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リリィ・ラムの産ぶ声
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「お話しをして頂けませんか?」
頬を撫でる、暖かな風のような穏やかな声音。
その柔らかな問い掛けに、従順でいようという意識が働く暇もなく、反射的に頷いていた。
(……おはなし…)
ひくりと喉を鳴らしながら、ぼんやりと彼の言葉を反芻する。
(…お話し……お話し…?)
なにを話すのだろうと考えるが、ぼぅっとしたままの頭は動きも鈍く、同じ言葉を脳内で繰り返すだけだった。
ただ不思議と「どうして?」「なぜ?」という疑問や不安が湧き上がることはなく、気持ちは穏やかに凪いでいた。
呼吸が徐々に落ち着き始めた頃合いで、膝をついていた彼が立ち上がり、やや間があってからそっと左手を差し出された。
(……え?)
目の前に差し出された、白くほっそりとした少年の手。
そこにどういう意味合いがあるのか、分かるような分からないような、なんとも言い難い状況に戸惑った。
(これは、手…を…? それとも…籠を渡せばいいの…?)
恐らくどちらかは彼の意図に沿っているはずなのだが、どちらが正解か分からず「ぁ…ぅ…」と小さな呻き声が口から漏れた。
「…よろしければ、御手を」
「…!」
その言葉に思わず目を見開く。
(…手を…)
…触れてもいいのだろうか?
彼から差し出されたとはいえ、躊躇ってしまうのは、自分が彼に触れていいのかが分からないからだ。
自分に触れられることを不快に思わないか…そればかりが気になって、身動きが取れなかった。
「…出過ぎた真似をしました。申し訳ございません」
「…っ! ま、まって…!」
手を取るべきか控えるべきか、悶々と悩んでいる間に、彼の手がすっと下げられる。
僅かに沈んだような寂し気なその声に、躊躇いも戸惑いも一瞬で消え去り、咄嗟に伸ばした右手で縋るように細い指を掴んでいた。
「あ…っ、ぁ、の…っ」
久しぶりに触れた人の体温。そこから伝わる温もりに、彼の手を握った右手が震えた。思わず掴んでしまった手を離すこともできず、緊張で心臓が大きく脈打つ。
彼に嫌な思いをさせていたらどうしよう…そんな不安で、顔も上げられなかった。
不安に飲まれ、彼の指先を握っていた手から徐々に力が抜けていく───が、手が解けそうになる間際、思わぬほど力強く手を握り返され、弾かれるように顔を上げた。
「っ…」
「お許し頂けるのであれば、どうかこのまま…そろそろお部屋の中へ戻りましょう」
顔を上げた先の翠の瞳に嫌悪の色はなく、穏やかなまま煌めいていた。
そのことに驚きつつも、促されるまま、のろのろと立ち上がる。細い指に握られたままの手は解かれることもなく、手を引かれるようにゆっくりと歩き出した。
(…嫌じゃ…ない…?)
グッと、ほんの少しだけ強く握られた指先が熱い。
彼のものか、自分のものか、その境界すら曖昧な体温はひどく熱く───ひどく心地良かった。
気を抜いたらまた泣いてしまいそうなその温度は、いつか腕に抱いたあの小さな赤ん坊達のそれと、とてもよく似ていた。
ほんの数歩で室内へと戻ると、彼の手によって静かに窓が閉められる。
そのまま手を引かれ、長椅子まで辿り着くと、促されるままに腰を下ろした。
片手には花の詰まった籠を抱き、もう片方の手は彼の手と繋がったまま…ずっと触れている右手は未だに熱かったが、不思議と緊張感や不安は消え、ドクリ、ドクリと大きく脈打っていた心臓は、嘘のように落ち着いていた。
手を握ったままの彼が足元に跪き、スッとこちらを見据えた。その瞳に一瞬ドキリとするが、怖いとは思わなかった。
そこでようやく、ふと気づく。
そういえば、彼がこんなに近くにいるのは初めてだ、と。
触れることはおろか、側に寄ることさえ無かった彼が、すぐ目の前にいて、自分と目を合わせている。
体が触れてしまいそうなほど近くにいる彼が───現に彼の左手と自分の右手は繋がれ、お互い触れ合っているが───とても不思議で、それでいて少しだけ、嬉しかった。
繋いだままの右手から、じわじわと全身が温かくなっていくような感覚に、ホッと息を吐いた。
「…大丈夫でしょうか?」
「…?」
静かに口を開いた彼の言葉に首を傾げる。
なにが『大丈夫』なのか分からず答えあぐねいていると、躊躇いがちに彼が言葉を続けた。
「…私が御手に触れていても、大丈夫ですか?」
「……?」
『大丈夫ではない』理由があるのか分からず、疑問符が浮かんだが「大丈夫」と伝えるようにコクリと頷く。それを見て、あからさまに表情を緩めた彼に更に疑問は増えたが、悪いことではないような気がした。
「このまま、お話しをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「………」
このまま、というのは手を繋いだまま、ということだろう。コクリと頷きつつ、ぼんやりとした頭で彼に握られたままの右手をじっと見つめた。
つい数刻前まで、彼とこうして触れ合うことも、近づくことも、想像すらしていなかった。
嘘みたいな現実に、ふわふわとした気持ちで黙っていると、おもむろに彼が口を開いた。
「よろしければ、私からいくつかお伺いしたいことがございます。…お答えにくいことかもしれませんが、御心のままにお答え頂ければ幸いに存じます」
「…っ」
正直に答えることを求められ、途端に体が強張る。嘘をついたら怒られるのだろうか…そんな不安を見透かしたかのように、繋いだままの右手を軽く握り直された。
「あまり気負わずにお答え頂きたいだけです。…ご心配なさらないで下さいませ」
「………」
柔らかな彼の声に、コクリと小さく頷いた。
「それでは、そうですね……アドニス様は、私のことが苦手ですか?」
「!?」
いきなりとんでもないことを言われ、ギョッとする。質問の意図も分からないまま、フルフルと大きく首を横に振った。
「…お側にいて、煩わしいとは思いませんか?」
「う…!」
「…私が、怖くはございませんか?」
「んん…っ!」
続いた質問に、今ほどよりも大きく、何度も首を振った。
(そんなこと、思ってない…!)
怖くはない。決して、怖くはないのだ。
初めて出会った時から、彼自身に恐怖を抱いたことはなかった。
「では───アドニス様は、何に怯えていらっしゃるのですか?」
「ッ…」
自身のひゅっと息を呑む音が鼓膜を揺らした。
「何に怯え、何を憂いていらっしゃるのでしょう?」
なぜ、そんなことを言われるのかが分からなくて、頭が混乱する。
(…な、に……? なんで…?)
言葉は理解できるが、意味が理解できない。
頭の中で、言われた言葉がぐるぐると回る。その思考は真っ白で、唇を閉じることも忘れて固まった。
どうして、急にそんなことを聞くのだろう。
どうして、急にそんなことを言われたのだろう。
なんと答えていいのか、なんと答えるべきなのか…正解が分からず、喉の奥に詰まったままの声が、音になることはなかった。
───シンと静まった部屋の中、彼の静かな声が凛と響いた。
「お間違いであれば、不届き者の下らぬ妄言とお聞き流し下さい。…私には、貴方様がなにかに怯え、苦しんでいるように見えます」
「…っ」
その言葉に、ビクリと肩が跳ねた。
「ずっと、何かに耐えていらっしゃるように見えます。悲しんでいらっしゃるように見えます。ですが、どうしてそのように見えるのか、私にはその理由も、原因も分かりません。なぜ…何に、そのように憂いていらっしゃるのか、仰って頂けない限り、私もどのように動けばいいのかが、分からないのです」
「…ぁ…、ご、ごめ…」
「っ、違います! …いえ、責めるような物言いをしてしまい、申し訳ございません。私の言い方が…」
そのまま考え込むように口を噤み、彼は黙り込んでしまった。流れる沈黙に、緊張から繋いだ右手が微かに震え、胸が苦しくなった。
それを、その震えごと、自分よりもずっと小さな細い手に包まれるように握られ、緊張が僅かに緩んだ。
「…私の言葉が足りず、申し訳ございませんでした。……私は、アドニス様の側仕えとしてお側におります。アドニス様の為に、お仕えしております。私のすべきことは、お仕えする方のお言葉に従い、望まれたように動くのが役目です。ですが、それは最低限のことであって、本来は主の意向を言葉にされずとも感じ取り、何を望まれているのか、どう動くべきなのか、先を読んで行動するのです」
「………」
「ですが、今の私には、アドニス様が何をお求めになられているのかが分かりません。何を望まれているのか、何をすれば…どうしたら、その御心に寄り添えるのかが、分かりません」
(…寄り…添う…)
ゆっくりと、一つ一つの言葉を噛み砕くように話す彼の声が、鼓膜を揺らしていく。穏やかなその音に、緊張で強張っていた体から徐々に力が抜けていくのが分かった。
「お言葉にして頂けない限り、私も動けません。どうすればいいのか、どうすべきなのかが、分からないのです。決して、責めている訳ではございません。ですがこのままでは……良くないと、思うのです。苦しみにも悲しみにも気づいていて、何も出来ない…なんのお力にもなれず、ただお側にいることしかできないのは…辛いのです」
「っ…」
「私に至らぬ点があるのであれば、仰って下さい。信用に足りぬのであれば、他の者に挿げ替えて下さって構いません。それでも、もし…もしも、私をお側に置いて下さるのであれば、僅かでも構いません。お時間が掛かっても構いません。私に、御心の内をお話しして下さいませ。お望み全てを叶えることは難しいかもしれませんが、出来得る限り、お力になります。そのために、私はお側にいるのです」
「……、」
「差し出がましいこととは、重々承知しております。それでももし、私にお聞かせ願えるのであれば、嬉しく存じます」
「っ…!」
───じわりと、視界が歪んだ。
勘違いかもしれない。自惚れかもしれない。
それでも、彼が自分のことを想って、丁寧に言葉を紡いでくれたのだろうということが伝わり、それだけで、嬉しくて苦しくて、涙が出そうになった。
「…、ぁ……っ」
何か言いたい。言葉にしたい。…応えたい。
それでも、何を言えばいいのかが分からない。何を言っていいのかが分からない。
どんな言葉を選んでも、きっとおかしいと思われる。なにを言ってるんだと思われる。
彼にそう思われたら、きっともう立ち直れない。それが分かっているから、口を開くのが恐ろしい───…
(どうして…っ)
せっかく彼から話し掛けてくれたのに、なにも言えない自分が情けなくて、苦しくて、それが悔しくて、別の涙が込み上げた。
これ以上泣きたくないのに、煩わしいと思われたくないのに、ポタリと一粒の雫が零れた。
「っ…、申し訳ございません! ご無理を───」
「…!」
その言葉に息を呑む。違う。違うのだ。彼が謝る必要など、どこにも無いのだ。
泣いて後悔したあの日のことを思い出し、はくりと、吐き出した。
「ぁ……ま、ない…っ」
「…アドニス様?」
「あ…、あやま、らな…で…!」
「…!」
「…おねが、だから…っ、ぁ、あやまらな…で…っ」
ぼたり、ぼたりと、堪えきれずに涙が溢れた。
ただでさえまともに喋れないのに、息が詰まり、更に言葉は途切れ、緩くなっていた涙腺からは途切れることなく雫が零れ落ちた。
───刹那、濡れた頬に柔らかな布の感触がして、俯いていた視線を上げた。
いつの間にか彼の手には小さな布があり、それが頬に添えられていた。
「っ…、ふ…、…っ」
「…不必要に、謝ることは致しません。私に至らぬ点があると思うからこそ、言葉にするのです。…ですが、今後はもう少し言葉を選ぶよう、努めたいと思います。ただ、私が謝罪すべきだと、自分の行動や発言に非があると判断した時は、きちんとお言葉にしたいと思います。…よろしいですか?」
「…っ、……っ」
よろしいかと問われ、それに自分が答えていいのかも分からず答えあぐねいていると、彼が更に言葉を続けた。
「その都度、お話しを致しましょう? アドニス様が…アドニス様も私も、お互いが納得できるように、お話しができたなら、嬉しく思います」
「…っ、…、」
不思議なほど心地良く、優しい問い掛けに、ゆっくりと頷く。
(どうして…この子はこんなに、優しいんだろう…)
頬に添えられたままの布に、籠を抱いていた左手を伸ばす。彼の手から受け取ったそれで目元を押さえながら、ゆっくりと息を整えた。
「…ふ…っ」
「…アドニス様から、なにかお話ししたいことはございますか? 勿論、無理に仰って頂く必要も、無理にお聞きしようというつもりもございません。…ですが、何か心配事があるのであれば、言葉にすることで少しでもお気持ちが楽になるのであれば、私でよろしければ、仰って下さいませ」
「……、」
…言って、いいのだろうか?
『何を言えばいいのか分からない』
『何を聞けばいいのか分からない』
『何もかも、分からない』
ずっと胸に秘めてきたこの秘密を、そのまま言葉にしてもいいのだろうか?
話していいとは言ってくれたが、彼だってまさか、そんなことを言われるなんて思ってもいないだろう。
(どうしよう…)
口を薄く開いてはみるものの、声が出ない。はくはくと、空気を噛むだけで音にならない声に唇を噛んだ。
言いたいのに言えない。
言いたくないのに言いたい。
きっと言葉にすれば彼を困らせる。
けれど、黙り続けているのも彼を困らせる。
相反する思考と感情に、止まっていた涙がまた滲んだ。
(もうやだ…っ)
言葉にするのも、しないのも苦しい。
涙を隠すように握った布で目元を強く抑える。漏れてしまいそうになる嗚咽を、喉の奥に飲み込んだ時だった───ぐっと、強く右手を握られ、目を見開いた。
「…っ」
「アドニス様、どうか、お話しして下さい。そのように泣かれることがないように…お話しして下さいませ。どのようなことでも構いません。…大丈夫です。大丈夫ですから…」
何故か彼まで泣きそうな顔をしていて、胸がギュウッと締め付けられる。それと連動するように、指先に力が籠り、彼の手を握り返してしまった。
その動きに応えるように、更に強く右手を握り返され、それが合図となったように、喉の奥で堰き止められていた声がポロリと溢れた。
「っ…、わ、わか、な…わかんない…っ、なに、言ったら、い…のか…わからない…っ、どしたら、いいのか、…っ、ぜんぶ、なんにも…わかんない…!」
彼が、目を見開いたのが視界の端に映る。
それ以上の反応を見るのが怖くて、ギュッと目を瞑った。
「……全て、何が、分からないのか、分からない…ということですか?」
「ぅ…」
「…何を聞けばいいのかも、分からない…ということで、よろしいですか?」
「っ…!」
う、と息を呑みつつ、小さく頷く。
改めて言葉にされると、これほど奇妙なこともないだろう…と身を縮めるように背を丸めた。
「………承知しました」
「…!?」
おかしなことを言った、困らせた…恐ろしいほどの不安を抱いたまま俯いていると、やや間があってから返ってきた返答に、思わず顔を上げた。
「……え…?」
「ならば尚のこと、たくさん、お話しをしましょう。些細なことでも構いません。たくさんお話しをして、少しずつご理解されていけばいいのです。アドニス様が疑問を抱くように、私も疑問に思うことがございます。お互いの疑問を少しずつ、一つずつ解いていって、擦り合わせていえば、どこかで、互いに求めていた答えに辿り着けるはずです」
「…そ…れは…」
それは───とても、素敵なことのように思えた。
ずっと、ずっとずっと、答えが欲しかった。
疑問を口にする許しが欲しかった。
───それを、彼に求めてもいいのだろうか?
「…で…でも…」
「はい」
ただ、それにどれだけ時間が掛かるのか、どれほど彼を拘束することになるのか、考えるだけで申し訳なくて、声が震えた。
「…め、迷惑に、なる…」
「なりません」
「っ…」
キッパリと力強い声で言い切られ、くっと息を呑んだ。
「い、いっぱい…時間…かかっちゃう…」
「構いません」
「へ…変だって…思…」
「思いません」
「…お、おかしい、こと…言う…っ」
「…それは、いけないことでしょうか?」
「え…」
翠の美しい瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
「知らないこと、分からないことを知ろうとすることは、決しておかしいことではございません。極自然なことです。知りたいと思う欲求もおかしいことではございません。…私が、驚くことがあるかもしれませんが、それだけです。決して、悪いことではございません」
『悪いことではない』
そうハッキリと言われ、強張っていた体から力が抜けていくのが分かった。
声を出そうと開いた唇は震え、泣き声になってしまいそうなそれを必死に噛み殺した。
「アドニス様、どうか…」
美しい翠から、目を逸らすことができない。
何かを乞い願うような彼の声に、深く息を吸い込むと、必死に声を振り絞った。
「…ぁ……あの…っ」
「はい」
「…本当、に…? いいの…?」
「はい」
「お、おかしいこと、いっぱい…言う…」
「なんでも仰って下さい」
「…ほんと…に…っ、いっぱい…迷惑…、っ、…い、嫌に…なっちゃ…!」
「…もし、私の心配をして下さっているのであれば、その御心だけで充分でございます。アドニス様のために、お側にいるのが私の役目ではございますが、どうか───どうか私の為に、お側に置いて下さいませ」
「っ…!」
ボロボロと、次から次へと涙が溢れては、柔らかな布へと吸い込まれていく。
嬉しいと思う気持ちと、どうしても拭い切れない罪悪感。
それでも、彼の優しさに甘えてもいいのなら、望んでもいいのなら───側にいて欲しいと願ってしまった。
「…ふっ、ぅ…っ」
「不肖の身ではございますが、もしも望んで下さいますならば、御手を───」
彼の左手に握られた右手。その上から更に彼の右手が重ねられ、自身の手が彼の両手に包まれる。
自身の浅黒い肌を包むように握られた白く華奢な手の甲に、そっと左手を伸ばした。
まだ、その肌に触れることを躊躇ってしまう。どうしても怯えてしまう。
それでも、望むことを許してくれた彼に報いるように、ギュッと薄い手の甲を握った。
膝の上で折り重なった、二人分の手。
それを見届けた翠の瞳が、一瞬大きく煌めき、そっと伏せられた。
重なり合った手と手の一番上、自身の手の甲に、膝をついたまま頭を下げた彼の額が、そっと触れた。
肌に触れる柔らかな白金の髪の感触すら優しく、目の前に映る光景は、ただただ美しかった。
「御身の為、誠意を込めて、お仕え申し上げます」
まだ幼さの残る、凛とした透明な声。
耳に届いたその声は、どこまでも力強く、どこまでも優しくて、その温かさにまた涙が溢れた。
彼に手を握られたまま泣き続け、どれほどか時間が経った頃、ようやく頬を伝う雫が途切れた。
しゃくり上げながら、ぼぅっと一点を見つめていると、身を屈めていた彼が静かに口を開いた。
「…お疲れでしょう。本日はもうお休み下さいませ」
彼の言葉に、大人しくコクリと頷く。
赤ん坊達から受け取った贈り物に泣き、彼との会話に泣き、ひたすらに泣き続けた体は異常なほどに疲弊していた。
(頭が、クラクラする…)
泣きすぎたせいなのか、ほんの少しだけ視界が揺れた。パチパチと瞬きを繰り返す中、おもむろに彼が立ち上がった。
寝室に向かうためだろうと、左腕に籠を抱き抱え、続くように立ち上がれば、ゆっくりとそのまま手を引かれた。
(え…)
繋いだままの手が離れることはなく、彼に手を引かれるようにゆっくりと歩いた。
やんわりと握られたままの右手は温かく、無性に安心した。
(…安心…)
思えば、そんな風に感じるのは初めてのことだった。
赤ん坊の天使達と共にいた時の、温かな気持ちとはまた違う。ホッとするような、なにも心配しなくてもいいような、無条件の安らぎ。
目の前をゆっくりと歩く少年の小さな背中を見つめながら、緩く握られた彼の左手をほんの少しだけ、握り返した。
直後、それに応えるように握り返された右手が嬉しくて、もうそれだけで、気持ちが満たされていくようだった。
ゆっくりと、時間をかけて辿り着いたベッドの脇で、そっと離れていった左手。
それを少しだけ寂しいと思った自分に内心驚きつつ、温かなままの右手はまるで夢見心地のようで、ふわふわと気持ちが浮ついた。
「そちらはお預かり致します」
そちら───と指されたのは、たくさんの花が詰まった白い籠。一瞬、手放すのを躊躇ったが、彼ならきっと大丈夫だろう、と何も言わずに手渡した。
籠を受け取った彼がスッと指先を動かすと、何処からともなく小さなサイドテーブルが現れ、ベッドの脇へと収まった。
(え…、ど…ういう…?)
いきなり現れたそれをポカンと見つめていると、その上に彼が籠を置いた。
「ここならば、ベッドの中からでも眺めることができるはずです」
「…!」
その言葉にハッとする。確かに、ベッドのすぐ脇に置かれた状態なら、横になったままでも花を眺めることができるだろう。
彼が自分を気遣って用意してくれたことに気づき、恐る恐る口を開いた。
「ぁ…ぁの…、あ、ありがとう…」
「…お役に立てて、なによりでございます」
ちゃんと、お礼が言えた。それに応えてくれた。
たったそれだけのことがただ嬉しくて、柔く唇を食んだ。
「どうぞ、お休み下さいませ。今日はこちら側の幕は閉じず、そのままにしておきますがよろしいですか?」
『こちら側』というのは、花が見えるように、ということだろう。コクリと頷くと、彼の手を借りてベッドの中へと潜り込んだ。
数刻前に彼が整えてくれたばかりの布団は、いつもと同じようにふかふかと柔らかく、それでいていつもよりずっと温かく感じた。
心も体も温かく、ぼんやりとしたままの頭は、柔らかな羽毛に包まれ、瞬きの間に睡魔に襲われた。
微睡む視界の中、ベッドの脇に立ったままの彼をジッと見つめる。
「おやすみなさいませ。アドニス様」
耳に馴染んだはずの声が、今はまったく違う音に聞こえて、ふわふわとした意識のまま、気づけば自然と口を開いていた。
「…おやすみ…なさい…」
思えば、彼にその言葉を返したのは初めてのことだった。彼も、それに気づいたのだろう。
驚いたように翠の瞳を見開いて、そうして───少しだけ、笑ってくれた。
頬を撫でる、暖かな風のような穏やかな声音。
その柔らかな問い掛けに、従順でいようという意識が働く暇もなく、反射的に頷いていた。
(……おはなし…)
ひくりと喉を鳴らしながら、ぼんやりと彼の言葉を反芻する。
(…お話し……お話し…?)
なにを話すのだろうと考えるが、ぼぅっとしたままの頭は動きも鈍く、同じ言葉を脳内で繰り返すだけだった。
ただ不思議と「どうして?」「なぜ?」という疑問や不安が湧き上がることはなく、気持ちは穏やかに凪いでいた。
呼吸が徐々に落ち着き始めた頃合いで、膝をついていた彼が立ち上がり、やや間があってからそっと左手を差し出された。
(……え?)
目の前に差し出された、白くほっそりとした少年の手。
そこにどういう意味合いがあるのか、分かるような分からないような、なんとも言い難い状況に戸惑った。
(これは、手…を…? それとも…籠を渡せばいいの…?)
恐らくどちらかは彼の意図に沿っているはずなのだが、どちらが正解か分からず「ぁ…ぅ…」と小さな呻き声が口から漏れた。
「…よろしければ、御手を」
「…!」
その言葉に思わず目を見開く。
(…手を…)
…触れてもいいのだろうか?
彼から差し出されたとはいえ、躊躇ってしまうのは、自分が彼に触れていいのかが分からないからだ。
自分に触れられることを不快に思わないか…そればかりが気になって、身動きが取れなかった。
「…出過ぎた真似をしました。申し訳ございません」
「…っ! ま、まって…!」
手を取るべきか控えるべきか、悶々と悩んでいる間に、彼の手がすっと下げられる。
僅かに沈んだような寂し気なその声に、躊躇いも戸惑いも一瞬で消え去り、咄嗟に伸ばした右手で縋るように細い指を掴んでいた。
「あ…っ、ぁ、の…っ」
久しぶりに触れた人の体温。そこから伝わる温もりに、彼の手を握った右手が震えた。思わず掴んでしまった手を離すこともできず、緊張で心臓が大きく脈打つ。
彼に嫌な思いをさせていたらどうしよう…そんな不安で、顔も上げられなかった。
不安に飲まれ、彼の指先を握っていた手から徐々に力が抜けていく───が、手が解けそうになる間際、思わぬほど力強く手を握り返され、弾かれるように顔を上げた。
「っ…」
「お許し頂けるのであれば、どうかこのまま…そろそろお部屋の中へ戻りましょう」
顔を上げた先の翠の瞳に嫌悪の色はなく、穏やかなまま煌めいていた。
そのことに驚きつつも、促されるまま、のろのろと立ち上がる。細い指に握られたままの手は解かれることもなく、手を引かれるようにゆっくりと歩き出した。
(…嫌じゃ…ない…?)
グッと、ほんの少しだけ強く握られた指先が熱い。
彼のものか、自分のものか、その境界すら曖昧な体温はひどく熱く───ひどく心地良かった。
気を抜いたらまた泣いてしまいそうなその温度は、いつか腕に抱いたあの小さな赤ん坊達のそれと、とてもよく似ていた。
ほんの数歩で室内へと戻ると、彼の手によって静かに窓が閉められる。
そのまま手を引かれ、長椅子まで辿り着くと、促されるままに腰を下ろした。
片手には花の詰まった籠を抱き、もう片方の手は彼の手と繋がったまま…ずっと触れている右手は未だに熱かったが、不思議と緊張感や不安は消え、ドクリ、ドクリと大きく脈打っていた心臓は、嘘のように落ち着いていた。
手を握ったままの彼が足元に跪き、スッとこちらを見据えた。その瞳に一瞬ドキリとするが、怖いとは思わなかった。
そこでようやく、ふと気づく。
そういえば、彼がこんなに近くにいるのは初めてだ、と。
触れることはおろか、側に寄ることさえ無かった彼が、すぐ目の前にいて、自分と目を合わせている。
体が触れてしまいそうなほど近くにいる彼が───現に彼の左手と自分の右手は繋がれ、お互い触れ合っているが───とても不思議で、それでいて少しだけ、嬉しかった。
繋いだままの右手から、じわじわと全身が温かくなっていくような感覚に、ホッと息を吐いた。
「…大丈夫でしょうか?」
「…?」
静かに口を開いた彼の言葉に首を傾げる。
なにが『大丈夫』なのか分からず答えあぐねいていると、躊躇いがちに彼が言葉を続けた。
「…私が御手に触れていても、大丈夫ですか?」
「……?」
『大丈夫ではない』理由があるのか分からず、疑問符が浮かんだが「大丈夫」と伝えるようにコクリと頷く。それを見て、あからさまに表情を緩めた彼に更に疑問は増えたが、悪いことではないような気がした。
「このまま、お話しをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「………」
このまま、というのは手を繋いだまま、ということだろう。コクリと頷きつつ、ぼんやりとした頭で彼に握られたままの右手をじっと見つめた。
つい数刻前まで、彼とこうして触れ合うことも、近づくことも、想像すらしていなかった。
嘘みたいな現実に、ふわふわとした気持ちで黙っていると、おもむろに彼が口を開いた。
「よろしければ、私からいくつかお伺いしたいことがございます。…お答えにくいことかもしれませんが、御心のままにお答え頂ければ幸いに存じます」
「…っ」
正直に答えることを求められ、途端に体が強張る。嘘をついたら怒られるのだろうか…そんな不安を見透かしたかのように、繋いだままの右手を軽く握り直された。
「あまり気負わずにお答え頂きたいだけです。…ご心配なさらないで下さいませ」
「………」
柔らかな彼の声に、コクリと小さく頷いた。
「それでは、そうですね……アドニス様は、私のことが苦手ですか?」
「!?」
いきなりとんでもないことを言われ、ギョッとする。質問の意図も分からないまま、フルフルと大きく首を横に振った。
「…お側にいて、煩わしいとは思いませんか?」
「う…!」
「…私が、怖くはございませんか?」
「んん…っ!」
続いた質問に、今ほどよりも大きく、何度も首を振った。
(そんなこと、思ってない…!)
怖くはない。決して、怖くはないのだ。
初めて出会った時から、彼自身に恐怖を抱いたことはなかった。
「では───アドニス様は、何に怯えていらっしゃるのですか?」
「ッ…」
自身のひゅっと息を呑む音が鼓膜を揺らした。
「何に怯え、何を憂いていらっしゃるのでしょう?」
なぜ、そんなことを言われるのかが分からなくて、頭が混乱する。
(…な、に……? なんで…?)
言葉は理解できるが、意味が理解できない。
頭の中で、言われた言葉がぐるぐると回る。その思考は真っ白で、唇を閉じることも忘れて固まった。
どうして、急にそんなことを聞くのだろう。
どうして、急にそんなことを言われたのだろう。
なんと答えていいのか、なんと答えるべきなのか…正解が分からず、喉の奥に詰まったままの声が、音になることはなかった。
───シンと静まった部屋の中、彼の静かな声が凛と響いた。
「お間違いであれば、不届き者の下らぬ妄言とお聞き流し下さい。…私には、貴方様がなにかに怯え、苦しんでいるように見えます」
「…っ」
その言葉に、ビクリと肩が跳ねた。
「ずっと、何かに耐えていらっしゃるように見えます。悲しんでいらっしゃるように見えます。ですが、どうしてそのように見えるのか、私にはその理由も、原因も分かりません。なぜ…何に、そのように憂いていらっしゃるのか、仰って頂けない限り、私もどのように動けばいいのかが、分からないのです」
「…ぁ…、ご、ごめ…」
「っ、違います! …いえ、責めるような物言いをしてしまい、申し訳ございません。私の言い方が…」
そのまま考え込むように口を噤み、彼は黙り込んでしまった。流れる沈黙に、緊張から繋いだ右手が微かに震え、胸が苦しくなった。
それを、その震えごと、自分よりもずっと小さな細い手に包まれるように握られ、緊張が僅かに緩んだ。
「…私の言葉が足りず、申し訳ございませんでした。……私は、アドニス様の側仕えとしてお側におります。アドニス様の為に、お仕えしております。私のすべきことは、お仕えする方のお言葉に従い、望まれたように動くのが役目です。ですが、それは最低限のことであって、本来は主の意向を言葉にされずとも感じ取り、何を望まれているのか、どう動くべきなのか、先を読んで行動するのです」
「………」
「ですが、今の私には、アドニス様が何をお求めになられているのかが分かりません。何を望まれているのか、何をすれば…どうしたら、その御心に寄り添えるのかが、分かりません」
(…寄り…添う…)
ゆっくりと、一つ一つの言葉を噛み砕くように話す彼の声が、鼓膜を揺らしていく。穏やかなその音に、緊張で強張っていた体から徐々に力が抜けていくのが分かった。
「お言葉にして頂けない限り、私も動けません。どうすればいいのか、どうすべきなのかが、分からないのです。決して、責めている訳ではございません。ですがこのままでは……良くないと、思うのです。苦しみにも悲しみにも気づいていて、何も出来ない…なんのお力にもなれず、ただお側にいることしかできないのは…辛いのです」
「っ…」
「私に至らぬ点があるのであれば、仰って下さい。信用に足りぬのであれば、他の者に挿げ替えて下さって構いません。それでも、もし…もしも、私をお側に置いて下さるのであれば、僅かでも構いません。お時間が掛かっても構いません。私に、御心の内をお話しして下さいませ。お望み全てを叶えることは難しいかもしれませんが、出来得る限り、お力になります。そのために、私はお側にいるのです」
「……、」
「差し出がましいこととは、重々承知しております。それでももし、私にお聞かせ願えるのであれば、嬉しく存じます」
「っ…!」
───じわりと、視界が歪んだ。
勘違いかもしれない。自惚れかもしれない。
それでも、彼が自分のことを想って、丁寧に言葉を紡いでくれたのだろうということが伝わり、それだけで、嬉しくて苦しくて、涙が出そうになった。
「…、ぁ……っ」
何か言いたい。言葉にしたい。…応えたい。
それでも、何を言えばいいのかが分からない。何を言っていいのかが分からない。
どんな言葉を選んでも、きっとおかしいと思われる。なにを言ってるんだと思われる。
彼にそう思われたら、きっともう立ち直れない。それが分かっているから、口を開くのが恐ろしい───…
(どうして…っ)
せっかく彼から話し掛けてくれたのに、なにも言えない自分が情けなくて、苦しくて、それが悔しくて、別の涙が込み上げた。
これ以上泣きたくないのに、煩わしいと思われたくないのに、ポタリと一粒の雫が零れた。
「っ…、申し訳ございません! ご無理を───」
「…!」
その言葉に息を呑む。違う。違うのだ。彼が謝る必要など、どこにも無いのだ。
泣いて後悔したあの日のことを思い出し、はくりと、吐き出した。
「ぁ……ま、ない…っ」
「…アドニス様?」
「あ…、あやま、らな…で…!」
「…!」
「…おねが、だから…っ、ぁ、あやまらな…で…っ」
ぼたり、ぼたりと、堪えきれずに涙が溢れた。
ただでさえまともに喋れないのに、息が詰まり、更に言葉は途切れ、緩くなっていた涙腺からは途切れることなく雫が零れ落ちた。
───刹那、濡れた頬に柔らかな布の感触がして、俯いていた視線を上げた。
いつの間にか彼の手には小さな布があり、それが頬に添えられていた。
「っ…、ふ…、…っ」
「…不必要に、謝ることは致しません。私に至らぬ点があると思うからこそ、言葉にするのです。…ですが、今後はもう少し言葉を選ぶよう、努めたいと思います。ただ、私が謝罪すべきだと、自分の行動や発言に非があると判断した時は、きちんとお言葉にしたいと思います。…よろしいですか?」
「…っ、……っ」
よろしいかと問われ、それに自分が答えていいのかも分からず答えあぐねいていると、彼が更に言葉を続けた。
「その都度、お話しを致しましょう? アドニス様が…アドニス様も私も、お互いが納得できるように、お話しができたなら、嬉しく思います」
「…っ、…、」
不思議なほど心地良く、優しい問い掛けに、ゆっくりと頷く。
(どうして…この子はこんなに、優しいんだろう…)
頬に添えられたままの布に、籠を抱いていた左手を伸ばす。彼の手から受け取ったそれで目元を押さえながら、ゆっくりと息を整えた。
「…ふ…っ」
「…アドニス様から、なにかお話ししたいことはございますか? 勿論、無理に仰って頂く必要も、無理にお聞きしようというつもりもございません。…ですが、何か心配事があるのであれば、言葉にすることで少しでもお気持ちが楽になるのであれば、私でよろしければ、仰って下さいませ」
「……、」
…言って、いいのだろうか?
『何を言えばいいのか分からない』
『何を聞けばいいのか分からない』
『何もかも、分からない』
ずっと胸に秘めてきたこの秘密を、そのまま言葉にしてもいいのだろうか?
話していいとは言ってくれたが、彼だってまさか、そんなことを言われるなんて思ってもいないだろう。
(どうしよう…)
口を薄く開いてはみるものの、声が出ない。はくはくと、空気を噛むだけで音にならない声に唇を噛んだ。
言いたいのに言えない。
言いたくないのに言いたい。
きっと言葉にすれば彼を困らせる。
けれど、黙り続けているのも彼を困らせる。
相反する思考と感情に、止まっていた涙がまた滲んだ。
(もうやだ…っ)
言葉にするのも、しないのも苦しい。
涙を隠すように握った布で目元を強く抑える。漏れてしまいそうになる嗚咽を、喉の奥に飲み込んだ時だった───ぐっと、強く右手を握られ、目を見開いた。
「…っ」
「アドニス様、どうか、お話しして下さい。そのように泣かれることがないように…お話しして下さいませ。どのようなことでも構いません。…大丈夫です。大丈夫ですから…」
何故か彼まで泣きそうな顔をしていて、胸がギュウッと締め付けられる。それと連動するように、指先に力が籠り、彼の手を握り返してしまった。
その動きに応えるように、更に強く右手を握り返され、それが合図となったように、喉の奥で堰き止められていた声がポロリと溢れた。
「っ…、わ、わか、な…わかんない…っ、なに、言ったら、い…のか…わからない…っ、どしたら、いいのか、…っ、ぜんぶ、なんにも…わかんない…!」
彼が、目を見開いたのが視界の端に映る。
それ以上の反応を見るのが怖くて、ギュッと目を瞑った。
「……全て、何が、分からないのか、分からない…ということですか?」
「ぅ…」
「…何を聞けばいいのかも、分からない…ということで、よろしいですか?」
「っ…!」
う、と息を呑みつつ、小さく頷く。
改めて言葉にされると、これほど奇妙なこともないだろう…と身を縮めるように背を丸めた。
「………承知しました」
「…!?」
おかしなことを言った、困らせた…恐ろしいほどの不安を抱いたまま俯いていると、やや間があってから返ってきた返答に、思わず顔を上げた。
「……え…?」
「ならば尚のこと、たくさん、お話しをしましょう。些細なことでも構いません。たくさんお話しをして、少しずつご理解されていけばいいのです。アドニス様が疑問を抱くように、私も疑問に思うことがございます。お互いの疑問を少しずつ、一つずつ解いていって、擦り合わせていえば、どこかで、互いに求めていた答えに辿り着けるはずです」
「…そ…れは…」
それは───とても、素敵なことのように思えた。
ずっと、ずっとずっと、答えが欲しかった。
疑問を口にする許しが欲しかった。
───それを、彼に求めてもいいのだろうか?
「…で…でも…」
「はい」
ただ、それにどれだけ時間が掛かるのか、どれほど彼を拘束することになるのか、考えるだけで申し訳なくて、声が震えた。
「…め、迷惑に、なる…」
「なりません」
「っ…」
キッパリと力強い声で言い切られ、くっと息を呑んだ。
「い、いっぱい…時間…かかっちゃう…」
「構いません」
「へ…変だって…思…」
「思いません」
「…お、おかしい、こと…言う…っ」
「…それは、いけないことでしょうか?」
「え…」
翠の美しい瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
「知らないこと、分からないことを知ろうとすることは、決しておかしいことではございません。極自然なことです。知りたいと思う欲求もおかしいことではございません。…私が、驚くことがあるかもしれませんが、それだけです。決して、悪いことではございません」
『悪いことではない』
そうハッキリと言われ、強張っていた体から力が抜けていくのが分かった。
声を出そうと開いた唇は震え、泣き声になってしまいそうなそれを必死に噛み殺した。
「アドニス様、どうか…」
美しい翠から、目を逸らすことができない。
何かを乞い願うような彼の声に、深く息を吸い込むと、必死に声を振り絞った。
「…ぁ……あの…っ」
「はい」
「…本当、に…? いいの…?」
「はい」
「お、おかしいこと、いっぱい…言う…」
「なんでも仰って下さい」
「…ほんと…に…っ、いっぱい…迷惑…、っ、…い、嫌に…なっちゃ…!」
「…もし、私の心配をして下さっているのであれば、その御心だけで充分でございます。アドニス様のために、お側にいるのが私の役目ではございますが、どうか───どうか私の為に、お側に置いて下さいませ」
「っ…!」
ボロボロと、次から次へと涙が溢れては、柔らかな布へと吸い込まれていく。
嬉しいと思う気持ちと、どうしても拭い切れない罪悪感。
それでも、彼の優しさに甘えてもいいのなら、望んでもいいのなら───側にいて欲しいと願ってしまった。
「…ふっ、ぅ…っ」
「不肖の身ではございますが、もしも望んで下さいますならば、御手を───」
彼の左手に握られた右手。その上から更に彼の右手が重ねられ、自身の手が彼の両手に包まれる。
自身の浅黒い肌を包むように握られた白く華奢な手の甲に、そっと左手を伸ばした。
まだ、その肌に触れることを躊躇ってしまう。どうしても怯えてしまう。
それでも、望むことを許してくれた彼に報いるように、ギュッと薄い手の甲を握った。
膝の上で折り重なった、二人分の手。
それを見届けた翠の瞳が、一瞬大きく煌めき、そっと伏せられた。
重なり合った手と手の一番上、自身の手の甲に、膝をついたまま頭を下げた彼の額が、そっと触れた。
肌に触れる柔らかな白金の髪の感触すら優しく、目の前に映る光景は、ただただ美しかった。
「御身の為、誠意を込めて、お仕え申し上げます」
まだ幼さの残る、凛とした透明な声。
耳に届いたその声は、どこまでも力強く、どこまでも優しくて、その温かさにまた涙が溢れた。
彼に手を握られたまま泣き続け、どれほどか時間が経った頃、ようやく頬を伝う雫が途切れた。
しゃくり上げながら、ぼぅっと一点を見つめていると、身を屈めていた彼が静かに口を開いた。
「…お疲れでしょう。本日はもうお休み下さいませ」
彼の言葉に、大人しくコクリと頷く。
赤ん坊達から受け取った贈り物に泣き、彼との会話に泣き、ひたすらに泣き続けた体は異常なほどに疲弊していた。
(頭が、クラクラする…)
泣きすぎたせいなのか、ほんの少しだけ視界が揺れた。パチパチと瞬きを繰り返す中、おもむろに彼が立ち上がった。
寝室に向かうためだろうと、左腕に籠を抱き抱え、続くように立ち上がれば、ゆっくりとそのまま手を引かれた。
(え…)
繋いだままの手が離れることはなく、彼に手を引かれるようにゆっくりと歩いた。
やんわりと握られたままの右手は温かく、無性に安心した。
(…安心…)
思えば、そんな風に感じるのは初めてのことだった。
赤ん坊の天使達と共にいた時の、温かな気持ちとはまた違う。ホッとするような、なにも心配しなくてもいいような、無条件の安らぎ。
目の前をゆっくりと歩く少年の小さな背中を見つめながら、緩く握られた彼の左手をほんの少しだけ、握り返した。
直後、それに応えるように握り返された右手が嬉しくて、もうそれだけで、気持ちが満たされていくようだった。
ゆっくりと、時間をかけて辿り着いたベッドの脇で、そっと離れていった左手。
それを少しだけ寂しいと思った自分に内心驚きつつ、温かなままの右手はまるで夢見心地のようで、ふわふわと気持ちが浮ついた。
「そちらはお預かり致します」
そちら───と指されたのは、たくさんの花が詰まった白い籠。一瞬、手放すのを躊躇ったが、彼ならきっと大丈夫だろう、と何も言わずに手渡した。
籠を受け取った彼がスッと指先を動かすと、何処からともなく小さなサイドテーブルが現れ、ベッドの脇へと収まった。
(え…、ど…ういう…?)
いきなり現れたそれをポカンと見つめていると、その上に彼が籠を置いた。
「ここならば、ベッドの中からでも眺めることができるはずです」
「…!」
その言葉にハッとする。確かに、ベッドのすぐ脇に置かれた状態なら、横になったままでも花を眺めることができるだろう。
彼が自分を気遣って用意してくれたことに気づき、恐る恐る口を開いた。
「ぁ…ぁの…、あ、ありがとう…」
「…お役に立てて、なによりでございます」
ちゃんと、お礼が言えた。それに応えてくれた。
たったそれだけのことがただ嬉しくて、柔く唇を食んだ。
「どうぞ、お休み下さいませ。今日はこちら側の幕は閉じず、そのままにしておきますがよろしいですか?」
『こちら側』というのは、花が見えるように、ということだろう。コクリと頷くと、彼の手を借りてベッドの中へと潜り込んだ。
数刻前に彼が整えてくれたばかりの布団は、いつもと同じようにふかふかと柔らかく、それでいていつもよりずっと温かく感じた。
心も体も温かく、ぼんやりとしたままの頭は、柔らかな羽毛に包まれ、瞬きの間に睡魔に襲われた。
微睡む視界の中、ベッドの脇に立ったままの彼をジッと見つめる。
「おやすみなさいませ。アドニス様」
耳に馴染んだはずの声が、今はまったく違う音に聞こえて、ふわふわとした意識のまま、気づけば自然と口を開いていた。
「…おやすみ…なさい…」
思えば、彼にその言葉を返したのは初めてのことだった。彼も、それに気づいたのだろう。
驚いたように翠の瞳を見開いて、そうして───少しだけ、笑ってくれた。
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