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エンプティベッセルと新たな魂
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背中が痛まなくなってから数日。苦痛から解放されたことで、日々は穏やかに過ぎていた。
これまで通り、何もせず、ぼんやりと陽の光を浴びるだけの時間を過ごしていた。
そんな中で大きく変わったことと言えば、ようやく寝具で眠れるようになったことだろう。
痛む背中で横になるのも、自身の血で真っ白なシーツを汚すのも恐ろしく、ずっと避けていた寝室。そこへ傷を癒してもらった夜、意を決して足を踏み入れた。
大きなベッドに近寄り、恐る恐る手を伸ばした真っ白なそれは、ふかりと柔らかく、誰もいないと分かっているのに、思わず辺りをキョロキョロと見渡してしまった。
本当にここで寝ていいのだろうか───そんな考えが浮かんだが、自分以外に使用する者など他にいないだろう、と躊躇いがちに寝台に上がった。
慎重に潜りこんだ布団はふかふかと柔らかく、固い床に慣れてしまったせいか妙に落ち着かない気分にさせた。
寝具の上で横になっているだけだというのに、訳も分からず心臓がドキドキと高鳴った。
果たしてこの状態で眠れるのか…と、心配したのは一瞬だった。
肌に馴染む柔らかな布団の感触に体は正直で、自分の思考などお構いなしに、あっという間に深い眠りに落ちた。ふと目が覚めた時、既に陽は高く昇っており、随分と長く眠っていたことに驚いたほどだ。
固い床に体が痛むことも軋むこともなく、初めて安らかに眠れたことに感動した。
そうして夜はベッドで深く眠り、昼は陽の光を浴びて微睡むというサイクルが出来上がった。
ぼんやりと窓から見える風景を眺めて、日永一日過ごす。
これが他の者であれば、あまりの退屈さに耐えられず精神が参っていただろう。
だが幸か不幸か、この時のアドニスには“今が退屈な状態”というのが分からなかった。
行わなければいけない義務も責務も無ければ、娯楽も知らない。
「こういうものだ」という現状しか知らないが故に、なにを感じることもなく、ただ静かに時間が過ぎていくのを待つだけだった。
無知であるが故、今が歪であるということにも気づけなかった。
それでも、そんな状態でも、生まれて間もないからこその“好奇心”というものは失われていなかった。
(……外…)
毎日眺めるだけの窓の外。
扉の外へ出たいという気持ちは無かったが、外へと繋がる窓の向こう側を見てみたいという気持ちは芽生えていた。
実のところ、一度だけ窓辺へと近づいたことがあった。てっきり鍵が掛かっているものだとばかり思っていたそれがアッサリと開いてしまい、慌てて窓を閉めたのだ。
あの時は予想外の出来事に驚き、思わずその場から逃げてしまったが…
ほぼ定位置と化した長椅子からゆっくりと立ち上がり、そろりと窓辺へと近寄る。
緊張か高揚か、いけないことをしている気分からか、心臓がドクドクと大きく脈打っていた。
そっと手を伸ばした窓枠は、いつかと同じようになんの抵抗もなく、あっさりと開く。なるべく音を立てないよう、ゆっくりと静かに開ければ、柔らかな風に乗った甘い香りが鼻孔を擽った。
「わ…」
思わず漏れた声に慌てて口を噤む。
なるべく静かに、物音を立てないよう、そろりそろりと窓から続くバルコニーへと歩を進めた。
(……出ちゃった…)
たった二歩分。それでも、部屋の中に閉じ籠り、外の世界を知らなかった自分にとっては、大きな二歩だった。
誰かに見つからないよう、辺りを見回しながらゆっくりと窓から離れる。流石に囲われた空間の端まで行く勇気はなく、広いバルコニーの中ほどで足を止めたが、外の景色を見るにはそれで充分だった。
(わ、ぁ…)
いつも空ばかり眺めていた外の世界は広く、なだらかな丘がどこまでも続き、鮮やかな花が一面咲き誇っていた。
先ほど甘いと感じた匂いは、花の香りだろうか。肌に感じる風は心地良く、ゆったりとした穏やかな空気が漂っていた。
花や草木の隙間から除く地面は純白で、陽の光を柔らかく反射していた。どこを見渡しても幻想的な世界に茫然としたものの、天使達が住まう場所なのだということを思い出し、納得した。
遠くまで続く丘の向こう側には山々も見え、淡い桃色や橙色といった不思議な色合いをしていた。
もう少し…と、更に一歩だけ足を踏み出し、キョロリと辺りを見渡せば、離れたところに人工的に作られたであろう庭園らしきものが見え、慌てて後ろに下がった。
(…誰かに見つかったら、怒られるかも…)
部屋から続く窓の外。バルコニーという限られた空間の中とはいえ、見つかれば咎められるかもしれないという恐怖は拭えなかった。それでも、暖かく開放的な美しい外の世界の魅力には抗えず、部屋の中に戻るのは躊躇われた。
(…少しだけ…)
なるべく周りから見えないようにと、窓のすぐ側、死角となりそうな出っ張った石の壁を背もたれに座り込んだ。その上で、いつでも部屋の中に戻れるよう、窓は開けたままにした。
(これなら…たぶん、大丈夫…)
バルコニーから見た景色の視点は高く、今いる部屋が建物の上階にあることはすぐに分かった。
この高さなら、よほどバルコニーから身を乗り出したりしない限り、周囲から見えることはないだろう。
(見つからないようにしないと…)
未だにドクドクと忙しなく脈打つ心臓を落ち着かせるように、二度、三度と深呼吸をする。深く吸い込んだ空気の柔らかさと暖かさにホッと息を吐き出すと、幾分体の力が抜けた。
淡く青い空。暖かく穏やかな風。風に混じって届く草木や花の香り。美しい景色───閉鎖的な何も無い部屋の中、窓という枠の中に映った高い空を眺めていただけの時には得られなかった、満たされていく感覚に、じわりと視界が歪んだ。
嬉しさからか感動からか…名前の分からない感情に滲んだそれが零れてしまわないよう、閉じ込めるようにそっと瞼を閉じた。
その日を境に、日に数時間を窓の外で過ごすようになった。窓の内側にいるか外側にいるか、それだけの違いだったが、五感で感じる変化は大きなものだった。
香る風も、歌う鳥の声も、一面に咲く花々も、全てが鮮やかで、眺めているだけで幸せな気持ちになれた。風に揺れ、遊ぶように波打つ薄絹のカーテンを見ているだけで楽しかった。
“ささやかな幸せ”と呼ぶにはあまりにもささやかだったが、それでも充分だと思えた。
時折、庭園と思しき場所から人の笑い声が聞こえ、慌てて部屋の中へ隠れることもあったが、何事も無いことが分かると、次第にそれにも慣れていった。
───それが、いけなかったのだ。
幾日が過ぎたか、昼と夜の繰り返しを数えることもしなくなった頃。
その日も、バルコニーの片隅に座り込み、暖かな陽だまりに微睡んでいた。と、ふいに耳慣れない音が聞こえてきた。
(…人の、声…?)
耳を澄まして注意深くその音を拾う。喋っているのではなく、笑うように発せられているその声は高く、楽しそうに弾んでいた。
(……赤ちゃん…?)
赤ん坊がいるということに多少驚きつつも、きゃらきゃらと楽し気に笑う声につられて、口角が緩やかに上がるのが分かった。なにがそんなに楽しいのか、その声が途切れることはなく、穏やかな空気に溶けるように木霊した。
静かにその声に耳を傾けていると、ふとその声が近づいてきていることに気づいた。
(…近くにいるのかな?)
───なにも、考えていなかった。
ただ楽しそうに笑う声に惹かれただけだった。
誘われるように立ち上がり、周囲の警戒もせずに窓辺から離れた。
何事も無かった今日までに安心し、庭園から人の声が聞こえていたことも忘れていた。
自分の立場も、現状も、穏やかな日々を過ごす内に意識が薄れていたのだ。
身を乗り出すように、バルコニーの手摺りから眼下の花畑を見下ろした。
小さなその姿を、探すように───…
「───なにをしている」
頭上から降り注いだ凍てつくような声は、容赦なく現実を思い出させた。
これまで通り、何もせず、ぼんやりと陽の光を浴びるだけの時間を過ごしていた。
そんな中で大きく変わったことと言えば、ようやく寝具で眠れるようになったことだろう。
痛む背中で横になるのも、自身の血で真っ白なシーツを汚すのも恐ろしく、ずっと避けていた寝室。そこへ傷を癒してもらった夜、意を決して足を踏み入れた。
大きなベッドに近寄り、恐る恐る手を伸ばした真っ白なそれは、ふかりと柔らかく、誰もいないと分かっているのに、思わず辺りをキョロキョロと見渡してしまった。
本当にここで寝ていいのだろうか───そんな考えが浮かんだが、自分以外に使用する者など他にいないだろう、と躊躇いがちに寝台に上がった。
慎重に潜りこんだ布団はふかふかと柔らかく、固い床に慣れてしまったせいか妙に落ち着かない気分にさせた。
寝具の上で横になっているだけだというのに、訳も分からず心臓がドキドキと高鳴った。
果たしてこの状態で眠れるのか…と、心配したのは一瞬だった。
肌に馴染む柔らかな布団の感触に体は正直で、自分の思考などお構いなしに、あっという間に深い眠りに落ちた。ふと目が覚めた時、既に陽は高く昇っており、随分と長く眠っていたことに驚いたほどだ。
固い床に体が痛むことも軋むこともなく、初めて安らかに眠れたことに感動した。
そうして夜はベッドで深く眠り、昼は陽の光を浴びて微睡むというサイクルが出来上がった。
ぼんやりと窓から見える風景を眺めて、日永一日過ごす。
これが他の者であれば、あまりの退屈さに耐えられず精神が参っていただろう。
だが幸か不幸か、この時のアドニスには“今が退屈な状態”というのが分からなかった。
行わなければいけない義務も責務も無ければ、娯楽も知らない。
「こういうものだ」という現状しか知らないが故に、なにを感じることもなく、ただ静かに時間が過ぎていくのを待つだけだった。
無知であるが故、今が歪であるということにも気づけなかった。
それでも、そんな状態でも、生まれて間もないからこその“好奇心”というものは失われていなかった。
(……外…)
毎日眺めるだけの窓の外。
扉の外へ出たいという気持ちは無かったが、外へと繋がる窓の向こう側を見てみたいという気持ちは芽生えていた。
実のところ、一度だけ窓辺へと近づいたことがあった。てっきり鍵が掛かっているものだとばかり思っていたそれがアッサリと開いてしまい、慌てて窓を閉めたのだ。
あの時は予想外の出来事に驚き、思わずその場から逃げてしまったが…
ほぼ定位置と化した長椅子からゆっくりと立ち上がり、そろりと窓辺へと近寄る。
緊張か高揚か、いけないことをしている気分からか、心臓がドクドクと大きく脈打っていた。
そっと手を伸ばした窓枠は、いつかと同じようになんの抵抗もなく、あっさりと開く。なるべく音を立てないよう、ゆっくりと静かに開ければ、柔らかな風に乗った甘い香りが鼻孔を擽った。
「わ…」
思わず漏れた声に慌てて口を噤む。
なるべく静かに、物音を立てないよう、そろりそろりと窓から続くバルコニーへと歩を進めた。
(……出ちゃった…)
たった二歩分。それでも、部屋の中に閉じ籠り、外の世界を知らなかった自分にとっては、大きな二歩だった。
誰かに見つからないよう、辺りを見回しながらゆっくりと窓から離れる。流石に囲われた空間の端まで行く勇気はなく、広いバルコニーの中ほどで足を止めたが、外の景色を見るにはそれで充分だった。
(わ、ぁ…)
いつも空ばかり眺めていた外の世界は広く、なだらかな丘がどこまでも続き、鮮やかな花が一面咲き誇っていた。
先ほど甘いと感じた匂いは、花の香りだろうか。肌に感じる風は心地良く、ゆったりとした穏やかな空気が漂っていた。
花や草木の隙間から除く地面は純白で、陽の光を柔らかく反射していた。どこを見渡しても幻想的な世界に茫然としたものの、天使達が住まう場所なのだということを思い出し、納得した。
遠くまで続く丘の向こう側には山々も見え、淡い桃色や橙色といった不思議な色合いをしていた。
もう少し…と、更に一歩だけ足を踏み出し、キョロリと辺りを見渡せば、離れたところに人工的に作られたであろう庭園らしきものが見え、慌てて後ろに下がった。
(…誰かに見つかったら、怒られるかも…)
部屋から続く窓の外。バルコニーという限られた空間の中とはいえ、見つかれば咎められるかもしれないという恐怖は拭えなかった。それでも、暖かく開放的な美しい外の世界の魅力には抗えず、部屋の中に戻るのは躊躇われた。
(…少しだけ…)
なるべく周りから見えないようにと、窓のすぐ側、死角となりそうな出っ張った石の壁を背もたれに座り込んだ。その上で、いつでも部屋の中に戻れるよう、窓は開けたままにした。
(これなら…たぶん、大丈夫…)
バルコニーから見た景色の視点は高く、今いる部屋が建物の上階にあることはすぐに分かった。
この高さなら、よほどバルコニーから身を乗り出したりしない限り、周囲から見えることはないだろう。
(見つからないようにしないと…)
未だにドクドクと忙しなく脈打つ心臓を落ち着かせるように、二度、三度と深呼吸をする。深く吸い込んだ空気の柔らかさと暖かさにホッと息を吐き出すと、幾分体の力が抜けた。
淡く青い空。暖かく穏やかな風。風に混じって届く草木や花の香り。美しい景色───閉鎖的な何も無い部屋の中、窓という枠の中に映った高い空を眺めていただけの時には得られなかった、満たされていく感覚に、じわりと視界が歪んだ。
嬉しさからか感動からか…名前の分からない感情に滲んだそれが零れてしまわないよう、閉じ込めるようにそっと瞼を閉じた。
その日を境に、日に数時間を窓の外で過ごすようになった。窓の内側にいるか外側にいるか、それだけの違いだったが、五感で感じる変化は大きなものだった。
香る風も、歌う鳥の声も、一面に咲く花々も、全てが鮮やかで、眺めているだけで幸せな気持ちになれた。風に揺れ、遊ぶように波打つ薄絹のカーテンを見ているだけで楽しかった。
“ささやかな幸せ”と呼ぶにはあまりにもささやかだったが、それでも充分だと思えた。
時折、庭園と思しき場所から人の笑い声が聞こえ、慌てて部屋の中へ隠れることもあったが、何事も無いことが分かると、次第にそれにも慣れていった。
───それが、いけなかったのだ。
幾日が過ぎたか、昼と夜の繰り返しを数えることもしなくなった頃。
その日も、バルコニーの片隅に座り込み、暖かな陽だまりに微睡んでいた。と、ふいに耳慣れない音が聞こえてきた。
(…人の、声…?)
耳を澄まして注意深くその音を拾う。喋っているのではなく、笑うように発せられているその声は高く、楽しそうに弾んでいた。
(……赤ちゃん…?)
赤ん坊がいるということに多少驚きつつも、きゃらきゃらと楽し気に笑う声につられて、口角が緩やかに上がるのが分かった。なにがそんなに楽しいのか、その声が途切れることはなく、穏やかな空気に溶けるように木霊した。
静かにその声に耳を傾けていると、ふとその声が近づいてきていることに気づいた。
(…近くにいるのかな?)
───なにも、考えていなかった。
ただ楽しそうに笑う声に惹かれただけだった。
誘われるように立ち上がり、周囲の警戒もせずに窓辺から離れた。
何事も無かった今日までに安心し、庭園から人の声が聞こえていたことも忘れていた。
自分の立場も、現状も、穏やかな日々を過ごす内に意識が薄れていたのだ。
身を乗り出すように、バルコニーの手摺りから眼下の花畑を見下ろした。
小さなその姿を、探すように───…
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