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139 二人だけで(4)
しおりを挟むあの頃は、まだ互いを疎ましく思っていた。
レイゾンは白羽を押し付けられたことが不満で、白羽は、レイゾンがティエンに対して悪意を持っていることに憤っていて。
では……今は……?
半年ほどの長い時を経て——今は?
「懐かしいな」
するとぽつりと、レイゾンが言った。
見れば、彼は過去を懐かしむような貌だ。
「あのときのことが、もうずいぶん昔のことのようだ。考えてみればまだ半年ほどしかたっていないというのに……。色々なことがあったためだろうな。だが——」
レイゾンの双眸が、ひた、と白羽を捕えた。
「お前は、昔も今も変わらずに美しい」
<!>
先刻以上に率直な言葉だ。白羽は一気に動悸が激しくなったのを感じる。耳が熱い。レイゾンは、いったいどうしてしまったのだろう。こんなことを言う人ではなかったのに。
(いや……)
「なかったのに」と言い切れるほど、自分は彼を知らない。
知らなかったのだ。
この遠征に出てから知ったことがたくさんあった。
日に日に彼を知り、そのたびに印象は変わっている。
彼は、振る舞いに少し乱暴なところはあるけれど基本的にはとても優しい。
いつだったか思いがけず立ち聞きしてしまった、彼の従者であるユゥが話していたように。
飾り気がなくて口下手で世慣れていないせいで取っつきづらいし怖く思えるけれど、上辺だけの——口先だけの騎士ではないことは、この遠征で強く感じられたことだ。
そして騏驥への気遣いは惜しまない彼のこと。
(そうだ……きっと……)
これは騏驥への親愛の表現だ。
白羽は自分に言い聞かせる。
(特別に意識することじゃない)
繰り返し胸の中で唱え、落ち着こうとする白羽の傍らで、レイゾンは続ける。
「その髪も、色の違う瞳も綺麗だ。それに——今日は」
彼は息をついて続けた。
「夕陽の中のお前はひときわ美しかった。鬣は陽に映えて、瞳は宝石のような色合いだった。いっそ下馬して全身の立ち姿を見てみたい気もしたほどだったが……乗っていて、間近で見られてこれほど嬉しかったことはない……」
噛み締めるように、彼は言う。
「馬も騏驥もそれなりの数を見てきたし、中には目を引くものもあった。が……お前のようにいつまでも見ていたいと思うような騏驥は初めてだ。そして見ていると吸い込まれそうになる。浮世離れしているとでも言えばいいのか……。稀な毛色のせいもあるし、お前の雰囲気のせいもあるのだろうな。ずっと……ずっとずっと特別に大切にされていた騏驥……そんな雰囲気だ」
レイゾンの口調はしみじみと穏やかで、実際に特別な扱いを受けていた白羽の過去を揶揄するような響きは一切ない。
むしろ——こころなしかその貌には寂しさの翳のようなものが窺える。
それとも疲れだろうか。思えば、彼はこの森についてからも、ずっと動き通しだ。結界を張り寝床の用意をして食事の準備をして……。さすがに騎士と言えど疲れて当然だろう。
白羽が今日ずっと走っていたというなら、彼はずっと白羽に乗っていたのだ。しかも気を遣いつつだから疲労もたまっているだろう。遠征中、ずっと他の人たちから注目されていたのは、きっと彼も同じだ。
だがレイゾンはそんな疲れなど感じさせない平然とした顔で、燃える火を見つめている。
横顔は一切の険がなく柔らかだ。周囲を警戒しつつも寛いでいるのが伝わってくる。
気付けば、白羽は筆をとっていた。
[わたしは、自分のことはよくわかりません。それに、わたしからは残念ながらレイゾンさまは見えませんでした。でも、レイゾンさまと一緒に見た夕陽はとても綺麗でした。また一緒に見たいと、何度も見たいと思うぐらいでした。それから、こうして並んで食事をするのも楽しいです]
そしてレイゾンに見せると、すぐに小さく苦笑する。前半部分だろう。だが仕方ない。馬の姿の騏驥の唯一の死角が、自身の背の部分。乗っている騎士の姿なのだ。
だがその表情は、次第に微かに眉を寄せた切なげとも思える貌に変わる。
そして何度も何度も、白羽が書いたものを読んでいる。繰り返し繰り返し、このさして長くない文章を、まるで目に焼き付けようとするかのように、何度も何度も。
レイゾンは白羽が見せたその紙をひとしきり見つめると、それまでと違い、そのまま受け取った。そのまま丁寧に折りたたむ。
白羽が目を丸くしていると、
「初めての遠征の、記念だ」
レイゾンは悪戯っぽく微笑んで言い、懐に仕舞おうとする。
白羽は慌ててそれを取ろうと手を伸ばした。
「!? おい!?」
レイゾンが慌てたように身を躱す。だが白羽はなおも彼を追って身を乗り出すようにして手を伸ばした。
文としてきちんと送ったものなら相手が持っていても構わないが、まったくそんなつもりで書いたわけではないものを残されるのは、どうしてか恥ずかしい。
今の自分の気持ちそのままを表してしまっているからだろうか。体裁も何も考えずに、ありのまま……。
「お、おい、白羽……」
レイゾンは、白羽がそんなに狼狽えると思っていなかったのだろうか。困惑しているような上ずっているような声だ。構わず、白羽がさらに身を乗り出した次の瞬間、
(!)
バランスを崩した身体が、火元の方によろける。
「危ない!」
直後、その腕をグイと掴まれ引っ張られたかと思うと、白羽の身体はレイゾンの胸の中に抱き寄せられていた。
薄い衣越しに感じる強い腕。広く温かな胸。
草の香りだ。そして革の香りと汗の香り。騎士の香りだ。
レイゾンの香り。
一瞬で胸の中を満たすそれらに、頭がくらりとする。
気づけばすぐ側にレイゾンの顔があった。はっと息を呑んで身を固くすると、レイゾンが慌てたように腕を緩める。そしてゆっくりと白羽を座りなおさせた。
「……すまない……いや……わざとじゃない。不測の事態というか……。だが、俺からは触れないと言っていたのに、それを破って済まなかった。ただ、一瞬のことで、お前が何を思っていたかは伝わってない。大丈夫だ」
そしてもごもごと言うと、「安心しろ」と「すまなかった」を繰り返す。次いで、
「俺が持っているのは、そんなに嫌か……?」
さっき折りたたんだ紙を白羽に差し出しながら、彼は言った。
哀しそうな顔だ。残念そうな顔。
そんな貌を見せられて、白羽は胸がギュッと痛んだ。
なんだか、これではこちらが我儘を言っているみたいだ。
いや、もしかしたら本当に我儘なのだろうか。
これまでは捨てていたからそれが当然と思っていただけで、残されることも考えておくべきだったのだろうか。
でも……。
白羽は、差し出された紙をそろそろと受け取る。そしてそっと開いてみた。
その時に思ったままを書いたために、何と書いたか白羽自身もよく覚えていないのだ。
ゆっくりと読んでみる。
特に変なところはない……気がする。
レイゾンさまレイゾンさま、と繰り返し書いていることや「楽しいです」とあまりに素直に書いていることは少し引っかかったけれど、改めて読めば、騏驥が騎士との初めての遠征についての感想を書いているだけのようにも見える。
普通だ。——多分。
白羽は再び筆をとると、別の紙に気持ちを書く。そして、返された紙とともにレイゾンに渡した。
[騒いでしまってこちらこそ申し訳ありませんでした。残されると思っていなかったので、少し驚きました。嫌ではありません]
それをじっと読んだレイゾンは、畳まれた紙を手にしながら、
「……本当か?」
白羽の顔を覗き込んでくる。
先刻、思いがけず近くから見たことを思い出し、白羽は頬が上気するのを感じながら、それを誤魔化すようにこくりと頷いた。
するとレイゾンはしばらく白羽の顔と紙を交互に見つめ、
「——わかった」
そう言って、紙を懐に直した。
「大切にする。他の誰かに見せるようなこともしないから安心しろ」
そして言うと、誓うように自身の胸元を軽く叩く。白羽は、はい、と頷いた。
もとよりそんな心配はしていないけれど。
するとレイゾンは「ところで身体は大丈夫か」と確認するように尋ねてくる。
さっき、よろけたことを言っているのだろう。白羽は赤面しつつ頷いた。またみっともないところを見せてしまった。彼といるとこんなことばかりだ。
一緒にいるとレイゾンの新しい一面を知るように、自分もまた少しずつ変わっている気がする。
白羽の返事に、レイゾンはほっとした顔を見せた。
「ならいいが……気をつけろ。念のために眠る前には脚の疲れを取る薬を念入りに塗っておけ。明日もかなり走ることになるからな」
<…………>
わかりました、と頷き、その直後、
(あ)
白羽は思い出した。
そう言えば、レイゾンに尋ねておきたいことがあったのだ。
この任務のこと。
突然だったためもあり、白羽は内容を何も知らない。どこに行くかも、まるで知らないのだ。
[レイゾンさま——]
白羽は書き始めた。
[もしよろしければ我々はどこを目指しているのかお教え願えますでしょうか]
我々、と書くのは少し恥ずかしかったけれど構わず書く。
すると、レイゾンも「あっ」という顔を見せた。
「言っていなかったか?」
白羽が頷くと、
「すまぬ」
と大きく苦笑した。
「だがそんな状況でも俺を乗せてくれていたのだな。不安だっただろうに」
続けて温かな瞳で白羽を見つめてくる。
白羽が
[不安なんかありませんでした]と書きかけたとき。
「俺たちが目指すのはリーシァンの街だ。今日と同じペースで走れたなら、明後日の昼過ぎには着けるだろう。仕事の内容自体はさほど難しくな……ん? どうした、白羽」
レイゾンの言葉に、白羽の手は止まる。
どきん、と大きく胸が鳴る。
——リーシァン。
そこは、白羽がティエンと出会った街だった。
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