天使様の愛し子

東雲

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エンプティベッセルと新たな魂

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自分という個体が生まれてから四日が過ぎた。
なにをすることもできない為、ただ背中の痛みを癒すことだけに専念した。
癒すと言っても、治療が出来る訳ではないので、これ以上傷が悪化しない様、じっと過ごすのが精一杯だったが…

寝る時も仰向けになれない為、相変わらず床に座り込み、長椅子に上体を預けるようにして眠るしかなかった。体の節々や筋肉が痛んだが、背中の痛みに比べればまだマシだった。
もちろん、そんな体勢では深い眠りにつくこともできず、昼間も背中に物が当たらない様、長椅子の上で丸まって過ごしながら、何度となく微睡みを繰り返した。
部屋に備え付けられたアーチ状の大きな窓の外には、広いバルコニーがあり、陽の光が燦々と降り注いでいた。長椅子が置かれた場所にはちょうどその光が差し込み、温かな太陽の日差しがより一層睡魔を引き寄せた。

(あたたかい…)

ポカポカと体を温めてくれる陽の光は、生まれて初めて感じた『温もり』だった。
この数日間、ただ丸まって陽の光を浴びて微睡むという行為だけを繰り返していたが、不思議なことに、少しずつ背中の痛みが和らいできたのだ。

(あんなに痛かったのに…)

最初は気のせいかとも思ったが、明らかに引いていく背の痛みに戸惑いつつ、途中からは「そういう風に出来ているのだ」と無理やり納得することにした。

(不思議な体だ…)

この数日間で自分のこと…自分の体について、幾つか気づいたことがあった。
まず食事を必要としないことだ。飢えや渇きを感じないのだ。
この部屋を与えられた翌々日に、ふと空腹や喉の渇きというものを感じないことに気づいた。その時点で生まれてから丸三日が過ぎていたが、そこでようやく何も口にしていないことに気づいたほどだ。
他のことで気持ちがいっぱいいっぱいになり、食事という概念を完全に忘れていた訳だが、これは正直有り難かった。
なにせ何も無い部屋なのだ。食べられる物等ももちろん無い。もしかしたら飢え死にさせるのが目的なのだろうかとも考えたが、その線は無いようだった。
飢えも渇きもなく、それでいて体が痩せ衰えるということもない。不思議な体だと思った。

次いで、風呂のことだ。備え付けられているということは入るべきなのかと浴場へと足を踏み入れたが、そもそも湯の出し方が分からなかった。どこを弄ればいいのか分からず、更に言えば湯から上がった後に体を拭く物も無いことに気づき、途方に暮れた。
どうしようかとも悩んだが、あまりにも不衛生になるようなら、非常に恐ろしいが誰かに助けを求めるしかあるまいと腹を括った。…もちろん、助けてもらえる可能性は限りなく低いが。

だがこの不安も杞憂に終わった。やはりどういう訳か、不清潔であったり不快感というものを感じないのだ。
初日等は背中の痛みで脂汗が額に滲んだりもしたが、夜眠りにつくと目覚めた時には何事も無かったかのようにそれらがスッキリと消えているのだ。
であれば何のために風呂場があるのか? 疑問は残ったが、必要が無いならそれでいい、とそれ以上は考えないことにした。

最後に、自分自身のことだ。
相変わらず、自分のことはなに一つ分からないままだったが、ふと気づいたのだ。

自分のことは分からないのに、それ以外の知識が備わっているのは何故か?

己の意識としては『生まれた』という感覚だった。
突然、体と命を与えられた…という気持ちもあるが、感覚としてはそれが一番近かった。だが、それにしては妙だとも思った。
赤ん坊のように、誰かに世話をされなければいけないという訳でもなく、自分の意思に従って手足は動くし、立って歩くことも出来た。
そしてなにより、があった。

例えば、食事にしろ風呂にしろ、それが必要な行為であると認識していた。
机や椅子といった物の名前も分かった。太陽、差し込む光、バルコニーの外に広がる青い空…そういった物の名前や、それがなんであるのかといった、当たり前と思われるような知識は恐らくだが一通り備わっていた。
同じ様に、物事に対し疑問を持ち、かつ思考するという行為も既にできている。

その中で『自分』のこと、そして天使達のこと、この世界のことだけが、すっぽりと、まるでその部分だけが丸々抜け落ちてしまったかのように何も分からなかった。
なんとも奇妙な感覚だった。もしかしたら、記憶喪失かなにかで、自分自身に関することだけ、綺麗に忘れてしまったのかもしれない…とも思ったが、それにしては分からない事が多過ぎた。

例えば、天使という存在は知っているが、彼らのことは誰一人として知らない。そも、天使という認識でいいのか、それすら曖昧という点。
例えば、人間という存在もその営みも、どのように生きているかということも知っているが、自分が人間という存在の常識から、あまりにもかけ離れているという点。
例えば、この世界は一体どういう世界で、人間が存在しているのか、それとも天使しかいないのかという点。
例えば、少年天使が見せたあの不思議な力。あれも「魔法のようだ」と思ったということは、魔法の存在は知っているのに、あの能力がなんなのかは分からないという点。
自分の持っている知識と、自分自身と、それらを取り巻く環境、これらがまったく噛み合わないのだ。

(…不便ではないけれど…)

実際、この部屋に閉じこもっている分にはまったく問題はないのだ。
ただ不思議だな、という疑問が沸くだけ。とはいえ、それを問う相手もいなければ答えてくれる相手もいないので、考えるだけ無駄だという結論に早々に達した。

(自分が知る必要は…ないんだ…)

ぼんやりと過ごすにはあまりにも時間が有り余っており、一つ疑問が沸くたびに、ぐるぐると思考の沼に嵌まってしまいそうになる。
それを止める為に、意識的に考えるという行為を拒絶するようになった。

『自分には必要のないこと』

そうして強制的に思考を切断した。
思考の糸を鋏で切り落とすように、『考える』という行為そのものをプツリと絶っていく。
そうでもしないと、泣いて叫んで、暴れてしまいそうで怖かったのだ。


どうして自分はこんなに痛い思いをしているのか?
どうしてこんなところに閉じ込められているのか?
どうしてあんなにも嫌われているのか?
どうして誰もなにも教えてくれないのか?
どうして生まれたのか?
どうして?どうして?どうして?どうして?
ここはどこで、自分は誰で、彼らは誰で、なにをすべきで、なにをしてはいけなくて、自分はなにを求められていて、どうすべきなのか───…


そんな、答えを与えられるはずのない疑問ばかりが浮かんでは消え、出口がないまま延々と自分の中をぐるぐると循環しているような感覚に、頭がどうにかなりそうだった。
いっそ泣いて叫べば、なにか変わるかもしれない…そんな考えも一瞬過ぎったが、希望的観測は瞬時に捨てた。
良くて誰かが部屋に怒鳴り込んでくるだけ。悪くて───それすらも無視されるだけ。
憎悪と嫌悪をぐちゃぐちゃに混ぜたような視線も恐ろしかったが、自分という個を完全に存在しないものとして扱われる…考えただけでゾッとした。

今の状況とて、大差はないのかもしれない。
何も無い部屋で他の誰と会うこともなく、その存在を主張することなく、息を殺すようにして大人しく過ごしていれば、その内誰の記憶からも薄れていく存在となるだろう。
忘れ去られていくということも、存在の消去という現象としてはきっと同じだ。
ただ、自然的に忘れていってしまうことと、存在そのものを否定し、いないものとして扱うということはまったくの別物なのだ。
今ここで声を張り上げ、叫んで、自分の存在を主張すること…それがどんなに恐ろしいことか、考えて考えて考えて…考えた末、考えることを止めた。

自分がなにかしたところで、なにかが変わるとは到底思えなかった。
泣いて叫んでも、それを当然の報いだと思われ、干渉する必要のないものとして放置されるだけかもしれない。
放置されたその裏で、また嫌悪する対象として憎悪が膨れていくだけかもしれない。

そんな考えだけが思考を埋め尽くしそうで、怖くて怖くて、そうならない為にも、泣いて暴れる事がないように、考えるという行為を止めたのだ。

(考えちゃダメだ…)

なにも考えないというのは得てして難しいものだ。それでも、強制的に、排他的に「自分には必要がない行為だ」と言い聞かせるように、頭の中を真っ白にしていく。疑問が浮かびそうになるたびに、それを力で無理やり押し潰すようにして消していく。

それを何度も何度も何度も、何度も繰り返して、ようやく擬似的な心の平穏を手にした頃だった。



いつものように長椅子に身を預け、ぼんやりと陽の光を浴びて、微睡みながら陽が沈むのを待つだけ───…





───コンコンコン





そんな一日になるはずだった。

扉を叩く、ノックの音が聞こえるまでは。
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