天使様の愛し子

東雲

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リリィ・ラムの産ぶ声

32.夜明けのリリィ・ラム

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「今夜、プティ達とお会いになりたいそうです」

定例となった話し合いの場で、アドニス付きとなった天使からの報告を受けたのはまだ陽も高い時間帯だった。

「プティ達と会うのは構いませんが…今夜? 夜ですか?」
「はい。アドニス様が仰るには、夜でないと会えないそうで…」

その言葉に疑問が浮かぶ。報告する彼の表情にも、疑問のようなものが浮かんでいるが、それもそうだろう。
夜になれば各所の寝床で寝ているはずのプティ達とどうやって会おうというのか、純粋に不思議だった。

「恐らくお部屋のバルコニーに、プティ達が現れるのではないかと思うのですが…」
「ああ…ああ、そうでしたね…」

彼から聞くアドニスの様子は、聞けば聞くほど別人のようで、想像すら出来ない姿に今ではもう『そういうものだ』と割り切って聞くようになっていた。が、それでも驚くものは驚く。

毎夜プティ達と遊んでいたというアドニス。
あのアドニスにプティから近づいていく───以前ルカーシュカから聞いた話を知らなかったら、とても信じられなかっただろう。
いや、今とて信じられない気持ちだが、今日あった出来事を話す彼の様子にも、静かに話を聞いていたルカーシュカにも動揺は見られず、自分ばかりが混乱している現状に、正直動揺の方が勝ってしまった。
何故当たり前のように受け入れられるのか…そちらの方がよほど信じられないと思いつつ、聞いた話を頭の中で整理する。

「会うと言っても、今日の今日で…ましてアドニスが会いたいと言っているだけなのでしょう? どのようにして落ち合うつもりなのでしょう?」
「申し訳ございません。お話しを終えた後、すぐにお休みになられてしまいまして、そこまでお伺いできておりません」

アドニスの言う毎日会っていたというのは、恐らくずっと前の、数年前の話だろう。
その時ならばいざ知らず、時間が経ってしまった今、どのようにして会うつもりなのか、アドニスの考えが分からなかった。

「……たぶん、会えるぞ」

それまで黙って話を聞いていたルカーシュカが、静かに口を開いた。

「何故そう言えるんです?」
「…恐らくだ。だが…たぶん、アドニスの望むようにしてやれば、会えるはずだ」

(だから何故そう言えるのです)

言葉を濁すルカーシュカをじっと見据えれば「後で話す」と言ったきり口を閉じてしまった。

「…仕方ありませんね。まぁ、いいでしょう。今はアドニスの望むようにしておやりなさい」
「畏まりました。それと、恐れながら私も、今からお休みを頂いてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。明日もアドニスに合わせて、昼の間に少し寝なさい」
「ありがとうございます」

一言二言交わした後、静かに部屋を出ていく側仕えを見届けると、ルカーシュカへと向き直った。

「で? あなたは何を知っているんです?」

アドニスとプティ達が日々交流していたという話を聞いている時から、どうにもルカーシュカの様子はおかしかった。動揺する素振りもなく、むしろどこか確信めいたような様子すらあったのだ。

「俺達も、今夜立ち合うぞ」
「はい?」

質問の答えになっていない返答に、思わず間の抜けた声が出てしまった。

「立ち合うって…私達は側に寄れないでしょう」
「言い方が悪かったな。離れたところから見るだけだ」
「…なぜ?」
「話に聞いただけじゃ信じられないだろう? お前も、直接見た方がスッキリするはずだ」
「それはそうですが…」

信じられないという気持ちが顔に出ていたのだろうか?
見透かされたような気まずさに視線を逸らしながら、ふとルカーシュカの言い方が気になった。

「あなたは、見たことがあるのですか?」
「…ない。それも後でまとめて話す」
「今ではダメなのですか?」
「直接見た方が早い。それより、お前も寝とけ。たぶん明け方まで付き合うことになるぞ」

それ以上語ろうとはせず、ルカーシュカは席を立ってしまった。今夜のことも決定事項になっていることに溜め息を零しつつ、それでも心のどこかで少しだけ浮き立っている自分がいた。
二ヶ月ほど前、泣き叫んで我々を拒絶したアドニス。
あの日の怯えた瞳と、か細い泣き声が、自分が見たアドニスの最後の姿だ。
あれからどうなったのか、話に聞く姿は想像すら出来なくて、ずっと気になっていたのだ。

───この時はただ、今のアドニスに興味がある程度で、アドニスがプティを望む意味も、そこにどれだけの想いがあったかも、深く考えてはいなかった。





その日の夜、月明かりが眩しい夜の大地にそっと降り立った。
ルカーシュカに落ち合う場所として指定されたのは、宮廷から幾分離れた木立の中だった。その周辺を見回していると、頭上から声が降ってきた。

「こっちだ」

太い枝の上に立つルカーシュカの姿を捉え、バサリと翼は広げる。それほど高くない木に登るのは容易く、羽ばたき一つでルカーシュカの隣へと着地した。

「随分と遠いですね」
「『遠見』を使えば問題ないだろ。万が一でも、アイツに気づかれない方がいい」

そう言ったルカーシュカの視線の先には、木々の間から覗く宮廷の端が見えていた。壮大な宮廷のその裏側、灯りが点る三階の端部屋がアドニスのいる場所だ。
そのままでは人影も見えるか見えないかという距離だが、聖気による身体強化を行えば、アドニスの表情も問題なく見えるだろう。

「よくこのように、ちょうど見える場所を知っていましたね」
「俺が作った」

(…俺が作った?)

聞き捨てならない言葉に口を開こうとした時、強化した視界の端に僅かに動くものが映り、そちらに意識を向けた。

「…出てくるぞ」

視線の先に見える薄暗い夜の中、その一角だけが一際目立つ淡い橙色の光を放っていた。
カーテンの向こう側、うっすらと動く人影が窓辺へと近づいてくるのが見える。
ゆっくりと開かれた窓の隙間、そこから漏れる明るい光が、その場に立つ人物の姿をより鮮明に映し出していた。


「───」


そこに現れたアドニスの姿に、思わず息を呑んだ。
側仕えの彼に手を引かれ、ゆっくりと窓の外へと出てきたアドニスは、一目でその違和感に気づくほど、まったくの別人に見えた。

ただ歩いて立っているだけ…ただそれだけなのに、その動作の一つ一つがひどく弱々しく、オドオドとしていた。
何か珍しいものがある訳でもないだろうに、キョロキョロと辺りを見回す仕草は幼い子どものようで、なんとも言えない気持ちにさせた。
困ったような表情で、側に控える天使に何事か話し掛ける口の動きは驚くほど小さく、その動きだけで発する声すら弱々しいものなのだろうということが見て取れた。

そもそも、アドニスがあのように従者の者と接しているところなど見たことがない。
まして手を引かれて歩くなど、あのように穏やかな表情で言葉を交わすなど、今まで一度も───…

じわりと滲んだ焦燥感に、心臓の鼓動の音が大きくなっていく。
従者の彼と話すアドニスの表情はとても穏やかで、初めて見るその柔和な表情に、心臓がドキリと跳ねた。
見てはいけないものを見てしまったような感覚にそっと視線を外すと、アドニスを見つめたまま動かないルカーシュカをチラリと見遣った。

「……彼は、本当にアドニスですか?」
「…アドニスにしか見えないが、アイツには見えないな」

矛盾しているようで的を得ている言葉に、ルカーシュカも自分と同じ気持ちなのだと、いつの間にか詰めていた息をホッと吐き出した。
それ以上なんと言えばいいのか分からず、遠くに見える二人の姿を眺め続けた。一瞬、視界から側に控えていた彼の姿が消えたかと思うと、部屋の灯りが落とされた。

(消してしまうのですね…)

月明かりでほんのりと見えるだけになったその輪郭に目を凝らす。
羽織らせてもらったローブで身を守るように体を包み、小さくなって椅子に座っている姿はどこか不安気で、どこまでも脆弱に見えた。

そこに、記憶に残るアドニスの尊大さや傲慢さ、攻撃的な雰囲気は微塵も感じない。
表情も仕草も、椅子の座り方一つ取っても、まったくの別人にしか見えなかった。
記憶を失っただけで、ここまでその者の本質が変わることがあるのだろうか…理解するには到底困難な光景に、不安と焦燥が混じったような感情が渦巻く。

目に映るアドニスの姿に、嘘や偽りはないのだろう。
それほどまでに自然で、それでいて記憶との相違はあまりにも不自然で、もっと見ていたいような、これ以上見ていたくないような、相反する感情に駆られた。

と、その時、大人しく椅子に座っていたアドニスが急に立ち上がり、辺りを見回し始めた。

「なんでしょう?」
「……プティだ」

ルカーシュカの言葉に、アドニスの姿に視点を合わせていた視界を広げた。
周囲まで広げた視界の中、小さな白い体が、ふわふわとアドニスの元へと近づいていくのが見えた。

「プティ…本当に…」

疑っていた訳ではないが、それでも視界に映った赤ん坊の天使の姿に驚いた。
本当に、プティからアドニスの元へと通っていたのだ。本来であれば、眠っているであろうこのような夜更けに…

「なぜ…なにか、決め事…約束でも交わしていたのでしょうか?」
「約束なんてしてない」

思わず零れた疑問に、すかさず返ってきた言葉。
どういう意味かと問う前に、視界の中で動いたアドニスの姿に思考を奪われた。


辺りを見回していたアドニスがプティの存在を視界に捉えたのであろうその瞬間、アドニスの目が大きく見開かれ───潤んだ金の双眸から、ポタリと大粒の涙が零れた。


くしゃりと歪んだ表情も、プティへと伸ばされた両の腕も、必死に駆け寄ろうとする姿も…その全てに、深く深くプティを求めていたのであろう溢れんばかりの感情が籠っていて、言葉を失った。

そんなアドニスの元へと飛び込むように羽ばたいていくプティ。
広げられた腕の中、飛び込んできた小さな体を抱き留めると、アドニスはその場に泣き崩れた。

手摺りの隙間から見える体は小さく蹲りながら、プティの体を強く抱き締めていた。
表情が見えなくとも分かるほど泣いて震える身体。
そこから伝わる深い情に、知らず知らずの内に拳を握り締めていた。

(彼は……)

アドニスは、この日をどれほど待ち望んでいたのだろう? どれほど願っていたのだろう?
プティに会いたいと願っているなら、会わせてやればいい…そんな風に軽々しく考えていた自分に、苛立ちすら覚えた。

どのような気持ちで、どれだけの熱量で、どれほどあの小さな天使達を求めていたのか───聞こえないはずの泣き声に、胸が締め付けられるような思いだった。

「っ…」

気づかぬ内に頬を伝って零れていた一滴を、慌てて指先で拭った。
プティを抱き締めるアドニスを見ているだけで、何と名を付ければいいのかも分からない感情が沸き上がり、堪え切れず涙が溢れていた。

(こんな、ことが…)

愕然としていると、黙って成り行きを見守っていたルカーシュカが、呟くように声を発した。

「…いつも、ああして会いに来ていたんだ」
「いつも、とは…」
「毎日だ。恐らく、アドニスが会っていたという時も、アドニスがあの部屋の中から出てこなくなった後も、毎日毎日…ああやって、夜になればプティ達はあの窓辺に集まっていたんだろうな」
「…アドニスが、いなくとも…? いないのに何故…」
「昨日はいなくても、今日はいるかもしれないだろう? 今日はいなくとも、明日はいるかもしれない……そんな希望だけで、プティ達はこの数年間、毎夜あの部屋を訪れていたんだろう」

ルカーシュカの言葉に絶句するほかなかった。
アドニスがプティ達を望むように、プティ達もアドニスを望んでいた───そんな、まさか、という思いが込み上げるが、言葉を言い終え、唇を噛み締めるルカーシュカの瞳も僅かに水気を帯びており、そこに滲む後悔のような念に、何も言えなくなってしまう。

「…何故、それをあなたが知っているんです?」
「前に、アドニスとヴェラの花畑で会ったことは話したな?」
「ええ」
「あれは随分前の話だが、プティ達がああやってあの部屋に通っているのを知ったのはつい最近だ。…アドニスに会いに行った日の、数週間前か」
「…ああ、あの日の…」
「夜の見回りの時、あの部屋の近くまで寄ってみたことがあるんだ。その時、ああして窓の外でアドニスを待ってるプティ達のことを知ったんだ。それから毎日来てみたが、プティ達が来ない日は一日も無かった。それも決まって夜だけだ。昼間は誰一人近寄らないのに、夜になると何人も集まってきて…きっと、昼間はアドニスが部屋から出てこないことを知っていたんだろうな」

その声には、その光景を何日も何日も眺め続けたのであろう寂しさのようなものが滲んでいた。

「…どのくらいの間、そうしていたのでしょう」
「ずっとだ」
「……ずっと、とは…?」
「ずっとだよ。…もしかしたら、俺がヴェラの花畑でアドニスを見た日から、かもしれないな…」
「それは、二年以上前の話では…」
「…あの部屋のバルコニーに、一度降り立ってみたことがあるんだ。なにがそんなにプティ達を引き寄せるのか気になってな…そしたら、窓の隅にたくさんの花が積まれてたんだ」
「花?」

そういえば、いつだったかルカーシュカがアドニスを窓の外に出してほしい、と従者の彼に言っていたことを思い出す。
あの時も、ルカーシュカは多くを語らなかったが、もしやその花を見せようとしていたのだろうか?

「ああ。ただの、そこら辺に咲いてる花が、小さな山みたいになってて…ああ、これもプティ達が摘んできたんだろうなって、一目で分かったよ。…その花の下の方は、砂白シャハクになってた」
「…!?」
「花が結晶化するまでに、最低でも一年は掛かる。それも少しの量じゃない。積み重なった花の下にあって見えるほどの量だ。…もう、分かるだろう?」

自嘲めいた、苦々しい笑みを零すルカーシュカに、返す言葉を失った。
もしもルカーシュカの言葉が真実その通りなのだとしたら、プティ達は数年の間、毎日毎日いつ会えるかも分からない…いや、会えない可能性が高いアドニスに会おうと、毎夜あの部屋を訪れていたことになる。
贈るはずの花は、渡す相手がいない為に、窓辺へと積み重ねられていったのだろう。
そうと分かっていて、それでも花を贈ることも、何百日と続く訪問も止めなかった。


すべては、アドニスに会いたいが為に───…


「約束なんて必要ないんだ。アドニスがただ、部屋の外に出るだけ…それだけで、必ず会えたんだ」

プティが来ない日などないのだから…そう続く言葉は、非常に重苦しいものだった。
きっと、アドニスがあの部屋に閉じ籠ってしまった原因が自分にあると、己を責めているのだろう。
そのような確証は無いのに、だがどのような言葉を掛けるべきなのかも分からず、言葉に詰まってしまった。

スッと動いたルカーシュカの視線の先を追うように、再びアドニスへと視線を戻す。
いつの間にか元いた場所へと移動し、プティを膝の上に抱いたアドニスの瞳は、相変わらず涙を零していた。
こちらに背を向けているプティの表情は見えないが、泣きながら、それでも笑おうとしているアドニスの表情から、どんな顔をしているかは察することができた。


───直後、アドニスの体が前屈みになるように動いた。
身を屈め、プティにそっと顔を寄せるアドニス。
その唇が、赤ん坊の小さな頭に触れ───そうして、とても嬉しそうに微笑んだのだ。


「───!」

衝撃的だった。この短い時間の間に何度言葉を失ったか、その中でも一等衝撃的だった。

あのアドニスが、プティへキスを贈ったのだ。
その表情はとても幸せそうで、その行為にどれほどの愛情が籠められているのか、苦しくなるほど伝わってきた。そしてなにより───…

(……綺麗だ)

涙を流しながら、それでも溢れるほどの慈愛に満ちた微笑みは、息を呑むほど美しかった。
相手があのアドニスだと分かっていても、それでも目を奪われるほどに綺麗だと思ってしまった。
横を見れば、ルカーシュカも目を見開いたまま固まっていた。…同じものを見たのだ、そういう反応にもなるだろう。

そうしている間にも、プティ達は次から次へと現れた。
最初は皆一様に驚いたような表情でアドニスを見つめ、それから嬉しそうにその胸へと飛び込んでいく。そうして抱き留めたプティを、アドニスは一人ずつ抱き締め、等しくキスを贈った。

どこまでも優しく、愛しさを籠めた抱擁と口づけが続く光景を、瞬きも忘れ、茫然と眺め続けた。

泣きながら、それでも微笑みを絶やさないアドニス。
その表情は今まで一度だって見たことのない、穏やかで優しいものだった。




どれほどか時間が経ち、空が夜明け前の色に染まるまで、ルカーシュカと二人、言葉数も少ないままアドニスの様子を眺めて過ごした。
やがて眠っていたプティ達が目を覚まし、アドニス達といくつか言葉を交わした後、まだ薄暗い景色の中を飛び立っていく。
小さな天使達を見送っていたアドニスがまた泣き出し、従者の彼が慌ててその背に駆け寄り、手を取ってあやすように宥める姿は、もう何に驚けばいいのか分からないほどだった。


アドニスが部屋の中へと戻っていく姿を見届けると、ルカーシュカと共に離宮へと帰ってきた。
夜通し起きていた体は休息を求めていたが、夢を見たような現実に感情は昂っていて、頭は随分と冴えていた。

「…ひとまず、少しは元気になったようだな」
「…最初に出てくる感想がそれですか?」
「別人にしか見えないのはもう今更だろう。俺だって混乱しているが、どうしてアドニスがあそこまで変わったかなんて、いくら考えても分からないんだ。諦めろ」

ルカーシュカは分からないことを考えるだけ無駄だ、と早々に思考を放棄したらしい。確かにその通りなのだが…

「はぁ…」

たった一晩で、あまりにも信じがたい光景を何度も見て、その情報量の多さに脳は疲弊していた。
目を閉じ、記憶に新たに刻まれたアドニスの姿を反芻する。
穏やかに微笑み、愛し気に泣き笑う見たこともない表情を思い返していると、扉をノックする音が耳に届いた。

「入りなさい」
「失礼致します」

予想していた通り、入室してきたのはアドニスに付けた側仕えの天使だった。

「おはようございます…で、いいのでしょうかね。ご苦労様でした」
「おはようございます。イヴァニエ様、ルカーシュカ様。…お二人とも、お休みになる前にお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「おや、バレていましたか」
「いらっしゃるような気配がしただけでしたが、このお時間にお二人が揃っていらっしゃいましたので…」
「ああ、そういえばまだ早朝だったな」

時間の感覚が麻痺していることに軽く頭を振り、息を吐き出した。

「アドニスはいいのですか?」
「もうお休みになられました」
「あれだけ泣けば体力も使うだろう。…泣き疲れてすぐ寝れるとは、幼い子どものようだな」

何気なく発したのであろうルカーシュカの言葉に、彼がピクリと反応した。

「…なにか、気になることがありましたか?」
「……はい。アドニス様のことで少し気になる…いえ、気づいたことがあります」
「聞きましょう」

ルカーシュカと二人、姿勢を正し彼の言葉を待った。
真剣なその眼差しに、嫌でも高まる緊張感が流れること数秒、彼が静かに口を開いた。


「アドニス様ですが、プティにとてもよく似ている気がします」


思ってもいなかった言葉に、軽く目を見開く。が、彼の表情は真剣で、どこか納得しているようにも見えた。

「似ているとは、どういうことだ?」
「アドニス様は、私達天使の知識はお持ちでないのに、人間とはどういう存在か、というその在り方はご存じでいらっしゃいました」
「「!」」
「昨夜、プティ達が眠っている間、いくつかお話しをしたのですが、人間ひとの子は人同士が交わって産まれてくることや、プティのように一人では動けないこと、赤ん坊の姿で生まれ、老いて命を終えるといった、その流れはご存知だったのです」
「……一体なんの話をしているのです」
「申し訳ございません。アドニス様からプティについて、いくつかご質問を受けている間にそのような流れに…」
「今はその話はいいだろう。それよりも…その知識を持っているというのは…」
「はい。プティ達と同じです」

プティ───純天使は、母提樹から人間界の知識を与えられた状態で生まれてくる。
人間とはどういう生き物か、人間界にはどのような生き物がいるか、どのような生態で、どのような力を持ち、どのような知識を持っているのか───生活、習慣、習性、自然現象、人間界に溢れるありとあらゆる物の名前…そういった膨大な量の情報を、純天使は生まれた時には既に有している。そういう風に生まれてくるのだ。

人の子と姿形はそっくりでも、天使と人間は別の生き物でしかない。
生まれた瞬間から一人の天使として生き、誰かの手によって育てられるという概念の無い世界で成長していく為には、必要な知識なのだろう。
そうした知識を基礎とし、天界の在り方、天使としての在り方、人間界にはあって天界には無い物、逆に天界にはあって人間界には無い物を、他者と触れ合う中で少しずつ学んでいくのだ。

今のアドニスは、そんな生まれたばかりの純天使に酷似している、と彼は言う。

「他にも、以前に粛法しゅくほうについてご説明する際、それは魔法ではないのか、と言われたこともございました」
「魔法の知識はあるのか?」
「知識があるというより、アドニス様にとって不思議だと思う現象の名称として思いついたのが『魔法』という言葉だったのかもしれません」
「粛法という言葉は知らないのに、魔法という言葉は知っている…」
「はい。お食事についても同様です。食べなければ餓死する危険性はご存知でしたが、飢えを感じないから大丈夫だと思った、というのも…」
、という考えに当て嵌めて考え、そこから逸脱していたからこそ必要のないものと考えてしまった…ということでしょうか」
「恐らくは」

彼の考察に暫し考え込む。
確かに、不自然なまでのアドニスの記憶の喪失と知識の欠如を考えれば、その在り方がプティと似ているようにも思えた。

「感情をとても素直に表に出していらっしゃることも気になったのですが…一番プティのようだと思ったのは、聖気しょうきについてです」
「聖気?」
「はい。お二人がアドニス様に聖気を譲渡した際、拒絶されるような感覚は一切無かったと伺っております。…もし、もしも、アドニス様の聖気が、プティ同様の色に変化しているのであれば…」
「…!」
「…相性は関係なくなりますね」
「はい」

天使一人一人、異なる性質を持つ聖気は、成長と共に個々の色へと染まり、定着していく。
本当に色を宿している訳ではなく、その性質の相性を分かり易く表現しているに過ぎないのだが、その中で唯一、どのような色でも受け入れられる聖気を持つ者がいた。それが、純天使だ。

純天使の聖気は、いくつもの色が混じり合った美しく煌めくオパール色。何者にもなれる可能性の色。
それ故に、他者から受ける聖気がどのような性質であったとしても、相性に関係なく受け入れることが可能なのだ。

「アドニスへの聖気の譲渡は、アドニスの体内に残る聖気が、反発するほども残っていなかったからだと思っていたのですが…」

自分とルカーシュカ、二人分の異なる性質の聖気を一切弾くことなく受け入れた件については、我々の間でも仮説を立てていた。
聖気の相性によって反発するのであれば、聖気が尽きる寸前まで枯渇したアドニスには、弾くほどの力も無かったのではないか?
空っぽの状態だったからこそ、すんなりと受け入れられたのではないか?
そのように考えていたのだが───…

「記憶の欠如だけでなく、聖気そのものまでプティのように変質しているのだとしら…」

辻褄が合う。…合ってしまう。
だがだとすると、別の問題が生まれてしまう。

「待て、聖気がプティのように変質するなど、それこそあり得ないだろう。それじゃあ中身が丸ごと変わっているような───」

言いかけて、言葉を切ったルカーシュカの顔色がどんどんと悪くなっていく。
その強張った表情に、眉間に皺が寄った。


『中身が丸ごと変わっているようなものだ』


その言葉に心当たりがあり過ぎるのだ。

表情も、仕草も、言葉遣いも、何もかもが記憶しているアドニスの姿と、あまりにもかけ離れている存在。

───まるで別人のようだ、と何度も頭の中を過った言葉が、とてつもない重みを帯びてズシリとのし掛かった。

(…あり得ない…そう思うのに…)

記憶を失っているだけだと思っていたアドニス。
だが、ただ記憶を失っていると仮定するには、あまりにも不自然でおかしかった。

今までの記憶が一切なく、自身の名を知らないだけならまだしも、生きる為に必要な行為も知らず、それどころか自身が天使であることも知らなかった。
にも関わらず、天使が生まれてくる時に有している知識だけは持っている───真っ新まっさらとも言える状態は、いっそ嫌になるほど純天使とよく似ていた。

しかしそうなると、記憶を失っているのではないか、というその考えから間違っていた可能性が出てくる。

記憶を失ったのではなく、もっと根本的なところに問題があるのではないか?
何か目に見えない部分が変質しているのではないか?
そんな考えが脳裏を過ぎった。だが、だとしたら───…

(…元々あったアドニスの記憶は、どこに消えたのです?)

記憶も、アドニスの荒々しい気性も、粗暴な思考も、一体どこに消えてしまったのか?
いや、消えた訳ではなく、やはり忘れているだけなのか?

(……考えたところで、どれも憶測でしかない)

纏まらない思考に頭が混乱してくる。
皆黙り込んでしまった部屋の空気は重々しく、不釣り合いな穏やかな朝の陽射しがより一層気分を落ち込ませた。

「…考えたところで、俺達にはこれ以上どうしようもない。記憶を探るにしても、バルドル様でなければ不可能だ」
「…そうですね」

身体や聖気に残る、その者の記憶───それを探り、過去の記憶や感情に触れることが可能なのは、バルドル神だけだ。その術も、対象の体に触れなければ読み取れない。

「アドニスをあの部屋から出すのは…」
「難しいかと思われます。夜であればバルコニーまでは出れるようですが、昼間は窓の外に出るのも怖いと仰っていました」
「…なるほど」

となると、バルドル神がアドニスの元を訪れる必要がある。
神を呼び出す、ということに抵抗感はあるものの、バルドル神本人はそういったことを気にされないので、その点は問題ないだろう。
問題があるとすれば、バルドル神が自由に動ける時間が限られているということだろうか。
ご自身が多忙ということもあるが、なにより問題なのはバルドル神の周囲には常に誰かが控えており、出入りする大天使も多く、一人になれる時間があまりに少ないのだ。
下手にバルドル神を呼び出せば、なんの用だと問われるのは必須だ。
ならば宮廷内から人がいなくなる夜の時間を見計らって…とも思うが、仮に誰にバレることもなくアドニスの元を訪れられたとして、今度はアドニス側に問題がある。

(私達の時のように、拒絶するようなことがあれば…)

泣いて叫んで、逃げるように自分達から離れていったいつかのアドニスの姿を思い出す。
あの時のように、アドニスがバルドル神を拒絶すれば、恐らくバルドル神は、それ以上アドニスに近づこうとはしないだろう。
厳しい方だが、同時にとてもお優しい方だ。アドニスが泣いて嫌がれば、それ以上は近寄れなくなってしまうだろう。
その結果、ようやく笑うようになったアドニスに新たな恐怖を植え付けるようなことになれば、また他者を遠ざけるようになってしまう可能性もある。

そうでなくとも、もしもアドニスを刺激したことで、過去の記憶を取り戻すようなことがあれば、バルドル神を目の前にした時、どのような行動に出るのか想像したくもない。
例え天使の力を失ったとしても、暴力に訴える可能性は零ではないし、もしそのような行為に及べば、バルドル神の身に傷がつかなかったとしても、危険な目に遭わせてしまうことに変わりはない。
なにより、そうなった場合、誰より心を痛めるのはバルドル神だ。

(今のアドニスを見ている限り、後者の可能性は限りなく低いですが…)

それでも絶対無いとは言い切れない
あまりにも不確定な要素が多過ぎて、どのように行動するのが最適なのか、判断することも出来ない。

「…多少強引でも、無理やり引き合わせるべきか?」
「正直そうしたいですが…」

言いかけて、チラリと従者の彼を見遣れば、その強張った表情から、強引に事に及ぶのはアドニスに負担が大き過ぎるのであろうことが見て取れた。

「…まずは彼から聞いた話も合わせて、バルドル様にご報告しましょう。記憶を失っているだけなのか、それとももっと別の何かが変わってしまったのか…アドニス本人が何も分かっていない状態では、バルドル様に記憶を探って頂く以外、手の出し様がありません」
「…そうだな」

ルカーシュカと共に、揃って深い溜め息を吐き出した。
幸い、今すぐどうこうしなければいけない、というほど切羽詰まった問題ではない。時間はある。
アドニス自身が外へ出ようとしない限り、恐らく他の者達がアドニスを意識することもなければ、思い出すこともないだろう。
完全に放置されていたからこそ、誰かの介入や横槍を受ける心配もなく、あの部屋の中であればアドニスも余計な刺激を受けずに過ごせるのは、不幸中の幸いだった。

「バルドル様と引き合わせるにしても、今のままでは色々と心配です。せめて私達と対面できるようになるまで、慣らすことから始めませんか?」
「…まずはそこからか」

元々、アドニスの自分達に対する恐怖心が薄れるのを待って、顔を合わせる場を設けるつもりではいたのだ。
今すぐには無理でも、時間を掛ければ少しは歩み寄ることも可能だろう…と思いたい。

「アドニス様がお二人に対して強く拒絶されている様子はございません。今はまだ難しいかと思いますが、もう少し精神的に落ち着かれましたら、お会いになれないか、ご提案してみたいと思います」
「顔を合わせることは可能でしょうか?」
「恐らく可能かと思われます。イヴァニエ様とルカーシュカ様が、聖気を分けて下さったことで、アドニス様の恐怖心も和らいでいるように見えますので…」
「アドニス次第か…」
「明日からは、プティ達の訪問も昼間に変えて、なるべく接する時間を増やしていきたいと思います。プティ達とふれあう時間が増えれば、それだけアドニス様も精神的に安定するご様子ですし…」
「互いに好き合っている様だし、一緒にいた方がアドニスも安心するんだろう。良い薬だ。なるべくアイツの望むように遊ばせてやってくれ」
「承知致しました」

(…アドニスとプティがああして戯れていることに、違和感を感じなくなっていることが驚きですね)

当たり前のことのように話しをする二人に、もはや違和感も感じない。
プティが特定の誰かを好んで寄っていくことも珍しく、その相手がアドニスであることもまた驚きだった。
まして以前のアドニスであれば、絶対にあり得なかった組み合わせだ。プティはアドニスから逃げるだろうし、アドニスもプティのことなど気にも留めていなかっただろう。
それも、昨夜の光景を目にした今では、自然と受け入れられていることに自分で驚く。

「…記憶を失っているのではなく、もっと別の何かが変わってしまったと考えて、今後は接していきましょう。失ってしまった知識については、あなたから教えてやってくれますか?」
「畏まりました」
「そういえば、食事は摂ってるのか?」
「いえ、まだ何も召し上がっておりません。出来ましたら、アドニス様からお求めになって下さるのを待とうと思っていたのですが…」
「…忘れてるんじゃないか?」
「…はい、恐らく。また折を見て、お食事についてはお勧めしたいと思います」
「やることが山積みですね…」

はぁ…と思わず零れた溜め息は重い。それでも、少しずつだが良い方向へと向かっているはずだ。
少なくとも、怯えて部屋に閉じ籠っていたアドニスが、プティ達と接することで、穏やかに笑えるようにはなったのだ。それは、素直に喜ばしいことだと思えた。

(いつか、私達とも怯えず話せるようになればいいのですが…)


ふと思い出すのは、小さな天使達と笑い合うアドニスの微笑みだ。
穏やかに、優し気に、愛し気に、目一杯の愛情が籠った金の瞳は、とても綺麗だった。

それと同じものは求めない。
せめてあの黄金色の瞳が、怯えて揺れることがない様、会ってただ言葉を交わすというささやかな願いが、一日でも早く叶うことを祈るばかりだった。
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フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

若さまは敵の常勝将軍を妻にしたい

雲丹はち
BL
年下の宿敵に戦場で一目惚れされ、気づいたらお持ち帰りされてた将軍が、一週間の時間をかけて、たっぷり溺愛される話。

悪役令息の七日間

リラックス@ピロー
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唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。 気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

朝起きたら幼なじみと番になってた。

オクラ粥
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寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。 隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた 思いつきの書き殴り オメガバースの設定をお借りしてます

後輩が二人がかりで、俺をどんどん責めてくるー快楽地獄だー

天知 カナイ
BL
イケメン後輩二人があやしく先輩に迫って、おいしくいただいちゃう話です。

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