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フォルセの果実
36.天使の梯子(後)
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久しぶりに訪れた宮廷の端は、相変わらず静まり返っていた。
照明の落とされた薄暗い回廊を、イヴァニエと無言で歩く。お互い馬鹿みたいに緊張しているのが伝わってきて、とても話しをする余裕など無かった。
あと数十歩も歩けば、アドニスのいる部屋に辿り着く。
今回は急な訪問ではない。数日前に約束を取り付けた、正式な訪問だ。だと言うのに、数ヵ月前に訪れた時の何倍も緊張していた。
チラリと横目でイヴァニエの様子を窺えば、いつも柔和な表情が硬く強張っていた。
アドニスと会って話しをするだけ───たったそれだけを目的として進む足取りは、異様なほどに重かった。
気が重いのではない。息が苦しくなるほどの緊張と───自分でも信じたくないが、もしも拒まれたら、という恐怖故だ。
(アドニス相手に、こんな気持ちになるなんてな…)
一体どこでどう間違えたのだと、過去の自分であれば目を剝いて驚き、嫌悪感を露わにしたことだろう。
それでも、ヴェラの花畑で邂逅した時の傷ついた顔を思い出せば罪悪感は募るし、泣いて怯えていた姿が偽りだとは思わない。
可能な限り歩み寄りたいとは思うが…正直な話、それもアドニス次第だろう。
もしも拒まれるようであれば、それは仕方のないことだ…そう分かっているはずなのに、どうしてか拒絶されることを少しだけ恐れている自分がいた。
同時に、受け入れようと思う反面、過去の記憶を完全に払拭することは難しく、どうしても今一歩、歩み寄れない自分もいた。
同じように、たった数ヵ月の間に、自分でも驚くほど心境が変化していることに、正直戸惑っていた。
聖気を分け与えたことに後悔はない。側仕えの天使の心配する気持ちも分かるし、日々笑顔が増えていることは喜ばしいことだと思う。
…そう思っていても、拭いきれない負の記憶と、今はそのことは忘れるべきだという考えが鬩ぎ合い、葛藤は尽きない。
簡単に割り切れるほど、浅い溝ではないのだ。
(いっそ本当に別人だったなら、こんなに思い悩むこともないだろうに…)
自嘲気味な笑みに口元が歪んだ。
記憶を失っただけではなく、もっと別の、根本的な何かが変質しているのは確かだが、何がどう変わったのかまではまだ分かっていないのだ。
せめて、今日の対面で何かが分かれば…そんな淡い期待を抱きながら、目の前の白い扉を前に足を止めた。
目配せをしたイヴァニエが、コツコツと軽く扉を叩く…が、なんの返事もないことに、嫌でも緊張感は高まった。
「なにかあったか…?」
「あの子が一緒にいるはずですから、それは考えにくいかと…」
数秒の沈黙が続いた後、ゆっくりと扉が開かれた。
「お待たせして申し訳ございません。…イヴァニエ様、ルカーシュカ様、ようこそ、おいで下さいました」
「…なにか、ありましたか?」
「いえ…その…」
出迎えに現れた側仕えの表情は、明らかに動揺していた。
チラリと動いた視線の先、開いた扉と、目の前に立つ天使の隙間から、そこに立つ人物が見えた。
(……アドニス…)
いや、正確に言えばアドニスと一目で分かる訳ではなかった。
その顔は俯き、目深に被ったフードで、表情はほとんど見えなかった。ただ、背格好とこの部屋にいる人物、ということでアドニスだとかろうじて判別できるだけだった。
その立ち姿は所在無さげで、今にも倒れそうなほど怯えているように見えた。
「おい、無理そうなら今日はやめ───」
「いえ、…いいえ、アドニス様が、お二人とお会いになることをお望みです」
「ですが…」
「どうか、お入り下さい」
躊躇う気持ちを無理やり振り払うように、扉が大きく開かれた。…この扉が、人を招き入れるように大きく開かれたのは、もしや初めてなのではないだろうか。
漂う緊張を纏いながら、室内へと足を踏み入れた。
その時、離れたところに立つアドニスの肩が僅かに揺れたのが見えた。
「…俺たちはいいから、アイツの側にいてやれ」
「…! 恐れ入ります」
落ち着かない様子の側仕えに声を掛ければ、深く頭を下げ、足早にアドニスの元へと向かっていった。
アドニスの側に寄り、小声でいくつか言葉を交わす二人───と、アドニスの手が、側仕えの手を握った。
「…イヴァニエ様、ルカーシュカ様、どうぞこちらへ」
片手で示された場所は、テーブルを挟み、向かい合わせに置かれた長椅子。
言いたい言葉を飲み込み、イヴァニエと共に、躊躇いがちに部屋の中を進んだ。
数ヵ月ぶりに足を踏み入れた室内は、いつか訪れた時のような物悲しさは消えていた。
淡い色合いの家具でまとめられた室内は、陽の光が大きく差し込み、温かで柔らかな雰囲気へとガラリと変わっていた。
アドニスには不似合いと思ってしまうような室内は、それでも側仕えがアドニスのために取り揃えたのがよく分かる、優しい空間になっていた。
辺りに軽く視線を移しながら、指された長椅子へと腰を下ろす。
「アドニス様」
そこへ側仕えに手を引かれたアドニスが、ゆっくりと近づいてきた。
その光景は、どう見ても庇護者に守られながら道を歩く幼な子のようで、なんとも言えない不安に胸が騒ついた。隣に座るイヴァニエは、見なくとも分かるほど動揺していた。
俯いたままの表情はやはりほとんど見えず、ただキツく噛んだ唇からは、心情は分からずとも、懸命さだけは伝わってきた。
落ち着かない気持ちで、その様子を見届ける。
なんとか、本当になんとか、対面した長椅子に辿り着いたアドニスが、恐る恐るその場に腰を下ろした。その手は側仕えの手を強く握ったまま、離される気配はなかった。
「…あなたも、座りなさい」
堪らず口を開いたイヴァニエの声に、ビクリとアドニスの体が跳ねた。
「イヴァニエ様…しかし…」
「あなたが気にすることも分かります。ですが今は、アドニスの隣にいるべきでしょう」
「……恐れ入ります」
従者である者が、主とその招いた客と同席することなどまず無いだろう。本来であれば、少し離れたところで控えているものだ。だからこそ、側仕えも戸惑っているのだ。
だが今は、それを基準として考えるべきでも、アドニスを一人にさせるべきでもないだろう。それが分かっているからこそ、素直にイヴァニエの言葉に従ったのだ。
「………」
「………」
「………」
重い沈黙が流れた。
アドニスは当然として、こちらも何から口にしていいのか、この場に来て悩んでしまい言葉が出てこない。
向かいに座ったアドニスを観察すれば、身を硬くし、縮こまって座っているのが分かった。
繋いだままの側仕えの手を、キツく握っているのが一目見て分かるほど力の籠った指先は、僅かに震えていた。
その様子を不安そうに見つめる側仕えが、繋いだ手の上から、もう片方の手でアドニスの手を覆い隠すように重ねる。
目の前の光景から伝わる、二人の間で築かれた信頼関係と、慈しみ、相手を想う深い情───正直、信じられない光景を目の当たりにし、本当に今が現実なのかと疑うほどだった。
あのアドニスが他者と、ましてや従者である天使とふれあっている姿は、アドニスの現状を聞いていなかったら、心底異常だと思っただろう。
(……過去のことは考えるな)
アドニスの身を案じているのは本当だ。
傷つけてしまったと、罪悪感に苛まれ、後悔したことも本当だ。
今はただ、その感情だけ、それ以外のことを考えるな、と自分に言い聞かせた。
「……名を、もう一度名乗るべきだろうか?」
「…っ!」
声を掛ければ、アドニスの体がピクリと揺れた。
「俺達のことも、覚えていないのだろう? …俺はルカーシュカだ」
「…私がイヴァニエです」
「……、ぁ…」
何か、返事をしようとしているのは分かる。だがその声が音になることはなかった。
未だに俯いている為、自分達を認識できているのかも分からない。それでも構わないと言葉を続けた。
「調子はどうだ?」
「……、…」
「…食事は摂っているか?」
「…っ、……」
「…本日はまだ、何もお召し上がりになられていないですよね?」
「…、ぅ…っ」
見かねた側仕えの言葉に、アドニスがおずおずと頷いた。
「……そうか」
言葉を交わすことが出来ない。分かっていたことだが、あまりにも難儀だ。
「…体調に、悪いところはないですか?」
「……、」
「今、何か欲しいと思う物はありますか?」
「ん……」
イヴァニエの言葉に、コクリと頷き、フルリと首を振る。「はい」か「いいえ」で答えられる質問なら、意思の疎通は可能なようだ。
(参ったな…)
流れる沈黙が痛い。お互いぎこちなく、どう距離を詰めればいいのか、何を話していいのかが分からない。
どこまでなら許されるのか、どこまでなら、脆く弱いその輪郭に触れていいのか…また傷つけるのではないかという不安から、臆病になる。
重くのし掛かるような感情に、思わず零れた溜め息───同時に、アドニスの纏っていた空気が、ビクリと怯えたようなものに変わったのが分かった。
───しまった…!
瞬間的にそう思った。
今の溜め息は、あくまで自身の不甲斐無さから出たものだった。しかし今のこの状況では、アドニスを不安にさせる以外のなにものでもなかっただろう。
「…すまん。今のは、お前に対してのものじゃない」
「……ぅ…、」
あえて何がとは言わなかったが、それでも伝わったはずだ。だがアドニスからの反応は薄く、戸惑いばかりが伝わってきた。
(…俺はいない方がいいかもしれんな)
自分がアドニスにとって恐怖の対象だということは分かっていた。…会うにはまだ、早過ぎたのだろう。
(この場はイヴァニエに任せよう)
『逃げ』だと分かっている。だが自分がここにいることで、アドニスが萎縮し、余計に話が進まない可能性もある。今はまだ、離れているべきなのだろう。
動作一つ一つに怯えるアドニスをなるべく刺激しない様、ゆっくりと立ち上がった。
「俺はここまでで充分だ。…無理をさせて悪かったな」
「え……」
パッと、咄嗟に顔を上げたのだろうアドニスと目が合った。
フードの影になった金の瞳は、自分が思っていたよりも澄んでいて、少しだけ安心した。
「あまり無理をしなくてもいい。…あとは任せた」
「…ええ、分かりました」
何か言いたげなイヴァニエをその場に残し、部屋の出口へと向かった。
扉を閉める瞬間、アドニスがこちらに視線を向けている姿が、一瞬だけ視界に映った。
その足で、自身の離宮ではなく、イヴァニエの離宮へと向かう。
宮の主は不在だが、この数ヶ月、ほぼ毎日訪れている場所だ。イヴァニエの従者である天使達も何か察したのか、何と聞かれることもなく、いつも話し合いの為に集まっていた部屋へと通された。
イヴァニエが戻るまで、どれほど時間がかかるか───と、落ち着いて考える暇もなく戻ってきたイヴァニエに驚いた。
「随分と早かったな」
「ええ、まぁ…」
歯切れの悪いイヴァニエに内心で首を傾げつつ、頭を下げた。
「悪い。結局、お前に押し付ける形になってしまった」
「謝罪は不要ですよ。アドニスを気遣ってのことでしょう? それくらい分かりますよ」
「…半分はな。半分は、逃げたようなものだ。…アドニスは大丈夫だったか?」
「まぁ、そうですね……あなたがいなくなった後に、泣き出しまして…それでお開きになりました」
「本当に悪かった」
深い溜め息を吐きながら、頭を抱えた。
「あなたが悪い訳ではないですよ。…勿論、アドニスもです」
向かいのソファーに腰を下ろしたイヴァニエが、真っ直ぐこちらを見据えた。
「正直、私はあなたがここまでアドニスを心配するとは思っていませんでしたよ」
「…もっと薄情だと思っていたか?」
「そういう言い方はおやめなさい。…私も、他の天使達も、あなたがアドニスに対してどれほどの激情を堪えていたか、知っているつもりですよ」
「………」
数十年前のヴェラの花畑の一件は、バルドル神を始め、他の大天使達も周知することとなった。
花守という役目を担い、一年に一度、光を放つヴェラの花を永く見守ってきた自分にとって、あの花は我が子のように大切で、大事にすべき存在だった。
それをぐちゃぐちゃに踏み荒らされ、無惨に散った花弁を目にした時、怒りで目の前が真っ赤に染まった。
アドニスが鼻で笑ったように、「たかが花」と言われればそれまでだ。
散ってしまっても、来年にはまた美しい花を咲かすだろう。
だが、その年に咲いた花は死んだ。
アドニスに殺されたのだ。
同じ花であっても、別の生命だ。
また来年も咲くからと、それで許せるほど、いい加減な気持ちで見守り、育ててきた訳ではなかった。
激しい怒りと、腹の底から湧き上がる憎悪は薄れることもなく、何度アドニスを殴ってやろうと拳を握り締めたか分からない。
そうであっても手を出さなかったのは、一重に裁くのはバルドル神の役目だったからだ。
大天使の間に、上下関係はない。
等しく神に仕える者であり、だからこそ裁きを与えられる権限は、バルドル神しか持ち得ていない。
だからこそ、耐えた。耐えるしかなかった。
どれだけ怒りが湧こうと、憎しみが募ろうと、自分の中で行き場を失った激情を、無理やり殺すしかなかったのだ。
そうして、これ以上アドニスと関わるのは御免だと、無関心を決め込み、その存在を意識の外に追いやった。
いない者として扱う───そうすることで、無駄な怒りを生まぬ様、今まで努めてきたのだ。
「無理やり感情を押し殺していた姿は、見ているだけでも辛かったですよ」
「…そのことはもういい。忘れろ」
「ええ、あなたがそう望むなら。…ですが、だからこそ、あなたはアドニスを徹底的に避けていたでしょう? それが、この件に関しては積極的だったのがとても意外だったのですよ。正直、アドニスとのやりとりは、全て私が行うことになるだろうと思っていましたからね」
「今日の席で、自分より先にアドニスに話しかけたことに驚いた」と、あえて戯けてみせたイヴァニエに、少しだけバツが悪くなる。
「…割り切っただけだ。記憶の無いヤツに、怒りをぶつけたところで、自分が後悔するだけだと思い知ったからな」
何も知らない者に怒りや憎しみを向けても、傷つけるだけだ。
過去にあったことが事実としても、それを理由に傷つけるような行為はしたくないし、そのような愚か者にもなりたくなかった。
(まぁ、もう遅いんだが…)
既に手遅れなのは理解している。だからこそ、今以上にアドニスを追い詰めるようなことはしたくないと思うのだが…なかなかどうして、長年積もった負の感情を完全に無視するのは難しい。
「ルカーシュカは、すごいと思いますよ」
「なんだ急に」
「ルカーシュカほどの不和が無かった私でさえ、アドニスのことは忌避していました。私ですらこうなのです。あなたのアドニスへの感情というのは、もっとずっと…大変なものだったでしょう」
「………」
「その感情を、今のアドニスには関係のないものとして、割り切って考えようと努めている…それだけでも大したものです」
「…罪悪感から逃げたいだけだ」
「例えそうだとして、相手がアドニスだと分かっていて罪悪感を抱くだけ、あなたは優しいですよ。今日のことも、アドニスの負担にならぬ様にと席を立ったのでしょう?」
「…逆効果だったみたいだがな」
「そのように自分を責めるべきではありません。今のアドニスなら、言葉を重ねればきちんと理解してくれるでしょう。…あなたは思い遣りをもって、アドニスと向き合おうとしているのですから……私よりも、よほど優しいですよ」
「…イヴァニエ?」
その声音に、僅かな自嘲が混じっていて、思わず問い掛けようとした時だった。
───コンコンコン
扉を叩く音に、そちらに視線を向けた。
「入りなさい」
「失礼致します」
開いた扉の向こうにいたのは、アドニスに付けた天使だった。
「お前…アドニスはどうした?」
イヴァニエがここに戻ってきてから、然程時間は経っていない。自分が席を立った後に、泣き出したというアドニスはどうしたのだろうか?
「アドニス様はお休みになられました。…イヴァニエ様、ルカーシュカ様、本日はお時間を頂いたにも関わらず、大変申し訳───」
「やめろ。お前が悪い訳じゃない…アドニスもだ。俺も、急に中座してすまなかった」
「いいえ。お席を立たれたのも、アドニス様を気遣ってのことと理解しております。…アドニス様にも、そのようにお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「…そうだな。別に、アドニスを嫌っていなくなった訳じゃない。あのまま、俺があの場にいた方が、アドニスにとって良くないと思ったからだ。…アイツが悪い訳じゃない」
「怯えるアドニスを心配して、だからこそ席を立ったと伝えなさい」
「おい…!」
「そうなのでしょう? ならば変に言葉を濁す必要はありません。そのまま伝えた方が、アドニスには届き易いのでは?」
「左様でございますね。今のアドニス様には、真っ直ぐお言葉を述べた方が、伝わり易いかと思います」
「…好きにしてくれ。だが、俺から伝えるのは無理だろう。お前から説明してくれ」
「そうですね…私達の言葉では、歪んで伝わってしまうかもしれません。大変でしょうが、あなたからアドニスに伝えてやってくれますか?」
「承りました。…あの、改めて、よろしいでしょうか?」
「なんです?」
佇まいを正した側仕えが、スッとこちらを見据えた。
「先程のことがあって、今すぐこのようなお願いを申し上げるのは大変心苦しく、申し訳ないのですが……できましたら、またアドニス様とお会いして頂けないでしょうか?」
側仕えの言葉に、俺もイヴァニエも目を見開いた。なぜ、そんなことを言い出すのか分からない。
我々に怯え、言葉を交わすどころか、目を合わせることすら出来なかったのだ。もう一度顔を合わせたところで、苦痛を感じるのはアドニスの方だ。
「そこまで無理をさせずともいいんじゃないか?」
「ええ、今日の様子からも、すぐに次を考える必要はないのでは…」
「本日のことも、数日前にお話しをした時には、そこまで怯えていらっしゃるご様子ではなかったのです。ただ、日が近づくにつれ緊張が大きくなってしまったようで…」
「…ああ、まぁ…そうだな」
自分にも心当たりがあることに、少しだけ納得する。
あの部屋に続く回廊を歩いている時は、緊張で話しをすることすら出来なかった。自分でさえそうだったのだ。今のアドニスにとって、どれほどの心労だったか、想像するのは容易かった。
「お二人をお部屋にお招きした際も、アドニス様には無理をしなくともいいとお伝えしました。それでも、お二人に会うことを、アドニス様が強くお望みになったのです」
「なんでだ? わざわざ俺達と会う必要はないだろう?」
こちらには、アドニスに少しでも他者に慣れてほしいという目的があるが、アドニスにはそういった希望など無いはずだ。アドニスにとっても必要なことではあるが、強要するつもりはなかった。
「イヴァニエ様とルカーシュカ様が、足を運んで下さったというだけでも、アドニス様にとっては大変なことだったようで…せっかくお越し頂いたのに、会えないとは言えなかったようです」
「そこまで気にしなくていいんだが…」
「それと、もうお一つ。…お二人に、お礼を言うのが目的だったようです」
「礼?」
「アドニス様がお目覚めになるキッカケとなったのは、イヴァニエ様とルカーシュカ様がアドニス様に聖気を分け与えて下さったからです。アドニス様も、そのことはご理解されています。だからこそ、お礼の言葉を言いたいのだと、仰っていました」
「「………」」
自分も、イヴァニエも、言葉が出てこなかった。
いや、分かっている。今のアドニスが、以前のアドニスとはまったく異なる性格であること、穏やかで素直な性格であること…だからこそ、「お礼が言いたい」という素直な感情が生まれてくるのだろうことも分かっている。…分かってはいるが、理解し難かった。
「…礼なら、あなたを通して既に聞いていますよ?」
「はい。ですがご自身の口から、直接お伝えしたいそうです」
「何故、そうまでして? 泣くほど無理をしてまで、言う必要なんて…」
「イヴァニエ様、ルカーシュカ様。アドニス様は決してお二人を嫌っている訳でも、心底怖がっている訳でもございません」
「しかし…」
「多少の恐怖は抱いていらっしゃるかもしれません。ですが今日のことも、緊張するあまり、余計に御心を乱してしまっただけです。泣かれてしまったのも、恐怖からではありません。ルカーシュカ様が席を立たれたことが原因でもございません。…お二人とお言葉を交わしたいと願っていたのに、何も言うことが出来なかったと、お話しをすることが出来なかったご自身を責められて、泣かれてしまったのです」
「……あの時の『ごめんなさい』というのは、そういう意味でしたか…」
茫然と呟くイヴァニエは、アドニスの泣く姿も見ているからだろう、痛ましいものでも見るように、眉間に皺を寄せた。
自身を責めて泣くことなど、まして謝ることなど、しなくていいのだ───そう言ったところで、そうさせているのは自分達であるということに、酷く胸が苦しくなった。
「…礼ならもういい。気持ちなら受け取っている。もう無理はさせなくても───」
「いいえ、ルカーシュカ様。無理をしなければ、無理をしてでも、お二人とお言葉を交わすことが出来なければ、アドニス様はずっと今のままです。お二人に感謝のお気持ちは抱いていても、怯えたまま変わりません。変われません。…少しでいいのです。多少のご無理をしてでも、お二人と言葉を交わすキッカケさえあれば、必ず御心を開いて下さいます」
そう言い切った翠の瞳は、こちらが気圧されるほど強い光を宿していた。
(…心から、アドニスを想っている言葉だ)
そうでなければ、今のような言葉は出てこない。
甘やかすことの方が簡単で、楽な道を選ばせることも出来るが、それではアドニスのためにならないと理解しているからこその献身だろう。
それほどの情に触れて、「否」とは言えまい。
「……分かった。だが、また今回と同じようなことになりそうなら、部屋に入る前に言ってくれ」
「…! ありがとうございます…!」
「いえ、私達も、もう一度機会を得られるとは思っていませんでしたから…ありがとうございます」
ホッと息を吐いたイヴァニエが表情を柔らかくすれば、側仕えはふるりと首を横に振った。
「そのお言葉は、どうかアドニス様へお願い致します」
「…? どういう…?」
目元を僅かに細めた側仕えが、嬉しそうに口を開いた。
「私からは何も申し上げておりません。お二人にもう一度会いたいと、そう言って再会を願われたのは、アドニス様です」
お二人に会いたいと、泣いて駄々をこねるのを宥めるのが大変でした───と、困ったように笑う側仕えの言葉に、イヴァニエと二人、固まることになるのだった。
照明の落とされた薄暗い回廊を、イヴァニエと無言で歩く。お互い馬鹿みたいに緊張しているのが伝わってきて、とても話しをする余裕など無かった。
あと数十歩も歩けば、アドニスのいる部屋に辿り着く。
今回は急な訪問ではない。数日前に約束を取り付けた、正式な訪問だ。だと言うのに、数ヵ月前に訪れた時の何倍も緊張していた。
チラリと横目でイヴァニエの様子を窺えば、いつも柔和な表情が硬く強張っていた。
アドニスと会って話しをするだけ───たったそれだけを目的として進む足取りは、異様なほどに重かった。
気が重いのではない。息が苦しくなるほどの緊張と───自分でも信じたくないが、もしも拒まれたら、という恐怖故だ。
(アドニス相手に、こんな気持ちになるなんてな…)
一体どこでどう間違えたのだと、過去の自分であれば目を剝いて驚き、嫌悪感を露わにしたことだろう。
それでも、ヴェラの花畑で邂逅した時の傷ついた顔を思い出せば罪悪感は募るし、泣いて怯えていた姿が偽りだとは思わない。
可能な限り歩み寄りたいとは思うが…正直な話、それもアドニス次第だろう。
もしも拒まれるようであれば、それは仕方のないことだ…そう分かっているはずなのに、どうしてか拒絶されることを少しだけ恐れている自分がいた。
同時に、受け入れようと思う反面、過去の記憶を完全に払拭することは難しく、どうしても今一歩、歩み寄れない自分もいた。
同じように、たった数ヵ月の間に、自分でも驚くほど心境が変化していることに、正直戸惑っていた。
聖気を分け与えたことに後悔はない。側仕えの天使の心配する気持ちも分かるし、日々笑顔が増えていることは喜ばしいことだと思う。
…そう思っていても、拭いきれない負の記憶と、今はそのことは忘れるべきだという考えが鬩ぎ合い、葛藤は尽きない。
簡単に割り切れるほど、浅い溝ではないのだ。
(いっそ本当に別人だったなら、こんなに思い悩むこともないだろうに…)
自嘲気味な笑みに口元が歪んだ。
記憶を失っただけではなく、もっと別の、根本的な何かが変質しているのは確かだが、何がどう変わったのかまではまだ分かっていないのだ。
せめて、今日の対面で何かが分かれば…そんな淡い期待を抱きながら、目の前の白い扉を前に足を止めた。
目配せをしたイヴァニエが、コツコツと軽く扉を叩く…が、なんの返事もないことに、嫌でも緊張感は高まった。
「なにかあったか…?」
「あの子が一緒にいるはずですから、それは考えにくいかと…」
数秒の沈黙が続いた後、ゆっくりと扉が開かれた。
「お待たせして申し訳ございません。…イヴァニエ様、ルカーシュカ様、ようこそ、おいで下さいました」
「…なにか、ありましたか?」
「いえ…その…」
出迎えに現れた側仕えの表情は、明らかに動揺していた。
チラリと動いた視線の先、開いた扉と、目の前に立つ天使の隙間から、そこに立つ人物が見えた。
(……アドニス…)
いや、正確に言えばアドニスと一目で分かる訳ではなかった。
その顔は俯き、目深に被ったフードで、表情はほとんど見えなかった。ただ、背格好とこの部屋にいる人物、ということでアドニスだとかろうじて判別できるだけだった。
その立ち姿は所在無さげで、今にも倒れそうなほど怯えているように見えた。
「おい、無理そうなら今日はやめ───」
「いえ、…いいえ、アドニス様が、お二人とお会いになることをお望みです」
「ですが…」
「どうか、お入り下さい」
躊躇う気持ちを無理やり振り払うように、扉が大きく開かれた。…この扉が、人を招き入れるように大きく開かれたのは、もしや初めてなのではないだろうか。
漂う緊張を纏いながら、室内へと足を踏み入れた。
その時、離れたところに立つアドニスの肩が僅かに揺れたのが見えた。
「…俺たちはいいから、アイツの側にいてやれ」
「…! 恐れ入ります」
落ち着かない様子の側仕えに声を掛ければ、深く頭を下げ、足早にアドニスの元へと向かっていった。
アドニスの側に寄り、小声でいくつか言葉を交わす二人───と、アドニスの手が、側仕えの手を握った。
「…イヴァニエ様、ルカーシュカ様、どうぞこちらへ」
片手で示された場所は、テーブルを挟み、向かい合わせに置かれた長椅子。
言いたい言葉を飲み込み、イヴァニエと共に、躊躇いがちに部屋の中を進んだ。
数ヵ月ぶりに足を踏み入れた室内は、いつか訪れた時のような物悲しさは消えていた。
淡い色合いの家具でまとめられた室内は、陽の光が大きく差し込み、温かで柔らかな雰囲気へとガラリと変わっていた。
アドニスには不似合いと思ってしまうような室内は、それでも側仕えがアドニスのために取り揃えたのがよく分かる、優しい空間になっていた。
辺りに軽く視線を移しながら、指された長椅子へと腰を下ろす。
「アドニス様」
そこへ側仕えに手を引かれたアドニスが、ゆっくりと近づいてきた。
その光景は、どう見ても庇護者に守られながら道を歩く幼な子のようで、なんとも言えない不安に胸が騒ついた。隣に座るイヴァニエは、見なくとも分かるほど動揺していた。
俯いたままの表情はやはりほとんど見えず、ただキツく噛んだ唇からは、心情は分からずとも、懸命さだけは伝わってきた。
落ち着かない気持ちで、その様子を見届ける。
なんとか、本当になんとか、対面した長椅子に辿り着いたアドニスが、恐る恐るその場に腰を下ろした。その手は側仕えの手を強く握ったまま、離される気配はなかった。
「…あなたも、座りなさい」
堪らず口を開いたイヴァニエの声に、ビクリとアドニスの体が跳ねた。
「イヴァニエ様…しかし…」
「あなたが気にすることも分かります。ですが今は、アドニスの隣にいるべきでしょう」
「……恐れ入ります」
従者である者が、主とその招いた客と同席することなどまず無いだろう。本来であれば、少し離れたところで控えているものだ。だからこそ、側仕えも戸惑っているのだ。
だが今は、それを基準として考えるべきでも、アドニスを一人にさせるべきでもないだろう。それが分かっているからこそ、素直にイヴァニエの言葉に従ったのだ。
「………」
「………」
「………」
重い沈黙が流れた。
アドニスは当然として、こちらも何から口にしていいのか、この場に来て悩んでしまい言葉が出てこない。
向かいに座ったアドニスを観察すれば、身を硬くし、縮こまって座っているのが分かった。
繋いだままの側仕えの手を、キツく握っているのが一目見て分かるほど力の籠った指先は、僅かに震えていた。
その様子を不安そうに見つめる側仕えが、繋いだ手の上から、もう片方の手でアドニスの手を覆い隠すように重ねる。
目の前の光景から伝わる、二人の間で築かれた信頼関係と、慈しみ、相手を想う深い情───正直、信じられない光景を目の当たりにし、本当に今が現実なのかと疑うほどだった。
あのアドニスが他者と、ましてや従者である天使とふれあっている姿は、アドニスの現状を聞いていなかったら、心底異常だと思っただろう。
(……過去のことは考えるな)
アドニスの身を案じているのは本当だ。
傷つけてしまったと、罪悪感に苛まれ、後悔したことも本当だ。
今はただ、その感情だけ、それ以外のことを考えるな、と自分に言い聞かせた。
「……名を、もう一度名乗るべきだろうか?」
「…っ!」
声を掛ければ、アドニスの体がピクリと揺れた。
「俺達のことも、覚えていないのだろう? …俺はルカーシュカだ」
「…私がイヴァニエです」
「……、ぁ…」
何か、返事をしようとしているのは分かる。だがその声が音になることはなかった。
未だに俯いている為、自分達を認識できているのかも分からない。それでも構わないと言葉を続けた。
「調子はどうだ?」
「……、…」
「…食事は摂っているか?」
「…っ、……」
「…本日はまだ、何もお召し上がりになられていないですよね?」
「…、ぅ…っ」
見かねた側仕えの言葉に、アドニスがおずおずと頷いた。
「……そうか」
言葉を交わすことが出来ない。分かっていたことだが、あまりにも難儀だ。
「…体調に、悪いところはないですか?」
「……、」
「今、何か欲しいと思う物はありますか?」
「ん……」
イヴァニエの言葉に、コクリと頷き、フルリと首を振る。「はい」か「いいえ」で答えられる質問なら、意思の疎通は可能なようだ。
(参ったな…)
流れる沈黙が痛い。お互いぎこちなく、どう距離を詰めればいいのか、何を話していいのかが分からない。
どこまでなら許されるのか、どこまでなら、脆く弱いその輪郭に触れていいのか…また傷つけるのではないかという不安から、臆病になる。
重くのし掛かるような感情に、思わず零れた溜め息───同時に、アドニスの纏っていた空気が、ビクリと怯えたようなものに変わったのが分かった。
───しまった…!
瞬間的にそう思った。
今の溜め息は、あくまで自身の不甲斐無さから出たものだった。しかし今のこの状況では、アドニスを不安にさせる以外のなにものでもなかっただろう。
「…すまん。今のは、お前に対してのものじゃない」
「……ぅ…、」
あえて何がとは言わなかったが、それでも伝わったはずだ。だがアドニスからの反応は薄く、戸惑いばかりが伝わってきた。
(…俺はいない方がいいかもしれんな)
自分がアドニスにとって恐怖の対象だということは分かっていた。…会うにはまだ、早過ぎたのだろう。
(この場はイヴァニエに任せよう)
『逃げ』だと分かっている。だが自分がここにいることで、アドニスが萎縮し、余計に話が進まない可能性もある。今はまだ、離れているべきなのだろう。
動作一つ一つに怯えるアドニスをなるべく刺激しない様、ゆっくりと立ち上がった。
「俺はここまでで充分だ。…無理をさせて悪かったな」
「え……」
パッと、咄嗟に顔を上げたのだろうアドニスと目が合った。
フードの影になった金の瞳は、自分が思っていたよりも澄んでいて、少しだけ安心した。
「あまり無理をしなくてもいい。…あとは任せた」
「…ええ、分かりました」
何か言いたげなイヴァニエをその場に残し、部屋の出口へと向かった。
扉を閉める瞬間、アドニスがこちらに視線を向けている姿が、一瞬だけ視界に映った。
その足で、自身の離宮ではなく、イヴァニエの離宮へと向かう。
宮の主は不在だが、この数ヶ月、ほぼ毎日訪れている場所だ。イヴァニエの従者である天使達も何か察したのか、何と聞かれることもなく、いつも話し合いの為に集まっていた部屋へと通された。
イヴァニエが戻るまで、どれほど時間がかかるか───と、落ち着いて考える暇もなく戻ってきたイヴァニエに驚いた。
「随分と早かったな」
「ええ、まぁ…」
歯切れの悪いイヴァニエに内心で首を傾げつつ、頭を下げた。
「悪い。結局、お前に押し付ける形になってしまった」
「謝罪は不要ですよ。アドニスを気遣ってのことでしょう? それくらい分かりますよ」
「…半分はな。半分は、逃げたようなものだ。…アドニスは大丈夫だったか?」
「まぁ、そうですね……あなたがいなくなった後に、泣き出しまして…それでお開きになりました」
「本当に悪かった」
深い溜め息を吐きながら、頭を抱えた。
「あなたが悪い訳ではないですよ。…勿論、アドニスもです」
向かいのソファーに腰を下ろしたイヴァニエが、真っ直ぐこちらを見据えた。
「正直、私はあなたがここまでアドニスを心配するとは思っていませんでしたよ」
「…もっと薄情だと思っていたか?」
「そういう言い方はおやめなさい。…私も、他の天使達も、あなたがアドニスに対してどれほどの激情を堪えていたか、知っているつもりですよ」
「………」
数十年前のヴェラの花畑の一件は、バルドル神を始め、他の大天使達も周知することとなった。
花守という役目を担い、一年に一度、光を放つヴェラの花を永く見守ってきた自分にとって、あの花は我が子のように大切で、大事にすべき存在だった。
それをぐちゃぐちゃに踏み荒らされ、無惨に散った花弁を目にした時、怒りで目の前が真っ赤に染まった。
アドニスが鼻で笑ったように、「たかが花」と言われればそれまでだ。
散ってしまっても、来年にはまた美しい花を咲かすだろう。
だが、その年に咲いた花は死んだ。
アドニスに殺されたのだ。
同じ花であっても、別の生命だ。
また来年も咲くからと、それで許せるほど、いい加減な気持ちで見守り、育ててきた訳ではなかった。
激しい怒りと、腹の底から湧き上がる憎悪は薄れることもなく、何度アドニスを殴ってやろうと拳を握り締めたか分からない。
そうであっても手を出さなかったのは、一重に裁くのはバルドル神の役目だったからだ。
大天使の間に、上下関係はない。
等しく神に仕える者であり、だからこそ裁きを与えられる権限は、バルドル神しか持ち得ていない。
だからこそ、耐えた。耐えるしかなかった。
どれだけ怒りが湧こうと、憎しみが募ろうと、自分の中で行き場を失った激情を、無理やり殺すしかなかったのだ。
そうして、これ以上アドニスと関わるのは御免だと、無関心を決め込み、その存在を意識の外に追いやった。
いない者として扱う───そうすることで、無駄な怒りを生まぬ様、今まで努めてきたのだ。
「無理やり感情を押し殺していた姿は、見ているだけでも辛かったですよ」
「…そのことはもういい。忘れろ」
「ええ、あなたがそう望むなら。…ですが、だからこそ、あなたはアドニスを徹底的に避けていたでしょう? それが、この件に関しては積極的だったのがとても意外だったのですよ。正直、アドニスとのやりとりは、全て私が行うことになるだろうと思っていましたからね」
「今日の席で、自分より先にアドニスに話しかけたことに驚いた」と、あえて戯けてみせたイヴァニエに、少しだけバツが悪くなる。
「…割り切っただけだ。記憶の無いヤツに、怒りをぶつけたところで、自分が後悔するだけだと思い知ったからな」
何も知らない者に怒りや憎しみを向けても、傷つけるだけだ。
過去にあったことが事実としても、それを理由に傷つけるような行為はしたくないし、そのような愚か者にもなりたくなかった。
(まぁ、もう遅いんだが…)
既に手遅れなのは理解している。だからこそ、今以上にアドニスを追い詰めるようなことはしたくないと思うのだが…なかなかどうして、長年積もった負の感情を完全に無視するのは難しい。
「ルカーシュカは、すごいと思いますよ」
「なんだ急に」
「ルカーシュカほどの不和が無かった私でさえ、アドニスのことは忌避していました。私ですらこうなのです。あなたのアドニスへの感情というのは、もっとずっと…大変なものだったでしょう」
「………」
「その感情を、今のアドニスには関係のないものとして、割り切って考えようと努めている…それだけでも大したものです」
「…罪悪感から逃げたいだけだ」
「例えそうだとして、相手がアドニスだと分かっていて罪悪感を抱くだけ、あなたは優しいですよ。今日のことも、アドニスの負担にならぬ様にと席を立ったのでしょう?」
「…逆効果だったみたいだがな」
「そのように自分を責めるべきではありません。今のアドニスなら、言葉を重ねればきちんと理解してくれるでしょう。…あなたは思い遣りをもって、アドニスと向き合おうとしているのですから……私よりも、よほど優しいですよ」
「…イヴァニエ?」
その声音に、僅かな自嘲が混じっていて、思わず問い掛けようとした時だった。
───コンコンコン
扉を叩く音に、そちらに視線を向けた。
「入りなさい」
「失礼致します」
開いた扉の向こうにいたのは、アドニスに付けた天使だった。
「お前…アドニスはどうした?」
イヴァニエがここに戻ってきてから、然程時間は経っていない。自分が席を立った後に、泣き出したというアドニスはどうしたのだろうか?
「アドニス様はお休みになられました。…イヴァニエ様、ルカーシュカ様、本日はお時間を頂いたにも関わらず、大変申し訳───」
「やめろ。お前が悪い訳じゃない…アドニスもだ。俺も、急に中座してすまなかった」
「いいえ。お席を立たれたのも、アドニス様を気遣ってのことと理解しております。…アドニス様にも、そのようにお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「…そうだな。別に、アドニスを嫌っていなくなった訳じゃない。あのまま、俺があの場にいた方が、アドニスにとって良くないと思ったからだ。…アイツが悪い訳じゃない」
「怯えるアドニスを心配して、だからこそ席を立ったと伝えなさい」
「おい…!」
「そうなのでしょう? ならば変に言葉を濁す必要はありません。そのまま伝えた方が、アドニスには届き易いのでは?」
「左様でございますね。今のアドニス様には、真っ直ぐお言葉を述べた方が、伝わり易いかと思います」
「…好きにしてくれ。だが、俺から伝えるのは無理だろう。お前から説明してくれ」
「そうですね…私達の言葉では、歪んで伝わってしまうかもしれません。大変でしょうが、あなたからアドニスに伝えてやってくれますか?」
「承りました。…あの、改めて、よろしいでしょうか?」
「なんです?」
佇まいを正した側仕えが、スッとこちらを見据えた。
「先程のことがあって、今すぐこのようなお願いを申し上げるのは大変心苦しく、申し訳ないのですが……できましたら、またアドニス様とお会いして頂けないでしょうか?」
側仕えの言葉に、俺もイヴァニエも目を見開いた。なぜ、そんなことを言い出すのか分からない。
我々に怯え、言葉を交わすどころか、目を合わせることすら出来なかったのだ。もう一度顔を合わせたところで、苦痛を感じるのはアドニスの方だ。
「そこまで無理をさせずともいいんじゃないか?」
「ええ、今日の様子からも、すぐに次を考える必要はないのでは…」
「本日のことも、数日前にお話しをした時には、そこまで怯えていらっしゃるご様子ではなかったのです。ただ、日が近づくにつれ緊張が大きくなってしまったようで…」
「…ああ、まぁ…そうだな」
自分にも心当たりがあることに、少しだけ納得する。
あの部屋に続く回廊を歩いている時は、緊張で話しをすることすら出来なかった。自分でさえそうだったのだ。今のアドニスにとって、どれほどの心労だったか、想像するのは容易かった。
「お二人をお部屋にお招きした際も、アドニス様には無理をしなくともいいとお伝えしました。それでも、お二人に会うことを、アドニス様が強くお望みになったのです」
「なんでだ? わざわざ俺達と会う必要はないだろう?」
こちらには、アドニスに少しでも他者に慣れてほしいという目的があるが、アドニスにはそういった希望など無いはずだ。アドニスにとっても必要なことではあるが、強要するつもりはなかった。
「イヴァニエ様とルカーシュカ様が、足を運んで下さったというだけでも、アドニス様にとっては大変なことだったようで…せっかくお越し頂いたのに、会えないとは言えなかったようです」
「そこまで気にしなくていいんだが…」
「それと、もうお一つ。…お二人に、お礼を言うのが目的だったようです」
「礼?」
「アドニス様がお目覚めになるキッカケとなったのは、イヴァニエ様とルカーシュカ様がアドニス様に聖気を分け与えて下さったからです。アドニス様も、そのことはご理解されています。だからこそ、お礼の言葉を言いたいのだと、仰っていました」
「「………」」
自分も、イヴァニエも、言葉が出てこなかった。
いや、分かっている。今のアドニスが、以前のアドニスとはまったく異なる性格であること、穏やかで素直な性格であること…だからこそ、「お礼が言いたい」という素直な感情が生まれてくるのだろうことも分かっている。…分かってはいるが、理解し難かった。
「…礼なら、あなたを通して既に聞いていますよ?」
「はい。ですがご自身の口から、直接お伝えしたいそうです」
「何故、そうまでして? 泣くほど無理をしてまで、言う必要なんて…」
「イヴァニエ様、ルカーシュカ様。アドニス様は決してお二人を嫌っている訳でも、心底怖がっている訳でもございません」
「しかし…」
「多少の恐怖は抱いていらっしゃるかもしれません。ですが今日のことも、緊張するあまり、余計に御心を乱してしまっただけです。泣かれてしまったのも、恐怖からではありません。ルカーシュカ様が席を立たれたことが原因でもございません。…お二人とお言葉を交わしたいと願っていたのに、何も言うことが出来なかったと、お話しをすることが出来なかったご自身を責められて、泣かれてしまったのです」
「……あの時の『ごめんなさい』というのは、そういう意味でしたか…」
茫然と呟くイヴァニエは、アドニスの泣く姿も見ているからだろう、痛ましいものでも見るように、眉間に皺を寄せた。
自身を責めて泣くことなど、まして謝ることなど、しなくていいのだ───そう言ったところで、そうさせているのは自分達であるということに、酷く胸が苦しくなった。
「…礼ならもういい。気持ちなら受け取っている。もう無理はさせなくても───」
「いいえ、ルカーシュカ様。無理をしなければ、無理をしてでも、お二人とお言葉を交わすことが出来なければ、アドニス様はずっと今のままです。お二人に感謝のお気持ちは抱いていても、怯えたまま変わりません。変われません。…少しでいいのです。多少のご無理をしてでも、お二人と言葉を交わすキッカケさえあれば、必ず御心を開いて下さいます」
そう言い切った翠の瞳は、こちらが気圧されるほど強い光を宿していた。
(…心から、アドニスを想っている言葉だ)
そうでなければ、今のような言葉は出てこない。
甘やかすことの方が簡単で、楽な道を選ばせることも出来るが、それではアドニスのためにならないと理解しているからこその献身だろう。
それほどの情に触れて、「否」とは言えまい。
「……分かった。だが、また今回と同じようなことになりそうなら、部屋に入る前に言ってくれ」
「…! ありがとうございます…!」
「いえ、私達も、もう一度機会を得られるとは思っていませんでしたから…ありがとうございます」
ホッと息を吐いたイヴァニエが表情を柔らかくすれば、側仕えはふるりと首を横に振った。
「そのお言葉は、どうかアドニス様へお願い致します」
「…? どういう…?」
目元を僅かに細めた側仕えが、嬉しそうに口を開いた。
「私からは何も申し上げておりません。お二人にもう一度会いたいと、そう言って再会を願われたのは、アドニス様です」
お二人に会いたいと、泣いて駄々をこねるのを宥めるのが大変でした───と、困ったように笑う側仕えの言葉に、イヴァニエと二人、固まることになるのだった。
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