18 / 140
リリィ・ラムの産ぶ声
15
しおりを挟む
もう眠ってしまおう。
倒れ込んだ柔らかなベッドの上、泣き続けて体力を消耗した体は、すぐに眠りに落ちる───と思っていた。
(……眠れない…)
目を閉じ、静かに呼吸を整えるが、なぜか眠りに落ちることができなかった。いつもなら目を閉じて数秒もせずに意識を手放しているのに、どれだけ待っても眠ることができない。
体は疲れているのに、頭は冴えている…そんな感覚だった。
寝るのは諦め、閉じていた瞼を開くと、辺りを見回した。
閉ざされた天蓋の中は薄暗いが、真っ暗ではない視界が不思議だった。仄かに明るいのは、部屋の中が明るいからだろう。静かではあるが、辺りには穏やかな空気が漂っていた。
(…久しぶりな、気がする…)
ゆっくりと温かな時間が流れている感覚は、いつか体験したそれととてもよく似ていて、混乱し、乱れていた気持ちは徐々に凪いでいった。
そうして落ち着いてくると、つい先程の出来事についても冷静に思い返すことができた。
(…さっきの人達は…なにをしに来たんだろう…)
てっきり、なにかを咎めに来たと思ったのだ。
苦言を呈されるか怒られるか、知らない内に悪いことをしてしまって、叱責を受けるのだとばかり思っていたのだが…結局なにも言われないまま、いつの間にか彼らはいなくなっていた。
ゆっくりと左手を持ち上げ、握られていた手の平を見つめる。
(……あったかかった…)
朧げにだが、左手から全身へと、温かなものが流れていったのは覚えている。冷え切った体を温かなそれが駆け巡る感覚は、とても心地良かった。
(あれ…そういえば…)
そこでふと、あることに気づく。
いつの間に、体を動かせるようになっていたのだろう?
ずっと、指先どころか、視線を動かすことすら出来なかったはずだ。それが咄嗟のこととはいえ、飛び起きて自身の意思通りに手足を動かすことができていた。今だって難なく左手は持ち上がり、指先はすべらかに動いた。
(どうして…?)
思い当たることといえば、全身を流れた温かな何かだ。
血液のように体の隅々まで行き渡り、冷えた体を温めた熱…アレのおかげだとしたら、それを与えてくれたのは間違いなく先程の『誰か』だろう。
左手から感じた温かな熱
左手を握っていた、いつか見た『誰か』
その直後に覚醒した意識と身体
どういう意味があったのかは分からないが、何かしてくれたのだろうことは分かった。
とはいえ、何も言われず、気づけばいなくなっていたので、彼らが此処に来た目的は分からないままだった。
「……あれ?」
精神的、肉体的疲労から、ぼんやりと空を見つめた。直後、ふと動かした視線の端で、ある変化が起こっていることに気づき、上体を起こした。
「…花が…」
枕元に置いていた、摘まれたままの花や小さな花輪が無い。
大好きな子達から貰った、生まれて初めての贈り物。
いつも眺めていた大切な物が無くなっていることに気づき、慌てて辺りを見回した。
「うそ…どこに…」
シーツを引っ張った時に落としてしまったのか、それとも長く眠っている間に、自身の体で潰してしまったのか。
ぐちゃぐちゃになったベッドの上、シーツや布団の隙間を探るが、それらしき物は見当たらなかった。
「あれ……あれ…?」
仮にあったとしても、もうとっくに枯れているだろう。それでもいいから、見つけたかったのだが、どれだけ探しても見つけることはできなかった。
(…枯れたら…消えちゃうのかな…)
不思議な世界だ。そうであったとしてもおかしくはないだろうが、せっかくの贈り物が無くなってしまったことに気持ちは落ち込んだ。
「……はぁ」
起こした上体を再びベッドに横たえ、小さく溜め息を零す。
静かに、ただ命が尽きるのを待っていた体は、再び熱を帯びてしまった。
とはいえ、この先何をすれば良いのか。ただ存在するだけでも害を振り撒いてしまうのなら、あのまま放っておいてくれれば良かったのではないか…と、そう思ってしまうのはいけないことだろうか。
冷静になった頭は沈んだ気持ちに引きずられ、どうしても暗いことばかり考えてしまう。
(…だめだ。やめよう)
ギュッと目を瞑り、なにも考えないよう、早く眠ってしまおうと思考の糸を切断していく。
なにも考えないように、疑問を抱かないように、いつかの時と同じように、頭の中を真っ白にしていく…と、不意にあることを思い出した。
先程の、少年の姿をした天使。その彼が直してくれた天蓋をふっと見上げた。
(お礼…言ってない…)
くるくると、時が遡っていくように壊れた物が目の前で直っていく過程に目を奪われ、直してくれた礼を言うのも忘れていた。
(……明日も、いるのかな…)
側に控えるように言われた、と言っていたが、それがどういう意味なのか判断ができなかった。
今だけなのか、それとも明日以降もいるのか、仮に明日もいるのだとしたら、一体いつまで、何故いる必要があるのか。彼の存在も謎だった。
(…明日もいたら…お礼を言おう…)
疑問ばかりが増え、眠ることすら安易に出来なくなった体だが、深く吸った息を大きく吐き出すと、再び目を瞑った。
何故、どうして、と考え出したらキリが無いだろう。
それでも、冷え切っていた体はじんわりと温かく、孤独な暗闇は穏やかな静寂へと変わった。
ただそれだけで、ほんの少しだけ、何かが救われたような気がした。
「おはようございます。アドニス様」
目を瞑ってるはずの視界が明るい。
その眩しさにゆっくりと瞼を開ければ、天蓋の幕は開けられ、ベッドの上まで陽の光が燦々と差し込んでいた。
(………いた…)
開け放たれた窓のカーテンも、いつの間にか四隅に纏められた天蓋の布も、色々と聞きたいことはあるが、それよりなにより気になるのは目の前にいる彼のことだった。
昨日、最後に目にした時同様、ベッドの正面に立った少年は、その場で小さく頭を下げた。
「よくお休みになられていたところを申し訳ございません。そろそろお目覚めになられた方がよろしいかと思い、勝手は承知でお声を掛けさせて頂きました」
「………」
なんと答えていいのか分からない。
そもそも、なぜこの子は自分に対してこんなにも丁寧なのか、そこからしてよく分からないのだ。
(……あれ?)
ふと、その子の姿に違和感を覚え、ジッと見つめる。何かが違う…その違和感の正体にはすぐに気がついた。
(羽が…無い…?)
昨日、確かにその背に見えていた純白の翼が、今は見当たらなかった。だが目の前にいる子は確実に昨日と同じ子で、背に翼が無い以外の違いはなかった。
翼の無い出立ちは人間の外見と変わらず、自分と近しいその姿にほんの少しだけ安堵した。
「お加減はいかがでしょう? あまりお体にご負担をかけるのもよろしくないかと思いますので、本日は軽めの───」
「あっ、あの…!」
話しかけるタイミングが分からず、つい遮って声を掛けてしまった。
「はい」
「ぁ…あ、あの…、昨日、の……、あの、壊れたの、直して、くれて…あり、がとう…ござい、ました…」
誰かに話し掛ける、という行為すら久々で緊張する。語尾はどんどん小さくなり、相手に聞こえているのかすら怪しかったが、彼には届いたらしい。
「…勿体ないお言葉でございます。恐れながら、アドニス様のお世話をさせて頂くのが私の役目ですので、どうぞお気になさらないで下さい」
「………」
自分の声が届いたことに安堵するも、淡々と返される言葉に、やはりおかしいと思ってしまう。
(お世話を、する…? 自分の? ……なんで?)
生まれてからずっと放置され続けてきたことは理解しているし、別段そこに不満も疑問も無い。なのに、なぜ今になって構われるのかが分からない。
目の前にいるこの子にしても、丁寧というより、自分に付き従うのが当たり前というような態度なのが不思議でならなかった。
何故? どうして? そんな疑問を口にしようとして、はたと気づく。
(……気持ち悪いって、思われちゃうかな…)
自分の存在が異質なことには気づいていた。ただ、何がおかしいのかが分からない。
それでも、以前の自分とは異なっている存在で、だからこそ気味が悪いと思われてしまうことには察しがついていた。
その上で、例えば何か疑問を口にしたとして、それが此処では当たり前の事だとしたら、きっと「なにを言ってるんだ」と訝しまれる。ふざけているのかと、詰られるかもしれない。
自分のことも、此処のことも、何も分からないのだと、そう言葉にして一体どれだけの人が信じてくれるのだろう。
嫌われ者の自分の言葉に、一体どれだけの人が耳を傾けてくれるのだろう。
言葉にして手を伸ばして、それで一体、その行為にどれだけの価値があるのだろう…
「………」
そう考えたら、声に出すのが恐ろしくなった。
(…なるべく、黙っていよう…)
目の前に彼にしても、何故いるのか、いつまでいるのか、それすら分からない状態なのだ。せめて、彼が発する言葉の端々から状況を理解していこう。疑問を口にするのは、その後でもいいだろう。…余計なことを言って、困らせるよりはずっと良いはずだ。
「…よろしければ、お食事をお待ちしますが、こちらでお召し上がりになりますか?」
「………」
短い沈黙の後、静かに口を開いた彼の言葉に首を傾げた。
(…食事…? ……ごはん?)
「はて?」と頭の中に疑問符が浮かぶ。
なにせ生まれてから一度も何かを食べたことが無いのだ。その必要が無いのだと思っていた。が、彼の口からは極自然に『食事』という単語が出てきた。
(ごはんって…食べるんだ…)
必要ないもの、そういうものだと思っていたので、とても新鮮だった。
だが空腹も感じず、今まで一度も何かを摂取したことがない自分には、必要の無い行為に思えて、首を横に振った。
「…お食事は、いりませんか?」
「………」
「…畏まりました」
コクリと頷けば、彼はそれ以上なにを言うでもなく引き下がってくれた。
「何かご入用の物がございましたらご用意しますが、いかがですか?」
「………」
ご入用…と言われても、欲しい物も必要な物も何もなく、やはり首を横に振るしかない。
「…畏まりました」
そしてまた沈黙が流れる。自分一人でいる分には気にならない静けさだが、誰かと場を共有している状態での静寂は妙に居た堪れない気分にさせた。
(…寝てても、いいかな…)
ベッドから下りたところでやることもなければ、部屋の中に彼がいるのでは落ち着かない。
非常に気まずかったが、一度起こした上体を再度ベッドに横たえると、シーツと布団の間に深く潜った。
「…ご用がございましたら、お声掛けください」
数秒の間があってから、布団越しに彼の声が聞こえてきた。
なんの用事もなければ、なにもすることがないので、彼に声を掛けることもないだろう…そのことを申し訳なく思いつつ、いつになったら彼はいなくなってくれるのか、そんなことをぼんやりと考えながら、小さく息を吐いた。
倒れ込んだ柔らかなベッドの上、泣き続けて体力を消耗した体は、すぐに眠りに落ちる───と思っていた。
(……眠れない…)
目を閉じ、静かに呼吸を整えるが、なぜか眠りに落ちることができなかった。いつもなら目を閉じて数秒もせずに意識を手放しているのに、どれだけ待っても眠ることができない。
体は疲れているのに、頭は冴えている…そんな感覚だった。
寝るのは諦め、閉じていた瞼を開くと、辺りを見回した。
閉ざされた天蓋の中は薄暗いが、真っ暗ではない視界が不思議だった。仄かに明るいのは、部屋の中が明るいからだろう。静かではあるが、辺りには穏やかな空気が漂っていた。
(…久しぶりな、気がする…)
ゆっくりと温かな時間が流れている感覚は、いつか体験したそれととてもよく似ていて、混乱し、乱れていた気持ちは徐々に凪いでいった。
そうして落ち着いてくると、つい先程の出来事についても冷静に思い返すことができた。
(…さっきの人達は…なにをしに来たんだろう…)
てっきり、なにかを咎めに来たと思ったのだ。
苦言を呈されるか怒られるか、知らない内に悪いことをしてしまって、叱責を受けるのだとばかり思っていたのだが…結局なにも言われないまま、いつの間にか彼らはいなくなっていた。
ゆっくりと左手を持ち上げ、握られていた手の平を見つめる。
(……あったかかった…)
朧げにだが、左手から全身へと、温かなものが流れていったのは覚えている。冷え切った体を温かなそれが駆け巡る感覚は、とても心地良かった。
(あれ…そういえば…)
そこでふと、あることに気づく。
いつの間に、体を動かせるようになっていたのだろう?
ずっと、指先どころか、視線を動かすことすら出来なかったはずだ。それが咄嗟のこととはいえ、飛び起きて自身の意思通りに手足を動かすことができていた。今だって難なく左手は持ち上がり、指先はすべらかに動いた。
(どうして…?)
思い当たることといえば、全身を流れた温かな何かだ。
血液のように体の隅々まで行き渡り、冷えた体を温めた熱…アレのおかげだとしたら、それを与えてくれたのは間違いなく先程の『誰か』だろう。
左手から感じた温かな熱
左手を握っていた、いつか見た『誰か』
その直後に覚醒した意識と身体
どういう意味があったのかは分からないが、何かしてくれたのだろうことは分かった。
とはいえ、何も言われず、気づけばいなくなっていたので、彼らが此処に来た目的は分からないままだった。
「……あれ?」
精神的、肉体的疲労から、ぼんやりと空を見つめた。直後、ふと動かした視線の端で、ある変化が起こっていることに気づき、上体を起こした。
「…花が…」
枕元に置いていた、摘まれたままの花や小さな花輪が無い。
大好きな子達から貰った、生まれて初めての贈り物。
いつも眺めていた大切な物が無くなっていることに気づき、慌てて辺りを見回した。
「うそ…どこに…」
シーツを引っ張った時に落としてしまったのか、それとも長く眠っている間に、自身の体で潰してしまったのか。
ぐちゃぐちゃになったベッドの上、シーツや布団の隙間を探るが、それらしき物は見当たらなかった。
「あれ……あれ…?」
仮にあったとしても、もうとっくに枯れているだろう。それでもいいから、見つけたかったのだが、どれだけ探しても見つけることはできなかった。
(…枯れたら…消えちゃうのかな…)
不思議な世界だ。そうであったとしてもおかしくはないだろうが、せっかくの贈り物が無くなってしまったことに気持ちは落ち込んだ。
「……はぁ」
起こした上体を再びベッドに横たえ、小さく溜め息を零す。
静かに、ただ命が尽きるのを待っていた体は、再び熱を帯びてしまった。
とはいえ、この先何をすれば良いのか。ただ存在するだけでも害を振り撒いてしまうのなら、あのまま放っておいてくれれば良かったのではないか…と、そう思ってしまうのはいけないことだろうか。
冷静になった頭は沈んだ気持ちに引きずられ、どうしても暗いことばかり考えてしまう。
(…だめだ。やめよう)
ギュッと目を瞑り、なにも考えないよう、早く眠ってしまおうと思考の糸を切断していく。
なにも考えないように、疑問を抱かないように、いつかの時と同じように、頭の中を真っ白にしていく…と、不意にあることを思い出した。
先程の、少年の姿をした天使。その彼が直してくれた天蓋をふっと見上げた。
(お礼…言ってない…)
くるくると、時が遡っていくように壊れた物が目の前で直っていく過程に目を奪われ、直してくれた礼を言うのも忘れていた。
(……明日も、いるのかな…)
側に控えるように言われた、と言っていたが、それがどういう意味なのか判断ができなかった。
今だけなのか、それとも明日以降もいるのか、仮に明日もいるのだとしたら、一体いつまで、何故いる必要があるのか。彼の存在も謎だった。
(…明日もいたら…お礼を言おう…)
疑問ばかりが増え、眠ることすら安易に出来なくなった体だが、深く吸った息を大きく吐き出すと、再び目を瞑った。
何故、どうして、と考え出したらキリが無いだろう。
それでも、冷え切っていた体はじんわりと温かく、孤独な暗闇は穏やかな静寂へと変わった。
ただそれだけで、ほんの少しだけ、何かが救われたような気がした。
「おはようございます。アドニス様」
目を瞑ってるはずの視界が明るい。
その眩しさにゆっくりと瞼を開ければ、天蓋の幕は開けられ、ベッドの上まで陽の光が燦々と差し込んでいた。
(………いた…)
開け放たれた窓のカーテンも、いつの間にか四隅に纏められた天蓋の布も、色々と聞きたいことはあるが、それよりなにより気になるのは目の前にいる彼のことだった。
昨日、最後に目にした時同様、ベッドの正面に立った少年は、その場で小さく頭を下げた。
「よくお休みになられていたところを申し訳ございません。そろそろお目覚めになられた方がよろしいかと思い、勝手は承知でお声を掛けさせて頂きました」
「………」
なんと答えていいのか分からない。
そもそも、なぜこの子は自分に対してこんなにも丁寧なのか、そこからしてよく分からないのだ。
(……あれ?)
ふと、その子の姿に違和感を覚え、ジッと見つめる。何かが違う…その違和感の正体にはすぐに気がついた。
(羽が…無い…?)
昨日、確かにその背に見えていた純白の翼が、今は見当たらなかった。だが目の前にいる子は確実に昨日と同じ子で、背に翼が無い以外の違いはなかった。
翼の無い出立ちは人間の外見と変わらず、自分と近しいその姿にほんの少しだけ安堵した。
「お加減はいかがでしょう? あまりお体にご負担をかけるのもよろしくないかと思いますので、本日は軽めの───」
「あっ、あの…!」
話しかけるタイミングが分からず、つい遮って声を掛けてしまった。
「はい」
「ぁ…あ、あの…、昨日、の……、あの、壊れたの、直して、くれて…あり、がとう…ござい、ました…」
誰かに話し掛ける、という行為すら久々で緊張する。語尾はどんどん小さくなり、相手に聞こえているのかすら怪しかったが、彼には届いたらしい。
「…勿体ないお言葉でございます。恐れながら、アドニス様のお世話をさせて頂くのが私の役目ですので、どうぞお気になさらないで下さい」
「………」
自分の声が届いたことに安堵するも、淡々と返される言葉に、やはりおかしいと思ってしまう。
(お世話を、する…? 自分の? ……なんで?)
生まれてからずっと放置され続けてきたことは理解しているし、別段そこに不満も疑問も無い。なのに、なぜ今になって構われるのかが分からない。
目の前にいるこの子にしても、丁寧というより、自分に付き従うのが当たり前というような態度なのが不思議でならなかった。
何故? どうして? そんな疑問を口にしようとして、はたと気づく。
(……気持ち悪いって、思われちゃうかな…)
自分の存在が異質なことには気づいていた。ただ、何がおかしいのかが分からない。
それでも、以前の自分とは異なっている存在で、だからこそ気味が悪いと思われてしまうことには察しがついていた。
その上で、例えば何か疑問を口にしたとして、それが此処では当たり前の事だとしたら、きっと「なにを言ってるんだ」と訝しまれる。ふざけているのかと、詰られるかもしれない。
自分のことも、此処のことも、何も分からないのだと、そう言葉にして一体どれだけの人が信じてくれるのだろう。
嫌われ者の自分の言葉に、一体どれだけの人が耳を傾けてくれるのだろう。
言葉にして手を伸ばして、それで一体、その行為にどれだけの価値があるのだろう…
「………」
そう考えたら、声に出すのが恐ろしくなった。
(…なるべく、黙っていよう…)
目の前に彼にしても、何故いるのか、いつまでいるのか、それすら分からない状態なのだ。せめて、彼が発する言葉の端々から状況を理解していこう。疑問を口にするのは、その後でもいいだろう。…余計なことを言って、困らせるよりはずっと良いはずだ。
「…よろしければ、お食事をお待ちしますが、こちらでお召し上がりになりますか?」
「………」
短い沈黙の後、静かに口を開いた彼の言葉に首を傾げた。
(…食事…? ……ごはん?)
「はて?」と頭の中に疑問符が浮かぶ。
なにせ生まれてから一度も何かを食べたことが無いのだ。その必要が無いのだと思っていた。が、彼の口からは極自然に『食事』という単語が出てきた。
(ごはんって…食べるんだ…)
必要ないもの、そういうものだと思っていたので、とても新鮮だった。
だが空腹も感じず、今まで一度も何かを摂取したことがない自分には、必要の無い行為に思えて、首を横に振った。
「…お食事は、いりませんか?」
「………」
「…畏まりました」
コクリと頷けば、彼はそれ以上なにを言うでもなく引き下がってくれた。
「何かご入用の物がございましたらご用意しますが、いかがですか?」
「………」
ご入用…と言われても、欲しい物も必要な物も何もなく、やはり首を横に振るしかない。
「…畏まりました」
そしてまた沈黙が流れる。自分一人でいる分には気にならない静けさだが、誰かと場を共有している状態での静寂は妙に居た堪れない気分にさせた。
(…寝てても、いいかな…)
ベッドから下りたところでやることもなければ、部屋の中に彼がいるのでは落ち着かない。
非常に気まずかったが、一度起こした上体を再度ベッドに横たえると、シーツと布団の間に深く潜った。
「…ご用がございましたら、お声掛けください」
数秒の間があってから、布団越しに彼の声が聞こえてきた。
なんの用事もなければ、なにもすることがないので、彼に声を掛けることもないだろう…そのことを申し訳なく思いつつ、いつになったら彼はいなくなってくれるのか、そんなことをぼんやりと考えながら、小さく息を吐いた。
293
お気に入りに追加
6,237
あなたにおすすめの小説

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)



悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

朝起きたら幼なじみと番になってた。
オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。
隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた
思いつきの書き殴り
オメガバースの設定をお借りしてます

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる