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リリィ・ラムの産ぶ声
23.見守る者達
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「自分の名前も覚えていない…か」
「…はい」
無意識の内に吐き出した息は重く、それ以上の言葉が出てこなかった。
アドニスの様子を間接的に見守るようになってから、約一月半。ようやくではあるが、側仕えの者と会話ができるようになった。それ自体は喜ばしいことだと思う…が、その内容はやはりと言うべきか、あまり喜ばしいものではなかった。
「どうしたら自分の名前まで忘れるということになるんです?」
「俺に分かる訳ないだろう…」
二日前の話だ。アドニスが、イヴァニエのことを忘れているかもしれないという報告を受けた際、恐らくは自分のことも忘れられているのだろうと予想はしていた。その時、ふと思ったのだ。
───果たしてアイツは、自分自身のことは憶えているのだろうか…と。
その疑問をイヴァニエに伝えれば、困惑と動揺を混ぜたようななんとも言えない顔をされた。
『まさか、そんなはずはない』
そう思いつつも、嫌な予感は振り払えず、結果は案の定…といった形に収まった。それでもまだ心構えが出来ていただけ、良しと思うしかないのだろう。
「…何も分からない、と言っていたと言ったか」
「はい」
「…何も覚えていない、と考えるべきだろうな…」
「…はい」
昨日のことだ。ようやく会話することが叶った側仕えから聞いた話は衝撃的で、聞いていて混乱するほどだった。
バルコニーの片隅に積み上げられた花に気づいた瞬間、泣き出したというアドニス。
あのアドニスが泣くという、それだけでも衝撃的なことだったが、続いた内容はその比ではなかった。
幼な子のように泣きじゃくり、弱々しい声で懸命に言葉を紡いでいたという。
何も分からないと、何を聞けばいいのか、何が分からないのかも分からない、と───…
それを言葉にする異常さには気づいているようで、ずっと我慢していたようだった、と。憶測だが、それを口にすることを怖がっていたように見えた、と。
そして、それを口にすることで、他でもない側仕えである自身に迷惑が掛かるのを嫌がっていたようだ…と。
アドニスとのやりとりを事細かに報告する従者には、戸惑っている様子も困惑している様子もなく、落ち着いている声音からはそれが真実、本当なのだろうということが伝わってきた。
伝わってはきたが、それをそのまま理解し、何事もなく受け入れるには些か難があった。
疑っているという訳ではない。ただ、何故そこまでアドニスが変わってしまったのか、理解に苦しむ状況だったからだ。
今日に至るまで、アドニスの様子がおかしいことは何度も耳にしてきた。
何も求めず、何も望まず、声すら発することなく大人しく過ごしていたという日々。
その声も行動も、全てが弱々しく儚げであったという姿。
そうして泣きながら発したという言葉は、他者を想い、その為に自身の気持ちを殺し、誰かに迷惑を掛けるのを厭うというものだった。
(……そんなアドニスは知らない)
いや、そんなアドニスなどいないはずなのだ。
意味の無い悪意を振り撒き、他者を虐げ、無駄に高い自尊心と傲慢な態度で平穏な日々を乱す災害のような存在───それが、自分達の知るアドニスだ。
昨日の時点で、もはや別人の話を聞いている気分だったが、たった今報告を受けて聞いた内容は更に輪をかけて理解に苦しむものだった。
話の内容もさることながら、気になったのはあまりにも変わったアドニスの様子についてだ。
泣いて怯える弱々しい姿とは別に、たどたどしくも穏やかに話し、淡く笑みを浮かべたというアドニス。
ただ言葉を交わすだけで「嬉しい」と喜び、些細なことでも「ありがとう」と感謝の言葉を述べ、少しでも自分に比があると思えば「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にするという。
しかし記憶に残っているのは、人を嘲笑い、小馬鹿にしたように鼻で笑うアドニスの姿だ。
与えられ、傅かれるのが当然だと、感謝の心など欠片も無く、自身の悪意で他者を傷つけることしか出来なかった奴が、謝罪の言葉など言うはずもない。…そのはずなのだ。
側仕えの言葉に嘘は無いのだろう。だが、だとしても、どうしても信じることが出来なかった。
柔らかに笑んだというその表情が、穏やかに話すというその声が、まったく想像できなかったのだ。
あまりにも別人のようになったアドニスに、戸惑いと混乱は増していくばかりだった。
「名前を忘れていることも大事ですが、食事の必要性を忘れるなどということがありますか?」
「…無いだろうな」
そう、食事を摂らなかった理由が『お腹が空かなかったから』ということにも驚愕した。
食事という行為そのものは覚えていた。ただ、腹が空かないから必要無いと思った、というのは少々…いや、かなりおかしい話だった。
今まで極々自然に行っていたはずの行為を忘れている───知識はあるはずなのに、それを自身に当て嵌めて考えた時に、それが必要な行為か否かの判断が出来ていないように思えた。
間接的にその様子を聞いているだけでも分かる。
あまりにもちぐはぐで、歪な存在になっているのだ。
「恐らくですが、お食事についてはそれを用意する者すらいなかったのではないかと…その上で、今のアドニス様はご自身から何かを求める、という行為をなさいませんので…」
「ああ、それか…」
「そちらについては、報告の際に解決済みです。…解決と言っていいのかどうかは分かりませんが」
イヴァニエと二人、バルドル神の元へ報告に向かった時のことを思い出し、思わず顔を顰めた。
アドニスの様子がおかしいと気づいてすぐ、バルドル神の元へと向かった。
暗く閉ざされた部屋の中で眠り続けていたであろうアドニス。その聖気は枯渇し、命は枯れる寸前だった。
聖気を譲渡することで目覚めたアドニスは、自分達を恐れ、怯え、泣いて叫んで拒絶した。
一体いつからそのような状態だったのか…それすら定かではないが、長くアドニスという存在が放置されていたのは明白だったと報告すれば、バルドル神はひどく驚いていた。
曰く、アドニスの世話を任せた天使達に時折様子を伺い、報告は受けていた、と。
だがその報告の中にはそのような事実は無かった、と。
『恙無くお過ごしです』
謹慎処分である身の上を理解し、日々粛々と過ごしている───そう聞いていたのだという。
実際、アドニスが謹慎部屋から出ることも、部屋の中で暴れることもなく、静かに過ごしているのは事実だった。だからこそ、本当に改心したのかと驚きつつも、安心していたらしい。
それがまさか、世話を任せた天使達がただの一度もアドニスの元を訪れることもなく、ただ放置され続けていたなど、バルドル神にとっては信じられないことだっただろう。
自身の代わりに、と信じて任せていた者達に裏切られたも同然なのだから。
すぐ様アドニスの世話を任せた天使達をその場に呼び寄せ、詰問する姿には、明らかな怒りが滲んでいた。
声を荒げるでも大声を出すでもなく、淡々と問い正す姿は一見落ち着いているように見えた。だが、重く静かに響く声には身震いするほどの怒気が含まれており、血の気が引く思いだった。
案の定、呼び出された天使達は震え上がり、涙を流して謝罪と言い訳の言葉を口にした。
曰く、アドニスの側に寄るのが怖かったと。
気に食わないと暴れ、暴力を振るわれるかもしれないのが恐ろしかったと。
それでも完全に放置するつもりなど無かったと。
何かを望まれれば、きちんと応えるつもりだったと。
ただ何も望まれず、何を言われることも無かったので、自分達は必要無いのだと思っていた───…と。
前半部分については、まだ分かる。
大天使としての資格を失ったとはいえ、アドニスという存在そのものが恐怖であり、嫌悪の対象となっている天使は多いはずだ。
だが後半部分については、もはや言い訳ですらない。
自分達にとって都合の良いように物事を解釈し、これ幸いと与えられた役目を放棄したのだ。その上で、虚偽の報告を重ねていたのだから、バルドル神の怒りは尤もだろう。
それでも、自分達にはその行為を、天使達を責めることなど出来なかった。
アドニスを忌み嫌い、いない者として扱い、その存在そのものを記憶から追いやった。
世話を任せられた天使達だけではない。誰も彼もが、アドニスのことを忘れ去り、あの部屋に閉じ込め、放置したのだ。
唯一人、例え罪を犯そうと、重い罰を与えようと、愛すべき我が子だと身を案じていたバルドル神を除いて───…
天使達の懺悔と弁明の言葉を一通り聞き終えると、一旦その場を下がらせ、広い謁見の間には自分とイヴァニエ、バルドル神とその従者の四人だけが残った。
重い空気が漂う中、バルドル神が静かに口を開いた。
「お前達には心配を掛けたな。すまなかった」
「いいえ、バルドル様。私達も、あの者達と同罪です」
「それでも、お前達が気に掛けてアドニスの元を訪れることがなければ、それこそあの子は居なくなっていたかもしれないのだ。感謝している」
「…勿体ないお言葉でございます」
「……こんなことになるなら、私の目の届く範囲で監視しておくべきだったな」
「バルドル様、それは…」
「…分かっている。そんなことをすれば、アレの神経を逆撫でするだけだろう。だからこそ、他の者達に任せていたのだがな…」
はぁ…と吐き出された溜め息には、後悔の念が滲んでいた。
確かに、罰を与えたバルドル神本人が姿を見せれば、激昂したアドニスによって別の惨事が起こっていた可能性もあるだろう。それに加え、アドニスという咎人に対し、バルドル神が必要以上に心を配り、気に掛けるようなことがあれば、それを良く思わない者が出てくることも必須だった。
どうあってもバルドル神は中立的な、それでいて頂点であり絶対神の立場として、アドニスと距離を置く他に無かったのだ。
たった一人、純粋にアドニスの身を案じていたであろうその人が、誰よりも遠いところに居なければいけなかった───あまりにも皮肉的な出来事のその末がこの事態では、悔やむ気持ちも大きいだろう。
「アドニスに近づくのは難しいか?」
「…はい。私達も話すことが出来ないままその場を離れましたので、今のアドニスについては、現状何も分かっておりません。…ただ、私達を恐れ、拒絶しているのは確かです」
「…そうか。とはいえ、放っておく訳にもいくまい。誰か側に控えているのか?」
「私の従者を一人、側に置いて参りました」
「では、暫くは様子を見よう。…他の者に他言するのは少々憚られる内容だ。なるべく内密に事を進めたい。状況を把握しているお前達二人にアドニスのことを任せたいが、頼めるかな?」
「承りました」
「仰せのままに」
「何か変化があれば報告を。任せたぞ」
こちらから進言する必要もなく、事態を一任されたことに安堵しつつ、任された内容の重さに身が引き締まる思いだった。
自分自身、アドニスのことが気に掛かるのとは別に、バルドル神からの命による役目を担ったのだ。
そうして正式に、アドニスの世話を任された訳だが───…
(まさか、なにもかも忘れているとは…)
側仕えの話では、あの部屋に閉じ籠る前…つまり、翼を喪う前の記憶が全く無いのだという。
───自身の犯した罪を覚えていない。
恐らく、アドニスの現状を知らない者が聞いたら「見え透いた嘘を!」と激昂し、責め立てただろう。
自分でさえ、きっと何も知らない立場であったなら「随分と都合の良い出鱈目を言うものだな」と思っていたはずだ。
だが今は、その疑う気持ちすら潰えた。
仮にアドニスのその言葉が嘘なのだとしたら、泣いていたあの姿の全てが嘘で、演技だということになる。それこそ信じられなかったからだ。
ヴェラの花畑で出逢った時の怯えたような態度と、傷つき揺れていた金の瞳。
氷のように冷たくなった身体も、泣き叫ぶような悲鳴も、震えて怯える姿も…きっと本物なのだ。
多くのものを恐れ、怯え、感情のままに涙を流す弱々しい存在。
他者を恐れながら、それでも他者を想い、与えられた情を素直に喜び、ただ嬉しいと笑う。
プティ達を愛し、プティ達に愛される───そのどれもがきっと、今のアドニスという存在なのだ。
非常に理解し難く、信じ難い。それでいて疑おうという気持ちは微塵も湧いてこない。
バルドル神が内密に事を進めると発言した時も、心のどこかでホッとしている自分がいた。
下手にアドニスの現状を開示したところで、それこそ誰も彼もが都合の良い嘘だと決めつけ、アイツを追い込むのだろう。
そんなことにならなくて…今以上にアイツを傷つけるような事態にならずに済んで良かったと、自然とそう思っている自分に驚いた。
「…アイツに、今までの記憶は無いと考えて行動すべきなんだろうか」
「そうすべきでしょうね。ついでに、私達も今までのアドニスと思って接しない方が賢明でしょう」
「…どうして、こんなことになってるんだろうな…」
アドニスの変わり様も気になるが、そもそもどうして記憶を失うなんてことになったのか? それが分からなかった。
「心当たりがあるとすれば、あの日の出来事しかありませんが…」
「…あの時のショックでか?」
「他に無いでしょう?」
思い出すのは断罪の日の出来事だ。
翼の剥奪───確かに、それ以外に思い当たる節は無い。とはいえ、天使である我々がそもそも記憶を失うということがあるのか、そこからして疑問なのだ。
人間が強い衝撃を受けることにより、記憶を失うという現象があることは知っている。
ただ、それは“人間”の話なのだ。我々“天使”は姿形こそ人間と似ているが、全くの異なる存在だ。
人間の身に起こるというその現象が、自分達にも当て嵌まるものなのか…疑問でしかなかった。
(仮に記憶を失っているのだとして、人格そのものがここまで変貌するものだろうか…?)
もしそうなのだとしたら、今のアドニスの性格はどこから生まれたのか?
まさか元々は、あのように弱々しい人格だったとでも言うのだろうか?
だとしても、プティ達がアドニスを受け入れるほど、魂の在り方や聖気の性質そのものまで変質することなど、あり得ないはずだ。
(……分からん)
分からないことが多すぎる。
確かめようにも、アドニス自身が何も分かっていないのでは、確認することも出来ない。堂々巡りな現状に、何度目か分からない溜め息が零れた。
「…ご報告を続けても、よろしいでしょうか?」
「ああ、悪い。続けてくれ」
既に頭の中は疑問でいっぱいだったが、まだ報告の途中だった。だがこれ以上、衝撃を受けるような話など無いだろう…と、そう思っていた。
「どうしました?」
「…いえ…」
何故か言葉を選ぶように言い淀む姿に、これ以上まだ何かあるのだろうかと緊張が走った。
ほんの数秒、迷うように視線を泳がせた側仕えは、一度深く息を吸い込むと、意を決したように言葉を吐き出した。
「───アドニス様ですが」
「ご自身が天使であることも、憶えていらっしゃいません」
--------------------
ここから数話ほど、視点変動が続く予定です。
近況ボードにも書いておりますが、お話の
『数字のみ』=アドニスくん視点
『数字+タイトル』=アドニスくん以外の人視点or三人称視点
となります。お話が行ったり来たりしますが、なるべくゴチャゴチャしないよう頑張りますので、何卒ご了承下さいませ。
「…はい」
無意識の内に吐き出した息は重く、それ以上の言葉が出てこなかった。
アドニスの様子を間接的に見守るようになってから、約一月半。ようやくではあるが、側仕えの者と会話ができるようになった。それ自体は喜ばしいことだと思う…が、その内容はやはりと言うべきか、あまり喜ばしいものではなかった。
「どうしたら自分の名前まで忘れるということになるんです?」
「俺に分かる訳ないだろう…」
二日前の話だ。アドニスが、イヴァニエのことを忘れているかもしれないという報告を受けた際、恐らくは自分のことも忘れられているのだろうと予想はしていた。その時、ふと思ったのだ。
───果たしてアイツは、自分自身のことは憶えているのだろうか…と。
その疑問をイヴァニエに伝えれば、困惑と動揺を混ぜたようななんとも言えない顔をされた。
『まさか、そんなはずはない』
そう思いつつも、嫌な予感は振り払えず、結果は案の定…といった形に収まった。それでもまだ心構えが出来ていただけ、良しと思うしかないのだろう。
「…何も分からない、と言っていたと言ったか」
「はい」
「…何も覚えていない、と考えるべきだろうな…」
「…はい」
昨日のことだ。ようやく会話することが叶った側仕えから聞いた話は衝撃的で、聞いていて混乱するほどだった。
バルコニーの片隅に積み上げられた花に気づいた瞬間、泣き出したというアドニス。
あのアドニスが泣くという、それだけでも衝撃的なことだったが、続いた内容はその比ではなかった。
幼な子のように泣きじゃくり、弱々しい声で懸命に言葉を紡いでいたという。
何も分からないと、何を聞けばいいのか、何が分からないのかも分からない、と───…
それを言葉にする異常さには気づいているようで、ずっと我慢していたようだった、と。憶測だが、それを口にすることを怖がっていたように見えた、と。
そして、それを口にすることで、他でもない側仕えである自身に迷惑が掛かるのを嫌がっていたようだ…と。
アドニスとのやりとりを事細かに報告する従者には、戸惑っている様子も困惑している様子もなく、落ち着いている声音からはそれが真実、本当なのだろうということが伝わってきた。
伝わってはきたが、それをそのまま理解し、何事もなく受け入れるには些か難があった。
疑っているという訳ではない。ただ、何故そこまでアドニスが変わってしまったのか、理解に苦しむ状況だったからだ。
今日に至るまで、アドニスの様子がおかしいことは何度も耳にしてきた。
何も求めず、何も望まず、声すら発することなく大人しく過ごしていたという日々。
その声も行動も、全てが弱々しく儚げであったという姿。
そうして泣きながら発したという言葉は、他者を想い、その為に自身の気持ちを殺し、誰かに迷惑を掛けるのを厭うというものだった。
(……そんなアドニスは知らない)
いや、そんなアドニスなどいないはずなのだ。
意味の無い悪意を振り撒き、他者を虐げ、無駄に高い自尊心と傲慢な態度で平穏な日々を乱す災害のような存在───それが、自分達の知るアドニスだ。
昨日の時点で、もはや別人の話を聞いている気分だったが、たった今報告を受けて聞いた内容は更に輪をかけて理解に苦しむものだった。
話の内容もさることながら、気になったのはあまりにも変わったアドニスの様子についてだ。
泣いて怯える弱々しい姿とは別に、たどたどしくも穏やかに話し、淡く笑みを浮かべたというアドニス。
ただ言葉を交わすだけで「嬉しい」と喜び、些細なことでも「ありがとう」と感謝の言葉を述べ、少しでも自分に比があると思えば「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にするという。
しかし記憶に残っているのは、人を嘲笑い、小馬鹿にしたように鼻で笑うアドニスの姿だ。
与えられ、傅かれるのが当然だと、感謝の心など欠片も無く、自身の悪意で他者を傷つけることしか出来なかった奴が、謝罪の言葉など言うはずもない。…そのはずなのだ。
側仕えの言葉に嘘は無いのだろう。だが、だとしても、どうしても信じることが出来なかった。
柔らかに笑んだというその表情が、穏やかに話すというその声が、まったく想像できなかったのだ。
あまりにも別人のようになったアドニスに、戸惑いと混乱は増していくばかりだった。
「名前を忘れていることも大事ですが、食事の必要性を忘れるなどということがありますか?」
「…無いだろうな」
そう、食事を摂らなかった理由が『お腹が空かなかったから』ということにも驚愕した。
食事という行為そのものは覚えていた。ただ、腹が空かないから必要無いと思った、というのは少々…いや、かなりおかしい話だった。
今まで極々自然に行っていたはずの行為を忘れている───知識はあるはずなのに、それを自身に当て嵌めて考えた時に、それが必要な行為か否かの判断が出来ていないように思えた。
間接的にその様子を聞いているだけでも分かる。
あまりにもちぐはぐで、歪な存在になっているのだ。
「恐らくですが、お食事についてはそれを用意する者すらいなかったのではないかと…その上で、今のアドニス様はご自身から何かを求める、という行為をなさいませんので…」
「ああ、それか…」
「そちらについては、報告の際に解決済みです。…解決と言っていいのかどうかは分かりませんが」
イヴァニエと二人、バルドル神の元へ報告に向かった時のことを思い出し、思わず顔を顰めた。
アドニスの様子がおかしいと気づいてすぐ、バルドル神の元へと向かった。
暗く閉ざされた部屋の中で眠り続けていたであろうアドニス。その聖気は枯渇し、命は枯れる寸前だった。
聖気を譲渡することで目覚めたアドニスは、自分達を恐れ、怯え、泣いて叫んで拒絶した。
一体いつからそのような状態だったのか…それすら定かではないが、長くアドニスという存在が放置されていたのは明白だったと報告すれば、バルドル神はひどく驚いていた。
曰く、アドニスの世話を任せた天使達に時折様子を伺い、報告は受けていた、と。
だがその報告の中にはそのような事実は無かった、と。
『恙無くお過ごしです』
謹慎処分である身の上を理解し、日々粛々と過ごしている───そう聞いていたのだという。
実際、アドニスが謹慎部屋から出ることも、部屋の中で暴れることもなく、静かに過ごしているのは事実だった。だからこそ、本当に改心したのかと驚きつつも、安心していたらしい。
それがまさか、世話を任せた天使達がただの一度もアドニスの元を訪れることもなく、ただ放置され続けていたなど、バルドル神にとっては信じられないことだっただろう。
自身の代わりに、と信じて任せていた者達に裏切られたも同然なのだから。
すぐ様アドニスの世話を任せた天使達をその場に呼び寄せ、詰問する姿には、明らかな怒りが滲んでいた。
声を荒げるでも大声を出すでもなく、淡々と問い正す姿は一見落ち着いているように見えた。だが、重く静かに響く声には身震いするほどの怒気が含まれており、血の気が引く思いだった。
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曰く、アドニスの側に寄るのが怖かったと。
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それでも完全に放置するつもりなど無かったと。
何かを望まれれば、きちんと応えるつもりだったと。
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前半部分については、まだ分かる。
大天使としての資格を失ったとはいえ、アドニスという存在そのものが恐怖であり、嫌悪の対象となっている天使は多いはずだ。
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自分達にとって都合の良いように物事を解釈し、これ幸いと与えられた役目を放棄したのだ。その上で、虚偽の報告を重ねていたのだから、バルドル神の怒りは尤もだろう。
それでも、自分達にはその行為を、天使達を責めることなど出来なかった。
アドニスを忌み嫌い、いない者として扱い、その存在そのものを記憶から追いやった。
世話を任せられた天使達だけではない。誰も彼もが、アドニスのことを忘れ去り、あの部屋に閉じ込め、放置したのだ。
唯一人、例え罪を犯そうと、重い罰を与えようと、愛すべき我が子だと身を案じていたバルドル神を除いて───…
天使達の懺悔と弁明の言葉を一通り聞き終えると、一旦その場を下がらせ、広い謁見の間には自分とイヴァニエ、バルドル神とその従者の四人だけが残った。
重い空気が漂う中、バルドル神が静かに口を開いた。
「お前達には心配を掛けたな。すまなかった」
「いいえ、バルドル様。私達も、あの者達と同罪です」
「それでも、お前達が気に掛けてアドニスの元を訪れることがなければ、それこそあの子は居なくなっていたかもしれないのだ。感謝している」
「…勿体ないお言葉でございます」
「……こんなことになるなら、私の目の届く範囲で監視しておくべきだったな」
「バルドル様、それは…」
「…分かっている。そんなことをすれば、アレの神経を逆撫でするだけだろう。だからこそ、他の者達に任せていたのだがな…」
はぁ…と吐き出された溜め息には、後悔の念が滲んでいた。
確かに、罰を与えたバルドル神本人が姿を見せれば、激昂したアドニスによって別の惨事が起こっていた可能性もあるだろう。それに加え、アドニスという咎人に対し、バルドル神が必要以上に心を配り、気に掛けるようなことがあれば、それを良く思わない者が出てくることも必須だった。
どうあってもバルドル神は中立的な、それでいて頂点であり絶対神の立場として、アドニスと距離を置く他に無かったのだ。
たった一人、純粋にアドニスの身を案じていたであろうその人が、誰よりも遠いところに居なければいけなかった───あまりにも皮肉的な出来事のその末がこの事態では、悔やむ気持ちも大きいだろう。
「アドニスに近づくのは難しいか?」
「…はい。私達も話すことが出来ないままその場を離れましたので、今のアドニスについては、現状何も分かっておりません。…ただ、私達を恐れ、拒絶しているのは確かです」
「…そうか。とはいえ、放っておく訳にもいくまい。誰か側に控えているのか?」
「私の従者を一人、側に置いて参りました」
「では、暫くは様子を見よう。…他の者に他言するのは少々憚られる内容だ。なるべく内密に事を進めたい。状況を把握しているお前達二人にアドニスのことを任せたいが、頼めるかな?」
「承りました」
「仰せのままに」
「何か変化があれば報告を。任せたぞ」
こちらから進言する必要もなく、事態を一任されたことに安堵しつつ、任された内容の重さに身が引き締まる思いだった。
自分自身、アドニスのことが気に掛かるのとは別に、バルドル神からの命による役目を担ったのだ。
そうして正式に、アドニスの世話を任された訳だが───…
(まさか、なにもかも忘れているとは…)
側仕えの話では、あの部屋に閉じ籠る前…つまり、翼を喪う前の記憶が全く無いのだという。
───自身の犯した罪を覚えていない。
恐らく、アドニスの現状を知らない者が聞いたら「見え透いた嘘を!」と激昂し、責め立てただろう。
自分でさえ、きっと何も知らない立場であったなら「随分と都合の良い出鱈目を言うものだな」と思っていたはずだ。
だが今は、その疑う気持ちすら潰えた。
仮にアドニスのその言葉が嘘なのだとしたら、泣いていたあの姿の全てが嘘で、演技だということになる。それこそ信じられなかったからだ。
ヴェラの花畑で出逢った時の怯えたような態度と、傷つき揺れていた金の瞳。
氷のように冷たくなった身体も、泣き叫ぶような悲鳴も、震えて怯える姿も…きっと本物なのだ。
多くのものを恐れ、怯え、感情のままに涙を流す弱々しい存在。
他者を恐れながら、それでも他者を想い、与えられた情を素直に喜び、ただ嬉しいと笑う。
プティ達を愛し、プティ達に愛される───そのどれもがきっと、今のアドニスという存在なのだ。
非常に理解し難く、信じ難い。それでいて疑おうという気持ちは微塵も湧いてこない。
バルドル神が内密に事を進めると発言した時も、心のどこかでホッとしている自分がいた。
下手にアドニスの現状を開示したところで、それこそ誰も彼もが都合の良い嘘だと決めつけ、アイツを追い込むのだろう。
そんなことにならなくて…今以上にアイツを傷つけるような事態にならずに済んで良かったと、自然とそう思っている自分に驚いた。
「…アイツに、今までの記憶は無いと考えて行動すべきなんだろうか」
「そうすべきでしょうね。ついでに、私達も今までのアドニスと思って接しない方が賢明でしょう」
「…どうして、こんなことになってるんだろうな…」
アドニスの変わり様も気になるが、そもそもどうして記憶を失うなんてことになったのか? それが分からなかった。
「心当たりがあるとすれば、あの日の出来事しかありませんが…」
「…あの時のショックでか?」
「他に無いでしょう?」
思い出すのは断罪の日の出来事だ。
翼の剥奪───確かに、それ以外に思い当たる節は無い。とはいえ、天使である我々がそもそも記憶を失うということがあるのか、そこからして疑問なのだ。
人間が強い衝撃を受けることにより、記憶を失うという現象があることは知っている。
ただ、それは“人間”の話なのだ。我々“天使”は姿形こそ人間と似ているが、全くの異なる存在だ。
人間の身に起こるというその現象が、自分達にも当て嵌まるものなのか…疑問でしかなかった。
(仮に記憶を失っているのだとして、人格そのものがここまで変貌するものだろうか…?)
もしそうなのだとしたら、今のアドニスの性格はどこから生まれたのか?
まさか元々は、あのように弱々しい人格だったとでも言うのだろうか?
だとしても、プティ達がアドニスを受け入れるほど、魂の在り方や聖気の性質そのものまで変質することなど、あり得ないはずだ。
(……分からん)
分からないことが多すぎる。
確かめようにも、アドニス自身が何も分かっていないのでは、確認することも出来ない。堂々巡りな現状に、何度目か分からない溜め息が零れた。
「…ご報告を続けても、よろしいでしょうか?」
「ああ、悪い。続けてくれ」
既に頭の中は疑問でいっぱいだったが、まだ報告の途中だった。だがこれ以上、衝撃を受けるような話など無いだろう…と、そう思っていた。
「どうしました?」
「…いえ…」
何故か言葉を選ぶように言い淀む姿に、これ以上まだ何かあるのだろうかと緊張が走った。
ほんの数秒、迷うように視線を泳がせた側仕えは、一度深く息を吸い込むと、意を決したように言葉を吐き出した。
「───アドニス様ですが」
「ご自身が天使であることも、憶えていらっしゃいません」
--------------------
ここから数話ほど、視点変動が続く予定です。
近況ボードにも書いておりますが、お話の
『数字のみ』=アドニスくん視点
『数字+タイトル』=アドニスくん以外の人視点or三人称視点
となります。お話が行ったり来たりしますが、なるべくゴチャゴチャしないよう頑張りますので、何卒ご了承下さいませ。
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