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探偵に趣味はない

探偵に趣味はない 第一話

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水樹は飛び起きた。二〇二四年三月一日、自室のベッドの上で、である。奇妙な夢を見た気がした。が、起きると全てを忘れてしまっていた。よくあることだ。
まだ眠気が残っているが時刻を見ると、二度寝するほどでもない。仕方がないが起きよう。そう思い、ゆっくりと立ち上がる。カーテンを開けると眩しい光が部屋に差し込んできた。大きく伸びをして、窓の外を見渡してみた。未だ肌寒い季節ではあるが、日差しは真冬に比べて明るく、視界いっぱいに広がる街路樹の桜並木は、じきに咲き出しそうな様子だ。水樹は笑みを浮かべ、いつものように朝の支度を始めるため、片足を引き摺りつつ、洗面所へ向かう。身支度を整えた後、いつものようにコーヒーの準備を始めることにした。お湯を沸かしながらカップを用意して、手にした袋を開けると、キッチンにふわりといい香りが広がる。彼が選んだ豆の香りだ。挽き立ての良い粉を使ってドリップすると、より一層その香りが強くなった気がする。この瞬間が好きなのだ。お湯の温度に注意しつつ、そっと注ぎ入れれば、美しい濃褐色の液体が出来上がる。一口飲んでみれば、酸味が少なく苦味の強い味わいが口に広がった。彼の好み通りである。朝食に焼いた食パンと一緒に食べてみると、ますます美味しく感じられた。そうして家を出る頃には、夢を見たことすら忘れていた。
「探偵社アネモネ」にタクシーで到着する。今日も今日とて、杖を突きながらゆっくりと、外の階段を上がって、事務所のドアのカギを回す。すると、鍵が掛かってしまった。いつもの習慣で鍵を回したが、どうやら先に到着している職員がいたようだ。結構、結構。仕事熱心なのは素晴らしい。
「おはようございます」
ドアを開け、爽やかに挨拶をすると、マリンブルーの来客用のソファに陽希が転がっていた。気怠そうな顔でスマホを眺めている。
「……あー、おはよぉ、水樹ちゃーん」
「何を、しているんですか」
「今日も今日とて誰も依頼人が来ないからさぁ。いつもみたいにウェブ小説、読んでた」
陽希の趣味は、ミステリ系のウェブ小説を読むことだ。事実かは分からないが、ミステリ小説に憧れて、探偵になったという話も水樹は聞いた覚えがあった。
「この二か月、来た仕事は不倫がらみの身辺調査、本当に退屈だよなぁー」
「細かい事務仕事はたくさん残っているのだから、それをやりなさい。いよいよ、給料を出しませんよ」
「水樹ちゃんの小説は、全然人気が出ないね」
「うるっさいですよ!」
水樹が吠えると、陽希はチェシャ猫のようにニタニタ笑って、ちらりと水樹を見ただけで、ウェブ小説に視線を戻した。
水樹もウェブ小説を書いているが、事実、全くアクセス数は伸びない。面白くないのだろうとは分かっている。同じサイト上には、大人気の、ルイ・ナカムラがいる。父親がフランス人で、母親が日本人のハーフらしく、作品は恋愛や感情を重視したものだ。アクセス数だけで数えると、水樹のそれのざっと九〇倍くらいはありそうで、水樹はもはや諦めていた。
「今週も、アクセス数一位は、ルイ・ナカムラですか」
「勿論だよ。どんどん二位を引き離してる」
「どこが良いんですかね、トリックも動機も無理やり感が否めない」
その時、ぽこん、と小さな通知音が鳴り、陽希の端末に思わず水樹も顔を寄せる。
「ルイ・ナカムラの新作だって!」
陽希のスクロールは速い。速読でも出来るのだろうかと思う。陽希は溜息を吐いた。
「なんか、今回の新作は凄いよ。小学生の子が親に殺されるって話なんだけど……」
「ほう……ルイ・ナカムラにしては珍しいですね。ミステリと言っても、男女の仲やそれによるすれ違い、そこにまつわる日常の謎を主とした作風が多かった気が……余り、そのような過激な作品をアップしたのを見たことはないのですが」
「水樹ちゃん、ルイ・ナカムラめちゃくちゃ好きだねぇ」
「嫌いです」
其処から数日、陽希の人を食ったような視線が、痛かった。
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