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156 夜の庭で(3)
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つい何日か前まで二人きりで旅していたはずなのに、今はなぜかドキドキしてしまう。
奇妙なものだ。なにも変わっていないはずなのに。
白羽は自分の鼓動の音を聞きながら、勧められるままそこにある腰掛けに腰を下ろす。
レイゾンは立ったままだ。近くに座らないように気を遣ってくれているのだろうか。
(もう、そんなによそよそしくなさらなくても良いのに……)
白羽はごく自然にそう思い、直後、自分のそんな感情に赤面した。
これではまるで、もっと親しくしたい——親しくしてほしいと思っているかのようだ。
いや、違う。そう思っている。思っているから恥ずかしいのだ。
太腿の上に置いていた手に力がこもる。
恥ずかしい。
——でも。
白羽が自分の気持ちを探っていると、
「今夜は月も美しいな」
レイゾンが感嘆を滲ませた声で言った。
「お前と旅していた時に……何日か前に見た月も美しかったが、今夜も引けを取らない綺麗な月だ。この辺りはそういう土地柄なのか?」
最後は独り言のような、白羽に尋ねているような、だ。
どちらともつかない声音だが、いずれにせよ白羽に正しい答えはわからない。ただ言われてみれば、確かにこの街で見た月はいつも美しかった。昔も、今も。
(昔……)
ティエンと初めて出会った夜のことを思い出し、白羽が懐かしさを覚えた時、
「そういえば、王都の屋敷では、こんな風に月の美しい夜は、お前の部屋から音がしていたことがあったな。何か弾いていたのか」
おもむろにレイゾンが尋ねてくる。
白羽の意識が「今」に引き戻される。レイゾンが言っているのは、多分琵琶を弾いていた時のことだろう。白羽は「はい」と言うように頷いた。
ただ、弾いていたといっても、特に目的があった訳ではなく、ほんの手遊びだ。
思いつくまま気の向くままに弾いていただけのこと。曲になってさえいなかったと思う。
白羽がレイゾンに触れてそう伝えると、
「そうそう、それだ」
レイゾンは二度、三度と頷く。
「俺は楽になど馴染みがないが、屋敷で寛いでいる時にどこからともなくああした音が聞こえてくるのは悪くないなと思っていた」
<レイゾンさまは、楽器は全くなさらないのですか?>
「やるものか!」
レイゾンは笑いながら言う。
そして白羽の前に大きな手をかざしてみせた。
「この手では、繊細な演奏など無理だろう。楽器を壊してしまいそうだ。ガキの頃からそうしたこととは無縁だ。じっとしているよりも、走り回っている方が好きだったからな」
そう言うレイゾンは子供のような顔だ。
それを見ていると、白羽は彼の昔に興味が湧いていく。
そういえば、彼の過去をあまり知らないと気づいたのだ。ユゥが話してくれたのは二人が出会ってからのこと。それ以前のことは、ほとんどなにも……。
今までは、知りたいと思わなかったためだ。
知らなくても良いと思っていたから。
でも今は……知りたいと思っている。
彼のことを、もっと。——もっと。
白羽はそんな自分の気持ちに戸惑いつつも、それに素直に従う。そっと、レイゾンに触れた。
<レイゾンさまが子供の頃に住んでいたところは、どんなところだったのですか?>
動揺しているからか、指が微かに震えてしまう。気付かれなければいいけれど……と願いつつレイゾンに尋ねる。と、彼は少し驚いたような顔を見せた。
「俺が住んでいたところか? そんなことを訊かれると思っていなかったな。いや……ああ——うむ、そうだな。そうしたことから話しておくべきだったのだな……」
そして最後は自分に言い聞かせるように言うと、改めて白羽を見つめてくる。その双眸は優しく温かな光を宿している。彼がゆっくりと話し始める。
「彼が暮らしていたのは、もっと南の方だな。ここからも遠い……まあ小さな村だ。俺の住んでいたところからは見えなかったが、村の一部は海に面していて、ガキの頃は仲間たちと馬に乗って遊びに行ったりもしていてたな。海はわかるか?」
尋ねられ、白羽は頷く。レイゾンは「そうか」と微笑んだ。
「今にして思えば、かなり好き勝手に暮らしていた気もするな。もしかしたら領主の貴族にそれなりのものを納めていたかもしれないが、親父が村を治めていたから、俺もそれなりの暮らしができていた。楽しかったよ。騏驥を見なければ……騏驥を見たあの日がなければ、ずっとそこで暮らしていただろうな」
そう話す彼の瞳は、遠くを見つめている。少し寂しそうな、懐かしんでいるような眼差しだ。
<素敵なところ、なのですね>
白羽が伝えると、レイゾンは「そうだな」と深く頷く。その貌は、やはり少し寂しそうだ。
そんな顔を見ていたくなくて、白羽は思い切って、レイゾンに伝えた。
<いつか、連れて行ってください。行ってみたいです。レイゾンさまの育った村に。レイゾンさまも帰ってみたいのではないですか?>
「…………」
白羽の言葉に、レイゾンは目を丸くしている。
突然過ぎただろうか?
図々しすぎただろうか。
白羽が俄かに不安になった数秒後、
「驚いたな……」
レイゾンは苦笑しながら言った。
奇妙なものだ。なにも変わっていないはずなのに。
白羽は自分の鼓動の音を聞きながら、勧められるままそこにある腰掛けに腰を下ろす。
レイゾンは立ったままだ。近くに座らないように気を遣ってくれているのだろうか。
(もう、そんなによそよそしくなさらなくても良いのに……)
白羽はごく自然にそう思い、直後、自分のそんな感情に赤面した。
これではまるで、もっと親しくしたい——親しくしてほしいと思っているかのようだ。
いや、違う。そう思っている。思っているから恥ずかしいのだ。
太腿の上に置いていた手に力がこもる。
恥ずかしい。
——でも。
白羽が自分の気持ちを探っていると、
「今夜は月も美しいな」
レイゾンが感嘆を滲ませた声で言った。
「お前と旅していた時に……何日か前に見た月も美しかったが、今夜も引けを取らない綺麗な月だ。この辺りはそういう土地柄なのか?」
最後は独り言のような、白羽に尋ねているような、だ。
どちらともつかない声音だが、いずれにせよ白羽に正しい答えはわからない。ただ言われてみれば、確かにこの街で見た月はいつも美しかった。昔も、今も。
(昔……)
ティエンと初めて出会った夜のことを思い出し、白羽が懐かしさを覚えた時、
「そういえば、王都の屋敷では、こんな風に月の美しい夜は、お前の部屋から音がしていたことがあったな。何か弾いていたのか」
おもむろにレイゾンが尋ねてくる。
白羽の意識が「今」に引き戻される。レイゾンが言っているのは、多分琵琶を弾いていた時のことだろう。白羽は「はい」と言うように頷いた。
ただ、弾いていたといっても、特に目的があった訳ではなく、ほんの手遊びだ。
思いつくまま気の向くままに弾いていただけのこと。曲になってさえいなかったと思う。
白羽がレイゾンに触れてそう伝えると、
「そうそう、それだ」
レイゾンは二度、三度と頷く。
「俺は楽になど馴染みがないが、屋敷で寛いでいる時にどこからともなくああした音が聞こえてくるのは悪くないなと思っていた」
<レイゾンさまは、楽器は全くなさらないのですか?>
「やるものか!」
レイゾンは笑いながら言う。
そして白羽の前に大きな手をかざしてみせた。
「この手では、繊細な演奏など無理だろう。楽器を壊してしまいそうだ。ガキの頃からそうしたこととは無縁だ。じっとしているよりも、走り回っている方が好きだったからな」
そう言うレイゾンは子供のような顔だ。
それを見ていると、白羽は彼の昔に興味が湧いていく。
そういえば、彼の過去をあまり知らないと気づいたのだ。ユゥが話してくれたのは二人が出会ってからのこと。それ以前のことは、ほとんどなにも……。
今までは、知りたいと思わなかったためだ。
知らなくても良いと思っていたから。
でも今は……知りたいと思っている。
彼のことを、もっと。——もっと。
白羽はそんな自分の気持ちに戸惑いつつも、それに素直に従う。そっと、レイゾンに触れた。
<レイゾンさまが子供の頃に住んでいたところは、どんなところだったのですか?>
動揺しているからか、指が微かに震えてしまう。気付かれなければいいけれど……と願いつつレイゾンに尋ねる。と、彼は少し驚いたような顔を見せた。
「俺が住んでいたところか? そんなことを訊かれると思っていなかったな。いや……ああ——うむ、そうだな。そうしたことから話しておくべきだったのだな……」
そして最後は自分に言い聞かせるように言うと、改めて白羽を見つめてくる。その双眸は優しく温かな光を宿している。彼がゆっくりと話し始める。
「彼が暮らしていたのは、もっと南の方だな。ここからも遠い……まあ小さな村だ。俺の住んでいたところからは見えなかったが、村の一部は海に面していて、ガキの頃は仲間たちと馬に乗って遊びに行ったりもしていてたな。海はわかるか?」
尋ねられ、白羽は頷く。レイゾンは「そうか」と微笑んだ。
「今にして思えば、かなり好き勝手に暮らしていた気もするな。もしかしたら領主の貴族にそれなりのものを納めていたかもしれないが、親父が村を治めていたから、俺もそれなりの暮らしができていた。楽しかったよ。騏驥を見なければ……騏驥を見たあの日がなければ、ずっとそこで暮らしていただろうな」
そう話す彼の瞳は、遠くを見つめている。少し寂しそうな、懐かしんでいるような眼差しだ。
<素敵なところ、なのですね>
白羽が伝えると、レイゾンは「そうだな」と深く頷く。その貌は、やはり少し寂しそうだ。
そんな顔を見ていたくなくて、白羽は思い切って、レイゾンに伝えた。
<いつか、連れて行ってください。行ってみたいです。レイゾンさまの育った村に。レイゾンさまも帰ってみたいのではないですか?>
「…………」
白羽の言葉に、レイゾンは目を丸くしている。
突然過ぎただろうか?
図々しすぎただろうか。
白羽が俄かに不安になった数秒後、
「驚いたな……」
レイゾンは苦笑しながら言った。
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