前王の白き未亡人【本編完結】

有泉

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186 二人に一人分の水

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 そうしてレイゾンに導かれるまま走り続け、一旦街道に出ると、白羽は合図を受けてゆっくりと脚を止めた。
 朝から走り通しで、さすがに息が上がっている。自分の息音の煩さに驚くほどだ。今までこんなに走ったことは——走り続けたことはなかった。しかもほぼ全力で。

 レイゾンは白羽の走りを労うように首を叩くと背から降り、腰を撫でてくれる。次いで脚を。疲労を確認しているのだろう。
 白羽としては大丈夫なつもりだが(とても疲れてはいるが)、そうして細やかに気にしてくれるのはとても嬉しい。
 子猫はといえば、今はレイゾンの懐の中に収まっているようだ。そこが小さく盛り上がっていて、微かな寝息が聞こえてくる。
 ——大物だ。
(それともこの子も疲れているのかもしれない)

 と——。

「ほら」

 ようやく息が落ち着いた白羽の口の前に、レイゾンの掌が差し出された。その上には普通のものより小さな水の粒がある。今朝、朝露を集めて作ったものだ。最後の水。
 白羽は喜んで口を近づけかけて、はたと止まった。
 レイゾンの分は?

 躊躇した白羽に気付いたのだろう。レイゾンは「大丈夫だ」と笑った。
 
「俺はまだなんとかなる。お前は走り続けて喉が渇いているだろう。お前が走れなくなったら俺も困るんだ。遠慮せずに口をつけろ」

<…………>
 そう言われても。
 
 確かにその通りだけれど、大切な水を自分だけが飲むことにはどうしても躊躇いがある。それに、レイゾンだってまだ万全ではないのだ。

 しかしレイゾンは「ほら」と水の粒を白羽の柔らかな唇に押し付けてくる。白羽が思わず後ずさると、

「おい」

 と、苦笑混じりのレイゾンの声がした。

「なんで下がるんだ。素直に飲め。強情っ張りだな」

 しかし白羽は首を振ると、ますます後ずさる。慌てて手綱を掴み直しながら、レイゾンはやれやれというようにため息をついた。

「……そうだったな。お前はそういうところのある騏驥だった」

 そして、なぜか言葉とは裏腹に優しく目を細めて白羽を見ると、少し考える素振りを見せたのち、「ではこうしよう」と改めて口を開いた。

「ここで揉めていても仕方がない。二人で分けることにしよう。ただ……水の粒はただでさえ割りづらい上に、これは小さい。うまく割るのは無理だ。だから……」

 レイゾンはそこでいくらか言い淀む。
 が、意を決したように言った。

「お前が先に飲め。それで……残った分を俺に分ければいい」

<! そんな! 分けるにしてもレイゾンさまが先に——>

「俺は本来飲むつもりはなかったんだ。だからお前が先だ。言っておくが俺に多く残そうなどと思うなよ。もしそんなことをすれば『主の命を聞かぬ騏驥』と判断するぞ」

<…………>

「俺が譲れるのはここまでだ。それでも抵抗するか?」

 視線からも声からも、レイゾンの本気が伝わってくる。
 白羽はじっとレイゾンを見つめたのち、仕方なく小さく頷く。
 レイゾンの手が優しく白羽の頬を撫でた。

「お前が主想いだということはよく知っている。ちゃんと伝わっている。嬉しいと思っている。だから——だからこそ、ここは俺のためにちゃんと体調を整えろ。街まではまだもう少しある。これからは休みなしで走ってもらうのだからな」

 首を、鬣を、前髪を次々に慰撫され、白羽は再び——よりしっかりと頷く。
 そしてレイゾンによって改めて差し出された水の粒を、今度は素直に口の中に入れた。
 ひんやりとしたそれをゆっくりとしゃぶっていると、じわりじわりと水が溶け出してくる。

 ——美味しい。

 思い切り走り続けた後の、久しぶりの水分だ。美味しくないわけがない。
 しかも自分で思っていた以上に喉が渇いていたようだ。
 夢中で舐め、溶け出た水の美味しさに頰を緩めては飲んでいると、そんな白羽の様子を見て嬉しそうに微笑んでいるレイゾンの姿が目に映る。
 白羽は慌てて、口の中の粒の大きさを確認した。

 もうかなり小さくなってる!

 すぐにレイゾンに分けなくては——。

 しかし、白羽はそこではたと動きが止まった。
 困ったのだ。
 今の自分は馬の姿だ。手は蹄。
 このままで——普通の馬よりも大きなこの姿で、レイゾンにどうやってこの粒を渡せばいいのだろう???

 白羽は困惑しながらレイゾンを見る。
 が、彼は相変わらずにこやかに白羽を見つめてくるままだ。
 急かす様子もなく、ただ微笑んで……。

(……ひょっとして)

 そんなレイゾンを見ているうち、白羽の胸の中に疑惑が込み上げてきた。

 ひょっとして、彼はこれを見越して?
 端から分けてもらうつもりはなくて、自分は飲まないつもりで、ただ白羽を譲歩させるためにあんな提案を……?

(…………)

 きっとそうだ。
 だからあんなに悠長な様子で……。

 白羽は騙されたことに対する悔しさを覚える一方で、そうしてまで自分に全てを与えてくれようとするレイゾンに胸が熱くなる。

 彼だって乾いていないわけがないのだ。
 我慢できないことはないにせよ、騎士として耐える術は身につけているにせよ、今は平時ではない。怪我をおしての道中だ。
 それなのに……自分よりも騏驥を優先して……。

 しかもそれを恩に着せるでもなく。

 白羽はじっとレイゾンを見つめる。
 野蛮とも思えるほどの、逞しく大きな体躯。無骨で荒々しく、近寄り難い佇まい。男らしくも厳つい貌、目を引く頰の傷。
 立ち居振る舞いだって決して洗練されているわけではない。
 でも——。
 
 でも、誠実だ。
 過ちを犯せば、誤魔化すことなくそれを悔い、償おうとする誠実さがある。
 そして、騏驥への優しさがある。

(…………)

 白羽は、レイゾンを見つめたまましばし考える。
 そして——。

 人の姿に変わると、一瞬でレイゾンに近づく。

「!? 白羽!?」

 白羽がそんな行動に出るとは、思ってもいなかったのだろう。レイゾンは慌てたような声をあげたが、反応が遅れる。
 白羽はそんなレイゾンの首筋にしなやかな腕を絡めると、掠めるような口付けで水の粒を口移しした。

 咄嗟に白羽の背を抱いたレイゾンは、不意のことに混乱しているかのように目を丸くしている。
 レイゾンの腕に緩く抱き締められ抱き上げられ彼と向かい合ったまま、白羽はその瞳を見つめ続ける。
 心臓がドキドキした。

 怒られるだろうか。
 でももうやってしまった。

 それに——元はと言えばレイゾンが悪いのだ。
「分け合う」という話だったのだから、自分は間違っていない。

 ただ……。
 ただ——。

 怒られるかもしれない怖さよりも、自分がやってしまったことへの恥ずかしさの方が勝るだけだ。
 
(もっと違うやり方があったのでは……)

 自分の大胆さを思い返すと、頬が一気に熱くなる。

<ぁ……あの、レイゾンさま……っ>

「…………」

<お離しください……その……どうか……>

「お前の方からしがみついてきたのだぞ。しかも……」

<っ……それは……>

 白羽は恥ずかしさに俯く。
 途端、自分が全裸だということを改めて意識してしまい、ますます赤くなる。
 他に人はいないとはいえ、こんな往来で自分はなにをやっているのか。
 
 これが”騏驥であること”に慣れるということだろうか?
 急に馬の姿から人の姿になれば、なにも纏っていない状態になってしまうというのに、そのことが頭から全く抜け落ちていた。

<レイゾンさま……あの……>

 慎みのない騏驥だと思われただろうか。
 騏驥に口付けられるなど、不快だっただろうか。
 気まずさに、白羽はもうまともにレイゾンを見ることもできない。

 萎れるように俯いてしまうと、不意に、小さく吹き出すような声が聞こえた。顔を上げると、レイゾンが可笑しそうに目を細め「美味だった」と笑った。 
 
「しかしお前は……本当に負けず嫌いなのだな。こんな細い体で……気が強い」

<っ……そ、それは、レイゾンさまが……>

「俺が?」

<レイゾンさまが……水を口になさろうとしないようなご様子だったので……。それで……>

「ああ。それで、俺に分けてくれたのだな。お前一人で飲んでも構わなかったものを……まったく……」

<ご不快でしたか? あの……>

「いいや」

 即答だった。
 レイゾンは抱き抱えていた白羽の身体をそっと地面に下ろしてくれる。
 はずみで、髪がふっと舞う。
 レイゾンはそれを一房手に取ると、暫く見つめ、黙って撫で、放した。

 そして白羽の瞳を覗き込むように見つめると、どこか悪戯っぽく口の端を上げて言う。

「不快じゃない。ただまさか本当に”ああ”するとは思っていなかった。俺に水を渡すとすれば”ああ”するしかないが、しないだろうと思ったからお前に先に水を与えたのに」

<…………>

「主想いの強情な騏驥だ。だがおかげで、俺も一息つくことができた。ありがとう。これから先も頼むぞ」

<……はい……!>

 大きく頷いた。
 揶揄うように”強情”と言われたことはともかく、レイゾンにとっても価値のある休息になったなら嬉しい。そしてお礼の言葉も。頼りにされることも。

 白羽は再び馬の姿に変わると、レイゾンを背にして走り出す。
 
(あと半分——)

 しかし、そうして気持ちも新たに再出発してほどなく——。
 街の方向に澱んでいるような靄の気配を感じ、白羽は全身に緊張が走るのを感じた。
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