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リリィ・ラムの産ぶ声
24.冠する名は
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アドニス様との対話が叶った翌日。緊張で大きく脈打つ胸の鼓動を抑えながら、アドニス様のいるお部屋へと向かった。
昨日の出来事を本当にアドニス様が受け入れて下さっているのか、今日になればまた距離を置かれてしまうのではないか…そんな不安が拭えず、宮廷の中を歩む足取りは重かった。
…が、そんな不安も、朝の挨拶を返して下さったアドニス様を前にすればあっという間に霧散した。
慣れていない様子で、それでも小さく言葉を返して下さったお姿に、全身から力が抜けた。
(良かった…)
言葉を交わすことを疎んでいらっしゃる様子はない。それだけでも、安堵から気持ちは軽くなった。
ゆっくりとベッドから起き上がったアドニス様に、用意していた物を差し出す。流石に今までのようにシーツを被って過ごして頂くのは心苦しく、代わりとなる物を用意していたのだ。
恐らくだが、今までは不安や恐怖といったものからご自身を守る為、シーツに包まっていらっしゃったのだろう。
ただ、昨日の様子や最後はそれを手放されていたことから、恐らくはもう必要のない物なのだろうと判断した。とはいえ、絶対と言い切れる自信もなく、必要があれば被れるようにとフードの付いたローブをご用意した。
羽織ったそれに戸惑っている様子に不安になったが、好みに合わなかった訳ではないことにホッとする。
その上で、フードを被る必要はないと、表情やお姿を隠す必要がないと思って下さったことが、なにより嬉しかった。少なくとも、自分の前では不安に思うことが無くなられたのだろう。
小さな変化だが、その小さな変化がとても誇らしく、嬉しかった。
移動するために手を差し出せば、躊躇いがちに手を取って下さった。
拒まれていないことを喜ばしく思いつつ、不必要な触れ合いを求め、自身の利を優先してしまったことに、少しだけ罪悪感を覚えた。
アドニス様に触れていて安心する、というのは自分の正直な気持ちだ。…ただほんの少し、ほんの少しだけ、それとは別の感情が混じっているような『ただ触れていたい』と思うような気持ちを抱いていることにも気づいていた。
何故そう思うのか?
自分でも分からない不明瞭なその感情を胸に宿しつつ、ゆっくりとアドニス様の手を引いて歩いた。
隣室に向かうと、今までそこに無かったはずの物があることに気づき、驚いていらっしゃるのが見て取れた。
ローブも絨毯も、今のアドニス様には必要な物だろうと思い、勝手に持ち込んでしまった。
だが、アドニス様に気にされた様子はなく、その姿にほんの少しだけ焦りを抱きつつも、寝室を整える為にその場を離れた。
(やはり、好みも変わっていらっしゃる…)
真っ白なシーツを広げながら、先ほどまでのアドニス様の様子を思い浮かべた。
用意したローブも絨毯も、本来であればアドニス様の趣味からはかけ離れている物だった。
柄も装飾の類もほとんど無く、白に近い柔らかな色合いのそれは、派手な装飾や華美を好まれていたアドニス様の趣味とは真逆の物と言えた。
(今のアドニス様にお似合いになる物を、と思ってご用意したが…間違えてはいなかったみたいだ)
別人のように変わられてしまったアドニス様は、驚くほどに消極的で大人しい方だ。
好まれるものも、何を必要とされているのかも分からなかったが、今までのような派手な装いは似合わないように思えた。
そう思い、今回はほぼ直感で、アドニス様にお似合いになるだろうと思うものを、自分の独断で選ばせて頂いたのだ。
実際、お似合いではあったし、抵抗感は無いように見えた。それ自体は喜ばしいことなのだが…
(私が独断で動いていることに、何も思われていないのは大丈夫だろうか…)
本来であれば、主であるアドニス様の指示に従い、従者である己が動くのだ。
だが今のアドニス様には、そういった考えすら無いのだろう。従者であり、本来であれば付き従うべき存在である者が主体となって動いていることに、なんの疑問も抱いていないようだった。
とはいえ、今のアドニス様がご自身の意思で、なにかしらの指示を出すのは難しいだろう。不可能と言ってもいい。
あまり自分が主体となって行動すべきではない…そう思う気持ちはあれど、現状としてはどうしようもなかった。
(だからだろうか…)
アドニス様の言葉遣いが気になるのだ。時たま混じる、丁寧な語尾に対する違和感。
自然体で話して下さって構わないのだが、恐らくは他者に対してどのように接すればいいのか、お分かりでないように思えた。
(無理なくお話しして頂きたいのだが…)
楽な言葉遣いで話して頂くのがやはり一番良いだろう。ただ、従者に対して丁寧な言葉で話す必要はないとお伝えするのは、今のアドニス様には少々乱暴な言い方に聞こえるかもしれない。それが心配だった。
(イヴァニエ様は元から丁寧な口調でいらっしゃるし、あえてご指摘するのも…)
もう少し互いに言葉を重ねてから、お伝えすべきだろうか…そんなことを考えながら、手早く丁寧に寝具を整えていった。
寝室から戻ると、まだ不安の拭えないアドニス様と、昨日のやりとりをなぞるように言葉を交わした。
その中で、自分のことも気遣って下さる優しさに触れ、胸がじんわりと熱くなった。
素直に嬉しいことだと思えた。だが、多くの不安を抱えるアドニス様にとって、その優しさが枷となり、言葉や感情を制限されることがないよう、気を付けなければ…と、そっと心の内に留めた。
だがまさか、そのまま御手に触れる意味を言及されるとは思っておらず、一瞬思考が停止しかけた。
決して疚しい気持ちがあった訳ではない。そのはずなのに、僅かに抱いていた罪悪感を咎められたような、見透かされたような感覚に、口からは謝罪の言葉が漏れていた。
事実、側仕えの身でありながら、不用意に主に触れるのは褒められた行為ではないからだ。
(…恥ずかしい)
自分が、自分のためにその御手に触れていたかった。
己の利己的な考えが恥ずかしく、手を引こうとした時だった。
勢いよく握られた自身の手に驚き、顔を上げれば、なぜかアドニス様が泣きそうな顔をしており、更に驚いた。
悪いことはしていない、手を繋いでいてくれると嬉しい───そう懸命に話して下さるお姿が嬉しくて、強く握られた手の温もりに誘われるまま、ご厚意に甘えて言葉を返した時だった。
「良かった…、…嬉しい」
そう言って、ふにゃりと微笑まれたお顔に、心臓がドクリと跳ねた。
(笑っ…て…)
初めて、アドニス様の笑ったお顔を見た。…いや、正確に言えば『今のアドニス様の』と言うべきだろう。
以前の、記憶を失う前のアドニス様の笑ったお顔も拝見したことはあるが、その時とは似ても似つかない淑やかな微笑みに、一瞬言葉を失った。
(……美しい方だ)
ずっと感じていた、別人のようであるという感覚。最初は違和感の大きかったそれを今は全く感じず、同時に以前のアドニス様と比較することも無くなってきたことにふと気づいた。
自分の中で、アドニス様という存在が、今目の前にいらっしゃるアドニス様以外に考えられなくなってきているのだろう。
───瞬間、じわりと広がった形の無い不安。
その不安に気づきたくなくて、浮かんだ考えを無理やり思考の奥底に閉じ込めるように、蓋をした。
そこからようやく始まった、お互いを知るための会話。それは、理解し切るには非常に困難なものだった。
アドニス様のお考えや、どの程度のことを『分からない』と仰っているのか、それを測るにはとても良い対話だったように思う。
しかし、食事の必要性も、聖気という自分達にとっては命の源とも呼べる存在のことも憶えていらっしゃらないことには愕然とした。
(忘れていらっしゃるのではなく、ご存知ではない体でお話しするつもりではいたが…)
アドニス様は、翼を喪ったあの日より前のことを憶えていない…知らないのだ、という気持ちで接するつもりでいた。
確かにその気持ちではいたのだが、いくら身構えていても、驚きがそれを上回るのだ。
(イヴァニエ様とルカーシュカ様のことを憶えていらっしゃらないのは覚悟していたが…)
お二人がこの部屋を訪れたあの日。
その時の光景を思い出されたアドニス様は、一目で怯えていらっしゃるのが分かった。
咄嗟に離された手は、その身を守るようにご自身の体を抱いていて、ただ見守る以外何もできない自分が口惜しくてならなかった。
(何がここまで、アドニス様を追い詰めたのだろう…)
それが分からない。根底にある何かを理解するには、程遠い所に居るのであろう自分を歯痒く思いながら、震えるアドニス様の体を温めるように、柔らかな毛布でその身をそっと包んだ。
落ち着かれるのを待ちつつ、次の会話をどう進めていくべきか考えていると、ふと目の前にアドニス様の両手が差し出された。
「…あ、あの、あの…手…を、繋いで…もらえたら…嬉しい…、です…っ」
───あまりにも、自分にとってあまりにも都合の良いような言葉に、思わず呆けてしまった。
驚きで固まった思考が、じわじわと溶けていくのに比例して、胸の内には歓喜が広がった。
御手に触れることを望んでいたのは、自分だけではなかったのだという喜びもあった。
ただそれ以上に、アドニス様がご自身の気持ちを素直にお言葉にして下さったこと、その相手として自分を望んで下さったことが、堪らないほどに嬉しかった。
少しずつでも良い。ご自身のお気持ちを言葉にすることに慣れていって下されば…いつか、なんの柵もなく、お話しして下さる日が来れば良い…そう願わずにはいられなかった。
アドニス様の御手に触れたまま、その後はイヴァニエ様とルカーシュカ様についての説明が続いた。
ただ、お二人を認識はして下さったが、その表情には困惑の色が濃く、やはり僅かに怯えているような、あまり良いとは言えない反応だった。
それよりも、ご自身が施しを受ける理由が分からないと仰る姿が悲しく、つい咎めるような言い方をしてしまった。
決して責めたかった訳ではない。そのようにお考えになられることが、心配される意味が分からないと首を傾げる姿が、どうしようもなく悲しかったのだ。
(…いつか、お二人ともお話しが出来るようになればいいのだが…)
お二人の名を何度も小さく呟かれるお姿を見つめながら、アドニス様の様子を伺っていた時だった。
ふと、顔を上げたアドニス様が、躊躇いがちに口を開かれた。
「……あの…『アドニス』って…私の、名前…?」
その一言に、ほんの一瞬、表情が強張りそうになった。
(…大丈夫。予想していたことだ)
イヴァニエ様とルカーシュカ様のことをお忘れになっていた時点で、アドニス様がご自身のこともお忘れになっているであろうことは予想していた。
ご自身の名に疑問を持つであろうことも、予想の範囲内だった。
「…はい。アドニスという名は、貴方様のお名前です」
「そ、う…」
ホッとしたように表情を和らげたアドニス様に安心していると、また何か思い出されたのか、僅かに視線を彷徨わせた後、こちらの様子を伺うように、小さく声を零した。
「…ぁ、の…あなたの、名前は…?」
その問いに、目の前にいらっしゃるアドニス様に気づかれぬ様、細く浅く息を吐き出した。
(ああ…やはり貴方様は…)
ご自身の名に疑問を抱かれた時、きっと今のアドニス様なら、疑問に思われることだろうと思っていた。
自分が名乗らぬこと、気に掛けて下さるからこそ名を知ろうとして下さること、それはとても喜ばしいことだった。
「私に名はございません」
「…え?」
───だが、お教えする名が無いのだ。
「名前が、無い…の?」
困惑の表情を浮かべたアドニス様を視界に留めながら、頭の中でどのように説明をすべきか、話の順序を組み立てていく。
「…恐れながら、アドニス様は私達天使がどのように生まれるかは憶え───…いえ、ご存知でしょうか?」
フルフルと小さく首を横に振られるお姿に、顔には出さぬまま、内心では緊張が増していく。
何も分からない、何も覚えていないのだと理解はしていても、無知である状態をいざ突きつけられると、どうしても動揺してしまう。
(…一からお教えする必要があるのだと、常に意識しろ)
自分にとっての当たり前は、アドニス様にとっての当たり前ではないのだ。それを大前提として会話をしていかなければいけない。
平常心でいられる様、動揺を悟られぬ様、薄く息を吐き出すと、アドニス様を見上げるように視線を合わせた。
「順を追ってご説明致しますね。まず、私達は一本の大樹から生まれます」
「…木、から…?」
「はい。正確に言えば、その大樹の花の蕾から生まれます」
「…はぇ…」
恐らく、全く想像できていないのだろう。ただ今は、そういう現象として理解して下さるだけでいいのだ。
「天使には階級があり、階級ごとに呼び名と姿形が異なります。花の蕾から生まれた時は赤ん坊の姿をしており、その者達は純天使と呼ばれております」
「じゅんてんし…」
「純天使として生まれた赤ん坊は、ある過程を過ぎて純天使から天使へ、天使から大天使へと、長い年月を掛けて成長していきます。但し、大天使になれる者はほんの僅かでございます。そのため、ほとんどの者は純天使か、あるいは天使の姿のまま一生を過ごします。純天使は赤ん坊の姿、天使は少年の姿、大天使になると大人の姿へと成長し、外見的に分かり易い特徴として、二対四枚の翼を有していらっしゃいます」
「ぅ……と、つまり…あなたは、天使…てこと?」
「左様でございます。…ここまでは、よろしいでしょうか?」
コクリと頷いて下さる姿には、動揺などは見て取れない。そのことにホッとする。
「先ほど、天使は花の蕾から生まれると申し上げましたが、先にその樹の名前からお伝えしますね。母提樹と、私達は呼んでおります」
「ぼだいじゅ…」
「はい。バルドル様…神様は、我々天使達のことを我が子と呼び、自身のことを父と、そう呼んでいらっしゃいます。なので私達は、神であるバルドル様を敬愛なる父とし、新しい命を育んで下さる大樹を母として、敬意を込めて母提樹と、そう呼んでおります」
「…ん」
「母提樹から生まれた純天使ですが、彼らは生まれてすぐにどう生きるかを自身で選べるのです」
「選ぶ…?」
「赤ん坊のまま過ごしたい者は、純天使から成長する必要が無く、天使になりたい者は成長するために少しずつ聖気を蓄え、自身の力を強めていきます」
「…聖気が、必要なの…?」
「はい。純天使から天使へ、天使から大天使となるには一定以上の聖気を有している必要があります。というより、成長するためにはそれ相応量の聖気が必然的に必要になって参ります」
「…ん」
「単純に、成長するには大量の聖気が必要なのだと、お考え下さいませ。…純天使はどのように生きるかを自身で選べると申し上げましたが、赤子のまま過ごすか、天使として過ごすかの二択だけではございません。命の湖に還る者もおります」
「…命、の…?」
何か引っかかるものがあったのだろうか。思案するように首を傾げるアドニス様に言葉を続けた。
「私達には、寿命という意味での生命の終わりはございません。母提樹から生まれ、命の湖に還ることで、頂いた命を天界という大地と、父なる神にお還しし、そうすることで天寿を全うしたということになります。頂いた命を還し、そうしてまた新たな魂を持って生まれてくる…それは私達にとって、死ではございません」
「……ん」
「生まれた純天使は、各々自分の意思でどのように生きるかを決めます。何十年、何百年と赤ん坊のまま生きる者、天使となるべく成長を望む者、生まれてすぐに命の湖に還る者…様々です。もちろん、純天使以外の者も還るべき場所は同じです。いつ命の湖に還るかは、自身で決められるのです」
「……うん」
「また、母提樹から純天使が生まれる時期や時間というものは決まっておりません。大樹に生った花の蕾に魂が宿り、開花と共に生まれます。その場に誰かがいて、見守っているという訳でもございません。自然と生まれ、そうして生まれてきた純天使は、自身の望むまま、好きなところへ飛んで行きます」
「……あ…」
ハッとしたように表情を変えたアドニス様に、一旦言葉を区切った。
「…なにか、お気づきになりましたでしょうか?」
「ぇ…と、名前を…付けてあげる時が…ない…?」
「左様でございます。いつ生まれるかも分からず、生まれたとしても、純天使はすぐにどこかへ行ってしまいます。ですので、名を与える時が無いのです。更に申し上げれば、生まれてきた純天使の中には、生まれて数日の内に命の湖へと還っていく者もおります。自分の意思で、誰に制限されることもなく還ってしまうため、知らぬ間にいなくなっている者がほとんどなのです。多くの純天使が日々生まれ、還っていく…自由な彼ら一人一人に名を与えるのは難しいのです」
「…なんで、生まれてすぐ…いなくなっちゃうの…?」
そう小さく呟かれた声は僅かに震え、俯いた表情には明らかな悲しみが滲んでいた。
その様子からは、生まれてすぐに還っていく純天使を心配されているのが容易に察せた。
「…アドニス様、どうかご安心下さいませ。決して嫌なことがあったから、いなくなるのではございません。彼らはそれで満足したのです。生まれてから丸一日、天界の中を飛び回り、多くの仲間達と笑い、それで彼らは満足したのです。遊び、笑い、楽しかったと、気持ちが満たされたからこそ、命の湖に還るのですよ」
「…そ…か……なら、良かった…」
泣いてしまいそうな、それでいて穏やかな表情で微笑まれたお顔は、とても綺麗だった。
ただその笑みの中に、何か特別なものを感じたが、それがなんなのかが分からなかった。
(…なんだろう?)
純天使を想って下さっているのは分かる。ただ、それだけではないように思えて、それがとても不思議だった。
「母提樹は、命の湖の中心に根を張っております。母提樹から生まれた命が、いつか命の湖へと還り、また母提樹から生まれる…そうして命を循環させているのです。いつかまた、純天使として生まれてきた時には、同じように皆と楽しく遊んで過ごすはずです」
「……うん」
言いたい言葉を飲み込んだような、何か考え込んでいるような様子に心配になったが、数秒の沈黙の後、アドニス様がおずおずと口を開かれた。
「ぁ…あの…じゃあ…名前が、ある人は…?」
「大天使になりますと、神様より名を賜るのです。ですので、多くの者は生まれた時から名を持たぬまま一生を過ごします。もしくは、少数ではございますが、天使の中には名を持つ者もおります。そういった者のことを“名付き”と呼びます」
「名付き…?」
「はい。神様ではなく、お仕えしている大天使様から仮の名を頂くのです。大天使様が名を与える理由は様々です。献身的に従事する者への褒美として、長く仕えている者への親愛の証として、単に名を与えた方が呼び易いという理由で与える方もいらっしゃいます」
「…あなたは…名付きじゃ、ない…?」
「はい。ですので、名はございません」
「…そ、う……あの、なん、ぁ…ぅ、ちがう…、なんでもない、です…」
「…なぜ、イヴァニエ様は名を与えないのだろう…と、お考えですか?」
「…っ、ぅ…えと、あの、ご、ごめんなさぃ…」
「聞いてはいけないことではございませんので、ご安心下さいませ。イヴァニエ様は一部の者だけに名を与えることを、あまり好んでいらっしゃらないようです。ですので、イヴァニエ様付きの従者の中に名を持つ者はおりません」
「そ…う、なんだ…」
「はい」
「……あの…」
「はい」
「…じゃ…あの…あなたの、こと…なんて、呼んだら、いい…?」
…正直、そう仰られるのだろうと心構えはしていた。どう答えるべきかも考えていた。
だが心構えはしていても、さざめくように揺らぎ、波を立てる感情までは止められなかった。
(…名を持たぬことを、惜しいと思ったのは初めてだ)
元から無いものであり、不便もなく、特に必要性を感じたこともなかった。名を持ちたいと思ったことも、与えられたいと思ったこともない。
ただ今は、呼ばれる名が無いということが無性に悔しかった。
(名があれば、きっとその名で呼んで下さったのだろう…)
それを心底惜しいと思うのは何故だろう。
個体を識別するだけのものであるはずのそれを、心から羨ましいと思ったのは初めてだった。
「…お声を掛けて下さいませ。この部屋には、私とアドニス様しかおりません。お声を掛けて頂ければ、私を呼んで下さっているのだと、分かりますので」
「…はい」
まだ心配があるのだろうか、不安そうに金の瞳が揺らいだ。と、ふと何かに気づいたように、パチリ、パチリとその瞳が瞬いた。
「あ、の…」
「はい」
「名前が、あると…その、大天使…様? とか、名付き…なの?」
「……はい」
「…私の、名前…あるの、どうして…?」
───動揺してはいけない。
分かっていたはずだ。お名前を忘れているということは、ご自身が元大天使であったこともお忘れなのだろうと、薄々勘付いてはいたのだ。
努めて冷静に、事実だけをお伝えすればいい。少しだけ、言葉を抜いてしまう分は、後できちんとお伝えしよう───そう思いながら、アドニス様の金の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「貴方様のお名前は、神様から賜った名です。…大天使、アドニス様」
驚いたように目を見開くアドニス様。
その反応は予想できていた分、落ち着いていることが出来た───だが…
数秒間の後、目を丸くされたまま、不思議そうに首を傾げたアドニス様の言葉に、冷静であれという考えは吹き飛んでしまった。
「私は…天使なの…?」
心底不思議そうなその表情に、血の気が引いた。
そのお顔には、あまりにも真っさらで純粋な疑問だけが浮かんでおり、恐ろしいと思うほどに無垢だった。
(…一からじゃ…ない…)
零だ。
今のアドニス様は本当に、本当に何も知らない、零の状態なのだ。
『天使』という、ご自身の存在そのものを、憶えていない───…
その事実に、ただただ言葉を失った。
昨日の出来事を本当にアドニス様が受け入れて下さっているのか、今日になればまた距離を置かれてしまうのではないか…そんな不安が拭えず、宮廷の中を歩む足取りは重かった。
…が、そんな不安も、朝の挨拶を返して下さったアドニス様を前にすればあっという間に霧散した。
慣れていない様子で、それでも小さく言葉を返して下さったお姿に、全身から力が抜けた。
(良かった…)
言葉を交わすことを疎んでいらっしゃる様子はない。それだけでも、安堵から気持ちは軽くなった。
ゆっくりとベッドから起き上がったアドニス様に、用意していた物を差し出す。流石に今までのようにシーツを被って過ごして頂くのは心苦しく、代わりとなる物を用意していたのだ。
恐らくだが、今までは不安や恐怖といったものからご自身を守る為、シーツに包まっていらっしゃったのだろう。
ただ、昨日の様子や最後はそれを手放されていたことから、恐らくはもう必要のない物なのだろうと判断した。とはいえ、絶対と言い切れる自信もなく、必要があれば被れるようにとフードの付いたローブをご用意した。
羽織ったそれに戸惑っている様子に不安になったが、好みに合わなかった訳ではないことにホッとする。
その上で、フードを被る必要はないと、表情やお姿を隠す必要がないと思って下さったことが、なにより嬉しかった。少なくとも、自分の前では不安に思うことが無くなられたのだろう。
小さな変化だが、その小さな変化がとても誇らしく、嬉しかった。
移動するために手を差し出せば、躊躇いがちに手を取って下さった。
拒まれていないことを喜ばしく思いつつ、不必要な触れ合いを求め、自身の利を優先してしまったことに、少しだけ罪悪感を覚えた。
アドニス様に触れていて安心する、というのは自分の正直な気持ちだ。…ただほんの少し、ほんの少しだけ、それとは別の感情が混じっているような『ただ触れていたい』と思うような気持ちを抱いていることにも気づいていた。
何故そう思うのか?
自分でも分からない不明瞭なその感情を胸に宿しつつ、ゆっくりとアドニス様の手を引いて歩いた。
隣室に向かうと、今までそこに無かったはずの物があることに気づき、驚いていらっしゃるのが見て取れた。
ローブも絨毯も、今のアドニス様には必要な物だろうと思い、勝手に持ち込んでしまった。
だが、アドニス様に気にされた様子はなく、その姿にほんの少しだけ焦りを抱きつつも、寝室を整える為にその場を離れた。
(やはり、好みも変わっていらっしゃる…)
真っ白なシーツを広げながら、先ほどまでのアドニス様の様子を思い浮かべた。
用意したローブも絨毯も、本来であればアドニス様の趣味からはかけ離れている物だった。
柄も装飾の類もほとんど無く、白に近い柔らかな色合いのそれは、派手な装飾や華美を好まれていたアドニス様の趣味とは真逆の物と言えた。
(今のアドニス様にお似合いになる物を、と思ってご用意したが…間違えてはいなかったみたいだ)
別人のように変わられてしまったアドニス様は、驚くほどに消極的で大人しい方だ。
好まれるものも、何を必要とされているのかも分からなかったが、今までのような派手な装いは似合わないように思えた。
そう思い、今回はほぼ直感で、アドニス様にお似合いになるだろうと思うものを、自分の独断で選ばせて頂いたのだ。
実際、お似合いではあったし、抵抗感は無いように見えた。それ自体は喜ばしいことなのだが…
(私が独断で動いていることに、何も思われていないのは大丈夫だろうか…)
本来であれば、主であるアドニス様の指示に従い、従者である己が動くのだ。
だが今のアドニス様には、そういった考えすら無いのだろう。従者であり、本来であれば付き従うべき存在である者が主体となって動いていることに、なんの疑問も抱いていないようだった。
とはいえ、今のアドニス様がご自身の意思で、なにかしらの指示を出すのは難しいだろう。不可能と言ってもいい。
あまり自分が主体となって行動すべきではない…そう思う気持ちはあれど、現状としてはどうしようもなかった。
(だからだろうか…)
アドニス様の言葉遣いが気になるのだ。時たま混じる、丁寧な語尾に対する違和感。
自然体で話して下さって構わないのだが、恐らくは他者に対してどのように接すればいいのか、お分かりでないように思えた。
(無理なくお話しして頂きたいのだが…)
楽な言葉遣いで話して頂くのがやはり一番良いだろう。ただ、従者に対して丁寧な言葉で話す必要はないとお伝えするのは、今のアドニス様には少々乱暴な言い方に聞こえるかもしれない。それが心配だった。
(イヴァニエ様は元から丁寧な口調でいらっしゃるし、あえてご指摘するのも…)
もう少し互いに言葉を重ねてから、お伝えすべきだろうか…そんなことを考えながら、手早く丁寧に寝具を整えていった。
寝室から戻ると、まだ不安の拭えないアドニス様と、昨日のやりとりをなぞるように言葉を交わした。
その中で、自分のことも気遣って下さる優しさに触れ、胸がじんわりと熱くなった。
素直に嬉しいことだと思えた。だが、多くの不安を抱えるアドニス様にとって、その優しさが枷となり、言葉や感情を制限されることがないよう、気を付けなければ…と、そっと心の内に留めた。
だがまさか、そのまま御手に触れる意味を言及されるとは思っておらず、一瞬思考が停止しかけた。
決して疚しい気持ちがあった訳ではない。そのはずなのに、僅かに抱いていた罪悪感を咎められたような、見透かされたような感覚に、口からは謝罪の言葉が漏れていた。
事実、側仕えの身でありながら、不用意に主に触れるのは褒められた行為ではないからだ。
(…恥ずかしい)
自分が、自分のためにその御手に触れていたかった。
己の利己的な考えが恥ずかしく、手を引こうとした時だった。
勢いよく握られた自身の手に驚き、顔を上げれば、なぜかアドニス様が泣きそうな顔をしており、更に驚いた。
悪いことはしていない、手を繋いでいてくれると嬉しい───そう懸命に話して下さるお姿が嬉しくて、強く握られた手の温もりに誘われるまま、ご厚意に甘えて言葉を返した時だった。
「良かった…、…嬉しい」
そう言って、ふにゃりと微笑まれたお顔に、心臓がドクリと跳ねた。
(笑っ…て…)
初めて、アドニス様の笑ったお顔を見た。…いや、正確に言えば『今のアドニス様の』と言うべきだろう。
以前の、記憶を失う前のアドニス様の笑ったお顔も拝見したことはあるが、その時とは似ても似つかない淑やかな微笑みに、一瞬言葉を失った。
(……美しい方だ)
ずっと感じていた、別人のようであるという感覚。最初は違和感の大きかったそれを今は全く感じず、同時に以前のアドニス様と比較することも無くなってきたことにふと気づいた。
自分の中で、アドニス様という存在が、今目の前にいらっしゃるアドニス様以外に考えられなくなってきているのだろう。
───瞬間、じわりと広がった形の無い不安。
その不安に気づきたくなくて、浮かんだ考えを無理やり思考の奥底に閉じ込めるように、蓋をした。
そこからようやく始まった、お互いを知るための会話。それは、理解し切るには非常に困難なものだった。
アドニス様のお考えや、どの程度のことを『分からない』と仰っているのか、それを測るにはとても良い対話だったように思う。
しかし、食事の必要性も、聖気という自分達にとっては命の源とも呼べる存在のことも憶えていらっしゃらないことには愕然とした。
(忘れていらっしゃるのではなく、ご存知ではない体でお話しするつもりではいたが…)
アドニス様は、翼を喪ったあの日より前のことを憶えていない…知らないのだ、という気持ちで接するつもりでいた。
確かにその気持ちではいたのだが、いくら身構えていても、驚きがそれを上回るのだ。
(イヴァニエ様とルカーシュカ様のことを憶えていらっしゃらないのは覚悟していたが…)
お二人がこの部屋を訪れたあの日。
その時の光景を思い出されたアドニス様は、一目で怯えていらっしゃるのが分かった。
咄嗟に離された手は、その身を守るようにご自身の体を抱いていて、ただ見守る以外何もできない自分が口惜しくてならなかった。
(何がここまで、アドニス様を追い詰めたのだろう…)
それが分からない。根底にある何かを理解するには、程遠い所に居るのであろう自分を歯痒く思いながら、震えるアドニス様の体を温めるように、柔らかな毛布でその身をそっと包んだ。
落ち着かれるのを待ちつつ、次の会話をどう進めていくべきか考えていると、ふと目の前にアドニス様の両手が差し出された。
「…あ、あの、あの…手…を、繋いで…もらえたら…嬉しい…、です…っ」
───あまりにも、自分にとってあまりにも都合の良いような言葉に、思わず呆けてしまった。
驚きで固まった思考が、じわじわと溶けていくのに比例して、胸の内には歓喜が広がった。
御手に触れることを望んでいたのは、自分だけではなかったのだという喜びもあった。
ただそれ以上に、アドニス様がご自身の気持ちを素直にお言葉にして下さったこと、その相手として自分を望んで下さったことが、堪らないほどに嬉しかった。
少しずつでも良い。ご自身のお気持ちを言葉にすることに慣れていって下されば…いつか、なんの柵もなく、お話しして下さる日が来れば良い…そう願わずにはいられなかった。
アドニス様の御手に触れたまま、その後はイヴァニエ様とルカーシュカ様についての説明が続いた。
ただ、お二人を認識はして下さったが、その表情には困惑の色が濃く、やはり僅かに怯えているような、あまり良いとは言えない反応だった。
それよりも、ご自身が施しを受ける理由が分からないと仰る姿が悲しく、つい咎めるような言い方をしてしまった。
決して責めたかった訳ではない。そのようにお考えになられることが、心配される意味が分からないと首を傾げる姿が、どうしようもなく悲しかったのだ。
(…いつか、お二人ともお話しが出来るようになればいいのだが…)
お二人の名を何度も小さく呟かれるお姿を見つめながら、アドニス様の様子を伺っていた時だった。
ふと、顔を上げたアドニス様が、躊躇いがちに口を開かれた。
「……あの…『アドニス』って…私の、名前…?」
その一言に、ほんの一瞬、表情が強張りそうになった。
(…大丈夫。予想していたことだ)
イヴァニエ様とルカーシュカ様のことをお忘れになっていた時点で、アドニス様がご自身のこともお忘れになっているであろうことは予想していた。
ご自身の名に疑問を持つであろうことも、予想の範囲内だった。
「…はい。アドニスという名は、貴方様のお名前です」
「そ、う…」
ホッとしたように表情を和らげたアドニス様に安心していると、また何か思い出されたのか、僅かに視線を彷徨わせた後、こちらの様子を伺うように、小さく声を零した。
「…ぁ、の…あなたの、名前は…?」
その問いに、目の前にいらっしゃるアドニス様に気づかれぬ様、細く浅く息を吐き出した。
(ああ…やはり貴方様は…)
ご自身の名に疑問を抱かれた時、きっと今のアドニス様なら、疑問に思われることだろうと思っていた。
自分が名乗らぬこと、気に掛けて下さるからこそ名を知ろうとして下さること、それはとても喜ばしいことだった。
「私に名はございません」
「…え?」
───だが、お教えする名が無いのだ。
「名前が、無い…の?」
困惑の表情を浮かべたアドニス様を視界に留めながら、頭の中でどのように説明をすべきか、話の順序を組み立てていく。
「…恐れながら、アドニス様は私達天使がどのように生まれるかは憶え───…いえ、ご存知でしょうか?」
フルフルと小さく首を横に振られるお姿に、顔には出さぬまま、内心では緊張が増していく。
何も分からない、何も覚えていないのだと理解はしていても、無知である状態をいざ突きつけられると、どうしても動揺してしまう。
(…一からお教えする必要があるのだと、常に意識しろ)
自分にとっての当たり前は、アドニス様にとっての当たり前ではないのだ。それを大前提として会話をしていかなければいけない。
平常心でいられる様、動揺を悟られぬ様、薄く息を吐き出すと、アドニス様を見上げるように視線を合わせた。
「順を追ってご説明致しますね。まず、私達は一本の大樹から生まれます」
「…木、から…?」
「はい。正確に言えば、その大樹の花の蕾から生まれます」
「…はぇ…」
恐らく、全く想像できていないのだろう。ただ今は、そういう現象として理解して下さるだけでいいのだ。
「天使には階級があり、階級ごとに呼び名と姿形が異なります。花の蕾から生まれた時は赤ん坊の姿をしており、その者達は純天使と呼ばれております」
「じゅんてんし…」
「純天使として生まれた赤ん坊は、ある過程を過ぎて純天使から天使へ、天使から大天使へと、長い年月を掛けて成長していきます。但し、大天使になれる者はほんの僅かでございます。そのため、ほとんどの者は純天使か、あるいは天使の姿のまま一生を過ごします。純天使は赤ん坊の姿、天使は少年の姿、大天使になると大人の姿へと成長し、外見的に分かり易い特徴として、二対四枚の翼を有していらっしゃいます」
「ぅ……と、つまり…あなたは、天使…てこと?」
「左様でございます。…ここまでは、よろしいでしょうか?」
コクリと頷いて下さる姿には、動揺などは見て取れない。そのことにホッとする。
「先ほど、天使は花の蕾から生まれると申し上げましたが、先にその樹の名前からお伝えしますね。母提樹と、私達は呼んでおります」
「ぼだいじゅ…」
「はい。バルドル様…神様は、我々天使達のことを我が子と呼び、自身のことを父と、そう呼んでいらっしゃいます。なので私達は、神であるバルドル様を敬愛なる父とし、新しい命を育んで下さる大樹を母として、敬意を込めて母提樹と、そう呼んでおります」
「…ん」
「母提樹から生まれた純天使ですが、彼らは生まれてすぐにどう生きるかを自身で選べるのです」
「選ぶ…?」
「赤ん坊のまま過ごしたい者は、純天使から成長する必要が無く、天使になりたい者は成長するために少しずつ聖気を蓄え、自身の力を強めていきます」
「…聖気が、必要なの…?」
「はい。純天使から天使へ、天使から大天使となるには一定以上の聖気を有している必要があります。というより、成長するためにはそれ相応量の聖気が必然的に必要になって参ります」
「…ん」
「単純に、成長するには大量の聖気が必要なのだと、お考え下さいませ。…純天使はどのように生きるかを自身で選べると申し上げましたが、赤子のまま過ごすか、天使として過ごすかの二択だけではございません。命の湖に還る者もおります」
「…命、の…?」
何か引っかかるものがあったのだろうか。思案するように首を傾げるアドニス様に言葉を続けた。
「私達には、寿命という意味での生命の終わりはございません。母提樹から生まれ、命の湖に還ることで、頂いた命を天界という大地と、父なる神にお還しし、そうすることで天寿を全うしたということになります。頂いた命を還し、そうしてまた新たな魂を持って生まれてくる…それは私達にとって、死ではございません」
「……ん」
「生まれた純天使は、各々自分の意思でどのように生きるかを決めます。何十年、何百年と赤ん坊のまま生きる者、天使となるべく成長を望む者、生まれてすぐに命の湖に還る者…様々です。もちろん、純天使以外の者も還るべき場所は同じです。いつ命の湖に還るかは、自身で決められるのです」
「……うん」
「また、母提樹から純天使が生まれる時期や時間というものは決まっておりません。大樹に生った花の蕾に魂が宿り、開花と共に生まれます。その場に誰かがいて、見守っているという訳でもございません。自然と生まれ、そうして生まれてきた純天使は、自身の望むまま、好きなところへ飛んで行きます」
「……あ…」
ハッとしたように表情を変えたアドニス様に、一旦言葉を区切った。
「…なにか、お気づきになりましたでしょうか?」
「ぇ…と、名前を…付けてあげる時が…ない…?」
「左様でございます。いつ生まれるかも分からず、生まれたとしても、純天使はすぐにどこかへ行ってしまいます。ですので、名を与える時が無いのです。更に申し上げれば、生まれてきた純天使の中には、生まれて数日の内に命の湖へと還っていく者もおります。自分の意思で、誰に制限されることもなく還ってしまうため、知らぬ間にいなくなっている者がほとんどなのです。多くの純天使が日々生まれ、還っていく…自由な彼ら一人一人に名を与えるのは難しいのです」
「…なんで、生まれてすぐ…いなくなっちゃうの…?」
そう小さく呟かれた声は僅かに震え、俯いた表情には明らかな悲しみが滲んでいた。
その様子からは、生まれてすぐに還っていく純天使を心配されているのが容易に察せた。
「…アドニス様、どうかご安心下さいませ。決して嫌なことがあったから、いなくなるのではございません。彼らはそれで満足したのです。生まれてから丸一日、天界の中を飛び回り、多くの仲間達と笑い、それで彼らは満足したのです。遊び、笑い、楽しかったと、気持ちが満たされたからこそ、命の湖に還るのですよ」
「…そ…か……なら、良かった…」
泣いてしまいそうな、それでいて穏やかな表情で微笑まれたお顔は、とても綺麗だった。
ただその笑みの中に、何か特別なものを感じたが、それがなんなのかが分からなかった。
(…なんだろう?)
純天使を想って下さっているのは分かる。ただ、それだけではないように思えて、それがとても不思議だった。
「母提樹は、命の湖の中心に根を張っております。母提樹から生まれた命が、いつか命の湖へと還り、また母提樹から生まれる…そうして命を循環させているのです。いつかまた、純天使として生まれてきた時には、同じように皆と楽しく遊んで過ごすはずです」
「……うん」
言いたい言葉を飲み込んだような、何か考え込んでいるような様子に心配になったが、数秒の沈黙の後、アドニス様がおずおずと口を開かれた。
「ぁ…あの…じゃあ…名前が、ある人は…?」
「大天使になりますと、神様より名を賜るのです。ですので、多くの者は生まれた時から名を持たぬまま一生を過ごします。もしくは、少数ではございますが、天使の中には名を持つ者もおります。そういった者のことを“名付き”と呼びます」
「名付き…?」
「はい。神様ではなく、お仕えしている大天使様から仮の名を頂くのです。大天使様が名を与える理由は様々です。献身的に従事する者への褒美として、長く仕えている者への親愛の証として、単に名を与えた方が呼び易いという理由で与える方もいらっしゃいます」
「…あなたは…名付きじゃ、ない…?」
「はい。ですので、名はございません」
「…そ、う……あの、なん、ぁ…ぅ、ちがう…、なんでもない、です…」
「…なぜ、イヴァニエ様は名を与えないのだろう…と、お考えですか?」
「…っ、ぅ…えと、あの、ご、ごめんなさぃ…」
「聞いてはいけないことではございませんので、ご安心下さいませ。イヴァニエ様は一部の者だけに名を与えることを、あまり好んでいらっしゃらないようです。ですので、イヴァニエ様付きの従者の中に名を持つ者はおりません」
「そ…う、なんだ…」
「はい」
「……あの…」
「はい」
「…じゃ…あの…あなたの、こと…なんて、呼んだら、いい…?」
…正直、そう仰られるのだろうと心構えはしていた。どう答えるべきかも考えていた。
だが心構えはしていても、さざめくように揺らぎ、波を立てる感情までは止められなかった。
(…名を持たぬことを、惜しいと思ったのは初めてだ)
元から無いものであり、不便もなく、特に必要性を感じたこともなかった。名を持ちたいと思ったことも、与えられたいと思ったこともない。
ただ今は、呼ばれる名が無いということが無性に悔しかった。
(名があれば、きっとその名で呼んで下さったのだろう…)
それを心底惜しいと思うのは何故だろう。
個体を識別するだけのものであるはずのそれを、心から羨ましいと思ったのは初めてだった。
「…お声を掛けて下さいませ。この部屋には、私とアドニス様しかおりません。お声を掛けて頂ければ、私を呼んで下さっているのだと、分かりますので」
「…はい」
まだ心配があるのだろうか、不安そうに金の瞳が揺らいだ。と、ふと何かに気づいたように、パチリ、パチリとその瞳が瞬いた。
「あ、の…」
「はい」
「名前が、あると…その、大天使…様? とか、名付き…なの?」
「……はい」
「…私の、名前…あるの、どうして…?」
───動揺してはいけない。
分かっていたはずだ。お名前を忘れているということは、ご自身が元大天使であったこともお忘れなのだろうと、薄々勘付いてはいたのだ。
努めて冷静に、事実だけをお伝えすればいい。少しだけ、言葉を抜いてしまう分は、後できちんとお伝えしよう───そう思いながら、アドニス様の金の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「貴方様のお名前は、神様から賜った名です。…大天使、アドニス様」
驚いたように目を見開くアドニス様。
その反応は予想できていた分、落ち着いていることが出来た───だが…
数秒間の後、目を丸くされたまま、不思議そうに首を傾げたアドニス様の言葉に、冷静であれという考えは吹き飛んでしまった。
「私は…天使なの…?」
心底不思議そうなその表情に、血の気が引いた。
そのお顔には、あまりにも真っさらで純粋な疑問だけが浮かんでおり、恐ろしいと思うほどに無垢だった。
(…一からじゃ…ない…)
零だ。
今のアドニス様は本当に、本当に何も知らない、零の状態なのだ。
『天使』という、ご自身の存在そのものを、憶えていない───…
その事実に、ただただ言葉を失った。
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