天使様の愛し子

東雲

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エンプティベッセルと新たな魂

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「なにをしている」



凍えるような声が、頭上から降ってきた。

「…っ!」

その瞬間、身体が固まった。
喉から漏れたのは息を呑むだけの悲鳴。
暖かな空気を一掃するような声に、ようやく現状を思い出す…と同時に、自分の迂闊さに泣きたくなった。
気をつけていたはずなのに、周りで人の声がしていたのに、何も起きなかった今日までに油断し、警戒心が緩んでいた。

バサリ、と大きく羽が羽ばたく音に、大袈裟なほど体が跳ねた。
高い位置にいるから、死角にいるから、見えないはず…なぜ、そんな風に考えられたのか。
天使に翼があること───即ち、、そんな当たり前のことを、失念していたのだ。

声の主など分かり切っている。それでも、顔を上げない訳にはいかないのだろう。
泣き出したいほどの恐怖を押し殺し、恐る恐る視線を上げれば、豪奢な金の髪と紅い瞳の天使がそこにいた。

「…ぁ、…、」

分かっていた。声が聞こえた時点で分かっていたはずなのに、その姿を目にしただけで駄目だった。
太陽を背にし、逆光で陰っているはずの眼光は鋭い色を宿していた。
『怖い』という感情が一気に全身を駆け巡り、それ以外なにも考えられなくなる。
頭上で羽ばたく彼から注がれる視線は、突き刺さるように痛かった。

「私がいると分かっていて姿を見せるとは、いい度胸だな」


達───そこまで言われて、ようやく彼の後ろ、少し離れたところにも数人の天使がいることに気づいた。
自然と彼から逸れた視線の先、反射的に、ただそこに在るものとして視界に入れた。

…ただそれだけだったのに、気づかなければ良かったと、心の底から後悔した。

その場にいた誰も彼もが、嫌なモノを見てしまったとでも言うように、美しい顔を歪めていた。
汚らわしいモノを見るような、侮蔑と嫌悪を混ぜた視線。
刺すような、凍えるような、剥き出しの敵意を込めた瞳は、“生まれたあの日”を思い出させるには充分だった。
見惚れるような情景の中に現れた一点のシミ───それが許せないとでも言いたげな怒気を含んだ視線に、全身から血の気が引いた。
はくり、と息を食むだけの悲鳴は音にも言葉にも成らず、泣き声のように震えるだけだった。

恐ろしいのか、悲しいのかも分からない。
ただ『ここにいてはダメだ』と、蹌踉めきそうになりながら、一歩、二歩と後退った。
なにも言い返さないことに、それ以上言及する気が失せたのだろう。金髪の天使は、ただ睨むように自分を見下すだけだった。

「不愉快な姿を見せるな。目障りだ」

吐き捨てるような言葉に、弾かれるように踵を返した。
一刻でも早く、目の前の彼と、その後ろから突き刺さる視線から逃れたくて、フラつく足で開け放ったままの窓へと駆け寄った。途中、足が縺れ、服の裾を踏んでしまい、そのまま転んだ。石造りの足元は固く、咄嗟についた手の平にジワリと痛みが広がった。
同時に、背後から嘲笑うかのような響きがした。
無様だと、いい気味だと、そんな言葉を含んだ嘲笑。…それに傷つく余裕すら無かった。
ただ逃げたい一心で立ち上がり、部屋の中へと飛び込んだ。ガチャン!と勢いよく窓を閉め、厚い布のカーテンで視界を遮ると、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

「ハッ…ハッ…、…はっ……っ」

獣のような、短く途切れるように漏れる呼吸。
カーテンを掴んだままの拳は、カタカタと憐れなほど震えていた。

「はぁ…、はっ…っ、ふ…っ」

悲しくはない。ただ、苦しくて苦しくて、瞳の縁から雫の粒がボロボロと零れた。

「は…、はぁ…っ、ぅく、ふ、ぅ…っ」

蹲ったまま、身を守るように本能的に自身の体を抱き締めた。
ついさっきまで、暖かな陽だまりの下にいたのが嘘のように冷え切った身体。血の気を感じないほど白くなった指先は、いつまでも震えが止まらなかった。
小さく漏れる吐息すら窓を隔てた向こう側に聞こえていそうで、それすらも咎められそうで、それが恐ろしくて、ただ声を殺して泣いた。

擦り切れた手の平に、痛い痛いと、泣くようにジワリと血が滲んだ。




あの日から、窓の外へ出ることも無くなった。
以前のように…以前よりも、空は遠く、見えなくなった。それまで陽の光を遮る物のなかった窓は、昼夜問わず薄絹のカーテンが引かれ、部屋の中と外の世界とを遮断した。
恋しくないと言えば嘘になる。暖かな日差しも、穏やかな空気も、芳しい花の香りも、夢のような美しい景色も、知ってしまったからこその喪失感は大きかった。
それでも、もう外へ出る勇気はなかった。
薄絹越しにうっすらと見える空。そこにまた“彼ら”がいたら───そう考えるだけで恐ろしく、カーテンを開けることすら怖くなった。

薄いガラスを隔てた向こう側。すぐ目の前に見える世界は、焦がれるほど遠く離れてしまった。


そうしてまた同じように、ただ時間だけが過ぎていく日々を繰り返した。
記憶に残ることすらない、空白の時間だけが無意味に過ぎていく。
何を考えるでも思うでもなく、ぼんやりと過ぎる日々の中で、手の平の痛みだけが気にかかった。

(…なんで、痛いままなんだろう…)

血は止まったが、うっすらと滲む傷口は赤く、何日経っても痛みが消えることはなかった。

(背中の傷は、もっと早く、痛くなくなったのに…)

ジンジンと、小さな波のように、寄せては引いてを繰り返す痛み。それが余計に気を滅入らせた。
沈む気持ちを吐き出すように小さく溜め息を溢すと、いつものように目を閉じ、静かに時間が過ぎるのを待った。そうすれば、微睡む暇もなく、プツリと意識は途絶え、暗闇へと落ちていった。




「………ん…」

ふっと途絶えていた意識が浮上する。重い瞼を開ければ既に陽は落ち、辺りは闇に包まれていた。目を暗闇に馴染ませるよう、パチリ、パチリと瞬きを繰り返しながら、ゆるりと周囲を見回す。

(もう夜だ…)

薄絹越しの月明かりでほんのりと照らし出された室内。薄暗い部屋を見渡しながら、随分と長く眠りについていたことに少しだけ驚く。
昼に微睡むことは多かったが、それでも陽が完全に暮れるまで眠ってしまったのは初めてだった。

(…寝る時間が…増えてる気がする…)

日々のサイクルは変わっていないはずだった。
陽が沈み、夜が訪れる前にベッドに潜り込み、朝焼けで部屋が明るくなる頃に目覚める。起きた後は寝室から移動し、長椅子に体を預け時間が過ぎるのをただ待った。その間でさえ何度も微睡みを繰り返しているのだ。それだけでも寝過ぎだという自覚があったのに…

(…やることもないから…いいけど…)

今からまた寝る為にベッドへ移動しようか、夜明けが近いようならこのままここで過ごそうか。
薄暗い部屋の中、なにも無い空間をぼんやりと見つめながら、取り留めのない物思いに耽った。

───ふと、月明かりで淡く光る薄絹のカーテンが視界に入った。

(……明るいんだな…)

陽が落ちると同時に眠りにつく為、こうして夜を過ごすのは初めてだったと気づく。
辺り一面を燦々と照らす陽の光とは違う、暗闇を淡く和げる月の明かりは、そっと寄り添ってくれるような優しさがあった。

「………」

『いけない』と思った。
怖い思いもした。苦しくなるほど泣いた。震えの止まらない体の冷たさも、まだ鮮明に覚えている。
そう思いながらも、思考から切り離されたように、体は勝手に動いていた。
緩慢な動きで立ち上がると、ゆっくりと窓辺へと近づく。薄絹の柔らかなカーテン、そこに恐る恐る手を伸ばすと、ほんの少しだけ開けた隙間から、そっと窓の外を見遣った。

(……夜…なら…)

確信などではない。淡い希望であり、願望でしかなかった。
ただ、凛と静まり返った窓の向こう側を眺めている内に、外へと焦がれる気持ちがじわじわと蘇ってきてしまったのだ。

『夜なら大丈夫かもしれない』

なんの確証もない漠然とした希望。
暗闇に紛れれば少しは見つかりにくくなるかもしれない…
夜だから皆寝てるかもしれない…
今度こそ、気をつけていれば大丈夫かもしれない…

全て『かもしれない』という、都合の良い願望を積み重ねただけの愚考だということは分かっていた。そう頭では理解しながら、体は感情のままに動いていた。
躊躇いがちに窓の枠に手を掛けると、音を立てないよう、静かに静かに窓を開けた。
途端に吹き込む柔らかな風はほんのりと涼しく、夜の香りを纏っていた。

「っ…」

久方ぶりに感じた外の空気は、泣きたくなるほど嬉しかった。
いつでも部屋の中に戻れるようにと、なるべく大きく窓を開け放ち、恐る恐る中と外との境界線を跨ぐ。足の裏に感じる石の感触すら懐かしく、自然と頬が綻んだ。
久しぶりに目にする広いバルコニーを見渡しながら、ふと空を見上げた。

「…は…わぁ…」

思わず感嘆の声が漏れる。濃藍色の夜空は漆黒のように深く、吸い込まれてしまいそうだった。
天鵞絨ビロードのような空に浮かぶ月は驚くほど大きく、眩いほど煌めいていた。月の眩しさに呼応するかのように星は瞬き、色とりどりに輝く星達の群れは、宝石を散りばめたかのような美しさだ。
霞むように掛かる薄雲は、星の瞬きを反射したような淡い桃色や藤色で、それがより一層夜の空を華やかにしていた。

「…綺麗……」

ポツリと、感情が溢れ出すように零れた小さな呟きは、夜の風の中にそっと消えていった。
どのくらいそうしていたか、茫然と立ち尽くしたまま空を見上げていることに気づき、慌ててその場にしゃがみ込んだ。ドクン、ドクンと脈打つ心臓を鎮めるように深く深呼吸をすると、慎重に周囲の様子を探った。
耳に届くのはサワサワと風が草木を撫でる音と、遠くから聞こえる生き物の鳴き声だけ。
人の話し声も気配も感じず、庭園と思しき場所には灯りも点いていなかった。

(……誰も、いない…?)

本当に夜は皆寝静まっているのか。草花が揺れる音と、小さな動物の気配しかしないことに、ホッと安堵の息を吐いた。

(…大丈夫…かな…)

完全に安心した訳ではない。それでも、人の気配がしないだけで、必要以上に怯えなくともいいのかもしれないと、強張っていた体から力が抜けていった。

(大丈夫…)

気をつけていれば、今度はきっと大丈夫───…
昼の暖かな陽の光には触れられずとも、夜の柔らかな月の明かりには触れられる。
蕾を閉じてしまった美しい花は見れないけれど、夜空に瞬く美しい星は眺めることができる。
穏やかな空気は変わらず、少しだけ涼しく感じる風は、それでも心地良く頬を撫でた。

(夜だけ…なら…)

美しいものは目の前にいくつも広がっている。それを眺められるだけで充分に幸せだと、祈るように瞼を閉じた。

誰の目にも映らぬよう
誰かの気分を害さぬよう
大人しくしているから

少しだけ、許してもらえますように、と───…



夜を起きたまま過ごす内に、自然と昼夜が逆転した日々を送るようになった。
空が白み始める頃に寝室へ向かい、厚いカーテンで光を遮った薄暗い部屋の中、天蓋に囲われたベッドで眠った。
陽が完全に沈んだ暗闇の中で目覚めると、そろりとベッドから抜け出し、バルコニーの端で星空を眺めながら長い夜を静かに過ごした。

そうして過ごしていく中で、起きている時間はどんどんと短くなっていった。半日以上をベッドの上で過ごし、起き上がってもほとんど動くこともない。
星を眺めながら、気づけば眠ってしまっていることもあった。

『おかしい』とは気づいていた。
ただ、考えることに疲れてしまったのだ。
考えても正解が分からないのなら、そういうものだと受け入れてしまった方がずっと楽だった。
うっすらと脳裏を過ぎる考えもあったが「それならそれでいい」と、拒絶する気力すら無くなっていた。

緩やかに下る坂道を、一歩一歩進んでいることに気づきながら、見て見ぬフリで目を瞑った。




穏やかな夜を幾日か越えた頃。その日も、いつもと変わらず星の瞬きを眺めていた。
この世界でも月の満ち欠けがあるのだなと、毎日少しずつ変わっていく月の形に思考を奪われている時だった。

───ふいに、何かが羽ばたく音がした。

(……?…鳥…?)

一瞬、夜空に羽ばたく天使の姿を思い浮かべ、身を固くしたが、それにしては音が小さい気がした。
寝静まった夜の世界は心地良い静寂に包まれており、小さな物音もよく拾った。
パタパタと、小さく響く羽音はすぐ近くで聞こえているはずなのに、鳥らしき動物の姿はどこにも見えなかった。

(…?どこを飛んでいるんだろう…)

以前は興味本位で動いてしまい、天使達に見つかってしまった。そのことを忘れた訳ではない。
立ち上がってまで発せられる音の元を探そうとは思わなかったが、視線だけはキョロキョロと辺りを見渡した。

(夜に飛ぶ…鳥がいた気がする…)

なぜかその知識だけはあった。時折耳にした独特な鳴き声は、その鳥のものなのだろうとは思っていたが、姿を思い浮かべることは出来なかった。
近くにいるのなら、もしかしたらその姿を見ることが出来るかもしれない…そんな小さな楽しみに思いを馳せていると、すぐ近くに自分以外の生き物の気配を感じた。


パタパタと羽ばたく小さな羽音。
すぐ側まで近寄ってきたそれを一目見たくて、音のする方へと振り返った。







「……………え?」

パッと振り返った先。そこにいたのは、羽毛に覆われた夜の鳥───ではなかった。


小さな体に小さな手足。
シミ一つない肌は真っ白で、見るからに柔らかそうだった。
真っ赤なほっぺに、ふわふわと遊ぶように揺れる髪の毛。

こちらを見てニコニコと笑う───可愛らしい赤ん坊が、そこにいた。


「……ぁ……え…?…てん、し……?」

小さな背に見えるのは、小さな真っ白の羽。
宙に浮いた体は間違いなく飛んでいることの証明で───…



紛うことなき、天使の姿がそこに在った。
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