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リリィ・ラムの産ぶ声
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「はぁ…」
見上げた満天の星空に感嘆の溜息が零れた。
随分と久しぶりに目にした夜空は、記憶に残っていたよりもずっと綺麗で、キラキラと輝く無数の星の数すら違って見えた。
(同じはずだけど…違って見える…)
記憶が色褪せてしまったのか、それとも心境や身体の変化か。以前見上げた星空も綺麗だったが、それ以上に美しいと思う夜空をじっと見つめた。
「アドニス様、御体を冷やしてしまいますので、こちらをお掛け下さい」
「あ…ありがとう…」
ほんのりと温かみのあるオフホワイトのローブを肩に掛けられ、その温もりにホッと息を吐き出す。
夜風の涼しさは心地良いほどだが、体を包み込むような安心感から、少しだけ緊張していた体からゆるりと力が抜けた。
(あの子達に、会えるといいな…)
いつかの日と同じ、穏やかな月明かりが照らす夜の中、小さな羽の音を聞き逃すことがないよう、ただ静かにその時を待った。
「…っ、…ひく…っ」
ぐずぐずと泣き続け、どれくらいの時間が経っただろう。涙が自然と止まった頃、ゆっくりと上体を起こした。
「…大丈夫ですか?」
「…っ、だい、じょ…ぶ…っ、ぁの…、背中…ずっと、ありがとう…」
「恐れ入ります。…もう落ち着かれましたでしょうか?」
「…ん……」
コクリと頷きながら、ふいに眩暈のようなものを感じ、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
(ど…しよ…、ねむいかも…)
じわじわと忍び寄る睡魔に、喉の奥で「ぐぅ」と唸る。
たくさん喋っただけでも疲労から睡魔に襲われていたのに加え、今ほどの号泣で残っていた体力も使い切ってしまったのだろう。気を抜けば、うつらうつらと揺れてしまいそうな頭を必死に支えた。
「アドニス様、我慢なさらずにお休み下さい」
「んん…っ」
自分が眠そうなのは、きっと一目瞭然なのだろう。苦笑気味な彼の声にふるふると首を振った。
眠い。とても眠いのだが、どうしても赤子達と再会するための約束をしておきたかった。
「あ、あの子…達と、会う…っ」
「アドニス様、お気持ちは分かりますが、今すぐは難しいかと…一度お休みになられてから───」
「ちが…あの…よる……夜、だから…」
「…夜、ですか?」
「夜……夜…じゃ、ないと…あの子、達…いない、かや…」
眠くて口が回らない。うにうにと意味のない呻き声を上げていると、握り締めていた拳の上に、彼の手が重なった。
「夜にお会いになるのであれば、尚のこと今の内にお休み下さい。陽が沈みましたら、お声を掛けますので」
「んぅ…」
「…できましたら、私もお側にいたいのですが…よろしいでしょうか?」
「…ぅん…」
聞かれるまでもなく、彼は側にいてくれるものだと思っていた。コクリと頷きつつ、ハッと顔を上げた。
「あの…っ、ね、寝て…ね…、あの、あなた、も…ちゃんと、寝て…」
「ええ、アドニス様がお休みの間、私もお休みを頂きたいと思います。お心を配って下さり、ありがとうございます。…さぁ、もうお休み下さいませ。夜になったら、起こしに参りますね」
「……ん…」
眠りに誘なうような優しい彼の声を聞きながら、眠気で限界だった体は倒れるように柔らかなクッションへと沈んだ。
「アドニス様…アドニス様、起きて下さいませ」
「……ん…?」
ゆさゆさと揺れる体に、ぼんやりと目を開ける。パチパチと瞳を瞬いていると、こちらを覗き込む彼の顔が視界に映った。
「よくお休みのところ、大変申し訳ございません。もう夜ですよ。…プティ達に、会いに行くのでしょう?」
「……あっ!」
そう言われ、パチリと覚醒した勢いのまま、がばりと布団から起き上がった。
(…ん? あれ…ベッド…?)
睡魔に負け、長椅子の上に倒れ込んだ気がするのだが、目覚めたのは馴染みのあるふかふかとした布団の上だった。
「……あ…また…運んで…くれ、た…?」
「僭越ながら…とてもお疲れのご様子でしたから」
「ぁ…あ、ありがとう、ございます…」
ただただ眠かっただけなのだが…と申し訳なさを抱えつつベッドから降りようとして、ふとあることに気がつき天井を見上げた。
(灯りが…)
この部屋で過ごすようになってどれほどの月日が過ぎたか、初めて照明が点いているのを目にした。
ほんのりと橙色に染まった室内はいつもと少し違って見えて、思わず辺りを見回してしまった。
(夜なのに、こんなに明るいのは初めてだ…)
天井の照明の存在には気づいていたが、点け方が分からず、ついでに陽が沈めば寝ていたので、気にもしていなかった。
月明かりで照らされただけの薄暗い部屋も好きだったが、照明で照らされた明るい室内は気分が安らぐような気がした。
「いかがなさいましたか?」
「…うぅん。なんでも、ない…です」
天井を見上げているのが不思議だったのだろう。まさか、灯りが点いているのを珍しがっていたとも言えず、ふるりと首を振った。
「あの…眠れ、ました…?」
「はい。きちんとお休みを頂きました」
「…あの、だいじょう、ぶ…? 夜…なのに…ここにいて…あの、イ、イヴァニエ…様…の、ところ…か、帰らなきゃ…ダメじゃ…」
「ご安心下さいませ。こちらで過ごす旨はお伝えしておりますから、大丈夫ですよ」
「そ…か…なら、良かった…」
彼がちゃんと眠れたこと、夜の間ここにいても問題ないことにひとまずホッとする。
ベッドから降りようと床に足を着けると、立ち上がる前に彼の手で制された。
不思議に思いながらベッドに腰掛けたまま待っていると、彼が足元に跪いた。
「プティ達にお会いになる前に、今一度確認しておきたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「…? うん…」
「ありがとうございます。では、お時間はもう夜ですが、プティ達とはこの時間にお会いになっていたということで、よろしいですか?」
「ん…」
「場所は、このお部屋のバルコニーで…ということでお間違いないでしょうか?」
「…ん」
コクンと頷きながら、彼の言葉に「おや?」と首を傾げる。
もしや昼間話した時に、赤ん坊達と会っていたのは夜であったことを伝え忘れていただろうか?
話すことに精一杯で、もはや何を言ったかも覚えていないが…もしかしたら時間帯については言い忘れてしまったかもしれない。
「畏まりました。では、よろしければ参りましょう」
立ち上がった彼から差し出された手の平に、そっと自身の手を重ねる。肌が触れる瞬間はまだ少し緊張してしまうが、戸惑う気持ちはもう無くなっていた。
ほんの数日前まで、彼とまともに言葉を交わすことすら無かったのに、今は言葉を重ね、触れ合い、手を引かれて歩いている。
それがとても不思議で、同時にとても心地良くて、重ねた指先を握り締めるように、そっと力を籠めた。
久しぶりの夜の世界は、とても開放感に溢れていた。
ほんの数歩分、部屋から出ただけだったが、肌に感じる空気は昼のそれとは別物で、足の裏に感じるひんやりとした石の感触にも懐かしさを覚えた。
「あ」
「ん…?」
「……いえ、なんでもございません」
微笑む彼に首を傾げるが、それ以上は何も言われなかった。
そのままバルコニーの片隅に腰を下ろそうとして、慌てて彼に止められた。
「なんだろう?」と思っている間に、足元にはサッと絨毯が敷かれ、どこからともなく現れた長椅子がその上に置かれた。
恐らく昼間見せてもらった物を収納しておく力なのだろうが、長椅子のような大きな物がポンッと突然目の前に現れることに面喰ってしまう。
「あ、あの…絨毯…汚れちゃ…」
「後できちんと清めますから、大丈夫ですよ」
「…これ、は…持って、たの…?」
「はい。必要になるかと思いまして」
「……すごい、ね…?」
部屋の中に同じような物があるのに、まだ必要だろうか? 何脚も持ち歩いているのだろうか? それとも、このためにわざわざ用意したのだろうか?
そんな疑問を思い浮かべている間に彼に手を取られ、促されるまま長椅子へと腰を下ろした。
室内に置かれた長椅子と同じく、ふかりと柔らかな座り心地のそれに、そっと体を預ける。
(…一緒に座らないのかな…)
ここ数日のやりとりで、傍らに立ったまま動く気配のない彼に、なんとなく声を掛けても座ってもらえないような気がして、仕方なく口を噤んだ。
肩に掛けてもらったローブの合わせを寄せながら、ぼんやりと夜空を眺めていると、沈黙を破るように彼が口を開いた。
「プティは、いつ頃いらっしゃるのですか?」
「…いつ…かな…? いつも、外にいると…ふわって…来て、くれた…から……だから、今日、会えるかも…分からない…ん、だけど…」
「…今まで、お約束をしていた訳ではないのですか?」
「……そう、だね」
思えば、あの子達に「また明日」と言ったことはなかった。
明日どうなっているかも知れない身で、未来の約束をする勇気も無かったし、なによりいつ愛しい子達の訪問が途切れてしまうかも分からず、それを口にするのが怖かったのだ。
(…でも、毎日遊びに来てくれた…)
初めて小さな天使に出会った日から自分が部屋に閉じ籠るまで、一日も途切れることなく、赤ん坊達の訪問は続いた。
約束をした訳でもないのに、口に出さずとも自分の願いが分かっていたかのように、毎夜誰かが遊びに来てくれた。
こうして思い返せば、どれほど優しく、幸せな時間だったのだろう、と改めて実感して涙が出そうになり、慌てて目を瞑った。
今とて、あの子達が必ず現れるという確証がある訳ではない。
それでも、山のように積み重なった花の数だけ此処に来てくれていたのだとしたら、今夜あの子達に会えるかもしれない───そんな希望だけを胸に、ただ待ち望んでいるのだ。
滲みそうになる不安を吐き出す様、深く呼吸を繰り返し、目を開けると、落ち着かない様子でこちらを見ている彼と目が合った。
「恐れながら……いえ、私の勘違いであればいいのですが…」
「…ん?」
「アドニス様は…その、お外に出られるのが、怖いのではございませんか? 今日のお話しで、怒られると仰っていたのも、何か関係があるのかと思ったのですが…今は、大丈夫なんでしょうか?」
「え…な、なん、で…?」
正しくその通りなのだが、急な指摘にドキリとする。昼間の話の中で、そのようなことを伝えただろうか?
既に自分が何を話したのかすら覚えていないことにオロオロしていると、彼が困ったように笑った。
「以前、窓の外に出ることを躊躇われていらっしゃいましたので…私の思い違いならいいのです」
「……あ…」
「以前」と言われて思い出す。恐らくバルコニーの片隅に積まれていた花を確認する為、外に出た時のことを彼は言っているのだろう。
「ぁ…、その…外に、出るのは……こ、怖い、けど…よ、夜なら…大丈夫、だよ…でも、あの、…こ、ここだけ…外には、あの…で、出ない…から…」
「…左様でございましたか。今はご無理はされていないようで、安心致しました」
「ぁ…ぅ…はい……あの、あ、ありがとう…」
ニコリと微笑む彼は、本当に色んなことに気がついてくれているのだと、改めて気づかされる。
外に出るのは怖い。そう思ってしまう恐怖の対象のほとんどは大天使達だ。
彼らに恐怖を抱いていることは伝えてあるが『なぜ』『どうして』という点を説明するのはどうしても躊躇われた。
そのつもりは無くとも、悪し様に言っているように聞こえてしまうかもしれない…いや、もしかしたら心のどこかで、自分の悪事を棚に上げて、彼らを悪者にしようと思って言葉を吐いてしまうかもしれない───…
そう思うと、大天使達との邂逅について語るのも恐ろしく、彼が踏み込んで聞いてこない優しさに甘え、口を閉じてしまうのだ。
ならばせめて、今以上の心配事を増やしたくないのだが、些細なことでも気を配ってくれる彼をどうしたら安心させられるのか、それが今の自分には分からなかった。
(隠すのは、すぐバレちゃいそうだし……大丈夫って言っても、心配してくれるし…)
うんうんと悩みながら空を見上げていると、隣からクスリと小さな笑い声が聞こえ、そちらに視線を向けた。
「…?」
「申し訳ございません。なにかお悩みのようですが、お声が少々漏れておりましたので」
「…えっ、あっ…ご、ごめ…へ、変な、こと…言って…!?」
「いいえ、おかしなことは仰っていませんでしたよ。小さく唸っていらっしゃったようですが、とてもおかわ、ぃ───…」
「…? なに…?」
「………いえ、失礼致しました。…なにかお悩みがございましたら、私でよろしければお聞かせ下さい」
「…うん」
言葉の途中で口元を押さえてしまった彼が、あからさまにその先の言葉を遮り、話を変えてきたことに首を傾げる。
(…変なこと言ったのかな)
無意識の内に声が漏れているとは思わず、少しだけ恥ずかしくなる。
(閉じとこ…)
自分の口元を両の手の指先でそっと押さえる。
こうしていれば、声も漏れないかもしれない───そんな、彼との会話が途切れた瞬間だった。
───パタパタパタ…
「───っ!」
どこかから聞こえた、小さな羽音。
その音に目を見開き、衝動のまま椅子から立ち上がった。
「アドニス様?」
すぐ傍で彼が驚いた顔をしているが、意識は微かに聞こえる音に集中していた。
(どこ…、どこに…!)
静かな夜の空気の中、パタパタと羽ばたく羽の音がどんどん近づいてくる。
懐かしいその音を耳にしただけで、瞳にはじわりと水の膜が張った。
瞬きをすれば零れてしまいそうなそれは、一度の瞬きであの子達を見逃してしまうかもしれないという思いから、零れ落ちることはなかった。
「…っ」
ドクン、ドクンと高鳴る心臓が痛い。
それでも、もうすぐそこまで近づいている歓喜を思えば、少しも苦しくなかった。
小さかった羽ばたく音が、徐々に徐々に近づいてきている。
すぐ近く、すぐそこまで来ているはず…
(どこ、に───)
忙しなく辺りを見回した先───バルコニーの手摺りの合間から、真白い何かがふわふわと浮いてくるのが見えた。
「……っ!!」
目を凝らしたバルコニーのその向こう側、薄暗い夜の中に、淡い光すら発しているような小さな体が、ふわりと姿を現した。
「ッ…、……ぁ…っ」
懐かしく、愛おしい、小さな小さな赤ん坊の天使。
会いたくて堪らなかった、本当に会えるかも分からなかった存在がそこに居る。
ただそれだけで、咄嗟に動くことも、声を発することも出来ずに固まった。
それは赤ん坊も同じで、小さな口を開け、ポカンとした顔でこちらを見つめたまま固まっていた。
お互い固まったまま無言で見つめ合い───次の瞬間、赤子の天使は『にぱぁ』と、こちらまでつられて笑ってしまいそうになるほど、愛らしく笑った。
「…っ、あ…っ」
それを目にした途端、溢れんばかりの感情がパチンと弾け、堪えていた涙が堰を切ったようにボロボロと瞳から零れ落ちた。
何を考えるでもなく、蹌踉めきながら駆け寄り、ただ夢中でその小さな体に手を伸ばした。
同じように、赤ん坊がこちらに向かってパタパタと飛んでくるのが見え、余計に視界が滲んだ。
大きく広げた両の腕───その中に、小さな体が飛び込んできて、溢れる感情のまま強く抱き締めるとその場に泣き崩れた。
「~~~…っ、うぅ~…っ!」
腕の中にすっぽりと収まる、小さな小さな身体。
ずっとずっと恋焦がれていた、温かく柔らかな体温。
傷つけてしまうのが怖くて、だからこそ遠ざけたくて、それでもどうしても会いたかった存在。
恋しい、寂しいと、泣いて求めた愛しい子達。
その一人が、腕の中に居る…ただそれだけで、嬉しくて嬉しくて、言葉にできないほど嬉しくて、言葉の代わりのように涙ばかりが止め処なく溢れ続けた。
「~~~…っ、ひ…っ、ぅ…っ」
ふわりと鼻腔を擽る、赤ん坊の甘やかな香りすらひどく懐かしく、愛しさが後から後から込み上げる。
会いたかった。ずっと会いたかった。
大好きな愛しい子達、優しい子達。
嬉しい、嬉しい、嬉しい───!
嬉しい、愛しいという感情がどんどんと溢れ、言葉にできないほどの幸せな気持ちが体の中を満たしていく。
幸福感で胸が苦しくなり始めた頃、もぞりと腕の中で赤子が動く気配がして、そっと腕の中を覗き込んだ。
「ぷぁっ」と顔を上げたその仕草で、ようやくぎゅうぎゅうと抱き締めていたことを思い出し、慌てて腕の力を緩めた。
「っ…、は…っ、ご、ごめ…っ」
苦しかっただろう、と焦りながらその顔を見つめれば、いつかと同じようにニコニコと満面の笑みを返してくれて、また涙が溢れた。
「…っ、うぅ~~~っ…!」
その笑顔をどれほど求めていただろう。どれほど焦がれていただろう。
嬉しくて、嬉しくて、もう一度その柔らかな体をぎゅうっと抱き締めた。
きゃらきゃらと、楽しそうに腕の中で笑う声も、温かな体温も、全てが懐かしく、まるで夢を見ているようだった。
「…アドニス様」
「…ふっ……、ふ…」
突然声を掛けられ、顔を上げれば、傍らで膝をつく彼と目が合った。
「プティと無事再会できて、良うございました。…よろしければ、一度腰を落ち着けて、ゆっくりお過ごし下さいませ」
「……ん…っ」
彼に促されるまま、よろりと立ち上がると、もう一度長椅子へと腰を下ろした。
腕に抱いたままの赤ん坊を膝の上に下ろし、向かい合って見つめ合う。ニコニコと笑う赤ん坊に、思わずクスリと笑いが零れる。
自身の頬に伸びてくる小さな手に、そっと顔を寄せれば、小さな手の平がペタペタと頬を撫でた。
「…うれ…し…っ、くて…、泣いてる、…だけ…っ、だよ…っ? …だい、じょ…ぶ…、だいじょうぶ……っ」
少しだけ落ち着いていた涙が、またポロリと零れた。
ああ、そういえばこの子達は、自分が泣くといつも泣きそうな顔で心配してくれた…そんなことを思い出し、溢れる涙もそのまま、精一杯笑んでみせた。
大好きな、大好きな、優しい子達。
頬に触れた小さな手を柔く握り返すと、溢れる感情のまま、小さな額にそっと唇を寄せた。
「大好きだよ」という気持ちを込めて、愛しい子へキスを贈る。
ちゅっ…と、僅かに響いたリップ音。その音と頭部に触れた感触で、なにが起こったのか理解できたのだろう。
呆けたようにポカンと目を丸くした赤ん坊だったが、数秒ほどパチリと目を瞬いた後、嬉しそうに、満面の笑みでほにゃりと笑った。
その後も、次から次へと赤ん坊の天使達は現れた。
そのたびに愛しくて涙が溢れ、一人一人抱き締めながら、全員にキスをした。
感情が高まり過ぎて言葉にならない分、精一杯の愛しさを込めてキスを贈れば、皆嬉しそうに笑ってくれて、それが嬉しくてまた泣いた。
代わる代わる訪れる赤子達は、腕の中に収まったまま動かない子、膝や腰に抱きつく子、長椅子の上や絨毯の上で寝転ぶ子、と思い思いの形で過ごし、その内の何人かはその場で眠ってしまったが、それに気づいた彼が、赤子の体を毛布で包んでくれた。
どれほどか時間が経った頃、赤子達の訪問が途切れた頃合いで、ようやく涙が止まった。
ひくりとしゃくり上げながら、眠る小さな天使達をぼぅっと見つめていると、頬に柔らかな布がそっと触れた。
「…あ……」
「…とてもお喜びのようで、私も嬉しく思います。ですが、お泣きになり過ぎて、瞳が溶けてしまうのではないかと思いました」
困ったように笑う彼は、今までずっと黙って見守ってくれていたのだろう。
静かに成り行きを見守ってくれていた優しさに、涙がまたじわりと滲んだ。
「…っ、あの…っ、あ…あり、が……っ」
「アドニス様、無理にお話しにならなくとも大丈夫ですよ。…良うございましたね」
「う…うん…っ!」
「…本当に、溶けてしまいそうですね」
苦笑する彼から受け取った布で目元を押さえる。
…本当に目が溶けてしまうのだろうか? だとしたら大変だ…と、涙を堪えるようギュッと瞼を閉じた。
「アドニス様、今日はこのお時間にプティ達と会えましたが、明日からは昼間お会いになれる様、彼らに声を掛けてもよろしいでしょうか?」
「…? なん、で…?」
そこから彼に聞いたのは、人間の赤ん坊同様、赤子の天使達も夜は本来寝ている時間なのだということだった。
それがどうしてこの時間に、此処を訪れるようになったのか…それは分からないが、やはり夜は寝かせてやった方がいいこと、その代わり、昼間遊びに来てもらえばいいと提案してくれた。
「…夜…は、ダメ、だったんだね…ど…しよ…」
「プティが自分達の意思で行った行為ですので、アドニス様がお気になさらずとも大丈夫ですよ。それだけアドニス様に会いたかったという、この子達の好意故です」
「でも…、あの…昼…は、私…あの…そ、外に、出れな…」
「お部屋の中でお過ごしになればよろしいかと思います」
「………いいの?」
「勿論です」
ふっと笑う彼の表情からも、本当に問題が無いことが分かる。
何故だか、部屋の中にこの子達を入れてはダメな気がしていたのだが、怒られたりはしないらしい。
「プティ達は、基本的に何事も自由です。お部屋への出入りも、本人達が望むなら、お招きしてもなんの問題もございません」
「…そう、なんだ…」
(でも…じゃあ、本当に…)
暖かな陽だまりの中で、赤子達と会えるようになる。
ずっと夜の世界でしか会うことが出来なかったこの子達と、明るい陽射しの中で過ごせるようになる───それは、とてもとても素敵なことのように思えた。
「あ…あの…っ、じゃあ…あの…夜じゃ、なくて…ひ、昼間に、来て、ほしい…て…あの、お、お願い…」
「畏まりました。目を覚ましたら、声を掛けましょう」
思ってもいなかった展開に、パァッと視界が開けるような、明るい気持ちで胸が満たされる。夢心地のようなふわふわとした感覚に、暫し茫然とした。
(…どうしよう…嬉しい…)
こんなに嬉しくて幸せでいいのだろうか。
遠く離れていた愛しい子達と再び会えただけでも嬉しいのに、これからは、一緒に過ごせる時間がもっと増える。
「~~~…っ」
そう実感した途端、嬉しくて嬉しくて、また涙が溢れそうになり、流れる前に彼から受け取った布で目元を覆った。
「アドニス様?」
「っ…、…うれ、し…、嬉しい…っ」
「…お喜び頂けて、なによりでございます。プティ達もきっと喜びます」
「ひっ、ぅ…、ぁ、あり、がとう…っ、ありがとうっ…、うれしぃ…っ、ありがとう…っ!」
「…はい」
うわ言のように「ありがとう」と「嬉しい」と繰り返し言い続けている間、彼はずっと返事をしてくれた。
優しい音をしたその声に、雫が頬を伝ってはポタリ、ポタリと落ちていく。
ああ、本当に瞳が溶けてしまうかもしない───それでも、涙が止まることはなかった。
ポツリ、ポツリと彼と会話をしている内に空が白み始め、眠る赤ん坊達を起こす為、小さな体をやんわりと揺すった。
目を覚まし、うにゃうにゃと声を発する赤子達に、彼が今後のことについて話し始める。
明日からは、夜の間は自分も寝ているから会えないこと、その代わり昼間なら会えること、自分が外に出れないので部屋の中のみで過ごすようになること、それでも構わなければ、窓を開けている間は好きなように入ってきていいこと…そのようなことをツラツラと伝えていた。
赤ん坊達が寝ている間に聞いたが、この子達は話せない分、赤子間だけで伝わる信号のようなもので意思疎通が可能らしい。
なので、この場で数人に話しておけば、その数人から伝言のようにどんどんと他の子に伝わり、伝わった先からまた伝わり…と、最終的には全員が同じ情報を共有することになるのだそうだ。
話し終えた彼の言葉に、赤ん坊達が「わかったー」と言うようにコクコクと頷く。
きちんと伝わった雰囲気にホッと息を吐くと、起きた子達も含め、皆がパタパタと寄ってきた。
以前と同じように、陽が昇る前に飛び去っていく彼らをもう一度抱き締めると、まだ薄暗い景色の中に送り出すよう、そっと手を離す。
別れ際もニコニコと笑っている彼らの笑顔が、遠い日の記憶と重なった。
その笑顔が、なんとなく「また明日ね」と言っているように見えて、嬉しさからまた滲みそうになる瞳を堪えると、精一杯の笑顔を返した。
「……また、明日ね」
嬉しそうに笑いながら、手を振って飛んでいく何人もの赤ん坊達を見送りながら、その姿が見えなくなるまで、小さな背中を見つめ続けた。
初めて、明日を願う約束をした。
それがどうしようもなく嬉しくて、幸せで…堪えていた涙が、また一粒零れ落ちた。
◇◇◇◇◇◇
プティ達が飛び立っていった後、また泣き出してしまったアドニス様を宥めながら、陽が昇る瞬間を見た。
明るくなり始めた景色の中、顔を上げたアドニス様の瞳は、朝日を浴びてより輝いていて、思わず魅入ってしまうほど綺麗だった。
蜂蜜を溶かしたような濃い黄金色は、本当に溶けてしまいそうなほど潤んでいて、少しだけ焦った。
夜の間中、ずっと泣き続けていらっしゃった御体は体力も限界だったのだろう。フラフラとした足取りでなんとかベッドまで辿り着くと、倒れ込むように横になり、一瞬で眠られてしまった。
真っ赤に染まってしまった目元に触れ、癒しを施せば、涙の跡も消えて無くなる。
規則正しい穏やかな寝息にホッと息を吐くと、静かに寝室を後にした。
アドニス様とプティ達の関係は、想像していた以上に深いものだった。
イヴァニエ様に今夜の件についてお話しした際、ルカーシュカ様がご存知だった情報についても伺うことができた。
プティ達による夜の訪問…心構えはしていたつもりだったが、本来寝ている時間にも関わらず、次から次へと現れるプティの多さと、誰も彼もが一目散にアドニス様の元へと飛び込んでいく光景は、とても衝撃的だった。
アドニス様がプティ達を想っているのと同じように、プティ達もアドニス様を想い、待ち望んでいたのだと、一目で分かった。
感情に裏表のないプティが、全身で好意を寄せている姿は微笑ましく…同時に、自分には到底届かない、遠いところで深い情を育んでいたのだという証明を目の前に突きつけられ、言葉にできない焦燥感に駆られた。
涙を流しながら、溢れんばかりの情愛を込めてプティ達の額にキスを贈るアドニス様を目にした時、ドキリと心臓が跳ね、思わず自分の胸元を握り締めた。
その心臓の鼓動は、あまり良いものではないように思えて、だがどうしてそう思うのか自分でも分からず、戸惑う気持ちからそっと視線を逸らした。
アドニス様が喜んでいらっしゃる、笑っていらっしゃる…それだけで喜ばしいことのはずなのに、疎外感のような寂しさを覚えている自分に驚いた。
そうして気づいた。
ああ…私はプティ達が羨ましいのだ、と。
アドニス様の寝室を出ると扉を背にしたまま、その場に佇んだ。
(恐らく、今夜のことはイヴァニエ様もルカーシュカ様もご覧になっていたはずだ)
肉眼でそのお姿を確認することはできなかったが、どこかからご覧になっていただろうという確信があった。
お二人の目に、今夜の光景はどのように映っただろうか。
報告に伺う前に、自分も情報をきちんとまとめておこうと、つい先ほどの光景を思い返そうとして───そっと目を閉じた。
プティ達を羨ましいと思ってしまった。
アドニス様からの愛情を一身に受ける小さな天使達。
妬ましいとは思わない。ただ、羨ましかった。
(……同じだけの情を、頂きたいとは思わない)
ただ少し、ほんの少し…もう少しだけ、プティ達のように、御心を許して頂けるような存在になりたいと思った。
(……そうしたら、いつか…)
───いつか、自分にも口づけを贈って下さるだろうか…
仕える身として、望んではいけないことだとは分かっている。
それでも、プティ達に惜しみなく与えられていた愛情に触れてしまった今、その一欠片でも構わないから…と、欲してしまう自分がいる。
(…自分の役目は忘れない。誠心誠意、お仕えすることに変わりはない)
見返りを求めている訳ではない。
アドニス様の為に、お仕えする気持ちにも姿勢にも変わりはない。
ただ心の限りお仕えして、その先で情を与えて頂けたなら───…
望むのではなく、夢見るように思い描くだけなら許されるだろうか…そんな淡い感情を心に秘めながら、朝日が照らす静かな部屋を、そっと後にした。
見上げた満天の星空に感嘆の溜息が零れた。
随分と久しぶりに目にした夜空は、記憶に残っていたよりもずっと綺麗で、キラキラと輝く無数の星の数すら違って見えた。
(同じはずだけど…違って見える…)
記憶が色褪せてしまったのか、それとも心境や身体の変化か。以前見上げた星空も綺麗だったが、それ以上に美しいと思う夜空をじっと見つめた。
「アドニス様、御体を冷やしてしまいますので、こちらをお掛け下さい」
「あ…ありがとう…」
ほんのりと温かみのあるオフホワイトのローブを肩に掛けられ、その温もりにホッと息を吐き出す。
夜風の涼しさは心地良いほどだが、体を包み込むような安心感から、少しだけ緊張していた体からゆるりと力が抜けた。
(あの子達に、会えるといいな…)
いつかの日と同じ、穏やかな月明かりが照らす夜の中、小さな羽の音を聞き逃すことがないよう、ただ静かにその時を待った。
「…っ、…ひく…っ」
ぐずぐずと泣き続け、どれくらいの時間が経っただろう。涙が自然と止まった頃、ゆっくりと上体を起こした。
「…大丈夫ですか?」
「…っ、だい、じょ…ぶ…っ、ぁの…、背中…ずっと、ありがとう…」
「恐れ入ります。…もう落ち着かれましたでしょうか?」
「…ん……」
コクリと頷きながら、ふいに眩暈のようなものを感じ、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
(ど…しよ…、ねむいかも…)
じわじわと忍び寄る睡魔に、喉の奥で「ぐぅ」と唸る。
たくさん喋っただけでも疲労から睡魔に襲われていたのに加え、今ほどの号泣で残っていた体力も使い切ってしまったのだろう。気を抜けば、うつらうつらと揺れてしまいそうな頭を必死に支えた。
「アドニス様、我慢なさらずにお休み下さい」
「んん…っ」
自分が眠そうなのは、きっと一目瞭然なのだろう。苦笑気味な彼の声にふるふると首を振った。
眠い。とても眠いのだが、どうしても赤子達と再会するための約束をしておきたかった。
「あ、あの子…達と、会う…っ」
「アドニス様、お気持ちは分かりますが、今すぐは難しいかと…一度お休みになられてから───」
「ちが…あの…よる……夜、だから…」
「…夜、ですか?」
「夜……夜…じゃ、ないと…あの子、達…いない、かや…」
眠くて口が回らない。うにうにと意味のない呻き声を上げていると、握り締めていた拳の上に、彼の手が重なった。
「夜にお会いになるのであれば、尚のこと今の内にお休み下さい。陽が沈みましたら、お声を掛けますので」
「んぅ…」
「…できましたら、私もお側にいたいのですが…よろしいでしょうか?」
「…ぅん…」
聞かれるまでもなく、彼は側にいてくれるものだと思っていた。コクリと頷きつつ、ハッと顔を上げた。
「あの…っ、ね、寝て…ね…、あの、あなた、も…ちゃんと、寝て…」
「ええ、アドニス様がお休みの間、私もお休みを頂きたいと思います。お心を配って下さり、ありがとうございます。…さぁ、もうお休み下さいませ。夜になったら、起こしに参りますね」
「……ん…」
眠りに誘なうような優しい彼の声を聞きながら、眠気で限界だった体は倒れるように柔らかなクッションへと沈んだ。
「アドニス様…アドニス様、起きて下さいませ」
「……ん…?」
ゆさゆさと揺れる体に、ぼんやりと目を開ける。パチパチと瞳を瞬いていると、こちらを覗き込む彼の顔が視界に映った。
「よくお休みのところ、大変申し訳ございません。もう夜ですよ。…プティ達に、会いに行くのでしょう?」
「……あっ!」
そう言われ、パチリと覚醒した勢いのまま、がばりと布団から起き上がった。
(…ん? あれ…ベッド…?)
睡魔に負け、長椅子の上に倒れ込んだ気がするのだが、目覚めたのは馴染みのあるふかふかとした布団の上だった。
「……あ…また…運んで…くれ、た…?」
「僭越ながら…とてもお疲れのご様子でしたから」
「ぁ…あ、ありがとう、ございます…」
ただただ眠かっただけなのだが…と申し訳なさを抱えつつベッドから降りようとして、ふとあることに気がつき天井を見上げた。
(灯りが…)
この部屋で過ごすようになってどれほどの月日が過ぎたか、初めて照明が点いているのを目にした。
ほんのりと橙色に染まった室内はいつもと少し違って見えて、思わず辺りを見回してしまった。
(夜なのに、こんなに明るいのは初めてだ…)
天井の照明の存在には気づいていたが、点け方が分からず、ついでに陽が沈めば寝ていたので、気にもしていなかった。
月明かりで照らされただけの薄暗い部屋も好きだったが、照明で照らされた明るい室内は気分が安らぐような気がした。
「いかがなさいましたか?」
「…うぅん。なんでも、ない…です」
天井を見上げているのが不思議だったのだろう。まさか、灯りが点いているのを珍しがっていたとも言えず、ふるりと首を振った。
「あの…眠れ、ました…?」
「はい。きちんとお休みを頂きました」
「…あの、だいじょう、ぶ…? 夜…なのに…ここにいて…あの、イ、イヴァニエ…様…の、ところ…か、帰らなきゃ…ダメじゃ…」
「ご安心下さいませ。こちらで過ごす旨はお伝えしておりますから、大丈夫ですよ」
「そ…か…なら、良かった…」
彼がちゃんと眠れたこと、夜の間ここにいても問題ないことにひとまずホッとする。
ベッドから降りようと床に足を着けると、立ち上がる前に彼の手で制された。
不思議に思いながらベッドに腰掛けたまま待っていると、彼が足元に跪いた。
「プティ達にお会いになる前に、今一度確認しておきたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「…? うん…」
「ありがとうございます。では、お時間はもう夜ですが、プティ達とはこの時間にお会いになっていたということで、よろしいですか?」
「ん…」
「場所は、このお部屋のバルコニーで…ということでお間違いないでしょうか?」
「…ん」
コクンと頷きながら、彼の言葉に「おや?」と首を傾げる。
もしや昼間話した時に、赤ん坊達と会っていたのは夜であったことを伝え忘れていただろうか?
話すことに精一杯で、もはや何を言ったかも覚えていないが…もしかしたら時間帯については言い忘れてしまったかもしれない。
「畏まりました。では、よろしければ参りましょう」
立ち上がった彼から差し出された手の平に、そっと自身の手を重ねる。肌が触れる瞬間はまだ少し緊張してしまうが、戸惑う気持ちはもう無くなっていた。
ほんの数日前まで、彼とまともに言葉を交わすことすら無かったのに、今は言葉を重ね、触れ合い、手を引かれて歩いている。
それがとても不思議で、同時にとても心地良くて、重ねた指先を握り締めるように、そっと力を籠めた。
久しぶりの夜の世界は、とても開放感に溢れていた。
ほんの数歩分、部屋から出ただけだったが、肌に感じる空気は昼のそれとは別物で、足の裏に感じるひんやりとした石の感触にも懐かしさを覚えた。
「あ」
「ん…?」
「……いえ、なんでもございません」
微笑む彼に首を傾げるが、それ以上は何も言われなかった。
そのままバルコニーの片隅に腰を下ろそうとして、慌てて彼に止められた。
「なんだろう?」と思っている間に、足元にはサッと絨毯が敷かれ、どこからともなく現れた長椅子がその上に置かれた。
恐らく昼間見せてもらった物を収納しておく力なのだろうが、長椅子のような大きな物がポンッと突然目の前に現れることに面喰ってしまう。
「あ、あの…絨毯…汚れちゃ…」
「後できちんと清めますから、大丈夫ですよ」
「…これ、は…持って、たの…?」
「はい。必要になるかと思いまして」
「……すごい、ね…?」
部屋の中に同じような物があるのに、まだ必要だろうか? 何脚も持ち歩いているのだろうか? それとも、このためにわざわざ用意したのだろうか?
そんな疑問を思い浮かべている間に彼に手を取られ、促されるまま長椅子へと腰を下ろした。
室内に置かれた長椅子と同じく、ふかりと柔らかな座り心地のそれに、そっと体を預ける。
(…一緒に座らないのかな…)
ここ数日のやりとりで、傍らに立ったまま動く気配のない彼に、なんとなく声を掛けても座ってもらえないような気がして、仕方なく口を噤んだ。
肩に掛けてもらったローブの合わせを寄せながら、ぼんやりと夜空を眺めていると、沈黙を破るように彼が口を開いた。
「プティは、いつ頃いらっしゃるのですか?」
「…いつ…かな…? いつも、外にいると…ふわって…来て、くれた…から……だから、今日、会えるかも…分からない…ん、だけど…」
「…今まで、お約束をしていた訳ではないのですか?」
「……そう、だね」
思えば、あの子達に「また明日」と言ったことはなかった。
明日どうなっているかも知れない身で、未来の約束をする勇気も無かったし、なによりいつ愛しい子達の訪問が途切れてしまうかも分からず、それを口にするのが怖かったのだ。
(…でも、毎日遊びに来てくれた…)
初めて小さな天使に出会った日から自分が部屋に閉じ籠るまで、一日も途切れることなく、赤ん坊達の訪問は続いた。
約束をした訳でもないのに、口に出さずとも自分の願いが分かっていたかのように、毎夜誰かが遊びに来てくれた。
こうして思い返せば、どれほど優しく、幸せな時間だったのだろう、と改めて実感して涙が出そうになり、慌てて目を瞑った。
今とて、あの子達が必ず現れるという確証がある訳ではない。
それでも、山のように積み重なった花の数だけ此処に来てくれていたのだとしたら、今夜あの子達に会えるかもしれない───そんな希望だけを胸に、ただ待ち望んでいるのだ。
滲みそうになる不安を吐き出す様、深く呼吸を繰り返し、目を開けると、落ち着かない様子でこちらを見ている彼と目が合った。
「恐れながら……いえ、私の勘違いであればいいのですが…」
「…ん?」
「アドニス様は…その、お外に出られるのが、怖いのではございませんか? 今日のお話しで、怒られると仰っていたのも、何か関係があるのかと思ったのですが…今は、大丈夫なんでしょうか?」
「え…な、なん、で…?」
正しくその通りなのだが、急な指摘にドキリとする。昼間の話の中で、そのようなことを伝えただろうか?
既に自分が何を話したのかすら覚えていないことにオロオロしていると、彼が困ったように笑った。
「以前、窓の外に出ることを躊躇われていらっしゃいましたので…私の思い違いならいいのです」
「……あ…」
「以前」と言われて思い出す。恐らくバルコニーの片隅に積まれていた花を確認する為、外に出た時のことを彼は言っているのだろう。
「ぁ…、その…外に、出るのは……こ、怖い、けど…よ、夜なら…大丈夫、だよ…でも、あの、…こ、ここだけ…外には、あの…で、出ない…から…」
「…左様でございましたか。今はご無理はされていないようで、安心致しました」
「ぁ…ぅ…はい……あの、あ、ありがとう…」
ニコリと微笑む彼は、本当に色んなことに気がついてくれているのだと、改めて気づかされる。
外に出るのは怖い。そう思ってしまう恐怖の対象のほとんどは大天使達だ。
彼らに恐怖を抱いていることは伝えてあるが『なぜ』『どうして』という点を説明するのはどうしても躊躇われた。
そのつもりは無くとも、悪し様に言っているように聞こえてしまうかもしれない…いや、もしかしたら心のどこかで、自分の悪事を棚に上げて、彼らを悪者にしようと思って言葉を吐いてしまうかもしれない───…
そう思うと、大天使達との邂逅について語るのも恐ろしく、彼が踏み込んで聞いてこない優しさに甘え、口を閉じてしまうのだ。
ならばせめて、今以上の心配事を増やしたくないのだが、些細なことでも気を配ってくれる彼をどうしたら安心させられるのか、それが今の自分には分からなかった。
(隠すのは、すぐバレちゃいそうだし……大丈夫って言っても、心配してくれるし…)
うんうんと悩みながら空を見上げていると、隣からクスリと小さな笑い声が聞こえ、そちらに視線を向けた。
「…?」
「申し訳ございません。なにかお悩みのようですが、お声が少々漏れておりましたので」
「…えっ、あっ…ご、ごめ…へ、変な、こと…言って…!?」
「いいえ、おかしなことは仰っていませんでしたよ。小さく唸っていらっしゃったようですが、とてもおかわ、ぃ───…」
「…? なに…?」
「………いえ、失礼致しました。…なにかお悩みがございましたら、私でよろしければお聞かせ下さい」
「…うん」
言葉の途中で口元を押さえてしまった彼が、あからさまにその先の言葉を遮り、話を変えてきたことに首を傾げる。
(…変なこと言ったのかな)
無意識の内に声が漏れているとは思わず、少しだけ恥ずかしくなる。
(閉じとこ…)
自分の口元を両の手の指先でそっと押さえる。
こうしていれば、声も漏れないかもしれない───そんな、彼との会話が途切れた瞬間だった。
───パタパタパタ…
「───っ!」
どこかから聞こえた、小さな羽音。
その音に目を見開き、衝動のまま椅子から立ち上がった。
「アドニス様?」
すぐ傍で彼が驚いた顔をしているが、意識は微かに聞こえる音に集中していた。
(どこ…、どこに…!)
静かな夜の空気の中、パタパタと羽ばたく羽の音がどんどん近づいてくる。
懐かしいその音を耳にしただけで、瞳にはじわりと水の膜が張った。
瞬きをすれば零れてしまいそうなそれは、一度の瞬きであの子達を見逃してしまうかもしれないという思いから、零れ落ちることはなかった。
「…っ」
ドクン、ドクンと高鳴る心臓が痛い。
それでも、もうすぐそこまで近づいている歓喜を思えば、少しも苦しくなかった。
小さかった羽ばたく音が、徐々に徐々に近づいてきている。
すぐ近く、すぐそこまで来ているはず…
(どこ、に───)
忙しなく辺りを見回した先───バルコニーの手摺りの合間から、真白い何かがふわふわと浮いてくるのが見えた。
「……っ!!」
目を凝らしたバルコニーのその向こう側、薄暗い夜の中に、淡い光すら発しているような小さな体が、ふわりと姿を現した。
「ッ…、……ぁ…っ」
懐かしく、愛おしい、小さな小さな赤ん坊の天使。
会いたくて堪らなかった、本当に会えるかも分からなかった存在がそこに居る。
ただそれだけで、咄嗟に動くことも、声を発することも出来ずに固まった。
それは赤ん坊も同じで、小さな口を開け、ポカンとした顔でこちらを見つめたまま固まっていた。
お互い固まったまま無言で見つめ合い───次の瞬間、赤子の天使は『にぱぁ』と、こちらまでつられて笑ってしまいそうになるほど、愛らしく笑った。
「…っ、あ…っ」
それを目にした途端、溢れんばかりの感情がパチンと弾け、堪えていた涙が堰を切ったようにボロボロと瞳から零れ落ちた。
何を考えるでもなく、蹌踉めきながら駆け寄り、ただ夢中でその小さな体に手を伸ばした。
同じように、赤ん坊がこちらに向かってパタパタと飛んでくるのが見え、余計に視界が滲んだ。
大きく広げた両の腕───その中に、小さな体が飛び込んできて、溢れる感情のまま強く抱き締めるとその場に泣き崩れた。
「~~~…っ、うぅ~…っ!」
腕の中にすっぽりと収まる、小さな小さな身体。
ずっとずっと恋焦がれていた、温かく柔らかな体温。
傷つけてしまうのが怖くて、だからこそ遠ざけたくて、それでもどうしても会いたかった存在。
恋しい、寂しいと、泣いて求めた愛しい子達。
その一人が、腕の中に居る…ただそれだけで、嬉しくて嬉しくて、言葉にできないほど嬉しくて、言葉の代わりのように涙ばかりが止め処なく溢れ続けた。
「~~~…っ、ひ…っ、ぅ…っ」
ふわりと鼻腔を擽る、赤ん坊の甘やかな香りすらひどく懐かしく、愛しさが後から後から込み上げる。
会いたかった。ずっと会いたかった。
大好きな愛しい子達、優しい子達。
嬉しい、嬉しい、嬉しい───!
嬉しい、愛しいという感情がどんどんと溢れ、言葉にできないほどの幸せな気持ちが体の中を満たしていく。
幸福感で胸が苦しくなり始めた頃、もぞりと腕の中で赤子が動く気配がして、そっと腕の中を覗き込んだ。
「ぷぁっ」と顔を上げたその仕草で、ようやくぎゅうぎゅうと抱き締めていたことを思い出し、慌てて腕の力を緩めた。
「っ…、は…っ、ご、ごめ…っ」
苦しかっただろう、と焦りながらその顔を見つめれば、いつかと同じようにニコニコと満面の笑みを返してくれて、また涙が溢れた。
「…っ、うぅ~~~っ…!」
その笑顔をどれほど求めていただろう。どれほど焦がれていただろう。
嬉しくて、嬉しくて、もう一度その柔らかな体をぎゅうっと抱き締めた。
きゃらきゃらと、楽しそうに腕の中で笑う声も、温かな体温も、全てが懐かしく、まるで夢を見ているようだった。
「…アドニス様」
「…ふっ……、ふ…」
突然声を掛けられ、顔を上げれば、傍らで膝をつく彼と目が合った。
「プティと無事再会できて、良うございました。…よろしければ、一度腰を落ち着けて、ゆっくりお過ごし下さいませ」
「……ん…っ」
彼に促されるまま、よろりと立ち上がると、もう一度長椅子へと腰を下ろした。
腕に抱いたままの赤ん坊を膝の上に下ろし、向かい合って見つめ合う。ニコニコと笑う赤ん坊に、思わずクスリと笑いが零れる。
自身の頬に伸びてくる小さな手に、そっと顔を寄せれば、小さな手の平がペタペタと頬を撫でた。
「…うれ…し…っ、くて…、泣いてる、…だけ…っ、だよ…っ? …だい、じょ…ぶ…、だいじょうぶ……っ」
少しだけ落ち着いていた涙が、またポロリと零れた。
ああ、そういえばこの子達は、自分が泣くといつも泣きそうな顔で心配してくれた…そんなことを思い出し、溢れる涙もそのまま、精一杯笑んでみせた。
大好きな、大好きな、優しい子達。
頬に触れた小さな手を柔く握り返すと、溢れる感情のまま、小さな額にそっと唇を寄せた。
「大好きだよ」という気持ちを込めて、愛しい子へキスを贈る。
ちゅっ…と、僅かに響いたリップ音。その音と頭部に触れた感触で、なにが起こったのか理解できたのだろう。
呆けたようにポカンと目を丸くした赤ん坊だったが、数秒ほどパチリと目を瞬いた後、嬉しそうに、満面の笑みでほにゃりと笑った。
その後も、次から次へと赤ん坊の天使達は現れた。
そのたびに愛しくて涙が溢れ、一人一人抱き締めながら、全員にキスをした。
感情が高まり過ぎて言葉にならない分、精一杯の愛しさを込めてキスを贈れば、皆嬉しそうに笑ってくれて、それが嬉しくてまた泣いた。
代わる代わる訪れる赤子達は、腕の中に収まったまま動かない子、膝や腰に抱きつく子、長椅子の上や絨毯の上で寝転ぶ子、と思い思いの形で過ごし、その内の何人かはその場で眠ってしまったが、それに気づいた彼が、赤子の体を毛布で包んでくれた。
どれほどか時間が経った頃、赤子達の訪問が途切れた頃合いで、ようやく涙が止まった。
ひくりとしゃくり上げながら、眠る小さな天使達をぼぅっと見つめていると、頬に柔らかな布がそっと触れた。
「…あ……」
「…とてもお喜びのようで、私も嬉しく思います。ですが、お泣きになり過ぎて、瞳が溶けてしまうのではないかと思いました」
困ったように笑う彼は、今までずっと黙って見守ってくれていたのだろう。
静かに成り行きを見守ってくれていた優しさに、涙がまたじわりと滲んだ。
「…っ、あの…っ、あ…あり、が……っ」
「アドニス様、無理にお話しにならなくとも大丈夫ですよ。…良うございましたね」
「う…うん…っ!」
「…本当に、溶けてしまいそうですね」
苦笑する彼から受け取った布で目元を押さえる。
…本当に目が溶けてしまうのだろうか? だとしたら大変だ…と、涙を堪えるようギュッと瞼を閉じた。
「アドニス様、今日はこのお時間にプティ達と会えましたが、明日からは昼間お会いになれる様、彼らに声を掛けてもよろしいでしょうか?」
「…? なん、で…?」
そこから彼に聞いたのは、人間の赤ん坊同様、赤子の天使達も夜は本来寝ている時間なのだということだった。
それがどうしてこの時間に、此処を訪れるようになったのか…それは分からないが、やはり夜は寝かせてやった方がいいこと、その代わり、昼間遊びに来てもらえばいいと提案してくれた。
「…夜…は、ダメ、だったんだね…ど…しよ…」
「プティが自分達の意思で行った行為ですので、アドニス様がお気になさらずとも大丈夫ですよ。それだけアドニス様に会いたかったという、この子達の好意故です」
「でも…、あの…昼…は、私…あの…そ、外に、出れな…」
「お部屋の中でお過ごしになればよろしいかと思います」
「………いいの?」
「勿論です」
ふっと笑う彼の表情からも、本当に問題が無いことが分かる。
何故だか、部屋の中にこの子達を入れてはダメな気がしていたのだが、怒られたりはしないらしい。
「プティ達は、基本的に何事も自由です。お部屋への出入りも、本人達が望むなら、お招きしてもなんの問題もございません」
「…そう、なんだ…」
(でも…じゃあ、本当に…)
暖かな陽だまりの中で、赤子達と会えるようになる。
ずっと夜の世界でしか会うことが出来なかったこの子達と、明るい陽射しの中で過ごせるようになる───それは、とてもとても素敵なことのように思えた。
「あ…あの…っ、じゃあ…あの…夜じゃ、なくて…ひ、昼間に、来て、ほしい…て…あの、お、お願い…」
「畏まりました。目を覚ましたら、声を掛けましょう」
思ってもいなかった展開に、パァッと視界が開けるような、明るい気持ちで胸が満たされる。夢心地のようなふわふわとした感覚に、暫し茫然とした。
(…どうしよう…嬉しい…)
こんなに嬉しくて幸せでいいのだろうか。
遠く離れていた愛しい子達と再び会えただけでも嬉しいのに、これからは、一緒に過ごせる時間がもっと増える。
「~~~…っ」
そう実感した途端、嬉しくて嬉しくて、また涙が溢れそうになり、流れる前に彼から受け取った布で目元を覆った。
「アドニス様?」
「っ…、…うれ、し…、嬉しい…っ」
「…お喜び頂けて、なによりでございます。プティ達もきっと喜びます」
「ひっ、ぅ…、ぁ、あり、がとう…っ、ありがとうっ…、うれしぃ…っ、ありがとう…っ!」
「…はい」
うわ言のように「ありがとう」と「嬉しい」と繰り返し言い続けている間、彼はずっと返事をしてくれた。
優しい音をしたその声に、雫が頬を伝ってはポタリ、ポタリと落ちていく。
ああ、本当に瞳が溶けてしまうかもしない───それでも、涙が止まることはなかった。
ポツリ、ポツリと彼と会話をしている内に空が白み始め、眠る赤ん坊達を起こす為、小さな体をやんわりと揺すった。
目を覚まし、うにゃうにゃと声を発する赤子達に、彼が今後のことについて話し始める。
明日からは、夜の間は自分も寝ているから会えないこと、その代わり昼間なら会えること、自分が外に出れないので部屋の中のみで過ごすようになること、それでも構わなければ、窓を開けている間は好きなように入ってきていいこと…そのようなことをツラツラと伝えていた。
赤ん坊達が寝ている間に聞いたが、この子達は話せない分、赤子間だけで伝わる信号のようなもので意思疎通が可能らしい。
なので、この場で数人に話しておけば、その数人から伝言のようにどんどんと他の子に伝わり、伝わった先からまた伝わり…と、最終的には全員が同じ情報を共有することになるのだそうだ。
話し終えた彼の言葉に、赤ん坊達が「わかったー」と言うようにコクコクと頷く。
きちんと伝わった雰囲気にホッと息を吐くと、起きた子達も含め、皆がパタパタと寄ってきた。
以前と同じように、陽が昇る前に飛び去っていく彼らをもう一度抱き締めると、まだ薄暗い景色の中に送り出すよう、そっと手を離す。
別れ際もニコニコと笑っている彼らの笑顔が、遠い日の記憶と重なった。
その笑顔が、なんとなく「また明日ね」と言っているように見えて、嬉しさからまた滲みそうになる瞳を堪えると、精一杯の笑顔を返した。
「……また、明日ね」
嬉しそうに笑いながら、手を振って飛んでいく何人もの赤ん坊達を見送りながら、その姿が見えなくなるまで、小さな背中を見つめ続けた。
初めて、明日を願う約束をした。
それがどうしようもなく嬉しくて、幸せで…堪えていた涙が、また一粒零れ落ちた。
◇◇◇◇◇◇
プティ達が飛び立っていった後、また泣き出してしまったアドニス様を宥めながら、陽が昇る瞬間を見た。
明るくなり始めた景色の中、顔を上げたアドニス様の瞳は、朝日を浴びてより輝いていて、思わず魅入ってしまうほど綺麗だった。
蜂蜜を溶かしたような濃い黄金色は、本当に溶けてしまいそうなほど潤んでいて、少しだけ焦った。
夜の間中、ずっと泣き続けていらっしゃった御体は体力も限界だったのだろう。フラフラとした足取りでなんとかベッドまで辿り着くと、倒れ込むように横になり、一瞬で眠られてしまった。
真っ赤に染まってしまった目元に触れ、癒しを施せば、涙の跡も消えて無くなる。
規則正しい穏やかな寝息にホッと息を吐くと、静かに寝室を後にした。
アドニス様とプティ達の関係は、想像していた以上に深いものだった。
イヴァニエ様に今夜の件についてお話しした際、ルカーシュカ様がご存知だった情報についても伺うことができた。
プティ達による夜の訪問…心構えはしていたつもりだったが、本来寝ている時間にも関わらず、次から次へと現れるプティの多さと、誰も彼もが一目散にアドニス様の元へと飛び込んでいく光景は、とても衝撃的だった。
アドニス様がプティ達を想っているのと同じように、プティ達もアドニス様を想い、待ち望んでいたのだと、一目で分かった。
感情に裏表のないプティが、全身で好意を寄せている姿は微笑ましく…同時に、自分には到底届かない、遠いところで深い情を育んでいたのだという証明を目の前に突きつけられ、言葉にできない焦燥感に駆られた。
涙を流しながら、溢れんばかりの情愛を込めてプティ達の額にキスを贈るアドニス様を目にした時、ドキリと心臓が跳ね、思わず自分の胸元を握り締めた。
その心臓の鼓動は、あまり良いものではないように思えて、だがどうしてそう思うのか自分でも分からず、戸惑う気持ちからそっと視線を逸らした。
アドニス様が喜んでいらっしゃる、笑っていらっしゃる…それだけで喜ばしいことのはずなのに、疎外感のような寂しさを覚えている自分に驚いた。
そうして気づいた。
ああ…私はプティ達が羨ましいのだ、と。
アドニス様の寝室を出ると扉を背にしたまま、その場に佇んだ。
(恐らく、今夜のことはイヴァニエ様もルカーシュカ様もご覧になっていたはずだ)
肉眼でそのお姿を確認することはできなかったが、どこかからご覧になっていただろうという確信があった。
お二人の目に、今夜の光景はどのように映っただろうか。
報告に伺う前に、自分も情報をきちんとまとめておこうと、つい先ほどの光景を思い返そうとして───そっと目を閉じた。
プティ達を羨ましいと思ってしまった。
アドニス様からの愛情を一身に受ける小さな天使達。
妬ましいとは思わない。ただ、羨ましかった。
(……同じだけの情を、頂きたいとは思わない)
ただ少し、ほんの少し…もう少しだけ、プティ達のように、御心を許して頂けるような存在になりたいと思った。
(……そうしたら、いつか…)
───いつか、自分にも口づけを贈って下さるだろうか…
仕える身として、望んではいけないことだとは分かっている。
それでも、プティ達に惜しみなく与えられていた愛情に触れてしまった今、その一欠片でも構わないから…と、欲してしまう自分がいる。
(…自分の役目は忘れない。誠心誠意、お仕えすることに変わりはない)
見返りを求めている訳ではない。
アドニス様の為に、お仕えする気持ちにも姿勢にも変わりはない。
ただ心の限りお仕えして、その先で情を与えて頂けたなら───…
望むのではなく、夢見るように思い描くだけなら許されるだろうか…そんな淡い感情を心に秘めながら、朝日が照らす静かな部屋を、そっと後にした。
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