天使様の愛し子

東雲

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リリィ・ラムの産ぶ声

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あの日から数日が経った。あれからも変わることなく、部屋の中には彼がおり、決まった言葉だけを耳にする日々が続いていた。
居た堪れなさと気まずさから視線も合わせられなかったが、彼の態度にまったく変わりがないことがなによりの救いだった。

真面目な子なのだろう。自分の我が儘も、きちんと彼を此処へ置いていった人に伝えてくれたらしい。あの日の言葉通り、翌日になって返事を教えてくれた。

『ご希望について申し伝えましたが、やはりお側を離れるのは難しいとのことです。なるべくお一人になれるお時間を作れるよう、私も配慮致しますので、どうかご容赦下さいませ。…お力になれず、申し訳ございません』

そう言って深々と謝る彼に、元凶である自分が何を言える筈もなく、ただ頷くことしかできなかった。
きっと自分が謝れば、真面目な彼を更に困らせることになるのだろう。そう思うと「我が儘を言ってごめんなさい」の一言すら言えず、黙り込むことしかできなかった。
結局、心の中で懺悔するだけ…そのことにまた落ち込み、気持ちは沈む一方だった。



ただ泣くだけでなにも出来なかったあの日。
綺麗に設えられた寝具を崩すのが怖くて、涙が止まった後も床に蹲っていた。
そのまま時間が過ぎ、陽が傾き始める頃になって部屋の扉をノックする音が聞こえた。部屋に入ってきた彼は床に蹲っている自分に驚いたのか、ほんの少しだけ表情がいつもと違って見えた。

「…アドニス様、お疲れでしょうから、どうかベッドでお休み下さい」

疲れるようなことなど何もしていない、と思いつつ、泣き続けた体は確かに疲弊していて、くぅ…と小さく唸った。
泣いていたことも、彼にはバレていたのかもしれないと思うと、情けなくて仕方なかった。
ベッドへと言われたが、丁寧に整えられたそれを崩すのが怖いとも言えず、膝を抱えたまま俯いていると、やや間があってから再び彼が口を開いた。

「…アドニス様の為にご用意したのです。そのままお休みになるのは、お身体にも障ります。…どうか、お願いでございます」

僅かに、痛みを含んだような沈んだ声に思わず顔を上げる。
いつもと変わらず少し離れたところに立つ彼が、なぜか少し…本当に少しだけ、悲しそうな顔をしているように見えて目を瞬いた。

(…どうして?)

なぜそのような顔をしているのだろう?
それが分からずに首を傾げる。彼の憂いになるような事などしていないはず…と思いつつ、先ほどの言葉を思い出し、ようやく気づいた。
わざわざ彼が、自分の為に用意したと言ったのだ。それを無下にされて、良い気持ちはしないだろう。

(ああ…どうして…)

やること成すこと、すべてが悪い方へと転がっていき、誰かの害となってしまう。
つい今しがた、彼の不幸になりたくないと思った矢先だというのに、早くも憂いになっていることに、止まったはずの涙がまた滲みそうになった。

(…言うこと、ちゃんと聞こう…)

大人しく、従順に、彼の言葉にきちんと従っているべきなのだ。
フラリと立ち上がると、のろのろとした足取りでベッドへと近づいた。そのすぐ脇まで近づいて「あ」と気づく。頭から被っているシーツをどうすべきなのか分からず、立ち往生した。

「そちらのシーツはそのまま、お足元に落として下さって結構です」

どうしようと思う間もなく彼の声が聞こえ、驚くほど察しが良いことを有り難いと思う反面、手間ばかり増やして申し訳ないという気持ちで胸が苦しくなった。
本当に床に落としていいのか…不安に思いつつ、彼の言うことに従おうと決めたばかりな上に、それ以上の選択肢もなく、そろりとシーツの中から顔を出した。
床の上にそっとシーツを置くと、屈んだ姿勢のまま、ベッドの陰に隠れるようにして布団の隙間に潜りこんだ。
新しく取り換えられたリネンは肌に触れる感触も別物で、ふかふかと柔らかな布団も、綺麗に並べられたクッションも、落ち着かない気持ちにさせた。
なるべく整えられた形を乱さないよう、慎重に体を動かしベッドに横になる。羽毛の海に埋もれるように体の力を抜き、ふっと息を吐き出したところで、音もなく天蓋の幕が閉じられていった。

「…おやすみなさいませ。アドニス様」

小さく呟かれた彼の声を耳にしながら、そっと目を閉じた。

(…言うことをちゃんと聞いて…その通りにしていよう…)

彼の言葉に従っていれば、少なくとも弊害にはならないはずなのだ。

(…泣かないように、しよう)

泣けば、その分余計な気を遣わせてしまう。これ以上の面倒にはなりたくなかった。

(余計なことは、言わない…大人しく…言われた通りに…)

物言わぬ人形のように、ただそこに在るだけの存在であれば、きっと───…

(……きっと、大丈夫……)

そう、願うことしか出来なかった。




その翌日から今日に至るまで、彼の言葉に大人しく従い続けた。とはいえ、彼から求められるのはベッドを整える行為だけなので、結局手間を増やしているだけなのが現状だった。
彼はあれから律儀に毎日シーツを取り替え、寝具を綺麗に整えてくれていた。
朝起きると必ず「寝具を整えてもよろしいでしょうか?」と聞かれるようになった為、今では彼に何か言われる前に寝室を出るようになった。
自分用に、と予め用意されるようになったシーツを目深に被り、のそのそと隣室に移動すると、長椅子の上で膝を抱いて丸まるようにして座った。
そのまま一言も言葉を発することなく、陽の光を浴びて日永一日過ごす。
いつかの日と同じような過ごし方に戻っただけ…違うことがあるとすれば、室内に自分以外の誰かがいる、ということだけだった。

窓の外に映る空を見上げながら、ぼんやりと物思いに耽る。寝具を整えている間は、彼も一人になれる。それだけでも、少しだけ気持ちが軽くなった。
「ごめんなさい」も「ありがとう」も言う勇気がない今、本当なら彼の手を煩わせることだってしたくないのだが…彼の言葉に従おうと決めたのだ。

(…大丈夫。ちゃんと、言う通りにしてる…)

数日前まで床の上に座っていた体勢も、彼に椅子に座った方がいいと言われたのでその通りにした。

(大丈夫…きっと……大丈夫…)

膝を抱えた腕の中に顔を埋め、自身に言い聞かせるように、ひたすら「大丈夫」と心の中で唱えた。
本当のところ、何が良くて、何がダメなのかも分からず、不安で仕方ない。
それでももう、大丈夫だと、そう願うことしかできなかったのだ。

(言う通りにしてる…我が儘も言わない…泣いたりしてない…)

目を閉じ、静かに呼吸を繰り返す。

(……大丈夫…)

───もう、何が『大丈夫』なのかすら、分からなかった。




そんな日々が幾日か続き、心情はどうあれ、時間だけは穏やかに過ぎていった。
沈黙だけが流れる静かな室内で、シーツを頭から被り、彼の目から隠れるように過ごすことにもようやく慣れてきた。
窓から見える青い空と陽の光が差し込む明るい室内。紛い物の平穏の中で、現実から逃げるように微睡んで過ごした。

その日も、同じ一日の繰り返しになるはずだった。



「アドニス様。少し、よろしいでしょうか?」

いつものように、長椅子の上で丸まって座っていると彼に声を掛けられた。
あの日を最後に、決まった言葉以外を口にしなかった彼に話しかけられたことに驚き、思わず顔を上げた。

「見て頂きたいものがございます。少し、お時間を頂けないでしょうか?」

(…見る…?)

なにを? と首を傾げる。何かあっただろうか、と考えていると、彼がゆっくりと窓辺へと近づいていった。

(……え?)

そこは、いつか自分が過ごしたバルコニーへと続く大きな窓だった。
彼の行動に戸惑い、知られていないはずなのに、悪い行いがバレてしまったような気まずさと焦りで、視線が泳いだ。
静かな足取りで窓辺へと近づいた彼が、そのまま流れるような動作で窓を開ける。
途端に吹き込んだ柔らかな風。泣きたくなるほど久しぶりに感じた暖かなそれに、グッと歯を食いしばった。

「こちらへ、来て頂けますか」
「…!」

ゆるりと振り返った彼にそう言われ、息を呑む。
どうして? なぜ? なんで?
意図が分からず混乱した。開け放たれた窓の先、陽の光が降り注ぐバルコニーに出たのは、もうどれほど前のことだろう。

(……怖い…)

いつかの、天使達に見つかった時の記憶が蘇る。
見下した目つき、蔑むような視線、耳に残った嘲笑…それが恐ろしくて恐ろしくて、陽の当たる世界から逃げ出したのだ。

(…怖い…怖い……けど…)

本当は行きたくない。外に出ることも、窓辺に近づくことすら恐ろしい───でも、彼の言う通りにしなければ…従順でいようと決めたのは他でもない、自分なのだ。

「…っ」

泣きたくなるほど、逃げ出したくなるほど恐ろしい。
それでも、そんな気持ちを振り払うように、大きく息を吸い込むと、恐怖を体の外へと押し出すように深く息を吐き出した。
緩慢な動きで椅子から足を下ろすと、ゆっくりと窓辺へと近づいた。被ったままのシーツを強く握り締め、恐怖に負けそうになる心を叱咤する。バルコニーへと出た彼は、ただ静かにそこで待っていた。

一歩一歩と、窓辺へと近づく度に心臓の鼓動が速くなる。激しくなる動悸に合わせ胸が苦しくなり、恐怖は一層増した。
時間をかけ、ようやくあと一歩で部屋の中と外との境界線を跨いでしまう…というところまで近づいた。
恐怖と緊張で、ガチガチに固まった体のまま立ち尽くしていると、彼が再び口を開いた。

「こちらをご覧頂きたいのですが…」

そうして示された先はバルコニーの外。言外に、外に出るよう促されて体が震えた。
泣きたくなるほどの恐怖に飲まれながら、それでも目を閉じ、一思いに足を踏み出した。
足を着いた先の石畳みの感触に、ぶるりと身震いする。固く温かなそれが、今はとても落ち着かなかった。

(…なんだろう…)

ドクドクと忙しなく脈打つ胸を押さえながら、恐る恐る、彼が指し示した先を視線で辿った。






「………ぁ…」

辿った先、視界に入ったに、大きく目を見開く。

開け放たれた窓の片隅。周囲から隠れるように、ひっそりと存在するそれに、フラフラと近寄った。
恐怖も緊張も、どこかへ飛んでしまったように、ただ目の前にある物から視線を逸らすことができなかった。

近づいたその先、見覚えのあるそれに音にならない声が口から零れ、唇は震えた。

(……あの子…達だ…)

そこにあったのは、たくさんの花だった。
色とりどりの花と、可愛らしい小さな花輪。
それらが幾重にも重なり、積もり、小さな花の山となっていた。

花が積み重なったそこは、あの夢のような愛しい日々の中で、いつも自分が座っていた場所だった。

「っ…、…は、…っ」

気がつけば泣いていた。
両眼からぼたぼたと涙が零れ、堪えようとした声は、小さな悲鳴のように喉を震わせた。

「うぅ~っ、…っ、…っ!」

蹌踉めきながら足元に蹲り、震える手でそれに触れた。指の先に触れる、カサリと乾いた感触に一層涙が込み上げた。
いつから此処にあったのか。長い間、風に晒され続けていたのであろう花の姿に、後から後から涙が溢れ、雫となって落ちていった。

(…会いたい…っ)

ずっと、考えないようにしていた。
考えたら、会いたくなってしまうから。
思い出したら、恋しくなってしまうから。
───本当は、一人は寂しいのだと、気づいてしまうから。

それが嫌で、叶わぬ願いに手を伸ばすのも、夢を抱いてしまうのも苦しくて、考えないようにしていたのに…

(あの子達に、会いたい…っ)

深い深い、暗く冷たい眠りの中、もう自分のことなど忘れてくれていいのだと、本当にそう思っていた。
あの子達の憂いにも翳りにもなりたくないと、心から願っていた。

それなのに、そんな自分のことも、あの子達は覚えていてくれた。
ずっとずっと、花を贈り続けてくれていた。
優しく、暖かく、可愛い可愛い、愛しい子達。

それが嬉しくて嬉しくて、苦しくて、愛しい愛しいと、止め処なく涙が零れ落ちた。

「っ…、うぁぁ…っ」

落ちていく大きな雫を止めることもできず、蹲ったまま、涙が尽きるまで泣き続けた。





泣いて、泣いて、泣いて…どれほどか時間が経った頃、ぐずぐずになりながら顔を上げた。

(…これ…どうしよう…)

ずっと此処に置いていたら、風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまうかもしれない。だが部屋の中に持ち込もうにも、一抱えもある量では手の平にも収まらず、置き場所にも困ってしまう。

(ちゃんと、受け取りたいのに…)

どうしようか…そう思考を巡らせた時だった。

「…アドニス様、こちらを」

ふいに頭上から降ってきた静かな声に、顔を上げた。

(あ…)

花の山に意識を奪われ、彼がすぐ側にいたことも忘れていた。
いきなり泣き出した自分にきっと戸惑っただろうと思いつつ、泣き過ぎてぼぅっとした頭は思考も鈍く、ぼんやりと彼の姿を視界に映すだけだった。
そんな彼の手には、腕の中にすっぽりと収まる大きさの白い籠があった。

「こちらをお使い下さい。全て、この中に収まるはずです」
「…っ、……、ぅ…」

しゃくり上げながら、差し出されたそれと彼を交互に見比べた。
そういえば、どうして彼はこの花を、自分に見せようとしてくれたのだろう?
この花にどんな意味があるのか、知っていたのだろうか?
ふわふわと疑問が浮かぶ中、目の前に差し出された白い籠をジッと見つめた。

(…わざわざ…用意してくれたのかな…)

ただ泣き続ける自分を、彼は煩わしいと思わなかっただろうか…そんな不安が僅かに滲んだが、それよりも今はただ、彼の気遣いを素直に「嬉しい」と思えた。


「…ぁ…りがとう…っ」


無意識の内に、口から言葉が零れた。
久しぶりに出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていたが、彼には届いていたようで、ほんの少しだけ驚いたような顔をしていた。
彼の手から恐る恐る籠を受け取ると、可愛らしいその容れ物の中に、たくさんの花を移していった。
丁寧に掬い上げ、籠の中に詰めたそれは小さな花畑のようだった。

それを眺めているだけで、心は穏やかになっていく。じわじわと広がっていく温かさに、ふっと体の力が抜けた時だった。

「アドニス様」

ふと気づけば、膝をつき身を屈めた彼が真横にいた。
視線の高さも近くなった彼は、本当にすぐ目の前にいて、その瞳を初めて真っ直ぐ見据えることができた。
エメラルド色をした、宝石のように美しい翠の瞳。

その視線が、目つきが、瞳に宿る色が、とても穏やかに凪いでいて、思わずその瞳を見つめ返した。





「アドニス様、お願いがございます。……私と、お話しをして頂けませんか?」



柔らかな、穏やかな、優しい音。

いつもの、淡々としていた声音とは違う温かなその音に、なにかを考える暇もなく───気づけばコクリと、小さく頷いていた。
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