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エンプティベッセルと新たな魂
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自身の身長の何倍も高い位置に見えるバルコニーの手摺り。それを茫然と見上げながら、ただ立ち尽くした。
(……出ちゃ、た…)
サワサワと風に揺れる草の音が、いつもより近くに聞こえる。それを認識した瞬間、ブワリと嫌な汗が流れた。
(ど…しよう、どうしよう、どうしよう…っ!)
困惑と焦燥、外に出てしまったという罪悪感。
そして『もしも誰かに見つかったら』という恐怖が一挙に押し寄せた。
自分はあの部屋から出てはいけないのだ。
それは生まれた時から決まっていたことで、破ってはいけないことだと、誰に言われるまでもなく理解していた。
それが万が一、外に出たことがバレたらどうなるか───…
きっと生まれたあの日のように、侮蔑と憎悪を混ぜたような視線を全身に浴びるのだろう。
きっといつかのように、凍えるような言葉と嘲笑を投げつけられるのだろう。
ただ自分が悪いのだと、そう思い知らされるだけ…それを想像するだけで恐ろしく、恐怖で震える体を自身の腕できつく抱き締めた。
「…っ!」
(はや、く…早く、戻らなきゃ…!)
今まで、誰にも見つかることのなかった夜とはいえ、誰も通りかからないという保証はないのだ。一刻も早く部屋に戻らなければ、という気持ちで頭の中はいっぱいだった。
逸る気持ちのまま、目の前でふわふわと飛ぶ三人の赤子に必死に話しかけた。
「おねが、お願い…! 戻して! 部屋…っ、上まで、戻らなきゃ…っ!」
赤子達は「なぜ?」と心底不思議そうに首を傾げていた。
「せっかくお外に出られたのに…」と言いたげな瞳に思わず言葉に詰まるが、今はその説明をしている余裕すらなかった。
「おねがい…! 戻りたい…っ、戻りたいの…!」
泣き声の混じった声音に、小さな天使達がようやく動き出す。
赤子達は首を傾げながらも、ふよふよと側に寄ると、小さな手で自身の指先を握った。すると身体がふわりと宙に浮かび、少しずつ高度を上げていく。
慣れない浮遊感と徐々に遠のいていく地面に、咄嗟に両目を瞑った。
時間にしたらほんの一瞬のような短い時間が、ひどく長く感じた。
ふわふわと自分の意思と関係なく浮いていく体。グラグラと不安定に揺れるような感覚に、気持ち悪さから涙が滲みそうになったところで、ふっと動きが止まった。
恐る恐る瞼を開ければ、足元には見慣れたバルコニーの床があった。
「…!」
ゆっくりと着地した先。つま先に触れる馴染んだ石の感触に、安堵のあまりそのままその場にへたりと座り込んだ。
「っ…、はぁ…っ、はぁ…」
緊張と恐怖から解放された体が、安心感からふるりと震えた。知らぬ間に呼吸すら止めていたのか、息苦しさから何度か荒い呼吸を繰り返すと、三人の赤子達に向き直った。
「……あの、えっと、…あり、がとう…外に、出してくれようと、したんだよね…?」
問いかけるように話しかければ、三人は「うんうん」と頷いた。…それはもう嬉しそうに。
(ああ、やっぱり…)
この子達が自分を外に連れ出した理由。それは純然たる善意だった。
赤ん坊の姿をしていても物事を理解できているこの子達は、とっくに気づいていたのだろう。
自分が、この部屋から出られない存在だということに。
部屋から出ても窓辺の近くから離れず、行動するのも人目のつかない夜の間だけ。外の世界から隠れるように過ごしていることぐらい、分かっていたのだろう。だからこそ、小さな天使達は思ったのかもしれない。
出られないなら、出してあげよう…と。
それが純粋な優しさであり、自分を想ってくれての行動だとは分かっている。分かってはいるのだが…
(……ごめんね…)
それに応えることが出来ない自分が申し訳なく、なにより優しい子達の気持ちを無駄にしてしまうのが悲しかった。
「…ありがとう。すごく、嬉しいんだけど……、ごめんね。私は、ここから出てはいけないんだ…」
そう告げれば、赤子達は揃って首を傾げた。「どうして?」と。
(…どうして……どうして、だろうね…)
その理由は自分も知らない。教えてくれる人がいなかった。どころか、言葉にして聞くことすら叶わなかった。
改めて問われ、答えることが出来ずに俯いた。
生まれた時にはそう決まっていた。そういうものだと、与えられたものをただ受け入れることしか出来なかった。
どうしてかは知らない。けれど、悪いことをしたらしい。だから此処に閉じ籠っていなければいけなくて、それを破ったら───きっと怖い思いをするのだ。
それが嫌で、他の誰かに会うのが恐ろしくて、いつからか『出てはいけない部屋』に閉じ籠もっている理由すら考えなくなっていた。
知らないことを説明できるはずもなく、ただ音にならない声を絞り出そうと、はくりと唇を動かした。
「……、その、理由は……言えないんだけど、でも、自分は、外に出たらダメって…言われてて…」
しどろもどろになりながら、歯切れの悪い言葉が続く。
何も知らず、何も言えない自分が情けなかったが、赤ん坊達は中身のない話にも耳を傾けてくれ、最終的には納得してくれた。
「…ごめんね。いつか……いつか、外に出て、みんなと遊べたらいいね」
戯れつく赤ん坊達を腕に抱きながら、そんな夢のような言葉がポロリと零れた。
そんな未来があるとは到底思えない。それでも夢を描くことくらいは許されるだろうと、楽しそうに笑う天使達に小さく微笑んだ。
そんなことがあった翌日。また違う子達が部屋を訪れたいつも通りの夜───のはずだった。
「……ん?」
今日は二人で来たんだなぁ、と出迎えたところで、赤子に手を掴まれグイグイと引っ張られる。
その光景に既視感を覚えるも、たまたまだろうと考えた数秒後。向かおうとしている先がバルコニーの端だということに一抹の不安を感じた。
「……あ、れ…?」
(…外には行けないよって…言わなかったっけ?)
不思議なことに、小さな天使達は皆が同じ情報を共有しているのだ。
その場にいなくとも、なんらかの手段で情報をやりとり出来るようで、昨日の出来事も、事の顛末も共有できているはずなのだが…
おかしいなと思いつつも、昨夜同様に外に出たらいけないのだと伝えると、やはり同じように首を傾げられてしまい、こちらも首を傾げる。
(…なんで?)
お互い疑問符を浮かべながら、ひとまずその場から離れる。おかしいなと思いつつ、それ以上は特に触れなかった。…が、翌日もその翌々日も、何日経っても小さな天使達は手を引いては外に出ようとするようになった。
(…どうして?)
「出ちゃダメなんだよ?」と毎回伝えているはずなのに、どうしてか翌日には同じ行動をとる。疑問符ばかりが浮かぶ中、ふとある可能性に気づいた。
(……あれ? もしかして…“いつか”って…)
いつか外に出て皆と遊べたらいい…そんなことを言った記憶はある。だがあれはあくまで希望的観測であり、願いや祈りに近いような、来ないかも知れない未来を想って発した言葉だった。
自分はそのつもりだっだが、よもや赤ん坊達はそう捉えていなかったということだろうか?
(いつかって……次の日…?)
この子達の感覚では『いつか=明日』なのだろうか?
赤子達との認識の違いに、自分の言い方が悪かったのか、それともこの子達の捉え方がものすごく前向きなのか、判断ができなくなる。
(ちゃんと、伝えないと…)
そうして再度、言葉を重ねた。
自分はこの部屋から出てはいけなくて、外に出たら怒られてしまうこと。いつかというのは、いつになるか分からないし、外に出れる日がくるかも分からないということ。
言ってて自分で悲しくなってきたが、それ以上に小さな天使達が悲しげにしょんぼりと俯く姿の方が痛々しくて、申し訳なさから胸が苦しくなった。
「…ごめんね。その気持ちだけで、充分嬉しいから…」
いじけたように背を丸くする赤子を抱き寄せ、あやすように小さな頭を撫でた。
本当に、その気持ちだけで充分だったのだ。
ところが、それからも小さな天使達はめげなかった。
手をグイグイと引かれることこそ無くなったが、ふと思い出したように自身の手を握り、もう片方の手でバルコニーの外を指さす。
それが「外に行こう」という誘いなのは明白で、ダメだと言えばすぐに諦めてくれるが、同時に悲しそうな顔になるので毎回居た堪れない気持ちになった。
自分のことを想っての行動で、自分のために悲しんでくれているということは分かる。分かるのだが、もうそろそろめげてくれないかなと思ってしまう。
毎度繰り返される行為だが、そのたびに悲しそうな顔をする赤子達に、精神的なダメージが日毎重なっていった。
(困ったなぁ…)
それから、来る日も来る日も、赤子達との攻防は続いた。決して彼らに悪気がある訳ではないので尚のこと良心が痛んだ。
そうして何十回目か分からない外への誘いを受け続けた頃───ついに、根負けしてしまった。
「………わかった。お外…、行こうか…」
振り絞るように言葉を紡げば、目の前の赤子達は一瞬キョトリとした後、言葉の意味を理解すると無邪気に喜び、ニコニコ顔で周りを飛び回った。
何度「ダメだよ」と伝えても「いつかって今日?」「今日はお外行く?」と言いたげな顔で誘ってくる天使達に、いよいよ自分の方が根を上げてしまった。
いけないことをしようとしているという自覚はある。その上で、赤子達の誘いを断り続ける心苦しさと、ほんの少しの好奇心に勝てなかったのだ。
(怖い…けど…)
誰かに見つかり、咎められ、罵られるかもしれない恐怖は拭えない。
それでも、外の世界の美しさに惹かれる気持ちは失われていなかった。
(見つからないように…少しだけ…)
楽しそうに飛び回る小さな天使達を呼び寄せると、守らなければいけないことのお願いをした。
外に出ても、部屋のすぐ近くに留まり、遠くまでは行かないこと。
大きな声でお喋りはしないこと。
誰かに見つかる前に、すぐに部屋に戻ること。
本当は部屋の外に出たらいけないことで、怒られてしまうことなんだと切々と語れば、赤子達は心得たようにコクコクと頷いた。
(う~ん?)
言えばきちんと聞き分けてくれるのに、自分を外に誘うことに関してだけはどうしてか聞き入れてくれないのが不思議でならない。一人考えに耽っている間にも、赤子達は「早く早く」と急かすように手を引いた。
久しぶりに近づいたバルコニーの端、手摺りを目の前にコクリと息を呑む。
罪悪感も恐怖も、消えるどころか、いざこうして行動に移そうとすると募るばかりだった。
それでも自分で言い出した手前、やっぱり止めるとは言えず、どうか誰にも見つかりませんようにと祈ることしか出来なかった。
「……っ、行こう…!」
意を決して声に出せば、いつかと同じようにふわりと体が宙に浮いた。ぐっと詰まりそうになる息を意識的に吐き出し、深く息を吸った。
浮いた体はあっさりと手摺りを越え、ゆっくりと下降していく。
数秒の後、いつかと同じように、カサリ、と草を踏む感触を足の裏に感じた。
「…っ、はぁ~…っ」
緊張で心臓がドクドクと激しく鼓動する。笑いそうになる膝を叱咤し、なんとかその場に立ち続けた。
前回、不意打ちで外に出てしまったのとは訳が違う。自分の意思で外に出てしまったという事実に、体が震えそうになるほどの罪悪感に襲われる。
だがそれでも、自分で選んだことで、赤子達に願って叶えてもらったことなのだから、ここで怯えている訳にはいかない、と自分を奮い立たせた。
「…みんな、ありがとう…」
嬉しそうに飛び回る赤子に礼を言えば、ニコニコと笑う子達に手を引かれた。
「ぁ…まって、そんなに遠くへは…」
そう言って一歩踏み出した時、ふとその足元が気になり蹲った。地面に手を伸ばし、月明かりだけを頼りに薄暗い中で指先に摘んだそれを見つめる。
「……石? …じゃない…砂…?」
手の平の上で鈍く光る白い粒は、石とも砂とも違う不思議な感触だった。部屋から眺めていた時から、真っ白な大地が気になっていたのだ。
「なんだろう…これ…」
土でも石でも砂でもない。手の平からサラリと溢れ落ちる様は砂のようなのに、踏み締めた感触はしっかりとしていて、それでいて土のように柔らかな純白の大地。
(…不思議…だけど、土でなくて良かった…)
裸足で歩き回ることになるので、土で足が汚れてしまったらどうしようかと思っていたが、その心配がなさそうなことにホッとする。
そうして蹲ったままでいると、赤子達が不思議そうな顔で覗き込んできた。
「あ、ごめんね。なんでもないよ」
慌てて立ち上がり、小さな手に引かれるまま、サクリ、サクリと柔らかな草の上を歩いた。
未だにドクドクとうるさい心臓。半分は緊張と恐怖。そしてもう半分は、興奮と喜びだった。
(ああ…歩いてる…!)
そんな当たり前のことに感動した。
部屋から続くバルコニー、そこから眺めていることしか出来なかった外の世界。
見るだけのものだと思っていた。触れられるものではないと思っていた。その中を自分が歩いてるのだと思うと、歓喜で胸がいっぱいになった。
歩を進めるごとに歌う草の音も、足の裏に感じる感触も、より近くに感じる草花の香りも、何もかもが初めてで、いけないことだと分かっていても心が躍った。
ふと振り返れば、そこには圧倒されるほどの大きな建物があり、その一角に自分が本来いるべき部屋が見えた。
居なければいけない場所を外から眺めているということ…そこに罪悪感はなく、ただただ不思議な気持ちになった。
「…ここまでにしようね。これ以上は、離れ過ぎちゃう」
まだ遠くへと行きたそうな赤子達を引き留め、その場に腰を下ろした。建物の目と鼻の先。ほんの少ししか離れていない場所だったが、それでも外に出られただけで充分過ぎるほどだった。
「ふぅ…」
気持ちを落ち着かせるようにそっと息を吐く。外に出れた喜びも嬉しさもあったが、本当はいけないことだということもちゃんと自覚している。浮かれる気持ちを戒めるように深呼吸を繰り返していると、そよそよとした優しい風が頬を撫でた。
心地良い夜風に気持ちが凪いでいく。サワサワと草花が揺れる音を聞きながら、そっと地面に手を伸ばせば、柔らかな草の葉に指先が触れた。
初めて触れるそれは、ほんの小さな、些細とすら呼べないほどの幸福のようだった。
(柔らかい…)
葉を撫でる感触が気持ち良くて、カサカサと草の絨毯を撫でる。ふと見れば三人の赤子達はその上に寝そべり、コロコロと転がっていた。
「ふふ…楽しい?」
それに倣うように、恐る恐る草の上に横になる。仰向けになり空を見上げれば、いつもより広く感じる星空に思わず感嘆の声が漏れた。
「……すごい…」
星が降ってきそうな夜空。毎日見ていたはずの空は、ほんの一部を切り取っただけに過ぎなかったのだと初めて知った。
感動に浸ったまま無言で空を眺めていれば、赤子達が腕や腹にぴったりと体を寄せてきた。
「…もう少し…もう少ししたら、戻ろうね?」
外に出たばかりだが、長居をするのは危険だ。それが分かっているのか、それとも自分を外に連れ出すことに成功して満足なのか、赤子達は素直にコクリと頷いた。
その後、寝転がって空を見上げるだけの短い時間を過ごし、早々に部屋に戻った。
バルコニーまで戻って来るとやはり緊張していたのか、安堵で全身の力が抜けた。脱力感も疲労感も凄まじかったが、心は心地良い満足感で満たされていた。
明け方、赤子達と別れると、ふわふわとした夢見心地のままベッドに潜った。
目を閉じれば目蓋の裏に浮かぶ美しい情景に、心は浮き立ったまま、穏やかに眠りについた。
その日から、何度か赤子達に連れられ外に出るようになった。
毎日ではなく数日に一度、僅かとしか言えないほどの短い時間だが、一時の夜の散歩を楽しんだ。
小さな天使達と連れ立って周囲をフラフラと歩くだけだが、それだけで充分だった。
赤子達は外に出ると、摘んだ花や花輪を作っては贈り物のように渡してくれた。
花弁を閉じたままの眠った花で作られた小さな花輪。初めて贈られたそれが嬉しくて、いつか枯れてしまうまで…と、少しずつ増えていくそれらを枕元に置いては、日々愛でて過ごした。
そんな月日が幾日も過ぎ、赤子の手で宙に浮く感覚にもようやく慣れてきた頃だった。この頃になると、ほんの少しだけ行動範囲が広くなっていた。
その日も赤子達に手を引かれるように、白い大地の上をゆっくりと歩いていた。
その手がいつもと違う方向へ「こっちに行こう」と言うようにグイグイと引っ張った。
「え…まって…、あんまり遠くへは…」
普段の行動範囲を抜け、更に遠くへ行こうとする小さな天使達に戸惑うも、拒みはしなかった。…外に出ることに少しだけ慣れたせいで、気持ちが緩んでいたのだ。
連れられて来たのは、部屋からかなり離れた場所だった。流石にここまで離れるとは思っておらず、今更ながらに緊張で心臓がドキドキと脈打った。
「…っ、あの、そろそろ戻───」
そう言いかけた時、目の前の地面一帯が、淡く輝いている光景が視界に入った。
「わぁ…!」
戻ろうと言葉にしようとしたことも忘れ、惚けたようにその光景に魅入った。
淡く光るそれは、真っ白な花だった。大きな花弁が淡く発光し、夜の暗闇の中で月明かりのように輝いていた。一面を覆い尽くすような光る花畑に、言葉を忘れて立ち尽くした。
「……綺麗…」
夜に咲く花の美しさに、ただただ見惚れる。
ふと、赤子達はこれを見せたくてここまで自分を連れてきたのかと気づき、パタパタと飛び回る小さな天使達に礼を言った。
「ありがとう…すごく、きれいだね」
満足したようにニコニコと笑う赤子につられ、自身の口元も緩む。
美しい光景に言葉も少なく、その場に立ち尽くしたまま、一面に咲く花をじっと眺め続けた。
───どれほどの時間が流れたか、不意にグイッと小さな手に腕を引かれた。
思いのほか強いその力に、ぼんやりと立っていた体はバランスを崩し、グラリと蹌踉めいた。
「わっ!? と、なに…?」
いきなりのことに驚き、赤子達を見遣れば、何故か焦った様子でグイグイと腕を引っ張られた。
「…? なん…」
疑問に思った瞬間、赤子達の様子が違うことにハッとする。
いつも笑っているはずの天使達が、笑っていない。
その表情に明らかな困惑と焦りが滲んでいることに、心臓がドクリと大きく跳ねた。
(…嘘……、まって、まさか───)
その考えに至った瞬間、カサリ…と背後で草を踏む音がした。
瞬間、息を呑んだ。
草を踏む音───それはつまり、誰かがその場にいるということに他ならなかったからだ。
徐々に近づいて来るその音に、逃げることも、振り返ることも出来なかった。
赤子達は諦めず、皆で一緒になって腕を引いていた。もう遅いと分かっていても、逃げようと必死になってくれているのが、こんな状況だというのに嬉しかった。
それでも、固まってしまったかのように体は動かなかった。
誰かに見つかってしまったという恐怖と、部屋を抜け出してしまったという罪悪感。暗く重たい感情に体を支配され、一歩も動くことが出来なかった。
やがて、近づいてきた足音がすぐ近くで止まった。
心臓が痛いほどバクバクと脈打ち、呼吸が上手く出来ない。
振り返る勇気もなく固まっていると、背後から低い声が響いた。
「…おい、此処でなにをしている」
声を聞いただけで分かる、明確な“敵意”。
その音に体が震えそうになりながら、恐る恐る背後を振り向いた。
(……出ちゃ、た…)
サワサワと風に揺れる草の音が、いつもより近くに聞こえる。それを認識した瞬間、ブワリと嫌な汗が流れた。
(ど…しよう、どうしよう、どうしよう…っ!)
困惑と焦燥、外に出てしまったという罪悪感。
そして『もしも誰かに見つかったら』という恐怖が一挙に押し寄せた。
自分はあの部屋から出てはいけないのだ。
それは生まれた時から決まっていたことで、破ってはいけないことだと、誰に言われるまでもなく理解していた。
それが万が一、外に出たことがバレたらどうなるか───…
きっと生まれたあの日のように、侮蔑と憎悪を混ぜたような視線を全身に浴びるのだろう。
きっといつかのように、凍えるような言葉と嘲笑を投げつけられるのだろう。
ただ自分が悪いのだと、そう思い知らされるだけ…それを想像するだけで恐ろしく、恐怖で震える体を自身の腕できつく抱き締めた。
「…っ!」
(はや、く…早く、戻らなきゃ…!)
今まで、誰にも見つかることのなかった夜とはいえ、誰も通りかからないという保証はないのだ。一刻も早く部屋に戻らなければ、という気持ちで頭の中はいっぱいだった。
逸る気持ちのまま、目の前でふわふわと飛ぶ三人の赤子に必死に話しかけた。
「おねが、お願い…! 戻して! 部屋…っ、上まで、戻らなきゃ…っ!」
赤子達は「なぜ?」と心底不思議そうに首を傾げていた。
「せっかくお外に出られたのに…」と言いたげな瞳に思わず言葉に詰まるが、今はその説明をしている余裕すらなかった。
「おねがい…! 戻りたい…っ、戻りたいの…!」
泣き声の混じった声音に、小さな天使達がようやく動き出す。
赤子達は首を傾げながらも、ふよふよと側に寄ると、小さな手で自身の指先を握った。すると身体がふわりと宙に浮かび、少しずつ高度を上げていく。
慣れない浮遊感と徐々に遠のいていく地面に、咄嗟に両目を瞑った。
時間にしたらほんの一瞬のような短い時間が、ひどく長く感じた。
ふわふわと自分の意思と関係なく浮いていく体。グラグラと不安定に揺れるような感覚に、気持ち悪さから涙が滲みそうになったところで、ふっと動きが止まった。
恐る恐る瞼を開ければ、足元には見慣れたバルコニーの床があった。
「…!」
ゆっくりと着地した先。つま先に触れる馴染んだ石の感触に、安堵のあまりそのままその場にへたりと座り込んだ。
「っ…、はぁ…っ、はぁ…」
緊張と恐怖から解放された体が、安心感からふるりと震えた。知らぬ間に呼吸すら止めていたのか、息苦しさから何度か荒い呼吸を繰り返すと、三人の赤子達に向き直った。
「……あの、えっと、…あり、がとう…外に、出してくれようと、したんだよね…?」
問いかけるように話しかければ、三人は「うんうん」と頷いた。…それはもう嬉しそうに。
(ああ、やっぱり…)
この子達が自分を外に連れ出した理由。それは純然たる善意だった。
赤ん坊の姿をしていても物事を理解できているこの子達は、とっくに気づいていたのだろう。
自分が、この部屋から出られない存在だということに。
部屋から出ても窓辺の近くから離れず、行動するのも人目のつかない夜の間だけ。外の世界から隠れるように過ごしていることぐらい、分かっていたのだろう。だからこそ、小さな天使達は思ったのかもしれない。
出られないなら、出してあげよう…と。
それが純粋な優しさであり、自分を想ってくれての行動だとは分かっている。分かってはいるのだが…
(……ごめんね…)
それに応えることが出来ない自分が申し訳なく、なにより優しい子達の気持ちを無駄にしてしまうのが悲しかった。
「…ありがとう。すごく、嬉しいんだけど……、ごめんね。私は、ここから出てはいけないんだ…」
そう告げれば、赤子達は揃って首を傾げた。「どうして?」と。
(…どうして……どうして、だろうね…)
その理由は自分も知らない。教えてくれる人がいなかった。どころか、言葉にして聞くことすら叶わなかった。
改めて問われ、答えることが出来ずに俯いた。
生まれた時にはそう決まっていた。そういうものだと、与えられたものをただ受け入れることしか出来なかった。
どうしてかは知らない。けれど、悪いことをしたらしい。だから此処に閉じ籠っていなければいけなくて、それを破ったら───きっと怖い思いをするのだ。
それが嫌で、他の誰かに会うのが恐ろしくて、いつからか『出てはいけない部屋』に閉じ籠もっている理由すら考えなくなっていた。
知らないことを説明できるはずもなく、ただ音にならない声を絞り出そうと、はくりと唇を動かした。
「……、その、理由は……言えないんだけど、でも、自分は、外に出たらダメって…言われてて…」
しどろもどろになりながら、歯切れの悪い言葉が続く。
何も知らず、何も言えない自分が情けなかったが、赤ん坊達は中身のない話にも耳を傾けてくれ、最終的には納得してくれた。
「…ごめんね。いつか……いつか、外に出て、みんなと遊べたらいいね」
戯れつく赤ん坊達を腕に抱きながら、そんな夢のような言葉がポロリと零れた。
そんな未来があるとは到底思えない。それでも夢を描くことくらいは許されるだろうと、楽しそうに笑う天使達に小さく微笑んだ。
そんなことがあった翌日。また違う子達が部屋を訪れたいつも通りの夜───のはずだった。
「……ん?」
今日は二人で来たんだなぁ、と出迎えたところで、赤子に手を掴まれグイグイと引っ張られる。
その光景に既視感を覚えるも、たまたまだろうと考えた数秒後。向かおうとしている先がバルコニーの端だということに一抹の不安を感じた。
「……あ、れ…?」
(…外には行けないよって…言わなかったっけ?)
不思議なことに、小さな天使達は皆が同じ情報を共有しているのだ。
その場にいなくとも、なんらかの手段で情報をやりとり出来るようで、昨日の出来事も、事の顛末も共有できているはずなのだが…
おかしいなと思いつつも、昨夜同様に外に出たらいけないのだと伝えると、やはり同じように首を傾げられてしまい、こちらも首を傾げる。
(…なんで?)
お互い疑問符を浮かべながら、ひとまずその場から離れる。おかしいなと思いつつ、それ以上は特に触れなかった。…が、翌日もその翌々日も、何日経っても小さな天使達は手を引いては外に出ようとするようになった。
(…どうして?)
「出ちゃダメなんだよ?」と毎回伝えているはずなのに、どうしてか翌日には同じ行動をとる。疑問符ばかりが浮かぶ中、ふとある可能性に気づいた。
(……あれ? もしかして…“いつか”って…)
いつか外に出て皆と遊べたらいい…そんなことを言った記憶はある。だがあれはあくまで希望的観測であり、願いや祈りに近いような、来ないかも知れない未来を想って発した言葉だった。
自分はそのつもりだっだが、よもや赤ん坊達はそう捉えていなかったということだろうか?
(いつかって……次の日…?)
この子達の感覚では『いつか=明日』なのだろうか?
赤子達との認識の違いに、自分の言い方が悪かったのか、それともこの子達の捉え方がものすごく前向きなのか、判断ができなくなる。
(ちゃんと、伝えないと…)
そうして再度、言葉を重ねた。
自分はこの部屋から出てはいけなくて、外に出たら怒られてしまうこと。いつかというのは、いつになるか分からないし、外に出れる日がくるかも分からないということ。
言ってて自分で悲しくなってきたが、それ以上に小さな天使達が悲しげにしょんぼりと俯く姿の方が痛々しくて、申し訳なさから胸が苦しくなった。
「…ごめんね。その気持ちだけで、充分嬉しいから…」
いじけたように背を丸くする赤子を抱き寄せ、あやすように小さな頭を撫でた。
本当に、その気持ちだけで充分だったのだ。
ところが、それからも小さな天使達はめげなかった。
手をグイグイと引かれることこそ無くなったが、ふと思い出したように自身の手を握り、もう片方の手でバルコニーの外を指さす。
それが「外に行こう」という誘いなのは明白で、ダメだと言えばすぐに諦めてくれるが、同時に悲しそうな顔になるので毎回居た堪れない気持ちになった。
自分のことを想っての行動で、自分のために悲しんでくれているということは分かる。分かるのだが、もうそろそろめげてくれないかなと思ってしまう。
毎度繰り返される行為だが、そのたびに悲しそうな顔をする赤子達に、精神的なダメージが日毎重なっていった。
(困ったなぁ…)
それから、来る日も来る日も、赤子達との攻防は続いた。決して彼らに悪気がある訳ではないので尚のこと良心が痛んだ。
そうして何十回目か分からない外への誘いを受け続けた頃───ついに、根負けしてしまった。
「………わかった。お外…、行こうか…」
振り絞るように言葉を紡げば、目の前の赤子達は一瞬キョトリとした後、言葉の意味を理解すると無邪気に喜び、ニコニコ顔で周りを飛び回った。
何度「ダメだよ」と伝えても「いつかって今日?」「今日はお外行く?」と言いたげな顔で誘ってくる天使達に、いよいよ自分の方が根を上げてしまった。
いけないことをしようとしているという自覚はある。その上で、赤子達の誘いを断り続ける心苦しさと、ほんの少しの好奇心に勝てなかったのだ。
(怖い…けど…)
誰かに見つかり、咎められ、罵られるかもしれない恐怖は拭えない。
それでも、外の世界の美しさに惹かれる気持ちは失われていなかった。
(見つからないように…少しだけ…)
楽しそうに飛び回る小さな天使達を呼び寄せると、守らなければいけないことのお願いをした。
外に出ても、部屋のすぐ近くに留まり、遠くまでは行かないこと。
大きな声でお喋りはしないこと。
誰かに見つかる前に、すぐに部屋に戻ること。
本当は部屋の外に出たらいけないことで、怒られてしまうことなんだと切々と語れば、赤子達は心得たようにコクコクと頷いた。
(う~ん?)
言えばきちんと聞き分けてくれるのに、自分を外に誘うことに関してだけはどうしてか聞き入れてくれないのが不思議でならない。一人考えに耽っている間にも、赤子達は「早く早く」と急かすように手を引いた。
久しぶりに近づいたバルコニーの端、手摺りを目の前にコクリと息を呑む。
罪悪感も恐怖も、消えるどころか、いざこうして行動に移そうとすると募るばかりだった。
それでも自分で言い出した手前、やっぱり止めるとは言えず、どうか誰にも見つかりませんようにと祈ることしか出来なかった。
「……っ、行こう…!」
意を決して声に出せば、いつかと同じようにふわりと体が宙に浮いた。ぐっと詰まりそうになる息を意識的に吐き出し、深く息を吸った。
浮いた体はあっさりと手摺りを越え、ゆっくりと下降していく。
数秒の後、いつかと同じように、カサリ、と草を踏む感触を足の裏に感じた。
「…っ、はぁ~…っ」
緊張で心臓がドクドクと激しく鼓動する。笑いそうになる膝を叱咤し、なんとかその場に立ち続けた。
前回、不意打ちで外に出てしまったのとは訳が違う。自分の意思で外に出てしまったという事実に、体が震えそうになるほどの罪悪感に襲われる。
だがそれでも、自分で選んだことで、赤子達に願って叶えてもらったことなのだから、ここで怯えている訳にはいかない、と自分を奮い立たせた。
「…みんな、ありがとう…」
嬉しそうに飛び回る赤子に礼を言えば、ニコニコと笑う子達に手を引かれた。
「ぁ…まって、そんなに遠くへは…」
そう言って一歩踏み出した時、ふとその足元が気になり蹲った。地面に手を伸ばし、月明かりだけを頼りに薄暗い中で指先に摘んだそれを見つめる。
「……石? …じゃない…砂…?」
手の平の上で鈍く光る白い粒は、石とも砂とも違う不思議な感触だった。部屋から眺めていた時から、真っ白な大地が気になっていたのだ。
「なんだろう…これ…」
土でも石でも砂でもない。手の平からサラリと溢れ落ちる様は砂のようなのに、踏み締めた感触はしっかりとしていて、それでいて土のように柔らかな純白の大地。
(…不思議…だけど、土でなくて良かった…)
裸足で歩き回ることになるので、土で足が汚れてしまったらどうしようかと思っていたが、その心配がなさそうなことにホッとする。
そうして蹲ったままでいると、赤子達が不思議そうな顔で覗き込んできた。
「あ、ごめんね。なんでもないよ」
慌てて立ち上がり、小さな手に引かれるまま、サクリ、サクリと柔らかな草の上を歩いた。
未だにドクドクとうるさい心臓。半分は緊張と恐怖。そしてもう半分は、興奮と喜びだった。
(ああ…歩いてる…!)
そんな当たり前のことに感動した。
部屋から続くバルコニー、そこから眺めていることしか出来なかった外の世界。
見るだけのものだと思っていた。触れられるものではないと思っていた。その中を自分が歩いてるのだと思うと、歓喜で胸がいっぱいになった。
歩を進めるごとに歌う草の音も、足の裏に感じる感触も、より近くに感じる草花の香りも、何もかもが初めてで、いけないことだと分かっていても心が躍った。
ふと振り返れば、そこには圧倒されるほどの大きな建物があり、その一角に自分が本来いるべき部屋が見えた。
居なければいけない場所を外から眺めているということ…そこに罪悪感はなく、ただただ不思議な気持ちになった。
「…ここまでにしようね。これ以上は、離れ過ぎちゃう」
まだ遠くへと行きたそうな赤子達を引き留め、その場に腰を下ろした。建物の目と鼻の先。ほんの少ししか離れていない場所だったが、それでも外に出られただけで充分過ぎるほどだった。
「ふぅ…」
気持ちを落ち着かせるようにそっと息を吐く。外に出れた喜びも嬉しさもあったが、本当はいけないことだということもちゃんと自覚している。浮かれる気持ちを戒めるように深呼吸を繰り返していると、そよそよとした優しい風が頬を撫でた。
心地良い夜風に気持ちが凪いでいく。サワサワと草花が揺れる音を聞きながら、そっと地面に手を伸ばせば、柔らかな草の葉に指先が触れた。
初めて触れるそれは、ほんの小さな、些細とすら呼べないほどの幸福のようだった。
(柔らかい…)
葉を撫でる感触が気持ち良くて、カサカサと草の絨毯を撫でる。ふと見れば三人の赤子達はその上に寝そべり、コロコロと転がっていた。
「ふふ…楽しい?」
それに倣うように、恐る恐る草の上に横になる。仰向けになり空を見上げれば、いつもより広く感じる星空に思わず感嘆の声が漏れた。
「……すごい…」
星が降ってきそうな夜空。毎日見ていたはずの空は、ほんの一部を切り取っただけに過ぎなかったのだと初めて知った。
感動に浸ったまま無言で空を眺めていれば、赤子達が腕や腹にぴったりと体を寄せてきた。
「…もう少し…もう少ししたら、戻ろうね?」
外に出たばかりだが、長居をするのは危険だ。それが分かっているのか、それとも自分を外に連れ出すことに成功して満足なのか、赤子達は素直にコクリと頷いた。
その後、寝転がって空を見上げるだけの短い時間を過ごし、早々に部屋に戻った。
バルコニーまで戻って来るとやはり緊張していたのか、安堵で全身の力が抜けた。脱力感も疲労感も凄まじかったが、心は心地良い満足感で満たされていた。
明け方、赤子達と別れると、ふわふわとした夢見心地のままベッドに潜った。
目を閉じれば目蓋の裏に浮かぶ美しい情景に、心は浮き立ったまま、穏やかに眠りについた。
その日から、何度か赤子達に連れられ外に出るようになった。
毎日ではなく数日に一度、僅かとしか言えないほどの短い時間だが、一時の夜の散歩を楽しんだ。
小さな天使達と連れ立って周囲をフラフラと歩くだけだが、それだけで充分だった。
赤子達は外に出ると、摘んだ花や花輪を作っては贈り物のように渡してくれた。
花弁を閉じたままの眠った花で作られた小さな花輪。初めて贈られたそれが嬉しくて、いつか枯れてしまうまで…と、少しずつ増えていくそれらを枕元に置いては、日々愛でて過ごした。
そんな月日が幾日も過ぎ、赤子の手で宙に浮く感覚にもようやく慣れてきた頃だった。この頃になると、ほんの少しだけ行動範囲が広くなっていた。
その日も赤子達に手を引かれるように、白い大地の上をゆっくりと歩いていた。
その手がいつもと違う方向へ「こっちに行こう」と言うようにグイグイと引っ張った。
「え…まって…、あんまり遠くへは…」
普段の行動範囲を抜け、更に遠くへ行こうとする小さな天使達に戸惑うも、拒みはしなかった。…外に出ることに少しだけ慣れたせいで、気持ちが緩んでいたのだ。
連れられて来たのは、部屋からかなり離れた場所だった。流石にここまで離れるとは思っておらず、今更ながらに緊張で心臓がドキドキと脈打った。
「…っ、あの、そろそろ戻───」
そう言いかけた時、目の前の地面一帯が、淡く輝いている光景が視界に入った。
「わぁ…!」
戻ろうと言葉にしようとしたことも忘れ、惚けたようにその光景に魅入った。
淡く光るそれは、真っ白な花だった。大きな花弁が淡く発光し、夜の暗闇の中で月明かりのように輝いていた。一面を覆い尽くすような光る花畑に、言葉を忘れて立ち尽くした。
「……綺麗…」
夜に咲く花の美しさに、ただただ見惚れる。
ふと、赤子達はこれを見せたくてここまで自分を連れてきたのかと気づき、パタパタと飛び回る小さな天使達に礼を言った。
「ありがとう…すごく、きれいだね」
満足したようにニコニコと笑う赤子につられ、自身の口元も緩む。
美しい光景に言葉も少なく、その場に立ち尽くしたまま、一面に咲く花をじっと眺め続けた。
───どれほどの時間が流れたか、不意にグイッと小さな手に腕を引かれた。
思いのほか強いその力に、ぼんやりと立っていた体はバランスを崩し、グラリと蹌踉めいた。
「わっ!? と、なに…?」
いきなりのことに驚き、赤子達を見遣れば、何故か焦った様子でグイグイと腕を引っ張られた。
「…? なん…」
疑問に思った瞬間、赤子達の様子が違うことにハッとする。
いつも笑っているはずの天使達が、笑っていない。
その表情に明らかな困惑と焦りが滲んでいることに、心臓がドクリと大きく跳ねた。
(…嘘……、まって、まさか───)
その考えに至った瞬間、カサリ…と背後で草を踏む音がした。
瞬間、息を呑んだ。
草を踏む音───それはつまり、誰かがその場にいるということに他ならなかったからだ。
徐々に近づいて来るその音に、逃げることも、振り返ることも出来なかった。
赤子達は諦めず、皆で一緒になって腕を引いていた。もう遅いと分かっていても、逃げようと必死になってくれているのが、こんな状況だというのに嬉しかった。
それでも、固まってしまったかのように体は動かなかった。
誰かに見つかってしまったという恐怖と、部屋を抜け出してしまったという罪悪感。暗く重たい感情に体を支配され、一歩も動くことが出来なかった。
やがて、近づいてきた足音がすぐ近くで止まった。
心臓が痛いほどバクバクと脈打ち、呼吸が上手く出来ない。
振り返る勇気もなく固まっていると、背後から低い声が響いた。
「…おい、此処でなにをしている」
声を聞いただけで分かる、明確な“敵意”。
その音に体が震えそうになりながら、恐る恐る背後を振り向いた。
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