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エンプティベッセルと新たな魂
5.揺れる黄金
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その日、私は重い足取りで宮廷の回廊を歩いていた。
理由は明確。できることならば関わりたくない相手のところへわざわざ足を運ぼうとしているからだ。
嫌ならば行かなければいい。それは重々承知しているし、なにも誰かに命じられた訳でもない。
ただ自分の意思で、心底嫌ではあるが、どうしようもない義務感に駆られての行動だった。
天界の汚点とも言える人物が断罪されたのはほんの数日前のことだった。
暴力的な振る舞い、荒々しい言葉遣い、人を見下した態度…よくそこまで他者を虐げられるものだと、失笑が漏れるほどの最低な存在だった。殺生という大罪に手を染めていないのが奇跡だと思えたほどだ。
その人物がようやく、ようやく裁かれた。
我らが父であり神であるバルドルは、ギリギリまで決断できずにいたようだが、大天使の総意とあっては、もう避けては通れなかったのだろう。
我らが父は決して甘い人ではない。それでも、与えるべき罰の重さに苦渋していた。
天使の証明である翼を奪うこと。
それは即ち、堕天と天界からの追放を意味している。
大罪を犯していない者への罰としては一番重いであろう処罰。
自らの意思による堕天や、私利私欲による殺生という罪を犯していない限り、強制的に堕天させられるという罰は永い時を生きてきた中でも初めてのことだった。
それほどまでに、その者───アドニスの行動は目に余ったのだ。
いい気味だ、とは思わない。
ただ、当然の報いだと思うだけ。
積み重なった罪の重さに比例した罰は当然であり、そこに同情する気持ちなどは無い。無いのだが…
(…なかなか、壮絶な光景でしたからね)
『翼の剥奪』
言葉にすれば簡単な罰の実態は、あまりにも惨たらしかった。
翼を根元から切り落とすだけ、そう思っていたのが生温いほどの凄惨さだった。
背にあるのが当たり前で、自分の体の一部であった翼が、まるでそれ自体が別の生き物であるかのように、肉体から離れていく。
肉を裂き、骨を砕き、筋を捩じ切り、もうここには用が無いと言わんばかりに、大きく広がった四枚の羽。
ブツリと肉を無理やり引き千切る音、ゴキリと骨が折れる音、ビチャビチャと夥しい鮮血が飛び散る音、想像を絶する苦痛にもがきながら絶叫する悲鳴───それらが同時に鼓膜を揺さぶり、堪らず込み上げた吐き気を飲み込むほどに不快な光景だった。
その場にいた何人かは耐えられずに目を瞑り、耳を塞いでいた。それほどの惨状だった。
それでも、それでも尚、当然の報いだと思っていた。同情の余地も無かった。
ただ、血の海に倒れたままの肢体がピクリとも動かなかった時、ほんの一瞬、安否が気になった。
痛みに気絶しているだけならまだ良い。ただ、目の前で行われた惨たらしい罰に、身体が、精神が耐え切れなかったとしたら───…?
“死”というものを意識した瞬間、スッと血の気が引いていくのが分かった。
いくら憎らしい相手であっても、その命まで奪いたかった訳ではなかった。勝手な話、罰を与えたかっただけであって、そのせいで死なれるのはなんとも後味が悪いという思いがあったのかもしれない。
だがそんな杞憂も数秒後に動き出した身体を視界に捉えれば霧散した。
その後に続いたバルドルの言葉に、何人かは反発していたが、私としては神が決めたことを否定する気も、背く気もなかった。
与えられた罰は妥当。後はこちらに迷惑が掛かることがなければどうなろうと知ったことではない。アドニス自身の問題だと、その場を離れた。
それから二日、三日と過ぎた頃。なんとも言えない焦燥感に駆られた。
アドニスが宮廷内に与えられた部屋に閉じこもったまま、一歩も外へ出ていないというのだ。
謹慎処分という身では当たり前のことだが、その対象はあのアドニスだ。大人しく部屋に閉じこもっている訳がないと誰もが思っていた。
謹慎中ということも意に介さず、与えられた罰に抗議し怒り暴れるか、横柄な態度のまま無遠慮な要求でもしてくるか、そうなったら今度こそ追放だと、暗黙の内に皆がそう思っていた。
だが、幾日経てどアドニスが部屋から出てくることも、また部屋の中で暴れるということも無かった。アドニスに与えられた部屋の周辺は隔離され、不気味なほどの静寂に包まれていた。
誰かが監視している訳ではない。ただ、悪い意味で目立つ男だ。なにかあれば必ず誰かの目に留まり、その情報は瞬く間に広がっただろう。それが無い、ということはつまり、大人しく過ごしているということになるのだろう。
俄かには信じられなかったが、害がないならそれでいいと楽観視していた。…が、それも数日だけだった。
あれだけの傷を負って、一体どうしているのか───?
天使としての力を失ったも同然のアドニスに治癒能力など皆無だろう。であれば、誰かに助けを求めるしかないはずだ。
いくらなんでもあのまま放置ということはないはず…そう思っていたのだが、アドニスを部屋まで連れて行った天使は、傷を癒すこともせず、またその後の手配もなにもしていないと言う。
「命じられていませんので」という、あまりにも機械的な返答に、思わず眉間に皺が寄った。
確かに命じられている訳ではないだろう。天使達もアドニスのことを嫌っていたのは知っているし、そういう態度になるのも致し方ないだろう。
(だが、だからと言って…)
拷問にすら等しい罰と傷を負った者を、まして、既に罰を与え終えた者をそのまま放置するのは如何なものかと思ってしまう。同情する気はないが、それでも僅かばかりに残った良心がチクリと痛んだ。
バルドルからの沙汰も無く、ならばせめて、とアドニスから癒しを求めてくるのを待っていたが、一向にその気配も無い。
こうなると自主的にアドニスの元を訪れなければいけなくなる訳だが、やはり心情的には拒否したい気持ちが強く、数日間悩む羽目になった。
だが、悩んだところで良心の痛みが消える筈もなく、最終的に『これは義務だ』と自分に言い聞かせるように重い腰を上げた。
癒しと再生。それが天界においての私───イヴァニエが司っている役目だった。
役目だからこそ、この焦燥感や良心の痛みがあるのだと、自分に言い聞かせた。
アドニスが心配なのではない。己に与えられた役目を放棄しているのが我慢ならないのだ、と。
そうして訪れた宮廷の片隅。三階の端部屋を目指し、ゆっくりと回廊を歩いた。
さして大きくもないはずの自分の足音だけが、シンと静まり返った空間にいやに響いた。
人気もなく、物音一つしない長い廊下の突き当り。照明の落とされた一帯は薄暗く、普段から誰かが立ち寄ることすらないのだろう。正しく隔離されているという表現が相応しい大きな扉の前で、イヴァニエは小さく溜息を零した。
(…宮廷の中だというのに、ここだけ牢獄のようですね)
牢獄と呼ぶには美しすぎたが、淡い光が燦々と差し込む華やかな宮廷の中とは思えないほど、いやだからこそ、この一角だけがまるで別の空間のように思えた。
空間の暗さに飲まれそうになる気持ちを追い払い、無心で扉をノックする。軽く叩いただけのその音が、静かな空間に嫌味なほど大きく響き───案の定、返事がないことに眉間に皺が寄った。
アドニスからまともな反応が返ってこないことは分かりきっていたが、重い腰を上げてここまで来た身としては苛立ちが込み上げる。
間を空けてもう一度扉を叩くが、やはり反応は無かった。
「……はぁ」
本日何度目か分からない溜め息が零れた。
意を決してわざわざ来たのにこの始末である。些細な義務感もなけなしの良心も無視してこのまま帰ってしまおうか…そう思った時、ふと、あの日のアドニスの姿が脳裏に浮かんだ。
血溜まりの中、投げ出されたまま動かなくなった四肢。あの姿を見た時、僅かにだが『死』を連想した。
(…いや…まさか…)
───もし、もしも、この扉を隔てた向こう側で、あの時のように倒れていたら?
そう考えただけで頭がスッと冷え、苛立ちは焦燥へと変わった。
アドニスが一歩も部屋から出ていないというのも、中で倒れているからなのでは…?
まさかそんな、と思いつつ気持ちが先走り、気づけばドアノブに手を掛けていた。返事がないまま入室することになるが、これで文句を言われたならそのまま引き返せばいい。
恐る恐る開いた扉の向こう側───そこに、アドニスがいた。
居て当然なのだが、その姿を目にした時、ほんの少し、本当に少しだけだが、ホッとした。と同時に、その姿に僅かな違和感を覚えた。
(…なぜ床に座ってるんだ?)
長椅子があるにも関わらず、固い床にペタリと座り込み、茫然とした表情でこちらを見つめるアドニス。その表情が、見慣れているはずのアドニスの顔とは思えず、どうにも落ち着かない気持ちになった。…が、あえて気づかぬフリをした。
ここに来た目的だけ、それだけ果たせばもう用は無いのだ。
ゆっくりとアドニスとの距離を詰める。その間も微動だにせず、声を上げることもない姿に違和感は強くなるが、それも全て、見て見ぬフリをした。
「…返事くらいしたらどうです」
思考とは関係なく、今更どうでもいいことが言葉となって口から漏れた。座り込んだアドニスを上から見下ろせば、剥き出しになっている上半身に目がいく。
予想していた通り、翼を失った部分の傷はそのまま放置されていた。その傷をどうするのか、言葉にして投げ掛けるも、アドニスからの反応はない。
(…なぜ何も言わない)
てっきり「さっさと治せ」と、いつもの尊大な態度を取られる思っていた。ついでに「来るのが遅い」と舌打ちの一つでも貰うのだろうと。
だが、今目の前にいるアドニスは何故か黙り込んだまま、俯くばかりだった。
まるで、何かに怯えるように───…
(…怯える?)
あのアドニスが何かに怯える。
あり得ないことだった。仮に怯えているのだとしたら何に───まさか、自分に?
それこそあり得ないだろうと短く息を吐き出す。大方、人にものを頼むことすらまともに出来ないのだろう。
言葉を知らないか、もしくは助けを乞うことを屈辱だと歯噛みしているか…どちらにせよ、無駄足だったと踵を返した時だった。
「まっ、まって…!」
今にも泣き出してしまいそうな、震える声が背後から聞こえた。
「な、治して…っ、背中、治して…ください……おね、がい…します…」
思わず立ち止まり、振り返る。そこには相変わらず俯いたままのアドニスがいた。
(……お願いします…?)
言葉遣いも粗野で横柄な物言いで、常に命令口調のアドニスの口から発せられたとは到底思えない言葉に思わず絶句した。驚愕というよりは、得体の知れない何かを目の前にしているような不気味さすら感じた。
先ほどから感じていた違和感…それがそのまま浮き彫りになったような、言い喩え用のない不安に襲われる。
だがそれでも、それでも尚、関わりたくないという気持ちの方が強かった。
当初の目的だけ果たしたらさっさとこの場を立ち去ろうと、浮かんだ不安もそのままに、再度アドニスへと歩み寄った。
露わになった背中、そこに出来た生々しい傷口が視界に入り、思わず顔を顰めた。
骨こそ剥き出しになってはいないものの、皮膚は裂け、抉られたような凸凹とした赤い肉が見えていた。数日経って尚、深く裂かれ、筋を無理やり引き剥がされた肉からは血が滲み、あの日の凄惨な光景を思い出させた。
(…こんな傷をよく何日も…)
放置できたものだ、と考える片隅で、その数日間、誰かが手当てに来ることも、アドニス自身が声を上げる事もなかったという事実に、苦々しい気持ちになる。
この際、いつもの様な偉そうな物言いでも目を瞑ろう。
なぜ何も言わず、こんなに大きな傷を放置していたと怒鳴りつけたい気持ちになった。見当違いな、怒りにも似た苛立ちをグッと堪えたまま、背中の傷を癒すことに集中する。
癒しが遅れたこと、傷が思ったよりも深かったことが重なり、背には痛々しい瘢痕が残った。それを伝えれば、理不尽な怒りでもぶつけられるかと思ったが、返ってきたのは大人しい返事で、どうにも居心地が悪くなる。
早々にこの場を立ち去ろうと扉へと向かうと、背後から声を掛けられた。
「あっ、あり、がとう、ございました…」
弱々しい声と言葉に、思わず足が止まった。恐らく、自分の顔は驚愕に固まっていただろう。
(……なんと、言った?)
あのアドニスが礼を述べた。それだけでも充分に驚きだったが、それだけではない。
『ありがとうございました』
そんな丁寧な言葉で喋るアドニスなど知らない。
今まで一度たりとも、例え相手がバルドルであっても、横柄な言葉遣いを改めることがなかったアドニスだ。
先ほどから付き纏う得体の知れない不安…それが一気に押し寄せ、止まってしまった歩み取り戻すかの様に、足早に部屋を後にした。
閉じた扉の前、薄暗い照明の下でたった今起こったやりとりを反芻した。
言い付けられた通り、部屋の中で大人しくしていたアドニス。
声を荒げることも、怒鳴ることも暴れることもなかった。
与えられた傷もそのままに、誰に助けを求めることもなく、現状を享受していた。
その上で癒しを施せば、驚くほど…いっそ不気味なほど素直に礼を述べた。
弱々しい声。怯えたような態度。所在無さげに床に座り込んでいた姿。
見慣れているはずのアドニスの顔が、まるで別人のように見えた。
「……アレは誰だ…?」
思わず口をついて出た言葉。
別人のようなアドニスの姿に、今更ながらに動揺していたのだと気づく。
とてもアドニス本人だとは思えない。いっそ、誰かが姿を変えて、身代わりになっているのだと言われた方がよほど信じられた。それほどの変わり様だった。
(…どういうつもりだ?)
まさか本当に反省し、心を入れ替えたとでも言うのだろうか?
そんなあまりにも馬鹿らしい、あり得ない考えに、思わず鼻で笑ってしまった。
相手はあのアドニスだ。態度を改めようが、心を入れ替えようが、長い年月をかけて積み重なった嫌悪感はそう簡単に清算できるものではない。
できることならば、もう二度と関わりたくないのだ。
別人のようになってしまったアドニス。
それを目にした時のあまりにも大きな違和感と、未だに拭えない不安。
それらの感情も記憶も振り払うように、役目は果たしたと、イヴァニエは元来た道を戻っていった。
チリリと脳裏を掠めたのは、怯えたように揺れる黄金の双眸───その瞳の色を、今すぐにでも忘れてしまいたかった。
この時、バルドル神にこの事を報告していたら
他の誰かとこの事を共有していたら
まるで別人のようだと感じた違和感に疑問を抱いていたら…
そうしたら、生まれたばかりの幼い魂を
なんの罪もないあの子を
あれ以上傷つけることなどなかったのに、と
罪悪感で心臓が潰れそうになるほど苦しくなる日が来ようとは思ってもいなかった。
己に絶望し、憤り、後悔する日が来ようとは、思ってもいなかったんだ───…
--------------------
三つ編みの男=イヴァニエ
理由は明確。できることならば関わりたくない相手のところへわざわざ足を運ぼうとしているからだ。
嫌ならば行かなければいい。それは重々承知しているし、なにも誰かに命じられた訳でもない。
ただ自分の意思で、心底嫌ではあるが、どうしようもない義務感に駆られての行動だった。
天界の汚点とも言える人物が断罪されたのはほんの数日前のことだった。
暴力的な振る舞い、荒々しい言葉遣い、人を見下した態度…よくそこまで他者を虐げられるものだと、失笑が漏れるほどの最低な存在だった。殺生という大罪に手を染めていないのが奇跡だと思えたほどだ。
その人物がようやく、ようやく裁かれた。
我らが父であり神であるバルドルは、ギリギリまで決断できずにいたようだが、大天使の総意とあっては、もう避けては通れなかったのだろう。
我らが父は決して甘い人ではない。それでも、与えるべき罰の重さに苦渋していた。
天使の証明である翼を奪うこと。
それは即ち、堕天と天界からの追放を意味している。
大罪を犯していない者への罰としては一番重いであろう処罰。
自らの意思による堕天や、私利私欲による殺生という罪を犯していない限り、強制的に堕天させられるという罰は永い時を生きてきた中でも初めてのことだった。
それほどまでに、その者───アドニスの行動は目に余ったのだ。
いい気味だ、とは思わない。
ただ、当然の報いだと思うだけ。
積み重なった罪の重さに比例した罰は当然であり、そこに同情する気持ちなどは無い。無いのだが…
(…なかなか、壮絶な光景でしたからね)
『翼の剥奪』
言葉にすれば簡単な罰の実態は、あまりにも惨たらしかった。
翼を根元から切り落とすだけ、そう思っていたのが生温いほどの凄惨さだった。
背にあるのが当たり前で、自分の体の一部であった翼が、まるでそれ自体が別の生き物であるかのように、肉体から離れていく。
肉を裂き、骨を砕き、筋を捩じ切り、もうここには用が無いと言わんばかりに、大きく広がった四枚の羽。
ブツリと肉を無理やり引き千切る音、ゴキリと骨が折れる音、ビチャビチャと夥しい鮮血が飛び散る音、想像を絶する苦痛にもがきながら絶叫する悲鳴───それらが同時に鼓膜を揺さぶり、堪らず込み上げた吐き気を飲み込むほどに不快な光景だった。
その場にいた何人かは耐えられずに目を瞑り、耳を塞いでいた。それほどの惨状だった。
それでも、それでも尚、当然の報いだと思っていた。同情の余地も無かった。
ただ、血の海に倒れたままの肢体がピクリとも動かなかった時、ほんの一瞬、安否が気になった。
痛みに気絶しているだけならまだ良い。ただ、目の前で行われた惨たらしい罰に、身体が、精神が耐え切れなかったとしたら───…?
“死”というものを意識した瞬間、スッと血の気が引いていくのが分かった。
いくら憎らしい相手であっても、その命まで奪いたかった訳ではなかった。勝手な話、罰を与えたかっただけであって、そのせいで死なれるのはなんとも後味が悪いという思いがあったのかもしれない。
だがそんな杞憂も数秒後に動き出した身体を視界に捉えれば霧散した。
その後に続いたバルドルの言葉に、何人かは反発していたが、私としては神が決めたことを否定する気も、背く気もなかった。
与えられた罰は妥当。後はこちらに迷惑が掛かることがなければどうなろうと知ったことではない。アドニス自身の問題だと、その場を離れた。
それから二日、三日と過ぎた頃。なんとも言えない焦燥感に駆られた。
アドニスが宮廷内に与えられた部屋に閉じこもったまま、一歩も外へ出ていないというのだ。
謹慎処分という身では当たり前のことだが、その対象はあのアドニスだ。大人しく部屋に閉じこもっている訳がないと誰もが思っていた。
謹慎中ということも意に介さず、与えられた罰に抗議し怒り暴れるか、横柄な態度のまま無遠慮な要求でもしてくるか、そうなったら今度こそ追放だと、暗黙の内に皆がそう思っていた。
だが、幾日経てどアドニスが部屋から出てくることも、また部屋の中で暴れるということも無かった。アドニスに与えられた部屋の周辺は隔離され、不気味なほどの静寂に包まれていた。
誰かが監視している訳ではない。ただ、悪い意味で目立つ男だ。なにかあれば必ず誰かの目に留まり、その情報は瞬く間に広がっただろう。それが無い、ということはつまり、大人しく過ごしているということになるのだろう。
俄かには信じられなかったが、害がないならそれでいいと楽観視していた。…が、それも数日だけだった。
あれだけの傷を負って、一体どうしているのか───?
天使としての力を失ったも同然のアドニスに治癒能力など皆無だろう。であれば、誰かに助けを求めるしかないはずだ。
いくらなんでもあのまま放置ということはないはず…そう思っていたのだが、アドニスを部屋まで連れて行った天使は、傷を癒すこともせず、またその後の手配もなにもしていないと言う。
「命じられていませんので」という、あまりにも機械的な返答に、思わず眉間に皺が寄った。
確かに命じられている訳ではないだろう。天使達もアドニスのことを嫌っていたのは知っているし、そういう態度になるのも致し方ないだろう。
(だが、だからと言って…)
拷問にすら等しい罰と傷を負った者を、まして、既に罰を与え終えた者をそのまま放置するのは如何なものかと思ってしまう。同情する気はないが、それでも僅かばかりに残った良心がチクリと痛んだ。
バルドルからの沙汰も無く、ならばせめて、とアドニスから癒しを求めてくるのを待っていたが、一向にその気配も無い。
こうなると自主的にアドニスの元を訪れなければいけなくなる訳だが、やはり心情的には拒否したい気持ちが強く、数日間悩む羽目になった。
だが、悩んだところで良心の痛みが消える筈もなく、最終的に『これは義務だ』と自分に言い聞かせるように重い腰を上げた。
癒しと再生。それが天界においての私───イヴァニエが司っている役目だった。
役目だからこそ、この焦燥感や良心の痛みがあるのだと、自分に言い聞かせた。
アドニスが心配なのではない。己に与えられた役目を放棄しているのが我慢ならないのだ、と。
そうして訪れた宮廷の片隅。三階の端部屋を目指し、ゆっくりと回廊を歩いた。
さして大きくもないはずの自分の足音だけが、シンと静まり返った空間にいやに響いた。
人気もなく、物音一つしない長い廊下の突き当り。照明の落とされた一帯は薄暗く、普段から誰かが立ち寄ることすらないのだろう。正しく隔離されているという表現が相応しい大きな扉の前で、イヴァニエは小さく溜息を零した。
(…宮廷の中だというのに、ここだけ牢獄のようですね)
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空間の暗さに飲まれそうになる気持ちを追い払い、無心で扉をノックする。軽く叩いただけのその音が、静かな空間に嫌味なほど大きく響き───案の定、返事がないことに眉間に皺が寄った。
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間を空けてもう一度扉を叩くが、やはり反応は無かった。
「……はぁ」
本日何度目か分からない溜め息が零れた。
意を決してわざわざ来たのにこの始末である。些細な義務感もなけなしの良心も無視してこのまま帰ってしまおうか…そう思った時、ふと、あの日のアドニスの姿が脳裏に浮かんだ。
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(…いや…まさか…)
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まさかそんな、と思いつつ気持ちが先走り、気づけばドアノブに手を掛けていた。返事がないまま入室することになるが、これで文句を言われたならそのまま引き返せばいい。
恐る恐る開いた扉の向こう側───そこに、アドニスがいた。
居て当然なのだが、その姿を目にした時、ほんの少し、本当に少しだけだが、ホッとした。と同時に、その姿に僅かな違和感を覚えた。
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長椅子があるにも関わらず、固い床にペタリと座り込み、茫然とした表情でこちらを見つめるアドニス。その表情が、見慣れているはずのアドニスの顔とは思えず、どうにも落ち着かない気持ちになった。…が、あえて気づかぬフリをした。
ここに来た目的だけ、それだけ果たせばもう用は無いのだ。
ゆっくりとアドニスとの距離を詰める。その間も微動だにせず、声を上げることもない姿に違和感は強くなるが、それも全て、見て見ぬフリをした。
「…返事くらいしたらどうです」
思考とは関係なく、今更どうでもいいことが言葉となって口から漏れた。座り込んだアドニスを上から見下ろせば、剥き出しになっている上半身に目がいく。
予想していた通り、翼を失った部分の傷はそのまま放置されていた。その傷をどうするのか、言葉にして投げ掛けるも、アドニスからの反応はない。
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まるで、何かに怯えるように───…
(…怯える?)
あのアドニスが何かに怯える。
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「な、治して…っ、背中、治して…ください……おね、がい…します…」
思わず立ち止まり、振り返る。そこには相変わらず俯いたままのアドニスがいた。
(……お願いします…?)
言葉遣いも粗野で横柄な物言いで、常に命令口調のアドニスの口から発せられたとは到底思えない言葉に思わず絶句した。驚愕というよりは、得体の知れない何かを目の前にしているような不気味さすら感じた。
先ほどから感じていた違和感…それがそのまま浮き彫りになったような、言い喩え用のない不安に襲われる。
だがそれでも、それでも尚、関わりたくないという気持ちの方が強かった。
当初の目的だけ果たしたらさっさとこの場を立ち去ろうと、浮かんだ不安もそのままに、再度アドニスへと歩み寄った。
露わになった背中、そこに出来た生々しい傷口が視界に入り、思わず顔を顰めた。
骨こそ剥き出しになってはいないものの、皮膚は裂け、抉られたような凸凹とした赤い肉が見えていた。数日経って尚、深く裂かれ、筋を無理やり引き剥がされた肉からは血が滲み、あの日の凄惨な光景を思い出させた。
(…こんな傷をよく何日も…)
放置できたものだ、と考える片隅で、その数日間、誰かが手当てに来ることも、アドニス自身が声を上げる事もなかったという事実に、苦々しい気持ちになる。
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なぜ何も言わず、こんなに大きな傷を放置していたと怒鳴りつけたい気持ちになった。見当違いな、怒りにも似た苛立ちをグッと堪えたまま、背中の傷を癒すことに集中する。
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(……なんと、言った?)
あのアドニスが礼を述べた。それだけでも充分に驚きだったが、それだけではない。
『ありがとうございました』
そんな丁寧な言葉で喋るアドニスなど知らない。
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その上で癒しを施せば、驚くほど…いっそ不気味なほど素直に礼を述べた。
弱々しい声。怯えたような態度。所在無さげに床に座り込んでいた姿。
見慣れているはずのアドニスの顔が、まるで別人のように見えた。
「……アレは誰だ…?」
思わず口をついて出た言葉。
別人のようなアドニスの姿に、今更ながらに動揺していたのだと気づく。
とてもアドニス本人だとは思えない。いっそ、誰かが姿を変えて、身代わりになっているのだと言われた方がよほど信じられた。それほどの変わり様だった。
(…どういうつもりだ?)
まさか本当に反省し、心を入れ替えたとでも言うのだろうか?
そんなあまりにも馬鹿らしい、あり得ない考えに、思わず鼻で笑ってしまった。
相手はあのアドニスだ。態度を改めようが、心を入れ替えようが、長い年月をかけて積み重なった嫌悪感はそう簡単に清算できるものではない。
できることならば、もう二度と関わりたくないのだ。
別人のようになってしまったアドニス。
それを目にした時のあまりにも大きな違和感と、未だに拭えない不安。
それらの感情も記憶も振り払うように、役目は果たしたと、イヴァニエは元来た道を戻っていった。
チリリと脳裏を掠めたのは、怯えたように揺れる黄金の双眸───その瞳の色を、今すぐにでも忘れてしまいたかった。
この時、バルドル神にこの事を報告していたら
他の誰かとこの事を共有していたら
まるで別人のようだと感じた違和感に疑問を抱いていたら…
そうしたら、生まれたばかりの幼い魂を
なんの罪もないあの子を
あれ以上傷つけることなどなかったのに、と
罪悪感で心臓が潰れそうになるほど苦しくなる日が来ようとは思ってもいなかった。
己に絶望し、憤り、後悔する日が来ようとは、思ってもいなかったんだ───…
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三つ編みの男=イヴァニエ
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