天使様の愛し子

東雲

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リリィ・ラムの産ぶ声

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暗い暗い意識の底。既に自我というものすら失われたような暗闇の中、揺蕩たゆたうような深い眠りを叩き起こそうとする強い感覚に襲われ、意識がふわりと浮上した。

(………? なに…?)

最初に違和感を感じたのは左手だった。熱を帯びた何かが自身の左手に触れている。
それが何なのか分からず、覚束ない意識のまま、また眠りにつこうとした時だった。左手に触れているものから、温かい何かが凄まじい勢いで自身の体内に注がれた。

(…!)

自分の体の中を温かな何かが勝手に流れていく。なんとも言い難いその感覚は非常に不可思議で、だが決して不快なものではなかった。
左手から左腕へ、左腕から胴体へ、胴体から右半身の腕へ、足へ、血液が体内を流れていくように温かなものが全身を巡る感覚は、ひどく心地良かった。

(…あったかい…)

じんわりと、指の先まで自身の体が熱を帯びているのが分かる。久しく感じていなかったその感覚を確かめるように、徐々に意識はクリアになっていく。
と、なにか音が聞こえたような気がして、意識がそちらに引き寄せられる。無音の世界に長くいたせいなのか、その音がなんなのか、聞き取ることが出来なかった。
そこまできて、ふと周囲が暗闇でなくなっていることに気づいた。まだ暗いが、ほんのわずかに明るい視界。それが瞼の裏側を見ているから暗いのだと気づき、ゆっくりと瞼を開けた。

(……あかるい…)

ぼんやりとした視界に映ったのは、見慣れぬ景色だった。そこにあるのは確かに見覚えのある天井なのだが、こんなに明るい視界の中で見たのはいつぶりか…もう思い出せないほど遠い記憶のように思えた。

(……明るい…?)

ぼやける視界に、パチリと瞬きを繰り返す。
確か、自分は真っ暗な部屋で眠っていたはず。それなのに、なぜ光を感じるのだろう───?
明らかに陽の光だと分かる明かりに照らされた室内は、長く暗い世界しか見ていなかった瞳には、真っ白なほど輝いて見えた。

(…なんで……明るい…)

瞬間、はたと左手に違和感を感じた。
温かな何かが自身の手に触れている…その感覚にようやく気づき、ゆっくりと視線を動かした。


ベッドの上に横たわったまま、自身の左手を見遣れば───そこに自分以外の人の手があった。

(……………え)

視界に映った情報は、理解の範疇を超えていた。
誰かの手がある…それはつまり、ということに他ならないからだ。

停止しかけた思考のまま、視線だけが勝手に動いた。
自分の手と繋がる『誰か』の手、その先を辿るように動いた視線の先には───いつか見た、『誰か』がいた。



それを目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。



「…イ、あ、アァアァアァァァァあぁぁぁッッッ!!!!」

『誰かいる』
そう認識した瞬間、叫んでいた。
自分の感情すら分からない。ただ反射的に、本能のように、声を上げていた。
声に出してから、それを追いかけるように全身を恐怖が襲った。ただ恐ろしくて、怖くて、そこに居る『誰か』から逃げたくて、広いベッドの上を這いずるようにして逃げた。
その間も頭の中はぐちゃぐちゃで、何がどうして、ということも考えられないほど混沌としていた。
頭の中で脳みそが弾けてしまったように、なにも考えられない。それでも口からは勝手に言葉が零れていた。

視界に入っていた『誰か』の体が僅かに動き、手が伸びてくる。
届くはずがないと分かっているそれが、どうしようもなく恐ろしくて、体は勝手に動いていた。

(あ)

後退ろうと手をついた場所には何もなく、「落ちる」と思った瞬間にはもう体が傾いていた。
咄嗟に掴み、強く引いたせいで裂いてしまった天蓋の布。どこかで何かが壊れたような音。床に打ち付けた体の痛み。
ベッドの上から落ちただけとはいえ、受け身一つ取れなかった体への衝撃は大きく、一瞬の浮遊感でブレた視界のせいで、脳みそがグラグラと揺れた。

そこへ『誰か』が近づいてくる気配がして、まともに判断の出来なくなった頭の中は、恐怖一色に染まった。
恐ろしい。ただ恐ろしかった。
何もしていないのに、どうして、何故、また傷つくのも、苦しくなるのも、もう嫌だった。
それが嫌で、恐ろしくて、冷たい声も視線も、全てが怖くて、だから大人しくしていたのに、誰にも迷惑を掛けないように、誰かの害にならないように、眠っていただけなのに、それなのに…それすら許されなかったのだろうか───…?
恐怖と悲しみと苦しさをぐちゃぐちゃに混ぜた感情が体内で渦巻き、暗く沈んだことしか考えられなかった。

なにをしても、なにをしなくとも赦されないのなら、このまま目覚めぬ眠りにつかせてくれればいいのに…

そんなことを思いながら、目を瞑り、耳を塞ぎ、涙が枯れるまで泣き続けた。






どれほどそうしていたか、ようやく涙が止まった頃に恐る恐る顔を上げた。

「…っ、ふ…、……っ…?」

(………いない…?)

いつものように静寂に包まれた部屋の中はシンと静まり返り、誰の気配もしなかった。
先ほどいた『誰か』は、いつの間にかいなくなっていたようだったが、それでも辺りを見回すほどの勇気もなく、落ちた際に一緒にずり落ちたシーツに顔を埋めた。

(……つかれた…)

ぐずぐずになった顔を擦りながら、大きく息を吐く。
長い間、眠る以外の行為をしていなかった体は泣くだけでも体力が消耗され、パニックで興奮状態だった精神が落ち着いてくるのと同時に、疲労感がどっと押し寄せた。
ほとんど機能せず、鈍くなっていた五感を急激に刺激されたせいもあっただろう。泣きすぎでぼぅっとした頭のまま、カーテンが開けられ、明るくなった室内を視線だけ動かして見回した。

(…さっきの人が、開けたのかな…)

久々に感じた陽の光はとても眩しくて、思わず目を細めた。
逃げるように眠りにつく前ですら、昼に寝て夜に起きるという行動をしていた為、こんなにも明るい陽射しを目にするのは懐かしいと思うほど久しぶりのことだった。
嬉しいような落ち着かないような不思議な気持ちになりながら、ふと視線を落とせば、ダラリと垂れた天蓋の布が目に入った。

「ぁ…」

そういえば、先ほど何か音がしたが、きっと天蓋の一部を壊してしまったのだろう。
落ちる瞬間に思わず掴んでしまい、縫い目からブチリと千切れた布に触れ、小さく溜め息を零した。

(…また、怒られちゃうかな…)

もう今更、怒られようが嫌われようが、さして大きな変化はないように思えた。
自分が悪いのだから仕方ない…事実、目の前にある物を壊してしまったのは自分に他ならないのだ。
千切れた布を握り、床に座り込んだまま、ぐちゃぐちゃになったシーツに包まって、ゆっくりと息を吐き出した。

(……疲れたな…)

突然の目覚めと予期せぬ来訪者で、精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。
もうこのまま眠ってしまおう…ベッドの上に這い上がる気力すらなく、目を閉じた───その時だった。


「アドニス様、どうかベッドでお休み下さい」
「…っ!?」


自分以外誰もいないはずの室内に、自分以外の人の声が響き、ビクリと大きく体が跳ねた。

「ぁ…、…え…?」

確かに誰の気配もしなかったはず…そのはずなのに、驚いたせいで痛いほど鼓動する心臓を押さえながら咄嗟に室内を見回した。
見回した先…そこには、少年の姿をした一人の天使が立っていた。

(……だれ…?)

シーツに包まったまま、恐る恐るその姿を見る。
もう朧げな記憶の中、この部屋に来た時に自分をここまで連れてきてくれた少年天使がいたことを思い出す。
その彼と同じくらいの背丈と華奢な体躯、白に近い金の髪と白い肌。
全体的に淡い色合いの中、目の醒めるような鮮やかなエメラルド色の瞳が印象的な、綺麗な顔立ちの少年天使がそこにいた。

(…だ、誰…なに…? なんで、ここに…?)

一体いつから居たのか。疑問と動揺で動くことも声を発することもできなかった。
なんの反応も示さない自分に対し、彼は特に気にする風でもなく、左胸に手を添えると僅かに頭を下げ、淡々と言葉を発した。

「イヴァニエ様より、アドニス様のお側に控えるよう仰せつかりました。お役に立てるか分かりませんが、私にできることがございましたら、何なりとお申し付け下さいませ」
「………」

よく、意味が分からなかった。
否、言ってることは分かるのだが「なぜ自分に?」という疑問しか湧いてこない。

(イ、ヴ…? …誰…?)

誰のことを指してるのかも分からない。が、恐らく重要なのはそこではないのだ。

(お側に…って……ここに、いるって、こと…?)

そんな、まさか…と思いつつ、言葉を発することも出来ず固まっていると、もう一度彼が口を開いた。

「どうかベッドでお休み下さいませ。そのままではお体を痛めてしまいます」

淡々としているが、冷たいとは思わない不思議な声音だった。と同時に、彼に対してはあまり恐怖というものを感じず、そのせいで余計に戸惑った。

(どう…しよう…)

逃げたい、とまでは思わないが、側にいるのは落ち着かない。なにより、この部屋の中に自分以外の誰かがいるということ自体、とてもおかしいことに思えて仕方なかった。
動こうにも動けず、かと言って彼の言葉を無視するのも良くない気がして、シーツに包まったまま悶々と考え込んだ。

「…ベッドにお戻りになるまで、私はこの場を動きません。お側に寄ることも致しません。視線が気になるようでしたら、後ろを向いておりますので、その間にお戻り下さいませ」
「ぁ……」

そう言い切るより早く、こちらの返事も待たずに彼は背を向けて壁の方を向いてしまった。そのまま微動だにしない立ち姿に声を掛けられるはずもなく、戸惑いながらもシーツから顔を出した。

(…ベッド…)

目と鼻の先、どころか背に触れている柔らかな寝台。すっかり目も覚めてしまったが、疲労感だけは残っている。せっかくベッドがあるのに、このまま床で眠って体を痛めるのは愚かな行為だろう…と、のそりと立ち上がった。
途端に体がフラつき、蹌踉めいたが、そのまま倒れ込むようにベッドの上に這い上がると、めちゃくちゃになったシーツや布団を引き寄せ身を隠した。
衣擦れの音が止むのを見計らっていたのか、自分が動きを止めると、一拍置いてから少年天使がこちらを振り向いた。

「お戻り頂けて良うございました。おやすみになられる前に、そちらだけお直し致します。…少々お側に寄りますが、お許し下さい」

扉の脇に立っていた彼が緩やかにこちらに近づいて来るのが見え、思わず体が強ばった。あまり恐怖を感じないとはいえ、まったく怖くないという訳ではないのだ。
それに気づいたのか、彼はピタリとその場に立ち止まると、言葉を探すようにゆっくりと声を発した。

「…ベッドのお側まで寄るだけです。それ以上のことは致しません。そちらを直すだけで、アドニス様に触れるようなことも、近づくようなことも致しません。…ご安心下さい」
「………」

先ほどから、彼の言葉の端々に気遣いのようなものが見て取れて、また疑問が増える。
なぜ自分に対して、そんなにも丁寧なのか、純粋に不思議だった。
自分が黙り込んだことを了承と取ったのか、彼が緩やかに近づいてきたが、もう体がビクつくことはなかった。
言葉の通り、ベッドから数歩だけ離れた位置で立ち止まると、彼の右手がすっと動き、その指先からキラキラとした光が溢れた。

(…わ……)

溢れた光は破れてしまった布と天蓋の一部にふわりと近寄り、その上にキラキラと降り注いだ。
すると、縫い目から裂け破れていた布は、まるでその部分を見えない何かが高速で縫い上げていくかのように合わさり、元の綺麗な一枚の布の形に戻っていった。天蓋の壊れた骨組みは折れていたのが嘘のように元通りになり、垂れた布は宙に浮かぶと、あるべき場所にきちんと収まった
悲惨な見た目になっていた天蓋が、一瞬で元の姿に戻り、ポカンとしながらそれを見つめた。

(…本当に…直して……)

どういう原理なのか? 魔法なのか?
元通りになった天蓋をじっと見つめていると、四隅に纏められていた布が勝手に動き、体が跳ねた。

「ひゃ…っ!」

スルスルと動き出した布は光を遮るようにベッドを囲み始め、薄暗い空間を作り出していく。
慣れ親しんだ空間にホッと落ち着ついていると、足下に面した一辺、ベッドの正面に少年の天使が立っていた。

「私はお外に控えておりますので、なにかございましたらいつでもお声を掛けて下さい。…おやすみなさいませ、アドニス様」

小さく頭を下げた彼の手により天蓋の幕は完全に閉じられ、ベッドだけの簡易的な個室空間が出来上がった。
そのベッドの上、ポツンと取り残され、呆けたままパチパチと瞬きを繰り返した。

(……あの子、は…本当にずっと…いるの…?)


なぜ? どうして? なんのために?

動揺と困惑、疑問がぐるぐると混ざる思考の中、疲労がピークに達した体は、ぼふりと柔らかな布団の海に沈んだ。
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