2 / 26
1巻
1-2
しおりを挟む
◇◇◇◇◇
家を離れ、三ヶ月が過ぎようとした頃、カリオと自室で過ごしていると、セバスからの手紙を受け取った。寮母が自室まで届けてくれたそれに嫌な予感がしつつ、封を切って中身を確認すれば、その内容に怒りから手紙を持つ手が震えた。
屋敷の使用人は、あれから全員解雇され、新しく入った使用人達は伯父の言いなりだということ。セバスとシンディも追い出されそうになり、居座るつもりなら金を払えと金銭を要求されたこと。馴染みの料理長が解雇されたことで、食事も満足に与えられなくなったこと。伯父の妻であるマリエッタと娘のジェイミーが、これ見よがしに母やフローラのドレスを身につけ、わざわざフローラに嫌味を言いに来ること。フローラがセバスとシンディを心配して、二人だけでも屋敷を離れてほしいと言い出し、心を痛めていること──切羽詰まった内容が、乱れた文字で書かれていた。
「ふざけるな……っ!」
フツフツと湧く怒りに眩暈がした。こんなに強い激情を抱いたのは初めてで、手にした手紙がグシャリと潰れた。
「ダニエル、大丈夫か?」
「……あんまり大丈夫じゃないかも」
怒りを抑え、横で心配そうに見つめるカリオに潰れた手紙を渡す。受け取ったカリオはそれに目を通すと、ダニエルと同じように手紙を握り潰した。
「なんだこの胸糞の悪い連中は……!!」
我がことのように怒ってくれるカリオに少しだけ激情が和らぐが、それで問題が解決した訳じゃない。今になって胸に湧くのは、家を離れてしまった後悔だけだった。
「やっぱり、スクールに編入するべきだった……」
自分が側にいれば、理不尽な要求に対して言い返すくらいはできたかもしれない。そうでなくても、フローラの盾になることくらいはできた。ようやく落ち着き始めた精神が乱れる中、カリオはぐしゃぐしゃになった手紙を机に叩きつけた。
「ダニエル、家のことで頼りたくないのは分かるが、殿下に話くらい聞いてもらえ。王命のせいでこうなってるんだ。多少文句を言ったっていいはずだ」
「カリオ、その言い方は良くない。それに、殿下には関係ないことだ」
カリオの言葉は、ずっと胸の内に押し込めていた『頼ってはいけない』という考えを大きく揺らした。
殿下に責任がないのは分かっている。文句を言うつもりもない。なにより、ただのクラスメイトでしかない殿下の権力に頼るのはいけないことだと、ずっと己に言い聞かせていた。
「関係なくても、話を聞いて、助言くらいはしてくれるだろう! 何もしないで諦めるより、ダメで元々でいいから話してこい!」
カリオに肩を掴まれ、手の平から伝わる温もりと強い眼差しに、少しだけ気持ちが前向きになる。
「……そうだね。殿下に、お話だけしてみるよ」
「ああ、そうしろ。それでダメだったら、お前んちの事情を話すことになるが、俺の親父に手紙を書いて知恵を借りる。ただ領地が遠いせいで、手紙の往復だけでも三週間掛かっちまうけど……」
「ありがとう、カリオ。そう言ってくれるだけで心強いよ」
カリオが本気で心配してくれているのが伝わり、気持ちが落ち着き始める。せめてこれ以上の心配をさせないように、やれることはやるべきだ。大きく息を吸い込むと、不安ごと体から押し出すように、深く息を吐き出した。
翌日、選択科目として受講するようになった騎士科の授業に向かいながら、殿下の姿を探した。
騎士科を選択したのは、父も学園の卒業者で、同じく騎士科を受講していたからだ。父の面影を追いかけるように始めた騎士としての鍛錬だが、元々体を動かすのが好きなこともあり、今は純粋に授業を楽しんでいた。
この科目は殿下も受講している。なんとか話す機会をいただけないだろうかと辺りを見回せば、離れた場所に殿下の姿を見つけた。柔らかなミルクティー色の髪を靡かせて歩く姿に目を留めた瞬間、殿下の澄んだ青色の瞳と目が合い──なぜか微笑まれた。
「……?」
なぜ笑顔を向けられたのか分からず、戸惑いながらもその身に近寄れば、殿下もこちらに近づいてきた。
(え? え? なんで?)
状況が飲み込めず、混乱から足が止まった。ダニエルがその場で立ち竦んでいると、目の前まで来た殿下の声が涼やかに響いた。
「僕に何かお話かな、ダニエル君」
声を掛けようとしていたのを見透かしていたかのような発言に、驚きから目を見張れば、殿下が人差し指を口元でそっと立てた。
「授業が終わったら、お茶に付き合っておくれ。僕のサロンで待ち合わせでもいいかな?」
『そこで話を聞こう』という意味の発言に動揺するも、体は反射的にコクリと頷いていた。
思わぬ展開に、心ここに在らずのまま授業を終えると、ダニエルは急いで殿下のプライベートサロンへと向かった。扉の前には付き人がいて、通されるまま中に入れば、窓際の席には既に殿下の姿があった。
「遅れて申し訳ありません!」
「いや、僕も今来たところだよ。掛けてくれ」
「失礼致します」
促されるまま殿下と向かい合う形で椅子に腰掛ければ、殿下の従者であるジルドがワゴンを押して現れた。温かな紅茶が注がれたカップをダニエル達の前に置くと、彼は静かに退室していった。
(まさか、殿下と一対一でお話することになるなんて……)
シュヴェリア王国の第一王子を目の前に、脳みそが遅れて現実を理解する。豊かな紅茶の香りが漂う中、一瞬の沈黙が流れたあと、殿下がおもむろに口を開いた。
「最近、リンベルト家を名乗る者達があちこちの社交界に参加しているらしい。……あまり良い噂は聞かないよ」
瞬間、自分でも表情が崩れたのが分かった。膝の上に置いた手をキツく握り締めれば、殿下が困ったように微笑んだ。
「僕の耳にまで届くぐらいだから、かなりのことだろう。何か話したそうにしていたのも、そのことだろう? よければ話を聞かせてくれないかな?」
どうにか話を聞いてもらおうと思っていたのに、わざわざ殿下から声を掛けてくださった。ただのクラスメイトでしかないと思っていたダニエルにとって、それは信じ難いことであり、同時に救いの光が見えたようで、緊張の糸がフツリと切れた。
そこからは両親が亡くなってからの出来事から、セバスの手紙に書かれていた内容まで、すべて包み隠さず話した。逼迫した経済状況も問題だが、なにより妹に食事すらまともに与えてもらえないこと、妹を守るために残ってくれた使用人達にまで金銭を要求していること等、恥などと言っていられない伯爵家の現状について、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
殿下はその間、口を挟むことなく、静かに相槌を打ちながら耳を傾けてくれた。ようやく話し終え、喉がカラカラになる頃には、カップから立ち昇っていた湯気は消えていた。
「話しにくいことを話してくれてありがとう。辛い思いをさせたね」
「いいえ。お耳を汚すようなことを申し上げ、大変申し訳ございませんでした。……殿下のお力に頼るつもりはありませんでしたが、何かお知恵を貸していただければと、期待してしまいました」
「ダニエル君は真面目だね。まぁ実際、僕に頼るのはいつも正解とは限らないけれど、今回の件では話してくれて正解だよ」
「え?」
「当主代行というのはね、その名の通り、〝代行〟なんだ」
含みのある言に、疑問を混ぜて殿下を見遣れば、殿下が『当主代行』について改めて説明してくれた。
当主代行とは、代行者として一時的に当主の権利を得るが、同時に正式な後継者に対して、保護者としての務めを果たす義務が課せられる。保護者としての義務を怠り、後継者に対してなんらかの損害を与えた場合、当主代行としての役目は剥奪される。王命だからこそ、権利があれば義務があるのだと殿下は語った。
「……知りませんでした」
「まぁ、あまり無いことだからね。大抵は当主が亡くなっても奥方は健在か、子が成人しているか、もしくは幼い跡取りしかいなくて、自然と他者の手に渡ってしまうものだ。だけどダニエル君は、この学園に通っていて、次期当主として能力的に問題ないと判断されたんだろう。だからこそ、特例として一時的に代行者を立てて、君が成人するのを待とうというんだ」
サラリと言われたが、自分が次期当主として評価されているのだと知り、こんな時だというのに嬉しくなる。と同時に、伯父をこのまま伯爵家から追い出せるのでは、という淡い期待を抱いたが、それには難しい顔をされてしまった。
「リンベルト家には、他に成人している血縁者がいないからね。そうなると一時的に爵位を他家に預けることになる。母方で頼れる親族があって、信用できる者であれば問題ないけれど、母君は他国の出身で、出自も分からないのだろう? 代行者を排しても預かる家が無いとなると、最悪爵位を国へ返上することになるね」
「そう、ですか……」
流石にそこまで上手くいく話ではないらしい。再び落ち込むも、そんなダニエルを励ますように、殿下の明るい声が場を和ませた。
「ひとまず、当主代行としての務めが果たされていないのは分かった。妹君も、ダニエル君と同じく後継者候補だからね。その子にご飯も食べさせないなんて、立派な王命違反だよ。世話人をつけるのは保護者の義務だし、給金を支払わないまま使用人に労働をさせるのも違法だ。本当なら一発でお払い箱だけど、それはそれで君達が困るだろう? 抜き打ち監査の名目で使いの者を送ろう。王命違反で代行者としての権利を剥奪するぞ、と言って脅せば、少なからず妹君の生活は保証されるはずだよ」
「ありがとうございます……!」
「お礼はいらないよ。これは王命に対して、違反があったから咎めるんだ。君が僕を頼った訳じゃないし、僕は知った事実に対し、当たり前のことをしただけだ」
「……それでも、結果的に私達は救われました」
「うん。結果的にね。良かったね」
殿下の言わんとすることと、自分への気遣いに、目頭が熱くなる。ああ、話して良かった……安堵から滲んだ視界を隠すように、そっと瞳を伏せた。
「しかし、当主代行の誓約書にはその辺りのこともきちんと書いてあって、納得した上でサインをしてもらうんだけどね。君の伯父上とやらは、文字が読めないのかな?」
冷めてしまった紅茶に口を付けながら、直球で伯父を馬鹿にする殿下に、胸がすっとする。不安が消え、軽くなった胸に改めて希望を宿すと、先ほどは言えなかった自身の目標を殿下に告げた。
「本当に、ありがとうございます。殿下のおかげで、このまま学園に通い続けることが……プレジデントになりたいという目標のために、まだ頑張ることができます」
「ダニエル君は、プレジデントを目指しているのかい?」
「はい。自分自身のためでもありますが、父と母と……あとは屋敷に残してきてしまった妹にとって、せめて誇れるような兄になりたくて……」
ほんの少しの気恥ずかしさを混ぜて伝えれば、殿下は目を丸くしたあと、ふわりと表情を和らげた。
「素敵な目標だね。僕も応援するよ。二年後、共にプレジデントに選ばれたら嬉しく思うよ」
殿下からの温かな励ましの言葉を最後に、和やかに対談の時間は終わりを迎えた。
数日後、セバスから再び手紙が届いた。王宮の使いの者がどうやって伯父を脅したのかは不明だが、シンディは改めてフローラ付きの侍女として雇われ、食事も問題なく用意されるようになったという。綴られた文字から伝わってくる安堵の念に胸を撫で下ろすと、カリオと一緒になって届いた手紙を手に喜び合った。
心配事が減り、幾分心穏やかに過ごせるようになって暫く、ついに前期試験の結果が発表される日を迎えた。
試験当日は、直前まで緊張で胃が痛かったが、スラスラと問題が解けるにつれ緊張は消え、途中からは楽しくなってきたほどだった。多少躓く部分もあり、悔しい思いもしたが、それでも確実な手応えがあった。
目一杯努力した。きっと結果は悪くないはずだ。そう己に言い聞かせると、暴れる胸の鼓動を手で押さえ、祈るような気持ちで成績上位者五名の名前が張り出される掲示板の前に立った。
もしここに名前が無かったら、その時点でスカラー制度の適用対象外となり、通学し続けるのは困難になる。緊張と恐怖でなかなか顔を上げることができない中、大きく息を吸い込むと、意を決して顔を上げた。
(……あ……)
痛いほど脈打つ心臓が、ドクン、と一際大きく跳ねた。
(……あった)
『五位 ダニエル・リンベルト』
自分の名前が、そこにあった。
瞬間、緊張から冷たくなっていた指先に、ジンと熱が戻ったのが分かった。体内を駆け巡った歓喜と安堵は凄まじく、強張っていた体から力が抜け、フラリと足元がふわついた。
僅かに蹌踉めいたその時、傍らを通り過ぎる人影に気づき、咄嗟に踏ん張った。慌てて身を引けば、そこにいたのはエドワルド・ヴァシュフォードだった。
接点がある訳ではない。関わりもない。ただ一方的に目標として意識していた彼がそこにいたことに、なんとも言えない気まずさからギクリとした。
「……」
エドワルドから、何か言われることはなかった。だが互いの視線が絡んだほんの一瞬、無表情の冷たい瞳に射抜くように見つめられ、緊張が走った。
「っ……」
反射的に身を固くしたが、絡んだ視線は瞬きの内に解け、エドワルドは無言のままその場を立ち去った。予想外の接触に驚きつつ、体の強張りを解くと、ホッと息を吐いた。
(……ヴァシュフォード様は、今回も三位だったな)
自分とは約二十点差の三位。届きそうで届かないもどかしさと、未だ落ち着かない胸を押さえながら、去っていく彼の背を見つめた。
その後、心配してくれていた担当教師からは労いの言葉を、殿下からも「よく頑張ったね」とこっそりお褒めの言葉をもらった。
努力してきた日々が報われた。そんな喜びと、誇らしい気持ちでいっぱいで、次の試験も頑張ろうという意欲と活力が自然と湧いた。
満たされるような達成感と充実感を胸に宿したまま、学園は長期休暇を迎えた。
◇◇◇◇◇
「お兄様、おかえりなさい!」
「ただいま、フローラ」
「おかえりなさいませ、ダニエル様」
「セバス、シンディもただいま。留守をありがとう」
帰省当日、学園まで迎えが来るのか心配だったが、セバス自らが御者となり、馬車で迎えに来てくれた。
馬車は伯爵家の紋章が入った物で、よく伯父が何も言わなかったなと思えば「紋章無しのボロ馬車で迎えに行ったと知れれば、今度こそ咎めを受けますよ」と、忠告したら「勝手にしろ!」と言われたので勝手にしたらしい。大丈夫かと心配になったが、セバスが問題ないと言うので信じることにした。
そうして半年ぶりに帰ってきた屋敷の離れは、学園に戻る前日に一日過ごしただけなのに妙に懐かしく、「帰ってきた」と感じられた。
扉を開けると同時に腕の中に飛び込んできたフローラを抱き締め、再会の喜びを分かち合う。
「フローラ、ご飯はちゃんと食べられているかい? 酷いことをされたり、言われたりしていない?」
「大丈夫よ。ご飯もきちんと食べているし、心配なさらないで。それより、お兄様はお勉強はどう?」
「ちゃんと目標以内に入れたよ。今の成績を維持できれば、プレジデントも夢じゃない」
「本当!? すごいわ、お兄様!」
嬉しそうに声を弾ませるフローラの様子に、自然と笑みが零れた。今日から三週間は、フローラやセバス、シンディと共に過ごせる。それがとても嬉しかった。
食事は変わらず皆で一緒に食べているようで、四人で共に食卓を囲んだ。メインの卵料理とパンとスープが並んだ食卓は、心配していたほど質素ではなく、きちんと腹が満たされるだけの量を食べられている様子にホッとした。
和やかに食事をとりながら、自分が不在にしていた間の過ごし方についてフローラに尋ねた。
「最近はシンディに習って、家事や料理をするようになったの。今日のお夕飯も、少しお手伝いしたのよ」
「え?」
思ってもみなかった発言に、フローラを見つめた。
「どうして? 食事は用意されてるんじゃ……」
「実はね、お兄様がいない間、何度もここを追い出されそうになったの。あ、今は大丈夫よ。王宮の人が来てくれて、ここに住む権利が私にちゃんとあるって仰ってくれて、それからはとっても平和。でもその時に、もしここを追い出されたら平民になるんだって、初めて実感したの。考えたくはないけど、万が一に備えて、私も自分にできることは身につけようって思って……お料理もできるように、今は食材だけもらって、食事はここで作ってるの。色々勉強中なのよ」
「そんな……ごめん。フローラにばかり、辛い思いをさせて……」
見れば、フローラの白くすべらかな手は以前よりも荒れていた。妹にばかり負担を掛けている不甲斐なさから、手にしたスプーンが下がる。だがそんなダニエルに対して返ってきたのは、凛としたフローラの声だった。
「お兄様、そこは謝らないで褒めてくださいませ!」
「……偉いね、フローラ。いっぱい頑張ってくれたんだね。兄様は誇らしいよ」
「ありがとう、お兄様。嬉しいわ」
フローラの眩しいほどの笑顔を前に、なんとか笑い返すも、不安は拭えない。無理して強がっているのではないか、そんな心配が顔を出すも、それを悟られまいと、努めて明るい声で話を続けた。
「頑張っているフローラに、ご褒美をあげないと。何か欲しい物はある? ドレスとかは難しいけど、用意できる物なら……」
「お兄様、何もいらないわ。大切なお金でしょう? 無駄遣いは良くないわ」
「フローラ、これは無駄遣いじゃないよ」
「いいの。ご褒美なら、お兄様がお勉強を教えてくださいな。家庭教師の先生にも会えなくなってしまったから、お勉強ができなくて……お兄様がお休みの間、私の家庭教師になって?」
「分かった。たくさんお勉強しような。ついでにダンスの練習もしようか」
「私、まだステップを覚えていないの……」
「お嬢様、女性パートのステップなら私がお教えできます。一緒にお稽古しましょう」
しょんぼりと俯くフローラに、すかさずシンディが助け舟を出す。元子爵令嬢のシンディなら、貴族子女としての作法もフローラに教えてくれるだろう。シンディの言葉にパッと表情を明るくしたフローラが、嬉しげに頷いた。
翌日からはフローラに勉強を教えたり、ダンスの練習をしたり、遊ぶように学びながら、毎日楽しい時間を過ごした。フローラのいない所で、セバスとシンディにも自分が不在にしている間の話を聞いたが、特に問題は起きていないようだった。
「伯父には、あれから理不尽な要求はされていないか?」
「ご安心ください。監査官の方がいらっしゃってからは、あちらも大人しいものです。何かあれば、改めてご報告致します」
「良かった。二人にも、たくさん迷惑を掛けてすまない」
「ダニエル様、そのように仰らないでくださいませ。私もセバスも、自らの意志で、好んでお二人のお側にいるのです」
「……ありがとう。本当に、二人がいてくれて助かったよ」
自分一人では、フローラを守ってやることもできなかった。当たり前のように側にいてくれるセバスとシンディの存在が、今は何よりも心強かった。
それから一度街に出かけると、ハンドクリームと大量の菓子を購入した。菓子はフローラが勉強を頑張ったご褒美として一緒に食べ、ハンドクリームは荒れてしまった小さな手を労わるように、丁寧に塗り込んだ。
「お兄様ったら、クリームくらい自分で塗れるわ」
「私がしたいんだ。付き合っておくれ、レディ」
「ふふ、はーい」
可愛らしい返事だが、その目は僅かに潤んでいた。今よりもっと幼い頃、母はよく自分やフローラの手に、こうしてクリームを塗ってくれた。母の両手が優しく手や頬を包み込む感触も、温もりも、まだ鮮明に覚えている。フローラと二人、無言になりながら、もう二度と戻らない懐かしい思い出をなぞり、目を赤くした。
(早く、大人になりたいな……)
成人まであと二年半。早く大人になって、フローラも、父と母が残してくれたものも、セバスやシンディも、守れるようになりたい。心底そう願った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、長期休暇を終え、学園へと戻る日を迎えた。フローラを残していく不安は拭えなかったが、セバスやシンディを信じ、案じる言葉は飲み込んだ。
「いってらっしゃい、お兄様。お体に気をつけて」
「いってきます、フローラ。あまり無理をしないように、何かあったら、すぐに手紙を書くんだよ」
街に出かけた際、ハンドクリームや菓子と一緒に、便箋も購入した。春色の美しい花が描かれたそれを、フローラは「綺麗」と言って喜んでくれた。できることなら、その美しい花模様の中に、悲しい言葉が書かれることがありませんように、と祈りを込めて贈った。
抱擁を交わし、離れ難い気持ちをなんとか振り切ると、馬車に乗り込んだ。セバスの手配してくれた御者がゆっくりと走らせる馬車に揺られ、小さくなっていく三人の影を見つめる。こうして離れる瞬間が、一番苦しい。切なく軋む胸を誤魔化すように、無理やり気持ちを切り替えた。
(学園に戻ったら、もっと勉強を頑張ろう)
自分にできることはそれだけだ。無力さに押し潰されそうになりながら、その唯一さえ手離してしまうことがないようにと、ダニエルは痛いほど拳を握り締めた。
◇◇◇◇◇
学園に帰ってきた翌日から、すぐに授業が始まった。休暇気分が抜け、学生としての感覚が戻ってくると、放課後は図書館へ通うようになった。
既に基本問題や基礎知識は身につけた。あとは応用問題への対応力や、より深い知識を増やすことが大切だろう。そう思い、資料や知識の宝庫である図書館へと足を運んだ。
掲げた目標のためには、今までと同じように過ごしているだけでは足りないのだ。奥まった席の一番端に腰掛けてノートを開くと、ダニエルは一心不乱にペンを走らせた。
その日から、来る日も来る日も、放課後は図書館へと向かった。教科書には書かれていない範囲のことも、専門書の中には書かれている。特に他国の文化や魔法についての知識を得るのは純粋に楽しく、夢中になって本を読み漁りながら、自身の糧にしていった。
そうして図書館へ通うようになって一月が過ぎた頃、気になって手にした本の中に、他国の言語で書かれている物があった。
(これも読めるようになりたいな)
外国語は選択科目として受講できたのだが、ダニエルは騎士科と領地経営科を選択していたため選べなかった。試験には関係ないが、他国の言語を身につけることで、何かの役に立つこともあるはずだ。まずは翻訳するところから始めてみよう、そう思い立つと、辞書を求めて室内を彷徨った。
人気のない奥まった書棚の間、辞書の類が揃えられた区画を見つけると、ダニエルは本の背表紙に目をすべらせた。自身の目線よりも高い書棚を見上げ、端から端へと視線を動かす。流れ作業のような動作に集中するあまり、周囲への注意力が散漫になっていた。
(あ、あった)
目的の本を見つけ、手に取ろうとした瞬間、掠めるように何かが腕に触れ、初めてそこに人がいることに気がついた。
「あ、すみませ──」
慌ててそちらに顔を向けた瞬間、驚きのあまり、つい大袈裟に後退ってしまった。
「……不注意だな」
「申し訳ございません!」
不機嫌さを隠そうともしない声に頭を下げながら、思わぬ人物との邂逅に、頭は混乱していた。
(なんで、こんな場所に……)
エドワルド・ヴァシュフォード──優秀な彼にはおよそ無用と言えるであろう書物ばかりが並んだ図書館の一角での接触に、萎縮よりも驚きが勝った。
「大変失礼致しました」
未だに胸の鼓動は落ち着かなかったが、それでも身についた礼儀から、きっちりと頭を下げ直す。同級生という以外の接点はなく、言葉を交わした記憶もない。そんな中で、目標として一方的にライバル視してしまっている引け目から、そっとその場を離れようとした時だった。
「随分と必死だな」
「……え?」
踵を返そうとした背に掛けられた声に、ピタリと足を止める。言葉の意味よりも、話し掛けられたことが信じられなくて、呆けた返事をしてしまった。振り返れば、普段と変わらぬ無表情で、手元の本に視線を落としたままのエドワルドが言葉を続けた。
「そんなにプレジデントになりたいのか?」
(……なぜ、そのことを)
接点のないエドワルドが、なぜ自分の目標を知っているのか?
不自然極まりない発言に対する不信感に加え、秘め事を無理やり暴かれたような恥ずかしさと、どこか馬鹿にするような物言いに、返す言葉には棘が混じった。
「……私が勝手に目標としているだけです。何か、ご迷惑をお掛けしましたでしょうか?」
「お前が何を目標にしようとどうでもいいが、一方的にライバル視されているのは気持ち悪い。不愉快だ」
無遠慮な言葉の刃が胸を刺した。言葉を交わしたのは今日が初めてのはずだが、どうやら自分は彼に嫌われているらしい。
今まで他者からあからさまに嫌われたことがなかっただけに、多少傷つくものはあった。だが、自分が彼に対して一方的な敵対心を向けていたのがそもそもの原因なら、返す言葉もなかった。
「……大変申し訳ございませんでした。今後はヴァシュフォード様のご不快にならぬよう、気をつけます」
再度頭を下げ、一刻でも早くこの場を立ち去ろうと、彼に対して背を向けた。
「たかだかプレジデントになったところで、なんの自慢にもならないだろうに」
踵を返した背に、追い討ちをかけるように投げつけられた言葉。些細な一言だと分かっていた。それでも、亡き両親のため、妹のため、自分自身のために抱いた目標を馬鹿にされたようで、気づけば振り返って反論していた。
「そうですね、優秀な公爵様にとっては『たかだか』でしょう。なんの自慢にもならない些事でしょう。ですが、私個人の目標を馬鹿にされる筋合いはありません」
昂る感情を押し殺し、平静を保とうとするも、発する声は微かに震えていた。
「大切な家族のために頑張って、何が悪いのですか? 見苦しいと思うのであれば、お目汚しをして大変申し訳ございませんでした。今後はなるべく公爵様の視界に入らぬよう努めますので、公爵様も私のことはいない者としてお考えください」
嫌味ったらしく『公爵様』と呼んでしまったが、後悔はない。胸に渦巻いた憤りを一気に吐き出すと、足早にその場を立ち去った。
エドワルドがなぜ自分の目標について知っていたのかは、この際どうでもいい。だが、せめて一つでも誇れるものを、と掲げた自身の目標を否定された憤りは、どうしても抑えることができなかった。
(……今日はもう帰ろう)
自習机に戻り、広げていた資料やノートを手早くまとめると、エドワルドとまた鉢合わせてしまう前に図書館をあとにした。
この日を境に、ダニエルはエドワルドを明確に避けるようになった。とはいえ、元々接点がなかったこともあり、傍目には何も変わったようには見えなかっただろう。その上で、なるべくエドワルドの視界に入らぬよう努め、彼のことをライバル視し、意識するのもやめた。
エドワルドの物言いにはカチンときたが、そもそも競うような気持ちでいたのがいけなかったのだと反省し、純粋に目標のために努力しようと考えを改めた。
それから数週間後、エドワルドに対して蟠りを残したまま過ごしていたある日のこと、ダニエルは再び殿下から声を掛けられた。
「すまない、ダニエル君。君のことをエドワルドに話したのは僕だ」
以前も訪れたプライベートサロンに呼び出され、席に着いて早々、殿下から謝罪され、ダニエルは固まった。
「え、と……?」
あまりにも予想外の謝罪に返事に困っていると、殿下が表情を曇らせた。
「エドワルドに、嫌なことを言われただろう?」
「え……いえ……え?」
「いいんだ。何があったのかは、アイツから聞いているよ」
殿下がエドワルドとの間に起きたことを知っていることもそうだが、彼のことを親しげに『アイツ』と呼んでいることに驚く。それが顔に出ていたのだろう。殿下が苦笑混じりに教えてくれた。
「僕とエドワルドは幼馴染みなんだ。あれがあんまり人前で話さないものだから、知らない者も多いけどね」
「左様でございましたか……」
言われてみれば、エドワルドの家は公爵の位で、王家に近しい存在だ。幼馴染みという関係もおかしくはないが、常に無表情のエドワルドと、いつもにこやかな殿下の組み合わせというのは、なかなか想像しづらいものがあった。
「今回のことは僕が軽率だった。会話の弾みで君の話題になったんだが、アイツが他者に興味を示したのが初めてだったものでね。物珍しさから、つい君の家の事情について話してしまったんだ。本当にすまなかった」
「あの、恐れながら、一体どのような弾みで私の話に……?」
「お詫びと言ってはなんだが、エドワルドのことを教えてあげよう」
「え? いえ、結構で……」
質問に答えてもらえぬまま、話がどんどん進む。詫びとしてそれはおかしい、と止めようとする間もなく、殿下からエドワルドの家の事情について聞かされることとなってしまった。
エドワルドには、五歳年上の兄がいた。だが生まれた時から病弱で、このままでは爵位を継ぐのは難しいだろうと心配した公爵夫妻は、兄の代わりとするべく、エドワルドを産んだ。
生まれた時から次期公爵となるべく育てられたエドワルドに、両親は厳しく接した。『兄の代わり』でしかなかったエドワルドは、その役目を強要されるだけ。両親の愛情は、すべて病弱な兄へと注がれた。そんな家庭環境は、エドワルドの子どもらしい思考を著しく歪め、感情を奪った。
殿下と交流を持ったことで多少は改善されたものの、他者への興味や関心は薄く、エドワルドの『兄の代用品として生きるだけ』という考え方は変わらないままだったそうだ。
「エドワルドを庇うつもりはないんだが、あれは不器用で、少しばかり人と関わるのが下手なんだ。経験がない分、君が妹君やご両親のために頑張りたいという気持ちを、理解できないんだろう。エドワルドにとって、兄や家のために努力することは、生まれた時から課せられた義務で、やりたくもないことを生涯やらされるだけの鎖でしかなかったからね」
「……」
「先にも言ったが、エドワルドを庇うつもりはないよ。誰が何を大切にしているかなんてものは人それぞれだ。自分が理解できないからといって否定してはいけないと、今までも散々言ってきたんだが……本当にすまなかった」
「いえ、殿下に謝っていただくことではございません」
「原因を作ってしまったのは僕だからね、謝らせておくれ。嫌な思いをさせて本当にごめんよ。まぁ、アイツも一応悪いことをしたとは思っているみたいなんだ。でなければ、僕の質問に正直に答えたりしないだろうからね」
家を離れ、三ヶ月が過ぎようとした頃、カリオと自室で過ごしていると、セバスからの手紙を受け取った。寮母が自室まで届けてくれたそれに嫌な予感がしつつ、封を切って中身を確認すれば、その内容に怒りから手紙を持つ手が震えた。
屋敷の使用人は、あれから全員解雇され、新しく入った使用人達は伯父の言いなりだということ。セバスとシンディも追い出されそうになり、居座るつもりなら金を払えと金銭を要求されたこと。馴染みの料理長が解雇されたことで、食事も満足に与えられなくなったこと。伯父の妻であるマリエッタと娘のジェイミーが、これ見よがしに母やフローラのドレスを身につけ、わざわざフローラに嫌味を言いに来ること。フローラがセバスとシンディを心配して、二人だけでも屋敷を離れてほしいと言い出し、心を痛めていること──切羽詰まった内容が、乱れた文字で書かれていた。
「ふざけるな……っ!」
フツフツと湧く怒りに眩暈がした。こんなに強い激情を抱いたのは初めてで、手にした手紙がグシャリと潰れた。
「ダニエル、大丈夫か?」
「……あんまり大丈夫じゃないかも」
怒りを抑え、横で心配そうに見つめるカリオに潰れた手紙を渡す。受け取ったカリオはそれに目を通すと、ダニエルと同じように手紙を握り潰した。
「なんだこの胸糞の悪い連中は……!!」
我がことのように怒ってくれるカリオに少しだけ激情が和らぐが、それで問題が解決した訳じゃない。今になって胸に湧くのは、家を離れてしまった後悔だけだった。
「やっぱり、スクールに編入するべきだった……」
自分が側にいれば、理不尽な要求に対して言い返すくらいはできたかもしれない。そうでなくても、フローラの盾になることくらいはできた。ようやく落ち着き始めた精神が乱れる中、カリオはぐしゃぐしゃになった手紙を机に叩きつけた。
「ダニエル、家のことで頼りたくないのは分かるが、殿下に話くらい聞いてもらえ。王命のせいでこうなってるんだ。多少文句を言ったっていいはずだ」
「カリオ、その言い方は良くない。それに、殿下には関係ないことだ」
カリオの言葉は、ずっと胸の内に押し込めていた『頼ってはいけない』という考えを大きく揺らした。
殿下に責任がないのは分かっている。文句を言うつもりもない。なにより、ただのクラスメイトでしかない殿下の権力に頼るのはいけないことだと、ずっと己に言い聞かせていた。
「関係なくても、話を聞いて、助言くらいはしてくれるだろう! 何もしないで諦めるより、ダメで元々でいいから話してこい!」
カリオに肩を掴まれ、手の平から伝わる温もりと強い眼差しに、少しだけ気持ちが前向きになる。
「……そうだね。殿下に、お話だけしてみるよ」
「ああ、そうしろ。それでダメだったら、お前んちの事情を話すことになるが、俺の親父に手紙を書いて知恵を借りる。ただ領地が遠いせいで、手紙の往復だけでも三週間掛かっちまうけど……」
「ありがとう、カリオ。そう言ってくれるだけで心強いよ」
カリオが本気で心配してくれているのが伝わり、気持ちが落ち着き始める。せめてこれ以上の心配をさせないように、やれることはやるべきだ。大きく息を吸い込むと、不安ごと体から押し出すように、深く息を吐き出した。
翌日、選択科目として受講するようになった騎士科の授業に向かいながら、殿下の姿を探した。
騎士科を選択したのは、父も学園の卒業者で、同じく騎士科を受講していたからだ。父の面影を追いかけるように始めた騎士としての鍛錬だが、元々体を動かすのが好きなこともあり、今は純粋に授業を楽しんでいた。
この科目は殿下も受講している。なんとか話す機会をいただけないだろうかと辺りを見回せば、離れた場所に殿下の姿を見つけた。柔らかなミルクティー色の髪を靡かせて歩く姿に目を留めた瞬間、殿下の澄んだ青色の瞳と目が合い──なぜか微笑まれた。
「……?」
なぜ笑顔を向けられたのか分からず、戸惑いながらもその身に近寄れば、殿下もこちらに近づいてきた。
(え? え? なんで?)
状況が飲み込めず、混乱から足が止まった。ダニエルがその場で立ち竦んでいると、目の前まで来た殿下の声が涼やかに響いた。
「僕に何かお話かな、ダニエル君」
声を掛けようとしていたのを見透かしていたかのような発言に、驚きから目を見張れば、殿下が人差し指を口元でそっと立てた。
「授業が終わったら、お茶に付き合っておくれ。僕のサロンで待ち合わせでもいいかな?」
『そこで話を聞こう』という意味の発言に動揺するも、体は反射的にコクリと頷いていた。
思わぬ展開に、心ここに在らずのまま授業を終えると、ダニエルは急いで殿下のプライベートサロンへと向かった。扉の前には付き人がいて、通されるまま中に入れば、窓際の席には既に殿下の姿があった。
「遅れて申し訳ありません!」
「いや、僕も今来たところだよ。掛けてくれ」
「失礼致します」
促されるまま殿下と向かい合う形で椅子に腰掛ければ、殿下の従者であるジルドがワゴンを押して現れた。温かな紅茶が注がれたカップをダニエル達の前に置くと、彼は静かに退室していった。
(まさか、殿下と一対一でお話することになるなんて……)
シュヴェリア王国の第一王子を目の前に、脳みそが遅れて現実を理解する。豊かな紅茶の香りが漂う中、一瞬の沈黙が流れたあと、殿下がおもむろに口を開いた。
「最近、リンベルト家を名乗る者達があちこちの社交界に参加しているらしい。……あまり良い噂は聞かないよ」
瞬間、自分でも表情が崩れたのが分かった。膝の上に置いた手をキツく握り締めれば、殿下が困ったように微笑んだ。
「僕の耳にまで届くぐらいだから、かなりのことだろう。何か話したそうにしていたのも、そのことだろう? よければ話を聞かせてくれないかな?」
どうにか話を聞いてもらおうと思っていたのに、わざわざ殿下から声を掛けてくださった。ただのクラスメイトでしかないと思っていたダニエルにとって、それは信じ難いことであり、同時に救いの光が見えたようで、緊張の糸がフツリと切れた。
そこからは両親が亡くなってからの出来事から、セバスの手紙に書かれていた内容まで、すべて包み隠さず話した。逼迫した経済状況も問題だが、なにより妹に食事すらまともに与えてもらえないこと、妹を守るために残ってくれた使用人達にまで金銭を要求していること等、恥などと言っていられない伯爵家の現状について、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
殿下はその間、口を挟むことなく、静かに相槌を打ちながら耳を傾けてくれた。ようやく話し終え、喉がカラカラになる頃には、カップから立ち昇っていた湯気は消えていた。
「話しにくいことを話してくれてありがとう。辛い思いをさせたね」
「いいえ。お耳を汚すようなことを申し上げ、大変申し訳ございませんでした。……殿下のお力に頼るつもりはありませんでしたが、何かお知恵を貸していただければと、期待してしまいました」
「ダニエル君は真面目だね。まぁ実際、僕に頼るのはいつも正解とは限らないけれど、今回の件では話してくれて正解だよ」
「え?」
「当主代行というのはね、その名の通り、〝代行〟なんだ」
含みのある言に、疑問を混ぜて殿下を見遣れば、殿下が『当主代行』について改めて説明してくれた。
当主代行とは、代行者として一時的に当主の権利を得るが、同時に正式な後継者に対して、保護者としての務めを果たす義務が課せられる。保護者としての義務を怠り、後継者に対してなんらかの損害を与えた場合、当主代行としての役目は剥奪される。王命だからこそ、権利があれば義務があるのだと殿下は語った。
「……知りませんでした」
「まぁ、あまり無いことだからね。大抵は当主が亡くなっても奥方は健在か、子が成人しているか、もしくは幼い跡取りしかいなくて、自然と他者の手に渡ってしまうものだ。だけどダニエル君は、この学園に通っていて、次期当主として能力的に問題ないと判断されたんだろう。だからこそ、特例として一時的に代行者を立てて、君が成人するのを待とうというんだ」
サラリと言われたが、自分が次期当主として評価されているのだと知り、こんな時だというのに嬉しくなる。と同時に、伯父をこのまま伯爵家から追い出せるのでは、という淡い期待を抱いたが、それには難しい顔をされてしまった。
「リンベルト家には、他に成人している血縁者がいないからね。そうなると一時的に爵位を他家に預けることになる。母方で頼れる親族があって、信用できる者であれば問題ないけれど、母君は他国の出身で、出自も分からないのだろう? 代行者を排しても預かる家が無いとなると、最悪爵位を国へ返上することになるね」
「そう、ですか……」
流石にそこまで上手くいく話ではないらしい。再び落ち込むも、そんなダニエルを励ますように、殿下の明るい声が場を和ませた。
「ひとまず、当主代行としての務めが果たされていないのは分かった。妹君も、ダニエル君と同じく後継者候補だからね。その子にご飯も食べさせないなんて、立派な王命違反だよ。世話人をつけるのは保護者の義務だし、給金を支払わないまま使用人に労働をさせるのも違法だ。本当なら一発でお払い箱だけど、それはそれで君達が困るだろう? 抜き打ち監査の名目で使いの者を送ろう。王命違反で代行者としての権利を剥奪するぞ、と言って脅せば、少なからず妹君の生活は保証されるはずだよ」
「ありがとうございます……!」
「お礼はいらないよ。これは王命に対して、違反があったから咎めるんだ。君が僕を頼った訳じゃないし、僕は知った事実に対し、当たり前のことをしただけだ」
「……それでも、結果的に私達は救われました」
「うん。結果的にね。良かったね」
殿下の言わんとすることと、自分への気遣いに、目頭が熱くなる。ああ、話して良かった……安堵から滲んだ視界を隠すように、そっと瞳を伏せた。
「しかし、当主代行の誓約書にはその辺りのこともきちんと書いてあって、納得した上でサインをしてもらうんだけどね。君の伯父上とやらは、文字が読めないのかな?」
冷めてしまった紅茶に口を付けながら、直球で伯父を馬鹿にする殿下に、胸がすっとする。不安が消え、軽くなった胸に改めて希望を宿すと、先ほどは言えなかった自身の目標を殿下に告げた。
「本当に、ありがとうございます。殿下のおかげで、このまま学園に通い続けることが……プレジデントになりたいという目標のために、まだ頑張ることができます」
「ダニエル君は、プレジデントを目指しているのかい?」
「はい。自分自身のためでもありますが、父と母と……あとは屋敷に残してきてしまった妹にとって、せめて誇れるような兄になりたくて……」
ほんの少しの気恥ずかしさを混ぜて伝えれば、殿下は目を丸くしたあと、ふわりと表情を和らげた。
「素敵な目標だね。僕も応援するよ。二年後、共にプレジデントに選ばれたら嬉しく思うよ」
殿下からの温かな励ましの言葉を最後に、和やかに対談の時間は終わりを迎えた。
数日後、セバスから再び手紙が届いた。王宮の使いの者がどうやって伯父を脅したのかは不明だが、シンディは改めてフローラ付きの侍女として雇われ、食事も問題なく用意されるようになったという。綴られた文字から伝わってくる安堵の念に胸を撫で下ろすと、カリオと一緒になって届いた手紙を手に喜び合った。
心配事が減り、幾分心穏やかに過ごせるようになって暫く、ついに前期試験の結果が発表される日を迎えた。
試験当日は、直前まで緊張で胃が痛かったが、スラスラと問題が解けるにつれ緊張は消え、途中からは楽しくなってきたほどだった。多少躓く部分もあり、悔しい思いもしたが、それでも確実な手応えがあった。
目一杯努力した。きっと結果は悪くないはずだ。そう己に言い聞かせると、暴れる胸の鼓動を手で押さえ、祈るような気持ちで成績上位者五名の名前が張り出される掲示板の前に立った。
もしここに名前が無かったら、その時点でスカラー制度の適用対象外となり、通学し続けるのは困難になる。緊張と恐怖でなかなか顔を上げることができない中、大きく息を吸い込むと、意を決して顔を上げた。
(……あ……)
痛いほど脈打つ心臓が、ドクン、と一際大きく跳ねた。
(……あった)
『五位 ダニエル・リンベルト』
自分の名前が、そこにあった。
瞬間、緊張から冷たくなっていた指先に、ジンと熱が戻ったのが分かった。体内を駆け巡った歓喜と安堵は凄まじく、強張っていた体から力が抜け、フラリと足元がふわついた。
僅かに蹌踉めいたその時、傍らを通り過ぎる人影に気づき、咄嗟に踏ん張った。慌てて身を引けば、そこにいたのはエドワルド・ヴァシュフォードだった。
接点がある訳ではない。関わりもない。ただ一方的に目標として意識していた彼がそこにいたことに、なんとも言えない気まずさからギクリとした。
「……」
エドワルドから、何か言われることはなかった。だが互いの視線が絡んだほんの一瞬、無表情の冷たい瞳に射抜くように見つめられ、緊張が走った。
「っ……」
反射的に身を固くしたが、絡んだ視線は瞬きの内に解け、エドワルドは無言のままその場を立ち去った。予想外の接触に驚きつつ、体の強張りを解くと、ホッと息を吐いた。
(……ヴァシュフォード様は、今回も三位だったな)
自分とは約二十点差の三位。届きそうで届かないもどかしさと、未だ落ち着かない胸を押さえながら、去っていく彼の背を見つめた。
その後、心配してくれていた担当教師からは労いの言葉を、殿下からも「よく頑張ったね」とこっそりお褒めの言葉をもらった。
努力してきた日々が報われた。そんな喜びと、誇らしい気持ちでいっぱいで、次の試験も頑張ろうという意欲と活力が自然と湧いた。
満たされるような達成感と充実感を胸に宿したまま、学園は長期休暇を迎えた。
◇◇◇◇◇
「お兄様、おかえりなさい!」
「ただいま、フローラ」
「おかえりなさいませ、ダニエル様」
「セバス、シンディもただいま。留守をありがとう」
帰省当日、学園まで迎えが来るのか心配だったが、セバス自らが御者となり、馬車で迎えに来てくれた。
馬車は伯爵家の紋章が入った物で、よく伯父が何も言わなかったなと思えば「紋章無しのボロ馬車で迎えに行ったと知れれば、今度こそ咎めを受けますよ」と、忠告したら「勝手にしろ!」と言われたので勝手にしたらしい。大丈夫かと心配になったが、セバスが問題ないと言うので信じることにした。
そうして半年ぶりに帰ってきた屋敷の離れは、学園に戻る前日に一日過ごしただけなのに妙に懐かしく、「帰ってきた」と感じられた。
扉を開けると同時に腕の中に飛び込んできたフローラを抱き締め、再会の喜びを分かち合う。
「フローラ、ご飯はちゃんと食べられているかい? 酷いことをされたり、言われたりしていない?」
「大丈夫よ。ご飯もきちんと食べているし、心配なさらないで。それより、お兄様はお勉強はどう?」
「ちゃんと目標以内に入れたよ。今の成績を維持できれば、プレジデントも夢じゃない」
「本当!? すごいわ、お兄様!」
嬉しそうに声を弾ませるフローラの様子に、自然と笑みが零れた。今日から三週間は、フローラやセバス、シンディと共に過ごせる。それがとても嬉しかった。
食事は変わらず皆で一緒に食べているようで、四人で共に食卓を囲んだ。メインの卵料理とパンとスープが並んだ食卓は、心配していたほど質素ではなく、きちんと腹が満たされるだけの量を食べられている様子にホッとした。
和やかに食事をとりながら、自分が不在にしていた間の過ごし方についてフローラに尋ねた。
「最近はシンディに習って、家事や料理をするようになったの。今日のお夕飯も、少しお手伝いしたのよ」
「え?」
思ってもみなかった発言に、フローラを見つめた。
「どうして? 食事は用意されてるんじゃ……」
「実はね、お兄様がいない間、何度もここを追い出されそうになったの。あ、今は大丈夫よ。王宮の人が来てくれて、ここに住む権利が私にちゃんとあるって仰ってくれて、それからはとっても平和。でもその時に、もしここを追い出されたら平民になるんだって、初めて実感したの。考えたくはないけど、万が一に備えて、私も自分にできることは身につけようって思って……お料理もできるように、今は食材だけもらって、食事はここで作ってるの。色々勉強中なのよ」
「そんな……ごめん。フローラにばかり、辛い思いをさせて……」
見れば、フローラの白くすべらかな手は以前よりも荒れていた。妹にばかり負担を掛けている不甲斐なさから、手にしたスプーンが下がる。だがそんなダニエルに対して返ってきたのは、凛としたフローラの声だった。
「お兄様、そこは謝らないで褒めてくださいませ!」
「……偉いね、フローラ。いっぱい頑張ってくれたんだね。兄様は誇らしいよ」
「ありがとう、お兄様。嬉しいわ」
フローラの眩しいほどの笑顔を前に、なんとか笑い返すも、不安は拭えない。無理して強がっているのではないか、そんな心配が顔を出すも、それを悟られまいと、努めて明るい声で話を続けた。
「頑張っているフローラに、ご褒美をあげないと。何か欲しい物はある? ドレスとかは難しいけど、用意できる物なら……」
「お兄様、何もいらないわ。大切なお金でしょう? 無駄遣いは良くないわ」
「フローラ、これは無駄遣いじゃないよ」
「いいの。ご褒美なら、お兄様がお勉強を教えてくださいな。家庭教師の先生にも会えなくなってしまったから、お勉強ができなくて……お兄様がお休みの間、私の家庭教師になって?」
「分かった。たくさんお勉強しような。ついでにダンスの練習もしようか」
「私、まだステップを覚えていないの……」
「お嬢様、女性パートのステップなら私がお教えできます。一緒にお稽古しましょう」
しょんぼりと俯くフローラに、すかさずシンディが助け舟を出す。元子爵令嬢のシンディなら、貴族子女としての作法もフローラに教えてくれるだろう。シンディの言葉にパッと表情を明るくしたフローラが、嬉しげに頷いた。
翌日からはフローラに勉強を教えたり、ダンスの練習をしたり、遊ぶように学びながら、毎日楽しい時間を過ごした。フローラのいない所で、セバスとシンディにも自分が不在にしている間の話を聞いたが、特に問題は起きていないようだった。
「伯父には、あれから理不尽な要求はされていないか?」
「ご安心ください。監査官の方がいらっしゃってからは、あちらも大人しいものです。何かあれば、改めてご報告致します」
「良かった。二人にも、たくさん迷惑を掛けてすまない」
「ダニエル様、そのように仰らないでくださいませ。私もセバスも、自らの意志で、好んでお二人のお側にいるのです」
「……ありがとう。本当に、二人がいてくれて助かったよ」
自分一人では、フローラを守ってやることもできなかった。当たり前のように側にいてくれるセバスとシンディの存在が、今は何よりも心強かった。
それから一度街に出かけると、ハンドクリームと大量の菓子を購入した。菓子はフローラが勉強を頑張ったご褒美として一緒に食べ、ハンドクリームは荒れてしまった小さな手を労わるように、丁寧に塗り込んだ。
「お兄様ったら、クリームくらい自分で塗れるわ」
「私がしたいんだ。付き合っておくれ、レディ」
「ふふ、はーい」
可愛らしい返事だが、その目は僅かに潤んでいた。今よりもっと幼い頃、母はよく自分やフローラの手に、こうしてクリームを塗ってくれた。母の両手が優しく手や頬を包み込む感触も、温もりも、まだ鮮明に覚えている。フローラと二人、無言になりながら、もう二度と戻らない懐かしい思い出をなぞり、目を赤くした。
(早く、大人になりたいな……)
成人まであと二年半。早く大人になって、フローラも、父と母が残してくれたものも、セバスやシンディも、守れるようになりたい。心底そう願った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、長期休暇を終え、学園へと戻る日を迎えた。フローラを残していく不安は拭えなかったが、セバスやシンディを信じ、案じる言葉は飲み込んだ。
「いってらっしゃい、お兄様。お体に気をつけて」
「いってきます、フローラ。あまり無理をしないように、何かあったら、すぐに手紙を書くんだよ」
街に出かけた際、ハンドクリームや菓子と一緒に、便箋も購入した。春色の美しい花が描かれたそれを、フローラは「綺麗」と言って喜んでくれた。できることなら、その美しい花模様の中に、悲しい言葉が書かれることがありませんように、と祈りを込めて贈った。
抱擁を交わし、離れ難い気持ちをなんとか振り切ると、馬車に乗り込んだ。セバスの手配してくれた御者がゆっくりと走らせる馬車に揺られ、小さくなっていく三人の影を見つめる。こうして離れる瞬間が、一番苦しい。切なく軋む胸を誤魔化すように、無理やり気持ちを切り替えた。
(学園に戻ったら、もっと勉強を頑張ろう)
自分にできることはそれだけだ。無力さに押し潰されそうになりながら、その唯一さえ手離してしまうことがないようにと、ダニエルは痛いほど拳を握り締めた。
◇◇◇◇◇
学園に帰ってきた翌日から、すぐに授業が始まった。休暇気分が抜け、学生としての感覚が戻ってくると、放課後は図書館へ通うようになった。
既に基本問題や基礎知識は身につけた。あとは応用問題への対応力や、より深い知識を増やすことが大切だろう。そう思い、資料や知識の宝庫である図書館へと足を運んだ。
掲げた目標のためには、今までと同じように過ごしているだけでは足りないのだ。奥まった席の一番端に腰掛けてノートを開くと、ダニエルは一心不乱にペンを走らせた。
その日から、来る日も来る日も、放課後は図書館へと向かった。教科書には書かれていない範囲のことも、専門書の中には書かれている。特に他国の文化や魔法についての知識を得るのは純粋に楽しく、夢中になって本を読み漁りながら、自身の糧にしていった。
そうして図書館へ通うようになって一月が過ぎた頃、気になって手にした本の中に、他国の言語で書かれている物があった。
(これも読めるようになりたいな)
外国語は選択科目として受講できたのだが、ダニエルは騎士科と領地経営科を選択していたため選べなかった。試験には関係ないが、他国の言語を身につけることで、何かの役に立つこともあるはずだ。まずは翻訳するところから始めてみよう、そう思い立つと、辞書を求めて室内を彷徨った。
人気のない奥まった書棚の間、辞書の類が揃えられた区画を見つけると、ダニエルは本の背表紙に目をすべらせた。自身の目線よりも高い書棚を見上げ、端から端へと視線を動かす。流れ作業のような動作に集中するあまり、周囲への注意力が散漫になっていた。
(あ、あった)
目的の本を見つけ、手に取ろうとした瞬間、掠めるように何かが腕に触れ、初めてそこに人がいることに気がついた。
「あ、すみませ──」
慌ててそちらに顔を向けた瞬間、驚きのあまり、つい大袈裟に後退ってしまった。
「……不注意だな」
「申し訳ございません!」
不機嫌さを隠そうともしない声に頭を下げながら、思わぬ人物との邂逅に、頭は混乱していた。
(なんで、こんな場所に……)
エドワルド・ヴァシュフォード──優秀な彼にはおよそ無用と言えるであろう書物ばかりが並んだ図書館の一角での接触に、萎縮よりも驚きが勝った。
「大変失礼致しました」
未だに胸の鼓動は落ち着かなかったが、それでも身についた礼儀から、きっちりと頭を下げ直す。同級生という以外の接点はなく、言葉を交わした記憶もない。そんな中で、目標として一方的にライバル視してしまっている引け目から、そっとその場を離れようとした時だった。
「随分と必死だな」
「……え?」
踵を返そうとした背に掛けられた声に、ピタリと足を止める。言葉の意味よりも、話し掛けられたことが信じられなくて、呆けた返事をしてしまった。振り返れば、普段と変わらぬ無表情で、手元の本に視線を落としたままのエドワルドが言葉を続けた。
「そんなにプレジデントになりたいのか?」
(……なぜ、そのことを)
接点のないエドワルドが、なぜ自分の目標を知っているのか?
不自然極まりない発言に対する不信感に加え、秘め事を無理やり暴かれたような恥ずかしさと、どこか馬鹿にするような物言いに、返す言葉には棘が混じった。
「……私が勝手に目標としているだけです。何か、ご迷惑をお掛けしましたでしょうか?」
「お前が何を目標にしようとどうでもいいが、一方的にライバル視されているのは気持ち悪い。不愉快だ」
無遠慮な言葉の刃が胸を刺した。言葉を交わしたのは今日が初めてのはずだが、どうやら自分は彼に嫌われているらしい。
今まで他者からあからさまに嫌われたことがなかっただけに、多少傷つくものはあった。だが、自分が彼に対して一方的な敵対心を向けていたのがそもそもの原因なら、返す言葉もなかった。
「……大変申し訳ございませんでした。今後はヴァシュフォード様のご不快にならぬよう、気をつけます」
再度頭を下げ、一刻でも早くこの場を立ち去ろうと、彼に対して背を向けた。
「たかだかプレジデントになったところで、なんの自慢にもならないだろうに」
踵を返した背に、追い討ちをかけるように投げつけられた言葉。些細な一言だと分かっていた。それでも、亡き両親のため、妹のため、自分自身のために抱いた目標を馬鹿にされたようで、気づけば振り返って反論していた。
「そうですね、優秀な公爵様にとっては『たかだか』でしょう。なんの自慢にもならない些事でしょう。ですが、私個人の目標を馬鹿にされる筋合いはありません」
昂る感情を押し殺し、平静を保とうとするも、発する声は微かに震えていた。
「大切な家族のために頑張って、何が悪いのですか? 見苦しいと思うのであれば、お目汚しをして大変申し訳ございませんでした。今後はなるべく公爵様の視界に入らぬよう努めますので、公爵様も私のことはいない者としてお考えください」
嫌味ったらしく『公爵様』と呼んでしまったが、後悔はない。胸に渦巻いた憤りを一気に吐き出すと、足早にその場を立ち去った。
エドワルドがなぜ自分の目標について知っていたのかは、この際どうでもいい。だが、せめて一つでも誇れるものを、と掲げた自身の目標を否定された憤りは、どうしても抑えることができなかった。
(……今日はもう帰ろう)
自習机に戻り、広げていた資料やノートを手早くまとめると、エドワルドとまた鉢合わせてしまう前に図書館をあとにした。
この日を境に、ダニエルはエドワルドを明確に避けるようになった。とはいえ、元々接点がなかったこともあり、傍目には何も変わったようには見えなかっただろう。その上で、なるべくエドワルドの視界に入らぬよう努め、彼のことをライバル視し、意識するのもやめた。
エドワルドの物言いにはカチンときたが、そもそも競うような気持ちでいたのがいけなかったのだと反省し、純粋に目標のために努力しようと考えを改めた。
それから数週間後、エドワルドに対して蟠りを残したまま過ごしていたある日のこと、ダニエルは再び殿下から声を掛けられた。
「すまない、ダニエル君。君のことをエドワルドに話したのは僕だ」
以前も訪れたプライベートサロンに呼び出され、席に着いて早々、殿下から謝罪され、ダニエルは固まった。
「え、と……?」
あまりにも予想外の謝罪に返事に困っていると、殿下が表情を曇らせた。
「エドワルドに、嫌なことを言われただろう?」
「え……いえ……え?」
「いいんだ。何があったのかは、アイツから聞いているよ」
殿下がエドワルドとの間に起きたことを知っていることもそうだが、彼のことを親しげに『アイツ』と呼んでいることに驚く。それが顔に出ていたのだろう。殿下が苦笑混じりに教えてくれた。
「僕とエドワルドは幼馴染みなんだ。あれがあんまり人前で話さないものだから、知らない者も多いけどね」
「左様でございましたか……」
言われてみれば、エドワルドの家は公爵の位で、王家に近しい存在だ。幼馴染みという関係もおかしくはないが、常に無表情のエドワルドと、いつもにこやかな殿下の組み合わせというのは、なかなか想像しづらいものがあった。
「今回のことは僕が軽率だった。会話の弾みで君の話題になったんだが、アイツが他者に興味を示したのが初めてだったものでね。物珍しさから、つい君の家の事情について話してしまったんだ。本当にすまなかった」
「あの、恐れながら、一体どのような弾みで私の話に……?」
「お詫びと言ってはなんだが、エドワルドのことを教えてあげよう」
「え? いえ、結構で……」
質問に答えてもらえぬまま、話がどんどん進む。詫びとしてそれはおかしい、と止めようとする間もなく、殿下からエドワルドの家の事情について聞かされることとなってしまった。
エドワルドには、五歳年上の兄がいた。だが生まれた時から病弱で、このままでは爵位を継ぐのは難しいだろうと心配した公爵夫妻は、兄の代わりとするべく、エドワルドを産んだ。
生まれた時から次期公爵となるべく育てられたエドワルドに、両親は厳しく接した。『兄の代わり』でしかなかったエドワルドは、その役目を強要されるだけ。両親の愛情は、すべて病弱な兄へと注がれた。そんな家庭環境は、エドワルドの子どもらしい思考を著しく歪め、感情を奪った。
殿下と交流を持ったことで多少は改善されたものの、他者への興味や関心は薄く、エドワルドの『兄の代用品として生きるだけ』という考え方は変わらないままだったそうだ。
「エドワルドを庇うつもりはないんだが、あれは不器用で、少しばかり人と関わるのが下手なんだ。経験がない分、君が妹君やご両親のために頑張りたいという気持ちを、理解できないんだろう。エドワルドにとって、兄や家のために努力することは、生まれた時から課せられた義務で、やりたくもないことを生涯やらされるだけの鎖でしかなかったからね」
「……」
「先にも言ったが、エドワルドを庇うつもりはないよ。誰が何を大切にしているかなんてものは人それぞれだ。自分が理解できないからといって否定してはいけないと、今までも散々言ってきたんだが……本当にすまなかった」
「いえ、殿下に謝っていただくことではございません」
「原因を作ってしまったのは僕だからね、謝らせておくれ。嫌な思いをさせて本当にごめんよ。まぁ、アイツも一応悪いことをしたとは思っているみたいなんだ。でなければ、僕の質問に正直に答えたりしないだろうからね」
72
お気に入りに追加
2,028
あなたにおすすめの小説
性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
ハッピーエンドのために妹に代わって惚れ薬を飲んだ悪役兄の101回目
カギカッコ「」
BL
ヤられて不幸になる妹のハッピーエンドのため、リバース転生し続けている兄は我が身を犠牲にする。妹が飲むはずだった惚れ薬を代わりに飲んで。
宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている
飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話
アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。
無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。
ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。
朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。
連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。
※6/20追記。
少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。
今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。
1話目はちょっと暗めですが………。
宜しかったらお付き合い下さいませ。
多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。
ストックが切れるまで、毎日更新予定です。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる
風見鶏ーKazamidoriー
BL
秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。
ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。
※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。