんと薄れていく中、布団の中からもぞもぞと手だけを出し、彼へと伸ばす。
言葉にせずとも、想いを汲み取ってくれた彼が、きゅっと指先を握ってくれた。


「…ありがとう。いっぱい…色々……たくさん、ありがとう…」


イヴァニエとルカーシュカとの再会も、彼がいなければきっと叶わなかった。そのために、きっとたくさん頑張ってくれた。
今日という日に至るまで、いっぱいいっぱい、頑張ってくれたはずだ。
眠りに落ちる間際の朧げな意識の中、ただ彼への感謝の気持ちだけを込めて、「ありがとう」と言葉を繰り返した。

「…アドニス様のお力になれたのであれば、私も嬉しいです。さぁ、もう目を閉じて……おやすみなさいませ、アドニス様」



泣いてしまいそうなほど優しい声が耳に届く。
目を細めて微笑む彼を見つめながら瞳を閉じれば、意識はとろりと眠りの世界に落ちていった。
しおりを挟む
感想 503

あなたにおすすめの小説

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

若さまは敵の常勝将軍を妻にしたい

雲丹はち
BL
年下の宿敵に戦場で一目惚れされ、気づいたらお持ち帰りされてた将軍が、一週間の時間をかけて、たっぷり溺愛される話。

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

朝起きたら幼なじみと番になってた。

オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。 隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた 思いつきの書き殴り オメガバースの設定をお借りしてます

後輩が二人がかりで、俺をどんどん責めてくるー快楽地獄だー

天知 カナイ
BL
イケメン後輩二人があやしく先輩に迫って、おいしくいただいちゃう話です。

処理中です...