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フォルセの果実
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食事という行為が習慣になって早数日。
甘く香る蜂蜜をスプーンにひと匙、トロリと溶け込んだ優しい味のミルクをゆっくりと時間をかけて飲むのが、朝一番のルーティーンになっていた。
彼が毎朝作ってくれる甘いミルク。それをくぴり、くぴりと少量ずつ飲んでいる間、赤ん坊達は膝の上やソファーの上で大人しく待っていてくれた。
一時は彼らを待たせないように、と早く飲もうと頑張ったりもしたのだが、すぐに彼にバレて「お急ぎにならなくても大丈夫ですよ。プティ達もちゃんと分かっていますから」と言われ、それからはまた時間をかけて飲むようになった。
そうしてミルクを全部飲み終えると、すぐさま眠気に襲われる。
起きたばかりだというのに眠くなる体に、最初は眠気を我慢していたのだが「栄養を取り込むために、お体が休息を求めていらっしゃるのでしょう。我慢せずにお休みになって下さい」と彼に言われ、抗うのをやめた。
温かな日差しが差し込む窓辺で、クッションを枕代わりにソファーの上に横になる。
一緒になってソファーの上にころりと寝転がった赤子を撫でつつ、ウトウトと浅い眠りにつく。
短い時間だが、眠って暫くするとパチリと目が開く───そうしてようやく、毎朝の日課が終わるのだ。
その日も、いつもと同じようにミルクを飲み干し、一眠りしてから赤ん坊達とじゃれ合うように遊んでいた。
ここ最近は、過ごす時間にもなんとなく規則性ができ、赤ん坊達と遊んでから、彼との勉強時間があり、その後また赤ん坊達と過ごしながら食事を摂る…という流れになっていた。
「んにゃ、あ!」
「ふふ…うん、すごいねぇ」
ふにゃふにゃとなにかを話している赤ん坊に、内容は分からずとも言葉を返す。会話になっていないだろうに、ニコニコと笑ってくれるのが嬉しくて、自然と笑ってしまう。
喋り、笑い、コロコロと寝転がって遊ぶ赤ん坊達が満足したところで、彼と勉強する時間になり、赤子達は手を振りながら窓の外へと飛んでいく。
「プティ達は、随分とお喋りが好きなようですね。初めて知りました」
「…そうなの?」
「ええ、あの子達は普段はあまり声を出さないので」
「…そう、なんだ」
きゃらきゃらと笑いながら話す様子からは想像できない姿に首を傾げつつ、ソファーから立ち上がろうとして、そっと彼に手で制された。
「?」
「今日はこちらで少し、お話しをしましょう」
「うん…?」
いつも彼の話を聞く時は、長椅子へと移動していたのだが、今日は少し違うようだ。
ソファーにもう一度腰を落ち着けると、足元に膝をついた彼に手を取られた。思えば、床に膝をついた状態の彼とこうして話しをするのも、随分と久しぶりな気がする。
「んと…どうしたの…?」
「…今からお話しすることは、強制ではございません。お願いでもございません。アドニス様にお考え頂き、ご判断して頂きたいことがございます」
「…!」
いつになく真剣な彼の表情に、ドキリと心臓が跳ねた。
一体なんだろうか…思わず伸びた背筋から緊張が伝わったのか、繋いだ手の平を握る指先に、ほんの少しだけ力が籠った。
「そんなにご不安にならなくても大丈夫ですよ」
「う、うん…」
彼の柔らかな微笑みに、詰めていた息をホッと吐き出す。
体の力が抜けたところで、白く細い彼の両手が、自身の手をぎゅっと包み込んだ。
「アドニス様が、大丈夫だと、そう思えたならで結構です。……イヴァニエ様とルカーシュカ様に、お会いしてみませんか?」
「………え…」
あまりにも突然の提案に、思わず固まってしまった。そのまま体と一緒に止まってしまいそうな思考を、ゆっくりと巡らす。
(…イヴァニエ様と、ルカーシュカ様に……会う…)
彼の言葉を頭の中で反芻する。そこに、以前のような恐怖は無かった。
いや、少しだけ怖いという気持ちはあったが、それよりも困惑の方が大きかった。
会ってどうするのだろう?
何を話すのだろう?
何を話せばいいのだろう?
…自分は、何をすればいいのだろう?
顔と名前が一致しているだけ、ましてや相手は自分のことを嫌っているということを知っているだけの、ほとんど知らない人だ。
向こうは自分のことを知っているが、自分は知らない。どころか、この世界の知識でさえ覚束ない。
会ったところで、話せることも無ければ、まともに会話ができる自信も無い。
果たして、会うことに何か意味があるのだろうか?
「…あ、あの…あ、会って…ど…するの…?」
「どうもしません。少しでもお話しができれば…と、そう思っただけです」
「……お話し…」
その言葉に、あることを思い出す。
彼と話しをするようになってから少し経った頃、長い眠りから目覚めたあの日、イヴァニエとルカーシュカの二人が何故この部屋にいたのか、理由を聞いてみたことがあった。
『アドニス様と、お話しがしたかったそうです』
会って、ただ話しがしたかった。
ただそれだけだったと聞いて、驚いたのを覚えている。
てっきり、何かを咎めに来たのだと思っていたのだ。
部屋から抜け出していたことで叱責を受けるのだと、今度こそ、ただ部屋に閉じ込めておくだけではない罰を受けるのだろうと、そう思っていた。
でも、そうではなかった。
『話しがしたい』
ただそれだけの為に、あの日あの二人は、この部屋に来て───そうして、命が枯れる寸前だった自分を助けてくれたのだ。
あの時は、二人がその場にいた経緯を知るはずもなく、目が覚めたと同時に視界に映った姿がただただ恐ろしくて堪らなかった。
その結果、恐怖と混乱から、泣いて逃げてしまったのだが───…
(……どうしよう…)
二人が、自分のことを気に掛けてくれていることは、彼から聞いて知っている。
バルコニーに置かれていた花も、その贈り主が赤ん坊達であったということも、ルカーシュカは知っていたこと。だからこそ、自分のためになればと教えてくれたのだということも聞いている。
…嫌いな相手でも心配してくれるような、優しい方達なのだと、理解はしている。
それでも、会えるかどうかと問われると、言葉に詰まってしまう。
動揺と、不安と、拭いきれない恐怖───どうしても前向きに考えられない思考に、視線はどんどんと下がっていった。
「アドニス様、大丈夫ですよ。ご無理をして頂きたい訳ではございませんので」
「あ…ぅ……と…」
「…今すぐお答え頂かなくてもいいのですよ?」
「え…?」
「私も急にお話ししてしまいましたから、考えるお時間も必要でしょう。会うか会わないかは、ゆっくりお考え頂いて、お気持ちが落ち着きましたら、お返事をお聞かせ頂きたいと思います。いかがですか?」
「……うん…」
「ありがとうございます。…では、このお話しはここまでにしましょう」
「え…?」
「ゆっくりお考え下さい。お返事はいつでも構いませんので」
「あ……う、ん…」
(…いいのかな?)
にこりと微笑んだその表情はいつも通りで、あっさりと話しを切り上げてしまった彼に拍子抜けする。
もっと重要な、大事な話だと思ったのだが…もしくは、そうと悟らせないために、あえて軽く話してくれたのだろうか?
疑問符が頭の中に浮かぶも、彼がそれ以上この件について触れることはなく、そのまま話しは終わってしまった。
(…眠れない…)
その日の夜、どうしても昼間言われたことを考えてしまい、なかなか寝つくことができないでいた。
あの後はいつも通り、彼と話しをして勉強をすることになったのだが、自分でも分かるほどに心ここにあらずだったと思う。
目を閉じていても訪れない眠気に溜め息を吐くと、もそりとベッドから抜け出した。
照明を点けることができなかったあの日から、目が冴えている時にはバルコニーへと足を運ぶようになっていた。
夜空を眺めているだけで気持ちが落ち着いたし、なにより輝く星を眺めているだけで、晴れやかな気分になるのだ。
大きな窓をそっと開けると、いつの間にか用意され、常時置かれるようになった室外用の長椅子へと腰を下ろした。
「……はぁ…」
ぼんやりと星空を眺めながらも、つい溜め息が零れてしまった。
大天使二人と会うか否か、自分の判断に委ねられた提案になんと答えればいいのか…気持ちと思考が上手く噛み合わず、頭の中がパンパンに膨らんでいるような感覚に、疲労感は強くなった。
…彼は、無理はしなくていいと言ってくれた。
つまり「無理だ」と言って、会うことを拒否することも可能なのだ。
(…でも)
きっと彼は会ってほしいのだろう。
でなければ、わざわざこんなことを言わないはずだ。
『会ってほしい』という気持ちがあったからこそ、言葉にしたのだろう。
勿論、拒否したところで、彼が自分を責めることなどないはずだ。それくらいは分かる。
でも、もしかしたら少しだけ…落ちこませてかもしれない。
自分への落胆ではなく、もっと別のことに対して、落胆してしまうかもしれない。…それは、嫌だと思うのだ。
(できれば、あの子に喜んでほしい…)
であれば、大天使の二人と会えばいいと思うのだが───…
(…だって…会ってどうすれば…)
怖いという気持ちもあるが、なにより二人を前にしてどうすればいいのか分からないということが、一番の気掛かりだった。
「…はぁ……」
考え過ぎて頭が重い。沈んだ気分を吐き出すように、再び溜め息が零れた。
自然と俯いてしまった顔を無理やり上げると、頭を振って深呼吸を繰り返す。
暗い気持ちになることでは無いはずだ。いや、むしろ喜ばしいことなのだ。
嫌われ、蔑まれ、避けられ…いない者として扱われていた自分に、大天使二人が心を配ってくれるだけでも大変なことだ。
ましてや一方的な叱責でも詰問でもなく、互いに言葉を交わすことが目的な訳で───…
(…嫌、ではない)
嫌だと思う気持ちは無い。
そんな風に考えることすら烏滸がましいのだが、『嫌か、嫌ではないか』の二択で問われれば『嫌ではない』。
ただ純粋に、大天使を目の前にした時に自分はどうすればいいのか、それが分からないだけなのだ。
(お話し、なんて…)
話せることなんて何も無い。堂々巡りな思考に小さく唸り───はたと、あることを思い出した。
(そうだ…お礼…言ってない…)
命が尽きる寸前だった自分に、大量の聖気を分け与えてくれた…その礼をまだ伝えていなかった。
彼に感謝の言葉を託したことはあるが、自分の言葉で直接伝えたことはない。
(……お礼なら…言える…?)
深く暗い眠りの底で、このまま死んでしまってもいいと思っていた。
これ以上悲しむくらいなら、辛く、痛い思いをするくらいなら…と、生きることを手離していた。
それでも、命を繋いでもらったおかげで、色んなものを得ることができた。
いつも側にいてくれる彼という存在も、愛しい小さな天使達との再会も、優しさも温かさも、それを嬉しいと思う感情も、多くの知識も…生きるための力を与えてもらえたからこそ得られたものだ。
感謝してもしきれないほど、素晴らしいものを得る機会を与えてもらった。であればこそ、感謝の気持ちは、きちんと自分で伝えるべきだろう。
(……うん)
話しをする、という行為とは少し異なるかもしれないが、言葉を交わすことにはなるかもしれない。
最低限、せめてお礼だけでも伝えられれば、例えその後の会話が続かなくとも、これっきり会うことが無くとも、悪くはない…と思う。
「…うん」
コクリと、決意する様に頷く。
そうと心に決めたなら、後は決意が揺るがぬ様、早く彼に伝えよう。早く寝て、朝一番に伝えるのだ。
決意しただけなのに、既に緊張でドキドキと鳴る心臓を落ち着けるように、二度、三度と深呼吸を繰り返した。
(…大丈夫)
少しだけ頑張ってみよう…そう決心し、長椅子から立ち上がると、そっと夜の世界を後にした。
「あ、あのっ、イ、イヴァニエ様と、ルカ…シュカ様と、あ、会いたい…と、思うん、だけど…」
翌朝、ベッドから起き上がると同時に彼に声を掛けた。
キョトンとした顔でこちらを見つめる彼に、言葉が足りなかっただろうかと、焦りながら言葉を続ける。
「あ…あ、えっと、は、話しが、できるか、分からないんだけど…あの、お礼が…言えたら、なって…思って…ちゃ、ちゃんと…言えるかは…わ、分からないん、だけど…でも…あの…っ」
「アドニス様、慌てなくとも大丈夫ですよ。…ほら、プティ達も驚いていますよ」
「…あ」
言われて彼の視線の先を辿れば、いつもと同じように布団の上に転がっていた赤ん坊達が、ポカンとした顔でこちらを見ていた。
「あ…えと…ぁ…まって…」
もそもそと布団から抜け出すと、ベッドの縁へと腰掛け、彼と向き合った。
「あの…お二人と…会いたいと思う…んだけど…」
「…よろしいのですか? もう少し、ゆっくりお考え頂いてもよいのですよ?」
「…ん、いい。大丈夫…」
「ご無理は、されていませんか?」
「…大丈夫」
「…怖くはないですか?」
「…、…少し…怖い、けど…でも……あ、会える、なら…会った方が、いい…と、思う…」
「アドニス様…」
「あ、で、でも! ちゃんと、話せるか、分かんないし…あの、なにを話せば、いいのかも…その、分かんない…ん、だけど…!」
「ええ、大丈夫です。大丈夫ですよ、アドニス様」
足元に膝をついた彼が、知らぬ間に膝の上で強く握り締めていた手の平を、両手で優しく包んでくれた。
「まずはお会い頂けるだけでも充分です。お話しができずともいいのです。お顔を合わせるところから始めましょう?」
「…うん」
『話しをしなくてもいい』
そう言われ、安堵からホッと息を吐き出した。
無理に会話をする必要がないと分かっただけでも、少しだけ緊張の系が緩んだ。
「いつなら、お会いできそうですか?」
「え…う……ぇと、いつ、でも…?」
「では…そうですね……三日後。三日後の予定で、お二人にお伝えしたいと思いますが、よろしいですか?」
「…っ、…お、お願い、します…!」
(ああ…お願いしちゃった…っ)
これでもう「やっぱり無理」とは言えない。いや、言えばきっと彼は受け入れてくれるはずだ。
でも、嬉しそうに微笑む彼の表情は安堵しているようにも見えて、とてもじゃないがその表情を曇らせるようなことは出来ないと思った。
(ちゃんと、お礼だけは言うって、決めたんだから…!)
グラグラと揺らいでしまいそうな弱る決意を、心の中でもう一度グッと強く固める。
ドクン、ドクンと緊張と不安で大きく脈打つ胸が苦しく、気を抜くと唸り声が零れてしまいそうな唇を、キュッと引き締めた。
イヴァニエとルカーシュカとの再会まで、あと三日───それまで自分の心臓が保つのか、心配で堪らなかった。
◇◇◇◇◇◇
『イヴァニエ様とルカーシュカ様に、お会いしてみませんか?』
唐突なその提案に、アドニス様は目を丸くして驚かれていた。
無理もない。なにせ私の独断で、本当に突然言い出したことなのだから。
アドニス様のお側に控えるようになって四ヵ月弱。先日、ようやく聖気が回復し始めたことを確認することが出来た。
それ自体はとても喜ばしいことだった。少しずつでも快方に向かっているのだと、実感できたのは大きい。
最初は、目を合わせることすら難しかった。
そこから少しずつ、お話しをして下さるようになった。
泣かれてしまうことも多かったが、笑って下さるようになった。
僅かにだが、お食事を摂って下さるようになった。
何かにずっと怯えているような、痛々しい雰囲気は微塵も感じなくなり、穏やかな空気を纏うようになった。
───ここに至るまで、四ヵ月だ。
少しずつ、良い方向へと変わっていくアドニス様の変化速度に対して、残された時間はあまりに少ない。
フォルセの果実が実るまで、あと半年と少し。
アドニス様は、あのお部屋に閉じ込められている訳ではない。いや、実態として閉じ込められていることに変わりはないのかもしれないが、元は謹慎を目的としてあの部屋に入れられたのだ。
その期限は、フォルセの果実が実るまで───…
あと半年もしたら、アドニス様は嫌でもあの部屋から出なければいけなくなる。
謹慎という処分は、アドニス様が記憶を失ったこと、性格が変化したことにより、その価値を失った。
代わりに、アドニス様を閉じ込めておく為の部屋は、アドニス様が閉じ籠る為の部屋に変わってしまった。
アドニス様には、あの部屋から出ようという意思も無ければ、出たいという欲求も無い。
外へと続く大きな扉がそこに在るのに、見えていないのかと疑うほどに、その存在は意識の端にも上らない。
『部屋の外』への興味は、窓から見える景色に関することだけという、ひどく限定的なものだった。
どれだけ知識を授けても、それだけなのだ。そこで終わってしまう。その先が無い。
あの部屋の中で、完結してしまっているのだ。
恐らく部屋の外に出るという行為そのものが、アドニス様にとっては恐怖の対象なのだろう。
怖い目に遭うかもしれない、怖い人達に会うかもしれないという恐怖。
対して、あの部屋の中はある意味でとても安全だ。
誰からも忘れられた宮廷の片隅を訪れる者などいない。
誰も来ない部屋にいるのは、アドニス様とプティと自分だけだ。
だからこそ安心しきっていらっしゃるのだろう。それに比例するように、外への興味はどんどんと失われていく。
そんな状態で半年後に謹慎が解かれるなど、絶望でしかない。
更には謹慎が解かれた『その先』がどうなるのか、とても不明瞭だ。
幸いなことに、バルドル様はアドニス様の現状について把握され、ご理解して下さっている。無体なことは申し上げないはずだ。
だが他の大天使様達は違う。イヴァニエ様とルカーシュカ様以外の大天使様達の記憶に残っているのは、傍若無人な暴君アドニス様のお姿だけ。
聖気も少なく、庇護しなければならないほど弱々しい今のアドニス様とはかけ離れたお姿しか知らないのだ。当然、憎悪や嫌悪といった感情もそのままだ。
謹慎が解かれたら、そんな感情が渦巻く中に、アドニス様は放り込まれることになる───そんな酷なことがあるだろうか。
出来ることなら、自分とてお守りしたい。
だが私は一介の従者に過ぎず、階級も大天使様より下だ。私に出来ることは少ない。…アドニス様のお隣に立つことは出来ないのだ。
ならばせめて、同じ大天使様である方々の庇護が欲しい。
アドニス様のお隣に立ち、支えて下さる方がいるかいないか…その違いはとても大きい。
そしてそれを願えるのは、イヴァニエ様とルカーシュカ様のお二人しかいないのだ。
勿論、お二人とも本心からアドニス様のことをご心配されているし、願わずとも守ろうとはして下さるだろう。
だがどこか負い目を感じていらっしゃるのか、決して踏み込んで来ようとはされないのだ。
離れず、だが近づき過ぎないようにと、距離を取られたままだ。
いざとなれば庇っては下さるだろう。だがそれでは足りないのだ。
怯えたまま、負い目を感じたままでは、守れるものも守れなくなってしまう。
双方が互いに気を許す仲にならなければ、本当の意味で守ることも、頼ることも出来ない。
だからこそ、一刻でも早く互いを知る為の交流を持って頂きたかった。
残された時間があと半年ほどしか無いと気づき、居ても立っても居られず、唐突に話しを切り出してしまった。
実際、イヴァニエ様とルカーシュカ様が対面を望まれていたことは確かだし、遅かれ早かれの問題ではあった。
…だが正直に言えば、拒絶されると思っていた。相手が大天使様であるというだけで恐れられ、拒絶されてしまうだろうと思っていた。
それでも良かったのだ。最初は怖がられてしまっても、少しずつ言葉を重ね、徐々に受け入れてもらえればいいと、そう思っていた。悠長なことは言っていられないが、無理強いするつもりはなかった。
ところが、アドニス様は怖がらなかった。その表情に浮かんでいたのは、困惑と動揺。
決して良いと言える感情ではなかったが、「否」とは仰らなかった。
それだけでも充分だったが、アドニス様はお考えになられたお答えとして、お会いになることを決められた。
一晩でお答えを出されたことに、ご無理をされていないか心配したが、そのお顔に怯えの色は浮かんでいなかった。
ご不安もあるだろう。また泣かれることになるかもしれない。
どうあっても心配に変わりはないが、それでも残された時間に僅かでもゆとりが出来たことに、心から安堵した。
大切な御方だと思う。大事にしたいと思う。出来ることなら、ご無理をしてほしくないし、泣いてほしくない。
それでも少しだけ、ご自身のためにも少しだけ、頑張って頂きたいと願う。
真綿で包んで、大事に大事にするだけが優しさではないように、いつか取り返しがつかないほど泣くことになる前に、例え涙を流すことになっても、今から少しずつお強くなって頂けたなら───…
せめて少しでも、泣かれる回数が少なくなればいい。その分、笑って下さるようになればいい。
そのためにも、まずはイヴァニエ様とルカーシュカ様との対話が必要なのだ。
アドニス様がお二人を知る為に、お二人がアドニス様を知る為に、まずは怯えと負い目から払拭していかなければならない。
最初から上手くいくとは考えていない。
どちらも傷つくことになるかもしれない。
だが例えどうなっても、私はアドニス様のお側にいたい。
お守りするには力不足でも、お役に立てることがあるならば、出来るだけのことはしたい。
立ち止まり、迷っていられる時間は、そう多くはないのだ。
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念のためのネタバレ(?)
いつか近況ボードでも書いたのですが、アドニスくんが今後、精神的にも大天使的にも強くなることはありません笑
泣く回数が減ったり、少しだけ頑張ったりと、そういう面ではちょびっとだけ強くなりますが、基本的には庇護対象のままです。獅子の見た目をした仔猫だと思って見守って頂けますと幸いです。
甘く香る蜂蜜をスプーンにひと匙、トロリと溶け込んだ優しい味のミルクをゆっくりと時間をかけて飲むのが、朝一番のルーティーンになっていた。
彼が毎朝作ってくれる甘いミルク。それをくぴり、くぴりと少量ずつ飲んでいる間、赤ん坊達は膝の上やソファーの上で大人しく待っていてくれた。
一時は彼らを待たせないように、と早く飲もうと頑張ったりもしたのだが、すぐに彼にバレて「お急ぎにならなくても大丈夫ですよ。プティ達もちゃんと分かっていますから」と言われ、それからはまた時間をかけて飲むようになった。
そうしてミルクを全部飲み終えると、すぐさま眠気に襲われる。
起きたばかりだというのに眠くなる体に、最初は眠気を我慢していたのだが「栄養を取り込むために、お体が休息を求めていらっしゃるのでしょう。我慢せずにお休みになって下さい」と彼に言われ、抗うのをやめた。
温かな日差しが差し込む窓辺で、クッションを枕代わりにソファーの上に横になる。
一緒になってソファーの上にころりと寝転がった赤子を撫でつつ、ウトウトと浅い眠りにつく。
短い時間だが、眠って暫くするとパチリと目が開く───そうしてようやく、毎朝の日課が終わるのだ。
その日も、いつもと同じようにミルクを飲み干し、一眠りしてから赤ん坊達とじゃれ合うように遊んでいた。
ここ最近は、過ごす時間にもなんとなく規則性ができ、赤ん坊達と遊んでから、彼との勉強時間があり、その後また赤ん坊達と過ごしながら食事を摂る…という流れになっていた。
「んにゃ、あ!」
「ふふ…うん、すごいねぇ」
ふにゃふにゃとなにかを話している赤ん坊に、内容は分からずとも言葉を返す。会話になっていないだろうに、ニコニコと笑ってくれるのが嬉しくて、自然と笑ってしまう。
喋り、笑い、コロコロと寝転がって遊ぶ赤ん坊達が満足したところで、彼と勉強する時間になり、赤子達は手を振りながら窓の外へと飛んでいく。
「プティ達は、随分とお喋りが好きなようですね。初めて知りました」
「…そうなの?」
「ええ、あの子達は普段はあまり声を出さないので」
「…そう、なんだ」
きゃらきゃらと笑いながら話す様子からは想像できない姿に首を傾げつつ、ソファーから立ち上がろうとして、そっと彼に手で制された。
「?」
「今日はこちらで少し、お話しをしましょう」
「うん…?」
いつも彼の話を聞く時は、長椅子へと移動していたのだが、今日は少し違うようだ。
ソファーにもう一度腰を落ち着けると、足元に膝をついた彼に手を取られた。思えば、床に膝をついた状態の彼とこうして話しをするのも、随分と久しぶりな気がする。
「んと…どうしたの…?」
「…今からお話しすることは、強制ではございません。お願いでもございません。アドニス様にお考え頂き、ご判断して頂きたいことがございます」
「…!」
いつになく真剣な彼の表情に、ドキリと心臓が跳ねた。
一体なんだろうか…思わず伸びた背筋から緊張が伝わったのか、繋いだ手の平を握る指先に、ほんの少しだけ力が籠った。
「そんなにご不安にならなくても大丈夫ですよ」
「う、うん…」
彼の柔らかな微笑みに、詰めていた息をホッと吐き出す。
体の力が抜けたところで、白く細い彼の両手が、自身の手をぎゅっと包み込んだ。
「アドニス様が、大丈夫だと、そう思えたならで結構です。……イヴァニエ様とルカーシュカ様に、お会いしてみませんか?」
「………え…」
あまりにも突然の提案に、思わず固まってしまった。そのまま体と一緒に止まってしまいそうな思考を、ゆっくりと巡らす。
(…イヴァニエ様と、ルカーシュカ様に……会う…)
彼の言葉を頭の中で反芻する。そこに、以前のような恐怖は無かった。
いや、少しだけ怖いという気持ちはあったが、それよりも困惑の方が大きかった。
会ってどうするのだろう?
何を話すのだろう?
何を話せばいいのだろう?
…自分は、何をすればいいのだろう?
顔と名前が一致しているだけ、ましてや相手は自分のことを嫌っているということを知っているだけの、ほとんど知らない人だ。
向こうは自分のことを知っているが、自分は知らない。どころか、この世界の知識でさえ覚束ない。
会ったところで、話せることも無ければ、まともに会話ができる自信も無い。
果たして、会うことに何か意味があるのだろうか?
「…あ、あの…あ、会って…ど…するの…?」
「どうもしません。少しでもお話しができれば…と、そう思っただけです」
「……お話し…」
その言葉に、あることを思い出す。
彼と話しをするようになってから少し経った頃、長い眠りから目覚めたあの日、イヴァニエとルカーシュカの二人が何故この部屋にいたのか、理由を聞いてみたことがあった。
『アドニス様と、お話しがしたかったそうです』
会って、ただ話しがしたかった。
ただそれだけだったと聞いて、驚いたのを覚えている。
てっきり、何かを咎めに来たのだと思っていたのだ。
部屋から抜け出していたことで叱責を受けるのだと、今度こそ、ただ部屋に閉じ込めておくだけではない罰を受けるのだろうと、そう思っていた。
でも、そうではなかった。
『話しがしたい』
ただそれだけの為に、あの日あの二人は、この部屋に来て───そうして、命が枯れる寸前だった自分を助けてくれたのだ。
あの時は、二人がその場にいた経緯を知るはずもなく、目が覚めたと同時に視界に映った姿がただただ恐ろしくて堪らなかった。
その結果、恐怖と混乱から、泣いて逃げてしまったのだが───…
(……どうしよう…)
二人が、自分のことを気に掛けてくれていることは、彼から聞いて知っている。
バルコニーに置かれていた花も、その贈り主が赤ん坊達であったということも、ルカーシュカは知っていたこと。だからこそ、自分のためになればと教えてくれたのだということも聞いている。
…嫌いな相手でも心配してくれるような、優しい方達なのだと、理解はしている。
それでも、会えるかどうかと問われると、言葉に詰まってしまう。
動揺と、不安と、拭いきれない恐怖───どうしても前向きに考えられない思考に、視線はどんどんと下がっていった。
「アドニス様、大丈夫ですよ。ご無理をして頂きたい訳ではございませんので」
「あ…ぅ……と…」
「…今すぐお答え頂かなくてもいいのですよ?」
「え…?」
「私も急にお話ししてしまいましたから、考えるお時間も必要でしょう。会うか会わないかは、ゆっくりお考え頂いて、お気持ちが落ち着きましたら、お返事をお聞かせ頂きたいと思います。いかがですか?」
「……うん…」
「ありがとうございます。…では、このお話しはここまでにしましょう」
「え…?」
「ゆっくりお考え下さい。お返事はいつでも構いませんので」
「あ……う、ん…」
(…いいのかな?)
にこりと微笑んだその表情はいつも通りで、あっさりと話しを切り上げてしまった彼に拍子抜けする。
もっと重要な、大事な話だと思ったのだが…もしくは、そうと悟らせないために、あえて軽く話してくれたのだろうか?
疑問符が頭の中に浮かぶも、彼がそれ以上この件について触れることはなく、そのまま話しは終わってしまった。
(…眠れない…)
その日の夜、どうしても昼間言われたことを考えてしまい、なかなか寝つくことができないでいた。
あの後はいつも通り、彼と話しをして勉強をすることになったのだが、自分でも分かるほどに心ここにあらずだったと思う。
目を閉じていても訪れない眠気に溜め息を吐くと、もそりとベッドから抜け出した。
照明を点けることができなかったあの日から、目が冴えている時にはバルコニーへと足を運ぶようになっていた。
夜空を眺めているだけで気持ちが落ち着いたし、なにより輝く星を眺めているだけで、晴れやかな気分になるのだ。
大きな窓をそっと開けると、いつの間にか用意され、常時置かれるようになった室外用の長椅子へと腰を下ろした。
「……はぁ…」
ぼんやりと星空を眺めながらも、つい溜め息が零れてしまった。
大天使二人と会うか否か、自分の判断に委ねられた提案になんと答えればいいのか…気持ちと思考が上手く噛み合わず、頭の中がパンパンに膨らんでいるような感覚に、疲労感は強くなった。
…彼は、無理はしなくていいと言ってくれた。
つまり「無理だ」と言って、会うことを拒否することも可能なのだ。
(…でも)
きっと彼は会ってほしいのだろう。
でなければ、わざわざこんなことを言わないはずだ。
『会ってほしい』という気持ちがあったからこそ、言葉にしたのだろう。
勿論、拒否したところで、彼が自分を責めることなどないはずだ。それくらいは分かる。
でも、もしかしたら少しだけ…落ちこませてかもしれない。
自分への落胆ではなく、もっと別のことに対して、落胆してしまうかもしれない。…それは、嫌だと思うのだ。
(できれば、あの子に喜んでほしい…)
であれば、大天使の二人と会えばいいと思うのだが───…
(…だって…会ってどうすれば…)
怖いという気持ちもあるが、なにより二人を前にしてどうすればいいのか分からないということが、一番の気掛かりだった。
「…はぁ……」
考え過ぎて頭が重い。沈んだ気分を吐き出すように、再び溜め息が零れた。
自然と俯いてしまった顔を無理やり上げると、頭を振って深呼吸を繰り返す。
暗い気持ちになることでは無いはずだ。いや、むしろ喜ばしいことなのだ。
嫌われ、蔑まれ、避けられ…いない者として扱われていた自分に、大天使二人が心を配ってくれるだけでも大変なことだ。
ましてや一方的な叱責でも詰問でもなく、互いに言葉を交わすことが目的な訳で───…
(…嫌、ではない)
嫌だと思う気持ちは無い。
そんな風に考えることすら烏滸がましいのだが、『嫌か、嫌ではないか』の二択で問われれば『嫌ではない』。
ただ純粋に、大天使を目の前にした時に自分はどうすればいいのか、それが分からないだけなのだ。
(お話し、なんて…)
話せることなんて何も無い。堂々巡りな思考に小さく唸り───はたと、あることを思い出した。
(そうだ…お礼…言ってない…)
命が尽きる寸前だった自分に、大量の聖気を分け与えてくれた…その礼をまだ伝えていなかった。
彼に感謝の言葉を託したことはあるが、自分の言葉で直接伝えたことはない。
(……お礼なら…言える…?)
深く暗い眠りの底で、このまま死んでしまってもいいと思っていた。
これ以上悲しむくらいなら、辛く、痛い思いをするくらいなら…と、生きることを手離していた。
それでも、命を繋いでもらったおかげで、色んなものを得ることができた。
いつも側にいてくれる彼という存在も、愛しい小さな天使達との再会も、優しさも温かさも、それを嬉しいと思う感情も、多くの知識も…生きるための力を与えてもらえたからこそ得られたものだ。
感謝してもしきれないほど、素晴らしいものを得る機会を与えてもらった。であればこそ、感謝の気持ちは、きちんと自分で伝えるべきだろう。
(……うん)
話しをする、という行為とは少し異なるかもしれないが、言葉を交わすことにはなるかもしれない。
最低限、せめてお礼だけでも伝えられれば、例えその後の会話が続かなくとも、これっきり会うことが無くとも、悪くはない…と思う。
「…うん」
コクリと、決意する様に頷く。
そうと心に決めたなら、後は決意が揺るがぬ様、早く彼に伝えよう。早く寝て、朝一番に伝えるのだ。
決意しただけなのに、既に緊張でドキドキと鳴る心臓を落ち着けるように、二度、三度と深呼吸を繰り返した。
(…大丈夫)
少しだけ頑張ってみよう…そう決心し、長椅子から立ち上がると、そっと夜の世界を後にした。
「あ、あのっ、イ、イヴァニエ様と、ルカ…シュカ様と、あ、会いたい…と、思うん、だけど…」
翌朝、ベッドから起き上がると同時に彼に声を掛けた。
キョトンとした顔でこちらを見つめる彼に、言葉が足りなかっただろうかと、焦りながら言葉を続ける。
「あ…あ、えっと、は、話しが、できるか、分からないんだけど…あの、お礼が…言えたら、なって…思って…ちゃ、ちゃんと…言えるかは…わ、分からないん、だけど…でも…あの…っ」
「アドニス様、慌てなくとも大丈夫ですよ。…ほら、プティ達も驚いていますよ」
「…あ」
言われて彼の視線の先を辿れば、いつもと同じように布団の上に転がっていた赤ん坊達が、ポカンとした顔でこちらを見ていた。
「あ…えと…ぁ…まって…」
もそもそと布団から抜け出すと、ベッドの縁へと腰掛け、彼と向き合った。
「あの…お二人と…会いたいと思う…んだけど…」
「…よろしいのですか? もう少し、ゆっくりお考え頂いてもよいのですよ?」
「…ん、いい。大丈夫…」
「ご無理は、されていませんか?」
「…大丈夫」
「…怖くはないですか?」
「…、…少し…怖い、けど…でも……あ、会える、なら…会った方が、いい…と、思う…」
「アドニス様…」
「あ、で、でも! ちゃんと、話せるか、分かんないし…あの、なにを話せば、いいのかも…その、分かんない…ん、だけど…!」
「ええ、大丈夫です。大丈夫ですよ、アドニス様」
足元に膝をついた彼が、知らぬ間に膝の上で強く握り締めていた手の平を、両手で優しく包んでくれた。
「まずはお会い頂けるだけでも充分です。お話しができずともいいのです。お顔を合わせるところから始めましょう?」
「…うん」
『話しをしなくてもいい』
そう言われ、安堵からホッと息を吐き出した。
無理に会話をする必要がないと分かっただけでも、少しだけ緊張の系が緩んだ。
「いつなら、お会いできそうですか?」
「え…う……ぇと、いつ、でも…?」
「では…そうですね……三日後。三日後の予定で、お二人にお伝えしたいと思いますが、よろしいですか?」
「…っ、…お、お願い、します…!」
(ああ…お願いしちゃった…っ)
これでもう「やっぱり無理」とは言えない。いや、言えばきっと彼は受け入れてくれるはずだ。
でも、嬉しそうに微笑む彼の表情は安堵しているようにも見えて、とてもじゃないがその表情を曇らせるようなことは出来ないと思った。
(ちゃんと、お礼だけは言うって、決めたんだから…!)
グラグラと揺らいでしまいそうな弱る決意を、心の中でもう一度グッと強く固める。
ドクン、ドクンと緊張と不安で大きく脈打つ胸が苦しく、気を抜くと唸り声が零れてしまいそうな唇を、キュッと引き締めた。
イヴァニエとルカーシュカとの再会まで、あと三日───それまで自分の心臓が保つのか、心配で堪らなかった。
◇◇◇◇◇◇
『イヴァニエ様とルカーシュカ様に、お会いしてみませんか?』
唐突なその提案に、アドニス様は目を丸くして驚かれていた。
無理もない。なにせ私の独断で、本当に突然言い出したことなのだから。
アドニス様のお側に控えるようになって四ヵ月弱。先日、ようやく聖気が回復し始めたことを確認することが出来た。
それ自体はとても喜ばしいことだった。少しずつでも快方に向かっているのだと、実感できたのは大きい。
最初は、目を合わせることすら難しかった。
そこから少しずつ、お話しをして下さるようになった。
泣かれてしまうことも多かったが、笑って下さるようになった。
僅かにだが、お食事を摂って下さるようになった。
何かにずっと怯えているような、痛々しい雰囲気は微塵も感じなくなり、穏やかな空気を纏うようになった。
───ここに至るまで、四ヵ月だ。
少しずつ、良い方向へと変わっていくアドニス様の変化速度に対して、残された時間はあまりに少ない。
フォルセの果実が実るまで、あと半年と少し。
アドニス様は、あのお部屋に閉じ込められている訳ではない。いや、実態として閉じ込められていることに変わりはないのかもしれないが、元は謹慎を目的としてあの部屋に入れられたのだ。
その期限は、フォルセの果実が実るまで───…
あと半年もしたら、アドニス様は嫌でもあの部屋から出なければいけなくなる。
謹慎という処分は、アドニス様が記憶を失ったこと、性格が変化したことにより、その価値を失った。
代わりに、アドニス様を閉じ込めておく為の部屋は、アドニス様が閉じ籠る為の部屋に変わってしまった。
アドニス様には、あの部屋から出ようという意思も無ければ、出たいという欲求も無い。
外へと続く大きな扉がそこに在るのに、見えていないのかと疑うほどに、その存在は意識の端にも上らない。
『部屋の外』への興味は、窓から見える景色に関することだけという、ひどく限定的なものだった。
どれだけ知識を授けても、それだけなのだ。そこで終わってしまう。その先が無い。
あの部屋の中で、完結してしまっているのだ。
恐らく部屋の外に出るという行為そのものが、アドニス様にとっては恐怖の対象なのだろう。
怖い目に遭うかもしれない、怖い人達に会うかもしれないという恐怖。
対して、あの部屋の中はある意味でとても安全だ。
誰からも忘れられた宮廷の片隅を訪れる者などいない。
誰も来ない部屋にいるのは、アドニス様とプティと自分だけだ。
だからこそ安心しきっていらっしゃるのだろう。それに比例するように、外への興味はどんどんと失われていく。
そんな状態で半年後に謹慎が解かれるなど、絶望でしかない。
更には謹慎が解かれた『その先』がどうなるのか、とても不明瞭だ。
幸いなことに、バルドル様はアドニス様の現状について把握され、ご理解して下さっている。無体なことは申し上げないはずだ。
だが他の大天使様達は違う。イヴァニエ様とルカーシュカ様以外の大天使様達の記憶に残っているのは、傍若無人な暴君アドニス様のお姿だけ。
聖気も少なく、庇護しなければならないほど弱々しい今のアドニス様とはかけ離れたお姿しか知らないのだ。当然、憎悪や嫌悪といった感情もそのままだ。
謹慎が解かれたら、そんな感情が渦巻く中に、アドニス様は放り込まれることになる───そんな酷なことがあるだろうか。
出来ることなら、自分とてお守りしたい。
だが私は一介の従者に過ぎず、階級も大天使様より下だ。私に出来ることは少ない。…アドニス様のお隣に立つことは出来ないのだ。
ならばせめて、同じ大天使様である方々の庇護が欲しい。
アドニス様のお隣に立ち、支えて下さる方がいるかいないか…その違いはとても大きい。
そしてそれを願えるのは、イヴァニエ様とルカーシュカ様のお二人しかいないのだ。
勿論、お二人とも本心からアドニス様のことをご心配されているし、願わずとも守ろうとはして下さるだろう。
だがどこか負い目を感じていらっしゃるのか、決して踏み込んで来ようとはされないのだ。
離れず、だが近づき過ぎないようにと、距離を取られたままだ。
いざとなれば庇っては下さるだろう。だがそれでは足りないのだ。
怯えたまま、負い目を感じたままでは、守れるものも守れなくなってしまう。
双方が互いに気を許す仲にならなければ、本当の意味で守ることも、頼ることも出来ない。
だからこそ、一刻でも早く互いを知る為の交流を持って頂きたかった。
残された時間があと半年ほどしか無いと気づき、居ても立っても居られず、唐突に話しを切り出してしまった。
実際、イヴァニエ様とルカーシュカ様が対面を望まれていたことは確かだし、遅かれ早かれの問題ではあった。
…だが正直に言えば、拒絶されると思っていた。相手が大天使様であるというだけで恐れられ、拒絶されてしまうだろうと思っていた。
それでも良かったのだ。最初は怖がられてしまっても、少しずつ言葉を重ね、徐々に受け入れてもらえればいいと、そう思っていた。悠長なことは言っていられないが、無理強いするつもりはなかった。
ところが、アドニス様は怖がらなかった。その表情に浮かんでいたのは、困惑と動揺。
決して良いと言える感情ではなかったが、「否」とは仰らなかった。
それだけでも充分だったが、アドニス様はお考えになられたお答えとして、お会いになることを決められた。
一晩でお答えを出されたことに、ご無理をされていないか心配したが、そのお顔に怯えの色は浮かんでいなかった。
ご不安もあるだろう。また泣かれることになるかもしれない。
どうあっても心配に変わりはないが、それでも残された時間に僅かでもゆとりが出来たことに、心から安堵した。
大切な御方だと思う。大事にしたいと思う。出来ることなら、ご無理をしてほしくないし、泣いてほしくない。
それでも少しだけ、ご自身のためにも少しだけ、頑張って頂きたいと願う。
真綿で包んで、大事に大事にするだけが優しさではないように、いつか取り返しがつかないほど泣くことになる前に、例え涙を流すことになっても、今から少しずつお強くなって頂けたなら───…
せめて少しでも、泣かれる回数が少なくなればいい。その分、笑って下さるようになればいい。
そのためにも、まずはイヴァニエ様とルカーシュカ様との対話が必要なのだ。
アドニス様がお二人を知る為に、お二人がアドニス様を知る為に、まずは怯えと負い目から払拭していかなければならない。
最初から上手くいくとは考えていない。
どちらも傷つくことになるかもしれない。
だが例えどうなっても、私はアドニス様のお側にいたい。
お守りするには力不足でも、お役に立てることがあるならば、出来るだけのことはしたい。
立ち止まり、迷っていられる時間は、そう多くはないのだ。
--------------------
念のためのネタバレ(?)
いつか近況ボードでも書いたのですが、アドニスくんが今後、精神的にも大天使的にも強くなることはありません笑
泣く回数が減ったり、少しだけ頑張ったりと、そういう面ではちょびっとだけ強くなりますが、基本的には庇護対象のままです。獅子の見た目をした仔猫だと思って見守って頂けますと幸いです。
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