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リリィ・ラムの産ぶ声
19.誰が為の願い事(中)
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『必要ない』という、拒絶とも取れる言葉に、無意識の内に思考が歪んでいた。
そのままの意味として受け止めれば良かった言葉を、湾曲して解釈してしまったことを瞬時に後悔した。
「ちがう…違うんだ…! あなたが…嫌とかじゃ、なくて…そういうことじゃなくて…! あの、もう、必要ないって…わ、私の…近くに、いる必要が、ないって、いう、意味で、あの…ほ、放っておいて、くれて、いいから…だ、誰も、いなくても…何もしないし……、あの、大人しく、して…る、から…」
今にも泣き出してしまいそうなほど震えた声は、言葉は、聞いていて苦しくなるほどだった。
自身を蔑ろにするような言い方に、そう言わせてしまった己の浅慮さに、腹が立った。同時に、自分自身が拒絶されている訳ではないということに安堵し、アドニス様のことを何一つ分かっていないのだという現実にショックを受けた。
複雑な感情に理解が追いつかず、定型と化した言葉しか返せない。
(…違う! こうではない…!)
漠然と『何かが違う』と思いながらも、それが分からず、言葉に出来ない。そんな己の未熟さに奥歯を噛み締めた。
その視界の端に、項垂れるアドニス様の姿を捉え、なんのお役にも立てない不甲斐無さと申し訳なさから、自然と言葉が零れた。
「…お力になれず、申し訳ございません」
そう口にした瞬間、床に座り込んでいたアドニス様が勢いよく立ち上がり、驚いたせいで反応が遅れた。
お声を掛ける暇もなく、そのまま寝室へと向かう背中を唖然としたまま見送りそうになり、慌てて口を開こうとした瞬間だった。
「…、すこ、し、一人にして、くださぃ…っ」
「…ッ」
───泣いているような声だった。
水気を帯びた小さな声が、静かな室内に波紋のように広がり、鼓膜を揺さ振った。
(…私は…なにを…)
自身の言葉がキッカケなのは間違いなかった。
ただ、そんな言葉を言ったつもりなど微塵もなかった。
なにがいけなかった?
なにを間違えた?
…今の、アドニス様に、どのように接すればいい?
───分からない。だが、分からないでは済まされない。
(今は…私が、アドニス様の側使えなのだから…)
自分以外、いないのだ。
できることなら、このまま役目を果たしたい。
一人になりたいというお気持ちを無視するつもりはなかったが、放っておけるはずもなく、後を追うように寝室へと向かった。
近づいた寝室の扉の前、ふと、それがほんの少しだけ開いていることに気づいた。
(ああ、シーツが挟まって…)
引きずられていたシーツが挟まり、きちんと閉まらなかったのだろう。
そっと扉の前から離れようとして───思わず動きを止めた。
「───…、ひ…っ、ぅ…」
扉の僅かな隙間から漏れる小さな泣き声に、息を呑んだ。
分かっていたはずだ。水気を帯びた震えた声を耳にした時に、泣いていらっしゃるのだと、分かっていたはず…それなのに、声を殺すような、弱々しい泣き声を目の前に、頭が真っ白になった。
フラリと蹌踉めきながら扉から離れ、横の壁にもたれ掛かると、茫然と立ち尽くした。
(…どうしたらいい…)
何もできない自分を歯痒いと思う気持ち。
それに加え、どうしたらお力になれるのか、どうしたら泣き止んで下さるのか、どうしたら…厚い壁の向こう側に触れられるのか…答えの出ない疑問ばかりが、頭の中でぐるぐると渦巻いた。
(お役に…アドニス様の為に、私に何ができる…?)
与えられた役目を、言われた通りにこなすのではない。
自分の意思で、ただ純粋に、この方のお役に立ちたい。この方の為に、何かがしたい。
その為に、お力になれるだけの自分で在りたい───そんな風に思ったのは、初めてのことだった。
ただ、今の自分には足りないものが多すぎて何もできない。何をしたらいいのかも分からない。
不甲斐なさと、そんな自分への憤りで、無意識の内に拳をキツく握り締めていた。
(どうしたら……)
誰かを想い、そのために動くことの難しさを、この時初めて知った。
か細い泣き声はなかなか止まず、壁を背にしたまま静かに待ち続けた。
陽が傾き始めた頃、ふと泣き声が止んでいることに気づき、扉の隙間へと視線を移した。が、そこにはシーツが挟まったままで、すぐ扉越しにアドニス様がいらっしゃるのが分かった。
お休みにならないのだろうか…そんな疑問を浮かべながら、恐る恐る扉をノックして開けば、先ほどのように床に座り込んだままのアドニス様がそこにいた。
(なぜ…)
冷たい床は冷えるだろうに、何時間こうしていらっしゃったのか、物悲しさに眉間に皺が寄った。
ベッドで休んでほしいとお伝えしても、動く気配のないお姿に言葉を重ねた。
「…アドニス様の為にご用意したのです。そのままお休みになるのは、お身体にも障ります。…どうか、お願いでございます」
直後に、僅かに身じろぎしたシーツの隙間からほんの少し、そのお顔が見えた。
その表情が、瞳が、とても不思議そうなものを見るような目をしていて、表情を崩さないため、そっと視線を下げた。
特別なことなど何も言っていない。
それなのに、まるで、その意味が分からないとでも言いたげな瞳が、どうしようもなく悲しかった。
その後、ゆっくりとベッドに横になられたお姿を見届けてから、床に落とされたシーツを拾い上げた。
(明日は、どうなるだろうか…)
まずは今日の出来事を、イヴァニエ様にご報告せねば…とても、良いとは言えない報告内容になることに、小さく溜め息を零した。
案の定、ご報告した内容に、イヴァニエ様もルカーシュカ様も難しいお顔をされていた。
それもそうだろう。今のアドニス様をお一人にすることはできない。分かっていたことだ。
ただ、一人になりたいというお気持ちがアドニス様から求められる唯一の願いというのが、切なかった。
結局、ご希望を叶えることは出来ず、そのことをアドニス様にお伝えすれば、ただ静かに頷かれるだけの返事が返ってきた。
恐らく、ご自身でも分かっていたのだろう。なんの不満を口にすることも無く、言われたことを粛々と受け入れるお姿は、アドニス様にはあまりにも似つかわしくなく…それでいて、何故か今は、そのお姿に違和感を感じなくなってきていることに驚いた。
アドニス様らしくないのに、今のアドニス様の態度に、不思議と違和感を感じない。
奇妙な矛盾を感じながらも、会話の切り口になれば…と、その日から毎日、寝具を整える了承を得るようになった。ところが…
(今日も、お声を聞けなかった…)
あの日から、アドニス様は一言も話さなくなってしまわれた。本当に、ただの一言も、口を開くことすらなくなってしまった。
それどころか、首を振ったり頷いたりといった動作すら少なくなり、ただでさえシーツに隠れ見えなかったお姿は、更に見えなくなってしまった。
(どうして…)
いや、原因は分かってる。
あの日の、アドニス様の望みを何一つ叶えられなかった、あの会話のせいだろう。
何も仰られないそのお姿は、何を言っても無駄なのだと、全てを諦めてしまわれているように見えて、日毎に焦りが募っていった。
そのせいだろうか。気づいた時には、無条件にこちらの言葉を受け入れられるようになってしまわれた。
一度、床の上に直に座るのはお体に障るから…と、椅子に座られた方がいいと勧めたことがあった。
勿論、強制するつもりなどなかった。拒否して下さっても良かったし、敷物を望んで下さっても良かったのだ。だがアドニス様は、ほとんど反応されないまま、静かに立ち上がると、長椅子の上で膝を抱えるように座り直し、そのまま動かなくなってしまった。その翌日から、床の上に座ることは無くなった。
冷たい床に直接座られなくなったのは良い。ただ、その経緯は決して良くないものだった。
(そうであろうと、ご自身を律していらっしゃるように見える…)
ほんの少し前までの、自分のそれとは違う『従順であれ』という姿勢に顔を顰めた。
自分はただ、己の意思が無かっただけ。言われたことを、言われたままに行うことへの疑問も、抵抗も無かった。当たり前のこととして受け入れていたのだ。
だがアドニス様のそれは…意図的に、ご自身の意思を無視して、無理やり従順であろうとしていらっしゃるように見えた。それはとても痛々しく、悲しいお姿だった。
毎日お側にいて、ただそのお姿を眺めることしかできない。
泣きたくなるほどの無力感に日々襲われたが、本当に泣きたいのは自分ではないと、何度も深呼吸を繰り返しては冷静であろうと努めた。
日が経つほど、アドニス様の動きは減っていった。
ベッドから起き上がり、寝室を後にすると、隣室の長椅子の上で座ったまま一日中過ごされる。
寝具を整え、主室に移動した後は、アドニス様のお側から近すぎず遠すぎない、お声が届くギリギリの位置に立ち、無言のまま過ごす日々が幾日も続いた。
無言であることも、何もせず立っているだけの行為も、苦痛でも何でもなかった。
ただ、静寂だけが満ちた空っぽな室内で、そこに居るのにいない様な、存在感すら押し殺しているようなシーツ越しのお姿がただ寂しく───怖かった。
陽の光に透けた白いシーツの向こう側。その輪郭だけがうっすらと透け、影になっていた。
その影が今にも消えてしまいそうで、瞬きの間にも居なくなってしまわれるのではないかという恐怖で、一時でも視線を逸らすことができなかった。
あまりにも儚げなお姿に、不安は日々増していく。
明日も居て下さるだろうか?
いつか、気づかぬ内に居なくなってしまわれるのではないか?
それを、心底恐ろしいと思うようになった。
「私の力が及ばず、大変申し訳ございません」
日課となったイヴァニエ様とルカーシュカ様へのご報告の席で、深く頭を下げた。
アドニス様が口を閉ざされてから、一月近くが経っていた。その間、なんの進展もなく、なんのお役にも立てない己の不甲斐無さに、唇をキツく噛んだ。
「あなたのせいではないでしょう? 顔を上げなさい」
「いえ、私が余計なことを言わなければ、このようなことには…」
「自分を責めるな。お前がアイツの側にいなければ、それこそどうなっていたか分からないし、俺達では、側に寄ることすらできないんだ。…どうすればいいか分からないのは俺達だって一緒だ。手探りで試していくしかないだろう」
「……はい」
短い沈黙が流れる。どのように動けばいいのか、自分が分からないように、お二人は報告される内容でしかアドニス様のご様子が分からないのだ。
己以上に不確定で不安定な情報では、何かを判断することすら難しいだろう。
「…アイツは、どんな感じだ?」
「日々静かにお過ごしで───」
「ああ、そうじゃない。そうじゃなくて…お前の目から見て、アドニスはどう見える?」
「私の…」
そう言われ、目に焼きついた弱々しいお姿を思い浮かべる。
脳内に浮かんだ印象は、凡そお二人の記憶にあるアドニス様とはかけ離れたもので、口にすべきか一瞬躊躇った。
「恐れながら、お二方の印象とはかなり異なりますので…」
「構わない。それが聞きたいんだ」
思いがけず、強い眼差しと口調で返されたことに驚きつつ、記憶にあるアドニス様の姿を思い浮かべ、言葉を選ぶように口を開いた。
「あくまで、私個人が受けた印象ですが……とても弱く、儚げなお方です。お言葉も、お声も…全てにお力が無く…その……お食事を摂って下さらないことも含め、生きようとする意思が無いように見えます」
「……そうか」
「………」
重い沈黙に辺りが静まり返った。
それもそうだろう。もし本当に、アドニス様に生きる意思が無いのだとしたら、これまでの行いは全て無意味になるからだ。
それ以上に、そこまでアドニス様が追い込まれているのだという現状に、空気は重くなった。
ただ予想外にも、個人的な印象とお伝えしたとはいえ、お二人ともアドニス様の様子が以前と全く異なる点については、疑問に思うことが無いようだった。
何かお心当たりがあったのだろうか…そんなことを思いながら、ポツリと言葉が零れた。
「…アドニス様の御心を、繋ぎ止めるようなものがあればよろしいのですが…」
何となしに、ただの願望として零した言葉に、ルカーシュカ様がハッとしたように顔を上げた。
「そうだ……窓の…大きな窓があるだろう。あの外に、アドニスが出たことはあるか?」
「いいえ、ございません」
「なら、窓の外に出してやってくれ」
「そこに、何か…?」
「…多分だが、アイツにとっては、大事な物があるはずだ」
「……畏まりました」
それが何なのかはあえて聞かなかった。
明日、自分の目で確かめればいい…そう思いながら、ふと先ほどの会話の中で足りなかった言葉と、重要なことをお伝えし忘れていたことを思い出し、思わず「あ」と声が漏れてしまった。
「どうしました?」
「いえ、申し訳ございません。お伝えし忘れていたことを思い出しまして…」
「なんです?」
「…その前に、先ほどの…アドニス様の印象について、もう一点、よろしいでしょうか?」
「ええ」
イヴァニエ様とルカーシュカ様の視線が刺さる。それに気圧されそうになりながら、努めて冷静に口を開いた。
「私には、あの方が…以前のアドニス様とは、別の方のように見えます」
「「!」」
お二人が、息を呑んだのが分かった。
「最初はあまりにも様子が異なるので、違和感が大きかったのですが、ここ最近は、その違和感をまったく感じないのです。上手く言えませんが、以前のアドニス様とは異なる…別の方がそこにいらっしゃるような…別人だと、脳が勝手に認識してしまっているのかもしれません」
「…長く側にいるからな。そう感じるのも無理はない」
「それもありますが…申し訳ございません。こちらはお伝えし忘れていたのことになるのですが…」
「…なんでしょう?」
緊張した面持ちのイヴァニエ様とルカーシュカ様に、私まで飲まれそうになる。フッと息を吐き出すと、短く息を吸い込んだ。
「恐らく、としか言えませんが……今のアドニス様は、イヴァニエ様のことを憶えていらっしゃいません」
シン…と静まり返った痛いほどの沈黙。お二人とも目を見開き、その表情は驚愕に染まっていた。
「……それは、どういう…」
お言葉を返して下さったイヴァニエ様に視線を合わせ、あの日のアドニス様のご様子を伝えた。
「アドニス様と、お話しをさせて頂いた時のことです。私がお側に控えているのは、イヴァニエ様からのご指示だと、そうお伝えしました。…ですが、アドニス様はその後、イヴァニエ様のことを『その人』と…お呼びになられました」
「…!」
「…ッ」
自身が感じた違和感。それが通じたのだろう。お二人とも目元や口元を手で押さえ、俯かれてしまった。
「ご報告が遅くなり、大変申し訳ございませんでした。他のことに気を取られ、失念しておりました。私の過失です。」
「……いえ、責めるつもりはありません…ですがこれは…どうしたら…」
「そもそも、なんでそうなったんだ…? どうしたら忘れたなんてことになる?」
「…もしや、ルカーシュカのことも…?」
「ルカーシュカ様のお名前を出したことがないので、判断が出来兼ねますが、イヴァニエ様のことだけお忘れになっている、という方が不自然かと…」
「…そうだな…」
はぁ、と大きな溜め息が二つ重なった。
戸惑いと混乱と動揺。それらが混ざり合い、なんとも言えない空気が漂っていた。
一呼吸置いて、その空気を振り払うようにルカーシュカ様が席を立たれた。
「アドニスの様子がおかしいことには気づいてたんだ。その一端に気づけただけ、良かったと思おう。どちらにせよ、バルドル様へご報告をしなければな」
「…そうですね、ええ…」
余程ショックだったのか、席から立ち上がれないままのイヴァニエ様を横目に、ルカーシュカ様がこちらを見た。
「ご苦労だった。これからもアイツとの会話には注意してくれ。それと、報告に漏れがない様、今後は気をつけてくれ」
「畏まりました。私の過失でありながら、寛大なご配慮に感謝申し上げます」
「いや、随分と面倒なことを押しつけてしまって、すまないな」
「…御心遣い、痛み入ります。ですが私は、このような状況であればこそ、アドニス様のお側にお仕えできることを嬉しく思っております」
「……そうか。よろしく頼む」
「仰せのままに」
告げた言葉に、少しだけ驚いたような顔をされた後、僅かに微笑んで下さったルカーシュカ様。
そのお優しい表情からは、自分を…アドニス様を、ご心配して下さっているのだろうお気持ちが伝わり、嬉しくなった。
まだお話が残っている様子のお二人の前を失礼し、部屋を後にする。イヴァニエ様の離宮の廊下を歩きながら、陽が落ちた窓の外に視線を向けた。
アドニス様は、陽が落ちると共にお休みになられる。本来であれば、お休みになった後もお近くに控えているべきだが、今は離宮から毎日通いでお仕えしている為、それすら儘ならない状況だ。
(…何事もなく、お休みだろうか…)
お側を離れている間に何事か起こらないか、気が気でならなかった。
そのように思うようになったのは一体いつからか…それすら思い出せないほど、アドニス様を想う気持ちは日毎増していった。
(窓の外…か)
明日、早速お声を掛けてみよう。せめて…それが御心の御慰めとなる何かであれば良いと、そう願いながら。
翌朝、朝の支度をするにもまだ早い時間にアドニス様のいる部屋を訪れた。
そのまま真っ直ぐ、ルカーシュカ様の言っていた大きな窓へ近づくと、そのままバルコニーへと出た。
「……花?」
室内から一歩外に出たすぐそこに、それはあった。
窓の隅、カーテンの陰に隠れるようにして積み重なった、花の山。
(いつの間に…いや、いつからこれは此処に…?)
バルコニーに出ることがなかったので全く気づかなかった。と同時に、何故ルカーシュカ様はこれの存在を知っていたのか、疑問が沸いた。
ルカーシュカ様は、これが『アドニス様にとって大事なもの』だと仰った。
まるで、これが此処にある意味をご存知であるかのように…
(…今は、これをアドニス様に見て頂くことの方が先だ)
浮かぶ疑問を振り払いながら、花を拾おうと籠を取り出し、手を伸ばしかけたところで動きを止めた。
(…違う。ルカーシュカ様は、アドニス様を外に出してくれと仰っていた)
それはつまり、この花をただ見せることだけが目的なのではなく、この場に在る花を見せることが目的ということなのだろう。
拾い上げようとしていた手を引くと、静かにその場を離れた。
(これを…アドニス様に…)
お見せして、それでどうなるのか見当もつかない。
それでもただ、現状を打破する何かになればいいと、縋るような思いだった。
「アドニス様。少し、よろしいでしょうか?」
いつもと同じように寝具を整え終えると、主室へと向かい、長椅子の上で膝を抱えて座るアドニス様にお声を掛けた。
ゆるりとお顔を上げたアドニス様に、見て頂きたい物があると窓の外へとお誘いすれば、とても驚いた顔で金の瞳を丸くしていた。
てっきりいつもと同じように、反応も薄いまま動いて下さると思っていたのだが、その動きは鈍く、明らかな動揺が混じっていた。
俯いたままのその表情はよく見えなかったが、目深に被ったシーツを強く握り締めている手が僅かに震えていることに気づき、ハッとした。
…もしや、お外に出ることを避けていらっしゃったのだろうか?
遅い足取りと、怯えたように身を竦めたお姿に、深く考えずに外へと招いてしまったことを悔やんだ。
(拒んで下さっても、良かったのに…)
やはりどうしてか、無理にでも従おうとしていらっしゃるお姿に歯噛みした。
無理強いしたい訳ではない。それをどうお伝えすればいいのか、どうしたら、ご負担にならないか…危う気な足取りを見つめながら、そんなことばかりを考えていた。
あと一歩。その一歩が踏み出せない様子で固まってしまったアドニス様に、どうするべきか判断に迷った。
たった一歩だが、その一歩が、アドニス様にはとてもお辛いのだろう。
だが、その一歩を踏み出して頂ければ、恐らくお見せしたい物を視界に入れて頂くことが可能なのだ。
「…こちらを、ご覧頂きたいのですが」
酷いことを言っている自覚はあった。
それでも、今この瞬間を逃してしまったら、きっと今以上に後悔する。
なんの確証もない勘でしかなかったが、その可能性だけを信じて声を振り絞った。
唇を噛み締め、意を決したように、最後の一歩を踏み出したアドニス様。
その視線が、恐る恐る、自身が指差した先に向いた。
───刹那、俯いていたお顔を上げ、翳っていた金の瞳が、息を吹き返したように輝いたのが分かった。
大きく見開かれた瞳は陽の光を受け、一層深く煌めいていた。
「………ぁ…」
小さな、聞き逃してしまいそうなほど小さな掠れた声が耳に届いたと思った、次の瞬間───金の双眸から、ボロボロと雫が零れ落ちていた。
お声を掛けることも、動くことも、目を逸らすこともできず、硬直したまま、黙ってそのお姿を見つめ続けることしかできなかった。
やがて、苦しくなるほどの泣き声が耳に届き、鼓膜と脳を揺さぶった。
まるで壊れ物に触れるように、優しげに、愛おしげに花々に触れる指先。
震える手が花に触れれば、より一層溢れた涙が頬を伝い、ポタリポタリと、雫となって落ちていった。
「…っ、うぁぁ…っ、」
堪え切れずに漏れ出たような泣き声───気づけば、己の頬も濡れていた。
(…なぜ…?)
何故、自分も泣いているのか?
何故、こんなにも苦しいのか?
何故、この方はこんなにも痛々しく泣かれるのか…
自分自身のことではないはずなのに、苦しくて、切なくて、思わず胸を押さえた。
(…泣いている、場合ではない…)
頬を伝った一筋を拭うと、深く呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせた。
この方のために、自分に何ができるか。
何故泣かれているのか、それすら分からない自分に、何ができるか。
分からないのは何故か。
分かるために、この方を知るために、何をすべきか。…自分に、何ができるか。
答えは簡単だ。
分からないのなら、聞くしかないのだ。
お声を、お言葉を、アドニス様ご本人から伺うことでしか、アドニス様のことは分からないのだ。
(……お話しがしたい)
どちらかが一方的に望みを伝えるだけでは駄目だ。一方的にそれを受け入れるだけなのも駄目だ。
互いに言葉を交わし、相互理解を深めていかなければ、きっと意味が無いのだ。
(…私に、できるだろうか…)
不安が過るが、それを振り払うように頭を振った。
(…やるんだ。私が、望んだことだ)
お力になりたい。アドニス様のために在れる自分でありたい。
そう願い望んだのは、間違いなく自分自身なのだ。
そのために、その願いに手が届きそうな今、怖気付いている暇などなかった。
待っているだけでは駄目なのだ。
今のアドニス様には恐らく、こちらから…自分から、動く必要があるのだろう。
(私から…)
できるのかも分からない。自信など微塵もない。
それでも、この方に、アドニス様にお仕えするために、お仕えするに相応しい自分で在るために───…
まだ泣き続けるお姿を見つめながら、人知れず、固く決意した。
そのままの意味として受け止めれば良かった言葉を、湾曲して解釈してしまったことを瞬時に後悔した。
「ちがう…違うんだ…! あなたが…嫌とかじゃ、なくて…そういうことじゃなくて…! あの、もう、必要ないって…わ、私の…近くに、いる必要が、ないって、いう、意味で、あの…ほ、放っておいて、くれて、いいから…だ、誰も、いなくても…何もしないし……、あの、大人しく、して…る、から…」
今にも泣き出してしまいそうなほど震えた声は、言葉は、聞いていて苦しくなるほどだった。
自身を蔑ろにするような言い方に、そう言わせてしまった己の浅慮さに、腹が立った。同時に、自分自身が拒絶されている訳ではないということに安堵し、アドニス様のことを何一つ分かっていないのだという現実にショックを受けた。
複雑な感情に理解が追いつかず、定型と化した言葉しか返せない。
(…違う! こうではない…!)
漠然と『何かが違う』と思いながらも、それが分からず、言葉に出来ない。そんな己の未熟さに奥歯を噛み締めた。
その視界の端に、項垂れるアドニス様の姿を捉え、なんのお役にも立てない不甲斐無さと申し訳なさから、自然と言葉が零れた。
「…お力になれず、申し訳ございません」
そう口にした瞬間、床に座り込んでいたアドニス様が勢いよく立ち上がり、驚いたせいで反応が遅れた。
お声を掛ける暇もなく、そのまま寝室へと向かう背中を唖然としたまま見送りそうになり、慌てて口を開こうとした瞬間だった。
「…、すこ、し、一人にして、くださぃ…っ」
「…ッ」
───泣いているような声だった。
水気を帯びた小さな声が、静かな室内に波紋のように広がり、鼓膜を揺さ振った。
(…私は…なにを…)
自身の言葉がキッカケなのは間違いなかった。
ただ、そんな言葉を言ったつもりなど微塵もなかった。
なにがいけなかった?
なにを間違えた?
…今の、アドニス様に、どのように接すればいい?
───分からない。だが、分からないでは済まされない。
(今は…私が、アドニス様の側使えなのだから…)
自分以外、いないのだ。
できることなら、このまま役目を果たしたい。
一人になりたいというお気持ちを無視するつもりはなかったが、放っておけるはずもなく、後を追うように寝室へと向かった。
近づいた寝室の扉の前、ふと、それがほんの少しだけ開いていることに気づいた。
(ああ、シーツが挟まって…)
引きずられていたシーツが挟まり、きちんと閉まらなかったのだろう。
そっと扉の前から離れようとして───思わず動きを止めた。
「───…、ひ…っ、ぅ…」
扉の僅かな隙間から漏れる小さな泣き声に、息を呑んだ。
分かっていたはずだ。水気を帯びた震えた声を耳にした時に、泣いていらっしゃるのだと、分かっていたはず…それなのに、声を殺すような、弱々しい泣き声を目の前に、頭が真っ白になった。
フラリと蹌踉めきながら扉から離れ、横の壁にもたれ掛かると、茫然と立ち尽くした。
(…どうしたらいい…)
何もできない自分を歯痒いと思う気持ち。
それに加え、どうしたらお力になれるのか、どうしたら泣き止んで下さるのか、どうしたら…厚い壁の向こう側に触れられるのか…答えの出ない疑問ばかりが、頭の中でぐるぐると渦巻いた。
(お役に…アドニス様の為に、私に何ができる…?)
与えられた役目を、言われた通りにこなすのではない。
自分の意思で、ただ純粋に、この方のお役に立ちたい。この方の為に、何かがしたい。
その為に、お力になれるだけの自分で在りたい───そんな風に思ったのは、初めてのことだった。
ただ、今の自分には足りないものが多すぎて何もできない。何をしたらいいのかも分からない。
不甲斐なさと、そんな自分への憤りで、無意識の内に拳をキツく握り締めていた。
(どうしたら……)
誰かを想い、そのために動くことの難しさを、この時初めて知った。
か細い泣き声はなかなか止まず、壁を背にしたまま静かに待ち続けた。
陽が傾き始めた頃、ふと泣き声が止んでいることに気づき、扉の隙間へと視線を移した。が、そこにはシーツが挟まったままで、すぐ扉越しにアドニス様がいらっしゃるのが分かった。
お休みにならないのだろうか…そんな疑問を浮かべながら、恐る恐る扉をノックして開けば、先ほどのように床に座り込んだままのアドニス様がそこにいた。
(なぜ…)
冷たい床は冷えるだろうに、何時間こうしていらっしゃったのか、物悲しさに眉間に皺が寄った。
ベッドで休んでほしいとお伝えしても、動く気配のないお姿に言葉を重ねた。
「…アドニス様の為にご用意したのです。そのままお休みになるのは、お身体にも障ります。…どうか、お願いでございます」
直後に、僅かに身じろぎしたシーツの隙間からほんの少し、そのお顔が見えた。
その表情が、瞳が、とても不思議そうなものを見るような目をしていて、表情を崩さないため、そっと視線を下げた。
特別なことなど何も言っていない。
それなのに、まるで、その意味が分からないとでも言いたげな瞳が、どうしようもなく悲しかった。
その後、ゆっくりとベッドに横になられたお姿を見届けてから、床に落とされたシーツを拾い上げた。
(明日は、どうなるだろうか…)
まずは今日の出来事を、イヴァニエ様にご報告せねば…とても、良いとは言えない報告内容になることに、小さく溜め息を零した。
案の定、ご報告した内容に、イヴァニエ様もルカーシュカ様も難しいお顔をされていた。
それもそうだろう。今のアドニス様をお一人にすることはできない。分かっていたことだ。
ただ、一人になりたいというお気持ちがアドニス様から求められる唯一の願いというのが、切なかった。
結局、ご希望を叶えることは出来ず、そのことをアドニス様にお伝えすれば、ただ静かに頷かれるだけの返事が返ってきた。
恐らく、ご自身でも分かっていたのだろう。なんの不満を口にすることも無く、言われたことを粛々と受け入れるお姿は、アドニス様にはあまりにも似つかわしくなく…それでいて、何故か今は、そのお姿に違和感を感じなくなってきていることに驚いた。
アドニス様らしくないのに、今のアドニス様の態度に、不思議と違和感を感じない。
奇妙な矛盾を感じながらも、会話の切り口になれば…と、その日から毎日、寝具を整える了承を得るようになった。ところが…
(今日も、お声を聞けなかった…)
あの日から、アドニス様は一言も話さなくなってしまわれた。本当に、ただの一言も、口を開くことすらなくなってしまった。
それどころか、首を振ったり頷いたりといった動作すら少なくなり、ただでさえシーツに隠れ見えなかったお姿は、更に見えなくなってしまった。
(どうして…)
いや、原因は分かってる。
あの日の、アドニス様の望みを何一つ叶えられなかった、あの会話のせいだろう。
何も仰られないそのお姿は、何を言っても無駄なのだと、全てを諦めてしまわれているように見えて、日毎に焦りが募っていった。
そのせいだろうか。気づいた時には、無条件にこちらの言葉を受け入れられるようになってしまわれた。
一度、床の上に直に座るのはお体に障るから…と、椅子に座られた方がいいと勧めたことがあった。
勿論、強制するつもりなどなかった。拒否して下さっても良かったし、敷物を望んで下さっても良かったのだ。だがアドニス様は、ほとんど反応されないまま、静かに立ち上がると、長椅子の上で膝を抱えるように座り直し、そのまま動かなくなってしまった。その翌日から、床の上に座ることは無くなった。
冷たい床に直接座られなくなったのは良い。ただ、その経緯は決して良くないものだった。
(そうであろうと、ご自身を律していらっしゃるように見える…)
ほんの少し前までの、自分のそれとは違う『従順であれ』という姿勢に顔を顰めた。
自分はただ、己の意思が無かっただけ。言われたことを、言われたままに行うことへの疑問も、抵抗も無かった。当たり前のこととして受け入れていたのだ。
だがアドニス様のそれは…意図的に、ご自身の意思を無視して、無理やり従順であろうとしていらっしゃるように見えた。それはとても痛々しく、悲しいお姿だった。
毎日お側にいて、ただそのお姿を眺めることしかできない。
泣きたくなるほどの無力感に日々襲われたが、本当に泣きたいのは自分ではないと、何度も深呼吸を繰り返しては冷静であろうと努めた。
日が経つほど、アドニス様の動きは減っていった。
ベッドから起き上がり、寝室を後にすると、隣室の長椅子の上で座ったまま一日中過ごされる。
寝具を整え、主室に移動した後は、アドニス様のお側から近すぎず遠すぎない、お声が届くギリギリの位置に立ち、無言のまま過ごす日々が幾日も続いた。
無言であることも、何もせず立っているだけの行為も、苦痛でも何でもなかった。
ただ、静寂だけが満ちた空っぽな室内で、そこに居るのにいない様な、存在感すら押し殺しているようなシーツ越しのお姿がただ寂しく───怖かった。
陽の光に透けた白いシーツの向こう側。その輪郭だけがうっすらと透け、影になっていた。
その影が今にも消えてしまいそうで、瞬きの間にも居なくなってしまわれるのではないかという恐怖で、一時でも視線を逸らすことができなかった。
あまりにも儚げなお姿に、不安は日々増していく。
明日も居て下さるだろうか?
いつか、気づかぬ内に居なくなってしまわれるのではないか?
それを、心底恐ろしいと思うようになった。
「私の力が及ばず、大変申し訳ございません」
日課となったイヴァニエ様とルカーシュカ様へのご報告の席で、深く頭を下げた。
アドニス様が口を閉ざされてから、一月近くが経っていた。その間、なんの進展もなく、なんのお役にも立てない己の不甲斐無さに、唇をキツく噛んだ。
「あなたのせいではないでしょう? 顔を上げなさい」
「いえ、私が余計なことを言わなければ、このようなことには…」
「自分を責めるな。お前がアイツの側にいなければ、それこそどうなっていたか分からないし、俺達では、側に寄ることすらできないんだ。…どうすればいいか分からないのは俺達だって一緒だ。手探りで試していくしかないだろう」
「……はい」
短い沈黙が流れる。どのように動けばいいのか、自分が分からないように、お二人は報告される内容でしかアドニス様のご様子が分からないのだ。
己以上に不確定で不安定な情報では、何かを判断することすら難しいだろう。
「…アイツは、どんな感じだ?」
「日々静かにお過ごしで───」
「ああ、そうじゃない。そうじゃなくて…お前の目から見て、アドニスはどう見える?」
「私の…」
そう言われ、目に焼きついた弱々しいお姿を思い浮かべる。
脳内に浮かんだ印象は、凡そお二人の記憶にあるアドニス様とはかけ離れたもので、口にすべきか一瞬躊躇った。
「恐れながら、お二方の印象とはかなり異なりますので…」
「構わない。それが聞きたいんだ」
思いがけず、強い眼差しと口調で返されたことに驚きつつ、記憶にあるアドニス様の姿を思い浮かべ、言葉を選ぶように口を開いた。
「あくまで、私個人が受けた印象ですが……とても弱く、儚げなお方です。お言葉も、お声も…全てにお力が無く…その……お食事を摂って下さらないことも含め、生きようとする意思が無いように見えます」
「……そうか」
「………」
重い沈黙に辺りが静まり返った。
それもそうだろう。もし本当に、アドニス様に生きる意思が無いのだとしたら、これまでの行いは全て無意味になるからだ。
それ以上に、そこまでアドニス様が追い込まれているのだという現状に、空気は重くなった。
ただ予想外にも、個人的な印象とお伝えしたとはいえ、お二人ともアドニス様の様子が以前と全く異なる点については、疑問に思うことが無いようだった。
何かお心当たりがあったのだろうか…そんなことを思いながら、ポツリと言葉が零れた。
「…アドニス様の御心を、繋ぎ止めるようなものがあればよろしいのですが…」
何となしに、ただの願望として零した言葉に、ルカーシュカ様がハッとしたように顔を上げた。
「そうだ……窓の…大きな窓があるだろう。あの外に、アドニスが出たことはあるか?」
「いいえ、ございません」
「なら、窓の外に出してやってくれ」
「そこに、何か…?」
「…多分だが、アイツにとっては、大事な物があるはずだ」
「……畏まりました」
それが何なのかはあえて聞かなかった。
明日、自分の目で確かめればいい…そう思いながら、ふと先ほどの会話の中で足りなかった言葉と、重要なことをお伝えし忘れていたことを思い出し、思わず「あ」と声が漏れてしまった。
「どうしました?」
「いえ、申し訳ございません。お伝えし忘れていたことを思い出しまして…」
「なんです?」
「…その前に、先ほどの…アドニス様の印象について、もう一点、よろしいでしょうか?」
「ええ」
イヴァニエ様とルカーシュカ様の視線が刺さる。それに気圧されそうになりながら、努めて冷静に口を開いた。
「私には、あの方が…以前のアドニス様とは、別の方のように見えます」
「「!」」
お二人が、息を呑んだのが分かった。
「最初はあまりにも様子が異なるので、違和感が大きかったのですが、ここ最近は、その違和感をまったく感じないのです。上手く言えませんが、以前のアドニス様とは異なる…別の方がそこにいらっしゃるような…別人だと、脳が勝手に認識してしまっているのかもしれません」
「…長く側にいるからな。そう感じるのも無理はない」
「それもありますが…申し訳ございません。こちらはお伝えし忘れていたのことになるのですが…」
「…なんでしょう?」
緊張した面持ちのイヴァニエ様とルカーシュカ様に、私まで飲まれそうになる。フッと息を吐き出すと、短く息を吸い込んだ。
「恐らく、としか言えませんが……今のアドニス様は、イヴァニエ様のことを憶えていらっしゃいません」
シン…と静まり返った痛いほどの沈黙。お二人とも目を見開き、その表情は驚愕に染まっていた。
「……それは、どういう…」
お言葉を返して下さったイヴァニエ様に視線を合わせ、あの日のアドニス様のご様子を伝えた。
「アドニス様と、お話しをさせて頂いた時のことです。私がお側に控えているのは、イヴァニエ様からのご指示だと、そうお伝えしました。…ですが、アドニス様はその後、イヴァニエ様のことを『その人』と…お呼びになられました」
「…!」
「…ッ」
自身が感じた違和感。それが通じたのだろう。お二人とも目元や口元を手で押さえ、俯かれてしまった。
「ご報告が遅くなり、大変申し訳ございませんでした。他のことに気を取られ、失念しておりました。私の過失です。」
「……いえ、責めるつもりはありません…ですがこれは…どうしたら…」
「そもそも、なんでそうなったんだ…? どうしたら忘れたなんてことになる?」
「…もしや、ルカーシュカのことも…?」
「ルカーシュカ様のお名前を出したことがないので、判断が出来兼ねますが、イヴァニエ様のことだけお忘れになっている、という方が不自然かと…」
「…そうだな…」
はぁ、と大きな溜め息が二つ重なった。
戸惑いと混乱と動揺。それらが混ざり合い、なんとも言えない空気が漂っていた。
一呼吸置いて、その空気を振り払うようにルカーシュカ様が席を立たれた。
「アドニスの様子がおかしいことには気づいてたんだ。その一端に気づけただけ、良かったと思おう。どちらにせよ、バルドル様へご報告をしなければな」
「…そうですね、ええ…」
余程ショックだったのか、席から立ち上がれないままのイヴァニエ様を横目に、ルカーシュカ様がこちらを見た。
「ご苦労だった。これからもアイツとの会話には注意してくれ。それと、報告に漏れがない様、今後は気をつけてくれ」
「畏まりました。私の過失でありながら、寛大なご配慮に感謝申し上げます」
「いや、随分と面倒なことを押しつけてしまって、すまないな」
「…御心遣い、痛み入ります。ですが私は、このような状況であればこそ、アドニス様のお側にお仕えできることを嬉しく思っております」
「……そうか。よろしく頼む」
「仰せのままに」
告げた言葉に、少しだけ驚いたような顔をされた後、僅かに微笑んで下さったルカーシュカ様。
そのお優しい表情からは、自分を…アドニス様を、ご心配して下さっているのだろうお気持ちが伝わり、嬉しくなった。
まだお話が残っている様子のお二人の前を失礼し、部屋を後にする。イヴァニエ様の離宮の廊下を歩きながら、陽が落ちた窓の外に視線を向けた。
アドニス様は、陽が落ちると共にお休みになられる。本来であれば、お休みになった後もお近くに控えているべきだが、今は離宮から毎日通いでお仕えしている為、それすら儘ならない状況だ。
(…何事もなく、お休みだろうか…)
お側を離れている間に何事か起こらないか、気が気でならなかった。
そのように思うようになったのは一体いつからか…それすら思い出せないほど、アドニス様を想う気持ちは日毎増していった。
(窓の外…か)
明日、早速お声を掛けてみよう。せめて…それが御心の御慰めとなる何かであれば良いと、そう願いながら。
翌朝、朝の支度をするにもまだ早い時間にアドニス様のいる部屋を訪れた。
そのまま真っ直ぐ、ルカーシュカ様の言っていた大きな窓へ近づくと、そのままバルコニーへと出た。
「……花?」
室内から一歩外に出たすぐそこに、それはあった。
窓の隅、カーテンの陰に隠れるようにして積み重なった、花の山。
(いつの間に…いや、いつからこれは此処に…?)
バルコニーに出ることがなかったので全く気づかなかった。と同時に、何故ルカーシュカ様はこれの存在を知っていたのか、疑問が沸いた。
ルカーシュカ様は、これが『アドニス様にとって大事なもの』だと仰った。
まるで、これが此処にある意味をご存知であるかのように…
(…今は、これをアドニス様に見て頂くことの方が先だ)
浮かぶ疑問を振り払いながら、花を拾おうと籠を取り出し、手を伸ばしかけたところで動きを止めた。
(…違う。ルカーシュカ様は、アドニス様を外に出してくれと仰っていた)
それはつまり、この花をただ見せることだけが目的なのではなく、この場に在る花を見せることが目的ということなのだろう。
拾い上げようとしていた手を引くと、静かにその場を離れた。
(これを…アドニス様に…)
お見せして、それでどうなるのか見当もつかない。
それでもただ、現状を打破する何かになればいいと、縋るような思いだった。
「アドニス様。少し、よろしいでしょうか?」
いつもと同じように寝具を整え終えると、主室へと向かい、長椅子の上で膝を抱えて座るアドニス様にお声を掛けた。
ゆるりとお顔を上げたアドニス様に、見て頂きたい物があると窓の外へとお誘いすれば、とても驚いた顔で金の瞳を丸くしていた。
てっきりいつもと同じように、反応も薄いまま動いて下さると思っていたのだが、その動きは鈍く、明らかな動揺が混じっていた。
俯いたままのその表情はよく見えなかったが、目深に被ったシーツを強く握り締めている手が僅かに震えていることに気づき、ハッとした。
…もしや、お外に出ることを避けていらっしゃったのだろうか?
遅い足取りと、怯えたように身を竦めたお姿に、深く考えずに外へと招いてしまったことを悔やんだ。
(拒んで下さっても、良かったのに…)
やはりどうしてか、無理にでも従おうとしていらっしゃるお姿に歯噛みした。
無理強いしたい訳ではない。それをどうお伝えすればいいのか、どうしたら、ご負担にならないか…危う気な足取りを見つめながら、そんなことばかりを考えていた。
あと一歩。その一歩が踏み出せない様子で固まってしまったアドニス様に、どうするべきか判断に迷った。
たった一歩だが、その一歩が、アドニス様にはとてもお辛いのだろう。
だが、その一歩を踏み出して頂ければ、恐らくお見せしたい物を視界に入れて頂くことが可能なのだ。
「…こちらを、ご覧頂きたいのですが」
酷いことを言っている自覚はあった。
それでも、今この瞬間を逃してしまったら、きっと今以上に後悔する。
なんの確証もない勘でしかなかったが、その可能性だけを信じて声を振り絞った。
唇を噛み締め、意を決したように、最後の一歩を踏み出したアドニス様。
その視線が、恐る恐る、自身が指差した先に向いた。
───刹那、俯いていたお顔を上げ、翳っていた金の瞳が、息を吹き返したように輝いたのが分かった。
大きく見開かれた瞳は陽の光を受け、一層深く煌めいていた。
「………ぁ…」
小さな、聞き逃してしまいそうなほど小さな掠れた声が耳に届いたと思った、次の瞬間───金の双眸から、ボロボロと雫が零れ落ちていた。
お声を掛けることも、動くことも、目を逸らすこともできず、硬直したまま、黙ってそのお姿を見つめ続けることしかできなかった。
やがて、苦しくなるほどの泣き声が耳に届き、鼓膜と脳を揺さぶった。
まるで壊れ物に触れるように、優しげに、愛おしげに花々に触れる指先。
震える手が花に触れれば、より一層溢れた涙が頬を伝い、ポタリポタリと、雫となって落ちていった。
「…っ、うぁぁ…っ、」
堪え切れずに漏れ出たような泣き声───気づけば、己の頬も濡れていた。
(…なぜ…?)
何故、自分も泣いているのか?
何故、こんなにも苦しいのか?
何故、この方はこんなにも痛々しく泣かれるのか…
自分自身のことではないはずなのに、苦しくて、切なくて、思わず胸を押さえた。
(…泣いている、場合ではない…)
頬を伝った一筋を拭うと、深く呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせた。
この方のために、自分に何ができるか。
何故泣かれているのか、それすら分からない自分に、何ができるか。
分からないのは何故か。
分かるために、この方を知るために、何をすべきか。…自分に、何ができるか。
答えは簡単だ。
分からないのなら、聞くしかないのだ。
お声を、お言葉を、アドニス様ご本人から伺うことでしか、アドニス様のことは分からないのだ。
(……お話しがしたい)
どちらかが一方的に望みを伝えるだけでは駄目だ。一方的にそれを受け入れるだけなのも駄目だ。
互いに言葉を交わし、相互理解を深めていかなければ、きっと意味が無いのだ。
(…私に、できるだろうか…)
不安が過るが、それを振り払うように頭を振った。
(…やるんだ。私が、望んだことだ)
お力になりたい。アドニス様のために在れる自分でありたい。
そう願い望んだのは、間違いなく自分自身なのだ。
そのために、その願いに手が届きそうな今、怖気付いている暇などなかった。
待っているだけでは駄目なのだ。
今のアドニス様には恐らく、こちらから…自分から、動く必要があるのだろう。
(私から…)
できるのかも分からない。自信など微塵もない。
それでも、この方に、アドニス様にお仕えするために、お仕えするに相応しい自分で在るために───…
まだ泣き続けるお姿を見つめながら、人知れず、固く決意した。
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