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フォルセの果実
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翌朝、照明が点かなかったことを伝えるため、赤ん坊達三人とじゃれ合いながら、チラチラと彼の様子を窺った。
(お仕事が終わってからにしようかな…)
毎朝、彼が寝具を綺麗に整えてくれるのは変わらず、その間は隣の部屋で赤子達と待っているのも日々の決まりとなっていた。…因みに、寝具を整える行為も、自分で出来るようになろうと彼に教えを乞うたのだが、「私のお役目を取り上げないで下さいませ」と困り顔で笑われてしまったので、相変わらず彼に任せっきりである。
少しして、彼が寝室から出てきたところでようやく声を掛けた。
「あ、あのね、ちょっと…あの、見てもらいたいんだけど…」
「はい、いかがなさいましたか?」
「あ、ちがうの、そっちの部屋の…」
こちらに近づいてくる彼に慌てて立ち上がり、寝室へと向かおうとして、くんっと服の裾を引っ張られる感覚がして立ち止まった。
「んあ」
「あ……一緒に行く?」
「ん!」
絨毯の上にお座りをしたまま、服の裾を掴む赤子に声を掛ける。真っ直ぐ伸ばされた両手が「抱っこ!」と言っているようで、思わず笑ってしまう。
「ふふ、抱っこね」
「あぁー!」
「やぁー!」
「あ…ま、まって、三人は…ちょっと…」
一人の子を抱き上げると、すかさず残りの二人もぐずるように両手を伸ばしてきて、その場でオロオロしてしまう。赤ん坊とはいえ、三人を抱きかかえるのは流石に厳しい。
「プティ、順番になさい。アドニス様が困っていらっしゃるだろ?」
「あ…そ、そうだね。後で、順番に抱っこするから…ね?」
彼の言葉を追いかけるように、順番で抱っこすることを約束すれば、途端に赤子達の頬が緩んだ。
ホッとしつつ、赤ん坊を抱き上げたまま彼と共に寝室へと向かう。他の赤ん坊二人も、ふわふわと飛びながら後をついてきた。
「あの、これ…なんだけど…」
そう言いながら、壁に埋め込まれたような手の平大の丸い器具に視線を送る。鈍い金色のそれは、照明を点すための装置だ。
天界の照明は『光球』という光を発する水晶を加工した物が使われており、それを更に照明用に加工された物が各部屋に配置されているのだそうだ。
大体が壁に埋め込まれた金属のような丸い器具と連動しており、それに触れることで灯りが点いたり消えたりする───と、以前彼から聞いた。
「こちらが、どうかなさいましたか?」
「えっと…昨日の夜ね、少し起きてて…その、明るくしようと思ったんだけど、灯りが点かなくて…」
「…点かない、ですか?」
「うん…」
首を捻る彼に、実際に見てもらおうと片腕に赤子を抱くと、空いた手を装置へと伸ばした。
ひんやりとした金属のような固いそれに、ぺたりと手を当てるが、やはり灯りが点ることはなかった。
「壊れちゃったのかな…?」
特に何かした覚えはないのだが…と困惑していると、腕の中の赤子がうごうごと動き出した。
「あ~」
「…触るの?」
自分が手を置いている壁に向かって小さな手が伸びる。その動きで、装置に触れたいのだろうことが分かり、手が届くようにと、壁にそっと体を近づけた。
「あ!」
小さな手が「ぺちん!」と叩くように器具に触れた。
────パッ
「あ…」
(…点いた)
瞬間、灯りが点った。
明るい室内では分かりにくいが、ほんのりと橙色に染まる天井の照明にパチリと目を瞬く。
あれ? と思っている間も「ぺちん! ぺちん!」と可愛らしい音が響くたびに、灯りがパッ、パッと点いたり消えたりを繰り返した。
「あっ…も、もういいよ」
なにがそんなに楽しいのか、きゃあきゃあと笑いながら壁の器具を叩く小さな手をそっと止めた。それと同時に、もう一度自分も手を伸ばすが───…
「…点かないね」
固く冷たいそれに手を付けるが、やはり灯りが点ることはない。
「なんでだ…ろ……」
赤子と一緒に首を傾げながら、ふと彼に視線を送れば、表情を強張らせ、顔色を悪くした彼がそこにいた。
「えっ、ど、どうし…」
「…恐れ入ります。アドニス様、どうぞ…こちらに」
目の前に差し出された手を握り締めるように繋ぐ。
手を繋ぐことにもすっかり慣れたが、彼の表情が硬いままなのが心配で、少しだけ繋ぐ指先に不安が籠った。
手を引かれるまま隣室へと移動すると、赤子達との遊び場となっているソファーの上に腰を下ろす。
そのまま彼が足元に膝をつき、細い両手が自身の手を包み込むように握り締めた。
不穏な空気が漂う中、ドキドキしながら足元に跪く彼を見つめる。
「……アドニス様」
「は、はい…」
なにを言われるのか、コクリと息を呑む。
「ご飯を食べましょう」
「………はい?」
告られた予想外の言葉に、間の抜けた声が出た。
「今日も頑張りましょうね」
「……はい…」
コトリ、と目の前に置かれた小さな皿。その中身を、ジッと見つめた。
手の平に収まるくらいの透明な器の中に、艶々とした果実の実が三粒。
一口で食べるには少し大きいその実は、見るからに瑞々しそうなのだが…どうしてか手を伸ばすことが出来ず、両手を膝の上で握り締めた。
照明を点けることが出来なかったあの日、突然彼から「ご飯を食べましょう」と言われ、訳が分からず固まってにいると、彼が説明してくれた。
照明は、確かに器具に触れるだけで灯りが点るが、それは体の表面に纏っている聖気に反応しているからなのだそうだ。
纏っていると言っても、本当に極々僅か、ただ自然にしているだけで勝手に反応する程度の聖気があればいい。特別なことなど、何もしなくていいのだ。
それを、自分は点けられなかった。
「照明を点けられないほど、聖気が無くなっているなんて…」
顔色の悪い彼の様子から、自分の状態が異常なのだということは理解した。
そこから切々と食事の必要性を説かれた。
陽を浴びているだけでは、足りないのだということ。恐らく、起きて動く分…その分しか補えていないのではと彼は言った。
イヴァニエとルカーシュカの二人から譲渡してもらった分の聖気は、例えるならマイナスだった分を“零”の状態にしたに過ぎなかったのだろう、と。
そこからプラスにしていくためには、陽を浴びること、食事を摂ること、この両方を日々重ねていく必要があると言われた。
「いっぱい、お日様の光も浴びてるのに…」
「そうですね…私も、最低限補えているだろうと思っていたのですが…」
彼の予想より、自分の中にある聖気は増えていないようだった。
本当であれば、自分から食事を求めるまで、彼は食事については黙っているつもりだったらしい。
「なにか食べたいと、アドニス様がご自身で思われた方が、私から強要するよりも良いと思ったのですが…」
そんなことも言っていられなくなったのだろう。ついでに言えば、食事のことは頭から完全に抜けていた。
食事の必要性については聞いていたが、本当に『聞いていた』だけで、自分に必要なこととして認識していなかった。長く、食事という行為を行ってこなかった弊害だろう。意識の端にも上らなかった。
「少しずつで構いません。まずは、お食事に慣れていきましょう?」
───そう言われて、今である。
「………」
テーブルの上に置かれた透明感のある薄い黄緑色の果実をジッと見つめる。
あの日から、長椅子の前には新たにテーブルが置かれた。
楕円形の白い木造りのテーブルには、中央の一部分にガラスが嵌め込まれ、その中には色とりどりの花が詰められていた。
恐らく赤子達が摘んできてくれた花の一部だと思うが、それを心から楽しんで眺めることが出来ない現状に「くぅ」と喉の奥が鳴った。
「アドニス様、大丈夫ですよ。ただの果物です。…怖い物ではありませんよ」
「ぅ…ん…」
優しく話しかけてくれる彼に、恥ずかしいやら申し訳ないやらで泣きたくなってくる。
こうして目の前に食べ物を出されるのも三日目。
今日で三度目だが、まだ一度も何かを食べれたことはなかった。
一度目も二度目も、同じように目の前に出された果実を凝視しているだけで時間が過ぎ、気づけば半日が過ぎていた。
彼は自分の自主性に任せてくれたのか、急かすようなこともせず、そっとしておいてくれたが、流石に数時間も動きが無いことに無視できなくなったのだろう。
いつものように、足元に膝をついて、優しく微笑みながら話しかけてくれるのだが───…
(……どうしよう…)
どうしても、目の前の果実に手が伸びないのだ。
食べ物が怖い訳じゃない。ただ、どうすればいいのかが分からなくて、怖気付いてしまうのだ。
(…食べ方は知ってる…)
口に入れて、噛んで、飲み込む。ただそれだけ、とても簡単なことだ。
ただ、自分はやったことがない。知らない。必要だと思った事もない。…初めてなのだ。
知らないことだから、初めてのことだから、口の中に何かを含むことも、それを噛み砕くことも、まして飲み込むだなんて…不安のような、得体が知れないからこその恐怖のような緊張感で、動くことができなくなってしまうのだ。
(どうしよう…食べなきゃいけないのに…)
必要な行為であり、本来であれば自然な行為のはずだ。
おかしいことでも、特別なことでもない。彼が心配してくれていることも、充分に理解している。
それでも、トクトクと脈打つ心臓は緊張と不安で苦しく、情けなさと恥ずかしさで泣きそうになる。
言葉で説明するには難し過ぎる緊張感に、膝の上に置いた手を意味もなくもじもじと動かした。
「…手に持ってみるだけでも、いかがですか?」
「……ん…」
一口分よりも一回りほど大きい果実を、指先でそっと摘まむ。
張りのある皮から伝わるのは、果実の新鮮さと瑞々しさ。皮の中に詰まった果肉は、きっと噛めば滴るほど果汁が零れるだろう。
(…分かってる)
至極簡単な行為だと分かっている。なにも怖いことなどないのだと分かっている。
それでも、指先に持った果実を口に運ぶことが出来なくて、悔しさと情けなさから唇を噛んだ。
こんなことで泣きたくない…そう思いつつ、熱を持ち始めた目頭に、堪らず俯いた時だった。
「アドニス様、そちらを頂いてもよろしいですか?」
「……はい…」
指先で摘まんだ果実を、彼の差し出された手の平にそっと置いた。
なにを…と思う目の前で、どこから取り出したのか、彼が小さなナイフで果実の粒を半分に切った。
二つに切り分けられた実からは途端に甘い香りが立ち、鼻孔を擽る───と、その切り分けられた片割れを、彼がそのまま口に含んでしまった。
「…!?」
驚いている間にも、シャクリ、シャクリと咀嚼する小気味い良い音が耳に届く。
殊更丁寧に、ゆっくりと味わうように嚙み砕かれた果実はコクリと嚥下され、彼の喉の奥へと流れていった。
「甘くて、とても美味しい実ですよ」
「……あ…」
…手本を見せてくれた? それとも、味見をしてくれたのだろうか?
どちらにせよ、彼が自分のために『食べる』という行為を見せてくれたのだということは分かった。
(……今、なら…)
───食べられるだろうか?
彼が手本として見せてくれたことを、真似ればいいだけだ。
切り分けられた果実の断面をジッと見つめる。透き通るような果肉からは、キラリと光を反射するように、たっぷりの果汁が滲んでいた。
今なら、彼がやって見せてくれたことが目に焼きついたばかりの今なら、自分も食べれるのでは───そう思い、コクリと喉を鳴らした時だ。
カタン…と窓辺から音がした。
「あ…あの子達…」
いつも赤ん坊達が出入りする小さな窓に、ぺったりとくっついて中の様子を窺っている小さな体が二つ。
自分が食事の練習中の間、赤子達には部屋の外に出てもらっていたのだが、そのせいでもう三日間、ろくに遊んでいない。
今まで毎日、朝から陽が沈むまで遊んでいたのだ。そろそろ我慢できなくなってきたのだろう。
自分が不甲斐ないばかりに、赤ん坊達にも余計な我慢をさせているのが申し訳なくて沈んでいると、ふいに視界の端で彼が動く気配がした。
そのまま立ち上がった彼を目で追っていると、そのまま赤子達がいる窓辺へと近づき、窓を開けた。
「え…」
入室を許された赤ん坊二人は、するりと部屋の中へと入って来ると、パタパタと一直線にこちらへ飛んできた。
そのまま腕の中へ飛び込んできた柔らかな体を抱き留めつつ、きゃっきゃっと笑う赤子と彼を交互に見遣った。
(…いい、のかな?)
確か、自分が何かを食べれるようになるまでは、この子達と遊ぶのは制限されていたはずだ。決して意地悪などではなく、自分が赤子達ばかり気にして食事にまったく集中できないのが主な原因だが…
いいのだろうか? と疑問符を浮かべていると、側に戻ってきた彼が再びナイフを手に持った。
半分に切った果実が、更に半分に切り分けられる。随分と小さくなった果肉を不思議に思って眺めていると、彼がそれを赤子へと差し出した。
「プティ、アドニス様がこちらを食べるための、お手伝いをして下さい」
「え?」
思ってもなかった言葉に呆ける暇もなく、言葉の意味を正しく理解した赤ん坊は、小さな手には少し大きいくらいの果実を掴むと、その手を勢いよく自分の口元へと伸ばしてきた。
「あ~」
「え、ちょ、ちょっとまって…っ」
確かに、つい今ほど「食べられるかもしれない」と思ったばかりだが、少し待ってほしい。
せめて心の準備を…と思っている間にも、むんずと掴まれた果実が、唇に押し付けられそうな勢いで差し出された。
「あ~ぅ」
「~~~っ!」
いくら狼狽えても、善意だけを込めた無邪気な笑顔に抗えるはずもなく、決心する間も、心の準備も出来ないまま、ほぼ反射的に薄く唇を開いた。
「あ!」
「ぐっ…」
ぐいぐいと無遠慮に唇に押し付けられていた果実は、あっけなく口の中に放り込まれてしまった。
「っ…!」
途端に咥内に広がった果実の強い香りと甘み。初めての刺激に、一瞬だけ体が強張った。
「アドニス様、大丈夫です。そのまま、噛んでみて下さい」
「ぅ…」
心配そうな表情をした彼が、行き場をなくして胸の前で固まっていた手を強く握ってくれた。
思いがけないほど強く握られた手の平から伝わる温度と、彼の真剣な眼差しから「大丈夫」という気持ちが伝わってくる。
それに勇気づけられるように、意を決して口の中の果実を嚙み潰した。
───シャク…
「っ…」
一噛みしただけで、じゅわりと広がる果汁で口の中が潤った。それに驚きつつも、二度、三度とゆっくりと咀嚼を繰り返す。そのたびに、口の中全体に甘みが広がり、同時に強張っていた体から力が抜けていった。そして───…
───コクン…
細かく噛み砕かれ、実の形を無くし、液体のように蕩けた果実は、驚くほどアッサリと喉の奥へと消えていった。
「あ……」
(食べれた…)
三日間の葛藤や緊張感はなんだったのかと、拍子抜けするほどアッサリと食物を飲み込むことができたことに暫し茫然とする。
「アドニス様…! 良かった…っ、きちんとお食べになれましたね…!」
「ぁ…う…はい……あの、ありがとう…」
ぼぅっとしているところに、彼の弾んだ声が聞こえてきて、思わず目が泳いだ。
とても喜んでくれている。それはそれは嬉しそうな笑顔で、恐らく手を握っていなければ、拍手でもされそうな勢いで喜んでくれる彼に、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまい、顔が熱くなった。
(一口食べれただけなのに…)
ようやく果実の一口…いや、一口以下を食べれただけ。
それだけでこんなに喜んでくれることに、今日までどれほど心配されていたのかと、改めて痛感した。
「あ~!」
「あ、は、はい…!」
恥ずかしさのような照れのような、落ち着かない気持ちを吹き飛ばすような赤ん坊の声にハッとする。
もう一人の赤ん坊が、果実の半分の半分を手に待っていることを思い出し、咄嗟に口を開いた。
「あぅ~」
「ん…く…」
相変わらず口の中に手ごと突っ込む勢いの赤子を押し留めつつ、復習するように、もう一度ゆっくりと口に含んだ果実を咀嚼した。
小さく口を動かし、丁寧に噛み砕いて、コクリと飲み込む。
二度目の『食べる』という行為は、一度目よりもずっと簡単にできたことに少し感動した。
「頑張って、あと二粒も食べてみましょう」
そう言った彼の手には、既に二粒目があり、ナイフで半分に切り分けられているところだった。ただ、それをもう半分に切ることはなく、先ほどよりも大きい実が、赤ん坊達の手に渡された。
流れるように渡されたそれを当然のように受け取り、自分の口元へと持って来る赤子に戸惑いつつ、先ほどよりも少しだけ大きく口を開く。
「ん…っ」
先ほどの二倍量の実は、咀嚼する音も、溢れる果汁の量も別物のようで驚いたが、じゅわりと広がる甘みを、味わって食べようと素直に思えた。
シャクリと噛むたびに口の中から聞こえる音は、先ほど彼が食べて見せてくれた時と同じ音がしていて、それが少しだけ嬉しかった。
同じように口に含んだ果実を咀嚼し、味わい、飲み込むこと三回。
最後の一口をコクリと飲み込んだところで、ようやくホッと息を吐き出した。
「……食べれた」
空になった透明の器に、思わず言葉が零れた。
「ええ、食べれましたね。本当に、良うございました」
果汁でベトベトになった赤ん坊の手を、濡れたタオルで拭いながら、彼が今までにないくらいニコニコと嬉しそうに笑っていた。
果実の実をたった二粒半。それだけしか食べれていないのに、こんなにも喜んでくれていることに、やはり嬉しさと恥ずかしさが込み上げる。
同時に『何かを食べることが出来た』ということをようやく実感し、達成感のような心地良い疲労感がじんわりと全身に広がった。
「あ…あの…、あ、ありがとう…っ」
「プティ達の『お手伝い』のおかげですね。ほら、もういいよ」
綺麗に手を拭ってもらった赤ん坊達が、抱っこをねだる様に飛んできたところを抱き留め、嬉しそうに笑うまろい頬をするりと撫でた。
「二人ともありがとう。…でも、あの、あなたが最初に…食べて、見せてくれたから…食べれたんだよ…?」
赤ん坊達が手伝ってくれたのも大きかったが、なにより彼がお手本を見せてくれたのが大事だったと思う。そう伝えれば、彼が淡い笑みを返してくれた。
「お力になれたのであれば嬉しいです。…初めてのお食事は、いかがでしたか?」
「……甘、かった…」
「…甘い物は、食べられそうでしょうか?」
「…ん」
「では、まずはお食事に慣れて頂くために、今日と同じくらいの量の果物を毎日食べることから始めましょう」
「ん…」
「勿論、途中で別の物が食べたくなったら仰って下さい。もっと食べれるようなら、量を増やしましょう。ですが、ご無理はなさらないで下さい。少しでも、何かを口にすることの方が大事ですから」
「…はい」
一つ一つの言葉を丁寧に話してくれる彼から、自身が食事を摂る大切さと、自分の身を案じてくれているからこその必死さが伝わり、きゅうっと胸が締めつけられた。
「あの…頑張って…自分で、食べれるようになるね」
「焦らず、ゆっくりで大丈夫です。少しずつ慣れていきましょう」
「はい…!」
コクリと頷けば、膝の上に座って大人しく話を聞いていた赤ん坊が、きゃらきゃらと笑いながらパチパチと手を叩いた。
その姿が「がんばって」と言っているようで、自然と頬が綻んだ。
この日から日に一度、三粒~五粒、もしくは一切れか二切れほどの色んな果物を口にするようになった。
最初の三日はまだ慣れず、少し緊張したが、それでも一口目を口に入れてしまえば、その後はすんなりと食べることが出来た。
それでも、まだ自分の手で口に運ぶのは難しく、赤ん坊達に手伝ってもらって食べる日が続いた。
一週間が過ぎたところで、果物の他にミルクも飲むようになった。
大きなカップ半分に入った温かなミルクに、蜂蜜をスプーンにひと匙。蜂蜜がトロリと溶け込んだ甘いミルクを、朝一番にゆっくりと時間をかけて飲む。
彼から手渡された温かなそれは、手に持っているだけでもホッとして、赤子達の力を借りなくとも飲むことが出来た。
更に三日が過ぎた頃、初めて自分の手で果物を食べることが出来た。
その日出された果物は、初めて食べたあの薄い黄緑色の実で、無意識の内に手が伸びていた。
指先で摘んでしまえば後は呆気ないほど簡単で、いつも赤ん坊達がそうしてくれていたように、摘んだそれを自然と口元へと運んでいた。
初めて自分の手で食べた果実は、あの日と同じように甘く───口の中に広がる果物の味を、生まれて初めて『美味しい』と感じた。
「…これ、美味しい…」
「…っ、アドニス様…!」
ポロリと零れた言葉は、すぐ側に控えていた彼にも聞こえていたのだろう。感極まったような声が返ってきた。
「美味しいですか?」
「…うん。あの…たぶん……これ、好き…なんだと、思う」
「ああ…、良うございました…本当に…!」
食べた物を「美味しい」と、「好き」と言っただけで彼がすごく喜んでくれて、本当どれだけ心配されていたのかと、嬉しさと申し訳なさと恥ずかしさで、「うぁ」と音にならない情けない声が口から漏れた。
「あの…あ、ありがとう…あの、これからも、ちょっとずつ、好きな食べ物とか…増えたら、嬉しい、から…色々、食べさせて下さい」
「ええ、勿論。喜んで」
「あ…でも、あの、いっぱいは、食べれない…かも…」
「少量でもいいのです。少しずつ、ゆっくりお好きな物を増やしていきましょう?」
「うん…!」
優しく微笑んでくれる彼に、つい勢いよく返事をしてしまい、慌てて口元を押さえる…が、それでも口角は緩く上がったままだった。
好きな物が増える───それは、とても素敵な言葉だった。
それから更に十日が過ぎ、朝はミルクを飲み、昼には果実を食べるという行為を繰り返し、少しずつ少しずつ、陽の光を浴びるという行為以外の方法で栄養を取り込んでいった。
そうして初めて果実を口にした日から、二十日が過ぎた頃…
「…っ、点いた…!」
「はい! 頑張りましたね、アドニス様」
少しは聖気が回復しているかもしれない…そう思い、恐る恐る照明を点けるための器具へと手を伸ばした。
ドキドキしながら見つめた天井の照明は、装置に手が触れた瞬間、パッと橙色の光を放った。
二十日前には触れてもなんの反応も無く、彼の顔色を悪くさせていた“照明を点ける”という、極々簡単な、されど自分には困難だった行為に、初めて成功したのだ。
「やった…良かった…!」
「ええ、本当に…本当に良かったです」
「いっぱい心配してくれて、ありがとう。…あの、これからも、ちゃんと、ご飯は食べるからね…?」
「ふふ、はい。是非お願い致します」
少量の果物とミルクしか食べていないので『ちゃんと』と言えるのかは分からないが、それでも二十日で照明を点けられる程度には回復できたのだ。
目に見えて自身の中で変化が起こっているという事実は、思っていた以上に嬉しい出来事だった。
「あ~にゃ!」
「…みんなも、食べるのいっぱい手伝ってくれて、ありがとう」
今日も腕の中に収まったまま、パチパチと手を叩きながら笑う赤ん坊の頬を撫でる。
今はもう自分で食べられるようになったが、食事の間中、何か言いたげにこちらをじっと見つめていた瞳を思い出し、クスリと笑みが零れた。
「…たまには、また食べるの手伝ってね?」
「だい!」
きゃあとはしゃぎながら、胸に額をぐりぐりと押し付ける赤子の小さな頭をそっと撫でる。
(良かった…)
とても些細な、小さな小さな変化だ。
それでも、少しだけ前に進めたような、ちょっとだけ前向きになれるような、明るい気持ちになれた。
僅かにでも聖気が回復したことに安堵していた数日後───彼から、大天使の二人に会ってみないかと、提案を受けた。
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薄い黄緑色の果実=シャインマスカット。
東雲が好きな果物を最初に食べてもらいました(о´∀`о)
(お仕事が終わってからにしようかな…)
毎朝、彼が寝具を綺麗に整えてくれるのは変わらず、その間は隣の部屋で赤子達と待っているのも日々の決まりとなっていた。…因みに、寝具を整える行為も、自分で出来るようになろうと彼に教えを乞うたのだが、「私のお役目を取り上げないで下さいませ」と困り顔で笑われてしまったので、相変わらず彼に任せっきりである。
少しして、彼が寝室から出てきたところでようやく声を掛けた。
「あ、あのね、ちょっと…あの、見てもらいたいんだけど…」
「はい、いかがなさいましたか?」
「あ、ちがうの、そっちの部屋の…」
こちらに近づいてくる彼に慌てて立ち上がり、寝室へと向かおうとして、くんっと服の裾を引っ張られる感覚がして立ち止まった。
「んあ」
「あ……一緒に行く?」
「ん!」
絨毯の上にお座りをしたまま、服の裾を掴む赤子に声を掛ける。真っ直ぐ伸ばされた両手が「抱っこ!」と言っているようで、思わず笑ってしまう。
「ふふ、抱っこね」
「あぁー!」
「やぁー!」
「あ…ま、まって、三人は…ちょっと…」
一人の子を抱き上げると、すかさず残りの二人もぐずるように両手を伸ばしてきて、その場でオロオロしてしまう。赤ん坊とはいえ、三人を抱きかかえるのは流石に厳しい。
「プティ、順番になさい。アドニス様が困っていらっしゃるだろ?」
「あ…そ、そうだね。後で、順番に抱っこするから…ね?」
彼の言葉を追いかけるように、順番で抱っこすることを約束すれば、途端に赤子達の頬が緩んだ。
ホッとしつつ、赤ん坊を抱き上げたまま彼と共に寝室へと向かう。他の赤ん坊二人も、ふわふわと飛びながら後をついてきた。
「あの、これ…なんだけど…」
そう言いながら、壁に埋め込まれたような手の平大の丸い器具に視線を送る。鈍い金色のそれは、照明を点すための装置だ。
天界の照明は『光球』という光を発する水晶を加工した物が使われており、それを更に照明用に加工された物が各部屋に配置されているのだそうだ。
大体が壁に埋め込まれた金属のような丸い器具と連動しており、それに触れることで灯りが点いたり消えたりする───と、以前彼から聞いた。
「こちらが、どうかなさいましたか?」
「えっと…昨日の夜ね、少し起きてて…その、明るくしようと思ったんだけど、灯りが点かなくて…」
「…点かない、ですか?」
「うん…」
首を捻る彼に、実際に見てもらおうと片腕に赤子を抱くと、空いた手を装置へと伸ばした。
ひんやりとした金属のような固いそれに、ぺたりと手を当てるが、やはり灯りが点ることはなかった。
「壊れちゃったのかな…?」
特に何かした覚えはないのだが…と困惑していると、腕の中の赤子がうごうごと動き出した。
「あ~」
「…触るの?」
自分が手を置いている壁に向かって小さな手が伸びる。その動きで、装置に触れたいのだろうことが分かり、手が届くようにと、壁にそっと体を近づけた。
「あ!」
小さな手が「ぺちん!」と叩くように器具に触れた。
────パッ
「あ…」
(…点いた)
瞬間、灯りが点った。
明るい室内では分かりにくいが、ほんのりと橙色に染まる天井の照明にパチリと目を瞬く。
あれ? と思っている間も「ぺちん! ぺちん!」と可愛らしい音が響くたびに、灯りがパッ、パッと点いたり消えたりを繰り返した。
「あっ…も、もういいよ」
なにがそんなに楽しいのか、きゃあきゃあと笑いながら壁の器具を叩く小さな手をそっと止めた。それと同時に、もう一度自分も手を伸ばすが───…
「…点かないね」
固く冷たいそれに手を付けるが、やはり灯りが点ることはない。
「なんでだ…ろ……」
赤子と一緒に首を傾げながら、ふと彼に視線を送れば、表情を強張らせ、顔色を悪くした彼がそこにいた。
「えっ、ど、どうし…」
「…恐れ入ります。アドニス様、どうぞ…こちらに」
目の前に差し出された手を握り締めるように繋ぐ。
手を繋ぐことにもすっかり慣れたが、彼の表情が硬いままなのが心配で、少しだけ繋ぐ指先に不安が籠った。
手を引かれるまま隣室へと移動すると、赤子達との遊び場となっているソファーの上に腰を下ろす。
そのまま彼が足元に膝をつき、細い両手が自身の手を包み込むように握り締めた。
不穏な空気が漂う中、ドキドキしながら足元に跪く彼を見つめる。
「……アドニス様」
「は、はい…」
なにを言われるのか、コクリと息を呑む。
「ご飯を食べましょう」
「………はい?」
告られた予想外の言葉に、間の抜けた声が出た。
「今日も頑張りましょうね」
「……はい…」
コトリ、と目の前に置かれた小さな皿。その中身を、ジッと見つめた。
手の平に収まるくらいの透明な器の中に、艶々とした果実の実が三粒。
一口で食べるには少し大きいその実は、見るからに瑞々しそうなのだが…どうしてか手を伸ばすことが出来ず、両手を膝の上で握り締めた。
照明を点けることが出来なかったあの日、突然彼から「ご飯を食べましょう」と言われ、訳が分からず固まってにいると、彼が説明してくれた。
照明は、確かに器具に触れるだけで灯りが点るが、それは体の表面に纏っている聖気に反応しているからなのだそうだ。
纏っていると言っても、本当に極々僅か、ただ自然にしているだけで勝手に反応する程度の聖気があればいい。特別なことなど、何もしなくていいのだ。
それを、自分は点けられなかった。
「照明を点けられないほど、聖気が無くなっているなんて…」
顔色の悪い彼の様子から、自分の状態が異常なのだということは理解した。
そこから切々と食事の必要性を説かれた。
陽を浴びているだけでは、足りないのだということ。恐らく、起きて動く分…その分しか補えていないのではと彼は言った。
イヴァニエとルカーシュカの二人から譲渡してもらった分の聖気は、例えるならマイナスだった分を“零”の状態にしたに過ぎなかったのだろう、と。
そこからプラスにしていくためには、陽を浴びること、食事を摂ること、この両方を日々重ねていく必要があると言われた。
「いっぱい、お日様の光も浴びてるのに…」
「そうですね…私も、最低限補えているだろうと思っていたのですが…」
彼の予想より、自分の中にある聖気は増えていないようだった。
本当であれば、自分から食事を求めるまで、彼は食事については黙っているつもりだったらしい。
「なにか食べたいと、アドニス様がご自身で思われた方が、私から強要するよりも良いと思ったのですが…」
そんなことも言っていられなくなったのだろう。ついでに言えば、食事のことは頭から完全に抜けていた。
食事の必要性については聞いていたが、本当に『聞いていた』だけで、自分に必要なこととして認識していなかった。長く、食事という行為を行ってこなかった弊害だろう。意識の端にも上らなかった。
「少しずつで構いません。まずは、お食事に慣れていきましょう?」
───そう言われて、今である。
「………」
テーブルの上に置かれた透明感のある薄い黄緑色の果実をジッと見つめる。
あの日から、長椅子の前には新たにテーブルが置かれた。
楕円形の白い木造りのテーブルには、中央の一部分にガラスが嵌め込まれ、その中には色とりどりの花が詰められていた。
恐らく赤子達が摘んできてくれた花の一部だと思うが、それを心から楽しんで眺めることが出来ない現状に「くぅ」と喉の奥が鳴った。
「アドニス様、大丈夫ですよ。ただの果物です。…怖い物ではありませんよ」
「ぅ…ん…」
優しく話しかけてくれる彼に、恥ずかしいやら申し訳ないやらで泣きたくなってくる。
こうして目の前に食べ物を出されるのも三日目。
今日で三度目だが、まだ一度も何かを食べれたことはなかった。
一度目も二度目も、同じように目の前に出された果実を凝視しているだけで時間が過ぎ、気づけば半日が過ぎていた。
彼は自分の自主性に任せてくれたのか、急かすようなこともせず、そっとしておいてくれたが、流石に数時間も動きが無いことに無視できなくなったのだろう。
いつものように、足元に膝をついて、優しく微笑みながら話しかけてくれるのだが───…
(……どうしよう…)
どうしても、目の前の果実に手が伸びないのだ。
食べ物が怖い訳じゃない。ただ、どうすればいいのかが分からなくて、怖気付いてしまうのだ。
(…食べ方は知ってる…)
口に入れて、噛んで、飲み込む。ただそれだけ、とても簡単なことだ。
ただ、自分はやったことがない。知らない。必要だと思った事もない。…初めてなのだ。
知らないことだから、初めてのことだから、口の中に何かを含むことも、それを噛み砕くことも、まして飲み込むだなんて…不安のような、得体が知れないからこその恐怖のような緊張感で、動くことができなくなってしまうのだ。
(どうしよう…食べなきゃいけないのに…)
必要な行為であり、本来であれば自然な行為のはずだ。
おかしいことでも、特別なことでもない。彼が心配してくれていることも、充分に理解している。
それでも、トクトクと脈打つ心臓は緊張と不安で苦しく、情けなさと恥ずかしさで泣きそうになる。
言葉で説明するには難し過ぎる緊張感に、膝の上に置いた手を意味もなくもじもじと動かした。
「…手に持ってみるだけでも、いかがですか?」
「……ん…」
一口分よりも一回りほど大きい果実を、指先でそっと摘まむ。
張りのある皮から伝わるのは、果実の新鮮さと瑞々しさ。皮の中に詰まった果肉は、きっと噛めば滴るほど果汁が零れるだろう。
(…分かってる)
至極簡単な行為だと分かっている。なにも怖いことなどないのだと分かっている。
それでも、指先に持った果実を口に運ぶことが出来なくて、悔しさと情けなさから唇を噛んだ。
こんなことで泣きたくない…そう思いつつ、熱を持ち始めた目頭に、堪らず俯いた時だった。
「アドニス様、そちらを頂いてもよろしいですか?」
「……はい…」
指先で摘まんだ果実を、彼の差し出された手の平にそっと置いた。
なにを…と思う目の前で、どこから取り出したのか、彼が小さなナイフで果実の粒を半分に切った。
二つに切り分けられた実からは途端に甘い香りが立ち、鼻孔を擽る───と、その切り分けられた片割れを、彼がそのまま口に含んでしまった。
「…!?」
驚いている間にも、シャクリ、シャクリと咀嚼する小気味い良い音が耳に届く。
殊更丁寧に、ゆっくりと味わうように嚙み砕かれた果実はコクリと嚥下され、彼の喉の奥へと流れていった。
「甘くて、とても美味しい実ですよ」
「……あ…」
…手本を見せてくれた? それとも、味見をしてくれたのだろうか?
どちらにせよ、彼が自分のために『食べる』という行為を見せてくれたのだということは分かった。
(……今、なら…)
───食べられるだろうか?
彼が手本として見せてくれたことを、真似ればいいだけだ。
切り分けられた果実の断面をジッと見つめる。透き通るような果肉からは、キラリと光を反射するように、たっぷりの果汁が滲んでいた。
今なら、彼がやって見せてくれたことが目に焼きついたばかりの今なら、自分も食べれるのでは───そう思い、コクリと喉を鳴らした時だ。
カタン…と窓辺から音がした。
「あ…あの子達…」
いつも赤ん坊達が出入りする小さな窓に、ぺったりとくっついて中の様子を窺っている小さな体が二つ。
自分が食事の練習中の間、赤子達には部屋の外に出てもらっていたのだが、そのせいでもう三日間、ろくに遊んでいない。
今まで毎日、朝から陽が沈むまで遊んでいたのだ。そろそろ我慢できなくなってきたのだろう。
自分が不甲斐ないばかりに、赤ん坊達にも余計な我慢をさせているのが申し訳なくて沈んでいると、ふいに視界の端で彼が動く気配がした。
そのまま立ち上がった彼を目で追っていると、そのまま赤子達がいる窓辺へと近づき、窓を開けた。
「え…」
入室を許された赤ん坊二人は、するりと部屋の中へと入って来ると、パタパタと一直線にこちらへ飛んできた。
そのまま腕の中へ飛び込んできた柔らかな体を抱き留めつつ、きゃっきゃっと笑う赤子と彼を交互に見遣った。
(…いい、のかな?)
確か、自分が何かを食べれるようになるまでは、この子達と遊ぶのは制限されていたはずだ。決して意地悪などではなく、自分が赤子達ばかり気にして食事にまったく集中できないのが主な原因だが…
いいのだろうか? と疑問符を浮かべていると、側に戻ってきた彼が再びナイフを手に持った。
半分に切った果実が、更に半分に切り分けられる。随分と小さくなった果肉を不思議に思って眺めていると、彼がそれを赤子へと差し出した。
「プティ、アドニス様がこちらを食べるための、お手伝いをして下さい」
「え?」
思ってもなかった言葉に呆ける暇もなく、言葉の意味を正しく理解した赤ん坊は、小さな手には少し大きいくらいの果実を掴むと、その手を勢いよく自分の口元へと伸ばしてきた。
「あ~」
「え、ちょ、ちょっとまって…っ」
確かに、つい今ほど「食べられるかもしれない」と思ったばかりだが、少し待ってほしい。
せめて心の準備を…と思っている間にも、むんずと掴まれた果実が、唇に押し付けられそうな勢いで差し出された。
「あ~ぅ」
「~~~っ!」
いくら狼狽えても、善意だけを込めた無邪気な笑顔に抗えるはずもなく、決心する間も、心の準備も出来ないまま、ほぼ反射的に薄く唇を開いた。
「あ!」
「ぐっ…」
ぐいぐいと無遠慮に唇に押し付けられていた果実は、あっけなく口の中に放り込まれてしまった。
「っ…!」
途端に咥内に広がった果実の強い香りと甘み。初めての刺激に、一瞬だけ体が強張った。
「アドニス様、大丈夫です。そのまま、噛んでみて下さい」
「ぅ…」
心配そうな表情をした彼が、行き場をなくして胸の前で固まっていた手を強く握ってくれた。
思いがけないほど強く握られた手の平から伝わる温度と、彼の真剣な眼差しから「大丈夫」という気持ちが伝わってくる。
それに勇気づけられるように、意を決して口の中の果実を嚙み潰した。
───シャク…
「っ…」
一噛みしただけで、じゅわりと広がる果汁で口の中が潤った。それに驚きつつも、二度、三度とゆっくりと咀嚼を繰り返す。そのたびに、口の中全体に甘みが広がり、同時に強張っていた体から力が抜けていった。そして───…
───コクン…
細かく噛み砕かれ、実の形を無くし、液体のように蕩けた果実は、驚くほどアッサリと喉の奥へと消えていった。
「あ……」
(食べれた…)
三日間の葛藤や緊張感はなんだったのかと、拍子抜けするほどアッサリと食物を飲み込むことができたことに暫し茫然とする。
「アドニス様…! 良かった…っ、きちんとお食べになれましたね…!」
「ぁ…う…はい……あの、ありがとう…」
ぼぅっとしているところに、彼の弾んだ声が聞こえてきて、思わず目が泳いだ。
とても喜んでくれている。それはそれは嬉しそうな笑顔で、恐らく手を握っていなければ、拍手でもされそうな勢いで喜んでくれる彼に、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまい、顔が熱くなった。
(一口食べれただけなのに…)
ようやく果実の一口…いや、一口以下を食べれただけ。
それだけでこんなに喜んでくれることに、今日までどれほど心配されていたのかと、改めて痛感した。
「あ~!」
「あ、は、はい…!」
恥ずかしさのような照れのような、落ち着かない気持ちを吹き飛ばすような赤ん坊の声にハッとする。
もう一人の赤ん坊が、果実の半分の半分を手に待っていることを思い出し、咄嗟に口を開いた。
「あぅ~」
「ん…く…」
相変わらず口の中に手ごと突っ込む勢いの赤子を押し留めつつ、復習するように、もう一度ゆっくりと口に含んだ果実を咀嚼した。
小さく口を動かし、丁寧に噛み砕いて、コクリと飲み込む。
二度目の『食べる』という行為は、一度目よりもずっと簡単にできたことに少し感動した。
「頑張って、あと二粒も食べてみましょう」
そう言った彼の手には、既に二粒目があり、ナイフで半分に切り分けられているところだった。ただ、それをもう半分に切ることはなく、先ほどよりも大きい実が、赤ん坊達の手に渡された。
流れるように渡されたそれを当然のように受け取り、自分の口元へと持って来る赤子に戸惑いつつ、先ほどよりも少しだけ大きく口を開く。
「ん…っ」
先ほどの二倍量の実は、咀嚼する音も、溢れる果汁の量も別物のようで驚いたが、じゅわりと広がる甘みを、味わって食べようと素直に思えた。
シャクリと噛むたびに口の中から聞こえる音は、先ほど彼が食べて見せてくれた時と同じ音がしていて、それが少しだけ嬉しかった。
同じように口に含んだ果実を咀嚼し、味わい、飲み込むこと三回。
最後の一口をコクリと飲み込んだところで、ようやくホッと息を吐き出した。
「……食べれた」
空になった透明の器に、思わず言葉が零れた。
「ええ、食べれましたね。本当に、良うございました」
果汁でベトベトになった赤ん坊の手を、濡れたタオルで拭いながら、彼が今までにないくらいニコニコと嬉しそうに笑っていた。
果実の実をたった二粒半。それだけしか食べれていないのに、こんなにも喜んでくれていることに、やはり嬉しさと恥ずかしさが込み上げる。
同時に『何かを食べることが出来た』ということをようやく実感し、達成感のような心地良い疲労感がじんわりと全身に広がった。
「あ…あの…、あ、ありがとう…っ」
「プティ達の『お手伝い』のおかげですね。ほら、もういいよ」
綺麗に手を拭ってもらった赤ん坊達が、抱っこをねだる様に飛んできたところを抱き留め、嬉しそうに笑うまろい頬をするりと撫でた。
「二人ともありがとう。…でも、あの、あなたが最初に…食べて、見せてくれたから…食べれたんだよ…?」
赤ん坊達が手伝ってくれたのも大きかったが、なにより彼がお手本を見せてくれたのが大事だったと思う。そう伝えれば、彼が淡い笑みを返してくれた。
「お力になれたのであれば嬉しいです。…初めてのお食事は、いかがでしたか?」
「……甘、かった…」
「…甘い物は、食べられそうでしょうか?」
「…ん」
「では、まずはお食事に慣れて頂くために、今日と同じくらいの量の果物を毎日食べることから始めましょう」
「ん…」
「勿論、途中で別の物が食べたくなったら仰って下さい。もっと食べれるようなら、量を増やしましょう。ですが、ご無理はなさらないで下さい。少しでも、何かを口にすることの方が大事ですから」
「…はい」
一つ一つの言葉を丁寧に話してくれる彼から、自身が食事を摂る大切さと、自分の身を案じてくれているからこその必死さが伝わり、きゅうっと胸が締めつけられた。
「あの…頑張って…自分で、食べれるようになるね」
「焦らず、ゆっくりで大丈夫です。少しずつ慣れていきましょう」
「はい…!」
コクリと頷けば、膝の上に座って大人しく話を聞いていた赤ん坊が、きゃらきゃらと笑いながらパチパチと手を叩いた。
その姿が「がんばって」と言っているようで、自然と頬が綻んだ。
この日から日に一度、三粒~五粒、もしくは一切れか二切れほどの色んな果物を口にするようになった。
最初の三日はまだ慣れず、少し緊張したが、それでも一口目を口に入れてしまえば、その後はすんなりと食べることが出来た。
それでも、まだ自分の手で口に運ぶのは難しく、赤ん坊達に手伝ってもらって食べる日が続いた。
一週間が過ぎたところで、果物の他にミルクも飲むようになった。
大きなカップ半分に入った温かなミルクに、蜂蜜をスプーンにひと匙。蜂蜜がトロリと溶け込んだ甘いミルクを、朝一番にゆっくりと時間をかけて飲む。
彼から手渡された温かなそれは、手に持っているだけでもホッとして、赤子達の力を借りなくとも飲むことが出来た。
更に三日が過ぎた頃、初めて自分の手で果物を食べることが出来た。
その日出された果物は、初めて食べたあの薄い黄緑色の実で、無意識の内に手が伸びていた。
指先で摘んでしまえば後は呆気ないほど簡単で、いつも赤ん坊達がそうしてくれていたように、摘んだそれを自然と口元へと運んでいた。
初めて自分の手で食べた果実は、あの日と同じように甘く───口の中に広がる果物の味を、生まれて初めて『美味しい』と感じた。
「…これ、美味しい…」
「…っ、アドニス様…!」
ポロリと零れた言葉は、すぐ側に控えていた彼にも聞こえていたのだろう。感極まったような声が返ってきた。
「美味しいですか?」
「…うん。あの…たぶん……これ、好き…なんだと、思う」
「ああ…、良うございました…本当に…!」
食べた物を「美味しい」と、「好き」と言っただけで彼がすごく喜んでくれて、本当どれだけ心配されていたのかと、嬉しさと申し訳なさと恥ずかしさで、「うぁ」と音にならない情けない声が口から漏れた。
「あの…あ、ありがとう…あの、これからも、ちょっとずつ、好きな食べ物とか…増えたら、嬉しい、から…色々、食べさせて下さい」
「ええ、勿論。喜んで」
「あ…でも、あの、いっぱいは、食べれない…かも…」
「少量でもいいのです。少しずつ、ゆっくりお好きな物を増やしていきましょう?」
「うん…!」
優しく微笑んでくれる彼に、つい勢いよく返事をしてしまい、慌てて口元を押さえる…が、それでも口角は緩く上がったままだった。
好きな物が増える───それは、とても素敵な言葉だった。
それから更に十日が過ぎ、朝はミルクを飲み、昼には果実を食べるという行為を繰り返し、少しずつ少しずつ、陽の光を浴びるという行為以外の方法で栄養を取り込んでいった。
そうして初めて果実を口にした日から、二十日が過ぎた頃…
「…っ、点いた…!」
「はい! 頑張りましたね、アドニス様」
少しは聖気が回復しているかもしれない…そう思い、恐る恐る照明を点けるための器具へと手を伸ばした。
ドキドキしながら見つめた天井の照明は、装置に手が触れた瞬間、パッと橙色の光を放った。
二十日前には触れてもなんの反応も無く、彼の顔色を悪くさせていた“照明を点ける”という、極々簡単な、されど自分には困難だった行為に、初めて成功したのだ。
「やった…良かった…!」
「ええ、本当に…本当に良かったです」
「いっぱい心配してくれて、ありがとう。…あの、これからも、ちゃんと、ご飯は食べるからね…?」
「ふふ、はい。是非お願い致します」
少量の果物とミルクしか食べていないので『ちゃんと』と言えるのかは分からないが、それでも二十日で照明を点けられる程度には回復できたのだ。
目に見えて自身の中で変化が起こっているという事実は、思っていた以上に嬉しい出来事だった。
「あ~にゃ!」
「…みんなも、食べるのいっぱい手伝ってくれて、ありがとう」
今日も腕の中に収まったまま、パチパチと手を叩きながら笑う赤ん坊の頬を撫でる。
今はもう自分で食べられるようになったが、食事の間中、何か言いたげにこちらをじっと見つめていた瞳を思い出し、クスリと笑みが零れた。
「…たまには、また食べるの手伝ってね?」
「だい!」
きゃあとはしゃぎながら、胸に額をぐりぐりと押し付ける赤子の小さな頭をそっと撫でる。
(良かった…)
とても些細な、小さな小さな変化だ。
それでも、少しだけ前に進めたような、ちょっとだけ前向きになれるような、明るい気持ちになれた。
僅かにでも聖気が回復したことに安堵していた数日後───彼から、大天使の二人に会ってみないかと、提案を受けた。
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薄い黄緑色の果実=シャインマスカット。
東雲が好きな果物を最初に食べてもらいました(о´∀`о)
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