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フォルセの果実
36.天使の梯子(前)
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「アドニス様の聖気ですが、照明を点けられる程には回復してまいりました」
「ようやくか…」
「ようやくですね…」
信じられない報告を受けてから数週間。
ずっと気に掛けていた問題が解決し、イヴァニエと共に、揃って安堵の溜め息を零した。
アドニスがプティ達と再会してからの一ヶ月は、側仕えの天使から聞く報告も非常に穏やかなものだった。
少しずつ知識を蓄えながら、毎日プティ達と過ごすことで、笑顔が増えたというアドニス。
その様子に一安心していたが、それもアドニスの聖気が、目覚めたあの日からほとんど増えていないと聞くまでだった。
───照明を点けるからことができない。
プティ達ですら点けることができる照明を、アドニスは点けることができなかったのだ。
ゾッとした。
側仕えからは、アドニスは毎日陽の光を浴びていると聞いていたし、恐らく本人すら無意識の内に、体内の聖気を回復しようとしていたのだろう。にも関わらず、アドニスの聖気はほとんど回復していなかった。
陽の光を取り込むだけでは不十分、というレベルの話ではない。ほとんど意味を成していないのと一緒だ。
そこからは食事を摂ることで、聖気の回復を図る方向に転換したそうだが、そこに確実に回復するという確証は無かったし、なにより食事という行為そのものが、アドニスにとっては難しかった。
それでも数日かけてようやく、少量の果物を口にするようになり、それを毎日繰り返しながら、蜂蜜を混ぜたミルクも口にするようになっていった。
そんな日々が幾日も続き、ようやく照明に光を灯せるまでに聖気が回復した、と報告を受けるまでに至った。
…正直、話を聞いているだけで気が気じゃなかった。
「長かったな…」
「食べる量が少ないのですから、仕方ないでしょう」
アドニスが日に食べる果物の量は、三口か四口で終わる程度の極少量だ。間食にすらならない量の果物から得られる栄養素は、ごく僅かだろう。
「少しずつでも回復できると分かっただけ上々か」
「陽の光だけでは足りないというのは、困りましたね…」
「まったく取り込めていないという訳ではないだろう。でなければ、動くことすらままならないはずだ」
「…浴びる陽の光に対して、回復できる聖気の量が異常に少ないのでしょうね」
そう言って黙り込んだイヴァニエに、そっと視線を逸らした。恐らく、イヴァニエも気づいているはずだ。
光を充分に取り込めない理由。聖気を回復できない原因───思い当たるのは、翼の有無だ。
天使としての証明。
それが有るか無いかの違いは、自分達が思っている以上に大きいのだろう。
「ひとまず、聖気については解決したんだ。今後も継続して食事を摂っていけば大丈夫だろう」
「はい。アドニス様も、お食事をお召し上がりになることに関しては、前向きでいらっしゃいます」
「…素直で助かりますね」
『素直』…凡そアドニスに似つかわしくない単語を聞くのも口にするのも、この数ヶ月で慣れてしまった。
「これでようやくバルドル様にもご報告ができるな」
「ええ、随分と気を揉んでいらっしゃいましたから、これで少しはご安心して下さるでしょう」
気が気じゃなかったのは、自分達だけではない。
側仕えから事細かな報告を毎日聞ける自分とは違い、バルドル様への報告は数日に一度、内容を掻い摘んでお伝えしていた。
罰を与えたという手前、目に見えて動揺はされていなかったが、アドニスが聖気をほとんど回復できなくなっていることを相当気に病んでいる様子だった。
純天使に酷似しているというアドニス。
記憶の喪失、有している知識、聖気の性質の変化、別人のようになった性格…プティ達との共通点が多い点についても、バルドル神には報告した。
加えて、聖気に残る記憶を辿って頂ければ、確実なことが分かるであろうこともお伝えした。
「『月読』か…久しく使っていないな」
「私の記憶している限りでは、420年ほど前にお使いになられたのが最後ですね」
眉間に皺を寄せるバルドル神に、側に控えた従者が言葉を加えた。
『月読』…聖気に残ったその者の記憶を探る、バルドル神のみが使える粛法だが、あまり活用されることはない。
理由は単純で、その必要が無いからだ。
わざわざ記憶を探らずとも、バルドル神の問いに虚偽で答える者などいない。
以前、アドニスの世話を任された者達も、虚偽の報告はしていたが、バルドル神に改めて問われた際は、嘘偽りなく答えていた。…以前の、自分達のよく知るアドニスでさえ、その点については嘘を吐くことは無かったほどだ。
バルドル神が問えば、答えを得られる。
だからこそ、使う必要が無いからこそ、天使達は使えない粛法なのだ。
必要が無いことを、力として得ることはない───生まれながらにして決まっている法則が、今は少しだけもどかしかった。
「しかし、そうか……プティに似ているか…」
「バルドル様?」
「…いや、少し気になっただけだ」
伏せられたその瞳には、僅かな翳りが見えた。
「『月読』を使うにしても、私がアドニスに触れる必要がある。今すぐどうこうできることではないのだろう?」
「…はい。お役に立てず、大変申し訳ございません」
「謝ることではない。私が手を出せない分、頼りにしているよ。だがそうだな…私より先に、まずはお前達がアドニスと仲良くなった方が良いだろう」
「……はい」
『アドニスと仲良く』
今までであれば、なんの冗談だと思っただろうし、バルドル神の言葉であっても拒絶していたはずだ。
それを今は、少しだけ…せめて普通に言葉を交わせるようになれれば…と願い始めたのは、一体いつからだろう。
声を聞くことも、姿を目にすることすら疎んで、あれだけ避けていた存在が、今は酷く遠くなってしまったと感じることが、とても不思議だった。
アドニスの聖気に回復の兆しが見え始めてから更に数日、その日も日課となった側仕えからの報告を聞いていた。
「ミルクを飲んで、寝て、遊んで…まるで人間の赤ん坊のようだな」
「取り込んだ栄養を、眠ることですぐに力に変えて、聖気を回復しようとしているのでしょう」
「分かってはいるが、これではますます…」
───赤子のようだ、という言葉は飲み込んだ。
「食べる量は相変わらずですか?」
「はい。少量の果物と、ミルク以外はお口にされていません。それ以上を求められることもございませんが、聖気を消費することもございませんので、現状で充分かと思われます」
「あなたがそう判断したのなら、それで充分なのでしょう。今後も、よく見てやって下さい」
「はい。……それと、お二人にご報告がございます」
「報告?」
報告なら今正に聞いているが…と側仕えを見据えた。
「お二人と、アドニス様がお会いになれるお約束を結んで参りました。三日後、お時間を頂けましたら幸いでございます」
その言葉に、息を呑んだ。
向かいに座るイヴァニエも、目を見開いて固まっていた。
「……まさか、アドニスが言い出したのか…?」
「いいえ。恐れながら、私からお二人に会えないか、アドニス様にご提案致しました」
「…なぜ…、私達からは何も…」
「勝手なことをして申し訳ございません。ですが、イヴァニエ様もルカーシュカ様も、その気があっても、お二人ともお言葉にされるのが難しいようでしたので、私の独断でアドニス様にお伝えしました」
「あなた…」
「出過ぎた真似だとは承知しております。…ですが、もうお時間がないのです」
「時間?」
「…フォルセの果実が実るまで、もう半年ほどです」
その言葉に、一瞬で緊張が走った。
(…ああ、そうか…)
アドニスの変わり様にばかり目が向き、本来のアイツの立ち位置を失念していた。
アドニスは罪を犯し、罰を受けたのだ。そしてその罰は、『謹慎』という形で今も継続中だ。
「アドニス様の謹慎が明けるまで、もう半年と僅かです。その後どうなるかは分かりません。ですが、確実にあのお部屋を出ることになります。…私は、それが怖いのです」
そう言った顔には、焦りと少しの恐怖が浮かんでいた。
「今のアドニス様を、他の大天使様方の前にお連れしたくありません。お言葉は悪いですが、どのような扱いを受けるか、想像したくもありません。以前の…私達のよく知るアドニス様と、今のアドニス様は明らかに違います。過去の罪は消せるものではありませんが…それでも、アドニス様は既に罰を受けました」
「……そうだな」
「ようやく自然に笑って下さるようになりました。日々穏やかにお過ごし頂けるようになりました。…それも、フォルセの果実が実れば失われてしまうかもしれないと思うと、怖いのです。また泣いて怯えられるような、そのようなお姿を私は見たくありません」
その言葉が、ずしりと重くのし掛かった。
この数ヶ月、アドニスを支え、片時も離れず側にいたからこその言葉だろう。その声には、悲痛なほどの必死さが籠っていた。
一度口を噤んだ側仕えが、静かな動作でその場に膝をつき、首を垂れた。
「お願い致します。どうか…どうか、お二人のお力で、アドニス様をお守り下さいませ」
「お前……」
「ただお仕えするだけの身として、このような願いを申し上げることは厚かましいことと重々理解しております。それでも、お二人以外に頼れる方がいないのです」
「………」
「今のアドニス様は脆く、弱いお方です。少しの悪意にすら御心を痛めるような方です。…とてもではございませんが、謹慎が明けた後、様々な感情を向けられ、お独りで耐えられるとは思えません」
『少しの悪意にすら…』
プティとよく似た性質のそれに、堪らず視線を逸らした。
ああ、やはりヴェラの花畑でアドニスに向けた憎悪に、今のアイツは耐えられなかったのだと…分かり切っていたはずの後悔の念が、波のように押し寄せた。
「…顔を上げなさい。あなたが心を痛めるほどに案じなくとも、私もルカーシュカも、バルドル様よりアドニスを見守る様に言付かってます。他の者達を寄せつけぬ壁くらいにはなりますよ。安心なさい」
「……はい」
「そんなに心配しないでいい。どれほどのことが出来るかは分からんが、今のアドニスが無闇に傷つけられるようなことを、俺もイヴァニエも望んではいない。穏やかであってほしいというお前の気持ちも分かるつもりだ。…お前がアドニスの為に尽くしたからこその今を、無駄にするようなことはさせないし、俺達もしない。…その願いを受けよう」
「…ありがとうございます」
ふっと体の力を抜いたその表情には、安堵と僅かな不安が混じっていた。
恐らく言葉だけではまだ心配なのだろう。事実、言葉に嘘は無いが、そこに心底の感情が籠っていたかといえば、是と答えられる自信はなかった。
(だからこそ、だろうか…)
自分も、イヴァニエも、側仕えの話に聞く『アドニス』を間近で見たことはない。
想像し難いその姿は、いつかのプティ達と睦み合う穏やかな夜の光景だけだ。
話に聞くだけで、実際言葉を交わしたことはほとんど無い。知らないのだ。
だからこそ、相手を知る為に顔を合わせる必要がある。
言葉を交わし、為人を知って、親交を深める必要があるのだろう。
(…仲良く…か)
ふいに、バルドル神の言葉が脳裏に浮かんだ。
あの時は、互いに歩み寄れということを言いたいのだと思った。いや、その意味も勿論含んではいたのだろう。
だが、側仕えの言葉を聞いて、少しだけ違う意味合いだったのかもしれないと気づく。
目の前の天使が欲しいのは、上辺だけの守護ではない。
誰かに乞い願われたから与える守護でもない。
本心からの、守護者が心から相手を護りたいと思う、心底からの情を欲しているのだ。
その為には、情を抱くだけ相手を知らなければ…知る為の交流がなければ、始まらない。
「……いつだ」
「え?」
「三日後の、いつ行けばいい?」
「…っ、…お時間は、お二人のご都合がよろしい時にお願いしたいと思います」
「そうか。イヴァニエ、三日後の三時はどうだ?」
「…ええ、構いません」
「では、その予定で頼む」
「…はい。ありがとうございます、イヴァニエ様、ルカーシュカ様」
深く頭を下げるその姿には、心底からアドニスを案じ、想う気持ちが形となって表れていた。そう想えるほど、そこまで心を捧げられるほど、アドニスを慕っているのだろう。
(あのアドニス相手に……いや、今は違うのか)
今までの、自分達のよく知るアドニスだと思ってはいけないのだ。
今必要なのは、先入観を無くし、アドニスと真摯に向き合うことなのだろう。
(…できるだろうか)
ふと滲んだ不安に、浅く息を吐いた。
再会まで、あと三日。
いつか対面することが叶えば───そんな願いは、ある日突然、叶うことになった。
--------------------
補足:天界の三時=人間界の十二時
「ようやくか…」
「ようやくですね…」
信じられない報告を受けてから数週間。
ずっと気に掛けていた問題が解決し、イヴァニエと共に、揃って安堵の溜め息を零した。
アドニスがプティ達と再会してからの一ヶ月は、側仕えの天使から聞く報告も非常に穏やかなものだった。
少しずつ知識を蓄えながら、毎日プティ達と過ごすことで、笑顔が増えたというアドニス。
その様子に一安心していたが、それもアドニスの聖気が、目覚めたあの日からほとんど増えていないと聞くまでだった。
───照明を点けるからことができない。
プティ達ですら点けることができる照明を、アドニスは点けることができなかったのだ。
ゾッとした。
側仕えからは、アドニスは毎日陽の光を浴びていると聞いていたし、恐らく本人すら無意識の内に、体内の聖気を回復しようとしていたのだろう。にも関わらず、アドニスの聖気はほとんど回復していなかった。
陽の光を取り込むだけでは不十分、というレベルの話ではない。ほとんど意味を成していないのと一緒だ。
そこからは食事を摂ることで、聖気の回復を図る方向に転換したそうだが、そこに確実に回復するという確証は無かったし、なにより食事という行為そのものが、アドニスにとっては難しかった。
それでも数日かけてようやく、少量の果物を口にするようになり、それを毎日繰り返しながら、蜂蜜を混ぜたミルクも口にするようになっていった。
そんな日々が幾日も続き、ようやく照明に光を灯せるまでに聖気が回復した、と報告を受けるまでに至った。
…正直、話を聞いているだけで気が気じゃなかった。
「長かったな…」
「食べる量が少ないのですから、仕方ないでしょう」
アドニスが日に食べる果物の量は、三口か四口で終わる程度の極少量だ。間食にすらならない量の果物から得られる栄養素は、ごく僅かだろう。
「少しずつでも回復できると分かっただけ上々か」
「陽の光だけでは足りないというのは、困りましたね…」
「まったく取り込めていないという訳ではないだろう。でなければ、動くことすらままならないはずだ」
「…浴びる陽の光に対して、回復できる聖気の量が異常に少ないのでしょうね」
そう言って黙り込んだイヴァニエに、そっと視線を逸らした。恐らく、イヴァニエも気づいているはずだ。
光を充分に取り込めない理由。聖気を回復できない原因───思い当たるのは、翼の有無だ。
天使としての証明。
それが有るか無いかの違いは、自分達が思っている以上に大きいのだろう。
「ひとまず、聖気については解決したんだ。今後も継続して食事を摂っていけば大丈夫だろう」
「はい。アドニス様も、お食事をお召し上がりになることに関しては、前向きでいらっしゃいます」
「…素直で助かりますね」
『素直』…凡そアドニスに似つかわしくない単語を聞くのも口にするのも、この数ヶ月で慣れてしまった。
「これでようやくバルドル様にもご報告ができるな」
「ええ、随分と気を揉んでいらっしゃいましたから、これで少しはご安心して下さるでしょう」
気が気じゃなかったのは、自分達だけではない。
側仕えから事細かな報告を毎日聞ける自分とは違い、バルドル様への報告は数日に一度、内容を掻い摘んでお伝えしていた。
罰を与えたという手前、目に見えて動揺はされていなかったが、アドニスが聖気をほとんど回復できなくなっていることを相当気に病んでいる様子だった。
純天使に酷似しているというアドニス。
記憶の喪失、有している知識、聖気の性質の変化、別人のようになった性格…プティ達との共通点が多い点についても、バルドル神には報告した。
加えて、聖気に残る記憶を辿って頂ければ、確実なことが分かるであろうこともお伝えした。
「『月読』か…久しく使っていないな」
「私の記憶している限りでは、420年ほど前にお使いになられたのが最後ですね」
眉間に皺を寄せるバルドル神に、側に控えた従者が言葉を加えた。
『月読』…聖気に残ったその者の記憶を探る、バルドル神のみが使える粛法だが、あまり活用されることはない。
理由は単純で、その必要が無いからだ。
わざわざ記憶を探らずとも、バルドル神の問いに虚偽で答える者などいない。
以前、アドニスの世話を任された者達も、虚偽の報告はしていたが、バルドル神に改めて問われた際は、嘘偽りなく答えていた。…以前の、自分達のよく知るアドニスでさえ、その点については嘘を吐くことは無かったほどだ。
バルドル神が問えば、答えを得られる。
だからこそ、使う必要が無いからこそ、天使達は使えない粛法なのだ。
必要が無いことを、力として得ることはない───生まれながらにして決まっている法則が、今は少しだけもどかしかった。
「しかし、そうか……プティに似ているか…」
「バルドル様?」
「…いや、少し気になっただけだ」
伏せられたその瞳には、僅かな翳りが見えた。
「『月読』を使うにしても、私がアドニスに触れる必要がある。今すぐどうこうできることではないのだろう?」
「…はい。お役に立てず、大変申し訳ございません」
「謝ることではない。私が手を出せない分、頼りにしているよ。だがそうだな…私より先に、まずはお前達がアドニスと仲良くなった方が良いだろう」
「……はい」
『アドニスと仲良く』
今までであれば、なんの冗談だと思っただろうし、バルドル神の言葉であっても拒絶していたはずだ。
それを今は、少しだけ…せめて普通に言葉を交わせるようになれれば…と願い始めたのは、一体いつからだろう。
声を聞くことも、姿を目にすることすら疎んで、あれだけ避けていた存在が、今は酷く遠くなってしまったと感じることが、とても不思議だった。
アドニスの聖気に回復の兆しが見え始めてから更に数日、その日も日課となった側仕えからの報告を聞いていた。
「ミルクを飲んで、寝て、遊んで…まるで人間の赤ん坊のようだな」
「取り込んだ栄養を、眠ることですぐに力に変えて、聖気を回復しようとしているのでしょう」
「分かってはいるが、これではますます…」
───赤子のようだ、という言葉は飲み込んだ。
「食べる量は相変わらずですか?」
「はい。少量の果物と、ミルク以外はお口にされていません。それ以上を求められることもございませんが、聖気を消費することもございませんので、現状で充分かと思われます」
「あなたがそう判断したのなら、それで充分なのでしょう。今後も、よく見てやって下さい」
「はい。……それと、お二人にご報告がございます」
「報告?」
報告なら今正に聞いているが…と側仕えを見据えた。
「お二人と、アドニス様がお会いになれるお約束を結んで参りました。三日後、お時間を頂けましたら幸いでございます」
その言葉に、息を呑んだ。
向かいに座るイヴァニエも、目を見開いて固まっていた。
「……まさか、アドニスが言い出したのか…?」
「いいえ。恐れながら、私からお二人に会えないか、アドニス様にご提案致しました」
「…なぜ…、私達からは何も…」
「勝手なことをして申し訳ございません。ですが、イヴァニエ様もルカーシュカ様も、その気があっても、お二人ともお言葉にされるのが難しいようでしたので、私の独断でアドニス様にお伝えしました」
「あなた…」
「出過ぎた真似だとは承知しております。…ですが、もうお時間がないのです」
「時間?」
「…フォルセの果実が実るまで、もう半年ほどです」
その言葉に、一瞬で緊張が走った。
(…ああ、そうか…)
アドニスの変わり様にばかり目が向き、本来のアイツの立ち位置を失念していた。
アドニスは罪を犯し、罰を受けたのだ。そしてその罰は、『謹慎』という形で今も継続中だ。
「アドニス様の謹慎が明けるまで、もう半年と僅かです。その後どうなるかは分かりません。ですが、確実にあのお部屋を出ることになります。…私は、それが怖いのです」
そう言った顔には、焦りと少しの恐怖が浮かんでいた。
「今のアドニス様を、他の大天使様方の前にお連れしたくありません。お言葉は悪いですが、どのような扱いを受けるか、想像したくもありません。以前の…私達のよく知るアドニス様と、今のアドニス様は明らかに違います。過去の罪は消せるものではありませんが…それでも、アドニス様は既に罰を受けました」
「……そうだな」
「ようやく自然に笑って下さるようになりました。日々穏やかにお過ごし頂けるようになりました。…それも、フォルセの果実が実れば失われてしまうかもしれないと思うと、怖いのです。また泣いて怯えられるような、そのようなお姿を私は見たくありません」
その言葉が、ずしりと重くのし掛かった。
この数ヶ月、アドニスを支え、片時も離れず側にいたからこその言葉だろう。その声には、悲痛なほどの必死さが籠っていた。
一度口を噤んだ側仕えが、静かな動作でその場に膝をつき、首を垂れた。
「お願い致します。どうか…どうか、お二人のお力で、アドニス様をお守り下さいませ」
「お前……」
「ただお仕えするだけの身として、このような願いを申し上げることは厚かましいことと重々理解しております。それでも、お二人以外に頼れる方がいないのです」
「………」
「今のアドニス様は脆く、弱いお方です。少しの悪意にすら御心を痛めるような方です。…とてもではございませんが、謹慎が明けた後、様々な感情を向けられ、お独りで耐えられるとは思えません」
『少しの悪意にすら…』
プティとよく似た性質のそれに、堪らず視線を逸らした。
ああ、やはりヴェラの花畑でアドニスに向けた憎悪に、今のアイツは耐えられなかったのだと…分かり切っていたはずの後悔の念が、波のように押し寄せた。
「…顔を上げなさい。あなたが心を痛めるほどに案じなくとも、私もルカーシュカも、バルドル様よりアドニスを見守る様に言付かってます。他の者達を寄せつけぬ壁くらいにはなりますよ。安心なさい」
「……はい」
「そんなに心配しないでいい。どれほどのことが出来るかは分からんが、今のアドニスが無闇に傷つけられるようなことを、俺もイヴァニエも望んではいない。穏やかであってほしいというお前の気持ちも分かるつもりだ。…お前がアドニスの為に尽くしたからこその今を、無駄にするようなことはさせないし、俺達もしない。…その願いを受けよう」
「…ありがとうございます」
ふっと体の力を抜いたその表情には、安堵と僅かな不安が混じっていた。
恐らく言葉だけではまだ心配なのだろう。事実、言葉に嘘は無いが、そこに心底の感情が籠っていたかといえば、是と答えられる自信はなかった。
(だからこそ、だろうか…)
自分も、イヴァニエも、側仕えの話に聞く『アドニス』を間近で見たことはない。
想像し難いその姿は、いつかのプティ達と睦み合う穏やかな夜の光景だけだ。
話に聞くだけで、実際言葉を交わしたことはほとんど無い。知らないのだ。
だからこそ、相手を知る為に顔を合わせる必要がある。
言葉を交わし、為人を知って、親交を深める必要があるのだろう。
(…仲良く…か)
ふいに、バルドル神の言葉が脳裏に浮かんだ。
あの時は、互いに歩み寄れということを言いたいのだと思った。いや、その意味も勿論含んではいたのだろう。
だが、側仕えの言葉を聞いて、少しだけ違う意味合いだったのかもしれないと気づく。
目の前の天使が欲しいのは、上辺だけの守護ではない。
誰かに乞い願われたから与える守護でもない。
本心からの、守護者が心から相手を護りたいと思う、心底からの情を欲しているのだ。
その為には、情を抱くだけ相手を知らなければ…知る為の交流がなければ、始まらない。
「……いつだ」
「え?」
「三日後の、いつ行けばいい?」
「…っ、…お時間は、お二人のご都合がよろしい時にお願いしたいと思います」
「そうか。イヴァニエ、三日後の三時はどうだ?」
「…ええ、構いません」
「では、その予定で頼む」
「…はい。ありがとうございます、イヴァニエ様、ルカーシュカ様」
深く頭を下げるその姿には、心底からアドニスを案じ、想う気持ちが形となって表れていた。そう想えるほど、そこまで心を捧げられるほど、アドニスを慕っているのだろう。
(あのアドニス相手に……いや、今は違うのか)
今までの、自分達のよく知るアドニスだと思ってはいけないのだ。
今必要なのは、先入観を無くし、アドニスと真摯に向き合うことなのだろう。
(…できるだろうか)
ふと滲んだ不安に、浅く息を吐いた。
再会まで、あと三日。
いつか対面することが叶えば───そんな願いは、ある日突然、叶うことになった。
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補足:天界の三時=人間界の十二時
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