天使様の愛し子

東雲

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リリィ・ラムの産ぶ声

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「うっ、ぐ…っ」
「アドニス様!?」

腹の底から込み上げる何かに、思わず口元を手で押さえた。
吐き出すものなど何も無いはずなのに、込み上げるそれがなんなのかも分からず、漏れ出してしまいそうになる嗚咽を殺すように、ゴクリと息を飲み込んだ。

「はぁっ、はぁ…っ、はぁ…、ッ…」

ただ恐ろしかった。
記憶に残る、嫌悪と憎悪だけを煮詰めたような視線も、凍えそうなほどの冷たい声も、侮蔑を含んだ嘲笑も───背中を焼くような痛みも、嫌になるほど鮮明に覚えていた。

それが、あの日のあの光景が、翼をうしなった瞬間なのだと、そう考えるだけで恐ろしくて堪らなかった。

「痛い、痛い」と、とうに癒えたはずの背中の傷が泣いた。
あの日の記憶が蘇るほど湧き上がる恐怖に、指の先まで犯されていくような感覚に全身が震える。
見えない恐怖から自分を守るように、椅子に座ったまま蹲るように体を丸め、その身を自身の腕で痛くなるほど強く抱き締めた。

「はぁっ…はっ…、うぅ…っ!」

思い出すのは、まともに動くことすら出来なかった背中の激痛と、焼けるような喉の痛み。
あれが翼を喪った痛みなのだと、自身が受けた罰なのだと、考えるだけで恐ろしく、過ぎ去ったはずの恐怖に襲われる感覚に、涙がボタボタと零れ落ちた。

(怖い…!)

天使達が怖いのではない。
もし本当に自分が天使だというのなら、自身の体の一部であるはずの翼を、そんな激痛を、苦しみを、体の一部を剥ぎ取られるようなむごたらしい行為を、罰として受けなければいけないほどの罪を、自分は犯したということになる。

翼を喪ったという事実より、自分はそんな罰を受けなければいけないほどの存在だった───それがなにより恐ろしく、悲しかった。

「っ…、うぅっ…!」

記憶に残る誰も彼もが、その瞳が『お前が嫌いだ』と語っていた。
憎悪と怒気を含んだ、体に突き刺さるような真っ直ぐな感情。
それが怖くて怖くて、痛くて、悲しくて、苦しくてならなかった。
何度も「どうして?」と思った。だがそう思ったところで答えが得られるはずもなく、何か悪いことをしてしまったのだろうと、無理やり自分を納得させていた。

でも、それも今なら分かる。

───当然だったのだ。嫌われ、憎まれていて、当然だった。
そうやって忌み嫌われるほど、悪いことを自分がしたのだ。
憎悪と嫌悪の前に晒されるのは必然だった…ただ、それだけだったのだ。

『自分』という存在が恐ろしかった。
“何も分からない”という現状に、初めて恐怖を抱いた。
同時に、彼ら天使達に恐怖心を抱くこと、怖いと思ってしまうことすら、烏滸がましいことなのではないかという考えが浮かび、吐き出す息は震えた。

「はぁ…っ、はっ…ひゅっ、ぅ…っ」

自分が悪いのだ。
自分が悪いから、皆怒ったのだ。
自分が悪いから、嫌われて当然なのだ。
自分が悪い、全部、自分が悪かったのだ。
なんて当たり前で、当然のことだろう。

あまりにも単純で明解な事実に、また心が軋んだ。

「はぁーっ、…っ、はぁー…っ」

それでも、どうしたって恐怖は消え去らない。
嫌われて当然だと分かっていても、その感情を向けられるだけで、侮蔑の籠った目で睨まれるだけで、全身を刺すような痛みと『怖い』という感情が頭の中を支配する。
その反面で『そう思ってしまうことすら、悪いことなのではないか』と責める自分がいる。

自分の何もかもが悪いものの塊のように思えて、感情はぐちゃぐちゃに乱れていった。

「ぃや…イヤ…ッ、嫌だ…っ!!」

どうにもならない感情が、出口を求めて自分の体の中をぐるぐると回り続け、腹の底から湧き出そうになる感覚に堪らず嘔吐えずいた。

「うっ…ぇ…っ」
「アドニス様っ!!」

体を丸めるようにして視線を下げていた視界の端に、細い手が伸びてくるのが見えた。
ぐちゃぐちゃに乱れ、恐怖と罪悪感で押し潰されそうな思考の中、伸びてきた白い手がとても恐ろしいものに見えて、ビクリと体が跳ねた。

「ヒッ…! や…っ!」


────バシンッ!


反射的に動いた自身の左手は、近づいてきた細い手を叩くように振り払っていた。

「……ぁ…」

ジン…と痛みが広がった左手の甲と、顔を上げた視界の中に映った驚いたような彼の顔。
その右手が、行き場を無くしたように宙に浮いているのを見て、ようやく自分のしでかした事に気づいた。

差し伸べてくれた彼の手を、乱暴に振り払ってしまった。

「───ッ!!」

それに気づいた瞬間、ザァッと全身から熱が失われていくような感覚に眩暈がした。

「ぁ…ご、ごめ…っ、ちが、ちがうの…っ! ごめんなさ…っ」

直前まで抱いていた恐怖や胸の苦しみは、別の恐怖へとすり変わった。

(どうしようっ、どうしようどうしよう…っ、どうしよう…!っ)

彼の優しい手を拒んでしまったこと、その手を叩いてしまったことが信じられなかった。
彼は怖くないのに、怖くないと知っているのに、一瞬でも恐怖を感じてしまった自分が悲しくて、許せなかった。

「ごめっ…、ごめんね…っ、ごめんなさい…っ、ごめんなさぃ…!」

僅かに痛みを残した左手が、それだけ彼の手も強く叩いてしまったのだと、主張するように自分を責めた。
せっかく優しくしてくれたのに、呆れられてしまうかもしれない。
怒らせてしまったかもしれない。
愛想を尽かされ、嫌われてしまうかもしれない───それが、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。

「アド───」
「ごめんなさい…っ! ちがうの…っ、ごめ、なさ…、ごめんなさい…っ、ごめんなさいっ…、ごめんなさい…、ごめんなさい…!」

無限に湧き出る負の感情が怖くて、それから逃げるように、彼が被せてくれた温かな布に包まり、その端を強く握り締めた。

ああ、きっとまた嫌われてしまう───…

そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、ポタリと新たな涙が零れた。
自分が悪いことをしたから、嫌われてしまうのだ。
心配してくれたのであろう彼の優しさを拒んでしまったから、その柔い手を叩いてしまったから───自分が、悪いから。

「ごめんなさい…っ、ごめんなさ、い…、ごめ…なさ…っ」

『自分が全て悪いのだ』
そんな考えが頭から離れない。
“彼に嫌われたくない”という気持ちを踏みつけるように“そんな風に願う資格すら無い”という考えが頭の中を支配していく。

怖くて、苦しくて、堪らなかった。
皆に嫌われて当然の自分も、天使達に恐怖を抱いてしまう己の烏滸がましさも、それでも、彼に嫌われたくないと願い縋ってしまうことも───…
全部全部、怖くて苦しくて、心が痛くて堪らなかった。

「ごめんなさい…っ」

彼の顔を見るのが怖くて、どんな表情をしているのか、それを見る勇気もなくて、キツく目を瞑った。
それでも閉じた瞳の隙間から溢れる雫は止まらず、自身の膝の上へとポタリ、ポタリと落ちていった。


「ごめん、なさい…っ、ごめんなさ───ッ!?」


ふいに、ガクンッと大きく体が揺れた。
強い力に引き寄せられるように、自身の意思と関係なく動いた体に驚き、思わず目を見開いた。

(な、に…)

突然のことに訳も分からず硬直しながら、視界を塞ぐ何かをただ見つめた。
強く引き寄せられたその先で受け止めてくれたのは、温もりのある真白い布だった。そこに埋もれるように触れた鼻先に感じたのは、布越しに伝わる温かな人の体温。
身動きを取ろうと揺らした体を、何かが包み込み、僅かな身じろぎもグッと押さえつけるように封じられた。

(………ちがう…)

押さえつけられているのではない。


(…抱き…しめ……) 


彼に、抱き締められているのだと、ようやく理解できたのは、驚きで涙が止まった頃だった。

柔らかに埋もれた鼻先に感じる温もりと、仄かに鼻腔を擽る彼の甘やかな香り。
ギュウッと自分の体を包み込む細い二本の腕はキツく、痛いほど強い力が籠っていた。
肌の表面から、じわりじわりと伝わる彼の体温と、体を包み込む温度に、強張っていた体からは少しずつ力が抜けていった。

「…ぁ…ぁ、の…」
「……大丈夫ですよ」

なんと声を掛ければいいのか、どうすればいいのかも分からず戸惑っていると、いつもよりずっと近いところから彼の声が聞こえた。

「大丈夫ですよ、アドニス様。私なら大丈夫です。…驚いてしまっただけなんですよね?」
「…っ」

どこまでも温かく、優しい彼の声音に、ふるりと体が震えた。

「ご、ごめんなさ…」
「大丈夫です。大丈夫ですよ。私の手なら少しも…これっぽっちも痛くありませんでしたから、ご安心下さい」
「っ…」

嘘だ。だって、彼の手を叩いた自分の手は、確かに痛かった。
きっと同じくらい痛かっただろうに、それを隠そうとする彼の優しい嘘に、止まっていた涙がまた一粒零れた。

「そん、そんな…だって…っ」
「…アドニス様の方が、痛かったでしょう」
「───ッ」

ヒュッと、息が止まった。

「痛かったでしょう? 私よりずっと…ごめんなさい。驚かせてしまって、ごめんなさい。アドニス様」
「…、ち、ぁ…っ」

「違う」「そんなことない」という言葉が、声になることはなかった。
掠れた泣き声のような音だけが、喉の奥から吐息に混じり、押し付けられるように触れた彼の肩口へと吸い込まれていった。

「大丈夫ですよ、アドニス様。大丈夫です……此処には、怖いものはありませんから」
「…っ!」

言葉と共に、背に回された彼の手が、自身の服をグッと握り締めたのが分かった。

「ふぅ……ふぅ…、ふ……」
「大丈夫です…大丈夫…」

「大丈夫」と何度も何度も繰り返す彼の声は、本当に“大丈夫”だと、安心させてくれる温かさに溢れていて、乱れていた思考も、呼吸も、少しずつ落ち着いていった。
背中でキツく握られていた手の平は、いつの間にか解かれ、ゆっくりと背を撫でる動きに変わっていた。
ゆるりゆるりと背を撫でる体温は、いつか同じように背に感じた温かなそれとよく似ていて、泣きたくなるほど優しかった。

(…気持ちいい…)

密着した面から伝わる、トクリ、トクリと脈打つ彼の心臓の音が鼓膜を揺らすたび、荒く波立っていた感情が凪いでいく。
彼の肩口に顔を埋めたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返せば、息を吸い込むたびに彼の甘やかな香りが自分の体内へと入り込んでいくのが分かった。
まるで自分の中に渦巻いていた恐怖を押し出すように、肺から全身へと広がっていくその感覚に、少しずつ少しずつ、緊張の系は緩んでいった。

「……、…」
「大丈夫ですよ、アドニス様」

頭上から落ちてくる柔らかな声に聞き入るように、そっと瞼を閉じる。
窓から差し込む暖かな陽射しのような優しい声は子守唄のようで、眠りに落ちるように、フツリと意識は途切れた。







「……、…?」

ふと目を開ければ、見慣れた天井が視界に入った。

(…あれ…いつの間に…ベッドに…)

すっかり馴染んだ柔らかな布団に埋もれながら、曖昧な記憶を辿った。手繰り寄せるように思考を巡らせ、ようやく彼との会話を思い出し、ハッとする。

(そうだ…自分、は…彼に…)

咄嗟に起きあがろうと、横たえた体に力を入れた時だった。

「アドニス様!」
「っ…」

すぐ側で、彼の焦ったような声が聞こえ、ビクリと体が跳ねた。

「ぁ…」
「お体は…お加減は如何ですか? どうかそのまま、お休みになっていて下さいませ。…先ほどは、私の配慮が足りず、大変申し訳ございませんでした。いきなりお話しすることではありませんでした」

鎮痛な面持ちで頭を下げる彼に、胸が締め付けられる。彼が悪い訳ではないのに、また彼に謝らせてしまったことが悲しくて、そうさせてしまった自分が嫌で堪らなかった。

「ち、ちが…」

───ふと、彼が今朝立っていた場所よりも少し離れた所にいることに気づき、心の一欠片がポトリと落ちるような寂しさに襲われた。
自分が取り乱してしまったせいだろうか?
それとも、彼の手を拒んでしまったせいだろうか? ほんの少しだけ遠くなった彼との距離が、途方もないほど遠くなったように思えて、じわりと視界が滲んだ。

「ご、ごめんなさ…ごめんなさい…! 嫌…、イヤだ…ッ」
「…っ、アドニス様!」

広いベッドの端に寝ていた体は、手を伸ばせば彼に届きそうで、必死になって彼へと手を伸ばした。
意図に気づいてくれた彼が、一歩、二歩とベッドへと近寄り、自分の手を取ってくれた。
柔い彼の両手に包み込むように手を握られ、『嬉しい』と応えるように、ギュッと細い指を握り返した。

「ごめんなさ…ごめんね…っ、ありがとう…!」
「…ご不安にさせてしまい、申し訳───」
「っ、まって、やだ…! 謝らないで…っ」
「……仰せのままに」

そう言って、眉を下げながらも微笑んでくれた彼と、握った手の温かさにホッと息を吐き出す。
自然と床に膝をつき、ベッドに横になったままの自分と目線を合わせてくれる彼の優しさに、キュッと唇を噛み締めた。

「…ごめ…ね…、ごめんなさい…手…、叩いちゃって、ごめんなさい…」
「ご安心下さい。本当に、少しも痛くありませんでしたから」
「や…、だ、だって、い、痛かった…」
「…ええ、きっとアドニス様の方が、ずっと痛かったはずです。私は大丈夫ですから、ご安心下さい。…やはり、お話しするのが早すぎました。本当に申し訳───」
「ち、ちが…っ、違うよ…! 私…私が、話してって、お願い、したから…、私の、お願いに、こ、答えて、くれた、だけ…でしょう?」
「ですが…」
「わ、私の、せいだから…」

(自分が、悪かっただけ…)

言いながら、自分で傷口を広げるような言葉に、そっと視線を落とした。

「アドニス様、どうか、そのように仰らないで下さいませ。決して、アドニス様のせいではございません」
「で、でも…」
「…今は、怖いものが多いのですよね?」
「…!」

突然の彼の言葉に驚き、その瞳を見つめ返した。

「怖いものが多いからこそ、ご不安になってしまうのではないでしょうか? 怖いと思うから、色んなことに、驚いてしまうのですよね?」
「…ぁ……ぅ…うん…」

自分の思考を言い当てられたことに驚きつつ、素直に彼の言葉に頷いた。

「大丈夫ですよ。少しずつ会話を重ねていけば、そのご不安も、少しずつ解消されていくはずです。…アドニス様、今、アドニス様が怖いと思うものは、なんですか?」
「え…?」
「胸の内に閉じ込めたままでは、苦しいこともあります。我慢されるだけでは、どうしようもないこともございます。お話しすることで、御心に掛かる負担が軽くなることもございます。…よろしければ、私にお話ししてみませんか?」
「…で、でも…」

急な彼からの提案に、視線は彷徨った。
彼の言う通り、今の自分には怖いと思うものが多すぎる。だがそれをそのまま、正直に彼に話すのは躊躇われた。

「だ…だめ…」
「どうして、駄目だと思われるのですか?」
「ぁ…だ、だって…お、怒られ、る…」
「…どなたが、誰に怒られてしまうのですか?」
「わ、私、が…、あの……」
「…私が、アドニス様をお叱りすることはございませんよ?」
「ぁ…あの、でも…め、迷惑に、なっちゃう…」
「なりません」
「…っ、で…でも、い…嫌な、気持ちに、なっちゃ…」
「なりません」
「……、…」
「そのような懸念があれば、このようなことは申し上げません。…大丈夫です。アドニス様の御心内を聞くだけです。それに対して、私が良いとも悪いとも言うことはございません。知っているか、知らないか、ただそれだけの違いです」

キッパリと言い切る彼の言葉の強さを表すかのように、両手で包まれた左手を強く握り締められた。
握られた手から伝わる彼の体温に溶かされるように、噤もうとしていた唇はゆっくりと開いた。

「ぁ…、あ…の…」
「はい」
「あの…ね…、あの…っ」
「…ゆっくりで、大丈夫ですよ」

その言葉に甘えるように、何度も深呼吸を繰り返した。
本当に話してしまってもいいのだろうか、彼の負担にならないだろうか…そんな不安もあったが、こちらを真っ直ぐに見つめる強い光を宿した彼の瞳を見ていると、そんな不安もどこかへ消えていった。

「あ…あの…、…ぁの、ね…」
「はい」
「…っ、あ…あのね、…っ、お、大きい人、が…だ、大天使、様…達が、…こ、怖いの…」
「…はい」
「み、みんな…こ、怖い、の…、みんな…き、嫌いって…怖い、目、してて…っ」
「……はい」
「じ、自分が…悪い…て…わ、分かってる…だけど…っ、こ、こわ、くて…」
「アドニス様…」

気づけば、瞳からポタリと雫が零れていた。
自分の気持ちを、胸の内を吐露するほど、ポタリ、ポタリと涙が溢れた。

「ご、ごめん、ね…ごめんなさ…っ、なんにも、わかん、ない、自分も…こ、怖くて…ぜんぶ…いっぱい、こわ、くて…」
「…はい」
「悪い、のは…自分なのに…こわい、て…お、思って、る…自分、も…怖くて…そんな…、自分も、い、嫌…で…っ」
「…アドニス様」
「…っ、嫌…、嫌なのに…っ!」
「アドニス様!」

強く握られたままの手をグッと彼の胸元に引き寄せられ、ハッとする。

「…ごめんなさい。結局、ご無理をさせてしまいましたね」
「はっ…、はぁ…、はぁ…」
「…お話しして下さって、ありがとうございます。アドニス様」

どこから取り出したのか、柔らかな布で目元を拭われ、流れた涙は消えていった。
悲しそうに表情を曇らせながら、淡く笑んでくれる彼の表情と優しい声音に、乱れていた呼吸は少しずつ落ち着いていく。

「ふぅ……ふ…」
「…今日はこのままお休みになりましょう? 怖いことは、お話しをされた分、少しだけ御体の外に出ていったはずです…ああ、そうです。怖い気持ちがどこか遠くへ行ってしまう様、安心してお休みになれるように、“おまじない”をかけましょう」
「…おま、じない…?」

穏やかな彼の口調は、まるで幼い子を寝かしつける時のそれのようだったが、今の自分にはひどく心地の良い響きだった。

「良くお眠りになれるように、というおまじないです。…ほんの少しだけ、御顔に触れることになりますが、よろしいですか?」
「…ぅん」
「では、目を瞑って下さいませ。…瞼の上に、手を置かせて頂きますね」
「…ん…」

言われた通り、そっと瞼を閉じた。自分が驚かないようにという配慮だろうか、周りが見えなくなってしまった自分のために、一つ一つの行動を説明してくれる彼の優しさが嬉しかった。
両手で包まれていた手から片手だけが離れていくと、閉じた瞼の上に温かな手がやんわりと乗せられる感覚がした。
目元を覆う彼の手の平から感じる体温はとても心地良く、じんわりと広がるその温かさだけで眠りに落ちてしまいそうだった。

「大丈夫ですか?」
「…ん…」
「ゆっくり呼吸を吸って…吐いて…御体の力を抜いて下さいませ。大丈夫ですよ、怖いものは、此処にはございません。このお部屋には、私とアドニス様しかおりません。…怖いものは、一つもございませんからね」
「……ぅん」

彼にそう言ってもらえるだけで、本当に怖いものは無いのかもしれないと思えるから不思議だった。
ゆるりと解けた心の一雫が、瞼の隙間から零れ落ちそうになった時、閉じた瞳の向こう側がポゥッと一瞬だけ明るくなった。

「『リリィ・メリーの夢の導きを』」

言葉と共に瞼に乗せられた彼の手が、より一層温かくなった。

(……あ…)

瞬間、心に暗い陰を落としていた恐怖も、重くのし掛かっていた不安も、ふわりと消えていくのが分かった。
彼の手の平に吸い込まれるようにして消えていった、暗く冷たい感情と入れ替わるように、温かな何かが体の中に流れ込んでくる。

(これ…)

いつかどこかで感じたような、体の内側を流れていく何か。それにいざなわれるように、意識はどんどんと薄れていった。


「…良き夢路を。おやすみなさいませ、アドニス様」


柔らかに微笑むような彼の声を聞きながら、意識はトロリと溶けるように、微睡みの底へと落ちていった。










◇◇◇◇◇◇

イヴァニエ様とルカーシュカ様とのお話しを終えると、アドニス様のいらっしゃるお部屋へと戻った。
音を立てないように近づいたベッドの端、部屋の主は、吐き出す寝息の音すら小さく、静かな眠りについていた。
穏やかなその寝顔と、規則正しく繰り返される呼吸にホッとする。

静かに近づき、眠るアドニス様の御手に触れた。
また少し冷たくなっているその指先を悲しく思いながら、請われるままにアドニス様の翼についてお話ししてしまったことを悔いた。
お話しすべきではなかったと思いつつ、いつかは知らなければいけなかった事実ということを心苦しく思う。

(せめて、今はまだ心穏やかに過ごして頂きたかった…)


全身で、『怖い』と泣いていらっしゃった。
ご自身の体を抱き締めていた指先は、その身に食い込むほど強い力が籠っていた。
咄嗟に伸ばしてしまった手を振り払われた時は驚いたが、なによりアドニス様の表情を目にしてようやく、自分の失態に気づいた。

手を振り払われた瞬間、その御顔に浮かんだ驚愕の表情と、みるみる青褪めていく顔色に息を呑んだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も繰り返す言葉には泣き声が混じり、聞いているだけで心は痛み、息が苦しくなった。
どうしてそんなに傷ついた顔をなされるのか…声を上げずに泣き叫ぶような姿に、心臓が悲鳴を上げた。

痛々しくて、苦しくて、見ていられなくて、衝動的にその身を抱き締めていた。
無礼な行為だとは理解していた。それでも、自分の感情を、動く体を止めることが出来なかった。

どうかもう泣かないでほしい。
苦しまないでほしい。
怯えないで、怖がらないで、傷つかないで…願うように、祈るように、震えるアドニス様を抱き締め、その背を撫で続けた。

時間が経つほど、徐々に収まっていく震えと落ち着いていく呼吸に、ゆっくりと息を吐き出した。
どれほどか時間が過ぎた頃、肩口に感じていた熱い吐息が静かなものに変わり、アドニス様の背を撫でていた手を止めた。

「アドニス様……ッ!?」

そっと体を離そうとして、倒れ込んできたアドニス様に驚く。慌てて抱き止めれば、耳元に届く小さな寝息に全身から力が抜けた。

(眠られてしまったのか…)

驚きはしたが、それだけアドニス様が心を許して下さったのであろうことを嬉しく思った。
気を抜けば緩みそうになってしまう口元を引き締めると、寝入ってしまったアドニス様の御体を浮かせ、重みをほとんど感じなくなったその身を抱き上げた。
横抱きにしたまま寝室へと向かうと、力の抜けた御体をベッドへと慎重に寝かせる。
目を覚まされた時、どのような反応をされるのか…それを不安に思いながら、じっと目覚めを待った。


程なくして目を覚まされたアドニス様は、幼な子ように泣かれ、内心とても慌てた。驚かさないようにと、あえて少し距離を空けていたことが裏目に出てしまった。
「ごめんなさい」と何度も言葉を重ね続けるアドニス様に、怯えていた理由を、何がその御心のご負担になっているのかを、そのご負担を少しでも軽くしたい一心で尋ねた。


───結果は、概ね予想していた通りだった。
ただ、「自分が怖い」と、そう仰る姿があまりにも痛々しくて、徐々に不安定になっていくお姿を見ていられなかった。


(ご不安を口に出された方が、気持ちが楽になるかと思ったのだが…失敗してしまった…)

気持ちばかりが先走ってしまったことを反省しつつ、それでも怖いものを「怖」いと、ご自身のお気持ちを正直にお言葉にして下さったこと、それを知ることが出来たのは、大きな進歩だった。
せめて、お休みになる瞬間は心穏やかであってほしい…そんな気持ちで僅かな聖気を込めて癒しを施せば、一瞬の内に眠られてしまった。

「………」

ふと、アドニス様の御顔に触れた時に手の平に感じた長い睫毛の感触を思い出し、心がソワリと揺らいだ。

(そういえば…思わず抱き締めてしまった…)

あの瞬間はそれどころではなく、ただ必死だった。
感情のままに動いてしまった行為に、今更ながら気恥ずかしさを覚える。
初めて感じる感情に落ち着かず、二度、三度と深呼吸を繰り返すと、無理やり思考を切り替えた。

(…暫くは、話す内容も、アドニス様のご負担にならないものだけに留めた方が良さそうだ)

アドニス様から請われても、おいそれと話すべきではないということは充分に理解した。

(それに、話し方も…)

以前も感じた、自身の話し方が今のアドニス様には合っていないような感覚。
先ほども、無意識の内に幼い子どもを相手にするような口調になってしまったが、存外違和感が無かったことに自分でも少し驚いていた。
とはいえ、元とはいえ大天使様相手に、ずっとあのような口調でお話しする訳にもいかないだろう。
だが今の自分の話し方では硬すぎる…少しだけ言葉遣いを変えるのであれば、誰かを真似るのが手っ取り早いだろうか、と暫し思考を巡らせた。

(……彼の真似をさせてもらおうか)

パッと頭に浮かんだ人物を思い浮かべながら、記憶に残るその口調の一つ一つをなぞるように思い出していく。

「……ん…」
「!」

耳に届いた寝息の混じった小さな声に、思考を中断させ、サッとアドニス様に視線を移した。
穏やかな寝顔にお変わりがないことにホッとしつつ、繋いだままの手はそのままに、室内に一脚だけあった椅子をベッドの脇に引き寄せると、静かに腰を下ろした。
今日の不安定な様子のまま、お一人にさせるのは心配でならなかったが、イヴァニエ様からお許しを頂けた今なら、なんの気兼ねもなくお側に居られる。


「……お側におります。アドニス様」


眠る主に、静かに自身の決意を伝える。
立場上「お守りします」とは言えないことを歯痒く思いながら、せめてお側にいることで少しでもご不安を減らせるのなら、「怖い」と泣かれることが無くなるのなら…そんな願いを込め、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「ずっと、お側におります」

指先を握っていただけの手を、深く繋ぐように握り直す。
それに反応するように、アドニス様の御手が、僅かに自身の手を握り返すように動いた。


途端にジン…と滲むように胸の内に広がった淡い感情をなんと呼ぼう。
不思議な疼きを抱いたまま、眠るアドニス様の御顔を、いつまでも眺め続けた。
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